感度の高い美容専門学生のための情報メディア

中井宏昭〜ブランドを創る Vol. 1〜

毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)

美容師の家庭に生まれて

中井の実家は祖父の代から美容室を経営していた。祖父の影響で、幼少の頃から新聞を読むのが日課だった。

「後継ぎになりたくなかったので、勉強して大学行こうと思ってました。新聞を読んでいたお陰で、何かが起きた時に次はこうなるという、先を読む力が養われた気がしますね」

地元の中学校に入学した中井は、水泳部に入部した。

「小学生の時にサッカーを一緒にやっていたメンバーが、中学生になるとみんな水泳部にいたので(笑)。それで自分も流されて水泳部に入りました。自分の意志はそんなに強くない子供だったと思います」

中学を卒業した中井は、地元の高校に入学した。

「どうしても家業を継ぎたくないという一心で、勉強して地元の進学校に入学しました。飲み込まれたくなかったというか・・・」

DJ

高校に入学した中井は、徐々に遊びの道に引き込まれていった。

「高校からDJを始めて、DJスクールにも通っていました。そのスクールで開催されたDJバトルで偶然優勝して、そのまま審査員だったDJの方のお店に弟子入りしました」

水泳部では、偶然の出会いもあった。

「高校1年で水泳部に入部した時に、3年生は一人しかいないと言われていました。そこで部室に行くと、その3年生の先輩ともう一人カッコ良い人がいるなと思ったら、EXILEのHIROさんでした」

今をときめくEXILEのHIRO氏は、なんと中井の高校の先輩だった。

「高校生になるとこんなにカッコ良い人たちがいるんだと、ビックリしましたね。HIROさんは当時マハラジャというディスコの店員をやっていて、お店に入れてあげるから遊びにきなさいと言われて、遊びに行ったりしていました」

進路

そこから、中井は徐々に夜の煌びやかな世界に魅了されていった。

「ちょうど、そのマハラジャのメインのDJをされてた方の弟と仲良くなり、自宅に行くとDJのお兄さんが教えてくれたりして、色々学びました」

高校を卒業した中井は、美容の専門学校に通った。当時はDJとして生きていこうと考えていたので、専門学校に通いながら、DJの活動も並行して行っていた。

「親から、どうせ遊んでいるんだったら免許ぐらい取っておけと言われて、気付いたら学校も勝手に決められていました。なので、行きたくて行ったのではなく、親に言われたので仕方なくという感じでしたね」

続く

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

独立

順調な日々を過ごしていたKOUSEIだったが、SHACHUに入社して5年目に独立した。

「SHACHUで店長をしていたのですが、その時は独立願望など全くありませんでした。27歳ぐらいから少しずつ思ってきたというか・・・。自分だったらこうするのになというか、もう少しやりやすい環境があるのではないかと思い、それなら自分でやっちゃえと思いました」

コロナ禍の真っ只中の2020年5月に、ONYX(オニキス)を表参道にオープンさせた。そして、初月から黒字を達成した。

「やはり自分で店を持つのと雇われているのとでは全然違いますね。数字が全てというか。どれだけ売り上げがあっても、家賃や人件費等の固定費がかかりますし・・・」

独立してわかったことは計り知れない。

「プレイヤーだったらお客さまだけに集中すれば良いですが、そういう訳にはいかないので。正社員の時に、どれだけお店に助けられてたのかが分かりましたね」

今は、自分が思い描いていた成長曲線を辿っていることを実感している。

「自分が独立してやりたいと思っていたことは、一つずつクリアしていってると思います。やればやるほどやりたいことは増えていくので、結局ずっとやり続けていく必要があるのですが・・・。ただ、上に確認しないで色々できるのは良いなと思います」

