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傳田 翔那 〜痛みの先にあった光 Vol. 3〜

コンテストで優勝する学生は、一体どんな経歴やスキルを持つ美容専門学生なのだろう?生まれ持ってのセンスが違う?それとも努力の天才?まさか運が良いだけ?これを読めばコンテストで優勝するために必要なものは、決して特別な才能や能力ではないことが分かるはず。第12回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事優勝を果たした「傳田翔那」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

優勝

外部コンテストとして初めて参加した、第12回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙での結果は傳田が予想もしていなかったまさかの優勝だった。

「2位まで発表された時点で今回はダメだったかと思い、あえてスマホを見ないようにしていたのですが、1位の発表の際に周りが盛り上がったので、何だろうと思ったらまさか自分の作品でビックリしました」

毎日遅くまで練習して腕を磨いてきた努力が結実した瞬間だった。

「賞金の10万円はまだ使っていません。その賞金で親に何か買ってあげたとか言いたいのですが、地元が好きなので山梨に帰る際の交通費にしようと思っています(笑)」

これから

東京モード学園に入学して1年が経過し、高校生の時から比べて様々な知識や経験が増えてきた。

「美容業界は思ったよりも大変だなというのが、正直な気持ちです。何も知識がなかったときはキラキラした職業だと純粋に思っていたのですが、最近は色々な人の話を聞く機会などもあり、やはり努力しないと食べていけない厳しい世界ということに改めて気付きました」

美容業界が厳しい世界である事は認識しているが、だからといって過度に恐れているわけでもない。

「中学生の時に不登校になり、本当にどん底を経験して乗り越えてきたので、それに比べたら他のどんなつらい事でも耐えられると思っていますし、そこはあまり気にしていません」

3年制のモード学園において傳田は現在2年生。そろそろ卒業後のことを考えたりもする。

「周りの早い人なんかは、ヘアメイクさんに直接DMを送ったりしてもう動き始めています。私はアーティスト専属のヘアメイクさんになりたくて、特に吉田ユニさんの作品がすごく好きで憧れているので、そのようになれたら良いと思っています」

痛みの先にあるもの

社会という大海原に出航する日はもうすぐやってくる。つい最近まで高校生だったことが、遥か昔のことのように感じる。

「今の高校生の皆さんには、是非とも色々な経験をして欲しいですね。自分の好きなものを追いかけるでも良いですし、自分は高校生の時にもっと遊べばよかったと後悔しています(笑)」

多様な経験を積んだ学生が全国から集まる新宿の校舎で毎日を過ごしていると、これまで見えなかった様々なものが見えてくる。

「ずっと山梨県内しか見てこなかったので、もっと色々なところへ行って、色々なものを見れば良かったと思います。私は美容系の業界しか見ていなかったので、美容系以外にも色々なものに興味を持って見てみることが大切だと実感しています」

これから先、楽しいことも辛いこともあるだろう。それでも、中学生の頃からの目標であるアーティストの専属ヘアメイクアップアーティストになるために、傳田はこの先も走り続ける。

「あるアーティストの言葉ですが、「痛みって美しい」という言葉が私の座右の銘というか、好きな言葉です。私は中学生の時に苦しい時期がありましたが、その痛みがあるからこそ今の自分があると思っていますし、どんなつらいことがあっても乗り越えてやっていけると信じています」

新たなヘアメイクアップアーティストが誕生する瞬間は、もうそこまで迫っている。

コンテストで優勝する学生は、一体どんな経歴やスキルを持つ美容専門学生なのだろう?生まれ持ってのセンスが違う?それとも努力の天才?まさか運が良いだけ?これを読めばコンテストで優勝するために必要なものは、決して特別な才能や能力ではないことが分かるはず。第12回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事優勝を果たした「傳田翔那」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

美容専門学校

毎日が充実して楽しかった高校生活も、あっという間に卒業の時期が近づいてきた。高校を卒業してからの進路は、自分の中ですでに決めていた。

「中学3年生の時に不登校の状態から外に出られるようになったのは、アーティストのヘアメイクを担当する「ヘアメイクアップアーティスト」という職業の存在を知ったことがきっかけです。そこから美容系の仕事に興味が湧いて、将来はヘアメイクアップアーティストになろうと考えるようになりました」

