立花伸芽〜行動のススメ Vol.3〜
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
紆余曲折
AUBEで先輩と一緒に将来店を出す際の資金を稼いでいくつもりだったが、いくつかの思わぬ事態と意見の食い違いもあり、先輩と一緒に店を出す計画は頓挫した。そして、AUBEを退社した立花はFREEVE時代の別の先輩に誘われて、渋谷に新規開店する美容室のオープングスタッフとして働いた。
「渋谷で働いてすぐに、いろいろな事情が重なり新富町のサロンに移りました。その後に、新富町のサロンを閉めることになり・・・」
新富町での経験は、立花にとってその後のターニングポイントになった。
「新富町で働いていた時に、このエリアは穴場だなと思いました。一人でやっていてすごく楽しくて。お客さんと二人きりの空間で色々話せるし。その時に、一人でやりたいという気持ちが芽生えて、この辺りで自分の店を出そうと思いました」
紆余曲折あったが、ついに一国一城の主になる決意をした。
bud
夫とも離婚して、ついに自分で店を出す決意をした立花。自己資金はなかったが、融資を受けて開店にこぎつけた。
「自己資金がそんなになくても税理士を通せば公庫(日本政策金融公庫)に借りることができると、サロンのコンサルや内装をやっている業者に教えてもらいました。そして、無事に融資を受けることができました」
「bud」というサロン名は、翻訳すると「芽」という意味を持つ。自身の名前「伸芽」から取った。
「このあたりはサロンが少ない割には、タワーマンションが近くにできて、会社も多いです。美容室難民の方が多いので、チャンスだと思いましたね」
初めての自分の店ということで色々と大変だったと思いきや、本人はそうでもなかったようだ。
「準備は大変でしたが楽しかったですね。指名のお客様も長いので気も遣わないですし。ここには仕事をしに来るというよりも、遊びに来るという感覚ですね」
未来
一国一城の主人として、今後はさらにbudを軌道に乗せる必要がある。
「これからもっと経営について学ぶ必要があると思っています。大変でも乗り越えなければならないと思っているので、プラスに考えようとはしています」
先のことはまだ考えていないが、漠然としたイメージは持っている。
「将来的にはまずはここを安定させたいですね。経営者の友達などとは、今はまだハッキリとは見えていないですが、楽しいことを見つけてそれが仕事にできたらいいねという話はしています。先のことは本当に考えてなくて、まずはここを心配なく安定させて資金ができたら次のことを考えようかと思っています」
運を手繰り寄せ、しっかりと掴んできたからこそ今がある。
「結構出会いの運がいいとは思いますね。それはだいぶ助かっています。行動するからその運が回ってきて、そのチャンスとか運を見逃さないようにはいつもしています。アンテナ張って」
立花は今後も動き続ける。それが目標を実現する唯一の方法だと知っているからだ。
「自分がやりたいと思ったことを躊躇する人が結構多いですが、とりあえず動けばなんとかなると思います。考えずに動いた方がいいですね。悩んで考えて止まっていても、何も変わらないですし。やりたいと思ったことは全てやった方がいいです」
次はどんな運を掴み取るのか、立花に今後が楽しみだ。
完
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
東京
両親から動物系の専門学校に通う授業料は出せないと言われた立花は、東京の美容室で働きながら通信課程で美容免許を取得する道を選択した。
「最初に面接した美容室には落ちてしまいました。それで高校の求人票に偶然あった東京の美容室に体験入店をしたところ面接もなく、「あなたがやる気あるならどうぞ」と言われたのでそのままその美容室に就職しました」
美容室の場所は東京都の葛飾区だった。その店の紹介で、日暮里にある国際理容美容専門学校の通信課程に入学した。
「当時はそのお店が所有する社員寮のようなところに住んでいました。家賃とか色々引かれて、最初の給料は9万円ぐらいでしたね」
東京での社会人生活がいよいよ始まった。
「当時の店長がかなり厳しい方で、すぐにでも辞めたくなりましたね(笑)。ただ、もともと負けず嫌いな性格ということもあり、早くスタイリストにならなきゃいけないと思い頑張りました」
退職
美容室で働きながら、通信課程に3年間通った。そして、一度は試験に落ちたものの、無事に美容師免許を取得した。
