TOMO〜カラーの魔術師 Vol.2〜
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
社会人
美容専門学校を卒業したTOMOは、原宿のカラーに定評があったサロンに就職した。
「東京が一番ハデ髪多いので、それなら東京に行こうと思い、カラーで有名なサロンに入社しました。ホットペッパーで月に新規の顧客を200名ぐらい集めるお店でした」
ついに、東京での社会人生活が始まった。
「東京は人が多くて大変でした。高崎はそんなに人いないので(笑)」
赤羽から、毎日電車で原宿のサロンに通っていた。
「赤羽にした理由は特にないんですが、原宿まで近くも遠くもなく、家賃も高くないのでという感じです」
社会人としての一歩を踏み出したTOMOであったが、よくありがちな社会人としての洗礼を浴びることは特になかった。
「高3から美容室でアルバイトしてきたこともあり、最初からスタイリストとして雇ってもらいました。もともとTwitterが強くてそれで集客できたので、特に大変というか厳しいことはなかったですね」
転機
入社してすぐに入客し、新卒にも関わらず即戦力として働いた。
「当時は100万ぐらいの売り上げで、給料が27万円程でした」
順調に社会人一年目を過ごしていたTOMOだったが、その後に驚くべき行動に出る。なんと、入社3ヶ月目に退社してしまったのだ。
そのお店にフリーランスで働いている人がいて、「フリーランスいいな」と影響を受けて退社しました(笑)。そこからフリーランスの美容師になりました」
退社してしばらくの間、フリーランスの美容師として同じサロンで働いた。
「お金というよりも、自由になりたかったというのが退社の理由ですね。そのサロンのオーナーが良い人で、フリーランスとしてしばらくそこで働かせてもらっていました」
出会い
フリーランスの美容師として働いていたTOMOだったが、そこからある出会いをきっかけにまた動き出した。
「その頃に、インスタで「一緒にやらないか?」と声をかけていただいたのが琉さん(京極琉 氏)で・・・、今に至るという感じです」
京極琉と合流したTOMOは、これまで一緒にサロンを作り上げてきた。
「今のところすべて順調ですね。うまくいきすぎて怖いくらいです」
カラーに特化したその技術は、日々磨きをかけて今やTOMOの代名詞になっている。
「カラーとブリーチの両方をするWカラーのお客さんしかいません(笑)。普通のカラーだけのお客さんはいないですし、カットのみのお客さんもいませんね」
Wカラーをするサロンは数多あれど、TOMOのそれは「再現性」において他とは一線を画している。
「ドンピシャの色を出せる人はあまりいないと思うので、そこは自信を持っています。2次元キャラの画像を持ってきてもらっても、完全コピーする自信があります」
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
野球少年
出身は群馬県の渋川市。野球とゲームに熱中する少年だった。現在のTOMOの華奢な見た目からは想像できないが、小学生の時から地元の少年野球チームに入っていた。
「野球ではピッチャーをやっていました。野球を始めたきっかけは特になくて、たまたま始めたという感じですね」
何気なく始めた野球だったが、その実力は折り紙付きで、群馬県選抜のエースに抜擢されるほどだった。
「少年野球のチームはすごく強かったので、かなり本気でやっていました(笑)」
地元の中学校に入学後も、野球部に入部してそのまま野球を続けた。
「少年野球のメンバーがそのまま同じ中学の野球部に入部したので、チームもすごく強かったですね」
中学校時代も、ただひたすら野球に打ち込んだ。その甲斐もあり、チームは様々な大会で優勝した。
「中学生の時は野球ばかりで、ほとんど遊ばなかったですね。勉強も大嫌いだったので、全然しませんでした(笑)」
バンド活動
中学校を卒業したTOMOは、地元の高校に入学した。しかし、野球部には入らなかった。
「高校の野球部が坊主でなければダメだったので、それが嫌で野球部には入りませんでした」
中学校の野球部は、坊主である必要はなかった。それゆえ、高校になって坊主にしなければならないというルールを受け入れることはできなかった。
