吉田太紀〜原宿の魔力 Vol.2〜
フランス
高校を卒業して岩手県にある北日本ヘア・スタイリストカレッジに入学した吉田は、授業のカリキュラムで1ヶ月間フランスに留学した。
「1ヶ月間、フランスのパリでマンションを借りて生活しました。平日は現地のアカデミーに通ってレッスンを受けて、土日は休みという生活でしたね」
アカデミー内には日本語の通訳がいたが、普段の生活や土日には通訳がいない生活だった。
「とにかく帰りたかったですね。フランスに行けば箔がつくかなと思って行ったのですが、一週間ぐらいで帰りたくなりました(笑)」
学校から離れたら言葉が通じない状況が1ヶ月続いた。
「一番思い出に残っているのは、オペラ座とプランタンの間にブックオフがあったのですが、そこは唯一日本語が通じる場所だったので、土日に欠かさず通っていたということですね(笑)」
就職
専門学校での月日は流れ、やがて就職活動の時期に差し掛かった。
「当初から専門学生の時は遊んで、就職したら働くことに集中しようと思っていました。働く場所は原宿一本で決めていましたね。原宿に行かないと、トップレベルの技術が学べないと思っていたので・・・」
原宿にあるサロンを幾つも受験したが、吉田は合格することができなかった。原宿で働くことをを諦めかけていたときに、原宿にも店舗があるグループ店に合格することができた。
「唯一原宿にもサロンがあるグループ店に受かったのですが、自分が入社した瞬間に原宿店が閉店してしまい、結局自分は横浜店に勤務することになりました」
原宿で働けるかと思いきや、まさかの横浜勤務。吉田の社会人としての幕開けは、波乱万丈のスタートだった。
「当時は一番貧乏な時代でしたね。給料から社会保険とか色々引かれて、手元に残るのは12万円くらいでした。そこから家賃を支払ったりなどしていたので、かなりキツかったですね」
社会人
横浜で一人暮らしをしながら、吉田の美容師としての人生が始まった。
「当時は終電で帰れたらラッキーというような感じでした。朝も7〜8時位には会社にいましたが、それは苦ではなかったですね。お金もなかったので他にやることがなかったですし、逆に没頭できましたね」
休む間も無く、毎日練習に明け暮れる日々だった。
「オールハントといって、終電超えたら朝の始発までずっとモデルハントをし続けて、朝自宅に帰りお風呂に入って、また出社するというようなこともしていました」
そんな努力の甲斐もあり、吉田は異例の速さでスタイリストに昇格した。
「そのグループ店には、結果さえ出せば期間に関係なくスタイリストになれるというシステムでした。なので、結果的に人より早くスタイリストになれましたね」
続く
生まれは青森県三沢市。転勤族の家庭だった。
「父親が自衛隊員だったので、7回ぐらい引っ越していますね。生まれは青森県ですが、小学生の時は、茨城と北海道で過ごしました」
小学生の頃からバスケットボールに熱中していた。
「友達に誘われて、小学生の時からバスケットボールをやっていました。少年団から高校3年まで続けましたね。小学生の頃は背が小さかったのでフォワードでしたが、高校生から背が伸びたのでセンターでした」
中学生になると、生まれ故郷の青森県に再び戻った。
「中学2年生の時に、1年間だけバスケが嫌になってやめました。連休も取れないですし、遊びたいなと思って(笑)」
年間を通じて、正月の3日間ぐらいしか休みが取れない生活に嫌気が差していた。
「小学生の時は引っ越しを繰り返しても比較的すぐにすぐに友達ができたのですが、思春期の中学生くらいになるとなかなかコミュニケーションを取るのが難しくて、敬遠されがちというか・・・。なので、ようやく出来た友達と遊びたいというのがありましたね」
美容師
中学校を卒業した吉田は、地元の高校に入学した。
「高校時代もバスケは続けました。小学校や中学校時代は補欠でしたが、高校は弱かったのでレギュラーでした」
高校生活はこれまでと打って変わって、多忙を極めていた。
「今考えると、高校生の時は一番忙しかったかもしれないですね、部活終わってからアルバイトして、遊びに行ってみたいな感じでした。ガソリンスタンドや、友達の両親が経営するお寿司屋さんでアルバイトをしていました。お皿洗いや、宴会の後の片付けとかしていましたね」