「免許を取得してその後3年間はそのお店で働かかなければならないというルールがあったのですが、流石に耐えられなくて2年後に辞めました」
高校を卒業してから6年間働いていた美容室を退社した立花は、登録していた派遣会社から紹介された渋谷にある美容室に入社した。
「本当はワーキングホリデーに行きたかったので、その繋ぎで派遣登録していたのですが、その派遣会社に紹介された渋谷にある「FREEVE」という美容室で働きました」
FREEVE
最初は派遣スタッフとして働いていた。
「ちょどその頃FREEVEでは社員が一気に減ったようで、社員にならないかと熱心に誘われました。当時は趣味でヘアショーのチームも作っていて、そちらの活動もしていたのでそれでもよかったらと伝えたところ大丈夫だということで社員になりました。結果的にはガッツリ働かされましたが・・・(笑)」
FREEVEでは社内結婚もし、結果的に3年間働いた。
「FREEVEで働いていた先輩に、将来一緒に店をやろうと誘われました。その準備資金を稼ぐためにその先輩は一足先に渋谷の面貸しサロンの「AUBE」で働いていたので、自分と夫もそこに合流しました」
当時は、インディーズのアーティストの全国ツアーに一緒に回って、ヘアメイクも担当していた。順調に将来の店舗を出す際の資金を稼いでいるつもりだったが、そこで思わぬ事実を知ることになった。
続く
現代を生き抜くための堅い選択のひとつとして、リスクを軽減するためにフリーランスという生き方を選択する美容師が増えている。一方で、リスクを背負い自ら美容室を構えるという生き方も、選択のまたひとつである。一歩踏み出した者だけが得ることができる充実感。一人サロンのオーナー、立花伸芽が語る一人サロンのオーナーになるまで、そしてこれから。(敬称略)
アクティブ少女
出身は青森県。立花は4人兄弟の2番目で、兄が一人と弟が二人いる。父親は三沢基地内で経理の仕事に就いていた。
「小学校の時は、外で遊ぶのが好きな子供でしたね。兄の影響もあり釣りをしたりなど自然の遊びが好きでした。それと、陸上ホッケー(フィールドホッケー)をしていました。青森県に2校しかなかったのですが・・・」
小学校を卒業して地元の中学校に入学した立花は、ソフトボール部に入部した。
「父親が野球を好きだったので、無理やりやらされていた感がありましたね(笑)」
ポジションはピッチャーだった。
「コーチ曰く、手が小さいので変な回転がかかるからピッチャー向きとのことでした。球はたいして速くなかったですね」
受験前日にボーリング
中学校から始めたソフトボールだったが、県大会の2回戦まで進んだこともあった。勉強はあまり好きではなかった。
「小学校までは勉強が好きでしたが、中学校からはそこまで好きではなかったですね。学校が終わると自宅で勉強するというタイプではなく、部活帰りにみんなでファーストフード店に溜まったりしていましたね」
中学校を卒業した立花は、地元の高校の英語科に入学した。
「本当は農業高校に行こうと思っていたのですが、友達に誘われたというのもあり、英語科のある高校に入学しました。我ながらよく受かったなと思います。受験日前日にボーリングしていましたから(笑)。それで合格したということで、中学校では七不思議の一つになっているようです。英語科にしたのは、修学旅行がハワイだったからです」
意中の高校に合格し、念願のハワイにも行けた。高校時代は充実していた。
「英語科だったので、英語の授業が一日3時間以上ありました。結構楽しかったですね。学校が終わると、近くのイオンに行ったり、カラオケ行ったりプリクラ撮ったりとかしていました」
まさかの展開
やがて高校2年生になり、進路を決める時期に差し掛かった。
「小学校の時から「美容師」はなりたい職業の中に入ってはいました。ただ、途中で気付いたのですが、自分はやるのが好きというよりも美容室に行くのが好きなだけでしたね(笑)。それでも、小学生の頃から友達の髪の毛を切ってあげたり、アレンジしたりしてあげていました」
美容師はなりたい職業の中に入ってはいたが、最初は美容師ではない他の道に進もうと思っていた。
「高校の進路を決める段階では、動物系に進みたいと思っていました。それで、動物系の専門学校の資料を自宅に持って帰ったら、私が勉強嫌いだったので両親はてっきり私が働くものと思っていたようで、「専門学校に通わせるお金は貯めていない」と言われてしまいました」
待っていたのはまさかの展開だった。やむなく立花は上京して東京の美容室で働きながら通信で勉強する道を選択した。新しい人生がスタートしたのだった。
