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徳永優子〜ハリウッドまでの軌跡 Vol.3〜

マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)

骨董品屋

アメリカに渡って3年が経ったころ、徳永は馴染みの骨董品屋に足繁く通っていた。

「骨董品屋さんに行くとインスピレーションをもらえるので、何回か通わせてもらっていたのですが、そのうちに和とアメリカのものを融合させると徳永優子が生まれるということが分かりました。自分の中では凄い発見でしたね」

その骨董屋のオーナーが偶然にも映画界にコネクションがあり、「シカゴ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画監督でも有名なロブマーシャルを紹介された。そこから、徐々にハリウッドの仕事が徳永に舞い込むようになった。

「当時は全てを同時進行でやっていましたね。ハリウッドという世界を私は知らなかったですし、どうなるかも分からなかったので。ハリウッドの世界で食べていけるとも思っていなかったですしね」

挫折

自分のサロンと学校も経営していた徳永だったが、さらにハリウッドの業界にも足を突っ込む形になった。

「最終的にはそれらが全て繋がりましたね。」

その後の活躍は語るまでもないが、今でも忘れられない飛躍のきっかけとなったある出来事があった。

「最初は掃除などの雑用等、日本の美容師気質でどんなこともやっていたのですが、それで怒られたことがありました。「この人は掃除をするために来ているのに、お前はその人の仕事を奪っているんだぞ」と言われた時に、悔しくて涙が出てきて・・・」

日本のことは分かっていてもよその国のことを分かっていない自分と、自分の良さを侮辱された悔しさ。非常に傷付いたが、そこから立ち上がった。立ち上がると、自然と道が拓けた。

「自分にも技術と信用が付いてきたので、ついに辛抱できなくなって自分を出しました。そこからは凄いことになりましたね。それまでは「徳永優子ちゃん」として頑張って日本人を演じていたのですが、自分を出してからは周りの見る目が変わりました。そこからはハリウッドの波に乗って行きましたね」

ハリウッドで生きていくということ

そこから、ハリウッドでの徳永の快進撃が始まった。エミー賞(アメリカのテレビドラマを始めとする番組のほか、テレビに関連する様々な業績に与えられる賞であり、映画におけるアカデミー賞、音楽におけるグラミー賞に相当する)に関しては3回ノミネートされている。

「そこから後が大変でしたね。「お前はなんでエミーが出来てこれができないんだ!」と言われたり・・・。それも乗り越えて、本物の私のスピード感とカメラにかける根性とか精神力とか、私自身の性格をみんなが知ってからは、ハリウッドは私の世界ですよ(笑)」

ヘアメイクアーティスト、ヘアサロンオーナー、美容学校の創設者。3つの肩書きを有し、ハリウッドで今なお活躍している徳永。38歳でアメリカに渡り今に至るその姿は、まさにアメリカンドリームを手に入れた日本人と言えるだろう。そんな徳永に憧れ、異国での活躍に思いを馳せる日本の若者も少なくない。

「海外に行って自由になりたいとかカッコいいからとかではなく、自分が何を持っていけるかということが一番大切です。何か一つ絶対に自信があるものを持って行くことが必要ですし、それがない限りは来ない方がいいかもしれません」

38歳でアメリカに行き、自分で道を切り拓いてきた。決して平坦な道ではなかったが、徳永は日本人でもハリウッドで活躍できるということを結果で証明した。次の徳永優子が日本からやって来るのを、彼女は期待して待っている。

マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)

アメリカ

若くしてヘアメイクアーティストとして活躍していた徳永だったが、当時は仕事で海外に行くことも多かった。

「あの頃はハワイで結婚式をするという事で、ヘアメイクとして呼ばれることがよくありました。世界中飛び回っていて日本にいなかったので、うちの父なんかは怒っていましたね(笑)」

世界中を飛び回ったのち、徳永は38歳で子供を連れてアメリカに渡った。

「例えばイギリスとかだと、伝統を重んじる習慣だとか日本とそんなに変わらないですよね。ヨーロッパは日本とかなり近いところがあるので。しかし、アメリカは日本にないものを持っているし、教育面でも日本とは異なりますのでアメリカに行こうと思いました」

日本にいる時から英語を使う機会があったので、言葉でそこまで苦労はしなかった。

「日本でもかなり英語を勉強していました。京都で働いているときにも外国人の方が多かったですし。当時の師匠は、時代的な背景もあり外国人にあまり慣れていないところがあったので、自分が全て対応していました。その頃から、今後必ず英語が必要になるという予感はしていました」