両親が背中を押してくれたこともあり、高校卒業後は美容専門学校に通うことにした。

「色々な美容専門学校を調べたのですが、プロの方が直接指導してくれる点や、新宿という場所に憧れがあったので、東京モード学園に通いたいと思いました」

東京

念願叶って東京モード学園に入学し、生まれ育った山梨県の親元を離れて国分寺での一人暮らしの生活が始まった。

「実家が山梨なので中央線沿線なら帰りやすいですし、家賃も安かったので国分寺で一人暮らしをすることにしました。一人暮らしを初めた当初はホームシックになって、山梨に帰りたいと毎日思っていました」

学校生活に慣れてくると毎日を楽しく感じるようになり、いつの間にかホームシックになることもなくなっていた。

「自分にとって全てが新しいことでやりがいもあるので、学校が楽しくて今のところ皆勤賞です(笑)。学内のコンテストのために放課後に残って練習したり、真面目に学校に通っています」

中学生だった頃からは想像もつかないほど、充実した学生生活を送っている。

「今は毎日が楽しくて本当に充実しています。空いた時間は作品のアイデアを考えたり、週末は食品の買い出しに行ったりして、土日のどちらかは必ず休むようにしています」

ヘアメイク総選挙

傳田は先日開催された第12回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で、見事優勝を果たした。

「このコンテストを知ったそもそものきっかけは、先生から全員参加ということで話があったことでした」

コンテストに参加するにあたり、作品を作ることになった。

「今回のコンテストのテーマが「ニューモテ髪」ということでしたので、髪の毛をメインに考えました。周りの子はただ巻いているだけの作品が多かったので、それは避けて自分の得意なアレンジでいこうと心掛けました」

周りの作品と差別化して、自分なりの戦略を練って作品を仕上げて応募した。

「正直なところ、何かしらの賞は受賞するだろうとは思ってました(笑)。ただ、一つだけ他の学生のすごい作品があったので、1位だけはないだろうと思っていました」

入賞はするだろうと予想していた傳田だったが、結果は予想を上回るものだった。

続く

コンテストで優勝する学生は、一体どんな経歴やスキルを持つ美容専門学生なのだろう?生まれ持ってのセンスが違う?それとも努力の天才?まさか運が良いだけ?これを読めばコンテストで優勝するために必要なものは、決して特別な才能や能力ではないことが分かるはず。第12回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事優勝を果たした「傳田翔那」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

山梨県

傳田は山梨県笛吹市石和町で生まれた。

「父親は介護系の仕事をしていて、母親も電気工事士やフルーツカッティングの先生をしたりと、色々やっています」

小学生の時は将来イラストレーターになりたくて、キャラクターの絵などをずっと描いていた。

「自分が描いた絵を褒められたことが嬉しくて、ずっと絵を描いていました。特に習っていたとかではなく、キャラクターなど自分の好きなように自由に描いていました」

中学生になると、傳田は美術部に入部した。

「1年間だけ美術部に入部したのですが、実は中学生の時はあまり学校に行けませんでした」

不登校

中学2年生になると学校に行けなくなり、いわゆる不登校の状態になった。

「本当は髪の毛を伸ばしたりメイクをしたかったのですが、周りの反対があってできなかったりして・・・。山梨の田舎の学校というのもあり、男の子はこうあるべき、女の子はこうあるべきという周囲からの押し付けが強くて、それに疲れて学校に行けなくなりました」

古い価値観からの固定概念や偏見に押し潰されて、傳田は毎日を自宅で過ごすようになった。

「不登校になったのは中学2年生の時だったと思うのですが、正直なところ記憶がなくて当時のことを全く覚えていません。本当に何をしていたのだろうという感じです。そこから、中学3年生の後半くらいにやっと外に出始めました。何の予定がなくても、とりあえず毎日外に出るようにしていました」

高校

やがて、中学卒業後の自分の進路を決める段階に差し掛かった。

「中学校の出席日数が足りなかったので自分の進学できる高校が全然なくて、私立か通信制の高校しか選択肢がありませんでした。そこで、不登校の生徒が全日制で通える私立の高校に進学することにしました」

