中山響平〜Going my way Vol.3〜
サロンワーク中心に一般誌、業界誌等のヘアスタイリストとして活躍中の中山響平(執行役員/DIFINO akasaka 店長)。顧客の頭蓋骨や顔の輪郭、首の骨などの全体を立体的に見てデザインするその技術は、他の追随を許さない。甲子園を目指していた野球少年は、なぜ美容師になったのか?いまその半生に迫る。(敬称略)
就職

いよいよ就職活動の時期に差し掛かった。当時はDCブランドブーム。中山にはどうしても就職したいサロンがあった。
自分は野球部出身ということもあり、専門学生に人気の奇抜な感じやオシャレ過ぎる髪型が苦手で、ナチュラルな感じが好きでした。そんな時に、偶然バイト先にBEAUTRIUMのモデルをしている人がいて、紹介してもらってお店に行ってみました」
実際にBEAUTRIUMに行ってみた中山は、まさに自分が思い描いていたサロンだと実感した。
「まさに理想でしたね。モードではなくて、日焼けしてジーパンとか破れたお兄さんがいて、接客もラフで・・・。髪型もおしゃれで、普通なんだけど普通過ぎないみたいな。もう人生決まったみたいな勢いで、自分にはBEAUTRIUMしかないと思って入社試験を受けましたね」
社会人

当時からBEAUTRIUMは人気サロン。美容学生からの人気も高かった。
「就職活動した時は12月で、併願もダメでした。BEAUTRIUMに落ちたら終わりでしたが、なんとか一発合格しました」
志願者が多く高倍率だったが、就職試験に一発合格。中山はBEAUTRIUMへの切符を手に入れた。
「入社した後に知ったのですが、自分は生意気で扱いづらそうと思われていたみたいです(笑)」
DIFINO

BEAUTRIUMで着々とキャリアを積んでいた中山だったが、ある日を境に人生が大きく動き出す。
「ある時、当時の上司の土橋さん(現DIFINO代表)から、「お前準備できてるんだろうな?」と言われ、何かと思ったら1ヶ月後に独立して新しい店をオープンするとのことでした」
勢いそのままに、中山は土橋氏のDIFINOに合流した。それから順調にDIFINOは成長し、現在は青山と赤坂に店を構えている。中山は現在赤坂店の店長を務めている。
「今は、働く側にとっては昔と比べてすごく良い環境になっている一方で、働き方改革により練習は強制できません。なので、その人がどう主体性を持って取り組むかで、力の差が出ると思います」
中山の挑戦は終わらない。
「スタッフが辞めない事が良いとは思わないが、空気が良くて働いていて楽しいと思える環境を作っていきたいですね」
完
サロンワーク中心に一般誌、業界誌等のヘアスタイリストとして活躍中の中山響平(執行役員/DIFINO akasaka 店長)。顧客の頭蓋骨や顔の輪郭、首の骨などの全体を立体的に見てデザインするその技術は、他の追随を許さない。甲子園を目指していた野球少年は、なぜ美容師になったのか?いまその半生に迫る。(敬称略)
美容師

色々考えた結果、消去法で残ったのが美容師だった。
「自分は見た目こんなですが、女兄弟ということもありメイクなどに興味がありました。それと、美容師が夜遅くまで練習したりするのは野球部っぽいと、勝手に想像していました」
美容師になることを決めた中山だったが、当初は父親に反対された。
「父親は昔の考え方の人なので、最初は反対されましたね。男は台所に立つなというような考えでしたから。「自衛隊に就職して、免許や資格を取って国の推薦で一般企業に入れ」と言われました。美容師は水商売というイメージがあったのだと思いますね」
それでも中山の意思は揺るがなかった。
「結果的に父親も納得してくれました。美容師免許を取って数年後に美容師ブームが来た時には、「お前は先見の明があるな」と父親に言われました(笑)」
高山美容専門学校

