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鈴木 のり彦〜美容師の可能性 Vol.3〜

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

フランチャイズのオーナー

当時の鈴木は、自分の身を削ってこれ以上指名のお客様を増やすべきか悩んでいた。

「その時は指名のお客様が80人位いたのですが、自分の中では80人が限界だなと感じていました。そのタイミングで声をかけてもらったので、管理職で、かつ人に指名を付けるような仕事をしたいと思っていた自分は神奈川の店長になることにしました」

最初は溝の口の店長からスタートし、10ヶ月経った頃にはエリアマネージャーになった。そして、80店舗になった頃に、それまで直営店のみの展開だったAguがフランチャイズ展開することになった。鈴木はフランチャイズのオーナーにならないかとAguの会長に声をかけられた。

「最初はやりたいと思いませんでした。当時は飲食店をやりたいと思っていました。根本的にお金持ちになりたいという思いが強くて、このまま個人で独立して1〜2店舗のオーナーになってもだいたいこの位しかお金が貰えないなというのが見えたので、それならフランチャイズで飲食店をやりたいなと思っていましたね」

飲食店の道に進むか悩んでいた鈴木だったが、Aguのフランチャイズのオーナーになることに決めた。

「Aguの会長に「やれば分かるから」と言われ、押し切られた部分もありました(笑)」

マーケティングミス

フランチャイズの1店舗目は、東京の三軒茶屋に出店した。

「当時、神奈川県でのAgu出店の際のマーケティング調査などは自分が行っていたので、マーケティングには自信がありました。三軒茶屋のその物件は自分の中で温めていた物件でもあり、ここならと思い決めました」

自信を持って出店した三軒茶屋だったが、予想外の思わぬ事態に直面した。

「最初の10ヶ月は赤字でした。完全に自分のマーケティングミスでした。Aguは低価格帯でどの店舗もヒットしていたのですが、三軒茶屋のここなら500円上げても大丈夫だと思い、Aguの中では少し高単価な店にしました。それが見事に外れて、お客様が全く来ませんでした。」

結局、他の店舗から連れてきた従業員に謝罪して、元の価格に戻すことにした。

「500円下げたら、前月の2倍以上のお客様が来ました。そこで経営の厳しさを学び、それからは美容師というよりも経営者のマインドになりましたね」

ライフハックデベロップメント

三軒茶屋に出店したのち、今度は神奈川県の海老名に出店した。現在は40店舗に達した。

「自分自身、店舗を増やすことにあまり興味がないです。今年、私のもとで孫フランチャイズの形で二人独立します。資本的な支援というよりは、彼らが独立するところに店舗を作り、マーケットを取り、人材を確保してそこで独立させてあげられるようにしたいです」

Aguは1,000店舗目指し、現在も拡大中である。鈴木の挑戦はまだ終わらない。

「自分の会社は「ライフハックデベロップメント」をテーマに掲げ、働き方や生き方という部分での選択肢の開拓をしていきたいと思っています。美容師という職業は本当に可能性があると思っています。お金の部分ももちろんそうですが、時間の使い方や、何を自分の人生の財産にするのかを自分で決めて、それを無限に叶えられるのです」

美容師の可能性を信じ、今日も彼は戦い続けている。

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

初めての挫折

付属の大学に進学できなかったた言い訳として口走った「美容師になる」という親との約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。葛飾の実家から山野美容芸術短期大学がある八王子に通う日々が始まった。趣味のギターも続けながら、短大には真面目に通った。そして、美容免許を取得して就職先を探す段階で、これまでにない挫折を経験した。

「それまでは意外とトントン拍子で来ることができました。言い訳で固める癖があったので、例えば成績が悪くても「夢があるから」と親に言い訳して短大に進学したり・・・。なので、それまで挫折したことなどはありませんでした。しかし、就職先を探すときに行きたかった有名サロンにことごとく落ちてしまい、初めての挫折を経験しました」