そんな充実した高校生活も、やがて自身の進路を決める時期に差し掛かった。現在の職業である美容師になろうと最初から思っていたわけではなかった。
「当初は、担任の先生に勧められた福祉の専門学校に行く予定でした。しかし、高3の夏休み明けに部活の友達に誘われたので、美容の専門学校に行くことにしました。両親にはかなり反対されましたね」
美容専門学校
高校を卒業した吉田は、岩手県にある北日本ヘア・スタイリストカレッジに入学した。
「特にこだわりがあったわけでもなく、友達から「ここ受験しよう」と言われたので決めたというか。自分は特に資料とか何も見てなかったですね・・・」
青森県の実家を離れて、岩手県での一人暮らしが始まった。
「地元の友達に会えて、かつ一人暮らしができる距離にある専門学校を選んだというのが本当のところですね。専門学校には真面目に通っていました。成績は微妙だったと思いますが(笑)」
昼は授業で夜はアルバイトという、充実した専門学生生活を送っていた。
「専門学校には、代々先輩から引き継ぐアルバイトというのがありました。いわゆる、夜の店で働く方のヘアメイクなのですが、それはすごく楽しかったですね」
続く
テレビ、映画、ファッションからアイドルまで。さらには海外での講習と、様々な分野で活躍するヘアメイクアーティストTERACHI。これまであまり語られることのなかった、ヘアメイクアーティストTERACHIのこれまでとこれからに迫る。(敬称略)
遠回りが実は近道
現在のTERACHIは、業種を問わず様々な仕事を受けている。
「アイドルのヘアメイクをやることもあれば、電車の広告やテレビ等、だいたい何でもやっていますね」
専門学校でヘアメイクを教えることもあるという。
「地方の専門学校で教えたりもしています。1年目の生徒は素直なのですが、2年目や3年目になると、なぜか自信が付き過ぎる傾向があります(笑)」
若さは武器であると同時に弱点にもなり得る。
「若い時は何でもやったほうがいいと思いますね。何でもやれる機会は若い時しかなかったりするので。人に教えてもらう機会も、その時しかないですから」
自身の経験からも、食わず嫌いの危険性を指摘する。
「最近は、「こういう仕事は興味ないんです」と最初から拒絶してしまう生徒が多い気がします。「芸能しかやりたくない」「ファッションしかやりたくない」という人が多いですね。ただ、遠回りに思えても、そこから自分のやりたい事に繋がることはいくらでもあるので、まずは何でもやってほしいと思います」
ヘアメイク業界
コロナウイルスの影響は、当然のことながらヘアメイク業界にも及んでいる。
「今後はどんどん予算が削減されていて、コロナの影響でさらに削減されていくと思いますね」
時代との変遷と共に、ヘアメイク業界も変わってきた。
「今は予算が少なくなっても、それでどうにかなっているのが現状です。もともと広告の媒体も、すべて作りこむのが良いという風潮から、リモートで撮ったものが広告になったりと、すごく気軽になってきています」
過去と同じやり方を続けていては厳しいという点においては、ヘアメイク業界も決して例外ではない。変化に対応する柔軟さが求められている。
「こんな時代だからこそ、何かに特化して見せていったり、もっとフットワークを軽くやった方がいいかなと思っています」
未来
ヘアメイク業界を牽引する一人として、業界の今後を的確に予測する。
「バブル期の頃は、枠が狭くてたくさん仕事がありました。そのあとは、反対に枠が広がり仕事が少なくなりました。なので、今後は一回淘汰されると思います。淘汰された後に残るヘアメイクアーティストは、独特な人だと思います。自分の世界観を何か一つ持っていて、これなら誰にも負けないという人ですね」
現在のTERACHIの活動は、国内にとどまらず海外にも広がっている。
「海外講習は普通のことを教えるということより、様々な材料を集めて研究して発表する、いわゆる学会発表のような感覚です。そのために、色々なもので実験を続けています。ヘアメイクの材料など一切触らないで、2ヶ月くらい研究することもあります」