美容専門学生へのメッセージ

美容専門学生からも多くの支持を集めるKOUSEI。今回特別に、美容専門学生へのメッセージをもらった。

「学生時代のうちに遊んでおけというのはよく言われることだと思うのですが、どれだけ遊んでも、結局は遊び足りないと思います。遊ぶのも大事ですが、自分が燃える何かを学生のうちに見つけて欲しいなと思います。例えばそれが中学なら部活、高校ならバイトとかになると思うのですが、専門学校時代にも何かに熱中してほしいですね」

美容専門学生時代の2年間というのは、長いようであっという間。社会人になる前の最後の自由な時間だ。

「やはり、社会人になる準備はしておいた方がいいと思います。いきなり社会人になって、壁に当たってたち行かなくなる学生が多いので・・・」

もしこの時代に美容専門学生だったら、KOUSEIは何をしていたか聞いてみた。

「多分、SNSに熱中していると思いますね。今はSNSですごく勉強もできますし、非常に便利だと思います」

KOUSEIが美容専門学生の頃は、SNSはまだそこまで主流ではなく、雑誌がメインだった。

「もしSNSが苦手なら、自分が憧れている人の真似から入れば良いと思います。自己流で進んでも遠回りだと思いますし、まずは成功している人のやり方を真似て、それから自分の色を出せば良いと思いますね」

未来

2020年5月にONYXをオープンし、約一年半。やっと地盤が固まってきた。いよいよ更なる飛躍のタイミングだ。

「これからは、やりたいことをガッツリやっていこうかなと思っています。この一年半は、地盤を整えるというか、スタッフを入れて売上の目処をつけてという時期でした。これからは色々と露出していきたいですね。一年にひとつ、大きなことをしていきたいと思っています」

モテたいという思いから美容師なった。しかし、今ではそれ以上に美容師の価値を実感している。

「美容師とは、一年を通してお客様に寄り添える職業だと思います。お客様とは友達でもなく、恋人でもないけれど良い距離感で、美容師だから話せるみたいな・・・。悲しい時も嬉しい時も一緒に寄り添える、そんな素敵な職業だと思います」

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

美容専門学生

高校を卒業したKOUSEIは、モテそうという理由から美容師になるべく関西美容専門学校に入学した。

「そもそも、高校時代はそんなに職業の種類も知らないですし。モテそうだというよくある理由で美容師になろうと思いました」

関西美容専門学校に入学したのは、地元の先輩の影響だった。

「地元でやんちゃしてた先輩がいたのですが、その先輩が関西美容専門学校に行ったと聞いて・・・。先輩に連絡して「どうですか?」と聞いたら、「おもろいよ」と言われたので、じゃあ行こうと決めた感じですね」

両親には特に反対されなかった。

「以前から、18歳になったら家を出て行くように言われていました。両親もそうだったように、一人暮らしの経験を積ませたいという思いもあったと思いますね」

大阪では、一人暮らしをしながら専門学校に通った。

「初めての一人暮らしというのもあり、寝坊をめちゃしてました。なので、進級できるかどうかのギリギリのラインでした。ただ、学校は好きでしたね」

社会人

やがて専門学校の二年生になり、就職活動の時期に差し掛かった。そして、最初にサロン見学した会社にそのまま就職することになった。

「担任の先生に勧められて行った1店舗目のサロンでした。サロン見学で話を聞いて、おもしろそうな会社だなと思いました。他のサロンを知らなかったのもありますが・・・」

なんと、KOUSEIはその場で内定をもらった。それは極めて異例のことだった。

「目をキラキラさせるのが得意だったからかもしれませんね(笑)」

大阪の京橋にあるサロンで、社会人としての新生活がスタートした。

「しんどかったという記憶以外で、1年目の記憶はほとんどないですね。怒られるし、朝は早いし・・・」

遅刻すると、2万円の罰金を支払う必要があった。

「時々寝坊して遅刻したので、毎月給料から2万円引かれてました。元々給料も少なかったので、きつかったですね」

2年目からは多少余裕も出てきた。

「2年目ぐらいでやっと、美容専門学校の時の友達と飲みに行ったりしましたね。1年目の時はしんどすぎて、ほとんど遊びにも行かなかったです」

SHACHU

3年目にジュニアスタイリストになり、スタイリストデビューはすぐそこまで迫っていた。そんな矢先に、KOUSEIは会社を退社した。

「元々有名になりたいという願望がありました。ある時、「大阪で有名なヘアメイクは誰?」と聞かれた時に、答えられないことに気付きました。やはり有名になるなら東京でやるしかないと考えて、東京に行く決断をしました」

