松本光樹〜ゲームチェンジャー Vol.3〜
スタイリスト
入社直前に自ら内定を取り消して、土壇場で新天地となる大船FACEに入社した松本は、異例の速さでスタイリストデビューを果たした。
「とにかく早くデビューしたいので、先輩に目標期限を先に伝えて、そこまでのカリキュラムを逆算して組んでもらいました。一気にやりましたね」
周囲の助けも得て、最速でスタイリストになる事ができた。
「当時、付きっ切りで練習を見てくれる先輩がいたので環境には恵まれてましたね。その先輩の時間を全て奪ってしまいましたが(笑)」
考えるより先にまず行動に移す、これが松本のポリシーである。
「とにかく実行するのみというか。PDCAサイクル(※ Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)を繰り返すことによって、業務を継続的に改善していく手法のこと)というのがありますが、その全ての流れが自分にとっては遅いと思っていて・・・。自分はDO(実行)あるのみです。DODODODOという感じです」
美容業界
業界を愛しているからこそ、現在の美容業界が直面している現実に歯痒さを感じている。
「業界自体が遅れていると思いますね。情報が間に合っていないというのは常々思っています。産業革命時代からの、労働力で何とかするという流れがはびこっている時点でダメだと思います」
かつては、美容師がトレンドをリードする時代があった。しかし、時代の流れと共にそれは変化していった。
「この情報化社会でテレビやYouTubeも観ない、YouTubeが主流になるという事も知らない美容師が多過ぎると思います。美容師が一番トレンドを知らなければならないのに、それができてないと思いますね」
このようなミスマッチは、何も現役の美容師に限ったことではない。
「美容専門学校も同じだと思います。いわゆる国家試験カットはサロンで全くやらないのに、2年間をそれに全て費やすのは無駄だと思います。平均のスタイリストデビューは3年と言われてますので、トータル5年がもったいなと思いますね」
その5年を無駄にしないために、松本はひたすら行動し続けた。
「そんなことしている間に次の時代が来て、また色々と変わります。いかに早く行動出来るかが大切だと思いますね」
未来
自分の理想を追い求め、それを叶えるためにひたすら行動を起こし道を切り拓いてきた。その姿勢はこれからも変わらない。
「自分は今年24歳になるのですが、25歳までに自分の動きを変えないと何も変わらないとは思っています。25歳までにはひとつアクションを起こしたいなとは思っています。まだ言えないですが、自分自身では色々と考えているので楽しみにしています」
美容師としての松本の歩みは、とどまる事を知らない。それどころか、むしろ加速している。
「美容師とはサービス業だと思っています。美容師が特別とかではなくで、様々な職業の中の、美容師という名のひとつのサービス業です。ですので、サービス業に関わる仕事をしている人のアドバイスは全て美容師の役に立つし、美容師の言葉は全て他のサービス業にも役立つと思います。全部繋がっていると思いますね」
松本が最高のサービスを提供する美容師として日本中にその名を馳せる日は、そう遠くないはずだ。今後の活躍から目を離せそうにない。
完
全国制覇
美容師になることに決めた松本は、高校を卒業して六本木にあるハリウッド美容専門学校に入学した。
「自分が良ければ学校はどこでもいいと思っていました。当時の一つ上の学年にすごく美人の先輩がいたのですが、その先輩がハリウッド美容専門学校に行ったので、自分もそこに行きました。別にその先輩とそこまで関わりがあったわけではないですが(笑)」
専門学校には真面目に通った。
「無遅刻無欠席でした。アルバイトも温野菜で週6でやっていて、いつの間にかバイトリーダーになってました」
専門学生時代、松本は全国美容甲子園のワインディング部門で全国優勝をするという偉業を達成した。
「当時は特に興味もなくて、大会に出るつもりもありませんでした。ハリウッドでは、最初のテストから全学年の順位が出るのですが、自分が絶対に1位だと思っていたら2位でした。自分は兄に比べれば不器用ですが、世の中的には器用な方でした。なので、専門学校に入学しても最初から色々出来たので、2位というのはショックでした」
1位だと確信していた最初のテストでまさかの2位だったことが、生来の負けず嫌いの性格に火を付けた。