続く
マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)
骨董品屋
アメリカに渡って3年が経ったころ、徳永は馴染みの骨董品屋に足繁く通っていた。
「骨董品屋さんに行くとインスピレーションをもらえるので、何回か通わせてもらっていたのですが、そのうちに和とアメリカのものを融合させると徳永優子が生まれるということが分かりました。自分の中では凄い発見でしたね」
その骨董屋のオーナーが偶然にも映画界にコネクションがあり、「シカゴ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画監督でも有名なロブマーシャルを紹介された。そこから、徐々にハリウッドの仕事が徳永に舞い込むようになった。
「当時は全てを同時進行でやっていましたね。ハリウッドという世界を私は知らなかったですし、どうなるかも分からなかったので。ハリウッドの世界で食べていけるとも思っていなかったですしね」
挫折
自分のサロンと学校も経営していた徳永だったが、さらにハリウッドの業界にも足を突っ込む形になった。
「最終的にはそれらが全て繋がりましたね。」
その後の活躍は語るまでもないが、今でも忘れられない飛躍のきっかけとなったある出来事があった。
「最初は掃除などの雑用等、日本の美容師気質でどんなこともやっていたのですが、それで怒られたことがありました。「この人は掃除をするために来ているのに、お前はその人の仕事を奪っているんだぞ」と言われた時に、悔しくて涙が出てきて・・・」
日本のことは分かっていてもよその国のことを分かっていない自分と、自分の良さを侮辱された悔しさ。非常に傷付いたが、そこから立ち上がった。立ち上がると、自然と道が拓けた。
「自分にも技術と信用が付いてきたので、ついに辛抱できなくなって自分を出しました。そこからは凄いことになりましたね。それまでは「徳永優子ちゃん」として頑張って日本人を演じていたのですが、自分を出してからは周りの見る目が変わりました。そこからはハリウッドの波に乗って行きましたね」
ハリウッドで生きていくということ
そこから、ハリウッドでの徳永の快進撃が始まった。エミー賞(アメリカのテレビドラマを始めとする番組のほか、テレビに関連する様々な業績に与えられる賞であり、映画におけるアカデミー賞、音楽におけるグラミー賞に相当する)に関しては3回ノミネートされている。
「そこから後が大変でしたね。「お前はなんでエミーが出来てこれができないんだ!」と言われたり・・・。それも乗り越えて、本物の私のスピード感とカメラにかける根性とか精神力とか、私自身の性格をみんなが知ってからは、ハリウッドは私の世界ですよ(笑)」
ヘアメイクアーティスト、ヘアサロンオーナー、美容学校の創設者。3つの肩書きを有し、ハリウッドで今なお活躍している徳永。38歳でアメリカに渡り今に至るその姿は、まさにアメリカンドリームを手に入れた日本人と言えるだろう。そんな徳永に憧れ、異国での活躍に思いを馳せる日本の若者も少なくない。
「海外に行って自由になりたいとかカッコいいからとかではなく、自分が何を持っていけるかということが一番大切です。何か一つ絶対に自信があるものを持って行くことが必要ですし、それがない限りは来ない方がいいかもしれません」
38歳でアメリカに行き、自分で道を切り拓いてきた。決して平坦な道ではなかったが、徳永は日本人でもハリウッドで活躍できるということを結果で証明した。次の徳永優子が日本からやって来るのを、彼女は期待して待っている。
完
マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)
アメリカ
若くしてヘアメイクアーティストとして活躍していた徳永だったが、当時は仕事で海外に行くことも多かった。
「あの頃はハワイで結婚式をするという事で、ヘアメイクとして呼ばれることがよくありました。世界中飛び回っていて日本にいなかったので、うちの父なんかは怒っていましたね(笑)」
世界中を飛び回ったのち、徳永は38歳で子供を連れてアメリカに渡った。
「例えばイギリスとかだと、伝統を重んじる習慣だとか日本とそんなに変わらないですよね。ヨーロッパは日本とかなり近いところがあるので。しかし、アメリカは日本にないものを持っているし、教育面でも日本とは異なりますのでアメリカに行こうと思いました」
日本にいる時から英語を使う機会があったので、言葉でそこまで苦労はしなかった。