ゼロからのスタート

 新しい生活の場所として選んだのは、アメリカのロサンゼルスだった。

「子供もいて切羽詰まっていたので、アメリカならどこでもいいという感じでした。とにかく、日本から一番近いところといったらロスなので、ロサンゼルスにしました。早く生計を立てたいという一心でしたね」

まさに、ゼロからのスタートだった。

「アメリカに行き、自分の人生が新たにゼロ歳から始まったようなものでした。家も車も売って、貯金だけ持ってアメリカに行ったので、焦っているだけでしたね、その時は」

アメリカでは地元のビューティカレッジに通った。

「カレッジでの同級生は、みんな18〜19歳くらいの子達でした。私だけ年寄りだったので、お母さんのように振舞っていましたね(笑)。日本で培ってきたヘアメイクの技術はやはりみんな知りたがりましたし、カレッジに通いながらもアメリカでも積極的に仕事を取っていたのですが、他の生徒はそんなこともできないので色々と教えてあげていました」

自分流

カレッジでは徳永だけが技術を有していたこともあり、浮いた存在だった。そのうち、徳永を慕う学生が周りにたくさん集まり始めた。

「アメリカで仕事をし始めると、だんだんとみんな私に付いてき始め、小さなグループのようなものができました」

いざ仕事をし始めると、着物がベッドにかかっていたり、火鉢が金魚鉢になっていたりと、日本では考えられないようなシチュエーションがアメリカでは普通だった。

「京都で着付けの技術を学んだので、着付けにはかなりの自信がありました。しかし、アメリカではそれが役に立たないことに気が付きました。あれは日本の一つの文化であって、アメリカから見たらそうではないと分かった時に、自分が次のステージに行ったような感じがしましたね」

着物の伝統技術を有する徳永と、その伝統を無視したアメリカ流のクリエイション。その化学反応が徳永を成長させた。

「そこのショックから立ち上がった時には、アーティストの幅が2倍になりました。伝統的な技術も有しているし、アメリカならではの日本とは異なる要望にも柔軟に対応できるということで、現場などでも重宝されました。そこから、道が大きく拓けた感じがしましたね」

続く

マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)

着物への憧れ

徳永優子は愛媛で生まれて、神戸で育った。

「父が異端児で、彼の愛人のところで育ったという感じでした。父はいわゆる電信柱にある変圧器を製造していたのですが、周りには女性が多くいました。母親がいなかったので、着物を着て千歳飴を持った女の子がお母さんと通る場面を目撃するたびに、「私も着物を着たい!」という気持ちが湧き上がりコンプレックスでしたね」

当時は、父親の愛人が変わるたびに住む家も変わるという生活だった。

「複雑な家庭で育ったので、毎日家が違う感じでた。それが嫌で、16歳の時に家を飛び出して京都に行きました」

家出同然で京都に向かったが、特に当てがあったわけではなかった。

「有名な着物の先生が京都にいたので、その先生の下に入ったという感じです。今思い返しても、いろいろな先生に弟子入りしました。母親がいなくて着物を着る事が出来なかったため、その悔しさがモチベーションになって着物の世界に入りましたね」

ヘアメイクアーティスト

10代後半から様々な現場で揉まれたおかげで、21歳の時にはほぼ全ての技術を身につけることができた。当時は店舗に勤めながらも、フリーランスのヘアメイクアーティストとして色々と仕事を受けていた。

「当時は本当にがむしゃらでしたね。今とは時代が違いますが、なんでもやらなくてはいけないというか、トータルビューティが当たり前でしたので。着付けができたら次は髪の毛、次はメイクというような感じでした」

19歳の時には芸能界でダンサーになる事を目指していたが、結果的に気持ちが折れてしまった。そこからは、ヘアメイク一本でやっていく決心をした。そして、21歳の時にはヘアメイクアーティストとしてすでに独り立ちして、自分で仕事を取るようになっていた。

「若い頃は、自分はどんな事でもできるという自負がありましたね。着付けで相当な実力を付ける事ができたので、かなり自信がありました。もっとも、待っていても仕事が向こうから来るわけではないので、仕事は積極的に取りに行っていました」