暗黒の中学生活が終わり、新たな高校生活が始まった。

「進学した高校にも偏見や古臭い校則などはありましたが、クラスの生徒は自分と同じような状況の仲間だったので、いじめとかはもちろんなかったですし、とても楽しかったです」

高校時代は、中学時代にできなかったことを全てやろうと心に決めていた。

「部活とかは特にやっていなかったのですが、放課後にいつもみんなで集まって話をしたり、ご飯を食べに行ったりと、常に友達と一緒にいました」

そんな楽しい毎日の高校生活も、卒業の時期がいよいよ近づいていた。

続く

理美容室の人材育成から開業相談まで、業界の悩みを解決する会社としてこれまで数多の理美容室を助けてきた株式会社ビューティーコミュニーケーションシステム。会社を牽引する代表取締役、鈴木陵太郎が歩んできた波乱万丈な人生をいま振り返る。(敬称略)

社長業

フランチャイズで店舗をオープンするにあたり、店舗開発から業態作りや教育等、鈴木はその全てを担当した。

「あまりにやることが多かったため、これをきっかけに現場を離れることになりました。最初は社内の一部署でしたが、別の上場企業のコンサルティングを請け負うことになったため、その後にビューティーコミュニケーションシステムという、理美容室のコンサルティング等を行う今の会社を作りました」

いわゆる会社の社長になった鈴木だったが、最初は戸惑う事も多かった。

「これまでと全く畑違いだったので、名刺の出し方も分からないというか、ビジネスマナーから勉強しました。この業界で働いていると、そもそも名刺を出す事もないですから」

大変だった事以上に、得るものも多かった。

「これまで上場企業の他業種の方と仕事をする機会などほとんどなかったので、とても刺激的でした。パソコンの電源を入れることもできないくらいでしたので(笑)。超高学歴で英語もペラペラ、頭も切れる。そんな人たちが朝から晩まで同じように一生懸命働くんです。それなら自分はもっと頑張る必要があると感じました。とても貴重な経験をさせてもらって、本当に楽しかったですね」

理美容業界に入って約30年。理美容業界を取り巻く環境も時代と共に変化している。

「これから間違いなく人口が減っていくので、マーケット自体は縮小されていくと思います。その中で自分たちの未来を作っていくためには、ある程度自分の力も必要だし、周りとの協力も必要になってくると思います」

大切なこと

美容業界でやっていくために最も大切なことは、人の成長だと鈴木は考えている。

「これからは、人の成長をどれだけサポートして早められるかが大事になると思います。弊社もそうなのですが、同業他社と比べられること以上に、他の業種と比べられることもあります。それにプラスして海外との戦いも出てくると思います」

美容業界にとっては逆風とも言えるこの厳しい環境においても、勝ち続けなければならない。

「そこで生き抜いていくためには、自分に力をつけて周りと協力していきながら、自分たちの未来を創っていくことが非常に大切になると思いますね」

仕事の楽しさも分かった上で、自分の人生やキャリアを考えるべきだと鈴木は強調する。

「いろいろなことをやってみるのも大事だと思いますが、諦めないでやるというのも結構大事かなと思いますね。今は、早い段階で諦めてしまう人が結構多いような気がして、仕事の楽しさを知らないうちにやめてしまうのはもったいないと思います。仕事というのは苦しさと楽しさの両方があり、苦しさしか分からないうちに辞めるのはもったいないですね。楽しさも分かってから、違う道に進むのならそれはいいことだと思います」

これから

鈴木が理美容業界に飛び込んで30年以上が経った。最初は特に深い考えもなく何気なしに入ったこの理美容業界だったが、いつの間にか業界の発展のために自分に何ができるのかを考えるようになっていた。

「以前は理美容師という職業を一生働ける業種にしていきたいと思い、理美容業界の地位向上や所得の向上を目指していました。今はそこからさらに進み、ITを絡めた教育等で効率的に人の成長を少しでもサポート出来ればと考えています」