以前から気になっていたSHACHUに髪を切りに行って、オーナーの宮地氏と話したところ、東京に来ることを強く勧められた。そして、面接を経て見事SHACHUに入社した。

「大阪のサロンを退社してから1週間後には、渋谷のSHACHUで働いていました」

SHACHUでは、25歳の時にスタイリストデビューした。

「全てが新鮮だったので、一年がとても早く感じました。早く勝負したいというか、若い時のメラメラ感があったので、早くデビューしたいという葛藤はずっとありましたね」

ほぼ仕事だけの毎日だった。

「最初の一年間は、大阪から引っ越してきたこともあり友達もいなかったですが、毎日が充実して楽しかったですね」

続く

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

髪の長い少年時代

KOUSEIは香川県の高松市で生まれ育った。小学生時代は野球に熱中した。

「最初は興味なかったのですが、いつも一緒に遊んでいたメンバーが野球を始めたので、自分も始めた感じですね」

活発な子供だった。

「あまり家で遊んだ記憶はないですね。テレビゲームとかもしなかったですし。山に登ったり川に行ったり、みんなで自転車で遠くに行ったりとかしてましたね」

小学生の時は、女の子よりも髪の毛が長かった。

「いまだに髪の毛へのこだわりはないのですが、変化を恐れていたんだと思います。小学生時代は思春期というのもあり、「髪切った?」と言われるのが嫌でした。大体おかっぱかスポーツ刈りになりますし、それも嫌で切りませんでしたね」

坊主

地元の中学校では、バスケットボールに熱中した。

「中学生の時は、部活の記憶しかないですね。本気でやってたかと言われると微妙ですが・・・。部活には絶対に入らないといけなかったですし。ただ、野球よりは好きでしたね」

中学校で野球をすると坊主にしなければならなかったため、小学校から続けていた野球はやめてバスケ部に入部した。

「坊主にしたくないからバスケ部に入部したのに、自分の世代からバスケ部も坊主にしなければならなくなりました。それで結局坊主にしました(笑)」

アルバイト三昧

高校では部活はやらずに、アルバイトに熱中した。

「高校生の時はアルバイトを色々とやりましたね。マクドナルド、吉野家、焼肉屋、派遣など色々とやってましたね」

様々なアルバイトをしていたのは、切実な理由からだった。

「自分は四人兄弟の二番目なのですが、親の教育方針として、高校に行くためには自分でお金を工面する必要がありました」

働くか、自分で稼いだお金で高校に行くかの二択だった。KOUSEIは後者を選択した。

「自分としても中学を卒業して働きたくなかったので、高校行ってバイトしてという生活でしたね。もちろんアルバイトだけではなく、みんなと遊んではいました。みんながバイク買ったら自分も買ってみたりとか・・・」

続く

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学生へのメッセージ

美容専門学生と接する機会も多いTENDOにとって、彼らに対する期待は大きい。

「美容専門学生時代にやっておくことは、大きく分けて二つあると思います。一つはSNSをひたすらやるということです。今後は技術もVRの時代になると思うのですが、そうなると技術はうまい人からいくらでも盗めます。もっとも、技術が上手くなっても発信できなかったら意味がないので、SNSは学生のうちからやっておくべきだと思いますね。SNSをやってとにかくフォロワーを増やせば、就職の時に絶対に有利になります」

そして、もう一つの大切なことはそれとは対極にあるものだ。

「フォロワーを増やすのは大切ですが、フォロワーはリアルではないので、リアルに繋がる人も同時に増やす必要があります。なので、たくさんSNSをやりつつ、たくさん遊んでリアルな結びつきを増やすことも大切です」

SNSが苦手な学生に対してはどうすれば良いのだろうか?