持ち前のバイタリティで、芸能関係も含め様々な仕事を積極的に取りに行った。特に着付けに関しては相当の実力を有していたため、数多くの仕事が舞い込んできた。

「着付けに関しては仕事が多くありました。その撮影現場などでメイク、ヘア、カメラさんを見た時に、それを全部取り囲む自分の姿が見えたというか、こういう仕事は今後流行るなと感じましたね」

結婚

血気盛んなヘアメイクアーティストとして活躍していた21歳の時に、徳永は結婚をした。

「自分も21歳だし、相手も悪い人ではないし・・・という流れで結婚しました。もっとも、三食作っていいお母さんになるというのではなく、自分で稼いだお金はすべて技術の勉強に注いでいましたね」

当時は、安い金額で技術を教えてくれる人などいなかった。

「80年代というのは、お金を出さないと技術を教えてくれない時代でした。今みたいに、2000円〜3000円の講習などありませんでしたから」

今では想像できない金額を、技術の勉強のために注いだ。

「当時は、可愛がってもらい弟子になって、師匠にお金を積んでからゆっくり教えてもらう、みたいな流れが一般的でした(笑)。ですので、家が一軒建つくらい、当時は相当お金をつぎ込みました」

続く

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

Lapilie & DLAW

理想の物件を手に入れて、満を辞して自分のネイルサロンをオープンさせた。

「最初は「お客様が来てくれるかな?」という不安とかあったのですが、結果的にその不安は無くなりました。ただ、人を雇うということで、自分だけの問題ではなくなるところが今までと全く異なっていますね。人の人生を預かる、そういう立ち位置ですので」

Lapilieは現在5年目。2店舗目として、Lapilieの目の前にDLAWもオープンさせた。

「Lapilieは3席しかないので手狭になり、ちょうど目の前の物件が空いたので借りました。そして、せっかく借りるならもう一つブランドを作ろうと思って、DLAWという名前にしました」

Lapilieの名前の由来は、特に意味がないという。

「Lapilieの言葉自体には意味はなく、響きが良い音をつなげて作りました。あえて意味を持たせていません。最初は何もないですが、それが時間とともに意味があるものに変わっていくと思って付けました。また、DLAWは描くという意味の「DRAW」をもじったのですが、うちの店はネイルアートの中でも特殊な素材を使ってアートを生み出します。そういうものを描くという意味や、お客様や関わってくれる人たちの人生の一部を描くという意味が込められています。また、いつかオリジナルのプロダクトを作っていきたいと思っていたので、それらを描くという意味も込められています」

ネイリスト

誰よりもネイリストという職業に誇りを抱いているからこそ、RISAはネイル業界の変革を望んでいる。

「ネイリストはもっと可能性がある仕事ということを、他のネイリストにも知ってほしいと思います。自分はネイル業界にはいますが、業界自体にはそこまで関わっていません。ネイル業界がやっていることは10年前と変わらないと思っていたので、これまで自分のやり方でずっとやってきました」

旧態依然とした古い体質のネイル業界に魅力を見いだすことが出来なかった代わりに、これまで独自のアプローチでやってきた。

「そもそも自分は天邪鬼でみんなと同じことをしたくなかったので、ファッションだとか違う業界の人と関わってきて、そこから得るものの方が大きかったと思います。自分のやり方でやってきた結果、ネイリストはすごい可能性がある職業であることに気付きました」

古い体質のネイル業界に対して、一石を投じたいと誰よりも思っている。

「ネイル業界に自分が関わっていることも確かなので、そこに自分のスタイルを変えないで貢献できることがあれば貢献したいと思います。自分みたいなネイリストもいるというのを知ってもらえれば、ネイリストに対する価値観も変わってくると思いますし、ネイリストの皆さんにはそこのアンテナを張っていてほしいです」

未来

独立して5年、思い描く未来も明確になってきた。

「とにかくブランディングをより確立させたいと思っています。ネイル業界に変わらずに居座るのがカッコ良いとは思っていなくて。例えば、シャネルやディオール、ルイ・ヴィトンなどはデザイナーやディレクターは代わっていきますがブランドはずっと残ります。そんな感じで、LapilieやDLAWを残したいと思いますね」

ブランドは一朝一夕にできるものではない。そのための努力は惜しまない。

「自分自身が表に出たいとは全く思わないです。もし自分が表に出て、それがブランドのために役に立つのなら考えますが・・・。お客様ありきで成り立っているので、お客様の満足度を下げない範囲で色々やりたいと思っていますし、