「周りからは高校でも野球を続けるように説得されたのですが、どうしてもできませんでしたね」
高校では野球をやめた代わりに、 仲間とバンドを始めた。
「当時はギター弾きながら、ボーカルもやってました。「けいおん!」というアニメが流行っていたので、それに憧れて始めたという感じですね」
野球漬けだったストイックな生活とは打って変わって、いわゆる青春を謳歌した高校時代だった。
「あの頃はバンドメンバーや女の子と遊んだりと・・・、勉強はほとんどせずに、ひたすら遊んでいましたね」
美容専門学校
高校を卒業したTOMOは、群馬にある高崎ビューティーモード専門学校に入学した。美容師を目指した理由は単純なものだった。
「美容師モテるかなと思って・・・(笑)。高3から美容室でアルバイトしていたというのもありましたね」
専門学校に入学したTOMOは、親元を離れて一人暮らしを開始した。
「学校が高崎駅から近かったので、高崎で一人暮らしを始めました。どうしても一人暮らしをしたかったので・・・。群馬だと家賃も安いですし」
高崎で一人暮らしをしながらの、美容専門学生生活が始まった。
「美容の勉強は楽しいなと感じて、専門学校には真面目に通いました。高校時代とは大違いでしたね」
昼間は学校に通い、それ以外の時間は美容室でアルバイトをしていた。
「高3から美容室でアルバイトをしていたのですが、仕事の後に先輩にカットを見てもらったりとかしていました。カラーだけは独学で勉強しましたね」
今でこそTOMOといえばカラーのイメージが定着しているが、そのきっかけはアニメだった。
「当時、アニメキャラの髪色にしたかったのですが、先輩とかもなかなかやってくれませんでした。それなら自分でやろうと思い、独学で勉強して自分でやっていました」
美容専門学校を卒業したTOMOは、満を辞して東京に出る決心をした。
売り上げ1位
新卒で入社後1年足らずでカラーリストになり、そこからは無我夢中で走り抜けた。スタイリストになってからも、売り上げは全店で1位だった。
「当時は引っ越すお金がなかったので、専門学生時代から住んでいた浦和から通っていました。お金を稼ぐ必要があったので、100万売り上げたら引っ越せると思っていたのですが、それでは出来なくて、200万になったら引っ越すことが出来ました。200万売り上げるメンタルが身についたのは、大きかったですね」
当時まだ3年目の中村がそこまで結果を出せた理由は、何だったのか?。そこには、いくつかの要因があった。
「美容師の中でも自分の提案を押し通すタイプと、お客様の希望を叶えるタイプがあるかと思いますが、自分は後者ですね。本当にお客様のことが好きなんです」
徹底的なお客様至上主義。それは今なお続いている。また、インスタグラムに早い時期から目を付けて、自分なりに運用していた。
「当時はホットペッパーでの集客が主流でしたが、おしゃれな人はみんなインスタをしていました。最初は自分も他の美容師の真似事でインスタをやっていましたが、フォロワーが増えてくると楽しくなってきて、色々考えながら投稿するようになりました」
中村のインスタを見るとその写真の迫力に目を奪われる。写真は独学で勉強した。
「黄金比や菱形など、色々意識はしています。写真の感覚は、色々な人の参考になりそうな画像を見ながら意識して磨いていますね」
独立前夜
飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進していた中村だったが、当時はある悩みを抱えていた。
「あの頃の自分は、売り上げは1位でもお気に入りの後輩しか付いてこないようなスタイリストでした。オーナーからは、「それでは役職を与えらえれない」と常々言われていました。そこから組織のマネジメントを意識して、その能力を身に付けるまでには時間がかかりましたね」
マネジメント能力が身に付いたとき、さらなる悩みが中村を襲った。
「自分はALIVEに骨を埋める覚悟でやっていたのですが、オーナーは「いつかは独立しろ」というタイプでした。ちょうど自分も結婚したし、お店の本を出版したりオンラインセミナーをしたりして、業界的に認知されてきた感覚があったので、自分の箱を持った方がいいと思い独立を考えました」