時代がどんなに変わっても、TERACHIの挑戦し続ける姿勢が変わることはない。
「新しいものを見つけるためには、すでに今あることをしていたのでは始まりません。その延長線上で、調べたものや手にした素材を使って、まだ誰も見たこともない新しいビジュアルを打ち出していきたいですね」
完
テレビ、映画、ファッションからアイドルまで。さらには海外での講習と、様々な分野で活躍するヘアメイクアーティストTERACHI。これまであまり語られることのなかった、ヘアメイクアーティストTERACHIのこれまでとこれからに迫る。(敬称略)
専門学校
高校を卒業し、実家から札幌の専門学校に通う生活が始まった。
「当時、ビューティービジネス科は新設されたばかりだったので、カリキュラムがまだ固まっていない状態でした。なので、1学期の途中から「今日は何の授業をしようか?」みたいな感じでした」
現状を打破するため、TERACHIは持ち前のバイタリティーを発揮し自分でやりたいことを見つけていた。
「その時に自分が持っていたクラブの人脈などを使って、友達とファッションショーを立ち上げたり、フリーペーパーを作ったりとか、自分で野外活動をしていました」
専門学校に通いながら、クラブで月に数回ダンスを踊るなど、様々な活動をしていた。
「専門学校の2年目の時に、写真館にヘアメイクとしてインターンに行きました。なので、専門学校の2年生の時はほとんど学校に行ってないですね」
写真館
写真館でのインターンは、TERACHIにとってヘアメイクの技術を磨く格好の練習場所だった。
「写真館の鍵を持っていたので、夜中に開けて作品撮りしたりとかしていました。スタジオなのでストロボも使い放題で、使い方を教えてもらって全て自分でやっていましたね」
写真館でのインターンで試行錯誤しながらも、自分の腕を磨いた。
「今思うと稚拙で恥ずかしいですが、写真集のようなものを作っていました」
専門学校を卒業したTERACHIは、インターンとして働いていた写真館にそのまま就職した。
「もともと東京に行こうと思っていました。なので、とりあえず2年間働いて東京に行くためのお金を貯めようと思って、その写真館に就職しました」
東京
東京に行くための資金も貯まり、ついに念願の東京に来ることができた。しかし、特に仕事が決まっていたわけでもなかった。
「当時は友達とルームシェアしながら、狛江に住んでいました。最初は特に仕事のあてがあるわけでもありませんでした」
東京に出てくる前に、TERACHIは札幌で美容メーカーの外部講師をしていたことがあった。その人脈が、後に自身の助けになった。
「札幌の仕事の繋がりで、東京でも仕事を紹介してくれることになりました。美容メーカーの東京支社を紹介してもらい、そこからシャンプーマッサージとかの講師をしていました」
専門学校でトータルビューティーを学んでいたこともあり、TERACHIはメイク以外の技術も有していた。
「そこから仲良くなったオーナーさんから、さらに「メイクやヘアセットも教えてくれ」という話になってどんどん広がっていきました」
講師の仕事を続ける傍ら、ヘアメイクアーティストとしての活動も本格的に開始した。
「当然ですが、最初は誰も私のことを知らないので、ヘアメイクができるということを周囲に告知する必要がありました。そこで、当時のSNSを利用して自主制作映画とかのメイクにバンバン顔を出して、そこで無料でやっていましたね」
自分を売り込む作戦は、やがて功を奏してきた。
「そこのスタッフが制作会社や、テレビ局の制作スタッフだったりしたので、そのまま引っ張られて仕事が入ってくるようになりました。今でもお世話になっています」
続く
テレビ、映画、ファッションからアイドルまで。さらには海外での講習と、様々な分野で活躍するヘアメイクアーティストTERACHI。これまであまり語られることのなかった、ヘアメイクアーティストTERACHIのこれまでとこれからに迫る。(敬称略)
活発な少女
TERACHIの出身は北海道札幌市。活発な子供だった。
「小学生の頃は、地平線の見える草原で基地を作ったりして遊んでいましたね。北海道なので、物心ついたときからスキーは滑っていました」