「その当時1位だった子に負けたくないと思ってやってたら、いつの間にか全国1位になっていました」
当然のことながら、全国優勝までの道のりは決して平坦なものではなかった。
「当時は週6でアルバイトをしていたので、他の生徒と練習量で圧倒的な差がありました。しかし、その差があるから戦うのをやめるのではなく、限られた時間で何ができるのかを頭をフル回転させて考えました。全て計算してやって結果が出たので、やってきた事が間違ってなかったと再確認できて、自信になりましたね」
内定辞退
季節は流れ、やがて就職先のサロンを決める時期に差し掛かった。
「当時は、2年生の9月ぐらいには原宿にある某有名サロンから内定をもらってました。しかし、入社直前の3月10日に内定を辞退する旨を自分から頼みました」
美容師なら誰もが一度は働きたいと思うような某有名サロンの内定を、松本は自ら取り消した。
「自分はそのサロンが作るデザインに惚れて行きたいと思ったのですが、もう一度初心に帰って色々と考えました。最大の理由は、そのサロンのデビューまでの規定が自分の考えと合わなかった事ですね」
内定が決まっていた某有名サロンは、事前に決められているスタイリストデビューまでの道のりが長かった。
「デビューまでが長いサロンと短いサロンを比較した時に、短いサロンのデメリットが自分には何も分かりませんでした。だったら、デビューまで早いサロンの方が良いと思いました」
悩んだ挙句に内定を辞退して、早くデビューできる他のサロンを探す事にした。
「3月10日なので学校も終わっていました。学校の先生に報告する前に、自分でサロンに電話して内定を辞退させていただきました。先生からは、「あなたなら何かすると思った」と言われましたが・・・(笑)」
社会人
土壇場で自ら内定を辞退した松本は、新たに就職先のサロンを探し始めた。すると、知り合いのスタイリストからうちで働かないか?と誘われた。それが、現在松本が働いているFACE大船だった。
「急遽決めたため、本当にバタバタでしたね。急いで神奈川県の大船に引っ越しました。入社2日前ぐらいに決めました」
紆余曲折あったが、いよいよ社会人としての新しい生活が始まった。
「いざ働いてみると、美容師のイメージが全然違いました。ただ、そこで「違うな」と思うだけでなく、その環境を自分で変えることに執着しました」
想像と現実のギャップは、自らの行動で埋めるしかなかった。
「自分が変える事が出来なければ、来年入社した子たちも同じ事になり、自分はその子たちにガッカリされてしまいますから」
自分を慕って入社する前途ある若者を、ガッカリさせたくはなかった。
「自分が大手の美容室に入ってすごいメリットだと感じたのはリクルートです。学生との繋がりです。自分に憧れて入ってくる人間がどれだけいるのかを試せる場があるのが、大手のメリットだと思います」
環境を変えるために行動することは、自分自身に対する挑戦でもあった。
「自分は、25歳までに全てを変えられなかったら人間終わりだと思っていて・・・。この場所を変えられる器があるのかどうかを測りたかったというのがありますね。ギャップはありましたが、やりがいはすごく感じていました」
続く
芸術家ファミリー
松本は東京の品川区出身。まさに都心のど真ん中で育った。
「小学生の頃からすごくマセガキでしたね。最近は大人から子供に逆になっていく感じです」
幼少期からあまりにマセていた反動が、最近押し寄せてきているようだ。
「大人になってくると、やりたいことをやりたいと言えなくなってくると思うのですが、自分の場合は逆ですね」
現在のそのような人格形成に大きく関わったのは、家族の存在だった。
「父親は他界してしまったのですが、チェロの奏者でした。母親はロックミュージシャンのボーカル兼ギターをしつつ、絵を描いたりもしていました。今考えると、常識人が一人もいなかったですね(笑)」
両親がクリエイターという、少し変わった環境で育った。
「親がずっと忙しかったので、兄と自分で何でもやっていくという感じでした。周りに気を使わせたくないというか、自分たちで全てやろうとする傾向がすごく強かったですね。小学生の頃も、みんなと遊んだりはするのですが常に冷めてました」
サッカー
松本は小学生の頃からサッカーに熱中していた。中学校に入学した後も、クラブチームに所属して続けた。
「小学生の頃から地元のクラブチームに所属していました。小学校の最後の大会で誘われたので、中学校でもクラブチームでサッカーを続けていました。ポジションはサイドバックやボランチでした。当時はずっとサッカーをしていましたね」