就職希望のサロンが全て不合格となり途方に暮れていた鈴木だったが、誰も想像しない思わぬ行動に出た。

「頭を丸坊主にして、試験を受けられない状態を1ヶ月半くらい作って気持ちをリセットしてまた就職活動し直しました。先生からは「頭が狂ってる」と言われましたが(笑)」

クロードモネ

一度リセットした鈴木は、好きだった下北沢で就職しようと決意した。

「毎日下北沢で目についたサロンを片っ端から訪問して、自分を売り込んでいきました。ほとんどのサロンで門前払いだったのですが、1件だけ「君、面白いね」と言ってくれたサロンがあり、そこに入社しました。クロードモネというサロンです」

下北沢のクロードモネに新卒で入社した鈴木は、実家暮らしから離れてお店の近くに引っ越して、ひとり暮らしを始めた。

「実際に入社してからも、挫折の連続でした。先輩方に朝まで付き合ってもらって練習していたのですが、社内試験になかなか受からないという日々が続きました」

落伍者

学校で練習してきたことが通用しないという現実に突きつけられた瞬間だった。

「自分はモデルさんを一番切っていたと思います。多分200人くらい切っていたと思うのですが、クロードモネの歴史で試験に一番落ちたと言われていました(笑)」

当時は試験に落ちる理由が分からなかった。

「自分は過程を大事にするというか、努力する自分を大事にする傾向がありました。相手が設定した試験の合格ラインは関係なく、自分はこれだけやってるというプレゼンだけ一生懸命で、今考えると全く的外れでした」

約5年間アシスタントを務めた後に、クロードモネを退社した。

「クロードモネは客単価が最低1万円の高級サロンでした。自分の中では客単価が安いサロンにまず入社して、そのあと徐々にステップアップしていこうと考えていたこともあり、単価が安いAguに転職しました」

続く

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

目立ちたがり屋の少年

鈴木は東京の葛飾区出身。実家は、祖父の代から町工場を営んでいた。

「小学生の時は生徒会長をやっていました。真面目でしたね。葛飾は川が多いので、荒川や中川、隅田川などの川の土手で遊んでいました」

小学校を卒業した鈴木は、地元の中学校に入学した。

「中学では陸上部に入り、長距離をやっていました。正直、部活には興味なかったのですが、持久力だけ付けておこうと思い入部しました。中学生になっても、小学生の頃と同じように土手で遊んだりという感じでしたね」

中学校に入っても、鈴木は生徒会に所属した。

「勉強は全然ダメでした。ただ、小学校から目立ちたがり屋で生徒会をしていたので、中学校もその流れでという感じですね」

音楽との出会い

中学校を卒業した鈴木は、世田谷にある駒澤大学付属高校に入学した。

「それまで地元からあまり出なかったので、一気に世田谷の方まで出たいなと思いそこにしました。うちの中学校自体の頭が悪過ぎて、普通に出席するだけで偏差値が高くなって推薦でいけました(笑)」

高校に入学した鈴木は、軽音楽部に入学した。

「ギターをやっていました。そこから、髪型とか服装とかに興味を持つようになりました。ハイスタンダードとか好きでしたね」

高校時代は音楽とアルバイトに明け暮れた。

「ライブをたまにやりながら、後はイトーヨーカドーで冷凍食品の出し入れのアルバイトをしていました。お金を稼ぐのが楽し過ぎて、バンドかバイトかという感じでした。仲の良い地元の友達がみんなイトーヨーカドーでアルバイトしていたので、自分もという感じでした」

短大進学

成績は悪かったが、毎日が楽しくて高校には休まず通った。そんななか、高校2年の進路を決める時期になると、それまで勉強をしてこなかったツケが回ってきた。

「本当は駒澤大学に進学してサラリーマンになりたかったのですが、成績が悪過ぎて付属の大学にも上がれない事態になりました。親に何て言ったらいいか分からずに、とりあえずはそれらしい言い訳を考えて「本当は美容師になりたい」と伝えました」