当初はALIVEのフランチャイズでの独立を勧められたが、大宮という街が今後必ずくるという確信があったため、完全独立の道を選択した。25歳の秋だった。
貯金していた自己資金と融資をもとに、大宮に新店舗「REDEAL」をオープンさせた。25歳の秋だった。
未来
昨年度オープンした「REDEAL」は、今のところ順調に成長している。マネジメントもうまくできているようだ。
「以前のお店では、自分も悪いところを直して変わってきたという経験上、他の人の悪いところも変えようとしました。しかし、結局できませんでした。そこから、人のいいところを伸ばし、悪いところは個性として認めるようにしたところ、全てがうまく回り始めました。今のお店では、それぞれの個性の凸凹がいい感じにマッチして平らになっています」
現在は、課題である組織作りに着手している最中である。
「今のスタッフ数は4名なのですが、少人数でやる気のあるメンバーだからうまくいっているとも言えます。その代わり、休憩を取らせてあげられない日もあるので、組織としての体制を整えるために、まずは人を増やしたいですね」
中村自身もこの先やりたいことが目白押しであり、その歩みを止めることはない。
「今はがむしゃらに1を10にする勢いでやっています。早咲きした子役で終わりたくないというか、技術派として業界の中で地に足付けてやっていきたいですね」
中村が日本の美容業界を牽引する「Xデー」は、そう遠くないはずだ。
読者モデル
アルバイトをしながらも、専門学校には真面目に通っていた。
「自分は、やりたいこととやりたくないことが極端というか、やりたくない授業の時は寝てしまったこともありました(笑)。その代わり、ワインディングなどは自宅でも練習していましたね」
ワインディングの技術を競う校内コンテストでは、男子の中で1番だった。
「やりたいことは、寝る間を惜しんでもやるタイプなんです。それは今も変わらないですね」
当時は読者モデルブームということもあり、雑誌に掲載されるために原宿や表参道に頻繁に通っていた。
「あの頃は雑誌の「CHOKI CHOKI」に掲載されることがステータスだったので、表参道を10往復ぐらいしていましたね。その後、撮影に呼ばれるようになったのですが、そのタイミングで廃刊になってしまって・・・。それは苦い思い出ですね(笑)」
「CHOKI CHOKI」以外にも、中村はいくつかの雑誌に実際に掲載された。
「あの頃は、様々なファッション雑誌に「1日でどれだけ撮られるか?」というのを試行錯誤していましたね。いかに撮られるかを戦略的に考えてやっていたのですが、それである程度雑誌に載ることができたことは、後の自分の美容人生の役に立ってる気がしますね」
就職
やがて就職活動の時期に差し掛かった中村だったが、そこで試練が待ち受けていた。行きたかった美容室に、立て続けに落ちてしまったのだ。
「就職希望の美容室に行けなくて路頭に迷っていたのですが、何となく行った就活フェアに「ALIVE」が出展していました。そこで、表参道にある美容室なのに2年でデビューできると聞いて、それならば「早くデビューして中途入社で有名店に行こう」と思って入社試験を受けて、入社しました。最悪の考えですが(笑)」
紆余曲折はあったが、中村は「ALIVE」で社会人としての第一歩を踏み出した。
「最初の頃は散々でしたね。サロンワークで物を落としたり、テンパったりするタイプだったので、そこで怒られてしょげた時期もありました」
社会人の洗礼を浴びた中村だったが、意外なところで活路を見出した。
「当時は良くも悪くも情報発信する人というか、オモハラ(表参道・原宿)っぽい美容師がいなかったんです。DMを送ってサロンモデルを呼んでいたのですが、有名なモデルにも声を掛けていたので、「1年目の美容師が何かやっている!」と業界内で少し話題になりました」
起死回生
1年目でSNSのフォロワーも1万人を超えた。勢いに乗った中村は、オーナーに直談判して入社1年後にカラーリストとしてデビューした。
「カラーやトリートメントだけで、その年の7月に70万、11月に100万、3月に200万を売り上げました。業界で最速だったと思います」
その噂は瞬く間に広がり、中村の元にセミナーの依頼が多数舞い込むようになった。23歳で開催した銀座SIXでのセミナーには、100人が集まった。業界3年目で100名集まるのは、異例のことだった。
