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角 薫 〜カリスマの系譜 Vol. 3〜

美容師ブームの火付け役である綾小路竹千代氏の一番弟子として、さらには女性カリスマ美容師の筆頭として美容業界を牽引し続ける角薫。そんな彼女のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

RUALA

新卒で入社したサロンから独立して、2016年1月5日に一緒に働いていた盟友のちはると共に、神宮前に新サロンRUALAをオープンさせた。

「私とちはるの想いとして、どこに行っても恥ずかしくないように、しっかりと技術を教育することを心がけています。自分たちもそうだったように、いつか自分の道を進む時に、きちんと応援して羽ばたかせることができるようにしています」

そこには角が師匠と仰ぐ美容師、綾小路竹千代氏の影響があった。

「私の師匠の綾小路さんも、以前に「ここは美容師の学校だ」と言っていました。私たちは会社組織ですが、辞めるときは敢えて「卒業」という言葉を使っています」

RUALAは美容室であると同時に、働くスタッフにとっては技術と人間性を学び、さらに羽ばたくための場所であってほしいと考えている。

「スタッフもしっかりRUALAで学び実力をつけ、いろいろな経験をし、目標に達した後はさらなるステージを目指しステップアップしてほしいと思っています」

美容専門学生へのメッセージ

「とにかく、私たちの仕事にとって大切なのは人の繋がりです。学生の間は自由な時間がると思うので、色々な人と会ったり、遊んだりしてほしいですね。そこで、人とのコミュニケーションを学んだり、友達を作るのが良いと思います。特に同級生は将来同じ道を進んでいく仲間たちです。良いライバルとして競争し合いながら良い絆が生まれるので、是非大切にしてほしいと思います」

角には美容師として常に心がけていることがある。

「私が入社してすぐに先輩に言われたことですが、美容師を目指すのであれば常にアンテナを張っておく必要があり、街を歩いたり電車に乗る際などにも、人の髪型を研究する癖をつけるように言われました。職業病じゃないですけど、美容師なら常に人の髪型を見て、もっとこうした方が可愛くなるなとか、あのカラー綺麗だなとか、自分なりに研究してほしいですね」

角の学生時代にはなかったSNSも、今で大きな武器になる。

「SNSで気に入ったスタイルがあればどんどん保存して、自分の感性を磨いてほしいと思います。技術は練習すればいくらでも上達しますが、感性は常にアンテナを張って色々と見ておかないと、磨くことができません」

最近は、「美容師として難しい事はなんですか?」という質問を受けることが多い。

「一番難しいのは、続けることだと思います。いつスタイリストになるかが大切なのではなく、どのようなスタイリストになるかが大切です。どのようなスタイリストになりたいか?となったときに、それに5年かかっても良いと思います。人と比べて挫折して、美容師をやめてしまう子を何人も見てきましたので」

せっかく専門学校まで行って美容師になったのに、すぐにやめてしまってはもったいない。

「人は人であり、自分がどうなりたいかという明確なものを持ち、それに時間をかけてでも目指すことが何より大切です。美容師は死ぬまでできるというか、70〜80歳になってもできる仕事なので、続けることの大切さはぜひ伝えたいですね」

未来

角には思い描いている未来の美容師像がある。

「三年前に病気になり半年間休んでいるのですが、やはり健康の大切さを実感しました。そこで、更年期のヘルスケアアドバイザーの資格を取り、「美容室は街の保健室」となるための活動をしています。美容師として髪型だけでなく、人の心や健康をケアできるような相談役になりたいですし、そのような美容師がもっと増えるような活動をスタートしました」

角の美容師人生はまだ道半ばであり、これからも続いていく。目標は非常にシンプルだ、

「生涯現役でやっていくことが目標です。長いお客様は30年近く来ていただいているので、この先もずっと担当できるように、健康でやっていきたいですね。それはちはるも一緒です」

幼稚園の頃から憧れていた美容師という職業に間違いはなかった。

「美容師とはその人の人生に寄り添う職業であり、色々な人たちを元気にする職業だと思います。「手に職」と言うぐらいなので、自分の手でその人の人生をサポートしたり、変えることができる素晴らしい職業だと思っています」

美容師ブームの火付け役である綾小路竹千代氏の一番弟子として、さらには女性カリスマ美容師の筆頭として美容業界を牽引し続ける角薫。そんな彼女のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