親に対する言い訳として口走った「美容師になる」という約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。

「親的にも実家の工場を継ぐか、もしくはサラリーマンになって欲しかったというのがありましたので、山野美容芸術短期大学に決めました」

流れの中で美容師への道を歩み始めることになった。しかし、当然のことながら美容師はそんなに簡単な職業ではなかった。

続く

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

ロンドンで美容師

スコットランドのエジンバラにある学校に入学した呉は、ホームステイをしながら英語を勉強した。そして、その後ロンドンに行った。

「ロンドンで家を探す必要があったので、「地球の歩き方」という本を読んでロンドンにあるゲストハウスを探して、そこに泊まりながら家を探しました」

自宅を決めた呉は、ヴィダルサスーンの学校に通った。

「ヴィダルサスーンに3ヶ月の短期のコースがあったので、そこに通いました。通訳付けるかと聞かれたのですが、通訳なしでやりました。ヴィダルサスーンでは現地のモデルさんも切らしてもらいました」

ヴィダルサスーンでの3ヶ月のコースが終了し、呉は現地の美容室に就職した。

「英語がそんなに話せなかったので、マレーシア人がオーナーの美容室に入社しました。そこは、現地の駐在員の方とかもよく来ていました。給料も割と良かったですね。当時はインターネットも今ほど発達していなかったので、新聞で求人募集を見て決めたという感じですね」

呉が働いていた美容室は日本人の顧客が多く、日本の美容室と同じような環境だった。

「外に出れば外国ですが、中はほとんど日本と変わらなかったですね。これだとダメだと思い、イギリス人がオーナーの店に移りました。そこから、ヘアメイクのアシスタントの仕事とかもし始めました。ミュージックビデオや現地の雑誌などのヘアメイクをやりましたね」

フルタイムで働くのがキツくなった呉は、その美容室を辞めて派遣美容師の仕事に就いた。

「派遣美容師として1日3〜4人のお客様を対応して、その合間に撮影をしてという感じでした」

帰国

念願だったヘアメイクの仕事にも従事して、順調に働いていた呉だったが、思わぬ落とし穴が待っていた。

「自分は学生ビザだったのですが、学生ビザがだんだんキツくなってきて、周囲の学生ビザを持っていた連中が強制送還され始めました。当時は労働ビザもなかなか取れなかったので、日本に帰ることにしました」

イギリスに2年間滞在し、日本に帰国した。

「日本に帰国してもお客さんがいるわけではないですし、美容室を始める資金もなかったので悩みました。またイギリス戻るか、日本で美容師やるか、ヘアメイクのアシスタントをやるかという3択を迫られていました」

そんな時、MINXの元上司から、新しく立ち上げた美容室で働かないかと誘いを受けた。自分を必要としてくれるならと、呉はそこで働くことにした。

「最初は流れも分からなかったので、半年くらいアシスタントをさせてもらいました。日本の美容事情も自分がイギリスにいる間に変わってしまっていたので・・・。最初、自分のお客さんは一人もいなかったのでどうしようかと考えていた時に、後輩から「mixiで集客したらお客さん来ますよ」と言われたのでやってみたら、その日のうちにお客さんが10人くらい来ました」

月に100名くらいの新規集客が可能になり、店舗も拡張移転した。そして、もともと独立願望があった呉はその気持ちを伝えた。

「当時の店の状況的に、アシスタントも育っておらず辞められない状況でした。そして、「1年半くらいは下の子育てて、その子達がデビューしたら辞めていいよ」と言われたので、そのような環境になってから独立するために辞めました」

