サトーマリ〜 カリスマ女性美容師の現在地 Vol.2〜
主戦場を原宿から中目黒へと移し、今なお美容業界をリードし続ける「サトーマリ」(siika NIKAI)。 私たちはその華やかな活動に目が行きがちだが、同時にスタッフ及び美容業界の環境改善のために日々戦っている。独立・出産・子育てを経てたどり着いた現在の境地とは?美容師サトーマリのこれまでとこれから。(敬称略)
社会の洗礼
ハリウッド美容専門学校を卒後したサトーは、原宿の美容室に入社した。
「今考えてみても、1年目が一番辛かったですね。褒められなかったですし、いわゆる「理不尽さ」というのは社会に出ないと経験しないですから・・・。小さな店で同期がいなかったので、味方もいませんでした」
誰もが一度は経験する社会人としての洗礼を浴びた。
「モデルハントが辛いとか、休みがないのが嫌だとかはあまり思わなかったですね。私だけ怒られるとか、全部私のせいになるということの方が嫌でした。練習のために朝早く起きるとかは、何とも思いませんでした」
転機
そして、空前の読者モデルブームが到来。時代の波にも乗り、「サトーマリ」の名前は瞬く間に広まった。
「当時は雑誌が全盛期で、私はメンズから入ったのでCHOKI CHOKIで色々やらせてもらいました。読モブームの真っ只中だったので、読モがよくサロンに遊びに来ていました。そのうちAMIAYAちゃんが出てきて、髪の毛を担当するようになってから女性誌の依頼が来るようになりました。その結果、一般誌にたくさん出ているということで業界誌にも載るようになりましたね」
今やサトーマリの代名詞とも言えるカラーのイメージが定着したのもこの頃だった。
「毛先カラーとかも最初はAMIAYAちゃんの希望でやったのですが、当時は他にやっている人がいなくてそこから流行りました。運が良かったですね。それでカラーのイメージも付きました」
時代の波にも乗り、一躍有名美容師の仲間入りを果たしたサトーだったが、妊娠・出産を境に人生の転機が訪れた。
「妊娠した時に、そのサロンでは子供を育てながら働くという環境がまだ整っていませんでした。そういった不安から独立を決めました」
自分が求める環境がないのなら、自分でその環境を作るしかないという思いがサトーを突き動かした。
独立
2016年2月、学芸大学駅から徒歩2分の場所に「siika」(シーカ)を、2019年には中目黒に「siika NIKAI」(シーカ ニカイ)をオープンした。
「原宿はどちらかというと、「記念に1回だけ原宿で切ろう」という若いお客さんが多く、新規客で回す場合がほとんどです。もしお客さんがついても30歳を過ぎると足が遠のくことが多いので、原宿でずっとやっていくにはサロンワークだけではなく、情報発信等あらゆることをやらなくてはいけません。当時の自分は、それに疲れた時でした」
学芸大学は、そんな当時のサトーの心境と理想に合致した街だった。
「それまで地域密着のお店をやったことがなかったので、やってみたかったというのがあります。その方が意外と美容師としても楽しいのではないかと思って」
しかし、当初の思惑とは異なり想像以上に自分のスタイルがはまらなかった。
「自分が可愛くないと思うスタイルが受け入れられるのを見たときに、自分がハマってないと思いました。それならもう少し渋谷に寄ろうと思い、学芸大学のお客さんもいたので、近いところはどこだろうとなったときに思い付いたのが中目黒でした」
独立する前と後では、当初描いていたイメージにそこまで相違は無い。
「美容学校を卒業して就職する時もそうだったのですが、意外と期待していないというか、最悪を想定して物事を始めるので(笑)。ただ、人が増えれば増えるほど、それぞれ色々な思いが出てくるので、その全てに歩み寄ることの厳しさは感じています」
続く
主戦場を原宿から中目黒へと移し、今なお美容業界をリードし続ける「サトーマリ」(siika NIKAI)。 私たちはその華やかな活動に目が行きがちだが、同時にスタッフ及び美容業界の環境改善のために日々戦っている。独立・出産・子育てを経てたどり着いた現在の境地とは?美容師サトーマリのこれまでとこれから。(敬称略)
厳格な両親
生まれは茨城県。両親はともに教師だったこともあり、身なりなどにとても厳しい家庭環境に育った。
「小学生の頃は習い事をたくさんしていましたね。そろばん、ピアノ、英語などを習っていました」
地元の中学校に入学したサトーは、バドミントン部に入部した。
「両親がともに体育教師でバドミントンをやっていたので、それなら私も練習しなくて上手くできるかもと思ってバドミントン部に入部しました。運動神経は悪くもないのですが、良くもないという感じでした(笑)」