美容専門学校

当時の角は、将来はメイクアップアーティストになり、タレントのヘアメイクを担当したいと考えていた。

「ヘアメイクさんになりたかったので、まずは東京に出ようと思っていました。その中で、メイクアップアーティストになるためには美容師免許を持っていた方が近道という事を聞き、非常に悩みました」

実家が裕福ではなかったこともあり、美容学校に授業料を支払って進学することに抵抗があった。

「就職しようかどうしようか悩んでいたところ、母に「好きなことをしなさい」と言われ、父親の保険金を解約して美容学校の授業料を工面してくれました。なので、なるべく授業料が安い美容学校を探しました」

角が調べた中で、当時東京でもっとも授業料が安かった専門学校を選んだ。

「専門学校には真面目に通っていました。私はかなり不器用だったというか、友達はワインディングとかきれいに巻いていたのですが、自分は全然ダメでしたね。裁縫とかも得意ではなかったので、なかなか指先が動かなかったです」

中学・高校時代に学力では苦労したことがなかった角だが、技術となるとこれまでとは同じようにいかなかった。

「友達はみんな普通にできていたので、自分は学校に早く行って練習したりしていました」

ACQUA

やがて自分の就職先を決める時期に差し掛かった。角には高校生の頃から将来働きたいと考えていたサロンがあった。

「高校時代に読んだ雑誌の美容室特集で紹介されていた、ある美容室の店内の写真がアンティーク調ですごくおしゃれでいいなと思いました。どちらかというと、ヘアスタイルではなくてお店の内装を見て、この空間で働きたいと思いました」

当時から有名店だったそのサロンは、5人の新卒入社枠に対して希望者は350人だった。

「面接の時に「私を取らないと後悔しますよ!これで落ちても、中途でも良いのでまた受けに来ます」と私の想いを伝えました。まるで告白する感じでしたね(笑)」

角の熱い想いが伝わったのか、狭き門を突破して意中のサロンに入社することができた。入社してからは毎日3時間ほどの睡眠時間で一心不乱に働いた。

「私は19歳で入社して、4年後の23歳でスタイリストになりました。負けず嫌いというのもあって、早くトップになることを考えていました」

独立

27歳で副店長になり、28歳で店長に抜擢された。

「当時は見本となるような活躍されている先輩が数多くいたので、本当に全部真似してました」

店長を8年間務めた角は、36歳で独立することを決意した。

「店長をやっていた時は、自分のことよりもお店のことに全てを費やしていました。次の店長にバトンタッチする時に、上司に「角は将来何をやりたいの?」と聞かれて何も答えられなくて、そこで色々と考えさせられました」

これまでは自分のことよりお店のことを優先していたため、自分の将来について考えたことがなかった。店長になったことで夢が叶い、燃え尽き症候群のような状態になっていた角だったが、上司の一言でもう一度自分のやる気に火がついた。

「上司と話していて「以前に女性だけのサロンをやりたいと言ってなかった?」と言われたことがありました。当時はまだ男性社会というか、結婚して美容師を続けたりするのが難しい時代でした」

女性スタイリストだけの美容室を作りたいと思っていた角の想いを、上司が思い出させてくれた。

「特に独立願望があったわけではなく、周りのアドバイスもありながら、次なる自分の挑戦としてそのような目標ができたという感じですね」

続く

美容師ブームの火付け役である綾小路竹千代氏の一番弟子として、さらには女性カリスマ美容師の筆頭として美容業界を牽引し続ける角薫。そんな彼女のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

角理容

角は青森県の三沢市出身。実家は「角理容」という名の理容室を経営しており、母親に髪型を変えてもらうことが好きな子供だった。

「母親が床屋をしていたのもあり、色々な髪型にしてもらうのが好きでした。幼稚園や小学校の時は、毎日違う髪型で行っていましたね」

中学生になると、学校の成績は常にトップだった。

「どちらかというと授業中は寝ているタイプだったのですが、勉強するコツを掴んでいたというか、効率よくやっていました」

遊びと勉強

塾に行かなくても、角は独自の勉強法を編み出してそれを実践していた。

「例えば5教科あるとしたら、帰宅後にその日に授業で習った5教科の情報をノートに全て書き込んで、1冊にします。そして、その1冊を全て覚えるという方法を取っていました」

