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唐澤由記〜開拓者の行動力 Vol.3〜

出張で訪れたスリランカでのアーユルヴェーダとの出会いから、東京・代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」を立ち上げた唐澤由記。美容師として活動していた唐澤が転身を遂げた理由とは?波乱に満ちたその軌跡に迫る。(敬称略)

スリランカ

日本に帰国した唐澤は、すぐさま行動に移した。

「まずはスリランカのことを色々調べました。偶然にも地元の長野県にスリランカ料理店があったので、そこを訪ねて自分のスリランカへの想いを話したところ、色々とアドバイスをもらうことができました」

スリランカ料理店で教えてもらった情報をもとに、唐澤は代々木公園で開催するスリランカフェスティバルに行った。イベントに携わっている、スリランカ協会の担当者に会うためだった。

「イベント当日に代々木公園に行って出会ったのが、偶然にもまさに今のサロンの現地オーナーでした。「なんでスリランカに行きたいの?」から始まって、そこでスリランカへの熱い想いを語りました」

スリランカでのセラピーの仕事を探していた唐澤は、そこで仕事の紹介を依頼した。

「セラピストになりたかったので、現地でのセラピストの仕事を紹介してもらおうと思っていました。しかし、「現地の給料は2〜3万円だし、今まで10年以上やってきたキャリアもあるのだから、日本で学びながらできることをしたほうがいいよ」とアドバイスをもらい、改めて冷静に考え直しました」

自分の目標を叶えるため、唐澤は次なる行動に出た。

Karunakarala

唐澤は再度スリランカに渡った。

「現地の生活を知るためにホームステイをしました。アーユルヴェーダを学ぶというよりは、どう根付いているかを日々の生活を通じて見させてもらったという感じです」

ホームステイをしながら、アーユルヴェーダのスクールにも通った。

「そこは個人でやっているスクールで、アーユルヴェーダのベーシックを学びました」

その後何度かスリランカに行き、現地のドクターからも学ぶなどしてアーユルヴェーダの知識を深めていった。そして、スリランカに初めて行ってから2年後、ついに代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」をオープンさせた。

「リラクゼーション業界のことを何も知らないまま始めたので大変でした。現地でドクター経験のあるスリランカ人を、アーユルヴェーダアドバイザーとして雇っていました」

当初はスリラン人ドクターのアドバイスのもと、唐澤がセラピストとしてセラピーをするという形を取っていた。しかし、文化の違いから生活習慣のアドバイスなど、日本人に受け入れられない事も多かった。

「現地のドクターは階級が高いので、遅刻をしたり、掃除をしないとか、そういうことが大変でした。日本の文化を理解してもらえないことが多かったです」

未来

Karunakaralaに一度でも来た人は、その本場の雰囲気に圧倒される。

「材料には徹底的にこだわっているので、現地と同じようなオイルを揃えています。雰囲気だけでなく、大前提である治癒力を上げるという点に特化しています」

自分がアーユルヴェーダに救われたからこそ、自分と同じように困っている人を救いたいという気持ちは人一倍強い。

「今思うと、美容師をしていた頃は自分を痛めつけていて、精神的にもボロボロでした。生活も不規則で、コントロールの仕方も分からず気合だけで頑張っていたので、精神的にも負荷がかかっていました」

自身の経験をもとに、アーユルヴェーダのさらなる普及に全力を傾けている。

「東京で働いている女性は、社会のリズムによりバランスを崩している人が多いと思います。サロンに通わなくてもできることがたくさんあるので、アーユルヴェーダのシンプルな考え方が広まる活動をこれからもしていきたいですね」

類稀なる行動力で道を切り拓いてきた唐澤の旅は、まだ始まったばかりである。

出張で訪れたスリランカでのアーユルヴェーダとの出会いから、東京・代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」を立ち上げた唐澤由記。美容師として活動していた唐澤が転身を遂げた理由とは?波乱に満ちたその軌跡に迫る。(敬称略)