中学校を卒業した松本は、都立の高校に入学した。
「当時から将来について考えていて、この先もサッカーをやっていこうとは思えない自分がいました。自分の能力も知っていますし・・・。なので、クラブチームは辞めて高校のサッカー部に所属しました」
クラブチームで鍛えたその実力は、高校の部活ではひときわ際立った。松本は高校1年からチームのエースとして活躍していた。
「部活で試合に勝つことよりも、この組織をまとめられるかどうかとか、そういうところにすごく興味がありました。自分がどういう行動したら、みんなが影響されて自分に付いてくるかとかを計算してやるのが好きでしたね」
高校時代にサッカーと同じくらい熱中していたのが、アルバイトだった。
「最初はチェーン店の牛角で、その後はずっと温野菜でアルバイトをしていました。キッチンもホールも両方やっていました。もともと接客が好きというか、自分は人前で喋るために生まれてきたような人間なので(笑)」
気付いたときには、サッカーと同じくらいにアルバイトにも熱中していた。
「アルバイトは将来を想像しやすかったですね。何でもそうなのですが、今やっていることが将来に役立たないと思うと、やりたくないんです」
美容師
学校の勉強も、サッカーと同じくらい得意だった。
「勉強はどちらかと言うと興味がなかったですね。中学生の時に、勉強を本気でやってみようと思ったらあまりにも簡単で、テストもほぼ90点以上で成績もほとんどオール5でした。その時に思ったのは、学校の勉強は公務員になるための勉強だということです。そこから勉強に興味がなくなって、投資の勉強など始めてました(笑)」
将来の職業に関しては、特に希望はなかった。
「進路に関しては何も考えていなかったですね。大学には行かないと決めてたぐらいで・・・。公務員の勉強をしたいわけではないし、かと言ってそんなにやりたいことがあるわけでもないという感じでした」
両親と同じ音楽の道に進むことは考えていなかった。
「良い意味で自分は両親に才能を殺されたと思ってて(笑)。両親と兄の才能がすごくて、特に兄の芸術的才能が凄すぎて、そっちの道は考えもしなかったですね。自分は音楽に興味がなくて、絵も下手くそだったので・・・」
結果的に、松本は美容師になることにした。
「もともと人前に出るのも好きだし、美容師かっこいいなとは思っていました。進路希望提出書を渡された時に親にそのことを言うと、「美容師でいいじゃん」と言われたので、次の日に願書を提出しました(笑)」
続く
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
TOMO流SNSとの付き合い方
「僕がやっているSNSはTwitterとInstagramなんですが、二つとも属性が異なるというか、別物と考えています」
TOMOのSNSを見れば、その意味が分かるはずだ。
「Twitterはネタっぽく発信するとウケたりして、Instagramは逆に綺麗にまとめた方がウケがいいので、そこを心掛けてやっていますね」
従来の概念に拘らないのがTOMO流である。
「何だかんだで自撮りが一番伸びますね。そういう枠からお客さんを広げていってもいいのかなと思います。スタイルが全てではなくて・・・。フォロワーというよりは、自分を出してファンをつけるという感じですね」
ファンを作る
コロナウィルスの影響により日々変化する状況の中、美容学生はいま何をすべきなのか。
「まんべんなく勉強することももちろん大事ですが、カットやパーマ、カラーなど何でも良いので、自分ができる範囲で突き詰めていった方が将来的には役に立つと思います」
もしTOMOが現役の美容学生だっら、何をしているのか聞いてみた。
「自分はカラーしか分からないのですが、カラー剤の能力を毛束で染めて覚えるとか・・・。自分がいま美容学生だったなら、カラー剤とブリーチの勉強をひたすらしていると思いますね」
自分の「ファン」を作ることが、SNSを使用する上でのキーワードになっている。
「自分をしっかり押してくれるというか、ファンとして自分を見てくれるお客さんを捕まえられたら美容師として長生きできるのかなと思いますね。フォロワーというよりは、自分を出してファンをつけるという感じですね」
これから
美容業界も例外なく変革の必要性に迫られている。これからやってくるのはどのような世界で、どのように生き抜くべきなのか?