「日本でもかなり英語を勉強していました。京都で働いているときにも外国人の方が多かったですし。当時の師匠は、時代的な背景もあり外国人にあまり慣れていないところがあったので、自分が全て対応していました。その頃から、今後必ず英語が必要になるという予感はしていました」
ゼロからのスタート
新しい生活の場所として選んだのは、アメリカのロサンゼルスだった。
「子供もいて切羽詰まっていたので、アメリカならどこでもいいという感じでした。とにかく、日本から一番近いところといったらロスなので、ロサンゼルスにしました。早く生計を立てたいという一心でしたね」
まさに、ゼロからのスタートだった。
「アメリカに行き、自分の人生が新たにゼロ歳から始まったようなものでした。家も車も売って、貯金だけ持ってアメリカに行ったので、焦っているだけでしたね、その時は」
アメリカでは地元のビューティカレッジに通った。
「カレッジでの同級生は、みんな18〜19歳くらいの子達でした。私だけ年寄りだったので、お母さんのように振舞っていましたね(笑)。日本で培ってきたヘアメイクの技術はやはりみんな知りたがりましたし、カレッジに通いながらもアメリカでも積極的に仕事を取っていたのですが、他の生徒はそんなこともできないので色々と教えてあげていました」
自分流
カレッジでは徳永だけが技術を有していたこともあり、浮いた存在だった。そのうち、徳永を慕う学生が周りにたくさん集まり始めた。
「アメリカで仕事をし始めると、だんだんとみんな私に付いてき始め、小さなグループのようなものができました」
いざ仕事をし始めると、着物がベッドにかかっていたり、火鉢が金魚鉢になっていたりと、日本では考えられないようなシチュエーションがアメリカでは普通だった。
「京都で着付けの技術を学んだので、着付けにはかなりの自信がありました。しかし、アメリカではそれが役に立たないことに気が付きました。あれは日本の一つの文化であって、アメリカから見たらそうではないと分かった時に、自分が次のステージに行ったような感じがしましたね」
着物の伝統技術を有する徳永と、その伝統を無視したアメリカ流のクリエイション。その化学反応が徳永を成長させた。
「そこのショックから立ち上がった時には、アーティストの幅が2倍になりました。伝統的な技術も有しているし、アメリカならではの日本とは異なる要望にも柔軟に対応できるということで、現場などでも重宝されました。そこから、道が大きく拓けた感じがしましたね」
続く
マイケルジャクソンの「This is it」や、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「SAYURI」「Dreamgirls」などのヘアメイクを担当し、エミー賞に日本人で初めて3年連続ノミネートされるなど、これまで数々の偉業を達成してきた日本人ヘアデザイナー徳永優子。日本人として初めて難関であるハリウッド映画ユニオンに加入を果たすと同時に、映画コンサルタントや演出家としてもセンセーショナルな感性と実力を発揮しながら世界を股にかけて活躍する、徳永優子の知られざる原点に迫る。(敬称略)
着物への憧れ
徳永優子は愛媛で生まれて、神戸で育った。
「父が異端児で、彼の愛人のところで育ったという感じでした。父はいわゆる電信柱にある変圧器を製造していたのですが、周りには女性が多くいました。母親がいなかったので、着物を着て千歳飴を持った女の子がお母さんと通る場面を目撃するたびに、「私も着物を着たい!」という気持ちが湧き上がりコンプレックスでしたね」
当時は、父親の愛人が変わるたびに住む家も変わるという生活だった。
「複雑な家庭で育ったので、毎日家が違う感じでた。それが嫌で、16歳の時に家を飛び出して京都に行きました」
家出同然で京都に向かったが、特に当てがあったわけではなかった。
「有名な着物の先生が京都にいたので、その先生の下に入ったという感じです。今思い返しても、いろいろな先生に弟子入りしました。母親がいなくて着物を着る事が出来なかったため、その悔しさがモチベーションになって着物の世界に入りましたね」
ヘアメイクアーティスト
10代後半から様々な現場で揉まれたおかげで、21歳の時にはほぼ全ての技術を身につけることができた。当時は店舗に勤めながらも、フリーランスのヘアメイクアーティストとして色々と仕事を受けていた。
「当時は本当にがむしゃらでしたね。今とは時代が違いますが、なんでもやらなくてはいけないというか、トータルビューティが当たり前でしたので。着付けができたら次は髪の毛、次はメイクというような感じでした」
