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米田星慧〜革命前夜 Vol.1〜

書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)

プロレス・ダンス・将棋

米田の出身は神奈川県相模原市。少年時代はプロレスに夢中だった。

「自分がまだすごく小さい頃に、父親がテレビでアメリカのプロレスを見ていたこともあり、自分もハマって熱中して見ていました」

プロレスの他に、ダンスにも熱中した。

「フォルダーファイブとか見て、「ダンサーいいな!」と思い始めたのがきっかけですね。自分がやっていたのはそんなにかっこいいものではなく、キッズジャズダンスとかでしたが・・・」

小学生の時には将棋にも熱中した。将棋熱は今も変わらず継続中だ。

「小学生の頃から一貫して将棋が好きですね。祖父がすごく強くて、祖父に勝つためだけに将棋をしていました。美容師の中では絶対に自分が一番強いと思います(笑)」

地元の中学校に入学した米田は、陸上部に入部した。

「中学1年生の時に身長が119センチしかなかったのですが、母親に「陸上をすれば背が伸びる」と言われて、それを信じて陸上部に入りました。短距離をやっていたのですが、結構真剣にやっていましたね」

進学校

やがて進路を決める時期に差し掛かり、米田は地元の進学校の受験を決意した。

「勉強はそんなに好きではなかったのですが、自宅から徒歩1分のその高校に通いたくて必死に勉強しました」

本来勉強がそんなに好きではなかったが、志望校に合格するため勉強に明け暮れた。そして、米田は見事に自宅から徒歩1分の志望校に合格した。

「今考えると、1日14時間ぐらい勉強していました。他に行きたい高校もなかったので、その高校しか受験しなかったですね」

そんな猛勉強の甲斐あって、米田はなんと主席で高校に入学した。高校入学2日目にして将来の志望大学をヒアリングされるほど、周囲からその学力を期待されていた。しかし、周囲の期待とは裏腹に米田にその気はなかった。

「高校でも陸上を続けましたが、とにかくやんちゃな高校生活でしたね(笑)。ほとんど勉強しないで、やりたいことをやっていました」

首席で入学した米田だったが、卒業する頃にその成績は下から3番目くらいになっていた。そして、受験シーズンを迎え周囲が大学進学の準備を始める中、米田はひとり美容師を目指していた。

「中3の高校受験の時には、将来は美容師になると決めていました。通っていた床屋さんで「髪切りは勉強しなくてもなれるよ」と言われたのがきっかけですね」

美容専門学校

高校を卒業した米田は美容師を目指すべく、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。

「国際文化を選んだのは、当時通っていた地元の床屋さんが全員国際文化出身だったからです。美容専門学校は国際文化しかないものだと、当時は真剣に勘違いしていました(笑)」

高校を卒業した米田は、国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した。紆余曲折を経て、美容師への第一歩がついに始まった。やんちゃ三昧だった高校時代と異なり、米田は一心不乱に美容の勉強に励んだ。

「自分の中では高校時代に遊び尽くした感がありました。なので、専門学校に入学した時点で自分の中で勉強一本に切り替えようと思っていましたね」

友達もあまり作らず勉強に専念した結果、成績はほとんど常にトップだった。

「今考えると、学校では自分一人だけ異常に真面目でした。学科試験は大体満点で、練習も静かにやってましたし・・・。特別授業の後にその感想文を毎回書かなければならなかったのですが、毎回そこに学校の体制に関する自分の考えを書いていました(笑)」

そのような行動は、時として米田をおかしな生徒と周囲に誤解させた。就活の時期になると、「有名店はたぶん受からないので地方のサロンにした方が良い」と言われたこともあった。

「なぜ自分はこんなに真面目にやっているのに、受からないのが前提なのか不思議でしたね。周りからは、頭がおかしな奴と思われていたと思います」

真面目過ぎるイメージが災いしたのか、誰からも応援されることはなかった。

「本当に、誰からも理解されてなかったと思います。もちろん、こちらも理解を求めてなかったですが・・・」

本来の自分と、周囲が抱く自分へのイメージのギャップに苛まれながらも、ただひたすら美容の勉強に打ち込んだ。そんな中、ついに就職先のサロンを決めなければならない季節がやってきた。

