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古瀬 ハナ〜遠回りという名の近道 Vol. 3〜

自分の目標を叶えるための道や方法は、決して一つではない。時には遠回りに思えることでも、結果的に近道になることがある。神奈川県を中心に美容室Uminekoを6店舗展開している「古瀬ハナ」が歩んできた、これまでとこれから。(敬称略)

ラストチャンス

西表島に移住してから1年後、最後にもう一度本気で美容師をやりたいと考えた古瀬は、半年間だけ派遣美容師をやりながら、HIQ(世界20ヶ国以上で相互認証された美容の国際ライセンス)を取得した。そして、長野県に新規オープンするサロンに就職した。

「西表島に住んでいた頃から付き合っていた方が長野県出身だったこともあり、長野県で一緒に住みながら美容師として働いていました。東京を含めて7店舗あるサロンでした」

古瀬はそこで念願の売り上げ1位を記録し、月間売り上げのトップを走り続けた。27歳の時だった。

「その時にやっと、美容師って素晴らしい職業だということに気づきましたね」

理想の美容師像に近づいて順風満帆な生活を送っていた古瀬だったが、さらなる行動に出た。

「長野で5年くらい働いていたのですが、もともと大好きな海がなくて、しかも寒いというのがあって(笑)、東京にあるサロンに異動させて欲しいとオーナーに直訴したのですが断られてしまいました。その時にオーナーに独立を勧められたというのもあって、横浜に自分の店を出すことにしました」

古瀬は当初、大好きな海の近くにお店を出すために、神奈川県の茅ヶ崎市で物件を探していた。しかし、なかなか良い物件に巡り会えなかった。

「一見さんお断りというか、不動産屋さんに相手にしてもらえず、物件すら紹介してもらえない感じでした」

Umineko

理想の物件が見つからずに意気消沈する中で、偶然の出会いをきっかけに事態は好転した。

「たまたま知人に勧められてセンター北や南を見に行ったところ、街の雰囲気が良くてとても気に入りました。そして、最初に問い合わせをした不動産屋さんに紹介してもらった物件で、お店を開くことにしました」

インパクトがあり、一回で覚えてもらえるだろうということで、お店の名前は「Umineko」にした。

「10年前は、ほとんどのサロンが横文字の名前ばかりだったこともあり、Uminekoという名前は逆に目立つかなと思い決めました。それと、きらびやかなサロンというよりは、アットホームで身近な存在の美容室になりたかったというのがありましたので、Uminekoという名前ならイメージにぴったりだなと思いました」

オープンしてからしばらくの間は、様々な苦難に見舞われた。

「マネジメント等、経営の勉強をしないで出店してしまったので、最初はすごく困りました。集客の仕方とかも全然なってなかったですね。最初からつまずいて、失敗の連続でした」

それでも、リピーターは最初から絶えなかった。

「当時は女性スタイリストしかいないサロンが少なかったというのと、お店の雰囲気が珍しいこともありなんとかなっていたのですが、その先にスタッフが定着しないという当たり前の悩みに直面しました」

未来

自分の居場所を作るために、古瀬は2店舗目をオープンさせた。

「自分がスタッフと一緒に働くことがうまくいかなかったというか・・・。自分が働くと一番頑張ってしまうため、スタッフにとって嫌な存在になってしまうと思いました。そこで、自分がお店を抜けるためにもう一店舗作りました」

今後は店を増やすよりも、一緒に働いてくれる仲間を増やしたいと考えている。

「スタッフの人数も早く100名位に増やして、強い会社にしたいというか、色々な人に対して対応力のある会社にしたいですね。美容業界で、柔軟性のある働き方ができる会社を作りたいと思っています」

最後に、古瀬にとって美容師とはどのような職業かを聞いてみた。

「仕事としては裏方ですが、結果的にそれで自分の人間力も上がっていきますし、自分自身の心も豊かになります。自分の人生を自分で決められる、素敵な仕事だと思いますね」

今後の古瀬ハナとUminekoの動向から、ますます目が離せない。

自分の目標を叶えるための道や方法は、決して一つではない。時には遠回りに思えることでも、結果的に近道になることがある。神奈川県を中心に美容室Uminekoを6店舗展開している「古瀬ハナ」が歩んできた、これまでとこれから。(敬称略)