19歳の時には芸能界でダンサーになる事を目指していたが、結果的に気持ちが折れてしまった。そこからは、ヘアメイク一本でやっていく決心をした。そして、21歳の時にはヘアメイクアーティストとしてすでに独り立ちして、自分で仕事を取るようになっていた。
「若い頃は、自分はどんな事でもできるという自負がありましたね。着付けで相当な実力を付ける事ができたので、かなり自信がありました。もっとも、待っていても仕事が向こうから来るわけではないので、仕事は積極的に取りに行っていました」
持ち前のバイタリティで、芸能関係も含め様々な仕事を積極的に取りに行った。特に着付けに関しては相当の実力を有していたため、数多くの仕事が舞い込んできた。
「着付けに関しては仕事が多くありました。その撮影現場などでメイク、ヘア、カメラさんを見た時に、それを全部取り囲む自分の姿が見えたというか、こういう仕事は今後流行るなと感じましたね」
結婚
血気盛んなヘアメイクアーティストとして活躍していた21歳の時に、徳永は結婚をした。
「自分も21歳だし、相手も悪い人ではないし・・・という流れで結婚しました。もっとも、三食作っていいお母さんになるというのではなく、自分で稼いだお金はすべて技術の勉強に注いでいましたね」
当時は、安い金額で技術を教えてくれる人などいなかった。
「80年代というのは、お金を出さないと技術を教えてくれない時代でした。今みたいに、2000円〜3000円の講習などありませんでしたから」
今では想像できない金額を、技術の勉強のために注いだ。
「当時は、可愛がってもらい弟子になって、師匠にお金を積んでからゆっくり教えてもらう、みたいな流れが一般的でした(笑)。ですので、家が一軒建つくらい、当時は相当お金をつぎ込みました」
続く
「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)
Lapilie & DLAW
理想の物件を手に入れて、満を辞して自分のネイルサロンをオープンさせた。
「最初は「お客様が来てくれるかな?」という不安とかあったのですが、結果的にその不安は無くなりました。ただ、人を雇うということで、自分だけの問題ではなくなるところが今までと全く異なっていますね。人の人生を預かる、そういう立ち位置ですので」
Lapilieは現在5年目。2店舗目として、Lapilieの目の前にDLAWもオープンさせた。
「Lapilieは3席しかないので手狭になり、ちょうど目の前の物件が空いたので借りました。そして、せっかく借りるならもう一つブランドを作ろうと思って、DLAWという名前にしました」
Lapilieの名前の由来は、特に意味がないという。
「Lapilieの言葉自体には意味はなく、響きが良い音をつなげて作りました。あえて意味を持たせていません。最初は何もないですが、それが時間とともに意味があるものに変わっていくと思って付けました。また、DLAWは描くという意味の「DRAW」をもじったのですが、うちの店はネイルアートの中でも特殊な素材を使ってアートを生み出します。そういうものを描くという意味や、お客様や関わってくれる人たちの人生の一部を描くという意味が込められています。また、いつかオリジナルのプロダクトを作っていきたいと思っていたので、それらを描くという意味も込められています」
ネイリスト
誰よりもネイリストという職業に誇りを抱いているからこそ、RISAはネイル業界の変革を望んでいる。
「ネイリストはもっと可能性がある仕事ということを、他のネイリストにも知ってほしいと思います。自分はネイル業界にはいますが、業界自体にはそこまで関わっていません。ネイル業界がやっていることは10年前と変わらないと思っていたので、これまで自分のやり方でずっとやってきました」
旧態依然とした古い体質のネイル業界に魅力を見いだすことが出来なかった代わりに、これまで独自のアプローチでやってきた。
「そもそも自分は天邪鬼でみんなと同じことをしたくなかったので、ファッションだとか違う業界の人と関わってきて、そこから得るものの方が大きかったと思います。自分のやり方でやってきた結果、ネイリストはすごい可能性がある職業であることに気付きました」
古い体質のネイル業界に対して、一石を投じたいと誰よりも思っている。
「ネイル業界に自分が関わっていることも確かなので、そこに自分のスタイルを変えないで貢献できることがあれば貢献したいと思います。自分みたいなネイリストもいるというのを知ってもらえれば、ネイリストに対する価値観も変わってくると思いますし、ネイリストの皆さんにはそこのアンテナを張っていてほしいです」