「セミナーの講師をするようになって、技術の大切さを知りましたね。インスタは見せ方ですが、伝える側になると見せるだけではダメで、しっかりとした技術が必要になりますから」
次へのステップのつもりで入社した「ALIVE」だったが、その気持ちは徐々に変わっていった。
「スタッフの人柄が好きになり、「ALIVE」を有名店にしようという思考に変わっていきましたね」
続く
スポーツ少年
出身は埼玉県深谷市。会社員の両親のもとに育った。
「兄弟は、弟と妹がいます。妹は鍼灸師、弟は青山で料理の修行をしています」
小学校時代は、スポーツ少年だった。
「小学生の時は、マラソンと水泳をやっていました。校内持久走大会で4番だったので、1番になりたいということで、父が自転車で並走して夜な夜な走っていましたね。それでも2番でしたが(笑)」
中学校では、陸上部ではなくてテニス部に入部した。
「小学生の時にマラソンで市の記録を作ることができたので、それで満足して「もう陸上はいいや」となりました。テニスの王子様を観てたというのもあり、テニス部に入部した感じですね」
なんとなく始めたテニスだったが、持ち前の運動神経を発揮して県大会に出場するまでに至った。部活動だけでなく、勉強にも力を入れた。
「予習と復習は必ずやっていました。当時は化学図鑑とか見るのが好きだったので、科学者になりたくて・・・。中学校を卒業したら、東京の高専(高等専門学校)に行きたいと思っていました」
アルバイト三昧
高専に合格するための努力を重ねた中村だったが、受験に失敗して地元の公立高校に進学した。
高校に入学した中村は、部活には入らずにただひたすらアルバイトに没頭した。
「当時は高校生の王道かもですが、バイトか彼女でした。極端な二択の生活をしてましたね(笑)」
やがて進路を決める時期に差し掛かり、中村は専門学校に入学する決意をした。
「中途半端に大学行くなら手に職かなと思い、専門学校に行くことにしました。絵を描くのが好きでしたし、コンビニでのアルバイトで接客業にはまったこともあり、美容師になろうと思いました」
美容師になる決心をした最後の決め手は、彼女ができた事だった。
「高校生になって、彼女を作るためにまずは身なりを整えようと思って美容室に行ったのですが、実際にそれで彼女ができました。それで、「美容師ってすごいな」と思いましたね」
専門学校
高校を卒業した中村は、埼玉県理容美容専門学校に入学した。
「公立で授業料が安かったのと、ロンドンやパリでの研修旅行もあったので、埼玉県理容美容専門学校に決めました。他の私立の学校も行きたかったのですが、授業料が高すぎて無理でした(笑)」
専門学校に入学したタイミングで、一人暮らしも始めた。
「父親も、自立しなさいというスタンスだったので、家賃も全部自分で払ってましたね。高校からアルバイトなどしていたので、その部分の苦労はなかったです」
高校時代からの「すき家」でのアルバイトは、専門学生時代も続けていた。
「飲食のバイトは賄いでご飯が食べられるので良かったですね。金土の夕方から朝までバイトしていました。週に2日間で3万円位稼げました。1ヶ月だと12万円位ですね」
続く
吉祥寺の人気サロン「Lila by afloat(レイラ バイ アフロート) 」の代表を務める傍ら、セミナー等で全国を飛び回る多忙な生活を送る中島直樹。その類稀な行動力の源泉とは?これまであまり語られてこなかった、美容師「中島直樹」の半生に迫る。(敬称略)
転機
この人の下で働きたいと思った中島は、すぐに履歴書を出した。すると、まさかの合格通知が届き入社することになった。
「その時はまだ美容免許なかったですから(笑)。なぜ受かったのか分かりませんが、数ある応募の中で、自分の履歴書が一番最初に届いたみたいです」
「Z SALON」で約2年働いたのち、中島は表参道の美容室に移った。そこで思わぬ事態が中島を襲った。
「骨髄にウィルスが入る髄膜炎という病気になってしまいました。本来なら入院しなければならなかったのですが、お客様もいたので仕事を続けていたのですが、だんだんしんどくなって、結局退社しました」
健康問題で退社せざるを得なくなった中島だったが、体調も回復して周囲に相談し、現在の会社に入社した。