書き込んだノートは勉強する際に最初から全て見直していたため、テスト前には必要な情報のほとんど全てが、角の頭の中に入っている状態だった。

「勉強が好きというよりも、早く勉強終わらせて遊びたいという感じでした。後は、テスト勉強をして良い成績を取ることで、親を安心させられるというか・・・」

小学校6年生の時に買ってもらったフルートをきっかけに、中学校では吹奏楽部に所属していた。中学校を卒業した角は、吹奏楽が強い地元の高校の商業科に進学した。

「高校では友達と遊んだりするのが好きでした。親からは「勉強しろ」とか特に言われたことはなく、かなり自由にさせてもらっていたので、逆に勉強して結果を出そうとしたところはありますね」

床屋と美容室

楽しかった高校生活も、やがて自分の進路を決める段階に差し掛かった。

「私は幼稚園の頃から、将来は美容師になることを考えていました。小学校の卒業文集でも、将来は美容師か文房具屋さんと書いていましたので(笑)」

母親が他の美容室に髪を切りに行く時には、角も必ず一緒に付いて行った。

「うちは床屋だったので、なんで同じハサミを使うのに、美容室はこんなに華やかなのだろうと衝撃を受けました。実家の角床屋は地味というか、近所のおじちゃんが切りに来るような、いわゆる地域の床屋さんだったので」

実家の床屋とはまた違う、美容室が醸し出す独特の雰囲気に魅了された。

「当時は明星ヘアカタログという、タレントさんのヘアカタログが流行っていて、それを小学生の時から集めていました。春夏秋冬にそのカタログが出るのですが、同じタレントさんの髪型の変化を見ていましたね。同じタレントさんなのに、ヘアスタイルでこんなに印象が変わるものなのかと見比べるのが大好きでした」

美容室の空間がたまらなく好きだった。

「友達が美容室に行く際に、自分も必ず付いて行きました。自分は髪を切らないのですが、美容室の空間が好きというか、ヘアカタログの写真を見たりするのが大好きでしたね」

将来は美容業界で働きたい。そう考えるまでに時間はかからなかった。

続く

美容師をしながら世界中を旅して回る。そんな夢のような生活をしている美容師がいることをご存知だろうか?当然のことながら、そんな生活の裏には誰もがしない苦労も隠されている。「旅する美容師」として世界中を駆け回る美容師、イシダユリの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

退社

OCEAN TOKYOのスタイリストとして充実した毎日を送っていたイシダだったが、いつからか自分の人生設計について考えるようになっていた。

「25歳くらいの時に、もし将来結婚して子供ができた場合には、美容師ができる期間は限られていると思いました。もちろん会社が嫌とかではなかったのですが、自分が何かをなし得たとしても、それはOCEAN TOKYOに在籍しているからであって・・・。非常に有り難い環境なのですが、自分でチャレンジしたいという気持ちを抑えられませんでした」

自分の人生は自分で責任を取りたいと考えて、イシダは4年半働いたOCEAN TOKYOを退社して次の道に進む決意をした。OCEAN TOKYOを退社した後は都内のシェアサロンで働きながら、時間の許す限り海外へ一人旅に出掛けた。

「海外への一人旅は20歳の頃からしていました。OCEAN TOKYOで働いている時にも、夏休みなどには必ず一人で海外に行っていました。コロナ禍で海外に行けなかった頃は国内旅行をしていましたが、昨年は10ヵ国ぐらい行きました」

旅する美容師

イシダが美容師をしながら旅を続ける理由は何か?

「私が海外によく行く理由は、人と話すことがすごく好きなので、私のことをコンテンツとして楽しんもらいたいという気持ちと、海外は言葉も通じないし人に気を遣う必要がないため、自分をリセットできるからですね」

行きたい国は、実際に見たいと思う遺跡があるかないかで決めている。

「もともとかっこいいものが好きだったのですが、遺跡は一番歴史を感じるというか、人が生きてきた過程がすごくいいなと思い、ハマっていきました」

臆せずに自分が行きたい国や場所を訪れて、現地の人と胸を開いて語り合う。その姿勢は美容師にとっても必要なものである。

「例えば、もし美容学生で夢や目標が見つからないというならば、扉を開くというのがまずは大切な事だと思います。色々なところに行ってみたり、色々な人の話を聞いてみたり、他人に興味を持つ事が大切だと思いますね。夢や目標が見つからない人は自分にしか興味がない人が多いような気がするので、まずは他人に興味を持つ事が大切だと思います」