未来
独立して5年、思い描く未来も明確になってきた。
「とにかくブランディングをより確立させたいと思っています。ネイル業界に変わらずに居座るのがカッコ良いとは思っていなくて。例えば、シャネルやディオール、ルイ・ヴィトンなどはデザイナーやディレクターは代わっていきますがブランドはずっと残ります。そんな感じで、LapilieやDLAWを残したいと思いますね」
ブランドは一朝一夕にできるものではない。そのための努力は惜しまない。
「自分自身が表に出たいとは全く思わないです。もし自分が表に出て、それがブランドのために役に立つのなら考えますが・・・。お客様ありきで成り立っているので、お客様の満足度を下げない範囲で色々やりたいと思っていますし、
ここで働くことでスタッフが価値を感じるようなブランドづくりをしたいですね」
今ではネイル以外にもジュエリー制作も行っており、ネイリストの活躍の場をさらに広げている。RISAの下で働いているスタッフは全員楽しそうだ。
「情報発信して技術を確立させたいという子には、自分で企画やセミナーをやらせます。ファッションに興味があるならジュエリー分野に関わらせます。プラスアルファでやりたいことがあればやる。そこが今までのネイリストとは違うと思います。その部分に価値を感じて、ここで働くことに喜びを感じてもらいたいですし、そういうブランドづくりをしていきたいと思います」
ネイル業界の変革は、ここ原宿からすでに始まっている。
完
「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)
専門学校
ネイリストになることを決めたRISAは、3歳上の憧れの先輩が通っていた名古屋ビューティーアートに入学した。
「トータルビューティーを学ぶコースにいたので、エステ、メイク、カラーコーディネイト、着付けなどの様々な検定を取る必要がありました。とにかく検定の連続でしたね。一つの検定が終わったら次の検定をすぐに受けなければならないので、自宅に帰って練習したりもしていました。アルバイトなどする時間はほとんどありませんでした」
やがて就職活動の時期に差し掛かり、入学してから1年半で就職できる早期就職制度を利用して、ある大手ネイルサロンへの就職が決まった。
「ちょうど就活を始めようと思っていた時期に、東京のサロンが名古屋に店舗を作るということで、オープニングスタッフの募集説明会がありました。そこは入社して最初の半年間は東京で研修して、そのあと名古屋で働けるとのことでした。最初は自分の中で東京に上京したいとは特に思っていませんでしたが、「半年だけ東京行けるなら行ってみたいな」と思い、面接試験を受けました」
結果的に、その会社の入社試験に合格して、入社が決まった。入社試験を受けたのは、そのネイルサロン1社だけだった。そして、ついに東京で社会人としての生活が始まった。
東京
専門学校を卒業して、ついに東京での生活が始まった。勤務先は渋谷だった。東京をあまり楽しむ余裕もなく、仕事中心の生活だった。
「自分はかなり早い段階で正規のお客様に入ることになったので、戸惑いというか、考えている暇もないような感じでした(笑)」
あっという間に半年間が過ぎた。本来ならば、半年間の研修が終わったら名古屋に戻らなければならない。しかし、RISAの何気ない一言がその後の生活を一変させた。
「当時、一番トップの上司に「東京が面白いので、まだ帰りたくないです」とボソッと言ったことがありました。そしたらそれを真剣に考えてくれて、「それなら、東京で生活できるように準備するから、東京で頑張ってみれば?」と言ってくれて、そのまま東京に残ることになりました」
何気ない一言から、そのまま東京に残ることになった。それから独立するまで5年半働いた。その間に、店長やPR等、様々な仕事や役職も経験した。
「ものすごくハードなお店でした。時間は長いし、やること多いし、休み少ないし。その分、やりがいはすごくありました。それで、ここではやりきったというか、先が見えたというか・・・。これ以上やるなら、もう自分でやるしか選択肢がないかなと思い退社しました」
独立
5年半働いたネイルサロンを退職したRISAは、ネイルサロンをオープンさせた。
「そこはオーナーが別にいて、自分は雇われオーナーのような感じでした。店を出したいという人がいて、立ち上げを手伝ってくれないかと言われて・・・。ステップアップという面でも、いきなり全部自分でやるよりはいい話だと思い、1年くらいやりました」