鈴木の挑戦はまだ終わらない。

「自分がやってきた経験を人に伝えて良い影響を与え、その人が大きく成長してくれたら最高ですね」

鈴木のもとから羽ばたいた美容師がいつの日か日本の美容業界を支えていく。そんな日はそう遠くないのかもしれない。

理美容室の人材育成から開業相談まで、業界の悩みを解決する会社としてこれまで数多の理美容室を助けてきた株式会社ビューティーコミュニーケーションシステム。会社を牽引する代表取締役、鈴木陵太郎が歩んできた波乱万丈な人生をいま振り返る。(敬称略)

社会人

東洋理容美容専門学校を卒業してからの就職先を探す必要があったにもかかわらず、3月の卒業を控えた2月の時点でまだ何も決まっていなかった。

「3月の初めにやっと決まったのですが、それが今の親会社の前身のオオクシというお店でした。今でこそ直営59店舗ありますが、当時は1店舗しかなくて、従業員も6〜7名しかいませんでした」

当時は学生が希望の就職条件を出して、それに対して先生が就職先を決めるという流れが通常だった。そこでおすすめの就職先として紹介されたのが、オオクシだった。いよいよ社会人としての新生活が始まった。

「実家を出たかったというのと、練習で帰りが遅くなるため寮に入っていました。今思い出してみても、死ぬほど練習していたと言えるくらい、すごく大変でしたね」

激務

朝の7時から深0時過ぎまで、鈴木は必死で働き続けた。

「お客様のお会計をしてから次のお客様をご案内するまでの間にお昼ご飯を食べてくるように言われるのですが、すぐに次のお客様をご案内する必要があるため、5分もないわけです(笑)」

今はそんなことはないが、当時は少しでも休憩が取れたら良い方だった。

「みんな技術よりも気持ちを大切にしていて、一生懸命さだけはありましたね。なので、お店はすごく人気がありました。スタイリストが少なく若いアシスタントがメインでで回しているお店でしたが、お客様に対する対応だけは、一生懸命やっていました」

日々の猛練習の甲斐もあり、鈴木は1年足らずでスタイリストになった。

「年が同じで先に入社した先輩が2人いたのですが、自分含めて3人で仕事を取り合わないといけなかったですし、先輩もすごくいい先輩とその逆ですごく嫌な先輩がいたりして。反骨精神で頑張れたというのもありますし、優しくしてくれた先輩がいたから続けられた部分もありましたね。すごく感謝しています」

決断

 

仕事が終わり寮に帰るのはいつも夜の12時過ぎ、寮ではただ寝るだけだった。そんな生活がしばらく続き、25歳の時に鈴木はある重大な決断をした。

「父親が理容室を経営しており、自分は2代目という名目で実家を出ていました。そろそろ両親も高齢になってきて「実家を継がないか?」という話もあったので、家業を継ぐつもりで実家に帰りました」

オオクシを退社した鈴木は、父親と一緒に実家の理容室で働いた。

「実家に帰るといいことも悪いこともあったりして、そんなに充実していなかったですね。なかなか親子ってうまくいかないというか・・・。様々な葛藤の中で働いていましたね」

そんな時、前の職場のオオクシの社長から「美容室のフランチャイズの話があるから一緒にやらないか?」と声を掛けられた。

「しばらくは実家で働きながら、フランチャイズの仕事の手伝いを1年ぐらい並行してやっていました。結局、1年くらいで千葉の稲毛にあったフランチャイズのお店をオオクシが直営にして引き継ぐ、という形になりました」

そこから徐々にお店が増えていった。そして、徐々に現場以外の仕事が増えていった。

「多店舗展開をしている最中に、ある上場企業さんからオオクシの美容業態を全国に展開したいから権利を売ってくれという話がありました。そこで、千葉県内はオオクシが、それ以外はその企業がフランチャイズとしてやろうということになりました」

続く

理美容室の人材育成から開業相談まで、業界の悩みを解決する会社としてこれまで数多の理美容室を助けてきた株式会社ビューティーコミュニーケーションシステム。会社を牽引する代表取締役、鈴木陵太郎が歩んできた波乱万丈な人生をいま振り返る。(敬称略)