美容専門学校

高校を卒業した唐澤は、渋谷にある国際文化理容美容専門学校へ入学した。

「そこで知り合った親友と部屋をシェアしながら生活していました。学校には真面目に行っていましたね。美容の技術を競うコンクールに出たりもしていました」

上手にサボることが苦手だったため、それがばれて廊下に立たされることも多かった。

「自分がやりたいことに関しては努力を惜しまずやっていましたが、その他の学校での足並み揃えての活動などはやりたくなかったので、先生にはよく怒られていました(笑)」

当時は空前のカリスマ美容師ブーム。しかし、その波に乗りたいとは思わなかった。

「私はこの人に憧れてその美容室に入りたいとかいう感じはなかったですね。どこに入っても同じというか、通過点でしかないと思っていました。何かに憧れるということが、あまりなかったですね」

他の生徒が就職活動をしていく中、唐澤はひとり他のことをしていた。

「専門学校がすごく厳しかったので、一度自由になりたくて半年くらい就職活動をしませんでした。ただ、ヘアメイクをやりたかったので、ヘアメイクの師匠を探していました」

就職

様々なヘアメイクの会社を受けたが、サロン経験がないことを理由にどこも断られた。

「結局、サロンに入らないとヘアメイクができないということが分かったので、当時住んでいた自由が丘にあった個人店のヘアサロンに入社しました」

自由が丘のヘアサロンに入社した唐澤は、練習を積み様々な大会に出場した。

「入社して4年でスタイリストになりました。当時は、自分の技術を使って世界中の人と交流したいという目標がありました。そこをモチベーションにして、ヴィダルサスーンの大会なども出ていました」

順調にキャリアを積んでいた唐澤だったが、ヘアメイクやウェディングに携わりたいという気持ちが徐々に芽生えてきた。

「そこはお店にお客さんが付いているサロンだったので、いつか上が抜けて私が責任者になった場合には、数百万の売り上げが自分にくることになります。その時にその責任を全うするとなると、またあと数年動けなくなってしまうので、非常に悩みましたね」

もともとヘアメイクやウェディングに携わりたかった唐澤にとって、さらに数年のあいだ自由が丘で美容師をやるよりも、新たなステージで挑戦したいという気持ちが勝るのは当然のことだった。8年間働いた唐澤は、自由が丘のサロンを退社した。

運命の出会い

8年間働いていた自由が丘のサロンを退社した唐澤は、フリーランスの美容師として働き始めた。

「ウェディング業界の仕事もしたかったということもあり、どうしても時間が足りませんでした。それで、フリーランスの美容師として業務委託で働いていました」

フリーランスとして独立して1年ほど経った時に、その後の人生を大きく変える出会いがあった。

「ちょうど海外ウェディングの話を頂いて、それがスリランカでした。当時はスリランカにさほど興味はなくて、「スリランカってどこ?」という感じでした(笑)」

ガイドブックも持たずにスリランカに行った唐澤は、そこで衝撃を受けた。

「同行していたカメラマンがアーユルヴェーダに連れて行ってくれたのですが、直感的にこれを勉強しようと思いましたね。今まで疑問に思っていたことが繋がった感じでした。それと、現地のスリランカの人達がとても健やかというか、ストレスフリーで生きているような感じがして・・・。ここにヒントがあると思いました」

続く

出張で訪れたスリランカでのアーユルヴェーダとの出会いから、東京・代官山にアーユルヴェーダサロン「Karunakarala」を立ち上げた唐澤由記。美容師として活動していた唐澤が転身を遂げた理由とは?波乱に満ちたその軌跡に迫る。(敬称略)

バレエ三昧

唐澤は長野県伊那市出身、通知表がない公立の小学校に通っていた。

「クラスで動物を飼育したりDIYを行ったりと、総合学習が盛んな小学校でした」

体が動かすことが好きだった唐澤は、小学生の時からバレエを習っていた。地元の中学校に進学してもバレエは続けた。

「部活はテニス部でしたが、バレエを続けていました。色々な役をもらえたりして楽しかったですね」

中学を卒業した唐澤は、地元である長野を出て東京の高校に進学することを決めた。単身で東京の高校に通うことに不安はなかった。

「その高校に推薦で入学したバレエのOBの方がいて、「由記ちゃんも行ってみたら?」と言われたのがきっかけですね」

東京

両親も、東京の高校に行くことに対して賛成してくれた。

「その頃の自分は、すごくボーとしてました(笑)。両親も、この子は自立させなければまずいと思ったようで、「挑戦してみたら?」と後押ししてくれましたね」

中学を卒業した唐澤は、晴れて日本音楽高等学校のバレエダンス科に入学した。ついに東京での一人暮らしが始まった。

「多少はホームシックになりましたが、目の前の日々に一生懸命だったので、そんなに寂しくはなかったですね。1年目は、バレエはもちろんのこと、方言を使わないだとか、東京のカルチャーに馴染むことに必死でした(笑)」