未来

これまで様々な国に行ってきた。特に記憶に残っている国はスリランカとモンゴルだ。

「スリランカはみんな人柄が優しくて、私がここに行きたいと言うと、みんながリレー形式で協力して連れて行ってくれました。それと、モンゴル人は複数の言語を喋れるので私がすごいと褒めたのですが、「日本語しか喋れないのは日本が先進国の証拠だからだよ」と言われて、逆にハッとしました」

日本は他国の言語を習得しないと生きていけない環境ではない。日本はやりたいことができる、恵まれた環境であることを再認識させられた瞬間だった。そんな日本で、イシダはこの先さらなるチャレンジを考えている。

「もうすぐ30歳になるので、20代の最後にトルコ・ギリシア・ヨルダン・エジプト・モロッコの5カ国を18日間で周る予定です。その後に、外苑前に自分のサロンをオープン予定です」

年内のオープンに向けて、イシダは満を持してゼロから自分のサロンを作っている。

「お客さんに家族ができても通えるサロンにしたいですね。今自分が大切にしているものを、この先も変わらずに大切にできるサロンにしたいと考えています。今年結婚したのですが、出産のことを考えるとチャレンジするなら今がラストかなと思い決断しました」

新しい自分のサロンで、イシダの新たな物語が始まる。

「美容師という仕事は、人生を賭ける価値のある仕事だと思います。私は何回生まれ変わっても美容師になりたいですし、自分のお客さんに出会いたいと思っています」

美容師という旅は、まだまだ終わらない。

美容師をしながら世界中を旅して回る。そんな夢のような生活をしている美容師がいることをご存知だろうか?当然のことながら、そんな生活の裏には誰もがしない苦労も隠されている。「旅する美容師」として世界中を駆け回る美容師、イシダユリの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

美容専門学校

早く美容師になりたいという思いだけが、イシダを突き動かしていた。高校を卒業し、念願のグラムール美容専門学校に入学した。

「大阪では美容専門学校の近くの学生マンションで一人暮らしをしていました。学校には真面目に通っていました。学生マンションだったので、マンションの中に練習室があり、そこでずっと練習していました。意外と真面目でした(笑)」

グラムール美容専門学校は月に一回コンテストがあったため、毎日が忙しく充実していた。

「これまでは割と器用貧乏のタイプというか、勉強や運動で困ったことはなかったのですが、それは島根だからそうだったと痛感しました。大阪では自分の上位互換がたくさんいることを思い知らされました」

島根から大阪に出てきて、改めて上には上がいることを実感した。

「コンテストで良いところまでいっても優勝はできずに優秀賞止まりとか・・・。もちろん自分は好きで一生懸命やっているのですが、当時は結果が出なくてすごく悔しかったですね」

就職活動

忙しかった学生生活も、やがて就職活動の時期に差し掛かった。

「もともと東京に来るつもりはなく、高校の時から付き合っていた彼と支え合っていく予定だったのですが、その矢先に事故で亡くなってしまって・・・。急に人生設計が変わってどうしようと考えていたのですが、美容師になるという夢があったので、それに賭けてみることにしました」

美容師という職業に人生を賭けるべく、東京で就職活動を行うことを決意した。

「都内の有名店など色々受けてみたりしたのですが、その時は頑張れる環境に行きたかったので、メディアで有名だったり流行のサロンに就職することを考えていました」

大阪と東京を行き来する就職活動は過酷だった。

「就職は全然決まりませんでした。結果的に、最後に先生が紹介してくれたサロンから内定をもらったので、そこに就職することにしました」

東京の目黒区にあるサロンになんとか就職が決まった。

「1年目から着付けや成人式のヘアセットを担当させてもらったり、SPCのコンテストで優勝したので、そのサロンではすごく評価してもらっていました」

OCEAN TOKYO

周囲からも評価されて、順調に社会人としての生活をスタートしたイシダだったが、徐々に物足りなさを感じるようになっていた。

「自分的にはストイックな環境に身を置きたかったので、1年目の秋ぐらいには働きながら就職活動をしていました。その時にたまたまOCEAN TOKYOが募集をしていて、行ったことはなかったのですが、履歴書だけ送ったらそのまま内定をもらいました」

新卒で入社したサロンを1年で退社して、4月からOCEAN TOKYOで働き始めた。

「新卒で入社したサロンでは評価されていたこともあり、自分自身のプライドも少なからずありました。しかし、OCEAN TOKYOではプライドを折られるところからのスタートというか・・・。かなり大変でしたね」