野球少年

鈴木は千葉県の出身。父親は理容室を経営していた。小学生の時から野球に熱中していた。

「親が野球好きだったこともあり、野球をやらせたかったのだと思います。小学一年生から少年野球に入っていました。ピッチャとキャッチャーをやっていましたね」

中学生になると、もちろん野球部に入部した。

「当時は部活しかやってなかったですね。野球が面白かったですし、小学生の時から、将来はプロ野球選手になるという目標がありましたので・・・」

中学を卒業した鈴木は、地元で有名な野球の強豪校に入学した。

「当地の野球部は部員が120人くらいいましたので、なかなか厳しかったですね。自分はベンチにも入れないという感じでした。最終的にはベンチ入りメンバー直前まで行きましたが、結果的に外れてしまいました」

挫折

中学校まではピッチャーとして、常にレギュラーメンバーだった鈴木にとって、試合に出られないというのは初めての経験だった。

「1軍と2軍を行ったり来たりしていて、良い時もあれば悪い時もありました。初めて挫折を味わったというか・・・。これまで自分がずっと一番でやってきて、それができなくなるというのは辛かったですね」

それでも諦めなかった理由は何なのか?

「何でしょうね(笑)。練習は厳しかったのですが、そこで鍛えられたというのがあるかも知れませんね。」

野球に熱中する日々。やがて、自分の進路を決める時期に差し掛かった。

「自分の進路に関しては、全く決めていませんでした。3年生になって初めてどうしようかなと焦ったというか・・・。運動しかしておらず、勉強も全然していなかったですし」

理容師

周りとの実力の違いに愕然とし、鈴木は野球の道を諦めて親と同じ理容師の道を歩むことにした。

「野球で挫折してやる気も出なかったので、とりあえず1年間ぐらい専門学校に行っておこうと思い、自宅から近かった東洋理容美容専門学校に入学することに決めました」

専門学校の授業には出席するが、あまりやる気の出ない生活が続いた。

「当時は専門学校の友達と遊んだり、バイトに明け暮れてたりして楽しかったですね。友達がたくさんいたというのもありますし、高校時代は野球優先で色々と抑制されていましたが、それがなくなり自由になったというのが大きかったです。自由に生きて良いんだみたいな(笑)」

当時は理容師免許を取得するために、専門学校を卒業してから1年間インターンを経験して、国家試験を受ける必要があった。

「最初は専門学校在学中に、お試しとして2週間だけ東京の理容室にインターンに行きました。東京に行けば色々な刺激が受けられるかなと思って行ったのですが、あまりピンとこなくて・・・。東京は合わないなと思って、地元の理容室に就職しようと思いました」

4月1日からの就職先を探す必要があったにもかかわらず、2月の時点で何も決まっていなかった。

続く

近年話題の「二刀流」というキーワードは、何も野球界だけに当てはまるものではない。美容業界にも、美容師とヘアメイクの2つの仕事をこなす二刀流のプロフェッショナルが存在する。美容師としてサロンに立ち、ヘアメイクアーティストとして多方面で活躍している「浅野絢美」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

二刀流

2018年に、内田氏が率いるLECOがついにオープンした。

「最初の2年ぐらいは、人がまだ少なかったので大変でしたね。ヘアメイクの仕事もありますし、サロン運営などの事務的な仕事もありましたので・・・」

浅野は社会人になってからこれまでずっと、美容師とヘアメイクの仕事を両立してきた。

「それこそ若い頃は「お金を稼げないから美容師をやっている」と言われたり、業界の人からはわりと認められない感じでした」

美容師とヘアメイクの仕事を両立するにあたり、批判的な見方をされていた時期もあったが、最近はその流れが変わってきたことを実感している。

「野球の大谷選手の影響や、内田さんが色々なところで私のことを話してくださったりして、美容師とヘアメイクの二刀流がやっと認められてきたような気がします。このような働き方もありなのだと、周りの人も思ってくれるようになってきたと思いますね」