社会人

専門学校を卒業して、三軒茶屋のサロンに就職した古瀬。しかし、入社半年でサロンが閉店することになり、まさかのリストラという憂き目にあった。

「会社都合の解雇だったので、3ヶ月くらいは失業保険で生活をしていました。しばらく引き籠もっていたのですが、それではダメだと思い、自動車の免許を取得しに行きました」

その後、古瀬は先輩に誘われて10分1,000円のいわゆる安売りサロンで働き始めた。

「すぐスタイリストになれるという点と、アシスタントにしては給料がすごく良かったので働くことにしました。先輩がいるという安心感もありましたし・・・」

1日100人シャンプーをするなど、仕事は激務だった。間も無く古瀬はヘルニアを発症し、数をこなす仕事内容にメンタルも徐々に侵されていった。

「なりたい自分のイメージとかけ離れた現実というか、やりたいことができないストレスで、メンタルもやられてしまいました」

転職

心身ともにボロボロになった古瀬は、やむなく退職した。

「しばらくは自宅に引き籠もってドラクエをやっていました(笑)。ただ、それではヤバいと思い、すぐに他のサロンを探しました」

自分の理想の美容師像に近づくために、カット技術をきちんと学ぶ必要があると考えていた。

「当時は海外にも憧れがあったので海外に研修に行けて、かつ教育システムが整っているサロンを探して、結果的にヴィダルサスーン系の技術がしっかりしているサロンに就職しました」

技術を売りにしているサロンだけあって、仕事は非常に厳しかった。

「先輩が絶対という徒弟制度のようなものがあったので、人間関係は厳しかったですね。練習もハードで、終電を逃してそのままシャンプー台で寝たりしていました」

3年間働き、その後に大手のサロンに就職したものの、長くは続かなかった。やがて、自分はもう美容師に向いていないのではないかと思うようになった。

「もう美容師を辞めようと思い、西表島に移住することにしました。」

移住

24歳の時に、古瀬は美容師をやめて西表島に移住した。

「旅行で沖縄に行った時にいいなと思って、沖縄で仕事を探していたのですが、本島だと住み込みで働ける仕事がキャバ嬢の仕事しかありませんでした。キャバ嬢はこれまでやったこともないし、雰囲気的にも私にはできないと思い、西表島で住み込みで働ける植物園での仕事があったので、そこにしました」

西表島での生活は、これまでと打って変わってゆったりとしたものだった。

「当時は水牛に乗って通勤していました。時々、島の人の髪を切ったりもしていましたね。物々交換というか、髪を切ってあげる代わりにご飯をご馳走になったりしていました」

西表島での生活には満足していた。しかし、徐々にその心境は変化していった。

「島には色々な世代の方がいて、まるで人生の縮図のようでした。当時の自分はまだ20代だったので、このまま穏やかに過ごすのもいいけど、もう少し頑張りたいというか、命を燃やしたいと思うようになりました(笑)」

古瀬にはまだやり残したことがあった。

「当時はまだちゃんと自分で売り上げをあげたこともなかったので、ビジネスで成功したという達成感を感じたこともありませんでした。そこで、もう一度美容師をちゃんとやろうと思いました。せめて、月に100万円以上売れてから美容師を辞めようと決意しました」

続く

自分の目標を叶えるための道や方法は、決して一つではない。時には遠回りに思えることでも、結果的に近道になることがある。神奈川県を中心に美容室Uminekoを6店舗展開している「古瀬ハナ」が歩んできた、これまでとこれから。(敬称略)