「当時のメンズサロンの頂点がLIPPSだったというのもありますし、自分が美容師になろうと思って一番最初に名前を覚えたサロンがLIPPSでした。なので、LIPPSしか行くつもりがありませんでした」

続く

一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

独立

長崎が入社した当初、MINXには30人弱の美容師しかいなかった。それがいつの間にか200人まで増えていた。その成長過程を間近で見てきた中で、長崎には一つの疑問が浮かんでいた。

「セミナーや業界誌に出たり、本を出版したりと色々やっていたのですが、全てはMINXという大きな会社だったからこそ出来たことでした。自分が一人になった時に、自分の技術はどんなものなのか、やっていけるのか確認したいという思いがありましたね」

様々なタイミングも重なり、17年間勤めていたMINXを円満に退社した長崎は、自身の美容室「CANAAN」を表参道にオープンさせた。

「MINXにいた頃から、お店の大小を問わずオーナーというか経営者は凄いなと思っていました。人やお金の問題を全て背負っているわけですし。自分もいつかはそこを目指した方がいいのかと思っていた中で、タイミングが偶然重なったので独立したという感じですね」

独立して実際に経営に携わるようになると、自分が経営に向いていると肌で感じることができた。

「こういう人が集まる場所では、大小様々な問題が出てきます。ただ、問題が起きたときの対処の仕方を自分の中で前向きにやっていけるかが大切だと思います。自分にとっては、次にこういう問題が起きた時にこうしようと考えるのがすごく楽しいので、そういう意味では経営に向いているのかもしれないですね」

美容業界

長崎を取り巻く美容業界も、時代と共に様変わりしている。

「今は経営寄りの美容業界になっているというか、すごく良い業界になったと思いますね。スタッフの給料も昔のような丁稚奉公ではないし、休みも週休二日で取れて、有給まで取れるので・・・。すごくいい時代になったと思う反面、経営寄りになりすぎた弊害もあると思います。人を育て上げてスタイリストにして、お店のブランドを一緒に作り上げる美容師になってもらうというような、いわゆる「待つ」教育の姿勢が薄らいでいると感じますね」

自社で教育するという過程を省いて、すでに教育されている美容師を外から雇い入れる店舗も増えてきている。

「特に都市部では、スタッフは育てるよりもリクルートをかけて他から採用する時代になってきています。そうすると、絶対的に失われていくのは高い技術力やデザイン力です。全員がそうではないと思いますが、最近は個人の美容師としてのこだわりが少ないような気がします。今の時代では、教育型のサロンより経営型のサロンの方が調子が良い事は間違いありません。しかし、いずれは教育型のサロンがまた復活する気がします。そうでないと、質が保てないですから」

長崎のサロンには、業界の将来を担う美容学生が新卒で数多く入社する。美容学生のうちにやっておいた方が良いことを教えてくれた。

「自分がどんなデザインが好きで、何を作りたいのかということを学生の2年間のうちにイメージできるようになった方が良いと思います。そうすれば、就職する美容室を間違えなくてすみますから。それと、コロナ禍の今はあまり大人数で集まりづらいですが、例えば大人数で飲みに行った際とかに、人との関わりの中で自分がちゃんとしたポジションを作れているか試行錯誤することも、美容師になった時に役に立つと思いますね」

とりわけ、新卒で入社する美容室が重要だと強調する。

「1店舗目の美容室は絶対に間違えないほうが良いと思います。そこで間違えると、その先美容師を続けられなくなってしまう可能性があります。自分も1店舗目に働いた三重県の美容室がすごく良かったので、今も美容師を続けられていると思います。1店舗目の美容室は、自分の感覚や気持ちと合うところを選べると良いと思いますね」

未来

40歳でCANAANを設立して、今年で8年目を迎える。

「設立当初から技術的なブランディングをしっかりしようとやってきたので、教育体制は出来上がってきました。今はほぼ新卒の方しか受け入れていないのですが、デビューして作っていくデザインなどを見ても、良い美容師さんをたくさん輩出できる仕組みになってきたと思いますね」