あらゆる面での負担が少ないために始めた共同でのサロン運営だったが、徐々に悩み始めた。
「結局、そのような形は自分でやるのとは違うなと感じました。責任もないですが、自分に決裁権があるわけではないので、作れる幅も狭まりますし。そういう面でも、やはりこの形だと前と何も変わらないのかもと思ってしまいました」
自分で全て決めてやりたい。その想いのもとに、今度は完全なる自分の店を出した。
「以前からgricoのエザキさん(grico代表のエザキヨシタカ氏)に色々とよくして頂いていて、gricoが入っているビルの一室が空くことを教えてもらいました。gricoのビルは以前から知っていて、ネイルサロンをやるならこのぐらいの立地とスペースがいいと思っていたので、その話をもらった時には即決しました」
続く
「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)
アクティブ女子
生まれは岐阜県多治見市。一人っ子で、母親に育てられた。
「小学生の頃は、男の子といつも遊んでいる感じでした。女の子同士で遊んだりとかはあまりなかったですね。いつも男の子たちと集まって、外で遊んでいました」
母親の勧めで、保育園の時から水泳をやっていた。
「体が強くなるようにとの親の勧めで始めて、小学校5年生までやっていました。そのあと、走るのが得意だったのでクラブから入部を勧められて、短距離をやっていました」
中学生になると、バスケ部に入部した。ポジションはフォワード。最終的には、副キャプテンとなりチームを牽引した。
「特に誰に憧れてとかではなく、楽しそうだなと思い仲の良い子たちとみんなで入部しましたね」
勉強の方は文系の科目が得意だったが、それよりも得意だったのが美術で、成績も良かった。
「昔から絵を描くのが趣味で、自宅には色鉛筆やノートがたくさんありましたね」
ダンス
中学を卒業したRISAは、地元の高校の進学コースに入学した。
「高校からはダンスを始めました。音楽が好きだったので、その延長で始めた感じです。深夜にみんなでレッスンとかもしていました。周りの影響もあり、HIPHOPがすごい好きでした。逆に、ロックとかはあまり聞いたことがなかったですね。あと、海外志向が強かったため英会話の学校にも通っていました」
通っていた高校では進学コースに在籍していたこともあり、ダンスだけでなく勉強もする必要があった。
「当時はこれといった明確な夢などはなかったのですが、選択肢を広げたいという思いがあったので、本当はやりたくなかったのですが勉強はしました(笑)。大学に進学するのか専門学校に進学するのか、どうなるか分からなかったので・・・。進路を選べるようにしようと、それなりに勉強はしましたね」
大学に行くか美容の専門学校に行くか迷っていたが、一緒にダンスをしていた3歳上の憧れの先輩がネイリストになったことが、のちのRISAの人生に大きな影響を及ぼした。
「もともと美容に漠然とした興味はありました。しかし、職業としてのネイリストを意識したのは、仲良くダンスをしていた憧れのお姉ちゃんのような存在の人がネイリストになったからですね。その人自体が憧れの存在だったので、その人がなったネイリストという職業にもすごく興味を持ちました」
ネイリスト
ネイリストという職業を知ってから、それを目指すようになるまでに時間はかからなかった。
「こんな職業があるのだと思いました。その人が実際にネイリストとして活躍している姿を見たら、さらにいいなと思いましたね。もともと絵を描くことや表現することが好きだし、美容にも関われるのでネイリストはまさに一石二鳥だなと。絵を描いてご飯を食べるのは難しいですが、ネイリストはそんなこともないですし」
ダンスでプロになるという道は考えなかった。
「自分は石橋を叩いて渡るタイプなので・・・。高校生ながらにして、ダンスで食べていくのは難しいと思っていました。そこは、母親の影響が大きいと思いますね。自立心は早くから芽生えていたと思います」
進学コースに在籍していたため、クラスメイトは全員大学に進学予定だった。そのため、担任の先生はRISAにも専門学校ではなく大学進学を勧めてきた。
「本当に専門学校に行くのか?と先生からは面談の度に言われました(笑)。母親も最初はあまり理解していない様子でしたが、専門職の強みを話したりして、最終的には理解してもらいました」
結果的に周囲も納得し、名古屋にある専門学校への進学が決まった。
続く