「SNSを頑張るのもいいですが、まずは自分が好きなものを確立させることが大切だと思います。例えば自分はショートだったり、今はブリーチを使ったデザインカラーばかりSNSに載せています。やはり何かに特化する必要があると思います」

唯一無二

TENDOが大切にしていること、それは自分を知ることであり自分の色を持つことだ。

「何もそれは技術や髪の毛のことである必要はありません。ファッションやメイクなどなんでも良いと思います。自分はこういう人間であるということを、人に説明できるくらい深掘りできれば良いのかなと思いますね」

不思議なことに、美容業界に対しては特に興味がない。

「自分は珍しいタイプだと思うのですが、美容業界に全然興味がないんです。ただ、美容師プラス何かというか、多様性のようなものがあれば唯一無二になれますし、他にキャッシュポイントを作っておくことでより美容師を楽しめると思います」

美容師は、何も美容師だけである必要はない。

「美容師の売り上げは高い方がいいに決まっているのですが、自分が稼ぐために売り上げを上げるという感覚よりも、やりたいからやるという感覚の方が楽しく続けられるし、美容師としてキラキラ輝くことができると思います。指名売り上げ100万円とか、ある程度の段階はあると思いますが、その段階まで行ったらプラスアルファ何をするかを視野に入れると良いと思いますね」

未来

大阪から東京に出てきて、そのままこれまで走り続けてきた。まだまだ止まるつもりはない。

「そもそもこの店舗を買い取る前から、大阪で駐車場の経営をしていました。なので、自分は美容師であって美容師ではないというか・・・。一回の人生の中で、色々な経験をしたいと思っています」

自分の理想を叶えるために、自分がやるべきことの計画を既に立てている。

「もうすぐマツエクサロンをオープン予定ですし、洋服のブランドを作ったり、来年は大阪にバーも出店する予定です。現在のキャッシュポイントはこのサロンだけで、それだと何人もお客様を担当したときに待ち時間は出るしバタバタするし、スタッフにとってもよくないですので・・・。個室サロンとかで、お客様と向き合ってやっていけるような感じが理想ですね」

TENDOにとって、美容師はまさに天職だ。

「美容師とは、お金をいただいた上で「ありがとう」と言ってもらえる仕事です。そんな仕事はあまりないと思いますね」

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学校

美容師になることを決意したTENDOは、大阪美容専門学校に入学した。

「専門学校では要領の良い生徒で、努力をしたことがない人間でした。パーマやカラーの練習が授業であったのですが、何も練習しなくても最初の頃は学年で上位の順位でした。多分、元々手先が器用だったんだと思います」

成績上位をキープしていたのも束の間、徐々に順位は落ちていった。

「当然ですが、努力をしないので頑張っている他の学生にはどんどん抜かれていきました。順位はどうでも良かったのですが、追試が面倒くさかったので、追試にならない程度に頑張っていましたね」

大阪美容専門学校を卒業したのち、TENDOはカラーに定評がある梅田の美容室に入社した。ついに、社会人としての生活が始まった。

「練習などの技術的な部分は黙々とやるので大丈夫なのですが、上下関係に耐えられなかったですね。子供の頃から怖い先輩などがいたので厳しい上下関係でやってきたのですが、言い方が悪いですが怖くもない芋っぽい先輩にへこへこしなきゃならないのが嫌でしたね。当時は自分も子供だったので・・・(笑)」

子供の頃から怖い先輩のもとでの上下関係に慣れていたTENDOにとって、その環境に馴染むことは容易ではなかった。

「そのサロンはいわゆる一般的なサロンでした。自分はサロン内で浮いてはいましたが、これまで知らなかった一般常識を学ぶことができました。今となってはすごく良い経験だったと思っています」