ここで働くことでスタッフが価値を感じるようなブランドづくりをしたいですね」

今ではネイル以外にもジュエリー制作も行っており、ネイリストの活躍の場をさらに広げている。RISAの下で働いているスタッフは全員楽しそうだ。

「情報発信して技術を確立させたいという子には、自分で企画やセミナーをやらせます。ファッションに興味があるならジュエリー分野に関わらせます。プラスアルファでやりたいことがあればやる。そこが今までのネイリストとは違うと思います。その部分に価値を感じて、ここで働くことに喜びを感じてもらいたいですし、そういうブランドづくりをしていきたいと思います」

ネイル業界の変革は、ここ原宿からすでに始まっている。

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

専門学校

 ネイリストになることを決めたRISAは、3歳上の憧れの先輩が通っていた名古屋ビューティーアートに入学した。

「トータルビューティーを学ぶコースにいたので、エステ、メイク、カラーコーディネイト、着付けなどの様々な検定を取る必要がありました。とにかく検定の連続でしたね。一つの検定が終わったら次の検定をすぐに受けなければならないので、自宅に帰って練習したりもしていました。アルバイトなどする時間はほとんどありませんでした」

やがて就職活動の時期に差し掛かり、入学してから1年半で就職できる早期就職制度を利用して、ある大手ネイルサロンへの就職が決まった。

「ちょうど就活を始めようと思っていた時期に、東京のサロンが名古屋に店舗を作るということで、オープニングスタッフの募集説明会がありました。そこは入社して最初の半年間は東京で研修して、そのあと名古屋で働けるとのことでした。最初は自分の中で東京に上京したいとは特に思っていませんでしたが、「半年だけ東京行けるなら行ってみたいな」と思い、面接試験を受けました」

結果的に、その会社の入社試験に合格して、入社が決まった。入社試験を受けたのは、そのネイルサロン1社だけだった。そして、ついに東京で社会人としての生活が始まった。

東京

専門学校を卒業して、ついに東京での生活が始まった。勤務先は渋谷だった。東京をあまり楽しむ余裕もなく、仕事中心の生活だった。

「自分はかなり早い段階で正規のお客様に入ることになったので、戸惑いというか、考えている暇もないような感じでした(笑)」

あっという間に半年間が過ぎた。本来ならば、半年間の研修が終わったら名古屋に戻らなければならない。しかし、RISAの何気ない一言がその後の生活を一変させた。

「当時、一番トップの上司に「東京が面白いので、まだ帰りたくないです」とボソッと言ったことがありました。そしたらそれを真剣に考えてくれて、「それなら、東京で生活できるように準備するから、東京で頑張ってみれば?」と言ってくれて、そのまま東京に残ることになりました」

何気ない一言から、そのまま東京に残ることになった。それから独立するまで5年半働いた。その間に、店長やPR等、様々な仕事や役職も経験した。

「ものすごくハードなお店でした。時間は長いし、やること多いし、休み少ないし。その分、やりがいはすごくありました。それで、ここではやりきったというか、先が見えたというか・・・。これ以上やるなら、もう自分でやるしか選択肢がないかなと思い退社しました」

 独立

5年半働いたネイルサロンを退職したRISAは、ネイルサロンをオープンさせた。

「そこはオーナーが別にいて、自分は雇われオーナーのような感じでした。店を出したいという人がいて、立ち上げを手伝ってくれないかと言われて・・・。ステップアップという面でも、いきなり全部自分でやるよりはいい話だと思い、1年くらいやりました」

あらゆる面での負担が少ないために始めた共同でのサロン運営だったが、徐々に悩み始めた。

「結局、そのような形は自分でやるのとは違うなと感じました。責任もないですが、自分に決裁権があるわけではないので、作れる幅も狭まりますし。そういう面でも、やはりこの形だと前と何も変わらないのかもと思ってしまいました」

自分で全て決めてやりたい。その想いのもとに、今度は完全なる自分の店を出した。

「以前からgricoのエザキさん(grico代表のエザキヨシタカ氏)に色々とよくして頂いていて、gricoが入っているビルの一室が空くことを教えてもらいました。gricoのビルは以前から知っていて、ネイルサロンをやるならこのぐらいの立地とスペースがいいと思っていたので、その話をもらった時には即決しました」