中学から高校にかけては、少しだけ反抗期だった。
「両親の教育が厳しかった分、ちょっとやだなという思いがありましたね。髪の毛も友達は好きにやっているのに、自分は思い通りにできないのがすごいストレスで・・・。「高校を卒業したら好きにしていい」と両親に子供の頃から言われていたので、それまで我慢していた感じですね」
進路
中学校を卒業したサトーは、親に勧められた高校に入学した。
「勉強はほとんどやらなかったですね。部活もやっていなかったので、毎日暇だなと思っていました(笑)。バイトもしましたが、それもそんなに続かなかったですし」
やがて高校2年生になり、進路を決めなければならない時期に差し掛かった。
「当時は就職氷河期でしたし、大学に行っても意味がないような気がして・・・。だったら手に職を付けたいなと考えていました」
数ある専門職の中で選んだのは、現在の美容師という職業だった。
「両親が厳しかったので昔から髪の毛とかあまり自由にできなかったのですが、一般企業に入ってまた髪型をうるさく言われるのも嫌だったので、それだったら美容師になろうと思いました。母親は大学に行かせたかったようですが・・・」
東京
当時は空前のカリスマ美容師ブーム。美容専門学校に入学するだけでも一苦労だった。8校受験して、合格したのはハリウッド美容専門学校だけだった。
「美容専門学校時代は楽しかったですね。ホームシックなども特になりませんでしたし。専門学校に通いながら、メキシコ料理屋さんでアルバイトもしていました」
美容専門学生時代、特に大変だったり辛かったりという思い出はない。
「私は器用でもないのですが不器用でもないので、美容専門学校の勉強などで苦労することは特になかったですね。辛いとかもなかったです」
ハリウッド美容専門学校を卒後したサトーは、原宿の美容室に入社した。
「当時は雑誌に載っていればどこでも良かったですし、実際にサロンに行ってみると人も良さそうだったので決めました」
いよいよ社会人としての、そして美容師としての新しい生活が始まった。
続く
独立
マツエクの世界で生きていくことを決めた池田は、青山にあるマツエクサロンに未経験で入社した。そこで技術を学び、7年後に満を辞して独立し、2016年に自身のサロン「 U-no grace(ユーノグレイス)」をオープンした。
「もともと表参道の店舗で働いていたので、お客様も来やすいだろうという事もあり場所は表参道にしました」
ここまで当初思い描いていた通りではないが、そこまで外れてもいないようだ。
「周りからは「上手くいっている方だよ」と言われるのですが、自分の中ではいい時もあれば悪い時もあるので、その都度気持ちが揺れ動きますね(笑)」
アイブロー
マツエク業界も、時代とともにそれを取り巻く状況が変化している。
「結構もう飽和状態だと思います。店舗が増えすぎている感じですね。以前は人数をこなすサロンにいて、すごく安い客単価でやっていましたが、うちのお店は客単価が高めです。これをやる意味とか価値を伝えた上で、そのような値段設定にしています」
今後はアイブロー(眉毛)に注力していく予定だ。
「女性はだいたい目に集中するのですが、印象を変えたり表情を作るのは目ではなくて、眉毛です。なので、眉毛と目をセットにしてその人の印象を変えるということをやっていきたいと思っています」
アイブローの基本的な流れはこうだ。まず、顧客が求める理想の印象や眉毛の形をカウンセリングして、骨格に合う眉毛を池田がデッサンして、デッサンからはみ出た箇所をワックスで除毛する。
「アメリカとかでは、ワックスでのアイブローのお手入れは主流です。ここ何年かで日本にも入ってきましたが、まだ認知されていません。まつげエクステが最初に日本に入ってきた頃の状況に似ていますね」
未来
アイブローをすることが主流になる日も、そう遠くないのかもしれない。
「印象を変えるためには、目を変えるより眉毛を変える方が手っ取り早いことに気付いている人はもうやっていますが、まだまだ気付いていない人が多いですね」
今後は、マツエクとアイブローのプロフェッショナルによる分業制にしたいと考えている。
「眉毛は私で、まつげは別のスタッフが担当する形にしたいと思っています。専門分野のスタッフがそれぞれ担当する形が理想ですね」
理想を実現するために、修練の日々は続く。
「最終的には、経営だけに専念できるようになりたいですね。現場には出ていたいですが、自分の年齢や体力の限界がいつかは来ると思いますし・・・。それまではもちろんお店に立ち続けたいとは思います」
完