東京

働いて2年経った頃、TENDOは徐々に東京を意識し始めた。

「大阪で働いているときは、サロンの人間とは話が合わないので美容専門学校時代の友達と遊んでいました。毎週遊んでいた美容師軍団がいたのですが、そのうちの一人がKOUSEI(ONYX代表)さんでした」

一緒に遊んでいたKOUSEI氏は、その後東京で有名美容師になった。それを見て、TENDOも東京に行く決心をした。

「カードで50万円借金して、休みの日に東京に行きました。とりあえず家を探そうと思って・・・」

東京に行って、聞いたことがあった三軒茶屋のアパートを契約した。

「パッと入った不動産屋に条件だけ伝えて、内見もせずに契約しました。大阪から出てきて、初めてどんな家かを知るみたいな感じでしたね(笑)」

東京にいる知り合いは、KOUSEI氏だけだった。そして、半年前にできたばかりの美容室であるBelezaに入社した。

「すごい老舗というか、有名店から独立した方のサロンならどこでも良いと思って探していました。半年前にできたばかりと聞いていたので、まずはお客さんとしてお店に行って、事情を話して入社させてもらいました」

Belezaではアシスタントからのスタートだった。

「友達もお客さんもいない状態からスタイリストになるためには、自分で人脈を広げてお客さんを作る必要がありました。今のように様々なSNSがあるわけではなかったですし、技術を学びながらSNS用のネタを自分の足で捕まえて・・・、というような感じでしたね」

iki

毎日渋谷でモデルハントをして、ショートの作品をInstagramにアップし続けた。それはやがて「ハンサムショート」の名とともに、TENDOの代名詞となっていった。

「写真を撮る角度や画角など、徹底的にこだわっていました。当時は夜中の4時まで仕事して、3時間だけ寝てサロンに行くというような生活でしたね」

ちょうどその頃、TENDOのもとには「うちで働かないか?」というヘッドハンティングの誘いが数多く舞い込んできた。

「当時はオーナーと揉めていたこともあり、どこに行こうかなと考えていました。その時に、L.O.Gから店を出さないかという誘いがあり、それなら話が早いと思い店を出させてもらいました」

半年間だけL.O.Gで働き、iki by L.O.Gをオープンさせた。そして、2年間後に自身で店を買い取った。

「まだ数ヶ月しか経ってないのであれですけど、一言で言うと楽しいですね。それと、良くも悪くも自分次第というか・・・。誰にも甘えられませんが、逆にやりたいことは全てできますし、下の子たちがやりたいことを全て叶えてあげられるのがいいですね」

続く

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)
 

大阪生まれ

TENDOは大阪府堺市出身。小学生の時から不良に憧れていた。不良に憧れたきっかけは、あるテレビドラマの影響だった。

「自分が小学校5年生の時に、「ごくせん」というテレビドラマをやっていました。それを見て、周りが全員不良に感化されてましたね」

周りの環境も作用して、不良の道に進むまでにはそれほど時間がかからなかった。

「自分の地元がそんなに良い地域ではなかったこともあり先輩もほとんど不良というか、そんな人ばかりでしたのですぐ繋がれたというか・・・。小5で中1の先輩に可愛がってもらったりして、それからそっちの道にどっぷりという感じでしたね」

不良少年

地元の中学校に進学したTENDOは、学校にはほとんど行かなかった。

「部活も一切やったことはなかったですし、本当に遊び続けた3年間でした。義務教育だから行かなくても卒業できるし、まあいいかという感覚でしたね。割と自分と同じような生徒が多い学校だったので、自然の流れでそうなりました」