神奈川県で生まれて

古瀬は神奈川県の相模原市出身。幼少期から様々な習い事をしていた。

「父親が尺八の講師をしていた関係もあって、3歳位から琴を習っていました。ピアノも習っていましたが、音楽の才能は全然なかったですね(笑)」

中学生になると、テニスに熱中した。

「単純に球技が楽しそうだなと思って、テニス部に入りました。副部長になって県大会に出場したりして、意外に頑張っていましたね」

中学校を卒業した古瀬は、地元の高校に進学した。

「当時は体育が好きだったので、将来は体育の先生になりたいと思っていました。それで陸上に関わりたくて、陸上部のマネージャーをしていました」

独特の感性

高校時代から、古瀬のその独特の世界観は惜しげもなく発揮されていた。

「当時はピンクのベストを着たりとか、自分の感性が人と違う事をあまり理解していなかったですね。いわゆる、やっちゃってた感じですね(笑)」

最初は真面目に高校に通っていたが、徐々に友達といる方が心地良くなった。

「高校一年生の時は成績も良かったのですが、だんだん悪くなっていきました(笑)。特にギャルだったりとかそういうことはないのですが、友達と一緒にいたり、文化祭に熱中したりとか、そんな感じでしたね」

やがて、自分の進路を決めなければならない時期に差し掛かった。

「高校入学当時は体育の先生になりたかったのですが、やはりスポーツはそんなに甘くないと分かってきて、最初は普通の4年制の大学に進学しようと思っていました」

しかし、バブル崩壊後のいわゆる“失われた20年“の象徴になったある出来事が、古瀬の未来に大きな影響を与えた。

「当時はちょうど山一証券が破綻したニュースが流れていて、成績が良かったわけではない自分が大学に行けても未来が見えないというか、将来がないと直感的に思ってしまいました」

美容専門学校

大学に進学するという選択肢がなくなり、新たに古瀬が選んだのは美容師という職業だった。

「当時はカリスマ美容師ブームで、日本武道館で美容師がヘアショーを行っている様子をTVで見ました。美容師という職業はサロンワークのみで、その場所から出ないイメージがあったので、それを見てイメージが変わり美容師になろうと思いましたね」

もともとファッションが好きだった古瀬にとって、美容師という選択肢は自分に合っている気がした。

「大学に進学するために予備校に通っていたので、美容師になることを両親に伝えたら驚かれましたが、最終的には理解してもらえました」

高校を卒業した古瀬は、東京ヘアメイク(※現在はコーセー美容専門学校に名称変更)に進学した。

「高校を卒業して一人暮らしを始めて、専門学校には真面目に通っていました。当時は、飲食店でアルバイトもしていました。」

専門学校の勉強とアルバイトで、忙しい毎日を過ごしていた。やがて、就職活動の時期に差し掛かった。

「有名店に就職しようと思い受けたのですが、受かりませんでした。他の流行を追っている子に比べたら自分のセンサーが弱かったので、可能性を感じてもらえなかったのだと思います」

結果的に、古瀬は三軒茶屋のサロンに就職した。しかし、その後に予想を超える出来事が自身に降りかかった。

続く

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

GALA

渋谷でフリーの美容師として3年半働いた後に、満を辞して自身の美容室「GALA」を渋谷にオープンした。

「物件との出会いが一番大きかったですね。これだけ混沌としているエリアだと、理想の物件になかなか出会えるわけではありません。いつでも物件を探すことができるように、フリーの美容師として働いていた部分もあったので、この物件を見てすぐに決めましたね」

店名の「GALA」は、ある女性の名前からヒントを得て命名した。

GALAという名前をつける際に、自分の想いとかは店名にあまり乗せたくありませんでした。時代が変わっても普遍的に存在し続けられる店にしたいと考えていたのですが、昔見たNHKの深夜番組で、GALAというスペイン人の女性の特集がされていてそこから取りました」

GALAは画家のサルバドール・ダリの妻だった女性だが、結婚後はダリの仕事面にも多大な影響を及ぼし、かつ男遊びも激しかった。

「男遊びが激しくてファッショナブルで、男の仕事まで影響を及ぼす女性はすごく強い女性だと思いました。今の世の中で言ったら、見かけはとっつきづらいけど、コミュニケーションを取るとすごく魅力のある女性というか・・・。それが、店のある渋谷のイメージと重なったので「GALA」という店名にしました」