徐々に東京の空気に慣れてきた唐澤だったが、高校2年の時に挫折を味わった。

「それまでは楽しむためにバレエを続けてきたのですが、厳しい世界だったので高2ぐらいで急にバレエが楽しめなくなってしまいました」

誘惑

バレエが楽しめなくなった唐澤は、徐々にバレエ以外の誘惑に負けることが多くなった。

「東京は遊ぶ場所がたくさんありますし、一人暮らしということで親の目もないので一気に弾けてしまいました(笑)」

バレエを続けながらも誘惑に流される毎日が、1年間ほど続いた。しかし、高校3年になるとまたモチベーションが復活し、バレエに専念することができた。そして、いよいよ自分の進路を決める時期に差し掛かった。

「両親は「せっかくバレエで東京の高校に行ったのだから、バレエ留学とかして自分の可能性を広げたら?」と勧めてくれました。しかし、自分の中ではバレエでプロになるのは無理だと思っていました」

バレエはもうやらないと決めた唐澤にとって、もう一つやりたいことがあった。それは、両親と同じ職業である美容師になることだった。

「小さい頃から、将来は美容師の資格を取ろうと思っていました。それで、美容師の国家試験を受けたいということを親に話し、美容の専門学校に行くことにしました」

続く

サロンワーク中心に一般誌、業界誌等のヘアスタイリストとして活躍中の中山響平(執行役員/DIFINO akasaka 店長)。顧客の頭蓋骨や顔の輪郭、首の骨などの全体を立体的に見てデザインするその技術は、他の追随を許さない。甲子園を目指していた野球少年は、なぜ美容師になったのか?いまその半生に迫る。(敬称略)

就職

いよいよ就職活動の時期に差し掛かった。当時はDCブランドブーム。中山にはどうしても就職したいサロンがあった。

自分は野球部出身ということもあり、専門学生に人気の奇抜な感じやオシャレ過ぎる髪型が苦手で、ナチュラルな感じが好きでした。そんな時に、偶然バイト先にBEAUTRIUMのモデルをしている人がいて、紹介してもらってお店に行ってみました」

実際にBEAUTRIUMに行ってみた中山は、まさに自分が思い描いていたサロンだと実感した。

「まさに理想でしたね。モードではなくて、日焼けしてジーパンとか破れたお兄さんがいて、接客もラフで・・・。髪型もおしゃれで、普通なんだけど普通過ぎないみたいな。もう人生決まったみたいな勢いで、自分にはBEAUTRIUMしかないと思って入社試験を受けましたね」

社会人

当時からBEAUTRIUMは人気サロン。美容学生からの人気も高かった。

「就職活動した時は12月で、併願もダメでした。BEAUTRIUMに落ちたら終わりでしたが、なんとか一発合格しました」

志願者が多く高倍率だったが、就職試験に一発合格。中山はBEAUTRIUMへの切符を手に入れた。

「入社した後に知ったのですが、自分は生意気で扱いづらそうと思われていたみたいです(笑)」

DIFINO

BEAUTRIUMで着々とキャリアを積んでいた中山だったが、ある日を境に人生が大きく動き出す。

「ある時、当時の上司の土橋さん(現DIFINO代表)から、「お前準備できてるんだろうな?」と言われ、何かと思ったら1ヶ月後に独立して新しい店をオープンするとのことでした」

勢いそのままに、中山は土橋氏のDIFINOに合流した。それから順調にDIFINOは成長し、現在は青山と赤坂に店を構えている。中山は現在赤坂店の店長を務めている。

「今は、働く側にとっては昔と比べてすごく良い環境になっている一方で、働き方改革により練習は強制できません。なので、その人がどう主体性を持って取り組むかで、力の差が出ると思います」