正統派の不良として、3年間を過ごした。

「テレビに出るようなオシャレなヤンキーとかではなくて、短ランにボンタンという田舎のヤンキーでしたね。オシャレもクソもなかったです(笑)」

母親には特に迷惑をかけた。

「自由にしてていいよというタイプの母親ではあったのですが、警察や学校から電話やインターホンが頻繁に鳴っていたので、いい加減にしてという感じだったと思います」

美容師

過去に一度、母親から包丁を突きつけられたこともある。

「物心ついた時には父親がいなかったのですが、自分は中学生ぐらいからあまり家に帰らなくなりました。中学を卒業してから塗装屋でアルバイトをしていたのですが、塗装屋のアルバイトをしながらフラフラしていたところ、流石に見かねた母親から包丁を向けられました(笑)」

また、3ヶ月間ホームレスの生活をしたこともあった。

「中学校を卒業した後、アルバイトしていた塗装屋の倉庫で3ヶ月寝泊まりしていたこともありましたね」

このままではどうにもならない・・・。かと言って、自分に稼ぐ能力があるわけでもない。怒涛の中学生活と塗装屋でのアルバイトを経て、TENDOは美容師の道に進む決意をした。

「自分は小学校5年生からずっと金髪でした。当時は自分で金髪にしていたのですが、美容院に行っても思い通りの色にならないことが多かったので、だったら自分が美容師になろうかと思ったのがきっかけです。初めて自らやりたいことを言ったので、母親は反対しなかったですね」

続く

渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

再出発

自分一人の力ではどうすることもできない状況に追い込まれ、思い悩む日々が続いた。そんな時、思いがけない話が舞い込んできた。

「20歳ぐらいの時から、憲司さん(株式会社L.O.G代表取締役 唐澤憲司 氏) と一緒にクラブに行ったりして遊んでいました。当時から、「いつかお互いスタイリストになったら同じお店で働きたいね」と話していたのですが、憲司さんが表参道にお店を出すことになり、誘っていただきました」

自分自身の技術を磨くためのカットの勉強もしておらず、このまま自分の美容師人生を終わらせたくないと思っていた長山は、表参道の新店でゼロから働くことに決めた。

「自分も生まれ変わらなければならなかったので、「一からやりたいです」と憲司さんに話して、L.O.Gの立ち上げメンバーとして合流させてもらいました。原宿の店で自分は店長だったので、裏切る形になってしまったのは今でも本当に申し訳なく思っています・・・」

心機一転、表参道での新しい美容師人生が始まったが、最初は苦難の連続だった。

「当初は、原宿のお客さんが表参道にも付いて来てくれるだろうと思っていたのですが、全然付いて来てくれませんでした。それは今考えれば当然のことで、この仕事も結局は技術が大切であり、練習もしてなかった自分に全部ツケが回って来ただけでした。売り上げがなければ当然給料ももらえないので、アシスタントと同じ給料に戻ってしまいましたね。店長手当などもないので、前の会社の1/3くらいの給料になってしまいました」

暗闇の中から脱出するには、ただひたすら自分自身の技術を磨くしかなかった。

「そこからは、3年間毎日練習しましたね。表参道で通用する技術は雰囲気だけで作るものではなく、本質から勉強する必要があるのだと気付きました。そうしないと、表参道で美容師はできなかったですね。そこに気付けたのは良かったです」

表参道で通じる技術を獲得するために、努力を積み重ねる日々。やがて、その努力が徐々に実りはじめてきた。

「知り合いに頭を下げてお客さんを紹介してもらったりしながら、売り上げが少しずつ伸びていき、気付いたらグループ会社の中でも一番の売り上げになっていました」

店の席も足りなくなってきたこともあり、渋谷に新店舗を出すことになった。

「自分はその時メンズに特化していたので、メンズのお客様にもう少し来てもらいやすくするために、メンズメインの美容室を作ろうと思っていました。そこで、当時メンズスタイルを得意としていたメンバーを連れて、渋谷にお店を出させてもらいました」