美容師になることを決めた中山は、高山美容専門学校に入学した。
「いわゆる日美や山野などの大手は、その時期には既に推薦が終わっていました。高山美容専門学校はまだ推薦があり、他と比べても学費が安かったので高山に決めました」
母親が東京に10年住んでいて詳しかったこともあり、中山は母親の勧める物件を部屋も見ないで契約した。
「東京の豊島区にある部屋と聞いていたので、学校も近いのでそれならいいなと思っていたのですが、実際は埼玉県の志木市でした。物件のチラシを見た母親が、管理会社の住所を物件の住所と勘違いしていたのです(笑)」
埼玉での一人暮らし

思わぬハプニングがあり、東京ではなく埼玉県での新しい生活が始まった。
「地元のメンバーには自分が東京に行ったと思われていて、美容学校のメンバーには埼玉出身と思われています(笑)。都心の学校に通うのに埼玉で一人暮らしをする人は、そんなにいないですからね」
1時間以上かけて専門学校に通ったが、ほぼ毎日遅刻していた。その為、卒業のための出席日数もギリギリの状態だった。
「やはり一人暮らしの壁が大きかったですね。それと、アルバイトを週5でやっていたのですが、夜中の0 時過ぎに自宅に着いて、朝7時30分には自宅を出なければならなかったので、ほぼ毎日遅刻していました。やる気がないわけではないのですが・・・(笑)」
続く
サロンワーク中心に一般誌、業界誌等のヘアスタイリストとして活躍中の中山響平(執行役員/DIFINO akasaka 店長)。顧客の頭蓋骨や顔の輪郭、首の骨などの全体を立体的に見てデザインするその技術は、他の追随を許さない。甲子園を目指していた野球少年は、なぜ美容師になったのか?いまその半生に迫る。(敬称略)
野球

中山は広島県福山市出身。小学生時代から明るい性格で、周囲からは今と全く変わらないと言われる。
「小学校の時はサッカーと野球、剣道をやっていました。小学校の6年から地元のリトルリーグ(硬式野球のチーム)に入っていたので、中学校では美術工芸部でしたね」
ポジションはピッチャー。中学時代は野球に明け暮れた毎日だった。中学を卒業した中山は、野球の強豪校として有名な如水館高校に入学する予定だった。
「如水館の一期生で行くはずでした。実際、自分のチームからも8人くらい行きましたが、自分は別の高校で如水館を倒そうと考え、あえてそこには行きませんでした」
打倒如水館高校

如水館を倒すという目標を抱き、中山は父親の母校である府中東高校に進学した。
「高校の時は甲子園を目指していました。高校2年生ぐらいから肘や肩が痛くなって、そこからは打つ方に専念していました。痛いと言うと試合に出られなくなるので、隠しながらやっていましたね」
打倒如水館、そしてその先の甲子園を目指して日々猛練習をこなしていた中山だったが、現実は厳しかった。
「結果的に、如水館と対戦することも出来ませんでした。そもそも強豪校は集まっているメンバーが凄くて・・・。当時は頑張ればなんとかなると思っていましたが、今振り返ると中学生時代から実力が違っていたなと思いますね」
高校3年で進路を決める時期に差し掛かり、このまま野球を続けるか悩んだ。
野球以外

「これまで野球しかやってこなかったので、野球以外の道は考えられませんでした。大学の野球推薦のセレクションを受けに行ったりもしましたが、あまり自分でもしっくりきませんでした。落ちたかなと思ったら、やはり落ちてましたね」
大学のセレクションは、基本的にやる前から受かるメンバーが決まっていると言われている。中山は野球以外の道を目指すことになった。
「周囲が遊んでいる時に、自分は野球の練習をしてきました。そんな今までの頑張りが活かせる仕事はないかと色々探しました」
勉強が好きではなかったため、職人系の仕事を探した。
「頭も良くなかったし、勉強も好きじゃありませんでした。妹が頭良かったので、大学には妹が行けばいいと思っていました。大学はないなと思い、建築士、美容師、造園師、救急救命士のいずれかになろうと思いました」
続く
数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)
完全独立

渡辺は今年の6月から、表参道にあるLiko by marisの代表を務めている。
「初めはMARISの雇われオーナーという形で何年もやっていました。それで色々な経験ができたので、去年の6月にMARISとはのれん分けのような形でLiko by marisの代表になりました」
当然のことながらやらなければならないことが増え、これまでと同じスタンスで働くことは出来なくなった。
「数字も見て、スタッフのことも見る必要があります。なので、スタッフとは一線を置くようになりましたね(笑)。自分はどうしても情に流されてしまうので、そうならないように近付き過ぎないように気を付けています」
美容業界