終電無くしてシャンプー台で寝て、朝方自宅にシャワーを浴びに帰ることもあった。

「OCEAN TOKYOに入社してアシスタント時代はプライドを折られましたが、2年弱でスタイリストになりました。全国からお客さんが来てくれたりとかして、スタイリストはすごく楽しかったですね」

続く

美容師をしながら世界中を旅して回る。そんな夢のような生活をしている美容師がいることをご存知だろうか?当然のことながら、そんな生活の裏には誰もがしない苦労も隠されている。「旅する美容師」として世界中を駆け回る美容師、イシダユリの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

運動センス

イシダは島根県益田市出身で三人兄弟の真ん中。小学生の時は人見知りだった。

「あまり人前に出たくない感じだったのですが、我が強くて友達とよく喧嘩をしていました(笑)。母親曰く、幼稚園の頃からビデオを見せておけば留守番ができる子供だったようです」

周囲に派手な友達がいたため、メイクを覚えるのも早かった。小学校の高学年くらいから、友達みんなでメイクをしていた。そして、地元の中学校に進学したイシダは、テニス部に入部した。

「当時は周りの明るい子たちがみんなテニス部だったので、私もテニス部に入部しました。それと、小学5年生から高校卒業するまでダンスも続けていました。ダンスは母親からの軽い勧めで始めたのですが、結局長く続けましたね」

スポーツのセンスがあったイシダは、陸上の選手として選ばれたり、駅伝に参加したりもしていた。

「中学生の頃は部活を一生懸命やっていましたね。もちろん、友達と遊んだりもしていました」

美容師

中学2年生の頃から、イシダは将来美容師になりたいと思っていた。

「もともと自分の見た目にコンプレックスを抱いていて、周りにメイクをする友達も多かったので、「美容師さんは魔法使い!」のような感覚で、将来は美容に関する仕事をしたいと考えていました」

美容師になるために、普通高校ではなく美容師免許が取得できる高校に進学する予定だった。

「早く美容師になりたかったので、本当は高校に行きたくありませんでした。ただ、住んでいた場所が田舎だったので、美容師免許が取得できる高校がほとんどなかったため、公立高校に進学しました」

高校生

高校ではボランティア部に所属する傍ら、美容師になるべく準備をしていた。

「地元の美容学校のオープンキャンバスに行った際に、みんなホームヘルパーの資格を取得すると聞かされて、偶然にも通っていた高校で福祉系の資格を取得することができたので、将来美容師になったら活かせるようにホームヘルパーの資格を取得しました」

高校2年生の時には、高校卒業後に行きたい美容専門学校がすでに決まっていた。

「高校生の時に様々な美容専門学校のオープンキャンバスに行きました。その中で、親と一緒に見にいった大阪にあるグラムール美容専門学校を気に入り、AO入試で受験しようと思いました」

見た目がコンプレックスだったイシダは、校則で禁止されているメイクを常にしていたため、高校の先生からはAO入試ではなく一般入試で受験するよう釘を刺されていた。

「結局、先生の忠告を無視して勝手に願書を提出して、しかも合格をもらったので、高校の夏休み明けに先生に怒られました。美容師というやりたいことが明確だったので、高校生の時は一匹狼というか、尖っていましたね(笑)」

続く

もはや説明不要の原宿の大人気サロンgrico で店長を務めることは、誰にでもできることではない。人気サロンだからこそ抱える苦労もあれば、悩みもある。若干27歳でgricoの店長を務める寺尾フミヤの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

社会人

当時エザキが主宰していた月額8千円のオンラインセミナーも受講した。

「gricoに入社したかったので、エザキに認知されるためにも入りました。美容学生でそのオンラインセミナーに入っていたのは、たぶん自分だけだったと思います」

寺尾が初めてgricoに行ったのは、1年生の9月の終わりだった。

「エザキのスタンスは今も昔も変わりませんが、カットだけにもかかわらず自分のために1時間、色々と話してくれました。それからは自分が働く店はここしかないと思い、大阪から毎月夜行バスに乗って、gricoに通いました」

美容専門学校を卒業して、寺尾は念願のgricoに入社することが出来た。初めての社会人としての生活は、大変なこともあったがそれ以上に得る事の方が大きかった。

「自分は周りを見ていなかったのが逆に良かった気がします。gricoしか知らないので、基準が全てgricoというか。比較対象がないので、他と比べてきついとか思わなかったですし、ここで頑張るしかないという思いでした」