「あまり美容業界には興味ないんですが・・・(笑)。これからは集団よりも、個々の力が意味をなす時代になってくると思いますね。自分を発信していけた方が、今後の美容業界の流れに乗っていけるのかなと思います」
「個」の力が「集団」を凌駕する時代がやってきたのだ。
「それこそ、昔のカリスマ美容師は何でもできるというイメージだったと思うのですが、今のカリスマ美容師は一つのことに特化していますよね。お客さんが求めているものが、接客からクオリティに変わってきたと思います。そのクオリティを突き詰めている技術者が、いまは重宝されていると思います」
カラーのプロフェッショナルとして、さらなる高みを目指して日々精進する毎日。TOMO
の挑戦はまだ始まったばかりである。
「将来的な方向性として、特に大きい何かは考えてはいないのですが、ハイトーンはこのまま続けていき、琉さんとも一緒に何か面白いことできたらいいなと思いますね」
完
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
社会人
美容専門学校を卒業したTOMOは、原宿のカラーに定評があったサロンに就職した。
「東京が一番ハデ髪多いので、それなら東京に行こうと思い、カラーで有名なサロンに入社しました。ホットペッパーで月に新規の顧客を200名ぐらい集めるお店でした」
ついに、東京での社会人生活が始まった。
「東京は人が多くて大変でした。高崎はそんなに人いないので(笑)」
赤羽から、毎日電車で原宿のサロンに通っていた。
「赤羽にした理由は特にないんですが、原宿まで近くも遠くもなく、家賃も高くないのでという感じです」
社会人としての一歩を踏み出したTOMOであったが、よくありがちな社会人としての洗礼を浴びることは特になかった。
「高3から美容室でアルバイトしてきたこともあり、最初からスタイリストとして雇ってもらいました。もともとTwitterが強くてそれで集客できたので、特に大変というか厳しいことはなかったですね」
転機
入社してすぐに入客し、新卒にも関わらず即戦力として働いた。
「当時は100万ぐらいの売り上げで、給料が27万円程でした」
順調に社会人一年目を過ごしていたTOMOだったが、その後に驚くべき行動に出る。なんと、入社3ヶ月目に退社してしまったのだ。
そのお店にフリーランスで働いている人がいて、「フリーランスいいな」と影響を受けて退社しました(笑)。そこからフリーランスの美容師になりました」
退社してしばらくの間、フリーランスの美容師として同じサロンで働いた。
「お金というよりも、自由になりたかったというのが退社の理由ですね。そのサロンのオーナーが良い人で、フリーランスとしてしばらくそこで働かせてもらっていました」
出会い
フリーランスの美容師として働いていたTOMOだったが、そこからある出会いをきっかけにまた動き出した。
「その頃に、インスタで「一緒にやらないか?」と声をかけていただいたのが琉さん(京極琉 氏)で・・・、今に至るという感じです」
京極琉と合流したTOMOは、これまで一緒にサロンを作り上げてきた。
「今のところすべて順調ですね。うまくいきすぎて怖いくらいです」
カラーに特化したその技術は、日々磨きをかけて今やTOMOの代名詞になっている。
「カラーとブリーチの両方をするWカラーのお客さんしかいません(笑)。普通のカラーだけのお客さんはいないですし、カットのみのお客さんもいませんね」
Wカラーをするサロンは数多あれど、TOMOのそれは「再現性」において他とは一線を画している。
「ドンピシャの色を出せる人はあまりいないと思うので、そこは自信を持っています。2次元キャラの画像を持ってきてもらっても、完全コピーする自信があります」
アニメで見たあの憧れのヘアスタイルが、実際に手に入る。カラーとブリーチを用いたWカラーを駆使し、顧客のなりたい髪色を叶える美容師TOMO。そんな現代の魔法使いが歩んできたこれまでの軌跡が、いま明らかになる。(敬称略)
野球少年
出身は群馬県の渋川市。野球とゲームに熱中する少年だった。現在のTOMOの華奢な見た目からは想像できないが、小学生の時から地元の少年野球チームに入っていた。
「野球ではピッチャーをやっていました。野球を始めたきっかけは特になくて、たまたま始めたという感じですね」