撮影よりも接客が好きなため、撮影の第一線から身を引いて8年が経つ。
「年配の美容師さんなどは自分の形ができていて、自分がやりたいことも分かっているため、先端のものを見ながら自分のスタイルを作ります。自分もそうなってきていて、今は自分がやりたいことをしているだけですね」
渡辺が身を置く美容業界も、時代と共に様変わりしてきている。
「今は若い子が簡単に店を出せるので、そこはいいなと思いますね。昔は大きい店が強かったので、なかなかそういうわけにはいきませんでした。逆を言うと、責任がないと言うか・・・。スタッフを抱えているのにすぐ店をたたんでしまったり、常識から逸脱している行動も見受けられますね」
業界を愛するからこそ、美容師の行く末を誰よりも案じている。
「最近は個人事業主が多く、給料が多い店に行きがちです。しかし、会社に所属していればまだ将来性はありますが、個人事業主は保証がありません。自分がダメになったら終わってしまいますので、そこが心配ですね」
未来

現在は表参道に店を構えるLiko by marisだが、今後は店舗を増やすことも視野に入れている。
「今は1店舗だけですが、まずは3店舗ぐらいお店を抱えたいと思っています。色々なお客さんが来たいと思ってくれた時に、受け入れることができる器としてですね」
もちろん、経営者として従業員の未来も常に考えている。
「将来的には育った子達を全員会社の社長にして、外に出したいですね。ずっと会社にいたいという人はいてもらって構わないですが・・・。会社にいると守られている一方で、責任がない部分もあります。自分で責任を持って将来を作れるようになってほしいと思っています」
渡辺が考えているビジョン、それは美容業界が抱えるジレンマを解決するためのヒントでもある。
「会社にいれば文句も出てくると思います。かといって自分でやる自信もない。そんな人が多いと思うので、それを徐々に解消していきたいですね。社長をたくさん作って、みんな対等な立場で話ができて・・・。そんな仲間ができれば最高ですね」
近い将来、渡辺の元から巣立った若き経営者達が美容業界を席巻しているに違いない。
完
数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)
早熟の美容学生

学校とバイトと遊びに明け暮れていた毎日だったが、いよいよ就職活動の時期がやってきた。他の生徒が様々なサロンを受ける中、渡辺は青山にある某有名サロンしか受けなかった。
「専門学校の1年生の時から色々とサロンを調べて、どこに就職するか決めていました」
18歳の時から、「どのように生きていくべきか?どうやったら生きていけるのか?」を常に考えてきた。
「当時は、ブリーチなどが主体のティーン向けの美容室が美容学生に流行っていました。しかし、そのような美容室を求める顧客層は全人口の1割以下で、ほとんどがコンサバティブを求める層です。ですので、コンサバティブが得意なサロンに入ろうと決めていました」
将来は青山にある某有名サロンに入社すると決めていた渡辺は、高倍率の試験に突破して念願のサロンに入社することができた。
社会人

専門学校を卒業し、ついに社会人としての生活が始まった。
「大変だろうなとは思っていましたので、時間的な辛さはなかったですね。美容学生の時も、朝9時に学校行って午前0 時にバイトが終わり帰宅するという生活をしていましたので・・・」
時間的な辛さはなかったが、別のプレッシャーが渡辺を襲った。
「美容師ほど毎日色々な人に会う仕事はないと思うので、そこでのプレッシャーがありましたね」
順調にキャリアを積んでいた渡辺だったが、お店と自身が考える接客との相違が露見し始めた。
「ちょうど色々と悩んでいるときに、当時の上司が仲間とMARISを立ち上げるということになり、自分も合流することにしました」
MARIS