CANAANはまさに人材の宝庫と言える。それは決して言い過ぎではない。

「最初に入社した子たちも、30〜35歳になってきています。これからやりたいのはキャリアが長い子たちの独立というか、グループとしての広がり方を考えています。やはり会社として大きくないと、やりたいこともやれないですから」

さらなる高みを目指し、長崎のチャレンジはまだまだ続く

「これまでは教育型サロンを作ってきたので、これからは教育型サロンのノウハウをベースに少し経営寄りのサロン展開をしたいですね。グループとして大きくしていって、これまで規模が小さくて出来なかったことをやっていきたいと思っています」

美容師になって30年。これからもその歩みを止める事はない。また、止めるつもりもない。

「美容師はその仕事を続けるにあたり、様々な続け方があると思います。大きな美容室で幹部になってもずっと続けたり、色々勉強して一人でやる環境を作って続けたり。経営者として生きていくこともできます。美容師は自分の生活環境に合わせて、場所を変えても給料をもらえるし暮らしていける仕事だと思います。その意味では、生きていく上で非常に良い仕事だと思いますね」

美容師という職業は、まさに長崎にとっての天職だった。

「選択肢がありますから。別に高い所に目標を置き続けなくても良いわけですし。家庭の方が大事になったら、家庭をベースにして美容師という仕事を楽しみながら続ければいいし。美容師は本当にいい仕事だと思いますね」

一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

社会人

高校を卒業して入社した美容室は、三重県でも有名な美容室だった。長崎はそこで2年半働いた。

「最初は一人暮らしをしていましたが、地元では車がないと遊びも楽しくないので、お金を貯めるために、夜はキャベツを食べるだけみたいな節約生活をして貯めたお金で途中から車を買って、実家から通っていました」

いよいよ社会人としての新生活がスタートした。

「私のサロンに面接に来る今の若い子を見てると、美容師になって雑誌に出たいとか、ヘアメイクをやりたい等の明確な目的がありますが、当時の自分は家業を継ぐことが目的だったので明確なビジョンがありませんでした」

それでも、毎日の仕事の中でやりがいを感じる瞬間が多々あった。

「何かを作ったりするのが好きだったので、例えばシャンプーをしてお客さんが喜んでくれるだけでも嬉しかったですね。当時はバブルだったので、お客様からチップをもらえました。喜んでもらえてかつチップがもらえるので、こちらも工夫してすごく気持ちのいいシャンプーの仕方を考えたりして・・・。自分で考えて作ったりするのが昔から好きでしたね」

スタイリストになるために日々練習に励んだ。

「自宅での勉強方法を工夫して、しっかり手元が見えるように床に鏡を置いて、パーマを巻く練習をやったりしてました」

東京

スタイリストになりカットもやり始めると、どういうデザインがかっこ良いのか、どういう美容室が良いのかを色々と考えるようになってきた。当初はなかった美容師としてのビジョンが、徐々に湧いてきた。

「当時は色々なヘアショーを見に行ったり、自腹でPEEK-A-BOOさんのカット講習に参加したりしていました」

そんな中、ある出会いが長崎を東京に向かわせるきっかけとなった。

「資生堂が運営するSABFAというヘアメイクの学校があるのですが、その方達の作品が素晴らしくて感動しました。そこでヘアメイクを習いたいと思って、SABFAに入るために東京に出てきました」

自分の車を売って、引っ越し費用とSABFAの授業料に充てた。SABFAでヘアメイクを学びつつ、日々の生活のために三鷹の美容室で働いた。

「あくまでSABFAがメインだったので、当時雇っていただいた美容室のオーナーに自分の事情を正直に話して、SABFAがメインなので一年で辞めるかもしれない旨を伝えて、入社させてもらいました」

自分が思い描いていた場所で勉強する日々は、非常に充実していた。SABFAでの全カリキュラムが終わったが、その後のことは考えていなかった。三重県に帰るという選択肢もあったが、東京に残る決断をした。

「どうせ東京に出てきたのだから、東京を感じるサロンで働きたいと思いました。そこで思い出したのが、昔名古屋で見て印象に残っていたMINXとOPERA(ACQUAの前身)でした。電話で問い合わせたところ、OPERAは既に募集が終わってましたが、MINXは欠員が出たようで面接してもらえることになりました」