「まだ自由が丘に「ALICe by afloat」がオープンして半年の頃に紹介してもらいました。31〜32歳の時でしたね。今までやってこなかった作品撮りとか、撮影する技術はここで学びました」
代表
程なくして、「ALICe by afloat」の店長になった。その後、吉祥寺にある「Lila by afloat」の代表に就任した。
「代表になった理由としては、自分が一番結果を出していたというのもそうですが、セミナーなど外部の仕事が一番多かったというのもあると思います」
代表の座を目指して特に意識してきたことはないが、常に心掛けてきた事はある。
「重要なのは行動力だけだと思っています。行動しないと始まらないですから。これは昔から変わらないですね」
中島の人並外れた行動力は、高校時代の挫折により培われた。
「高校時代に硬式野球部に入らなかったのですが、「硬式野球をやればよかった」といまだに後悔しています。やって失敗するならいいんですが、やらないで失敗するのが一番悔しい事なんですよね。なので、とりあえず行動しようというのをそこで学びました。やるかやらないか迷ったら、やる方をチョイスするようにしています」
失敗を恐れない
代表になりマネジメントをする立場になったことで、中島の役割も以前とは変わってきた。若い美容師には、とにかく行動することの大切さを説いている。
「今の若い子は失敗を恐れる事が多い気がします。失敗例をたくさん収集して、なるべく失敗しない方法で動くというか・・・。しかし、失敗から学ぶことの方が人生では多いですし、リスクは少ない方がいいですが、それ以上に失敗を恐れないで行動する事が大切だと思いますね」
美容師である以上、常に行動して新しい情報をキャッチアップする必要があると中島は考えている。
「美容師とは、常にアップデートしなければならない職業だと思います。常に最新を追いつつ、かつ古いものも大切にしなければならない。それができる人ではないと、頭が古臭くなって古い美容師になってしまいます。新旧両方の情報を兼ね備えた、頭の柔軟な人間でなければなりません。好き嫌いなく、流行っているものは見なくてはならないと思います」
失敗を恐れずに常に行動を重ねてきたからこそ今がある。失敗の数は数えきれない。
「大人になって何か新しいことをやろうとしたら、10やっても1しか成功しないと思います。なので、とにかく行動すべきです」
自身が思い描くこれからのビジョンも、ある程度は絞られてきた。
「今の自分の立場だと、独立するか店に残るかの二択になると思います。自分としては半々ですね。世の中の状況が10年前とは異なるので、独立して成功する人は少なくなってきています。そのリスクを背負うのか、自分がやりたい美容をやり続けるのか・・・。自分がやりたい美容がどこなのかを今探している最中ですね。歳を重ねて、どういう美容師にならなければいけないのか、自分自身と向き合ってます」
中島の挑戦は終わらない。
完
吉祥寺の人気サロン「Lila by afloat(レイラ バイ アフロート) 」の代表を務める傍ら、セミナー等で全国を飛び回る多忙な生活を送る中島直樹。その類稀な行動力の源泉とは?これまであまり語られてこなかった、美容師「中島直樹」の半生に迫る。(敬称略)
就職
中島は軟式野球部だったので、硬式野球部と異なり髪の毛を伸ばすことが許可されていた。
「当時は流行っていたので、ツーブロックにしていましたね」
やがて進路を決める時期に差し掛かった。野球の道を諦めていた中島は、就職して働くことしか考えていなかった。
「ちょうど高3の時にカリスマ美容師ブームがやってきました。当然周りは美容師を目指す人が多かったのですね。自分は流行りが好きなのに天邪鬼な性格で、それには乗りたくないということで就職しました」
高校を卒業した中島は、鹿児島の石川島播磨重工に入社した。しかし、最初の研修で悪夢に襲われた。
「ファッションが好きなのに、実際にやっている作業はファッションとは全く違うので、最初の研修の時からもう無理だと思いました(笑)。会社が大きいので、入社した際に親は喜んでくれたましたが、自分がやりたい事とは明らかに違うと感じました」
東京
今すぐにでも会社を辞めたいと思った中島だったが、当時はまだ未成年であったため、退社するには親の承諾のサインが必要だった。