DECO

4年半働いたのち、呉は念願の自分の店舗をオープンした。DECOという名前に特に意味はない。

「名前はわりと響で決めた感じです。あまり名前に意味を込めたくなくて・・・。名前に意味を込めるとそれになってしまうので、抽象的な感じにしたくて響で決めましたね」

DECOがあるのは、渋谷と原宿のちょうど中間に位置した一等地。もちろん、最初から順風満帆ではなかった。

「ずっとプレイヤーできていたので、かなりキツかったです。これまでは、なんとかなるや的な行き当たりばったりなので(笑)。オープンして1年くらいは、他のスタッフにお客さんを付けるのに大変でした。1年目は赤字が700万くらいあり、潰れるかなと思いましたね」

プレイヤー兼経営者という二足の草鞋は想像以上にきつかったが、得るものの方が多かった。そして、次なるステージに向けて呉は動き出している。

「今後は店舗を増やしたいなと思いますね。それと、昨年は一年を通じて中国のメーカーさんのセミナーの仕事などをやらせてもらったのですが、そういう市場が中国にはまだまだありそうなので、動画のコンテンツとかを作って持ち込んでやっていきたいですね。それと、今はスタッフがたくさんいて、色々と指導させてもらっています。自分自身もこれまで色々な方に育てられてきましたし、教えるのが好きなので、100人は育てたいと思っています」

呉に育てられた100人の美容師が日本を飛び出して世界中で活躍する日が来るのは、そう遠くないはずだ。

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

東京

美容師になることを決意した呉は、美容専門学校に行くために上京した。21歳の時だった。

「当時はカリスマ美容師ブームで志願者が多かったため、美容専門学校を色々と受けたのですが山野美容専門学校しか受かりませんでした。それで、山野に入学しました」

親元を離れての一人暮らしが始まった。授業が楽しくて、皆勤賞だった。

「不器用だったので練習もたくさんしましたね。学校に入学して初日にロッドを巻くのですが、一番下手でした。ヤバいなと思い、毎日家に帰って7〜8時間練習していましたが、1ヶ月くらいでだいぶ上手くなりましたね」

授業がない日はアルバイトをしたり、クリエイティブな活動にも参加したりした。

「専門学生の頃は、クラブ貸し切ってヘアショーばかりしていました。クラスメイトや他の学校の学生などみんな集まってやっていました」

イギリス

もともと海外志向があった呉は、山野美容専門学校を卒業したらイギリスに行って働こうと考えていた。

「ある時、海外で働いていた美容師さんに会って色々と話を聞いた時に、「基礎がないから3〜4年は日本で美容師をしてから海外に行ったほうがいいよ」とアドバイスをもらいました。それで、そこから日本で就職活動を始めました」

呉が日本で就職活動を始めたのは11月。周囲よりだいぶ遅れてのスタートだった。

「とりあえず有名店でしょということで、有名店には全て電話しました。MINXとZACCが二次募集しているというので受けたところ、MINXからその日に合格通知をもらったので入社しました。当時は600人くらい受けて30人くらいしか受からなかったので、良かったですね」

MINXに入社し、ついに社会人としての新しい美容師生活が始まった。

「やはり厳しかったです。当時はMINX原宿店ができたばかりでした。腕利きの美容師が各店から呼ばれて働いていたので、そこですごく揉まれましたね。新卒で10名くらい入ったのですが、1年で半分くらい辞めてしまいました」

渡英

MINXで働いていた呉だったが、イギリスでヘアメイクをやってみたいという夢を捨てきれないでいた。結局、3年半働いてMINXを退社した。

「MINXを退社してからは、イギリスに行くお金を貯めるために、知り合いの美容室で働いていました。その美容室が1年半で潰れてしまったので、そのタイミングでイギリスに行こうと思いました」

長年の夢を叶えるため、呉はついにイギリスに渡った。ヴィダルサスーンやトニーアンドガイだったり、当時は「美容」= イギリスというイメージだった。また、イギリス、アメリカと渡り最終的にはNYでアクセサリーデザイナーになっている呉の弟の影響も大きかった。

「英語も全然喋れなかったので、スコットランドのエジンバラにある学校に4ヶ月通いました。弟から「ロンドンで勉強しても日本人が多いし、あまり学べないから田舎に行った方が良いよ」と言われたので、ロンドンから近いエジンバラにしました」

