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西森友弥〜ワンアンドオンリー Vol.3〜

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

美容業界

「MR.BROTHERS CUT CLUB」をオープンしてからこれまでで、西森が身を置く美容業界もだいぶ様変わりした。

「上からでもなく下からでもなくフラットに言うと、僕が「MR.BROTHERS CUT CLUB」を立ち上げた時の業界は死ぬ程ダサかったです。ダサいと言うとトゲがありますが、自分には全然響いてこなくて。ヘコヘコしてて、自分たちのこだわりを出さずに、ファミレスみたいなサロンが多かったと思います。何が得意かを一言目に言えないし、メンズもモードもコンサバも全ジャンルできるけど65点みたいな」

紋切り型の金太郎飴のようなサロンも必要だが、それだけでは美容業界の未来はない。

「それが今ではgricoのエザキさんだったりSHACHUのみやちさんだったり、何でも屋じゃない専門家たちが尖って出てきているので、なるようになってきたなと感じますね。業界自体がすごく良くなってきていて、すごくいい時代だなと思います」

まさに、西森が思い描いていた理想の美容業界になりつつある。

「例えば、自分たちもテクニックを用いたカラーはできないし、レディースもできない。なんなら断っています。メンズカットひとつしかできないけれど、そのひとつがおそらく200点の自信があります。どんなサロンが出てきても自分たちは負けない自信がありますね」

美容学生

将来の美容業界を担う学生に対しても、西森は期待をしている。

「綺麗事を言うと、無駄なことは一つもないと思うので、学校で教わる最低限のことは絶対にやったほうがいいと思います。学生の時に、これは自分に必要で、これは必要ではないなどと言う資格はないと思っているので。言われたことはちゃんとやって、その中でやりたいことを選んでいくべきですね」

毎年多くの美容専門学生が、「MR.BROTHERS CUT CLUB」で働きたいと訪ねてくる。

「うちも、「メンズを極めたいです」「レディースはやりたくないです」と来てくれる学生がいるのですが、それはまだ早いと思いますね。将来的にレディースでカリスマになるかもしれませんし。全て色々やった上で、物事を選んでいくのが一番いいと思います。それでは、ピーマンを食べたことがないのに「ピーマンは嫌い」だと言っているのと同じですからね。よく美容専門学生の子達も髪を切りに来てくれるのですが、「楽しそう、ラクそう」でブラザースを選ぶなとは言っています。自分達もこれまで散々苦い水を飲んできて、今があるので」

挫折はしない

外に見せないだけで、西森は不断の努力で今の立場に上り詰めたのだ。それだけに、仕事に対しても決して譲れない自分のポリシーがある。仕事を始めてからは、いわゆる挫折をしたことは1回もない。

「仕事を始めてからは、かっこいい言い方すると挫折しないように頑張ってきましたので、挫折は1回もないです。挫折って、どうしようもないことが起こったときになると思います。例えば、片手が動かなくなって仕事ができなくなるとか、親が大病を患って東京で美容師を続けることができなくなるとか。俗に言うテストに受からない、デビューできない、売り上げが伸びないというのは挫折ではなくてお前が頑張れよという話ですね」

外見からは努力という言葉が似合わないが、実は誰よりも努力してきた。そして、なお努力し続けているからこそ今がある。

「ブラザーズを立ち上げる時も、もしかしたら自分に根性がなかったら独立失敗して挫折していたと思いますが、そうならないように毎日しこたま努力していたので、挫折はしなかったですね。なので、自分は挫折をしたことがないですし、これからもしないと思いますね」

未来

西森にとって美容師とは「ツール」であるという。もしこの仕事をしていなかったら繋がれなかった人達とも繋がることができるツール。

「あえて言うなら、そのツールをどう色付けて、どういう人が寄ってくるかと言うことですね。自分が髪を切れたから繋がれた人がたくさんいますので。「美容師」という職業は自分にとって生き甲斐というわけでもないし、「人生そのものです」というでっかいテーマでもなくて。コミュニケーションツールですね」