両親の教育方針は独特だった。
「勉強は好きだったが、親が勉強するのをあまり良く思ってないようで、小学生のうちから塾に行きたいと言ったり、中学受験を希望したが止められました」
地元の中学校に入学したTERACHIは、バトミントン部に入部した。
「なんとなくバトミントン部に入部したのですが、やたら基礎練が激しくて、成果が上がらない部活でした(笑)」
基礎練の繰り返しが毎日続いた。
「試合には勝てないけど、練習だけはすごいという感じでした。毎日3キロ走ったりとか、基礎練だけは毎日やっていました」
ギャル
中学校を卒業したTERACHIは、地元の高校に入学した。
「高校時代は色々な場所に遊びに行っていましたね。どこにも遊びに行けるように、私服の高校を選びました(笑)。夜のススキノから色々な所まで、定期が使える範囲で遊び歩いていましたね」
高校時代はいわゆる「ギャル」だった。
「高校時代は、今考えると一番色々やっていました。ハードコアのバンドや公開タトゥーをしている場所に遊びに行ったりだとか・・・」
バドミントンに熱中した中学校時代とは、まさに180度異なる生活だった。
「新しいカルチャーが楽しくて、自分の知らない人種のところに会いに行っていましたね。好奇心旺盛で、「人」が好きでした」
メイク
TERACHIが入学した私服の高校は進学校だった。しかし、勉強はあまりしなかった。
「高校に入る時点で勉強をする気が無かったので、高校では浮いてたかもしれないですね。専門学校に行く生徒は、学年で2〜3人しかいなかったですから」
やがて進路を決める段階になり、メイクの専門学校に行くことに決めた。
「当時は勉強をしたくなくて、将来何をしようかなと思って遊び歩いていました。その時に、メイクが面白そうだなと思い、メイクの専門学校に行くことにしました」
髪を切ることには、特に興味がなかった。
「理由はないのですが、色を塗るのが好きなのでメイクを選んだみたいな感じですね」
高校を卒業したTERACHIは、当時の札幌医療秘書福祉専門学校(※札幌ビューティーアート専門学校)のビューティービジネス科に入学した。
「本当は東京に行きたかったのですが、高校の時に遊びすぎたため、親に「そんな奴にお金を払えない」と言われ諦めました(笑)」
続く
スタイリスト
入社直前に自ら内定を取り消して、土壇場で新天地となる大船FACEに入社した松本は、異例の速さでスタイリストデビューを果たした。
「とにかく早くデビューしたいので、先輩に目標期限を先に伝えて、そこまでのカリキュラムを逆算して組んでもらいました。一気にやりましたね」
周囲の助けも得て、最速でスタイリストになる事ができた。
「当時、付きっ切りで練習を見てくれる先輩がいたので環境には恵まれてましたね。その先輩の時間を全て奪ってしまいましたが(笑)」
考えるより先にまず行動に移す、これが松本のポリシーである。
「とにかく実行するのみというか。PDCAサイクル(※ Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)を繰り返すことによって、業務を継続的に改善していく手法のこと)というのがありますが、その全ての流れが自分にとっては遅いと思っていて・・・。自分はDO(実行)あるのみです。DODODODOという感じです」
美容業界
業界を愛しているからこそ、現在の美容業界が直面している現実に歯痒さを感じている。
「業界自体が遅れていると思いますね。情報が間に合っていないというのは常々思っています。産業革命時代からの、労働力で何とかするという流れがはびこっている時点でダメだと思います」
かつては、美容師がトレンドをリードする時代があった。しかし、時代の流れと共にそれは変化していった。
「この情報化社会でテレビやYouTubeも観ない、YouTubeが主流になるという事も知らない美容師が多過ぎると思います。美容師が一番トレンドを知らなければならないのに、それができてないと思いますね」
このようなミスマッチは、何も現役の美容師に限ったことではない。