念願のイギリスでの生活がついに始まった。

続く

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

オタクな少年時代

呉は両親と弟との4人家族。愛知県豊橋市で生まれ育った。 「小学生の頃は、わりと絵ばかり描いていました。絵が好きでしたね。物心ついた時から絵が好きで、最初は漫画の模写から始めてという感じでした。暗かったですね(笑)」 小学5年生までは運動神経があまり良くなかった呉だが、6年生になると成長期も相まってか運動神経が良くなった。 「それまでは、走っても一番遅いような感じでしたが、6年生になると急に早くなり1位を取れるようになりました」 小学校を卒業した呉は、地元の中学校に入学した。 「運動神経が良くなってスポーツができるようになったので、性格も明るくなりました。当時はハンドボール部に入っていました」 スポーツと並行して、小学生の時から続けていた漫画を描く趣味も継続していた。 「当時はオタク文化もそこまでメジャーではなかったので、こそこそ描いていましたね(笑)」 呉の両親は経営者だったが、無理して勉強しなくてよいという教育方針だった。 「両親は共働きだったので、自分は祖母と叔母さんに育てられたという感じです。両親にはわりと放っておかれてましたね。これまで塾にも行ったことないですし、勉強もほとんどしませんでした」

自転車競技との出会い

中学を卒業した呉は、中学生時代のハンドボール部での実績が認められ、スポーツ推薦で地元の高校に入学した。どうしても自転車競技をやりたかったため、地元にある自転車の強豪校に入学した。 「自宅の近くに競輪場がありましたし、父親が自転車を好きだったということもあり、高校から自転車競技を始めようと思いました」 まさに、自転車に明け暮れた高校生活だった。 「休日の練習では、自転車で100キロとか200キロ走っていました。学校が終わると海や山に走りに行きましたし、地元の競輪場にナイター施設があったのでそこで21時くらいまで練習したりしていましたね」 過酷な練習の甲斐もあり、キャプテンとして全国大会にも出場した。全国で8位になったこともあった。 「当時は、将来的に競輪選手になろうかなと思っていましたね」

競輪選手

高校を卒業した呉は、近所に住んでいたプロの競輪選手に弟子入りした。自宅から毎日、近所に住む師匠の家に通う日々が始まった。 「あの頃は、朝4時30分から夜の10時までずっと練習していました。両親も自転車競技をすることに協力的だったので、朝練に付き合ってくれたりしてくれました。両親と二人三脚でプロを目指していました」 競輪選手になるために、2年半練習に打ち込んだ。しかし、呉は違う道に進む決断をした。 「他の競輪選手に比べて体も小さかったですし、自分の能力的に一生競輪選手としてやっていけるかとなった時に、それは厳しそうだなと思ったので決断しました」 競輪選手への道を諦めた呉は、美容師になる決断をした。 「もともと母親から「美容師をやりたかったけれど、家柄的に難しかった」ということを聞いていて・・・。自分としてもおしゃれが好きでしたし、作るのも好きだったので何か作る仕事をしたいと思っていました。そこで、洋服のデザイナーか美容師になりたいなと、最後の頃は自転車をこぎながら思っていましたね。そして、最終的に美容師になることにしました」 美容師になるために、呉は親元を離れて上京した。美容師になるための新しい生活が始まった。

続く

100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)

東日本大震災

幾度の窮地を乗り越え、岡田はAIZUの原型となるAISを神奈川県の本厚木に立ち上げた。 「AISの意味ですが、「AI」は愛するの愛で、Sは複数形の「S」ですね。海外出店するときに、「AIS」だとアイズと読まれずにエーアイエスと読まれてしまうので、「AIZU」に変更しました。海外でも通用するように、平仮名のロゴも入れています」 程なくして2店舗目を出店したが、1週間後に東日本大震災が発生した。 「地震の影響でキャッシュフローが回らなくなり、死にかけました。計画停電などがあったので、かなりダメージを受けました」 東日本大震災でピンチを迎えた岡田だったが、持ち前のバイタリティーでそこを乗り越えた。 「当時はみんなが死にそうになっていました。それならばと思い、自分は逆張りして、接骨院やネイルサロンなどもオープンさせました。事務所にしていたスペースがあったのですが、事務所はお金を生まないなと思いましたし」