MINX

当時からMINXはすでに大人気サロンで、入社するのも非常に困難なサロンの一つだった。しかし、長崎の熱意が通じたのか、見事に合格して入社することができた。

「当時のMINXは日本で一番尖っていたというか、ヘアショーでもナンバーワンでした。今考えると入社できてラッキーでした。同期で入社したのは、高身長でルックスが良かったりとお洒落な子ばかりでした。自分は三重県から出てきたばかりで、東京のファッションも全然分からない状態でした。なぜ受かったのかは正直いまだに分からないですね」

憧れのMINXで、美容師としての新たな生活が始まった。全国にその名を轟かせるサロンだけあって、厳しかったがその分やりがいもあった。

「MINXに入社する前にも三重県で一生懸命やってはいたんですが、「とことん」というところまではやり切れてませんでした。実家から通っていたということもあり、切羽詰まった状況ではなかったので。なので、東京に出てきたかった理由の一つが「とことん」突き詰めたいということでした。突き詰めることができる環境まで自分を追い込みたかった、というのがありますね」

MINXに入社した年に長崎は結婚をした。家庭を支えるためにも、生活を安定させる必要があった。

「社内チェックに受かったり、スタイリストになればその分給料が上がるので、それは必死でした。当時の体験で自分の美容人生が変わった気がします。自分のダラダラした部分を叩き直すにはちょうどよかったですね。昔は男が9割で、まるで軍隊のようにめちゃくちゃ厳しかったので(笑)」

突き詰めるために入社したMINXで、まさに突き詰める毎日が続いた。

「タオル一枚畳む際にも四隅をきちんと揃えたりしていたら、先輩から「お前いい仕事するな」と言われるのがその頃の自分の喜びというか・・・。自分のだらしない部分が直ってきたなと感じた瞬間でした。今思えば本当に楽しかったですね。30年やってきた美容師人生の中で、一番楽しかった時かもしれないです」

続く

一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

バスケットボール

長崎は三重県の松阪市出身。小学生の時から同級生を笑わせるのが好きな、活発な少年だった。

「割と笑いを取ったりするのが好きでしたね。クラスの中で面白いことをしてみんなに喜んでもらったりするのが、その時の自分の生きがいだった気がします(笑)」

地元の中学校に進学した長崎は、バスケットボールに熱中した。

「当時はマイケルジョーダンがリアルに活躍していて、テレビでも放映していました。ジョーダンのバスケットシューズも出始めた頃ですごくカッコ良くて、それでバスケにハマりましたね。漫画のスラムダンクとかが出る前です」

ただひたすらバスケットボールの練習をしていた。

「すごく強いチームとかではなかったですが、割と本気でやっていました。あまり遊んだ記憶がなくて、毎日ひたすら部活でしたね」

高校

中学を卒業した長崎は、津市の高校に進学した。

「母親が美容師だったのですが、当時から将来は美容師になるように言われていました。「美容師になったら女性ばかりだから免疫を付けるために女子が多い学校に行きなさい」と母親から言われていたので、女子が多い商業高校に入学しました(笑)」

入学した高校は、1クラス40人中に女子が30人。男子が10人だった。

「結果的には母親の思惑通りになりましたね。あの時代は家業を継ぐという慣習が色濃く残っていたので、母親からしたら家を継ぐというのが重要だったのだと思います。美容師以外には選択肢があり得ないという感じでしたね」

高校時代もバスケットボールを続けたが、長崎には新たに熱中したものがあった。

「当時はいわゆる第一次バンドブームで、「BOØWY」「ブルーハーツ」「X JAPAN」などが台頭してきた時期でした。なので、当然バンドはやっておかないとダメだろうということで、バンドを組みましたね」

興味の対象が中学生の頃からハマっていたファミコンから、バンドに変わった。

「ベースを弾いていました。同じ学校の友達とバンドを組んで、ライブがある時はチケット売ってということをしていましたね。自分の実力は分かっていたので、さすがにプロになりたいとかは思わなかったです」