ローカルビジネス

渋谷にGALAがオープンしてから、5年が経過した。当初思い描いていた通りに進んでいることもあれば、そうでないこともある。

「一日単位で考えると、もちろんイメージと違う日もあります。働くメンバーも変わりますし、そこはその都度臨機応変に対応していくのが自分の役割だと考えているので、あまり一喜一憂しないことが重要なのかなと思います。逆にイメージ通りにうまく行ってるなと感じた瞬間があるのならば、そういう時にあまり浮き足立たないようにというか、気をつけるようにしていますね」

ビルの2階でオープンしたGALAだったが、昨年に1階フロアにも拡大した。

「この1階と2階で、自分も含めたスタッフ全員に美容師を思い切り楽しんでもらいたいと考えています。昨年拡大したばかりなので、まずは一人でも多くのスタッフにいきいきと美容師をやってもらえたら嬉しいですね」

GALAで働いている美容師は皆、表情豊かで楽しそうに仕事をしている。まるで、こちらまで元気になるような気がする。

「あまりチェーン店やフランチャイズのような拡大の仕方は考えていなくて、渋谷という都会に店はあるのですが、ここにしかないローカルビジネスっぽさを出していきたいと思っています」

メッセージ

GALAには毎年たくさんの新卒の応募が来る。将来の美容業界を担う若者に対して、横藤田がそんな若者に是非伝えたいことがある。

「自分にとっての美容専門学校時代の2年間は、かけがえのないくらいとても楽しかったですし、ずっと卒業したくないと周囲にも言っていました(笑)。学生生活を最後の最後まで、エンジョイしてほしいと思いますね」

横藤田自身、学生時代に就職活動などで不安になった時に助けになったのは、美容専門学校の仲間だった。

「美容専門学校時代の2年間というのは、期間限定の2年間です。遊びも大事ですが、コンテストに出たり、先生からアドバイスをもらうなどして積極的にチャレンジしてほしいと思いますね。美容専門学校の先生はやはりすごいですから」

セミナーで全国を飛び回る横藤田は、これまで数えきれないくらいの美容師と出会ってきた。

「私のお店はカラーをスペシャリティとしてやっているのですが、そのカラーに対する難しさを誤魔化さずに、謙虚にやってる美容師さんをたくさん見ています。真面目で、真剣に毎日考えている人が集まっていて、自分もそれで美容師という職業は楽しいなと思わされますね」

高校生の時に決めた美容師という職業は、横藤田にとってまさに天職だった。

「お客さまだけでなく、全国の美容師さんにプラスになることを与えられるような美容師になりたいですね」

横藤田の笑顔のもと、今日もGALAは熱気に満ち溢れている。

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

本気

国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した横藤田。担任の先生から発破をかけられたこともあり、1年生の2学期からついに本気を出した。

「ものすごく練習しましたし、コンテストもたくさん出場しました。器用なタイプではなかったので、ひたすら練習しました。自分の学生生活の中で、専門学生の時代が一番楽しかったですね」

授業の後も学校に残って夜遅くまで練習をしていた。大変だったが、毎日が充実していた。

「もし自分が希望する美容室の内定をもらえなかったら、国際文化の先生になりたいと思っていました。先生からは絶対無理だと言われてましたが(笑)。それほど国際文化が好きでしたね」

高校時代から髪を切りに通っていたshimaに就職することしか考えていなかった。

「shimaの面接の時に何も質問されなくて、これはダメかなと思ったのですが、なんとか拾ってもらいました」

社会人

念願のshimaに就職することができて、社会人生活が始まった。

「今はもうないのですが、吉祥寺のお店で働いていました。六畳一間の、築30~40年の家で一人暮らしをしていました。家には寝るために帰るという感じでしたね」

朝から晩まで仕事に明け暮れた。終電で帰れない日も1日や2日ではなかった。

「厳しい生活はアシスタント時代で終わると思っていたのですが、スタイリストになっても結局売れなくて、6年間ぐらいはそんな感じでしたね」

忙しい毎日を過ごしていく中で、横藤田の中である思いが徐々に芽生えてきた。

「当時、兄が美容師として独立していて自分もそのようになりたいというか、追いかけたいと思い始めました」

独立

自分の美容室を持つための準備をするために、横藤田はshimaを退社した。そして、次の新天地として選んだ場所は、渋谷だった。

「当時の渋谷はエクステ中心の美容室が多くて、ほとんどの美容室は原宿にありました。ただ、渋谷にいる人はおしゃれだし、今後は渋谷が絶対に盛り上がると思いました。なので、渋谷を選びました」