上司が仲間とMARISを立ち上げるということで、渡辺も合流した。時代はブログ全盛期。著名な芸能人がブログに紹介してくれた。
「もともと最初に入社したサロンの時からの流れで撮影とかしていて、モデルさんとかタレントさんの繋がりがあったのですが、自分がスタイリストになった時にお客さんを紹介してくれました」
様々な著名人がブログで紹介してくれたことも後押しし、連日お客さんが押し寄せた。
「色々タイミングも良かったこともあり、MARISは立ち上げからビックリするぐらい順調に行きましたね」
続く
数多くの芸能人やタレントを顧客に抱える人気美容室「Liko by maris」代表、渡辺圭。なぜ渡辺は芸能人やタレントにそこまで支持されるのか?渡辺の過去・現在・未来に光を当てると、その答えが自然と見えてきた。(敬称略)
勉強嫌い

生まれは新潟県十日町市。着物を作る両親の元に生まれた。
「子供の頃はスポーツしかやってなかったですね。小学生の頃はサッカー、野球、空手、相撲などやっていました。特に両親から強制されたわけでもなく、気が付いたらやっていた感じです」
中学生になるとスノーボードとスケートボードに熱中した。思春期に入ったこともあり、学校は休みがちになった。
「中学生になってグレてしまったというか・・・。不良グループに入ったりとかそういうことではないのですが、学校もちょいちょい休んだりしていましたね」
中学を卒業した渡辺は、地元の高校に入学した。
「その高校は授業選択が自由で、カリキュラムを自分で作れる自由な高校でした。洋服作って、絵を描いて、料理を作ってという感じでしたね。とにかく勉強が嫌いでした」
プロスノーボーダー

勉強が嫌いだった為、高校ではクリエイティブな科目ばかりを選択した。高校に行かない日は、スケートボードをしたり友達同士で集まるのが日課だった。
「その当時、将来はプロスノーボーダーになるものだと漠然と思っていました。しかし、高校3年生の時に「これはなれないな」と気付きました」
洋服を作る授業を選択するほど洋服が好きだった渡辺は、洋服のデザイナーになろうと考えた。しかし、アパレルの専門学校の入学願書の募集は、どこも締め切られていた。その当時まだ募集をしていたのは、美容専門学校だけだった。
「東京に出てみたいというのもあったので、中野にある窪田理容美容専門学校に入学しました」
美容専門学校の授業料は、学生ローンで賄った。
「美容師になると決めた時に、両親は特に反対も賛成もしなかったですね。やりたいことやりなさいという感じでした。ただ、「やるなら全て自分でやりなさい」と言われたので、学生ローンでお金を借りて専門学校に入学しました」
東京

東京でのアルバイトが決まっていたため、卒業式の翌日に上京した。
「お金を稼ぐ必要があったので、高校を卒業した翌日から東京に出てアルバイトを始めました。さすがにホームシックになりましたね(笑)」
専門学校は1日も休まず通い、生徒会長も務めた。自分で授業料を払っていた渡辺は、学校を休むとどれだけもったいないかを他の生徒より認識していた。
「専門学校の授業料や材料代を合わせると、だいたい300〜400万はかかります。それを目の当たりにすると、無駄にはできないと思いましたね」
学校に通いながらも、アルバイトと遊びも同時にこなした。
「学校に行ったあと夕方から23時までバイトして、そこから遊びに行ってという生活でした。もともとあまり寝なくても平気なタイプなので、要領よく遊んでいましたね。当時は銀だこで働いていたのですが、自分が働いていた中野の店舗は、売り上げが日本で一番の店舗でした。バイトにしては高額な給料をもらっていたので、生活は余裕でできましたね」
続く
女性目線でのセルフブランディング術を用いたセミナーで全国を駆け巡り、業界誌の撮影などでも活躍中の藤原愛莉。Instagram等のSNSでも数多くのフォロワーから絶大な支持を得て、その勢いはとどまることを知らない。そんな藤原愛莉が歩んできた、過去・現在・未来が今明かされる。(敬称略)
美容業界