社会人
就職先を探していた池田は、求人雑誌で偶然見つけた上野の美容室に就職した。
「条件が特に良かったわけではないのですが、偶然見つけたので入社した感じです。やはり大変でしたね。3人で共同経営している美容室だったので、誰の言うことを聞いていいのか分からなかったです(笑)」
大変ながらもスタイリストを目指して働いていた池田だったが、4年目に店舗が閉店という憂き目にあい退職せざるを得なかった。
「次の就職先は美容師をやりながら何か別なことをしたいと思って、派遣の仕事をしていました」
派遣会社に登録して、固定電話の基本料金を安くするための、回線切替の電話営業の仕事を始めた。
「すごく楽しかったですね。1年くらい続けました」
その後、別の会社の営業職に就いた。
「求人雑誌を見ていて給料が良かったからその会社に入社したのですが、自分自身かなり違和感がありました。その会社の商材などに違和感を持ちながら営業をしてお客さんを捕まえるのが嫌だったので、結局1年で退職しました」
偶然の出会い
その後、池田は再度派遣会社の紹介で通販会社の電話オペレーターの仕事を始めた。この時期に、今の仕事であるまつ毛エクステとの出会いがあった。
「当時知り合った友達がまつ毛エクステの存在を教えてくれて、色々と調べたら美容師免許が必要だということが分かり、少し興味が湧きました」
まつ毛エクステに興味を持ち始めた頃、職場でのある出来事が池田を次の行動に移させた。
「ネイルの学校に通いながら働いていた同じ職場の女の子が、ネイルサロンに就職することになりました。その話を聞いた時に、自分はこれからもここにずっと座って電話を受け続けるという事に違和感を感じました」
悩んだ結果、これなら自分でもできるかもしれないと考えて、一念発起してまつ毛エクステの業界に飛び込む決心をした。
「電話のオペレーターをしている時から、美容室を立ち上げるのは女一人では難しいかもしれないけど、マツエクのサロンなら一人でできるかもしれないという構想は頭の中にありました」
まつ毛エクステ
まつ毛エクステ業界で生きて行くことを決めた池田は、青山にあるまつ毛エクステのサロンに入社した。
「最初はマツエクのスクールに行こうと思ったのですが、お金もかかりますし、「マツエクのサロンに入れば?」という周囲のアドバイスもあったのでサロンに入社しました」
美容免許だけ持ってサロンに入社した池田は、モデル相手に技術を学んだ。そして、入社して7年後に満を辞して独立した。
「7年間ずっといつかはやりたいと考えていました。しかし、会社に入って色々なお客さんと接しながら、この仕事は一人でもできるがリスクも伴うと感じていました。そのリスクの部分を恐れて独立するか悩んで、7年間過ごしていましたね」
この先もずっと悩んでいたら何も変わらないという思いと、会社を取り巻く環境が池田を突き動かした。
「結局ずっと考えていても、この先何も変わらないと思いました。それと、会社の未来が見えなかったということもあります。当時は店長だったのですが、その会社は店長にならないと収入が増えないという会社でした。自分が辞めれば他の子が店長になり、その子の収入が増えるということもあり、独立することにしました」
7年間勤めたサロンを退社し、独立することに決めた。
続く
日本ではマツエクが市民権を獲得して久しいが、今新たにブームの兆しになっているのがアイブロー。マツエクとアイブロー、この二つの技術を極めるために日々奮闘しているのが、表参道でマツエクサロンを運営している池田朋美である。これまでの彼女の道のりを振り返りながら、マツエクとアイブローの未来を紐解いていく。(敬称略)
アルペンスキーと郷土芸能
出身は富山県。4人兄弟の2番目。小学校の時からスキーに熱中していた。
「父親がスキーをしていて、雪国ということもありスキーをやっていました。スキーのジュニアレーシングのチームに入っていましたね」
小学校から初めたアルペンスキーは、中学校を卒業するまで続けた。
「中学校の時は、雪がない時はソフトボール部でした。雪がある冬場はスキーをやっていましたが、運動は得意ではなかったです」
中学校を卒業した池田は、地元の高校に入学した。
「お金がかかるのでスキーはやめました。高校でスキーをやると、海外遠征などでお金がかかりますので」
高校時代は、郷土芸能に熱中していた。
「地元が盛んだったということもあり、郷土芸能の踊りをしていました。全国大会に出たりもしました。富山の民謡ですね」
美容師
高校生活も2年が過ぎ、やがて進路を決める段階に差しかかった。
「選択肢としては、美容の専門学校に行くという事しか考えていませんでした。美容師になることは結構昔から決めていました」