「自分は4月が誕生日なので、4月で20歳になったら辞めようと思っていました。なので、4月の自分の誕生日に退社しました。それだと親のサインも要らないので・・・」
会社を退社して晴れて自由の身になった中島は、念願の上京を果たした。東京に来た時には、ほんのわずかな貯金しかなかった。
「本当にお金がなかったので、歌舞伎町のお花屋さんと原宿のカフェでアルバイトしていました」
親からの仕送りもなかったので、掛け持ちでアルバイトをするしかなかった。
「バイトしてたカフェが原宿だったので、周りは美容師だらけでした。当時有名だった美容師さんがお茶しに来たりとかしていましたね。imaiやDADA、TAYAとかの美容師さんがお店に来て、それを見てかっこいいなと思っていました」
美容師
そんな環境でバイトをしているうちに、中島の美容師に対する憧れは徐々に強くなっていった。そして、21歳の時に住田美容専門学校の通信課程に入学した。同時に、働ける美容室を探し始めた。
「当時は美容室に入らないと学校に通うスクーリングの時間が長くなるので、それが嫌で美容室に入ろうと思いました。原宿にあった有名な美容室を全て回って、履歴書を出しました」
原宿の美容室を30〜40社受けたが、どこにも採用されなかった。
「当時は美容免許の問題が世間を騒がしていた時期だったので、美容免許が無いと書類で落とされるような状況でした。なので、原宿は諦めて千歳烏山にある個人店に入社しました」
千歳烏山のサロンで2年間働いた後に、下北沢のサロンに移った。
「リクエストQJの最初のページに美容師さん紹介の記事があり、そこにニッカポッカ履いてスウェット着てインタビュー受けてる人がいて。今では珍しく無いですが、当時アンティークの椅子や家具などを使用した美容室は見た事なかったので驚きました。RITZから独立された佐藤典和さんが作った、「Z SALON」という美容室でした」
続く
吉祥寺の人気サロン「Lila by afloat(レイラ バイ アフロート) 」の代表を務める傍ら、セミナー等で全国を飛び回る多忙な生活を送る中島直樹。その類稀な行動力の源泉とは?これまであまり語られてこなかった、美容師「中島直樹」の半生に迫る。(敬称略)
鹿児島で生まれて
出身は鹿児島県鹿児島市。二人の兄の影響で、小学生の時はソフトボールに熱中していた。
「ポジションはキャッチャーでした。チームの成績で言えば、中の上という感じでしたね」
ソフトボールの他に、書道や水泳も習っていた。
「本当に習い事ばかりしていて、友達と遊んだという記憶があまりないですね」
当時の中島の周りには、様々な職業の大人達がいた。
「両親はサラリーマンだったのですが、親戚が多くて、その中に鹿児島で最初に美容師になったおじさんがいたりして。周りには職人というか、クリエイターの様な人が多かったですね」
野球とファッション
地元の中学校に入学した中島は、野球部に入部した。
「ポジションはソフトボール時代と変わらずキャッチャーでした。チームの成績は相変わらず中の上でしたね(笑)。勉強が嫌いだったので、ずっと野球をしていました。中学生までは本当にプロ野球選手になれると思っていたので・・・」
美容師という職業を意識し始めたのも、中学生の頃だった。
「野球部の仲良い友達のお姉さんが雑誌のオリーブを読んでいたのですが、そこに「イケてる美容師さん」の特集が載ってて、「なんか美容師いいな〜」と思っていました。美容師ブームの前ですね」
ファッションに興味を持ち始めたのも、この頃だった。
「当時はまだ原宿系とかではなく、古着とかヴィンテージ、タイトなTシャツとかが流行っている時期でした。中学生の時は、野球とファッションしか興味がなかったですね。」
軟式野球と挫折
中学を卒業した中島は、野球の強豪校で名の知れていた鹿児島商業に入学した。
「自分は体が小さくて170センチしかないので、野球は挫折の連続でした。体が大きい人間に勝てるわけがないと思い、硬式ではなくて軟式野球部に入部しました」
硬式ではなく軟式に進んだ事が、後に中島を苦しめた。それでも本来の実力を発揮して、高校1年の時からレギュラーになるほどの実力だった。
「軟式と硬式のチームがある場合には、怪我した選手が硬式から軟式に来る場合が多かったですね。成績は県大会で1位になったりと、良かったです」