藤原が働き始めた頃の美容業界は、今よりもまだ労働環境面が整備されておらず、体育会系のノリも残っていた。
「今はすごくユルくなったというか、優しくなったと思いますね(笑)。「私たちの時はこうだったのに」とかは思うのですが、時代に合わせて変えないといけないと思いますし、それは昔から上の方も感じていた事だと思います」
体育会系的な教育方法に対して、藤原は常に疑問を抱いていた。
「昔は休みもなくて当たり前でしたが、今は休みや社会保険もあるし、働き易くていい環境だなと思います。昔いたサロンではお客さんの前で先輩に怒鳴られて、お客さんに慰められた事もありました(笑)。私はそういうやり方が嫌いだったので、当然自分では絶対にしないです」
遊びのススメ

社会人なら誰もが思うことだが、働き始めるとまとまった時間の確保が難しい。現役の美容学生には、寝る間を惜しんでやりたいことに時間を費やして欲しいと藤原は言う。
「美容学生のうちは死ぬ気で遊んでいた方がいいですね。自分も美容学生の時は遊んでいたつもりだったのですが、今考えるとまだ足りなかったなと思います(笑)」
今でこそ多少の休みも取れるようになったが、働き始めの頃は休みの日にサロンワーク以外の仕事が入ることも多かった。
「働き始めた時に、美容学生時代はあんなに時間があったんだなと改めて思いました。休日に撮影やセミナーが入ると、完全オフの日を作るのが困難になります。旅行でもなんでもいいので、学生のうちに働いたらなかなかできない事をたくさんしておいて欲しいですね」
未来

藤原が体現する“対お客さん”のスタイルは、そのままBelleのスタイルであるとも言える。
「うちのお店では全員接客というか、1対1にならないような接客を心掛けています。「アットホーム」「スタッフさん仲良いですね」とよく言われたりするのですが、そのような雰囲気がお客さんに受け入れられているのかなと思いますね」
今後も可能な限り、美容師であり続けたいと思っている。
「できるだけサロンワークは続けていきたいと思っています。“対お客さん”という立ち位置であり続けたいですね。私はこの仕事が好きで十数年間ずっとやってきました。好きなことを貫くのは大変ですが、この仕事はやりがいがありますし、東京というチャンスが多い場所に来たからには、できる限りのことに挑戦したいですね」
一期一会をモットーに、今日も藤原はハサミを握る。
「美容師はその人の人生に携われる素敵な仕事ですし、自分にとっての天職だと思っています」
完
女性目線でのセルフブランディング術を用いたセミナーで全国を駆け巡り、業界誌の撮影などでも活躍中の藤原愛莉。Instagram等のSNSでも数多くのフォロワーから絶大な支持を得て、その勢いはとどまることを知らない。そんな藤原愛莉が歩んできた、過去・現在・未来が今明かされる。(敬称略)
東京

大阪で充実した美容師生活を送っていた藤原だったが、29歳の時に転機が訪れた。東京で美容師として働く決断を下したのだ。
「もし東京に行っていたら、自分はどうなっていたのかな?と考えるようになりました。仮に東京で働くにしても30歳になったら採用してもらえないかもしれないし、ましてや10年後に思い直してもこのままでは後悔するなと思い、突発的に行動しましたね」
専門学校、そして社会人の船出を関西で切った藤原にとって、初めての“東京への挑戦”だった。
「当時から東京には月1回くらい来て撮影とかしていたので、その際に色々とリサーチはしていました。今働いているBelleは1回お店に切りに来た時に、直感で「働くならここかな?」と思いました。勢いだけで決めましたね(笑)」
リスタート

Belleに直談判した結果、入社が認められた。大阪から東京に活躍の場を移した藤原だったが、東京ではアシスタントからのリスタートだった。
「大阪ではお店の幹部として働かせてもらっていたのですが、Belleでは中途でも全てアシスタントからスタートだったので、めっちゃしんどいなとは思いました(笑)」
程なく社内のスタイリストチェックに合格し、スタイリストになった。
「今はアシスタントがいるので、そこがありがたいですね。アシスタントのお陰で多くのお客さんを対応できますので。1人だとやはり限界がありますし、お店全体でお客さんを対応している感じがいいなと思いますね」
大阪時代はアシスタントがいなかったため、全て一人でこなしていた。しかし、今はアシスタントのお陰で多くのお客さんの髪の毛を切ることができる。
SNS