続く

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

アクティブ女子

生まれは岐阜県多治見市。一人っ子で、母親に育てられた。

「小学生の頃は、男の子といつも遊んでいる感じでした。女の子同士で遊んだりとかはあまりなかったですね。いつも男の子たちと集まって、外で遊んでいました」

母親の勧めで、保育園の時から水泳をやっていた。

「体が強くなるようにとの親の勧めで始めて、小学校5年生までやっていました。そのあと、走るのが得意だったのでクラブから入部を勧められて、短距離をやっていました」

中学生になると、バスケ部に入部した。ポジションはフォワード。最終的には、副キャプテンとなりチームを牽引した。

「特に誰に憧れてとかではなく、楽しそうだなと思い仲の良い子たちとみんなで入部しましたね」

勉強の方は文系の科目が得意だったが、それよりも得意だったのが美術で、成績も良かった。

「昔から絵を描くのが趣味で、自宅には色鉛筆やノートがたくさんありましたね」

ダンス

中学を卒業したRISAは、地元の高校の進学コースに入学した。

「高校からはダンスを始めました。音楽が好きだったので、その延長で始めた感じです。深夜にみんなでレッスンとかもしていました。周りの影響もあり、HIPHOPがすごい好きでした。逆に、ロックとかはあまり聞いたことがなかったですね。あと、海外志向が強かったため英会話の学校にも通っていました」

通っていた高校では進学コースに在籍していたこともあり、ダンスだけでなく勉強もする必要があった。

「当時はこれといった明確な夢などはなかったのですが、選択肢を広げたいという思いがあったので、本当はやりたくなかったのですが勉強はしました(笑)。大学に進学するのか専門学校に進学するのか、どうなるか分からなかったので・・・。進路を選べるようにしようと、それなりに勉強はしましたね」

大学に行くか美容の専門学校に行くか迷っていたが、一緒にダンスをしていた3歳上の憧れの先輩がネイリストになったことが、のちのRISAの人生に大きな影響を及ぼした。

「もともと美容に漠然とした興味はありました。しかし、職業としてのネイリストを意識したのは、仲良くダンスをしていた憧れのお姉ちゃんのような存在の人がネイリストになったからですね。その人自体が憧れの存在だったので、その人がなったネイリストという職業にもすごく興味を持ちました」

ネイリスト

ネイリストという職業を知ってから、それを目指すようになるまでに時間はかからなかった。

「こんな職業があるのだと思いました。その人が実際にネイリストとして活躍している姿を見たら、さらにいいなと思いましたね。もともと絵を描くことや表現することが好きだし、美容にも関われるのでネイリストはまさに一石二鳥だなと。絵を描いてご飯を食べるのは難しいですが、ネイリストはそんなこともないですし」

ダンスでプロになるという道は考えなかった。

「自分は石橋を叩いて渡るタイプなので・・・。高校生ながらにして、ダンスで食べていくのは難しいと思っていました。そこは、母親の影響が大きいと思いますね。自立心は早くから芽生えていたと思います」

進学コースに在籍していたため、クラスメイトは全員大学に進学予定だった。そのため、担任の先生はRISAにも専門学校ではなく大学進学を勧めてきた。

「本当に専門学校に行くのか?と先生からは面談の度に言われました(笑)。母親も最初はあまり理解していない様子でしたが、専門職の強みを話したりして、最終的には理解してもらいました」

結果的に周囲も納得し、名古屋にある専門学校への進学が決まった。

続く

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

美容業界

「MR.BROTHERS CUT CLUB」をオープンしてからこれまでで、西森が身を置く美容業界もだいぶ様変わりした。

「上からでもなく下からでもなくフラットに言うと、僕が「MR.BROTHERS CUT CLUB」を立ち上げた時の業界は死ぬ程ダサかったです。ダサいと言うとトゲがありますが、自分には全然響いてこなくて。ヘコヘコしてて、自分たちのこだわりを出さずに、ファミレスみたいなサロンが多かったと思います。何が得意かを一言目に言えないし、メンズもモードもコンサバも全ジャンルできるけど65点みたいな」

紋切り型の金太郎飴のようなサロンも必要だが、それだけでは美容業界の未来はない。

「それが今ではgricoのエザキさんだったりSHACHUのみやちさんだったり、何でも屋じゃない専門家たちが尖って出てきているので、なるようになってきたなと感じますね。業界自体がすごく良くなってきていて、すごくいい時代だなと思います」