何気なく始めた野球だったが、その実力は折り紙付きで、群馬県選抜のエースに抜擢されるほどだった。
「少年野球のチームはすごく強かったので、かなり本気でやっていました(笑)」
地元の中学校に入学後も、野球部に入部してそのまま野球を続けた。
「少年野球のメンバーがそのまま同じ中学の野球部に入部したので、チームもすごく強かったですね」
中学校時代も、ただひたすら野球に打ち込んだ。その甲斐もあり、チームは様々な大会で優勝した。
「中学生の時は野球ばかりで、ほとんど遊ばなかったですね。勉強も大嫌いだったので、全然しませんでした(笑)」
バンド活動
中学校を卒業したTOMOは、地元の高校に入学した。しかし、野球部には入らなかった。
「高校の野球部が坊主でなければダメだったので、それが嫌で野球部には入りませんでした」
中学校の野球部は、坊主である必要はなかった。それゆえ、高校になって坊主にしなければならないというルールを受け入れることはできなかった。
「周りからは高校でも野球を続けるように説得されたのですが、どうしてもできませんでしたね」
高校では野球をやめた代わりに、 仲間とバンドを始めた。
「当時はギター弾きながら、ボーカルもやってました。「けいおん!」というアニメが流行っていたので、それに憧れて始めたという感じですね」
野球漬けだったストイックな生活とは打って変わって、いわゆる青春を謳歌した高校時代だった。
「あの頃はバンドメンバーや女の子と遊んだりと・・・、勉強はほとんどせずに、ひたすら遊んでいましたね」
美容専門学校
高校を卒業したTOMOは、群馬にある高崎ビューティーモード専門学校に入学した。美容師を目指した理由は単純なものだった。
「美容師モテるかなと思って・・・(笑)。高3から美容室でアルバイトしていたというのもありましたね」
専門学校に入学したTOMOは、親元を離れて一人暮らしを開始した。
「学校が高崎駅から近かったので、高崎で一人暮らしを始めました。どうしても一人暮らしをしたかったので・・・。群馬だと家賃も安いですし」
高崎で一人暮らしをしながらの、美容専門学生生活が始まった。
「美容の勉強は楽しいなと感じて、専門学校には真面目に通いました。高校時代とは大違いでしたね」
昼間は学校に通い、それ以外の時間は美容室でアルバイトをしていた。
「高3から美容室でアルバイトをしていたのですが、仕事の後に先輩にカットを見てもらったりとかしていました。カラーだけは独学で勉強しましたね」
今でこそTOMOといえばカラーのイメージが定着しているが、そのきっかけはアニメだった。
「当時、アニメキャラの髪色にしたかったのですが、先輩とかもなかなかやってくれませんでした。それなら自分でやろうと思い、独学で勉強して自分でやっていました」
美容専門学校を卒業したTOMOは、満を辞して東京に出る決心をした。
売り上げ1位
新卒で入社後1年足らずでカラーリストになり、そこからは無我夢中で走り抜けた。スタイリストになってからも、売り上げは全店で1位だった。
「当時は引っ越すお金がなかったので、専門学生時代から住んでいた浦和から通っていました。お金を稼ぐ必要があったので、100万売り上げたら引っ越せると思っていたのですが、それでは出来なくて、200万になったら引っ越すことが出来ました。200万売り上げるメンタルが身についたのは、大きかったですね」
当時まだ3年目の中村がそこまで結果を出せた理由は、何だったのか?。そこには、いくつかの要因があった。
「美容師の中でも自分の提案を押し通すタイプと、お客様の希望を叶えるタイプがあるかと思いますが、自分は後者ですね。本当にお客様のことが好きなんです」
徹底的なお客様至上主義。それは今なお続いている。また、インスタグラムに早い時期から目を付けて、自分なりに運用していた。
「当時はホットペッパーでの集客が主流でしたが、おしゃれな人はみんなインスタをしていました。最初は自分も他の美容師の真似事でインスタをやっていましたが、フォロワーが増えてくると楽しくなってきて、色々考えながら投稿するようになりました」
中村のインスタを見るとその写真の迫力に目を奪われる。写真は独学で勉強した。