100店舗に向けて

東日本大震災を乗り越えた岡田は、100店舗に向けて本格的に動き出した。国内だけにとどまらず、海外にも美容室を出店した。 「やはり100店舗と考えたときに、国内だけではどうしても厳しいですし、アジアでやりたいという思いもあったので海外に出店しました」 現在はマレーシアでフランチャイズの美容室を出店している。 「完全フランチャイズの店舗なので、スタッフも全て現地人ですし、こちらからは1円もお金を出していません。自分としては、海外はお金を出してやるビジネスではないと思っているので・・・」 美容師不足の昨今だけに、岡田自身の経営への関わり方も変化してきている。 「最近は、最初に少しお金を出して若い子たちに社長になってもらい、自分はそこの役員になって株をもらって応援するというスタイルに切り替えています。自分がやるというのは、人もいないですしもう限界です。いわゆる年金みたいなイメージです。今では、5店舗出すまではお金要らないよということで、お金をもらっていません(笑)。その方がみんな頑張りますしね」

美容業界の未来

美容業界に早くから携わってきたからこそ、業界の未来を誰よりも考えている。 「これからは業務委託が流行ると思います。現在、人が足りなくてオーバーストア状態です。これからは早期育成がポイントで、かつシェアサロンと業務委託が混ざったようなサロンが台頭してくるのではないかと思います。小さい美容室はどんどん潰れていくのではないかと思いますね」 美容師の人手不足は、業界の最大のボトルネックである。 「もっというと、シェアサロンが広がった瞬間、美容師の経営者よりも不動産屋の方が強くなるので、普通の美容師では太刀打ちできなくなると思います。そういう意味では、美容師の経営者はかなり危機感を持っていると思います。レベルの高い美容師は給料が一気に跳ね上がると思いますが、そうじゃない人はどんどん下がるといういわゆる二極化がさらに進むと思いますね」 もはや従来のやり方は通用しない。岡田は絶えず新しい仕組みを考え、100店舗という目標に向かって邁進している。 「気合いだ気合いだと美容師さんを枠に当てはめるのではなく、時代にあった仕組みを現在開発中です。それが型にはまれば一気に出店攻勢をかけられると思っているので、そこに注力していきたいですね」 常に時代に合わせて新たなチャレンジを試み続ける岡田のその姿勢は、見習っても決して損はないだろう。

100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)

店長

高校を卒業した岡田は、アルバイトをしていたananにそのまま入社した。ついに岡田の美容師人生が幕を開けた。厚木の自宅からは遠かったので、ananの寮に入った。美容免許も通信課程で取得した。 「東京文化美容専門学校の通信課程で美容免許を取りました。4回くらい落ちましたが・・・(笑)」 何とか美容免許を取得して、美容師としての本格的な生活が始まった。 「当時は結構ストイックなサロンで、半年から1年で半分ぐらいが辞めてしまいました。僕からすると、その頃から25歳で独立すると考えていたので、「全員辞めてしまえ」と思っていました(笑)。チャンスが来ると思っていましたね」

転機

いつチャンスが来てもしっかりものにできるように、岡田は抜かりなく準備していた。 「練習は常に人よりしていました。21歳くらいでスタイリストになり、3〜4ヶ月で売り上げが100万円ぐらいになりました。24歳ぐらいで、自分の師匠だった当時の店長が辞めて独立したので、自分が店長になりました。そこからマネジメントを学び始めました」 当初から独立を考えていた岡田は、1年前にその旨を会社に伝えて円満に退社をした。26歳の時だった。25歳で独立するという目標から1年遅れたものの、26歳で念願の独立を果たした。 「目標は40歳までに100店舗なのですが、95%の人がそれはやめた方がいいと言いました。しかし、そのくらい高いハードルのことをやらなければならないと思い、挑戦することに決めました」