まさに、西森が思い描いていた理想の美容業界になりつつある。

「例えば、自分たちもテクニックを用いたカラーはできないし、レディースもできない。なんなら断っています。メンズカットひとつしかできないけれど、そのひとつがおそらく200点の自信があります。どんなサロンが出てきても自分たちは負けない自信がありますね」

美容学生

将来の美容業界を担う学生に対しても、西森は期待をしている。

「綺麗事を言うと、無駄なことは一つもないと思うので、学校で教わる最低限のことは絶対にやったほうがいいと思います。学生の時に、これは自分に必要で、これは必要ではないなどと言う資格はないと思っているので。言われたことはちゃんとやって、その中でやりたいことを選んでいくべきですね」

毎年多くの美容専門学生が、「MR.BROTHERS CUT CLUB」で働きたいと訪ねてくる。

「うちも、「メンズを極めたいです」「レディースはやりたくないです」と来てくれる学生がいるのですが、それはまだ早いと思いますね。将来的にレディースでカリスマになるかもしれませんし。全て色々やった上で、物事を選んでいくのが一番いいと思います。それでは、ピーマンを食べたことがないのに「ピーマンは嫌い」だと言っているのと同じですからね。よく美容専門学生の子達も髪を切りに来てくれるのですが、「楽しそう、ラクそう」でブラザースを選ぶなとは言っています。自分達もこれまで散々苦い水を飲んできて、今があるので」

挫折はしない

外に見せないだけで、西森は不断の努力で今の立場に上り詰めたのだ。それだけに、仕事に対しても決して譲れない自分のポリシーがある。仕事を始めてからは、いわゆる挫折をしたことは1回もない。

「仕事を始めてからは、かっこいい言い方すると挫折しないように頑張ってきましたので、挫折は1回もないです。挫折って、どうしようもないことが起こったときになると思います。例えば、片手が動かなくなって仕事ができなくなるとか、親が大病を患って東京で美容師を続けることができなくなるとか。俗に言うテストに受からない、デビューできない、売り上げが伸びないというのは挫折ではなくてお前が頑張れよという話ですね」

外見からは努力という言葉が似合わないが、実は誰よりも努力してきた。そして、なお努力し続けているからこそ今がある。

「ブラザーズを立ち上げる時も、もしかしたら自分に根性がなかったら独立失敗して挫折していたと思いますが、そうならないように毎日しこたま努力していたので、挫折はしなかったですね。なので、自分は挫折をしたことがないですし、これからもしないと思いますね」

未来

西森にとって美容師とは「ツール」であるという。もしこの仕事をしていなかったら繋がれなかった人達とも繋がることができるツール。

「あえて言うなら、そのツールをどう色付けて、どういう人が寄ってくるかと言うことですね。自分が髪を切れたから繋がれた人がたくさんいますので。「美容師」という職業は自分にとって生き甲斐というわけでもないし、「人生そのものです」というでっかいテーマでもなくて。コミュニケーションツールですね」

そのツールを手放す気は毛頭無い。

「最終的にはずっと切っていたいですね。それがなくなると、今まで繋がっていた人が離れていく気がしますし。なので、店も出すし、プロダクトも作るし、アカデミーも作りますが、最終的には今の気の知れた仲間たちと気の知れたお客さんの髪を切っていたいですね。どんどんシンプルにしていきたいです」

アカデミーの創設を始め、まだまだやりたいことは山ほどある。

「現役を退くことは全く考えてないです。なんか自分が終わっちゃいそうで。金に興味があるわけでもないし、経営者になりたいわけでもないし、経営について語りたいわけでもないですし。ずっとクリエイターであり続けたいですね」

流行は絶えず移り変わるが、西森のスタイルはいつの時代も決して変わらない。そのスタイルを維持できるのは、当たり前だが人知れぬ不断の努力があるからである。西森が創り出す未来を期待せずにはいられない。

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

就職

やがて専門学校の2年生になり、社会人になる時が近づいてきた。

「卒業式3日前まで就職が決まってなくて・・・。なんかやる気がなくて、就活もしませんでした。最初は少ししたのですが、失敗してからやめました。自分の人生、専門学校を卒業する時がMAXではないし、適当に飲食店で働きながら就職先を探そうかなと思っていましたね」

そんなある日、原宿を歩いていたところディグズヘアが目に止まった。

「ディグズヘアはまだ採用試験を受けてなかったし、そこはギャッツビーのムービングワックスを作っていたので、オーナーの存在を知っていました。フリーターになるよりいいかなと思い、サロン見学をした際に店長と話す機会があり、「あさって面接試験があるから受けてみなよ」と言われて、面接を受けることにしました」