中山の挑戦は終わらない。

「スタッフが辞めない事が良いとは思わないが、空気が良くて働いていて楽しいと思える環境を作っていきたいですね」

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美容師

色々考えた結果、消去法で残ったのが美容師だった。

「自分は見た目こんなですが、女兄弟ということもありメイクなどに興味がありました。それと、美容師が夜遅くまで練習したりするのは野球部っぽいと、勝手に想像していました」

美容師になることを決めた中山だったが、当初は父親に反対された。

「父親は昔の考え方の人なので、最初は反対されましたね。男は台所に立つなというような考えでしたから。「自衛隊に就職して、免許や資格を取って国の推薦で一般企業に入れ」と言われました。美容師は水商売というイメージがあったのだと思いますね」

それでも中山の意思は揺るがなかった。

「結果的に父親も納得してくれました。美容師免許を取って数年後に美容師ブームが来た時には、「お前は先見の明があるな」と父親に言われました(笑)」

高山美容専門学校

美容師になることを決めた中山は、高山美容専門学校に入学した。

「いわゆる日美や山野などの大手は、その時期には既に推薦が終わっていました。高山美容専門学校はまだ推薦があり、他と比べても学費が安かったので高山に決めました」

母親が東京に10年住んでいて詳しかったこともあり、中山は母親の勧める物件を部屋も見ないで契約した。

「東京の豊島区にある部屋と聞いていたので、学校も近いのでそれならいいなと思っていたのですが、実際は埼玉県の志木市でした。物件のチラシを見た母親が、管理会社の住所を物件の住所と勘違いしていたのです(笑)」

埼玉での一人暮らし

思わぬハプニングがあり、東京ではなく埼玉県での新しい生活が始まった。

「地元のメンバーには自分が東京に行ったと思われていて、美容学校のメンバーには埼玉出身と思われています(笑)。都心の学校に通うのに埼玉で一人暮らしをする人は、そんなにいないですからね」

1時間以上かけて専門学校に通ったが、ほぼ毎日遅刻していた。その為、卒業のための出席日数もギリギリの状態だった。

「やはり一人暮らしの壁が大きかったですね。それと、アルバイトを週5でやっていたのですが、夜中の0 時過ぎに自宅に着いて、朝7時30分には自宅を出なければならなかったので、ほぼ毎日遅刻していました。やる気がないわけではないのですが・・・(笑)」

続く

サロンワーク中心に一般誌、業界誌等のヘアスタイリストとして活躍中の中山響平(執行役員/DIFINO akasaka 店長)。顧客の頭蓋骨や顔の輪郭、首の骨などの全体を立体的に見てデザインするその技術は、他の追随を許さない。甲子園を目指していた野球少年は、なぜ美容師になったのか?いまその半生に迫る。(敬称略)

野球

中山は広島県福山市出身。小学生時代から明るい性格で、周囲からは今と全く変わらないと言われる。

「小学校の時はサッカーと野球、剣道をやっていました。小学校の6年から地元のリトルリーグ(硬式野球のチーム)に入っていたので、中学校では美術工芸部でしたね」

ポジションはピッチャー。中学時代は野球に明け暮れた毎日だった。中学を卒業した中山は、野球の強豪校として有名な如水館高校に入学する予定だった。

「如水館の一期生で行くはずでした。実際、自分のチームからも8人くらい行きましたが、自分は別の高校で如水館を倒そうと考え、あえてそこには行きませんでした」

打倒如水館高校

如水館を倒すという目標を抱き、中山は父親の母校である府中東高校に進学した。

「高校の時は甲子園を目指していました。高校2年生ぐらいから肘や肩が痛くなって、そこからは打つ方に専念していました。痛いと言うと試合に出られなくなるので、隠しながらやっていましたね」

打倒如水館、そしてその先の甲子園を目指して日々猛練習をこなしていた中山だったが、現実は厳しかった。

「結果的に、如水館と対戦することも出来ませんでした。そもそも強豪校は集まっているメンバーが凄くて・・・。当時は頑張ればなんとかなると思っていましたが、今振り返ると中学生時代から実力が違っていたなと思いますね」