美容師

バスケとバンドに明け暮れていた高校時代だったが、長崎にはもう一つ熱心に取り組んでいた事があった。

「高校2年ぐらいから、美容専門学校の通信課程に通っていました。自宅に送られてくる美容の教材で勉強していました」

高校に通いながら、並行して旭理美容専門学校の通信過程を受講していた。

「高校卒業してすぐに美容免許が取れるようにということで、親から勧められてという感じですね。自分の中では将来美容師になると決めていたので、高校の勉強よりも熱心にやっていました」

高校を卒業した長崎は、母親の知り合いのディーラーから東京の美容室を紹介されたが、地元の三重県の美容室に就職した。

「母親の美容室を継ぐことにしていた関係上、東京ではなく地元のサロンに就職しました。当時は美容に対する意識がそんなに高くなくて・・・(笑)」

続く

今も昔も美容室の聖地といえば、原宿を思い浮かべる人も多いはず。原宿には美容師を刺激し呼び寄せる、まるで魔力のようなものがある。そんな原宿に魅せられた一人の美容師がここにいる。原宿で複数店舗を展開する美容師「吉田太紀」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

原宿

異例の速さでスタイリストになり、吉田の美容師生活も徐々に軌道に乗ってきていた。

「まだ若かったので、下を教育するというよりも、自分自分という感じでしたね。周りにはあまりよく思われてなかったかもしれません(笑)」

スタイリストになって順調な日々を過ごしていた吉田だったが、一つだけ心に引っ掛かっている事があった。美容師になったときに抱いていた、原宿で働きたいという願望。それだけはいつまでたっても忘れる事ができなかった。

「やはり、自分の中では原宿で働くという目的がずっとありました。横浜も楽しかったのですが、そこに骨を埋めるというよりは、原宿で骨を埋めたいというのがありましたね」

原宿で働きたいという強い思いに抗うことができずに、吉田は働いていたグループ店を退社した。

「当時働いていたそのグループ店には、今後原宿に出店するという予定もありませんでした。それなら自分で原宿に出店するしかないと思い、退社しました」

新卒で入社した会社を退社した吉田は、フリーランスの美容師として新たな船出をした。

「最初は、西麻布の美容室でフリーランスとして働いていました。その後、箱貸しのような形で3年ぐらい表参道の美容室で働きました。雇われ店長のような形でしたね」

AnFye for prco

結果的に6年近くフリーランスの美容師として働いた後、自身の美容室である「AnFye for prco(アンフィフォープルコ)」を念願の原宿にオープンさせた。

「オープンしてから1年くらいは結構大変でした。SNSで集客していたのですが、当時はSNSの変換期だったというか・・・。mixiなどがSNSの主流だった時代からインスタに切り替わったタイミングだったので、SNSで集客ができなくなくなり大変でしたね」

数々の荒波を乗り越え、吉田はオープンしてから4年目に2店舗目となる「AnFye.dueldo」もオープンさせた。

「今後もさらに出店していきたいと思っています。正社員として雇って頂いた最初の会社の考えを尊敬しているので、多店舗展開していきたいですね。今年の10月にも、この近くに3店舗目がオープンする予定です」

吉田は現在、美容室以外にもマツエクサロンを運営している。

「マツエクサロンに関しては、自分がアシスタント時代にお金ですごく苦労したということもあり、アシスタントの間に収入を増やす選択肢として作りました」

未来

100年に一度と言われている現在のコロナ禍の状況下、吉田は逆に手応えも感じている。

「個人的な意見ですが、今回のコロナで美容室はなくてはならない業種だと再確認されたと思っています。衣食住というライフラインの次くらいに重要というか、災害が起きたときに廃れない業種だと思いましたね」

自身の思い描くビジョンを実現するために、吉田は今日も走り続ける。

「コロナのせいで、今は10年後という考え方はやめて3年後のビジョンのみを考えることにしました。まずはオリジナルブランドを広めながら、それに合わせた特化型の美容室をこのエリアに最低でも5店舗くらいには増やしたいと思います。それを3年以内にやりたいですね」

今後も、美容師吉田太紀から目を離せそうにない。

「美容師をやってきて一番思ったのは、美容師は相手に対して何かを与え、それに対して対価をもらう職業ということです。その中で美容師でしかできないお客様へのサービスというか、満たし方が必ずあると思います。それが美容師かなと思いますね」