「美容専門学校も同じだと思います。いわゆる国家試験カットはサロンで全くやらないのに、2年間をそれに全て費やすのは無駄だと思います。平均のスタイリストデビューは3年と言われてますので、トータル5年がもったいなと思いますね」
その5年を無駄にしないために、松本はひたすら行動し続けた。
「そんなことしている間に次の時代が来て、また色々と変わります。いかに早く行動出来るかが大切だと思いますね」
未来
自分の理想を追い求め、それを叶えるためにひたすら行動を起こし道を切り拓いてきた。その姿勢はこれからも変わらない。
「自分は今年24歳になるのですが、25歳までに自分の動きを変えないと何も変わらないとは思っています。25歳までにはひとつアクションを起こしたいなとは思っています。まだ言えないですが、自分自身では色々と考えているので楽しみにしています」
美容師としての松本の歩みは、とどまる事を知らない。それどころか、むしろ加速している。
「美容師とはサービス業だと思っています。美容師が特別とかではなくで、様々な職業の中の、美容師という名のひとつのサービス業です。ですので、サービス業に関わる仕事をしている人のアドバイスは全て美容師の役に立つし、美容師の言葉は全て他のサービス業にも役立つと思います。全部繋がっていると思いますね」
松本が最高のサービスを提供する美容師として日本中にその名を馳せる日は、そう遠くないはずだ。今後の活躍から目を離せそうにない。
完
全国制覇
美容師になることに決めた松本は、高校を卒業して六本木にあるハリウッド美容専門学校に入学した。
「自分が良ければ学校はどこでもいいと思っていました。当時の一つ上の学年にすごく美人の先輩がいたのですが、その先輩がハリウッド美容専門学校に行ったので、自分もそこに行きました。別にその先輩とそこまで関わりがあったわけではないですが(笑)」
専門学校には真面目に通った。
「無遅刻無欠席でした。アルバイトも温野菜で週6でやっていて、いつの間にかバイトリーダーになってました」
専門学生時代、松本は全国美容甲子園のワインディング部門で全国優勝をするという偉業を達成した。
「当時は特に興味もなくて、大会に出るつもりもありませんでした。ハリウッドでは、最初のテストから全学年の順位が出るのですが、自分が絶対に1位だと思っていたら2位でした。自分は兄に比べれば不器用ですが、世の中的には器用な方でした。なので、専門学校に入学しても最初から色々出来たので、2位というのはショックでした」
1位だと確信していた最初のテストでまさかの2位だったことが、生来の負けず嫌いの性格に火を付けた。
「その当時1位だった子に負けたくないと思ってやってたら、いつの間にか全国1位になっていました」
当然のことながら、全国優勝までの道のりは決して平坦なものではなかった。
「当時は週6でアルバイトをしていたので、他の生徒と練習量で圧倒的な差がありました。しかし、その差があるから戦うのをやめるのではなく、限られた時間で何ができるのかを頭をフル回転させて考えました。全て計算してやって結果が出たので、やってきた事が間違ってなかったと再確認できて、自信になりましたね」
内定辞退
季節は流れ、やがて就職先のサロンを決める時期に差し掛かった。
「当時は、2年生の9月ぐらいには原宿にある某有名サロンから内定をもらってました。しかし、入社直前の3月10日に内定を辞退する旨を自分から頼みました」
美容師なら誰もが一度は働きたいと思うような某有名サロンの内定を、松本は自ら取り消した。
「自分はそのサロンが作るデザインに惚れて行きたいと思ったのですが、もう一度初心に帰って色々と考えました。最大の理由は、そのサロンのデビューまでの規定が自分の考えと合わなかった事ですね」
内定が決まっていた某有名サロンは、事前に決められているスタイリストデビューまでの道のりが長かった。
「デビューまでが長いサロンと短いサロンを比較した時に、短いサロンのデメリットが自分には何も分かりませんでした。だったら、デビューまで早いサロンの方が良いと思いました」
悩んだ挙句に内定を辞退して、早くデビューできる他のサロンを探す事にした。