高校3年で進路を決める時期に差し掛かり、このまま野球を続けるか悩んだ。

野球以外

「これまで野球しかやってこなかったので、野球以外の道は考えられませんでした。大学の野球推薦のセレクションを受けに行ったりもしましたが、あまり自分でもしっくりきませんでした。落ちたかなと思ったら、やはり落ちてましたね」

大学のセレクションは、基本的にやる前から受かるメンバーが決まっていると言われている。中山は野球以外の道を目指すことになった。

「周囲が遊んでいる時に、自分は野球の練習をしてきました。そんな今までの頑張りが活かせる仕事はないかと色々探しました」

勉強が好きではなかったため、職人系の仕事を探した。

「頭も良くなかったし、勉強も好きじゃありませんでした。妹が頭良かったので、大学には妹が行けばいいと思っていました。大学はないなと思い、建築士、美容師、造園師、救急救命士のいずれかになろうと思いました」

続く

数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)

完全独立

渡辺は今年の6月から、表参道にあるLiko by marisの代表を務めている。

「初めはMARISの雇われオーナーという形で何年もやっていました。それで色々な経験ができたので、去年の6月にMARISとはのれん分けのような形でLiko by marisの代表になりました」

当然のことながらやらなければならないことが増え、これまでと同じスタンスで働くことは出来なくなった。

「数字も見て、スタッフのことも見る必要があります。なので、スタッフとは一線を置くようになりましたね(笑)。自分はどうしても情に流されてしまうので、そうならないように近付き過ぎないように気を付けています」

美容業界

撮影よりも接客が好きなため、撮影の第一線から身を引いて8年が経つ。

「年配の美容師さんなどは自分の形ができていて、自分がやりたいことも分かっているため、先端のものを見ながら自分のスタイルを作ります。自分もそうなってきていて、今は自分がやりたいことをしているだけですね」

渡辺が身を置く美容業界も、時代と共に様変わりしてきている。

「今は若い子が簡単に店を出せるので、そこはいいなと思いますね。昔は大きい店が強かったので、なかなかそういうわけにはいきませんでした。逆を言うと、責任がないと言うか・・・。スタッフを抱えているのにすぐ店をたたんでしまったり、常識から逸脱している行動も見受けられますね」

業界を愛するからこそ、美容師の行く末を誰よりも案じている。

「最近は個人事業主が多く、給料が多い店に行きがちです。しかし、会社に所属していればまだ将来性はありますが、個人事業主は保証がありません。自分がダメになったら終わってしまいますので、そこが心配ですね」

未来

現在は表参道に店を構えるLiko by marisだが、今後は店舗を増やすことも視野に入れている。

「今は1店舗だけですが、まずは3店舗ぐらいお店を抱えたいと思っています。色々なお客さんが来たいと思ってくれた時に、受け入れることができる器としてですね」

もちろん、経営者として従業員の未来も常に考えている。

「将来的には育った子達を全員会社の社長にして、外に出したいですね。ずっと会社にいたいという人はいてもらって構わないですが・・・。会社にいると守られている一方で、責任がない部分もあります。自分で責任を持って将来を作れるようになってほしいと思っています」

渡辺が考えているビジョン、それは美容業界が抱えるジレンマを解決するためのヒントでもある。

「会社にいれば文句も出てくると思います。かといって自分でやる自信もない。そんな人が多いと思うので、それを徐々に解消していきたいですね。社長をたくさん作って、みんな対等な立場で話ができて・・・。そんな仲間ができれば最高ですね」

近い将来、渡辺の元から巣立った若き経営者達が美容業界を席巻しているに違いない。

数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)

早熟の美容学生

学校とバイトと遊びに明け暮れていた毎日だったが、いよいよ就職活動の時期がやってきた。他の生徒が様々なサロンを受ける中、渡辺は青山にある某有名サロンしか受けなかった。

「専門学校の1年生の時から色々とサロンを調べて、どこに就職するか決めていました」

18歳の時から、「どのように生きていくべきか?どうやったら生きていけるのか?」を常に考えてきた。

「当時は、ブリーチなどが主体のティーン向けの美容室が美容学生に流行っていました。しかし、そのような美容室を求める顧客層は全人口の1割以下で、ほとんどがコンサバティブを求める層です。ですので、コンサバティブが得意なサロンに入ろうと決めていました」