タイミング

遡って考えてみても、さまざまなタイミングが完全に合致して今に至ることを実感する。

「高校でもし野球をやっていたら美容師になっていないですし、逆に中学校の時に髪をいじることにハマっていたらそれで終わって、高校では別のことをしていたかもしれないというか・・・。そのタイミングの連続で今の自分があると思います」

gricoで働きたいという美容専門学生は後を絶たない。数年前までは、寺尾もその中の一人だった。

「美容専門学校に入るということは、将来美容師になるということです。大学は将来いろいろな選択肢があると思いますが、美容専門学校は美容師になるための学校です。自分で決めて入ったのなら、学生の皆さんには真剣に頑張って欲しいと思いますね」

最初に受けた衝動を大切にして欲しいと、寺尾は強調する。

「今はスマホでいろいろな情報を手に入れることが出来ますが、一番最初に自分に衝撃を与えてくれたお店はずっと自分の心に残り続けて、それが原点になると思います。色々見たとしても自分の原点、その軸を持ってブレずにやり続けて欲しいです」

未来

今は店長としてgricoを牽引する立場になった。

「自分はエザキに影響を受けてgricoに入社し、エザキの専属アシスタントを続けてスタイリストになり、店長になりました。今のエザキのように美容師としての生き方を自分も発信して、エザキがやってきたことを自分もやっていきたいと思っています。いつかはここの社長というか、代表を任される人間になりたいですね」

エザキとgricoの存在を知ったその日から、寺尾はずっと走り続けてきた。

「やり続けることは難しいですが、逆を言えば誰でも出来ます。自分はすごく美容師のセンスがあったわけではないですが、やり続けてきたおかげでここまで来れました。こんな自分でも、やり続ければgricoを代表する美容師になれるということを示して、みんなに希望を与える存在になりたいですね」

寺尾の美容師としての人生は、これからも続いていく。

「美容師とは、人と関わって人を幸せにする仕事だと思います。gricoに入社して、髪の毛だけではないということに気付きました。美容室に来るお客様の人生のストーリーに関わることが出来る。これほど長きに渡りお客様と関われる仕事は他にないと思います。自分の技術や思考を通じて、お客様とずっと関われるようにしたいとは思っています」

エザキヨシタカの後を継ぐ者として、いつか紹介できる日が待ちきれない。

もはや説明不要の原宿の大人気サロンgrico で店長を務めることは、誰にでもできることではない。人気サロンだからこそ抱える苦労もあれば、悩みもある。若干27歳でgricoの店長を務める寺尾フミヤの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

美容専門学校

将来は美容師になることを決めた寺尾は、関西美容専門学校に入学することにした。

「最初は広島の専門学校にしようかと思ったのですが、もう少し都会でも良いかなと思って(笑)。東京とかは全然考えてなかったですね。大阪なら進学や就職で行く同級生もいたので、大阪に決めました」

生まれ育った島根の実家を離れて、大阪での一人暮らしの生活が始まった。

「島根の実家にいる時から家の手伝いとかはしていたので、一人暮らしで困ることはあまりなかったですね。学校もかなり真面目に通っていました」

専門学校は1日も休まずに通い、皆勤賞だった。また、300人近くいる同級生の中で成績は1番だった。

「自分のお金で専門学校に通っているわけでもなかったですし、美容師という将来やりたい仕事のために通う専門学校なので、しっかりと通っていました」

運命の出会い

学校の授業とアルバイトで毎日が過ぎていった。

「当時は自宅の最寄り駅にあるラーメン屋さんと、その向かいにある美容室でアルバイトをしていました。アルバイトは19時から、遅い時は深夜1時くらいまでやっていました」

充実した毎日を過ごしていく中で、いつからか同級生との会話についていけない自分がいることに気が付いた。

「島根の田舎から美容師になりたいという想いだけで大阪に出てきたので、話題の美容室や美容師に関する情報は何も知りませんでした。当時は周りの友達との会話に全然ついていけなかったですね」

周りとの情報格差を感じて、話題の美容室や美容師に関する情報を自分で集め始めた。

「 当時のSNSとしてはTwitterがとても流行っていたので、自分もTwitterで色々と情報を探していたところ、偶然にもオーナーのエザキヨシタカのインタビュー記事をたまたま目にしました」