将来自分の美容室を持つための準備期間として、渋谷でフリーの美容師として働く道を選択した。

「当時は独立して自分の店を持つといっても、そこまでお客さんもいませんでした。店を持ってやっていけるのかどうかも分かりませんでしたので、フリーの期間の間にお客さんの数を増やしてこうと思ってました」

フリーの美容師として働きながら、独立してやっていくために自分に足りない部分を補っていった。

「将来の美容室の開店資金を貯めるというのもそうなのですが、それ以外の自分自身の力をつけるための期間にしようと思ってましたね」

勉強期間として前向きに捉えて、フリーの美容師として渋谷で働いていたが、ある物件との出会いが横藤田を突き動かした。

続く

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

テニス

横藤田は東京都の福生市出身。小学生の頃は、ハイパーヨーヨーが得意な子供だった。

「大会などに出場したりもして、すごくハマってましたね。コレクションもしていました。母親
から野球やサッカークラブに入るなと言われていたので、スポーツとかは特にしていませんでした」

中学生になると、テニスに熱中した。

「通常、中学校では軟式テニス部が多いと思うのですが、自分の中学校は硬式のテニス部で珍しかったですね」

数ある部活の中からテニス部を選んだことには、理由があった。

「どうせやるならレギュラーで試合に出れる部活が良いなと思っていたのですが、野球やサッカーは小学生の頃からやってる人が多いイメージだったので、テニス部にしました」

努力の甲斐もあり、中学3年時にはレギュラーになることができた。

「やはりレギュラーになれると楽しくて、そこから熱が入ってすごく練習もやりましたね。勉強はそこまで得意ではなかったので、成績は普通でした(笑)」

進路

中学を卒業した横藤田は、地元の高校に進学した。

「進学した高校は、公立高校の中ではテニスの強豪校でした。テニス部に入部して、キャプテンをやりながら3年間テニス漬けでしたね」

当時、横藤田はテニス部で忙しい合間を見て、原宿の美容室に通っていた。

「ファッションは中学生の頃から興味がありました。部活で日焼けした真っ黒な肌で原宿の美容室に行って、カットしてもらってました」

やがて、高校卒業後の進路を決める時期に差し掛かった。

「自分の兄が美容師で、美容学校に進んでいたこともあり、父親からは大学に行くように言われてました」

決してキャリア云々ではなく、大学4年間で濃密な楽しい時間を過ごして欲しいという親心からのアドバイスだった。

「兄が美容学校に行ったことで、自分としても美容学校はイメージしやすく進みやすい道でした。選択肢として選びやすかったですし、当時通っていた原宿の美容室「shima」に憧れていたこともあり、美容専門学校に行くことにしました」

美容専門学校

高校を卒業した横藤田は、国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した。

「地元から近かったというのと、やはり大きな学校で有名なので決めました。厳しい学校と聞いていたのですが特にそれが理由ではなく、自宅から近くて通学も楽なので、しっかり通えるかなと思い決めました」

美容専門学校には、実家から通った。

「1年生の時はコンテストとかにも特に出なかったですし、成績も優秀ではありませんでした。追試があっても学校に残らなかったので、1学期の終わりに、担任の先生から「いい加減本気になりなさい」と怒られました」