失敗

第1店舗目は、とあるフランチャイズの美容室を神奈川県に出店した。しかし、赤字が続き、更には保証金が返金されないなどのトラブルも発生した。結局、そのフランチャイズの大元の美容室は潰れてしまった。 「やはりフランチャイズではなくて自分のブランドの店を出さなくてはと思い、その店を自分の店にしてやることに決めました。しかし、初月で100万円ぐらいの赤字を出してしまいました」 いきなり窮地に追い込まれ、藁にもすがる思いで親族に助けを求めた。 「これはやばいということで、祖父にお金を借りました。本来ならば父親の遺産に回るくらいのお金だったので、これは真剣にやらなければならないと思い、一軒ずつ自宅を回ってインターホンを押して予約を取って行ったり、チラシを撒いたりしました。その結果、売り上げがV字回復して12月で1200万円ぐらいいきました」 その後、現在のAIZUの原型となるAISを神奈川県の本厚木に立ち上げた。いよいよ、岡田の逆襲が始まった。

続く

100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)

4人兄弟の3番目

岡田は4人兄弟の3番目。神奈川県の厚木市で育った。父親はNTTの研究員を経て、現在は名古屋大学で教授職に就いている。厳格な教育環境で育ったと思いきや、意外とそうでもなかったようだ。 「兄弟の4人中、2人しか高校に行っていません。ただ、4人中3人が現在経営者になっています」 小学生の時から、岡田はやんちゃな少年だった。 「通信簿は、いわゆるつくしんぼ状態でした(笑)。1と2しかないみたいな・・・。あとは、サッカーをやっていました。小学生の時はキャプテンでしたね」 小学校を卒業して地元の中学校に入学した岡田だったが、そのやんちゃぶりは健在だった。 「最初はバスケをやっていたのですが、辞めてその後にサッカーをやっていました。相変わらず成績表には「落ち着きがない」としか書かれないような感じでした。基本的にはサッカーに熱中していました」

美容師という職業

中学を卒業した岡田は、地元の高校に入学した。 「高校は地元の下から2番目くらいの高校に行きました。高校ではサッカー部に入りました。他にも色々とやっていましたが、あまりここで言える内容ではないですね(笑)」 やがて高校2年生になり、進路を決めなければならない時期に差し掛かった。当時の地元の友人達は、高級住宅街に住み、質の高い教育を受けて大学に進学する人間が多数を占めていた。 「彼らに比べると、自分は頭の悪さが半端なかったのですが、それでも負けたくないという思いがありました。そう考えた時に、自分に向いているのは「手に職」だと考え、かっこいい「手に職」はなんだと考えたら、美容師しかないなという結論に達しました」

出会い

周囲に対する劣等感と負けず嫌いな性格が、岡田を美容師へと導いた。 「ある時、日美(日本美容専門学校)の先生が学校説明をするために自分の通っていた高校に来たことがありました。そこでその先生と話をした時に、「君は専門学校に行かないでそのまま働きなさい」と言われました。そして、その先生の紹介で東京都の港区にあるananという美容室で、高校生の時からアルバイトをさせてもらいました」 岡田は高校の夏休みを利用して ananでアルバイトをした。厚木の自宅からは遠いので、東京にいる兄の自宅から通った。タオルを運んだりするのが主な業務だったが、美容業界に慣れるにはそれでも充分だった。 「普通は日美に入るように言うと思うのですが、その先生は知人のananの社長を紹介してくれました。こいつは学校に行ってもしょうがないと思われたのかもしれません(笑)」 高校を卒業した岡田は、アルバイトをしていたananにそのまま入社した。ついに岡田の美容師人生が幕を開けた。

続く