将来は青山にある某有名サロンに入社すると決めていた渡辺は、高倍率の試験に突破して念願のサロンに入社することができた。

社会人

専門学校を卒業し、ついに社会人としての生活が始まった。

「大変だろうなとは思っていましたので、時間的な辛さはなかったですね。美容学生の時も、朝9時に学校行って午前0 時にバイトが終わり帰宅するという生活をしていましたので・・・」

時間的な辛さはなかったが、別のプレッシャーが渡辺を襲った。

「美容師ほど毎日色々な人に会う仕事はないと思うので、そこでのプレッシャーがありましたね」

順調にキャリアを積んでいた渡辺だったが、お店と自身が考える接客との相違が露見し始めた。

「ちょうど色々と悩んでいるときに、当時の上司が仲間とMARISを立ち上げるということになり、自分も合流することにしました」

MARIS

上司が仲間とMARISを立ち上げるということで、渡辺も合流した。時代はブログ全盛期。著名な芸能人がブログに紹介してくれた。

「もともと最初に入社したサロンの時からの流れで撮影とかしていて、モデルさんとかタレントさんの繋がりがあったのですが、自分がスタイリストになった時にお客さんを紹介してくれました」

様々な著名人がブログで紹介してくれたことも後押しし、連日お客さんが押し寄せた。

「色々タイミングも良かったこともあり、MARISは立ち上げからビックリするぐらい順調に行きましたね」

続く

数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)

勉強嫌い

生まれは新潟県十日町市。着物を作る両親の元に生まれた。

「子供の頃はスポーツしかやってなかったですね。小学生の頃はサッカー、野球、空手、相撲などやっていました。特に両親から強制されたわけでもなく、気が付いたらやっていた感じです」

中学生になるとスノーボードとスケートボードに熱中した。思春期に入ったこともあり、学校は休みがちになった。

「中学生になってグレてしまったというか・・・。不良グループに入ったりとかそういうことではないのですが、学校もちょいちょい休んだりしていましたね」

中学を卒業した渡辺は、地元の高校に入学した。

「その高校は授業選択が自由で、カリキュラムを自分で作れる自由な高校でした。洋服作って、絵を描いて、料理を作ってという感じでしたね。とにかく勉強が嫌いでした」

プロスノーボーダー

勉強が嫌いだった為、高校ではクリエイティブな科目ばかりを選択した。高校に行かない日は、スケートボードをしたり友達同士で集まるのが日課だった。

「その当時、将来はプロスノーボーダーになるものだと漠然と思っていました。しかし、高校3年生の時に「これはなれないな」と気付きました」

洋服を作る授業を選択するほど洋服が好きだった渡辺は、洋服のデザイナーになろうと考えた。しかし、アパレルの専門学校の入学願書の募集は、どこも締め切られていた。その当時まだ募集をしていたのは、美容専門学校だけだった。

「東京に出てみたいというのもあったので、中野にある窪田理容美容専門学校に入学しました」

美容専門学校の授業料は、学生ローンで賄った。

「美容師になると決めた時に、両親は特に反対も賛成もしなかったですね。やりたいことやりなさいという感じでした。ただ、「やるなら全て自分でやりなさい」と言われたので、学生ローンでお金を借りて専門学校に入学しました」

東京

東京でのアルバイトが決まっていたため、卒業式の翌日に上京した。

「お金を稼ぐ必要があったので、高校を卒業した翌日から東京に出てアルバイトを始めました。さすがにホームシックになりましたね(笑)」

専門学校は1日も休まず通い、生徒会長も務めた。自分で授業料を払っていた渡辺は、学校を休むとどれだけもったいないかを他の生徒より認識していた。

「専門学校の授業料や材料代を合わせると、だいたい300〜400万はかかります。それを目の当たりにすると、無駄にはできないと思いましたね」

学校に通いながらも、アルバイトと遊びも同時にこなした。

「学校に行ったあと夕方から23時までバイトして、そこから遊びに行ってという生活でした。もともとあまり寝なくても平気なタイプなので、要領よく遊んでいましたね。当時は銀だこで働いていたのですが、自分が働いていた中野の店舗は、売り上げが日本で一番の店舗でした。バイトにしては高額な給料をもらっていたので、生活は余裕でできましたね」

続く