今も昔も美容室の聖地といえば、原宿を思い浮かべる人も多いはず。原宿には美容師を刺激し呼び寄せる、まるで魔力のようなものがある。そんな原宿に魅せられた一人の美容師がここにいる。原宿で複数店舗を展開する美容師「吉田太紀」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

フランス

高校を卒業して岩手県にある北日本ヘア・スタイリストカレッジに入学した吉田は、授業のカリキュラムで1ヶ月間フランスに留学した。

「1ヶ月間、フランスのパリでマンションを借りて生活しました。平日は現地のアカデミーに通ってレッスンを受けて、土日は休みという生活でしたね」

アカデミー内には日本語の通訳がいたが、普段の生活や土日には通訳がいない生活だった。

「とにかく帰りたかったですね。フランスに行けば箔がつくかなと思って行ったのですが、一週間ぐらいで帰りたくなりました(笑)」

学校から離れたら言葉が通じない状況が1ヶ月続いた。

「一番思い出に残っているのは、オペラ座とプランタンの間にブックオフがあったのですが、そこは唯一日本語が通じる場所だったので、土日に欠かさず通っていたということですね(笑)」

就職

専門学校での月日は流れ、やがて就職活動の時期に差し掛かった。

「当初から専門学生の時は遊んで、就職したら働くことに集中しようと思っていました。働く場所は原宿一本で決めていましたね。原宿に行かないと、トップレベルの技術が学べないと思っていたので・・・」

原宿にあるサロンを幾つも受験したが、吉田は合格することができなかった。原宿で働くことをを諦めかけていたときに、原宿にも店舗があるグループ店に合格することができた。

「唯一原宿にもサロンがあるグループ店に受かったのですが、自分が入社した瞬間に原宿店が閉店してしまい、結局自分は横浜店に勤務することになりました」

原宿で働けるかと思いきや、まさかの横浜勤務。吉田の社会人としての幕開けは、波乱万丈のスタートだった。

「当時は一番貧乏な時代でしたね。給料から社会保険とか色々引かれて、手元に残るのは12万円くらいでした。そこから家賃を支払ったりなどしていたので、かなりキツかったですね」

社会人

横浜で一人暮らしをしながら、吉田の美容師としての人生が始まった。

「当時は終電で帰れたらラッキーというような感じでした。朝も7〜8時位には会社にいましたが、それは苦ではなかったですね。お金もなかったので他にやることがなかったですし、逆に没頭できましたね」

休む間も無く、毎日練習に明け暮れる日々だった。

「オールハントといって、終電超えたら朝の始発までずっとモデルハントをし続けて、朝自宅に帰りお風呂に入って、また出社するというようなこともしていました」

そんな努力の甲斐もあり、吉田は異例の速さでスタイリストに昇格した。

「そのグループ店には、結果さえ出せば期間に関係なくスタイリストになれるというシステムでした。なので、結果的に人より早くスタイリストになれましたね」

続く

今も昔も美容室の聖地といえば、原宿を思い浮かべる人も多いはず。原宿には美容師を刺激し呼び寄せる、まるで魔力のようなものがある。そんな原宿に魅せられた一人の美容師がここにいる。原宿で複数店舗を展開する美容師「吉田太紀」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)
 
転勤族

生まれは青森県三沢市。転勤族の家庭だった。

「父親が自衛隊員だったので、7回ぐらい引っ越していますね。生まれは青森県ですが、小学生の時は、茨城と北海道で過ごしました」

小学生の頃からバスケットボールに熱中していた。

「友達に誘われて、小学生の時からバスケットボールをやっていました。少年団から高校3年まで続けましたね。小学生の頃は背が小さかったのでフォワードでしたが、高校生から背が伸びたのでセンターでした」

中学生になると、生まれ故郷の青森県に再び戻った。

「中学2年生の時に、1年間だけバスケが嫌になってやめました。連休も取れないですし、遊びたいなと思って(笑)」

年間を通じて、正月の3日間ぐらいしか休みが取れない生活に嫌気が差していた。

「小学生の時は引っ越しを繰り返しても比較的すぐにすぐに友達ができたのですが、思春期の中学生くらいになるとなかなかコミュニケーションを取るのが難しくて、敬遠されがちというか・・・。なので、ようやく出来た友達と遊びたいというのがありましたね」