当日面接を受けにいくと、想像以上にライバルが多かった。

「結構な人が面接を受けにきていました。それも、ほとんどの人がプライベートでディグズヘアに髪を切りに来ているような熱狂的なファンでした。自分は一度も来たことがなかったですし、面接の最後に「数年で黒田さん(ディグズヘアオーナー)を超えさせていただきます」と言いました。グリッグリの頭でタトゥーを出して(笑)」

結果的に、西森は最終合格者2名の内の1名に入った。

「際立ってバカだったから受かったようです。自分はあまり必要性を感じないのですが、当時は一般常識テストのようなものがありました。歴代の首相を3人書けみたいな。それが、確か1点か2点でした。稀に見るバカだったようです(笑)」

そんな紆余曲折もあり、西森は無事に新卒としてディグズヘアに入社した。ついに社会人生活が始まった。

「アシスタントから始めたのですが、5〜6個上の先輩を余裕で超えられるなと思いましたね。とりあえず最短でデビューしようと思っていました。同時に、しこたま遊んでいましたね。3日寝ないで1日寝るみたいな。借金して遊んで、また借金して遊んでの繰り返しでした。もちろん、練習もバリバリやって」

努力の甲斐もあり、西森は2年という最短期間でスタイリストデビューをした。22歳だった。しかし、西森はある葛藤を抱えていた。

「自分はレディースをやりたくなくて、メンズだけをやりたいというのがありました。社長に直訴したりもしましたが、叶いませんでした」

MR.BROTHERS CUT CLUB

スタイリストになってから4年後に、西森はついに独立した。

「当時から自分の店を出す気が満々でした。25歳の時に独立する旨を店に伝えて、1年間の準備期間を経て、26歳の時に「MR.BROTHERS CUT CLUB」を原宿に出しました」

「MR.BROTHERS CUT CLUB」の構想は、西森が23歳ぐらいの時から抱いていたものだった。

「独立する前に、一度美容師をやめようと思ったことがありました。すごく窮屈な業界だなと思って。そんな時にドニー達(※カリフォルニアにあるバーバーの聖地「HAWLEYWOOD’S BARBER SHOP」のドニー・ハーリー)と出会いました。その時に「自分のやりたいことをやっていいんだ」と思い、そこから吹っ切れて全てがうまくいったという感じです」

当時、ドニー・ハリーはジャパンツアーをやっていた。それをアテンドしていたのが、現在西森と一緒にポマードを作っている北海道「barber shop apache」の川上昌博氏だった。

「仲の良いアパレルのお店にドニーのジャパンツアーを紹介してもらい参加しました。そこでの川上さんとの出会いは、本当に大きかったですね」

川上氏との出会いは、西村の行くべき道に確信をもたらした。

「自分は当時から撮影やカタログなどのメンズの仕事をたくさんやっていました。それを川上さんが見てくれていて、「君、それどこで習ったの?」という感じで言われて。「独学でやりました」と答えたら、川上さんに「俺が色々と手伝ってあげるから東京から発信してほしい」と言ってもらえて」

仲間

長年の構想だった「MR.BROTHERS CUT CLUB」が、原宿からついに始動した。

「最初は一人でやるつもりだったのですが、メンバーを募りたいと思い顔の広い後輩に相談したところ、紹介してもらったのが今の原宿の健士(城間健士)と晃男(倉田晃男)でした。そして、是非やりたいということになり合流しました」

原宿店の店長であるジュリアンとの出会いも、劇的なものだった。

「ジュリアンは当時他の店舗で働いていて、当時からバリバリ有名なスタイリストでした。他の人の紹介で、自分が独立する前に髪を切りに来てくれて。そして、髪を切ったその日にそのまま飲みに行って、一緒に働くことになりました。彼はその足で、当時彼が働いていたお店に辞めると伝えに行きましたね」

まるで何かに導かれたかのように、メンバーが揃った。そして、「MR.BROTHERS CUT CLUB」はオープンして以来一度も赤字になったことがない。

「赤字のお店をどうこう言うつもりはありませんが、しこたま頑張りましたね。お客さんがいないんだったら捕まえに行ったし、家に直帰することなんか1日もなかったし、必ずどこかに行って人と会って名刺を配ってという感じでしたね」