高校時代は、熱中していた部活以外の自分がやりたくないことは、上手に逃げてなんとかやってきた。しかし、美容専門学校ではそれが通じなかった。

「高校時代と同じようにはできないと気付いてからは、本気で学校生活を送ろうと思いました。そこからはすごく楽しかったですね」

学校生活に本気を出した横藤田。それからは、これまでのことが嘘のように全てが好転していった。

続く

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

葛藤

自分が本当に働きたいサロンはここではない。心の奥底にそんな思いを抱えて、毎日葛藤しなが働いていた。

「ちょうどその頃、DJやイベントの主催をまたやり始めて、色々な人と話す機会がありました。最初は自分のサロンのことを話すのが嫌だったのですが、話してみると働いているサロンを知っている人が何人もいて、自分の評価がサロンの評価に直結していると気づきました。それからは、環境のせいにするのはやめようと思い、仕事に対するマインドが変わりましたね」

いつの間にか、仕事に対するネガティブな気持ちは消えていた。サロンに骨を埋めるつもりで、一生懸命に働いた。そんな中、ある運命的な出会いが橋本を新たな行動に駆り立てた。

「当時読んでいたWARPという雑誌に紹介されていた飲食店が渋谷にあって、週3日通っていました。ある時、その隣にある美容室が撤退して物件が空いているという情報をもらい、勢いのまま契約してしまいました」

独立

働いているサロンを辞める前に、なんと物件の契約をしてしまった。

「当時は25歳でお金もないし少しビビったのですが、周りの応援もあり、契約してしまいました。その頃は銀行でお金を借りるという知識もなくて、必要な資金は親に借りましたね」

当然のことながら、働いていたサロンにはこっぴどく叱られた。しかし、橋本の熱意も伝わり最終的には理解を得て、5年間働いたサロンを円満退社することになった。そして、満を辞して自身のサロン「PELLS HAIR」をオープンさせた。

「最初はお客さんがゼロでした。なので、近くの様々な飲食店に頻繁に飲みに行って、そこで友達を作って髪を切りに来てもらうというところからスタートしました」

未来

ゼロからのスタートだったが、努力の甲斐もありやがて経営が軌道に乗り始めた。そして、独立して1年後に、隣にカフェをオープンさせて人が集まる場所を作り出した。また、2階にもイベントスペースを作った。

「イベントスペースを若い世代の子達に貸出して、沢山のカルチャーを育ててきました。その後も青山に2号店、原宿にキッチンカーをオープンさせました」

今年になり、橋本は8年続いたカフェ業態を閉店した。美容に力を入れるためだ。

「今後は多店舗化をしていき、そこで今までの美容室とはまた違った新しい形の美容室を作ろうと思ってます」

新しい世代に対する橋本の期待は大きい。最後に、将来の日本の美容業界を担う若者たちに対するメッセージをもらった。

「コロナの影響で行動の制限というのはあると思いますが、色々な経験を自らしに行くというのは大切だと思います。インターネットだけでは見えない部分を自分は肌で感じてきた方だと思うので、皆さんにも是非やってほしいですね。バイトでも遊びでも趣味でも良いので、色々やってみるのが大切だと思います」

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業した橋本は、福岡県にある大村美容ファッション専門学校に入学した。

「その当時、一番厳しい専門学校に行きたいと思って調べたところ、国際文化理容美容専門学校、山野美容専門学校、大村美容ファッション専門学校の3校であることが分かりました。いきなり東京に出るのは怖いなと単純に思ったのと、一番厳しいのは大村と言われたので、大村美容ファッション専門学校を受験することにしました」