県大会で優勝しても、プロ野球選手になることは遠い夢の様に感じていた。しかし、当時の中島のもとには社会人野球チームからのスカウトも舞い込んできていた。
「今の社会人野球のシステムとは違い、当時は会社に所属して働きながら野球をするという感じで、あまり華やかではないイメージでした」
結局、社会人野球チームからの誘いは断った。
続く
出張で訪れたスリランカでのアーユルヴェーダとの出会いから、東京・代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」を立ち上げた唐澤由記。美容師として活動していた唐澤が転身を遂げた理由とは?波乱に満ちたその軌跡に迫る。(敬称略)
スリランカ
日本に帰国した唐澤は、すぐさま行動に移した。
「まずはスリランカのことを色々調べました。偶然にも地元の長野県にスリランカ料理店があったので、そこを訪ねて自分のスリランカへの想いを話したところ、色々とアドバイスをもらうことができました」
スリランカ料理店で教えてもらった情報をもとに、唐澤は代々木公園で開催するスリランカフェスティバルに行った。イベントに携わっている、スリランカ協会の担当者に会うためだった。
「イベント当日に代々木公園に行って出会ったのが、偶然にもまさに今のサロンの現地オーナーでした。「なんでスリランカに行きたいの?」から始まって、そこでスリランカへの熱い想いを語りました」
スリランカでのセラピーの仕事を探していた唐澤は、そこで仕事の紹介を依頼した。
「セラピストになりたかったので、現地でのセラピストの仕事を紹介してもらおうと思っていました。しかし、「現地の給料は2〜3万円だし、今まで10年以上やってきたキャリアもあるのだから、日本で学びながらできることをしたほうがいいよ」とアドバイスをもらい、改めて冷静に考え直しました」
自分の目標を叶えるため、唐澤は次なる行動に出た。
Karunakarala
唐澤は再度スリランカに渡った。
「現地の生活を知るためにホームステイをしました。アーユルヴェーダを学ぶというよりは、どう根付いているかを日々の生活を通じて見させてもらったという感じです」
ホームステイをしながら、アーユルヴェーダのスクールにも通った。
「そこは個人でやっているスクールで、アーユルヴェーダのベーシックを学びました」
その後何度かスリランカに行き、現地のドクターからも学ぶなどしてアーユルヴェーダの知識を深めていった。そして、スリランカに初めて行ってから2年後、ついに代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」をオープンさせた。
「リラクゼーション業界のことを何も知らないまま始めたので大変でした。現地でドクター経験のあるスリランカ人を、アーユルヴェーダアドバイザーとして雇っていました」
当初はスリラン人ドクターのアドバイスのもと、唐澤がセラピストとしてセラピーをするという形を取っていた。しかし、文化の違いから生活習慣のアドバイスなど、日本人に受け入れられない事も多かった。
「現地のドクターは階級が高いので、遅刻をしたり、掃除をしないとか、そういうことが大変でした。日本の文化を理解してもらえないことが多かったです」
未来
Karunakaralaに一度でも来た人は、その本場の雰囲気に圧倒される。
「材料には徹底的にこだわっているので、現地と同じようなオイルを揃えています。雰囲気だけでなく、大前提である治癒力を上げるという点に特化しています」
自分がアーユルヴェーダに救われたからこそ、自分と同じように困っている人を救いたいという気持ちは人一倍強い。
「今思うと、美容師をしていた頃は自分を痛めつけていて、精神的にもボロボロでした。生活も不規則で、コントロールの仕方も分からず気合だけで頑張っていたので、精神的にも負荷がかかっていました」
自身の経験をもとに、アーユルヴェーダのさらなる普及に全力を傾けている。
「東京で働いている女性は、社会のリズムによりバランスを崩している人が多いと思います。サロンに通わなくてもできることがたくさんあるので、アーユルヴェーダのシンプルな考え方が広まる活動をこれからもしていきたいですね」
類稀なる行動力で道を切り拓いてきた唐澤の旅は、まだ始まったばかりである。
完