「3月10日なので学校も終わっていました。学校の先生に報告する前に、自分でサロンに電話して内定を辞退させていただきました。先生からは、「あなたなら何かすると思った」と言われましたが・・・(笑)」
社会人
土壇場で自ら内定を辞退した松本は、新たに就職先のサロンを探し始めた。すると、知り合いのスタイリストからうちで働かないか?と誘われた。それが、現在松本が働いているFACE大船だった。
「急遽決めたため、本当にバタバタでしたね。急いで神奈川県の大船に引っ越しました。入社2日前ぐらいに決めました」
紆余曲折あったが、いよいよ社会人としての新しい生活が始まった。
「いざ働いてみると、美容師のイメージが全然違いました。ただ、そこで「違うな」と思うだけでなく、その環境を自分で変えることに執着しました」
想像と現実のギャップは、自らの行動で埋めるしかなかった。
「自分が変える事が出来なければ、来年入社した子たちも同じ事になり、自分はその子たちにガッカリされてしまいますから」
自分を慕って入社する前途ある若者を、ガッカリさせたくはなかった。
「自分が大手の美容室に入ってすごいメリットだと感じたのはリクルートです。学生との繋がりです。自分に憧れて入ってくる人間がどれだけいるのかを試せる場があるのが、大手のメリットだと思います」
環境を変えるために行動することは、自分自身に対する挑戦でもあった。
「自分は、25歳までに全てを変えられなかったら人間終わりだと思っていて・・・。この場所を変えられる器があるのかどうかを測りたかったというのがありますね。ギャップはありましたが、やりがいはすごく感じていました」
続く
芸術家ファミリー
松本は東京の品川区出身。まさに都心のど真ん中で育った。
「小学生の頃からすごくマセガキでしたね。最近は大人から子供に逆になっていく感じです」
幼少期からあまりにマセていた反動が、最近押し寄せてきているようだ。
「大人になってくると、やりたいことをやりたいと言えなくなってくると思うのですが、自分の場合は逆ですね」
現在のそのような人格形成に大きく関わったのは、家族の存在だった。
「父親は他界してしまったのですが、チェロの奏者でした。母親はロックミュージシャンのボーカル兼ギターをしつつ、絵を描いたりもしていました。今考えると、常識人が一人もいなかったですね(笑)」
両親がクリエイターという、少し変わった環境で育った。
「親がずっと忙しかったので、兄と自分で何でもやっていくという感じでした。周りに気を使わせたくないというか、自分たちで全てやろうとする傾向がすごく強かったですね。小学生の頃も、みんなと遊んだりはするのですが常に冷めてました」
サッカー
松本は小学生の頃からサッカーに熱中していた。中学校に入学した後も、クラブチームに所属して続けた。
「小学生の頃から地元のクラブチームに所属していました。小学校の最後の大会で誘われたので、中学校でもクラブチームでサッカーを続けていました。ポジションはサイドバックやボランチでした。当時はずっとサッカーをしていましたね」
中学校を卒業した松本は、都立の高校に入学した。
「当時から将来について考えていて、この先もサッカーをやっていこうとは思えない自分がいました。自分の能力も知っていますし・・・。なので、クラブチームは辞めて高校のサッカー部に所属しました」
クラブチームで鍛えたその実力は、高校の部活ではひときわ際立った。松本は高校1年からチームのエースとして活躍していた。
「部活で試合に勝つことよりも、この組織をまとめられるかどうかとか、そういうところにすごく興味がありました。自分がどういう行動したら、みんなが影響されて自分に付いてくるかとかを計算してやるのが好きでしたね」
高校時代にサッカーと同じくらい熱中していたのが、アルバイトだった。
「最初はチェーン店の牛角で、その後はずっと温野菜でアルバイトをしていました。キッチンもホールも両方やっていました。もともと接客が好きというか、自分は人前で喋るために生まれてきたような人間なので(笑)」
気付いたときには、サッカーと同じくらいにアルバイトにも熱中していた。
「アルバイトは将来を想像しやすかったですね。何でもそうなのですが、今やっていることが将来に役立たないと思うと、やりたくないんです」