美容専門学生へのメッセージ

浅野が働くサロンには、毎年たくさんの美容専門学生の応募が来る。今どきの美容専門学生に対して浅野が感じていることを聞いてみた。

「今の美容専門学生の皆さんは面接しても真面目な子が多いですし、みんな目標がちゃんとあってすごいなと思います」

自身がそうだったように、専門学校外の活動の大切さも強調する。

「自分は授業とは別の外部のイベントによく参加していましたが、そこで知り合った友達との縁で仕事をもらったり、プライベートで今でも仲良くしています」

イベントで知り合った友達の縁は、浅野にとって今ではかけがえのない財産になっている。

「あまり一つのことに集中し過ぎるよりも、専門学校の中だけに限らず、色々なコミュニティを作って楽しむことも良いと思います」

未来

浅野は最近、小学5年生の頃に書いた「15年後の自分へ」という文章を偶然見つけた。そこには「ヘアメイクさんになりたい」と書かれていた。まさに今、その通りの人生を送っている。

「コロナ禍を経て、ヘアメイクの仕事の価値観もだいぶ変わってきたと思います。ヘアメイク一本でやっている人ももちろん素晴らしいのですが、今は美容に関する様々な仕事をやってみたいと思っています」

これからやりたいことはたくさんある。

「実現できるか分からないですが、コスメとかが好きなので、商品を作る仕事をいつかしたいとずっと思っています。大きい遠い目標ですが(笑)。単にアドバイスをしたり監修するだけではなくて、自分が納得できるものをゼロから作りたいですね」

1年半前から韓国語の勉強も始めた。

「韓国語の勉強を始めてから友達ができたり視野が広がったりしたので、海外に拘っているわけではないのですが、韓国とかでも仕事ができればいいなと思っています」

美容師とヘアメイクアーティストという二刀流の人生は、まだまだ続く。

「美容師やヘアメイクという仕事は、自分にとって趣味の延長線上というか、趣味と仕事の境目がない感じです。自宅でも美容の動画を見たりしていますし、ライフワークですね」

今後の浅野の活躍からますます目が離せない。

近年話題の「二刀流」というキーワードは、何も野球界だけに当てはまるものではない。美容業界にも、美容師とヘアメイクの2つの仕事をこなす二刀流のプロフェッショナルが存在する。美容師としてサロンに立ち、ヘアメイクアーティストとして多方面で活躍している「浅野絢美」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

上京

指定校推薦で山野美容専門学校に入学し、いよいよ東京での一人暮らしの生活が始まった。

「今も仲が良いのですが、専門学校ではすぐに友達ができました。田舎は良くも悪くも横の繋がりが強くて、どこに行っても全部漏れ伝わってしまう部分がありますが、東京はその逆でドライな感じで、自分にとっては新鮮で良かったですね」

美容専門学生時代は、様々なイベントに積極的に参加した。

「学校が開催するコンテストの存在を知る前に外部の活動に興味を持ってしまったので、外部のショーとかクリエイティブな活動を一生懸命やっていました」

専門学生が主体のイベントに企画段階から参加したこともあった。

「今考えると自分でも行動力があったなと思うのですが、mixiで専門学校主体のショーの参加者を募っているのを見つけて、一人で参加したりしていました。そこで同じ学校の違うクラスの子と知り合ったり、他の専門学校の子と仲良くなれたりしたのですごく楽しかったですね。」

社会人

やがて自身の就職先を決める時期に差し掛かった。

「ヘアメイクの仕事をしたかったので、ヘアメイクも学べるサロンに就職しました。当時は、美容師とヘアメイクを両立できるサロンは珍しかったと思います」

ついに社会人としての生活がスタートした。

「周りについていくのに必死で、仕事をしていた思い出しかないですね。それと、モデルハントをしていた時に他のサロンの子と仲良くなったりして、友達は増えていきました」

仕事で忙しいながらも充実した毎日を過ごしていた浅野だったが、スタイリストになって1年半後に浅野はある決断をした。

「もっとヘアメイクの仕事をしたかったのと、海外に行きたいと言う思いが募り、サロンを退職しました。それからは、友人に仕事を紹介してもらうなどしながら、フリーでヘアメイクの仕事をスタートしました」