美容師

中学校を卒業した吉田は、地元の高校に入学した。

「高校時代もバスケは続けました。小学校や中学校時代は補欠でしたが、高校は弱かったのでレギュラーでした」

高校生活はこれまでと打って変わって、多忙を極めていた。

「今考えると、高校生の時は一番忙しかったかもしれないですね、部活終わってからアルバイトして、遊びに行ってみたいな感じでした。ガソリンスタンドや、友達の両親が経営するお寿司屋さんでアルバイトをしていました。お皿洗いや、宴会の後の片付けとかしていましたね」

そんな充実した高校生活も、やがて自身の進路を決める時期に差し掛かった。現在の職業である美容師になろうと最初から思っていたわけではなかった。

「当初は、担任の先生に勧められた福祉の専門学校に行く予定でした。しかし、高3の夏休み明けに部活の友達に誘われたので、美容の専門学校に行くことにしました。両親にはかなり反対されましたね」

美容専門学校

高校を卒業した吉田は、岩手県にある北日本ヘア・スタイリストカレッジに入学した。

「特にこだわりがあったわけでもなく、友達から「ここ受験しよう」と言われたので決めたというか。自分は特に資料とか何も見てなかったですね・・・」

青森県の実家を離れて、岩手県での一人暮らしが始まった。

「地元の友達に会えて、かつ一人暮らしができる距離にある専門学校を選んだというのが本当のところですね。専門学校には真面目に通っていました。成績は微妙だったと思いますが(笑)」

昼は授業で夜はアルバイトという、充実した専門学生生活を送っていた。

「専門学校には、代々先輩から引き継ぐアルバイトというのがありました。いわゆる、夜の店で働く方のヘアメイクなのですが、それはすごく楽しかったですね」

続く

テレビ、映画、ファッションからアイドルまで。さらには海外での講習と、様々な分野で活躍するヘアメイクアーティストTERACHI。これまであまり語られることのなかった、ヘアメイクアーティストTERACHIのこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

遠回りが実は近道

現在のTERACHIは、業種を問わず様々な仕事を受けている。

「アイドルのヘアメイクをやることもあれば、電車の広告やテレビ等、だいたい何でもやっていますね」

専門学校でヘアメイクを教えることもあるという。

「地方の専門学校で教えたりもしています。1年目の生徒は素直なのですが、2年目や3年目になると、なぜか自信が付き過ぎる傾向があります(笑)」

若さは武器であると同時に弱点にもなり得る。

「若い時は何でもやったほうがいいと思いますね。何でもやれる機会は若い時しかなかったりするので。人に教えてもらう機会も、その時しかないですから」

自身の経験からも、食わず嫌いの危険性を指摘する。

「最近は、「こういう仕事は興味ないんです」と最初から拒絶してしまう生徒が多い気がします。「芸能しかやりたくない」「ファッションしかやりたくない」という人が多いですね。ただ、遠回りに思えても、そこから自分のやりたい事に繋がることはいくらでもあるので、まずは何でもやってほしいと思います」

ヘアメイク業界

コロナウイルスの影響は、当然のことながらヘアメイク業界にも及んでいる。

「今後はどんどん予算が削減されていて、コロナの影響でさらに削減されていくと思いますね」

時代との変遷と共に、ヘアメイク業界も変わってきた。

「今は予算が少なくなっても、それでどうにかなっているのが現状です。もともと広告の媒体も、すべて作りこむのが良いという風潮から、リモートで撮ったものが広告になったりと、すごく気軽になってきています」

過去と同じやり方を続けていては厳しいという点においては、ヘアメイク業界も決して例外ではない。変化に対応する柔軟さが求められている。

「こんな時代だからこそ、何かに特化して見せていったり、もっとフットワークを軽くやった方がいいかなと思っています」

未来

ヘアメイク業界を牽引する一人として、業界の今後を的確に予測する。

「バブル期の頃は、枠が狭くてたくさん仕事がありました。そのあとは、反対に枠が広がり仕事が少なくなりました。なので、今後は一回淘汰されると思います。淘汰された後に残るヘアメイクアーティストは、独特な人だと思います。自分の世界観を何か一つ持っていて、これなら誰にも負けないという人ですね」