オープン当初はもちろん誰もお店のことなど知らない。「MR.BROTHERS CUT CLUB」をみんなに知ってもらうため、起きている間はそのことだけを考えていた。

「今ならお店も知ってもらえていることが多いですが、その頃は無名ですし、海外のブランドを引っ張ってきたわけでもないし、自分のあだ名から生まれた「MR.BROTHERS CUT CLUB」なんて名前は誰も知らないので。ジュリアンや健士なんかは、今では考えられないですがオープン当初はビラ配りとかしていましたね」

続く

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

漫画のような世界

西森は三重県四日市市出身。男三兄弟の真ん中として育った。小・中学校ではバスケに熱中していた。

「小中のときは身長が関係なかったので、選抜チームやクラブチームに入っていました。割としっかりやっていました」

中学校を卒業した西森は、地元の高校に入学した。

「高校は三重県でも下から1〜2番の、学歴最悪みたいな高校に通っていました。ヤンキーかネクラしかいないような高校でした。自分はそんなにグレてなかったですね。今もサロンではみんな仲が良いのですが、昔から同じように仲間を大切にするタイプでした」

当時から仲間を大切にしてきた西森だったが、周りの環境は普通ではなかった。

「自分は基本的に今と何も変わっていないですね。ずっとこんなおちゃらけてるような感じでした。ただ、地元がヤンチャだったので街は暴走族だらけでしたし、漫画みたいな世界でした。校舎内をバイクで走って窓ガラスが割れて、消火器が降って来るみたいな(笑)」

ヘアサロン

まさに漫画のような世界をくぐり抜けてきた西森だったが、高校時代に今の仕事につながるアルバイトに出会う。

「バスケを辞めた理由が怪我だったのですが、そのあと病気をしたり、しんどかった時がありました。将来はファッション系の仕事をしたいと思っていたのですが、髪切る仕事の方が楽しそうだなというのがあって、「絶対僕は使えるので、使ってください」とヘアサロンに直談判して、アルバイトをさせてもらいました」

持ち前のバイタリティを発揮して、高1からヘアサロンでアルバイトを開始した。

「高校に行ったり行かなかったりしながら高校の3年間、ヘアサロンでずっとアルバイトをしていました。今の仕事もそうですし、東京に行こうと思ったこともそうなのですが、何か劇的なターニングポイントがあったわけでもなく、流れでしたね。気付いたらそうなっていたみたいな。東京行くと決めたのも、「どうせやるなら日本一だよな」と思ったからですね」

高1の時にサロンでアルバイトを始めてから将来は東京に行くと決めていたので、高校時代は月に一度は東京に遊びにきていた。

「洋服買ったり、色々なサロンを見たり、東京に無理やり友達作って遊びにきていました。主に原宿近辺で遊んでいましたね」

東京

高校を卒業した西森は、東京の美容専門学校に入学した。

「親も特に反対はしませんでした。時々帰ってこいという雰囲気はありましたが。ただ、田舎の人というのもあるのですが、いまだに親には認めてもらってません(笑)」

高1の時から考えていた、東京での生活がついに始まった。

「東京に来たのも本当に流れのようなものだったのですが、地元にいる連中を置き去りにしたかったというのはありますね(笑)。一旗あげてくるからみたいな。本当は高校も辞めたかったのですが、専門学校に入るには高卒の資格が必要だったので、高校を卒業してから渋谷にある住田美容専門学校に入学しました」

美容学生時代は、「将来ビッグになって自分の店を持つ」というのが口癖だった。

「学校には真面目に通っていたのですが、練習はほとんどしませんでした。学校では目立っていた方だとは思いますが、成績も平凡でしたし、決して優等生ではなかったですね。専門学校の授業が終わったら、居残り練習しないで原宿の洋服屋回って、夜にお酒飲んで・・・、みたいな生活でした」

今ではトレードマークのタトゥーも、専門学生時代に入れ始めた。

「学校の先生には怒られましたね。「お前見えるところに入れるな!」とよく言われました(笑)」

そもそも西森がタトゥーを入れ始めたきっかけは、バスケットボールだった。

「アメリカのカルチャーが好きだったというのもありますが、やはりNBAの影響が大きいですね。NBAの選手はタトゥーがすごいので、それで自分でも壁がなくなって。昔から18歳になったら入れようと思っていたので、18歳になったら速攻で入れて、そのあとは毎月入れていましたね」

続く