「黄金比や菱形など、色々意識はしています。写真の感覚は、色々な人の参考になりそうな画像を見ながら意識して磨いていますね」
独立前夜
飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進していた中村だったが、当時はある悩みを抱えていた。
「あの頃の自分は、売り上げは1位でもお気に入りの後輩しか付いてこないようなスタイリストでした。オーナーからは、「それでは役職を与えらえれない」と常々言われていました。そこから組織のマネジメントを意識して、その能力を身に付けるまでには時間がかかりましたね」
マネジメント能力が身に付いたとき、さらなる悩みが中村を襲った。
「自分はALIVEに骨を埋める覚悟でやっていたのですが、オーナーは「いつかは独立しろ」というタイプでした。ちょうど自分も結婚したし、お店の本を出版したりオンラインセミナーをしたりして、業界的に認知されてきた感覚があったので、自分の箱を持った方がいいと思い独立を考えました」
当初はALIVEのフランチャイズでの独立を勧められたが、大宮という街が今後必ずくるという確信があったため、完全独立の道を選択した。25歳の秋だった。
貯金していた自己資金と融資をもとに、大宮に新店舗「REDEAL」をオープンさせた。25歳の秋だった。
未来
昨年度オープンした「REDEAL」は、今のところ順調に成長している。マネジメントもうまくできているようだ。
「以前のお店では、自分も悪いところを直して変わってきたという経験上、他の人の悪いところも変えようとしました。しかし、結局できませんでした。そこから、人のいいところを伸ばし、悪いところは個性として認めるようにしたところ、全てがうまく回り始めました。今のお店では、それぞれの個性の凸凹がいい感じにマッチして平らになっています」
現在は、課題である組織作りに着手している最中である。
「今のスタッフ数は4名なのですが、少人数でやる気のあるメンバーだからうまくいっているとも言えます。その代わり、休憩を取らせてあげられない日もあるので、組織としての体制を整えるために、まずは人を増やしたいですね」
中村自身もこの先やりたいことが目白押しであり、その歩みを止めることはない。
「今はがむしゃらに1を10にする勢いでやっています。早咲きした子役で終わりたくないというか、技術派として業界の中で地に足付けてやっていきたいですね」
中村が日本の美容業界を牽引する「Xデー」は、そう遠くないはずだ。
読者モデル
アルバイトをしながらも、専門学校には真面目に通っていた。
「自分は、やりたいこととやりたくないことが極端というか、やりたくない授業の時は寝てしまったこともありました(笑)。その代わり、ワインディングなどは自宅でも練習していましたね」
ワインディングの技術を競う校内コンテストでは、男子の中で1番だった。
「やりたいことは、寝る間を惜しんでもやるタイプなんです。それは今も変わらないですね」
当時は読者モデルブームということもあり、雑誌に掲載されるために原宿や表参道に頻繁に通っていた。
「あの頃は雑誌の「CHOKI CHOKI」に掲載されることがステータスだったので、表参道を10往復ぐらいしていましたね。その後、撮影に呼ばれるようになったのですが、そのタイミングで廃刊になってしまって・・・。それは苦い思い出ですね(笑)」
「CHOKI CHOKI」以外にも、中村はいくつかの雑誌に実際に掲載された。
「あの頃は、様々なファッション雑誌に「1日でどれだけ撮られるか?」というのを試行錯誤していましたね。いかに撮られるかを戦略的に考えてやっていたのですが、それである程度雑誌に載ることができたことは、後の自分の美容人生の役に立ってる気がしますね」
就職
やがて就職活動の時期に差し掛かった中村だったが、そこで試練が待ち受けていた。行きたかった美容室に、立て続けに落ちてしまったのだ。
「就職希望の美容室に行けなくて路頭に迷っていたのですが、何となく行った就活フェアに「ALIVE」が出展していました。そこで、表参道にある美容室なのに2年でデビューできると聞いて、それならば「早くデビューして中途入社で有名店に行こう」と思って入社試験を受けて、入社しました。最悪の考えですが(笑)」
紆余曲折はあったが、中村は「ALIVE」で社会人としての第一歩を踏み出した。