現在のTERACHIの活動は、国内にとどまらず海外にも広がっている。

「海外講習は普通のことを教えるということより、様々な材料を集めて研究して発表する、いわゆる学会発表のような感覚です。そのために、色々なもので実験を続けています。ヘアメイクの材料など一切触らないで、2ヶ月くらい研究することもあります」

時代がどんなに変わっても、TERACHIの挑戦し続ける姿勢が変わることはない。

「新しいものを見つけるためには、すでに今あることをしていたのでは始まりません。その延長線上で、調べたものや手にした素材を使って、まだ誰も見たこともない新しいビジュアルを打ち出していきたいですね」

テレビ、映画、ファッションからアイドルまで。さらには海外での講習と、様々な分野で活躍するヘアメイクアーティストTERACHI。これまであまり語られることのなかった、ヘアメイクアーティストTERACHIのこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業し、実家から札幌の専門学校に通う生活が始まった。

「当時、ビューティービジネス科は新設されたばかりだったので、カリキュラムがまだ固まっていない状態でした。なので、1学期の途中から「今日は何の授業をしようか?」みたいな感じでした」

現状を打破するため、TERACHIは持ち前のバイタリティーを発揮し自分でやりたいことを見つけていた。

「その時に自分が持っていたクラブの人脈などを使って、友達とファッションショーを立ち上げたり、フリーペーパーを作ったりとか、自分で野外活動をしていました」

専門学校に通いながら、クラブで月に数回ダンスを踊るなど、様々な活動をしていた。

「専門学校の2年目の時に、写真館にヘアメイクとしてインターンに行きました。なので、専門学校の2年生の時はほとんど学校に行ってないですね」

写真館

写真館でのインターンは、TERACHIにとってヘアメイクの技術を磨く格好の練習場所だった。

「写真館の鍵を持っていたので、夜中に開けて作品撮りしたりとかしていました。スタジオなのでストロボも使い放題で、使い方を教えてもらって全て自分でやっていましたね」

写真館でのインターンで試行錯誤しながらも、自分の腕を磨いた。

「今思うと稚拙で恥ずかしいですが、写真集のようなものを作っていました」

専門学校を卒業したTERACHIは、インターンとして働いていた写真館にそのまま就職した。

「もともと東京に行こうと思っていました。なので、とりあえず2年間働いて東京に行くためのお金を貯めようと思って、その写真館に就職しました」

東京

東京に行くための資金も貯まり、ついに念願の東京に来ることができた。しかし、特に仕事が決まっていたわけでもなかった。

「当時は友達とルームシェアしながら、狛江に住んでいました。最初は特に仕事のあてがあるわけでもありませんでした」

東京に出てくる前に、TERACHIは札幌で美容メーカーの外部講師をしていたことがあった。その人脈が、後に自身の助けになった。

「札幌の仕事の繋がりで、東京でも仕事を紹介してくれることになりました。美容メーカーの東京支社を紹介してもらい、そこからシャンプーマッサージとかの講師をしていました」

専門学校でトータルビューティーを学んでいたこともあり、TERACHIはメイク以外の技術も有していた。

「そこから仲良くなったオーナーさんから、さらに「メイクやヘアセットも教えてくれ」という話になってどんどん広がっていきました」

講師の仕事を続ける傍ら、ヘアメイクアーティストとしての活動も本格的に開始した。

「当然ですが、最初は誰も私のことを知らないので、ヘアメイクができるということを周囲に告知する必要がありました。そこで、当時のSNSを利用して自主制作映画とかのメイクにバンバン顔を出して、そこで無料でやっていましたね」

自分を売り込む作戦は、やがて功を奏してきた。

「そこのスタッフが制作会社や、テレビ局の制作スタッフだったりしたので、そのまま引っ張られて仕事が入ってくるようになりました。今でもお世話になっています」

続く