他の美容専門学校は受験しなかった。

「本当かどうか分かりませんが、当時は倍率200倍と言われていたので合格できてよかったです」

生まれ育った山口県を出て、福岡県での一人暮らしが始まった。

「一人暮らしはすごく楽しかったですね。山口から福岡に行って、カルチャーショックを受けました。おしゃれな人、かっこいい人が沢山いて・・・」

専門学校には真面目に通った。

「学校は皆勤賞でした。一日だけ、風邪かインフルエンザで休んだ記憶があるくらいですね。非常に厳しい学校だったので、真面目に通いました。スマホも禁止でしたし・・・」

就活

厳しい学校だったおかげで、これまでの自分の弱いところは全て矯正された。勉強も遊びも一生懸命こなしていた。

「当時は居酒屋でアルバイトをしながらDJをして、自分でイベントを主催したりしていました。学校とアルバイトで、ほぼ寝る暇がなかったですね」

忙しい毎日を過ごし、やがて自分の就職先を決める季節に差し掛かった。

「当時は、働くなら東京しか考えていませんでした。東京に唯一行きたかったサロンがあったのですが落ちてしまい、それでもう美容師辞めようと思いました(笑)」

自暴自棄になってしまった橋本に、専門学校が助け船を出してくれた。

「専門学校が勧めてくれたサロンを受けて、なんとか合格しました」

東京

大村美容ファッション専門学校を卒業して、東京での社会人生活が始まった。

「そのお店はとても厳しく、始発から終電まで働いて、お店に泊まることもありました。ホテルのようなサービスを提供するサロンだったので、かなりしごかれましたね。言葉遣いから直されました(笑)。今なら方言なども個性として認められると思うのですが、当時のそのサロンは違ってました」

そんな怒涛の毎日を過ごす中で、橋本に衝撃的なニュースがもたらされた。なんと、美容師免許の国家試験に落ちてしまったのだ。

「本当なら試験に落ちた時点で働いていたサロンはクビになるのですが、なんとか次の試験までチャンスをもらって・・・」

筆記も実技も自信があったのに、なぜ不合格だったのか?。原因を調べると、意外な事実が判明した。

「学校の先生とウイッグを調べたら、そのウイッグに穴が空いていました。練習のし過ぎで、一箇所だけハゲになってる箇所があったのです。単純な自分のチェックミスでした」

結果的に、2回目の国家試験では無事に合格することができた。当時働いていたサロンは、いわゆるコンサバで綺麗目な店だった。

「働いていたサロンは自分の趣味とは違っていたので、嫌になった時期もありました」

続く

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

山口県

橋本は山口県山口市出身。公務員の父親と保育士の母親の元に生まれた。

「小学生の頃はミニ四駆に熱中してました。後は、友達とバスケやサッカーを少しやっていましたね」

地元の中学校に進学してからは、野球部に入部した。

「本当はバスケ部に入りたかったのですが、その中学にバスケ部がなかったので野球部にしました。最初の1年は一生懸命やったのですが、2年目から初心者の先生に変わったので、すごいだれてしまいましたね」

将来は車屋かバイク屋になりたかった橋本は、工業高校に進学するつもりで校内推薦を受けたが落ちてしまった。

「推薦なので名前を書けば受かるだろうと言われていたのに、まさかの不合格でした。中学校時代の素行が良くなかったので、内申点で落ちてしまったんだと思います(笑)」

補欠合格

そこから一念発起して、受験勉強に没頭した。

「工業高校に落ちるとは一体どういうことなんだというか、悔しくて・・・。ただ、最終的に入りたい高校に補欠合格できたので、そこに入学しました」

なんとか希望の高校に滑り込みで入学した橋本は、バスケに熱中した。

「やっとバスケができるのが嬉しかったですね。スラムダンクと父親の影響でバスケをやりたかったですが、それまで出来なかったので」

父親からは、バスケさえやってくれれば他に何をしてもいいと言われていた。

「高校3年間バスケをやって、結果は出なかったですが楽しかったですね。周りは小中からバスケをしているので、自分とはレベルが全然違って最初はすごくつまらなかったですが(笑)」

美容師

やがて、高校卒業後の進路を決める時期に差し掛かった。

「高校生になって通い始めた美容室があったのですが、そこは暑かったら扇風機を当ててくれたり、喉乾いたら飲み物を出してくれたりして。そんなサービスをこれまで受けたことがなかったので、美容師はかっこいいなと本気で思うようになりました」

小学生の時からおしゃれが好きで、髪型やファッションに興味があったこともあり、将来は美容師になることに決めた。

「最初、父親には美容師になることを反対されました。しかし、記憶にはないのですが、専門学校の資料を取り寄せて自分で願書を出したりしたので、父親もその熱意に負けて結果的には何も言えなかったようです」

続く