美容師になろうと思ったきっかけは、幼稚園時代に遡る。
「幼稚園の時に初めて行った地元の美容師さんがすごく良く見えたというのがいちばんの理由です。父親には「大学に一回行ってからの方がいいのではないか?」と言われたのですが、勉強が嫌いだったので・・・」
東京
高校を卒業した池田は、日本美容専門学校に入学した。
「姉が関西の大学に進学していましたし、自分もよく行っていたので最初は関西に行く予定でした。しかし、「美容師になるには東京に行った方がいいのではないか?」と周囲に言われたこともあり、東京にしました」
親元を離れ、東京の練馬区で一人暮らしを始めた。
「学校には真面目に通っていましたが、2年目の春ぐらいに現実と理想のギャップに苦みましたね。「私は本当に美容師になりたいのかな?」と思ってしまって・・・」
その時期に、池田は美容師になるのをやめようか真剣に悩んだ。
「友達に「あと少しだからもう少し頑張ろうよ」と励ましてもらったりして、何とか2年間学校に通い続けたという感じです」
紆余曲折あったが、いよいよ就職先を決める時期になった。
「私が美容師を目指していた頃はちょうどカリスマ美容師ブームで、みんなそのようになれると思っていました。それが美容学校に入ると「違うじゃん」と思って。私は青山や原宿ではないなと思いましたね」
就職先を探していた池田は、求人雑誌で偶然見つけた上野の美容室に就職した。
続く
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
紆余曲折
AUBEで先輩と一緒に将来店を出す際の資金を稼いでいくつもりだったが、いくつかの思わぬ事態と意見の食い違いもあり、先輩と一緒に店を出す計画は頓挫した。そして、AUBEを退社した立花はFREEVE時代の別の先輩に誘われて、渋谷に新規開店する美容室のオープングスタッフとして働いた。
「渋谷で働いてすぐに、いろいろな事情が重なり新富町のサロンに移りました。その後に、新富町のサロンを閉めることになり・・・」
新富町での経験は、立花にとってその後のターニングポイントになった。
「新富町で働いていた時に、このエリアは穴場だなと思いました。一人でやっていてすごく楽しくて。お客さんと二人きりの空間で色々話せるし。その時に、一人でやりたいという気持ちが芽生えて、この辺りで自分の店を出そうと思いました」
紆余曲折あったが、ついに一国一城の主になる決意をした。
bud
夫とも離婚して、ついに自分で店を出す決意をした立花。自己資金はなかったが、融資を受けて開店にこぎつけた。
「自己資金がそんなになくても税理士を通せば公庫(日本政策金融公庫)に借りることができると、サロンのコンサルや内装をやっている業者に教えてもらいました。そして、無事に融資を受けることができました」
「bud」というサロン名は、翻訳すると「芽」という意味を持つ。自身の名前「伸芽」から取った。
「このあたりはサロンが少ない割には、タワーマンションが近くにできて、会社も多いです。美容室難民の方が多いので、チャンスだと思いましたね」
初めての自分の店ということで色々と大変だったと思いきや、本人はそうでもなかったようだ。
「準備は大変でしたが楽しかったですね。指名のお客様も長いので気も遣わないですし。ここには仕事をしに来るというよりも、遊びに来るという感覚ですね」
未来
一国一城の主人として、今後はさらにbudを軌道に乗せる必要がある。
「これからもっと経営について学ぶ必要があると思っています。大変でも乗り越えなければならないと思っているので、プラスに考えようとはしています」
先のことはまだ考えていないが、漠然としたイメージは持っている。
「将来的にはまずはここを安定させたいですね。経営者の友達などとは、今はまだハッキリとは見えていないですが、楽しいことを見つけてそれが仕事にできたらいいねという話はしています。先のことは本当に考えてなくて、まずはここを心配なく安定させて資金ができたら次のことを考えようかと思っています」
運を手繰り寄せ、しっかりと掴んできたからこそ今がある。
「結構出会いの運がいいとは思いますね。それはだいぶ助かっています。行動するからその運が回ってきて、そのチャンスとか運を見逃さないようにはいつもしています。アンテナ張って」
立花は今後も動き続ける。それが目標を実現する唯一の方法だと知っているからだ。
「自分がやりたいと思ったことを躊躇する人が結構多いですが、とりあえず動けばなんとかなると思います。考えずに動いた方がいいですね。悩んで考えて止まっていても、何も変わらないですし。やりたいと思ったことは全てやった方がいいです」