L.O.Gに入社して3年で、長山は渋谷に新店舗をオープンした。

「自分自身ずっと渋谷で遊ばせてもらっていましたし、渋谷に友達も多かったので、恩返しというか・・・。自分にゆかりのある地で自分の城を作りたかったという感じですね」

美容専門学生へのメッセージ

人気美容室であるL.O.Gには、就職を希望する現役の美容専門学生が後を絶たない。長山に美容専門学生時代にやっておいた方が良いことを聞いてみた。

「自分たちの時代はSNSがなかったので、自分の足で色々なところに顔を出して自分を売ることが重要でした。しかし、今はSNSの時代なのでインスタやTikTokはできて普通です。もしできていなかったら、この業界では生きていけません」

現在の美容業界においてSNSはできて当然であり、業界で生き残るための最低限のスキルでもある。

「10代〜20代前半でこれから美容師として売れていくぞというときに、SNSができずにお店の集客だけに頼る子は正直売れないです。奇跡もなければチャンスも掴めないと思いますね」

現代の美容業界においては、SNSをやることはチャンスを掴むための必要最低条件だ。

「今はSNSができて普通なので、SNS以外の部分で自分の武器を作る必要があるため、自分に何ができるのかを学生時代に考えておく必要があります。そうしないと、自分自身をブランディングして活躍している美容師さんのようにはなれません。なので、厳しいですがSNSの時代だからこそ自分の足で集客しに行ったりとか、他の人がやらないようなことをやる必要があると思いますね」

長山自身も自分の足で様々な場所に行き顔を売ることで、これまで顧客を獲得してきた。

「人と同じことをやってもダメですし、お店が行うホットペッパー等の集客に頼っていたら絶対に自分の城は築けないので・・・。唯一無二というか、この人にしかできない、この人にしかなれないという美容師像を手に入れたいなら人と同じことをしていてはダメですね」

未来

コロナ禍になり、これまで以上に自分の今後について考えることが多くなった。

「自分自身はL.O.Gという会社に所属しながら自分の会社を持っているのですが、この自分の会社で地方の美容室をやらせてもらったりだとか、L.O.Gのフランチャイズに携わらせてもらったりしています。今はその地方展開を考えるタイミングが多いですね」

渋谷のイメージがある長山だが、その視線は東京以外に向けられている。

「都心は意外と脆いなと、コロナ禍になって感じた部分があって・・・。都心で美容師をやることも大切ですが、仮に都心で大地震が起きて働けなくなった時に、後輩たちを見捨てるわけにはいきません。そういう時だからこそ、後輩たちが働く場所や必要な知識など、美容以外のことも先輩として提案していかなければいけないと思いました」

後輩や仲間のため、長山自身も様々な知識を吸収して先を見据えている。

「色々な場所にお店を出して、後輩たちが困らないように知識を蓄えてという感じですね。実際に渋谷店は5年やってきて、一つのブランディングは完成したと思っています。ただ、今あるお店に囚われずに、仮に若いスタッフたちが都内や地方近郊で店を出したいとなったら、この渋谷店を解散しても良いとも思っています。若いスタッフたちが活躍する場を作りたいですね」

長山の現在の仕事は、もはや既存の美容師の枠にとどまらない。

「美容師とは、最強の仲介業だと思っています。自分なんかは毎月300人近いお客様を担当する中で、色々な仕事をされている方がいて、もしビジネスパートナーを探している人がいれば紹介できますし、困ってる後輩がいたらそれを解決できる人を紹介することもできます」

確固たる技術の裏付けがあるからこそできる、美容師としての次なる展開。新たなる美容師象がここにある。

「お客様をかっこよくして、幸せにさせられなかったらそんな提案はできませんので、当然技術があってこそですが、それがあった上で自分や周りの人が生きていく上で必要なビジネスパートナーを探してあげることもできます。お客様の髪の毛を切る中で、色々な人同士をつないでいける職業なのかなと思いますね」

長山の今後の動向からしばらく目を離せない。

渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業した長山は、足利デザイン・ビューティ専門学校に入学した。