美容師
学校の勉強も、サッカーと同じくらい得意だった。
「勉強はどちらかと言うと興味がなかったですね。中学生の時に、勉強を本気でやってみようと思ったらあまりにも簡単で、テストもほぼ90点以上で成績もほとんどオール5でした。その時に思ったのは、学校の勉強は公務員になるための勉強だということです。そこから勉強に興味がなくなって、投資の勉強など始めてました(笑)」
将来の職業に関しては、特に希望はなかった。
「進路に関しては何も考えていなかったですね。大学には行かないと決めてたぐらいで・・・。公務員の勉強をしたいわけではないし、かと言ってそんなにやりたいことがあるわけでもないという感じでした」
両親と同じ音楽の道に進むことは考えていなかった。
「良い意味で自分は両親に才能を殺されたと思ってて(笑)。両親と兄の才能がすごくて、特に兄の芸術的才能が凄すぎて、そっちの道は考えもしなかったですね。自分は音楽に興味がなくて、絵も下手くそだったので・・・」
結果的に、松本は美容師になることにした。
「もともと人前に出るのも好きだし、美容師かっこいいなとは思っていました。進路希望提出書を渡された時に親にそのことを言うと、「美容師でいいじゃん」と言われたので、次の日に願書を提出しました(笑)」
続く
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
TOMO流SNSとの付き合い方
「僕がやっているSNSはTwitterとInstagramなんですが、二つとも属性が異なるというか、別物と考えています」
TOMOのSNSを見れば、その意味が分かるはずだ。
「Twitterはネタっぽく発信するとウケたりして、Instagramは逆に綺麗にまとめた方がウケがいいので、そこを心掛けてやっていますね」
従来の概念に拘らないのがTOMO流である。
「何だかんだで自撮りが一番伸びますね。そういう枠からお客さんを広げていってもいいのかなと思います。スタイルが全てではなくて・・・。フォロワーというよりは、自分を出してファンをつけるという感じですね」
ファンを作る
コロナウィルスの影響により日々変化する状況の中、美容学生はいま何をすべきなのか。
「まんべんなく勉強することももちろん大事ですが、カットやパーマ、カラーなど何でも良いので、自分ができる範囲で突き詰めていった方が将来的には役に立つと思います」
もしTOMOが現役の美容学生だっら、何をしているのか聞いてみた。
「自分はカラーしか分からないのですが、カラー剤の能力を毛束で染めて覚えるとか・・・。自分がいま美容学生だったなら、カラー剤とブリーチの勉強をひたすらしていると思いますね」
自分の「ファン」を作ることが、SNSを使用する上でのキーワードになっている。
「自分をしっかり押してくれるというか、ファンとして自分を見てくれるお客さんを捕まえられたら美容師として長生きできるのかなと思いますね。フォロワーというよりは、自分を出してファンをつけるという感じですね」
これから
美容業界も例外なく変革の必要性に迫られている。これからやってくるのはどのような世界で、どのように生き抜くべきなのか?
「あまり美容業界には興味ないんですが・・・(笑)。これからは集団よりも、個々の力が意味をなす時代になってくると思いますね。自分を発信していけた方が、今後の美容業界の流れに乗っていけるのかなと思います」
「個」の力が「集団」を凌駕する時代がやってきたのだ。
「それこそ、昔のカリスマ美容師は何でもできるというイメージだったと思うのですが、今のカリスマ美容師は一つのことに特化していますよね。お客さんが求めているものが、接客からクオリティに変わってきたと思います。そのクオリティを突き詰めている技術者が、いまは重宝されていると思います」
カラーのプロフェッショナルとして、さらなる高みを目指して日々精進する毎日。TOMO
の挑戦はまだ始まったばかりである。
「将来的な方向性として、特に大きい何かは考えてはいないのですが、ハイトーンはこのまま続けていき、琉さんとも一緒に何か面白いことできたらいいなと思いますね」
完