次はどんな運を掴み取るのか、立花に今後が楽しみだ。
完
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
東京
両親から動物系の専門学校に通う授業料は出せないと言われた立花は、東京の美容室で働きながら通信課程で美容免許を取得する道を選択した。
「最初に面接した美容室には落ちてしまいました。それで高校の求人票に偶然あった東京の美容室に体験入店をしたところ面接もなく、「あなたがやる気あるならどうぞ」と言われたのでそのままその美容室に就職しました」
美容室の場所は東京都の葛飾区だった。その店の紹介で、日暮里にある国際理容美容専門学校の通信課程に入学した。
「当時はそのお店が所有する社員寮のようなところに住んでいました。家賃とか色々引かれて、最初の給料は9万円ぐらいでしたね」
東京での社会人生活がいよいよ始まった。
「当時の店長がかなり厳しい方で、すぐにでも辞めたくなりましたね(笑)。ただ、もともと負けず嫌いな性格ということもあり、早くスタイリストにならなきゃいけないと思い頑張りました」
退職
美容室で働きながら、通信課程に3年間通った。そして、一度は試験に落ちたものの、無事に美容師免許を取得した。
「免許を取得してその後3年間はそのお店で働かかなければならないというルールがあったのですが、流石に耐えられなくて2年後に辞めました」
高校を卒業してから6年間働いていた美容室を退社した立花は、登録していた派遣会社から紹介された渋谷にある美容室に入社した。
「本当はワーキングホリデーに行きたかったので、その繋ぎで派遣登録していたのですが、その派遣会社に紹介された渋谷にある「FREEVE」という美容室で働きました」
FREEVE
最初は派遣スタッフとして働いていた。
「ちょどその頃FREEVEでは社員が一気に減ったようで、社員にならないかと熱心に誘われました。当時は趣味でヘアショーのチームも作っていて、そちらの活動もしていたのでそれでもよかったらと伝えたところ大丈夫だということで社員になりました。結果的にはガッツリ働かされましたが・・・(笑)」
FREEVEでは社内結婚もし、結果的に3年間働いた。
「FREEVEで働いていた先輩に、将来一緒に店をやろうと誘われました。その準備資金を稼ぐためにその先輩は一足先に渋谷の面貸しサロンの「AUBE」で働いていたので、自分と夫もそこに合流しました」
当時は、インディーズのアーティストの全国ツアーに一緒に回って、ヘアメイクも担当していた。順調に将来の店舗を出す際の資金を稼いでいるつもりだったが、そこで思わぬ事実を知ることになった。
続く
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
アクティブ少女
出身は青森県。立花は4人兄弟の2番目で、兄が一人と弟が二人いる。父親は三沢基地内で経理の仕事に就いていた。
「小学校の時は、外で遊ぶのが好きな子供でしたね。兄の影響もあり釣りをしたりなど自然の遊びが好きでした。それと、陸上ホッケー(フィールドホッケー)をしていました。青森県に2校しかなかったのですが・・・」
小学校を卒業して地元の中学校に入学した立花は、ソフトボール部に入部した。
「父親が野球を好きだったので、無理やりやらされていた感がありましたね(笑)」
ポジションはピッチャーだった。
「コーチ曰く、手が小さいので変な回転がかかるからピッチャー向きとのことでした。球はたいして速くなかったですね」
受験前日にボーリング
中学校から始めたソフトボールだったが、県大会の2回戦まで進んだこともあった。勉強はあまり好きではなかった。
「小学校までは勉強が好きでしたが、中学校からはそこまで好きではなかったですね。学校が終わると自宅で勉強するというタイプではなく、部活帰りにみんなでファーストフード店に溜まったりしていましたね」
中学校を卒業した立花は、地元の高校の英語科に入学した。
「本当は農業高校に行こうと思っていたのですが、友達に誘われたというのもあり、英語科のある高校に入学しました。我ながらよく受かったなと思います。受験日前日にボーリングしていましたから(笑)。それで合格したということで、中学校では七不思議の一つになっているようです。英語科にしたのは、修学旅行がハワイだったからです」
意中の高校に合格し、念願のハワイにも行けた。高校時代は充実していた。
「英語科だったので、英語の授業が一日3時間以上ありました。結構楽しかったですね。学校が終わると、近くのイオンに行ったり、カラオケ行ったりプリクラ撮ったりとかしていました」