LECO

程なくしてテレビ局の仕事も舞い込むようになってきて、いつの間にかヘアメイクの仕事に夢中になっていた。しかし、どんな仕事でも受けていたため体力的には疲弊していた。

「本当はワーキングホリデーでイギリスに行こうと思っていたのですが、その時は定員が少なかったのと、フランスでテロがあった影響でタイミングが悪くて、3回落ちてしまいました」

海外留学の夢を叶えられずに意気消沈していた時に、ふと思い立って美容専門学生時代に通っていたサロンに髪を切りに行った。

「7〜8年ぶりに、学生時代に切ってもらっていた内田さん(※LECO代表 内田聡一郎氏)にまた切ってもらおうと思い立って、サロンに行きました。内田さんにカットしてもらっている時に、ちょうどワーキングホリデーの落選のメールが来て・・・」

自分の現在の事情を内田氏に話したところ、内田氏から新しいサロンを作る構想を聞き、浅野もそこに参加することに決めた。

「ヘアメイクをやりたかったら自由にやっていいよと内田さんが言ってくださったので、タイミングの良さも感じて、新店に参加させていただくことに決めました」

続く

近年話題の「二刀流」というキーワードは、何も野球界だけに当てはまるものではない。美容業界にも、美容師とヘアメイクの2つの仕事をこなす二刀流のプロフェッショナルが存在する。美容師としてサロンに立ち、ヘアメイクアーティストとして多方面で活躍している「浅野絢美」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

書道とスポーツ

浅野は新潟県で生まれ育った。

「田舎だったので、小学生くらいの時から東京に憧れていましたね。もともと体育会系とかではないのですが、周りに流されて小学生の頃はバレーボールとかやっていました」

幼稚園から書道をやっていた浅野にとって、スポーツよりも書道の方が楽しかった。

「周りがみんなスポーツやっていたので、それならとりあえず自分もやるかという感じでした(笑)。しかし、スポーツよりも書道の方が好きでした。書道は高校3年生まで続けました」

中学生になると姉の影響でバスケットボール部に所属した。ファッションや美容に興味のある、いわゆる普通の中学生だった。

「あの頃は今のようにSNSがなかったので、ファッション誌などをよく読んでいました。
姉が3つ上なので、同級生よりも少し大人っぽい雑誌を読んでいたかもしれないですね」

ロサンゼルス

中学を卒業した浅野は、地元の商業高校に進学した。

「中学3年生の頃から、将来は美容業界に進みたいと決めていました。大学に行きたいわけでもなかったので、色々な資格が取れる商業高校に進学することにしました。そういう意味では、かなり計画的な中学生だったと思います」

進学した高校は規則が非常に厳しかった。

「生活態度などにとても厳しい高校だったので、その範囲内でいかにオシャレをするかをよく考えていました。中に着るセータの色を少し変えてみたりだとか(笑)。原宿とかにはよく遊びに行っていました」

高校2年生の夏に、ロサンゼルスに短期留学した。

「本当は中学生の時に海外交換留学制度で行こうと思ったのですが、応募が多すぎて行けなかったことがありました。それから海外が気になっていて、高2の夏休みに1ヶ月半ほどロサンゼルスに短期留学しました」

日中は現地の教会で開催される英会話のスクールに通いながら、ホームステイ先に滞在した。

「幼馴染みと一緒にホームステイしたのですが、これまで一度も喧嘩したことがなかったのに、しょうもないことですごく喧嘩しました(笑)。日本人は全国から15人くらい来ていたのですが、友達もできてよかったですね」

美容専門学校

やがて自分の進路を決める時期に差し掛かったが、浅野の気持ちはすでに固まっていた。

「ヘアメイクさんになりたかったのですが、どうやったらなれるのかが漠然としていて、よく分かりませんでした。その頃はすでにヘアメイクの専門学校もあったのですが、それでなれるのかなという不安もあったので、美容専門学校に進むことにしました」

美容専門学校に行って美容免許を取得した方が良いのではないかという親のアドバイスもあり、浅野は山野美容専門学校に進むことに決めた。

「自分の中で知っている東京で有名な美容専門学校は何校かありましたが、その中で指定校推薦があったという点と、仲の良い先輩が通っていたという点で、山野美容専門学校に決めました」

続く