フォローしている読者も多いと思うが、今やインスタでは3.4万人からフォローされている藤原。入社当初から、BelleのSNS関連の底上げを期待されていた。
「今のお店に入った時は、私自身のフォロワーも少なかったです。それ以上に今のお店のスタッフがSNSをやっていなかったので、それに比べればやってる方だったという感じでした」
今に至るまでの道のりで、フォロワーを獲得するために特別なことは何もしてこなかった。
「昨日やって今日どうこうとかではなく、4年間着々とやってきたことの積み重ねの成果だと思います。伸びるきっかけは何回かありましたが、地道に続けないとこうはならなかったと思いますね」
全国各地でのセミナーも精力的にこなす藤原だが、そこでSNSについて聞かれる事も多い。
「参加者が自分のインスタを見せてきて、「どう思いますか?」と聞かれる事もあるのですが、そもそも私とその人とではフォロワーもブランディングも違います。結局、その人のやり方を分析して、その人なりにやる必要があります。まるまる教えてもその通りにはならないよとは話していますね」
続く
女性目線でのセルフブランディング術を用いたセミナーで全国を駆け巡り、業界誌の撮影などでも活躍中の藤原愛莉。Instagram等のSNSでも数多くのフォロワーから絶大な支持を得て、その勢いはとどまることを知らない。そんな藤原愛莉が歩んできた、過去・現在・未来が今明かされる。(敬称略)
島根で過ごした子ども時代

藤原は島根県松江市出身。動くのが好きだったこともあり外で遊ぶことが多く、球技にもよく取り組んでいた。
「母がバレーボールをしていたのと、田舎の小学校でバレーかバスケの選択しかなかったので、バレーにしました(笑)」
中学校に進んでからも、藤原はそのままバレーボールを続けた。
「そんなに強いチームじゃなかったので、ほどほどというか人並みにやっていた感じですね」
その後、進学した高校でもバレーボールを続けたが、高校2年の時に膝を怪我して退部せざるを得なくなった。それからは、友達とカラオケや古着屋巡りに時間を費やす日々が続いた。そして、進路選択の時期に差し掛かったとき、藤原は既に現在の職業である美容師になると決めていた。
「当時から友達の髪の毛を触ったりするのが好きだったので、気付いたら美容師かなって思っていましたね」
両親に反対されることもなく、自分の選択を信じて高校を卒業した。
大阪

高校を卒業した藤原は、関西にあるグラムール美容専門学校に入学した。
「東京の専門学校も見たのですが、関西弁がいいなというか、大阪に住みたいと思いグラムール美容専門学校に決めました(笑)。今考えると、東京で就職考えるならもっと早く東京に来てればよかったと思いますが・・・。それでも関西が楽しくて、結果的に10年ぐらい住んでいましたね」
初めての一人暮らしに戸惑いがあったのかと思えば、意外にもすんなり慣れることができた。
「高校から専門学校の5年間は皆勤というぐらい、学校はちゃんと行くタイプでした。学校に行って寝てたりはありましたが(笑)。一人暮らしを始めて、自分のこともちゃんとやるようになりましたね。実家にいるときは手伝いとかあまりやらなかったので・・・」
美容師

専門学校を卒業した藤原は、東京と大阪で就職活動をした。そして、大阪の美容室に就職した。ついに社会人としての一歩を踏み出した。
「アシスタント時代は、「美容師ってこんな感じね」と分かったというか・・・。しんどいと聞いてはいましたが、本当にその通りでしたね」
美容師として新たな人生を歩み始めた藤原だったが、そこで予期せぬ体調不良に見舞われた。
「結果的に、最初のお店は体調が悪くなり辞めてしまいました。そして、その後に4年くらい働いた別のお店でジュニアスタイリストになりました」
そこで当時一緒に働いていた先輩に、独立して新しい美容室を出店するので一緒に働かないかと誘われた。
「せっかく誘ってもらったというのもあり、オープニングスタッフとしてその美容室に入りました。そこは業務委託のお店だったので全部自分でやるスタイルだったのですが、今考えるとそれを経験しておいてよかったなと思いますね」
大阪での生活に満足していた藤原だったが、徐々に自分の意識が東京に向かっていた。
続く