まさかの展開
やがて高校2年生になり、進路を決める時期に差し掛かった。
「小学校の時から「美容師」はなりたい職業の中に入ってはいました。ただ、途中で気付いたのですが、自分はやるのが好きというよりも美容室に行くのが好きなだけでしたね(笑)。それでも、小学生の頃から友達の髪の毛を切ってあげたり、アレンジしたりしてあげていました」
美容師はなりたい職業の中に入ってはいたが、最初は美容師ではない他の道に進もうと思っていた。
「高校の進路を決める段階では、動物系に進みたいと思っていました。それで、動物系の専門学校の資料を自宅に持って帰ったら、私が勉強嫌いだったので両親はてっきり私が働くものと思っていたようで、「専門学校に通わせるお金は貯めていない」と言われてしまいました」
待っていたのはまさかの展開だった。やむなく立花は上京して東京の美容室で働きながら通信で勉強する道を選択した。新しい人生がスタートしたのだった。
続く
マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)
骨董品屋
アメリカに渡って3年が経ったころ、徳永は馴染みの骨董品屋に足繁く通っていた。
「骨董品屋さんに行くとインスピレーションをもらえるので、何回か通わせてもらっていたのですが、そのうちに和とアメリカのものを融合させると徳永優子が生まれるということが分かりました。自分の中では凄い発見でしたね」
その骨董屋のオーナーが偶然にも映画界にコネクションがあり、「シカゴ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画監督でも有名なロブマーシャルを紹介された。そこから、徐々にハリウッドの仕事が徳永に舞い込むようになった。
「当時は全てを同時進行でやっていましたね。ハリウッドという世界を私は知らなかったですし、どうなるかも分からなかったので。ハリウッドの世界で食べていけるとも思っていなかったですしね」
挫折
自分のサロンと学校も経営していた徳永だったが、さらにハリウッドの業界にも足を突っ込む形になった。
「最終的にはそれらが全て繋がりましたね。」
その後の活躍は語るまでもないが、今でも忘れられない飛躍のきっかけとなったある出来事があった。
「最初は掃除などの雑用等、日本の美容師気質でどんなこともやっていたのですが、それで怒られたことがありました。「この人は掃除をするために来ているのに、お前はその人の仕事を奪っているんだぞ」と言われた時に、悔しくて涙が出てきて・・・」
日本のことは分かっていてもよその国のことを分かっていない自分と、自分の良さを侮辱された悔しさ。非常に傷付いたが、そこから立ち上がった。立ち上がると、自然と道が拓けた。
「自分にも技術と信用が付いてきたので、ついに辛抱できなくなって自分を出しました。そこからは凄いことになりましたね。それまでは「徳永優子ちゃん」として頑張って日本人を演じていたのですが、自分を出してからは周りの見る目が変わりました。そこからはハリウッドの波に乗って行きましたね」
ハリウッドで生きていくということ
そこから、ハリウッドでの徳永の快進撃が始まった。エミー賞(アメリカのテレビドラマを始めとする番組のほか、テレビに関連する様々な業績に与えられる賞であり、映画におけるアカデミー賞、音楽におけるグラミー賞に相当する)に関しては3回ノミネートされている。
「そこから後が大変でしたね。「お前はなんでエミーが出来てこれができないんだ!」と言われたり・・・。それも乗り越えて、本物の私のスピード感とカメラにかける根性とか精神力とか、私自身の性格をみんなが知ってからは、ハリウッドは私の世界ですよ(笑)」
ヘアメイクアーティスト、ヘアサロンオーナー、美容学校の創設者。3つの肩書きを有し、ハリウッドで今なお活躍している徳永。38歳でアメリカに渡り今に至るその姿は、まさにアメリカンドリームを手に入れた日本人と言えるだろう。そんな徳永に憧れ、異国での活躍に思いを馳せる日本の若者も少なくない。
「海外に行って自由になりたいとかカッコいいからとかではなく、自分が何を持っていけるかということが一番大切です。何か一つ絶対に自信があるものを持って行くことが必要ですし、それがない限りは来ない方がいいかもしれません」
38歳でアメリカに行き、自分で道を切り拓いてきた。決して平坦な道ではなかったが、徳永は日本人でもハリウッドで活躍できるということを結果で証明した。次の徳永優子が日本からやって来るのを、彼女は期待して待っている。
完