「最初の頃は散々でしたね。サロンワークで物を落としたり、テンパったりするタイプだったので、そこで怒られてしょげた時期もありました」
社会人の洗礼を浴びた中村だったが、意外なところで活路を見出した。
「当時は良くも悪くも情報発信する人というか、オモハラ(表参道・原宿)っぽい美容師がいなかったんです。DMを送ってサロンモデルを呼んでいたのですが、有名なモデルにも声を掛けていたので、「1年目の美容師が何かやっている!」と業界内で少し話題になりました」
起死回生
1年目でSNSのフォロワーも1万人を超えた。勢いに乗った中村は、オーナーに直談判して入社1年後にカラーリストとしてデビューした。
「カラーやトリートメントだけで、その年の7月に70万、11月に100万、3月に200万を売り上げました。業界で最速だったと思います」
その噂は瞬く間に広がり、中村の元にセミナーの依頼が多数舞い込むようになった。23歳で開催した銀座SIXでのセミナーには、100人が集まった。業界3年目で100名集まるのは、異例のことだった。
「セミナーの講師をするようになって、技術の大切さを知りましたね。インスタは見せ方ですが、伝える側になると見せるだけではダメで、しっかりとした技術が必要になりますから」
次へのステップのつもりで入社した「ALIVE」だったが、その気持ちは徐々に変わっていった。
「スタッフの人柄が好きになり、「ALIVE」を有名店にしようという思考に変わっていきましたね」
続く
スポーツ少年
出身は埼玉県深谷市。会社員の両親のもとに育った。
「兄弟は、弟と妹がいます。妹は鍼灸師、弟は青山で料理の修行をしています」
小学校時代は、スポーツ少年だった。
「小学生の時は、マラソンと水泳をやっていました。校内持久走大会で4番だったので、1番になりたいということで、父が自転車で並走して夜な夜な走っていましたね。それでも2番でしたが(笑)」
中学校では、陸上部ではなくてテニス部に入部した。
「小学生の時にマラソンで市の記録を作ることができたので、それで満足して「もう陸上はいいや」となりました。テニスの王子様を観てたというのもあり、テニス部に入部した感じですね」
なんとなく始めたテニスだったが、持ち前の運動神経を発揮して県大会に出場するまでに至った。部活動だけでなく、勉強にも力を入れた。
「予習と復習は必ずやっていました。当時は化学図鑑とか見るのが好きだったので、科学者になりたくて・・・。中学校を卒業したら、東京の高専(高等専門学校)に行きたいと思っていました」
アルバイト三昧
高専に合格するための努力を重ねた中村だったが、受験に失敗して地元の公立高校に進学した。
高校に入学した中村は、部活には入らずにただひたすらアルバイトに没頭した。
「当時は高校生の王道かもですが、バイトか彼女でした。極端な二択の生活をしてましたね(笑)」
やがて進路を決める時期に差し掛かり、中村は専門学校に入学する決意をした。
「中途半端に大学行くなら手に職かなと思い、専門学校に行くことにしました。絵を描くのが好きでしたし、コンビニでのアルバイトで接客業にはまったこともあり、美容師になろうと思いました」
美容師になる決心をした最後の決め手は、彼女ができた事だった。
「高校生になって、彼女を作るためにまずは身なりを整えようと思って美容室に行ったのですが、実際にそれで彼女ができました。それで、「美容師ってすごいな」と思いましたね」
専門学校
高校を卒業した中村は、埼玉県理容美容専門学校に入学した。
「公立で授業料が安かったのと、ロンドンやパリでの研修旅行もあったので、埼玉県理容美容専門学校に決めました。他の私立の学校も行きたかったのですが、授業料が高すぎて無理でした(笑)」
専門学校に入学したタイミングで、一人暮らしも始めた。
「父親も、自立しなさいというスタンスだったので、家賃も全部自分で払ってましたね。高校からアルバイトなどしていたので、その部分の苦労はなかったです」
高校時代からの「すき家」でのアルバイトは、専門学生時代も続けていた。
「飲食のバイトは賄いでご飯が食べられるので良かったですね。金土の夕方から朝までバイトしていました。週に2日間で3万円位稼げました。1ヶ月だと12万円位ですね」
続く