「高校の時から買い物で東京には行っていましたが、東京の専門学校に行こうとは思ってなかったですね。東京は買い物に行くところで、住むところではないと思ってましたので・・・(笑)。当時は、将来は美容師になって東京に行こうとかも特に考えてなかったですね」

足利デザイン・ビューティ専門学校には、実家から車で通った。

「専門学生時代はコンテストとかにも特に興味がなくて、やりたいことをやっちゃってましたね。「どうにかなるだろ?」みたいな感じの仲間が周りに多かったので、真面目な生徒ではなかったです(笑)」

苦手な授業では寝てしまうこともあったが、好きな授業には熱中した。

「デッサンの授業とかは好きだったので、校内でも飾ってもらえる作品を作れたりしたのですが、座学とかは苦手でしたね」

楽しかった専門学生時代も、やがて就職活動の時期に差し掛かった。

「当時一緒に遊んでいた専門学校の仲間は、みんな美容師にならないと思っていました。そしたら、みんな実はしっかり就活してて・・・」

仲間内で就活をしていないのは、長山だけだった。

「みんな地元の美容室に就職が決まっていました(笑)。裏切られたと思って、それなら自分は今からでも入れる都内の美容室に行こうと思って、いろいろ探しました」

東京

就活の時期は過ぎていたが、なんとか池袋にある美容室に入社することができた。

「親にも相談せず、自分一人で決めましたね。池袋のエクステもやっているサロンに、なんとか拾ってもらいました」

新卒で入社したサロンで、社会人としての新しい生活が始まった。

「こちらには地元の友達が誰も出てきてなかったので、最初は本当に一人でしたね」

当然アシスタントからのスタートだったが、思わぬ展開が長山を待ち受けていた。

「自分は外で遊ぶのが好きだったので、みんなでクラブに行って朝帰って来て店で寝て・・・。その後仕事して練習して、夜家に帰ってシャワー浴びてまたクラブに行っての繰り返しでした」

サロンとクラブを往復する生活の中で、徐々に友達も増えていった。

「そこで知り合った何人かがギャル雑誌でモデルをやっていたので、その子たちにプッシュしてもらって、雑誌のヘアカタログのスタイリングをやらせてもらったりしてましたね」

クラブでできた人脈が、思わぬところで長山の助けとなった。

「当時はブログが世の中に出始めた頃でした。モデルにブログで紹介してもらったら、自分はまだアシスタントなのに指名の予約が入ってくるようになって・・・。自分は当時アシスタントで髪の毛を切れないので、店長から「カラーでもできるようになろう」と言われて、入社2年目から徐々に入客するようになりました」

顧客にカットをしたいと言われた時は、バックヤードでそのカットの仕方を調べてから対応した。実際の仕事の中で、長山はカットを覚えていった。

「当時は、アシスタントの給料でスタイリストの業務をやってましたね(笑)」

落とし穴

池袋での活躍が認められた長山は、新しく作った原宿店の店長を任された。

「雑誌の仕事が多かったので、原宿に店舗があった方がいいだろうということで、原宿店を作ってもらい店長を任されました」

群馬から単身で上京し、20代前半で店を任せられた。全てが順調に進んでいた長山だったが、思わぬ落とし穴が長山を待ち受けていた。

「同じ会社の仲良かった後輩たちを引き連れて原宿店を作ったのですが、自分はいわゆる叩き上げで先輩になったわけではなかったので後輩に対して何も教えられないですし、リーダーとしての勉強も全然できていませんでした」

店長として店をまとめあげるために必要な教育や訓練を、長山はこれまで何も受けてこなかった。

「当時は本当に勝手にやってたので、原宿店では数字も伸びなかったですし、ただただ雑誌の仕事をこなして、店の事は下の子に任せていました。内部は本当にメチャクチャだったと思います」

長山が店長を務める店は、ほとんど内部崩壊している状況だった。

「自分も、店がメチャクチャになっている感じを薄々気付いていて・・・。もうダメかなと思っていたのですが、そこから自分一人の力で修繕することもできず、何もできない状態でした」

続く