エザキヨシタカ

そのインタビューを読んで、寺尾はエザキヨシタカとgricoというサロンに対して魅力を感じると同時に、もっと知りたいと思うようになった。

「美容師という仕事に対してお客様の髪の毛を格好良く、可愛くするという認識はあったのですが、そのインタビューではスタッフに何かあっても雇用を継続できるように多角的事業を行っていると書いてあり、スタッフを大切にするその考え方に感銘を受けました」

当時からgricoはアパレル事業やセミナー、商品開発等を積極的に展開していた。その裏には、単に新しいことにチャレンジするというだけでなく、もし従業員が怪我などで美容師を続けられなくなっても、他の仕事をすることで引き続きgricoで一緒に働けるようにするというエザキヨシタカの考えがあった。

「単に髪の毛を真剣に切ればいいと思っていた美容師としての仕事が、実はもっと色々なことが出来るということを知って、そこからエザキとgricoのファンになりました。偶然、美容師の情報を探しているときにエザキの情報に触れて、それからそこを目指してやってきたので、寄り道していないというか、脇目も振らずにここまできた感じですね」

続く

もはや説明不要の原宿の大人気サロンgrico で店長を務めることは、誰にでもできることではない。人気サロンだからこそ抱える苦労もあれば、悩みもある。若干27歳でgricoの店長を務める寺尾フミヤの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

島根の野球少年

寺尾は島根県出身。両親と弟、父方の祖母という5人家族で育った。小学生時代は野球に熱中していた。

「すごい田舎だったので、基本的には外で遊ぶことが多かったですね。最初はサッカーをはじめ色々なスポーツをしていたのですが、父親が過去に野球をしていたこともあり、結果的に少年野球のチームに入りました」

自宅から徒歩3分の中学校に進学してからも野球は続けた。

「中学生の時は部活に熱中していました。勉強はそこまでしっかりやっていなかったというか・・・。体を動かす方が好きでした」

寺尾の通っていた中学校では、野球部は全員坊主にしなければならない規則があった。

「学校のトイレの鏡の前で友達が髪の毛をセットしているのを見て、羨ましく感じていました。自分は坊主で髪の毛がないので・・・。色気付きたくても出来ませんでした(笑)」

怪我

地元の高校から野球での推薦入学の誘いを受けるまでにその実力は向上し、順風満帆な野球漬けの生活を送っていたように見えた。しかし、そんな寺尾に思いもよらないアクシデントが降りかかった。

「中学の野球部を引退した後に行わる、高校からの硬式野球に慣れるための練習会で膝を壊してしまいました。結局、3ヶ月くらい練習ができなくなってしまいました」

推薦をもらった高校が地元の野球の強豪校だったこともあり、膝を怪我している状態で練習についていけるのか不安になった。

「考えた結果、他にもいろいろなスポーツがあるし、高校では野球をやらなくても良いかなと思い推薦を辞退しました。ただ、その推薦をもらっていた高校自体に興味はあったので、一般入試でその高校に入学しました」

怪我で野球を続けることを諦めた寺尾は、高校では陸上部に入部した。

「サッカーやバスケなどいろいろ考えましたが、高校から新しいスポーツを始めるには経験も必要だったりするので、陸上部にしました。陸上は奥が深いですが、競技自体はシンプルですので」

陸上部では昔から得意だった長距離を行っていたが、膝の古傷の不安もあり、途中で槍投げに転向した。

「野球をしていた頃から、肩だけは他の誰よりも強い自信がありました。この自慢の肩を活かせる種目はないかと考えたときに、槍投げが良いのではないかと思い転向しました」

寺尾の生来の肩の強さは、すぐに結果として現れた。

「槍投げの県大会で2位になりました。槍投げを教えてくれる先生もいなかったので、ほぼ独学で、練習では独りで黙々と投げ続けていました(笑)」

進路

やがて、高校卒業後の進路を決める段階に差し掛かった。

「昔からデスクワークよりは体を動かす仕事をしたいというか、職人的な仕事に憧れを持っていました。なので、最初は地元の企業に就職しようと考えていました」

大工のような専門職に就こうとしていた寺尾だったが、高校の陸上部では髪の毛の制限もないため、校則の範囲内で髪の毛を伸ばすことができた。それと同時に美容師という職業に興味を持ち始めていた。

「周りは高卒で就職する人が多く、自分も高校を卒業したら普通に就職するものだと思っていましたが、将来は美容師になってみたいと高校1年の終わりぐらいから漠然と考えていました」

続く