そのツールを手放す気は毛頭無い。

「最終的にはずっと切っていたいですね。それがなくなると、今まで繋がっていた人が離れていく気がしますし。なので、店も出すし、プロダクトも作るし、アカデミーも作りますが、最終的には今の気の知れた仲間たちと気の知れたお客さんの髪を切っていたいですね。どんどんシンプルにしていきたいです」

アカデミーの創設を始め、まだまだやりたいことは山ほどある。

「現役を退くことは全く考えてないです。なんか自分が終わっちゃいそうで。金に興味があるわけでもないし、経営者になりたいわけでもないし、経営について語りたいわけでもないですし。ずっとクリエイターであり続けたいですね」

流行は絶えず移り変わるが、西森のスタイルはいつの時代も決して変わらない。そのスタイルを維持できるのは、当たり前だが人知れぬ不断の努力があるからである。西森が創り出す未来を期待せずにはいられない。

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

就職

やがて専門学校の2年生になり、社会人になる時が近づいてきた。

「卒業式3日前まで就職が決まってなくて・・・。なんかやる気がなくて、就活もしませんでした。最初は少ししたのですが、失敗してからやめました。自分の人生、専門学校を卒業する時がMAXではないし、適当に飲食店で働きながら就職先を探そうかなと思っていましたね」

そんなある日、原宿を歩いていたところディグズヘアが目に止まった。

「ディグズヘアはまだ採用試験を受けてなかったし、そこはギャッツビーのムービングワックスを作っていたので、オーナーの存在を知っていました。フリーターになるよりいいかなと思い、サロン見学をした際に店長と話す機会があり、「あさって面接試験があるから受けてみなよ」と言われて、面接を受けることにしました」

当日面接を受けにいくと、想像以上にライバルが多かった。

「結構な人が面接を受けにきていました。それも、ほとんどの人がプライベートでディグズヘアに髪を切りに来ているような熱狂的なファンでした。自分は一度も来たことがなかったですし、面接の最後に「数年で黒田さん(ディグズヘアオーナー)を超えさせていただきます」と言いました。グリッグリの頭でタトゥーを出して(笑)」

結果的に、西森は最終合格者2名の内の1名に入った。

「際立ってバカだったから受かったようです。自分はあまり必要性を感じないのですが、当時は一般常識テストのようなものがありました。歴代の首相を3人書けみたいな。それが、確か1点か2点でした。稀に見るバカだったようです(笑)」

そんな紆余曲折もあり、西森は無事に新卒としてディグズヘアに入社した。ついに社会人生活が始まった。

「アシスタントから始めたのですが、5〜6個上の先輩を余裕で超えられるなと思いましたね。とりあえず最短でデビューしようと思っていました。同時に、しこたま遊んでいましたね。3日寝ないで1日寝るみたいな。借金して遊んで、また借金して遊んでの繰り返しでした。もちろん、練習もバリバリやって」

努力の甲斐もあり、西森は2年という最短期間でスタイリストデビューをした。22歳だった。しかし、西森はある葛藤を抱えていた。

「自分はレディースをやりたくなくて、メンズだけをやりたいというのがありました。社長に直訴したりもしましたが、叶いませんでした」

MR.BROTHERS CUT CLUB

スタイリストになってから4年後に、西森はついに独立した。

「当時から自分の店を出す気が満々でした。25歳の時に独立する旨を店に伝えて、1年間の準備期間を経て、26歳の時に「MR.BROTHERS CUT CLUB」を原宿に出しました」

「MR.BROTHERS CUT CLUB」の構想は、西森が23歳ぐらいの時から抱いていたものだった。

「独立する前に、一度美容師をやめようと思ったことがありました。すごく窮屈な業界だなと思って。そんな時にドニー達(※カリフォルニアにあるバーバーの聖地「HAWLEYWOOD’S BARBER SHOP」のドニー・ハーリー)と出会いました。その時に「自分のやりたいことをやっていいんだ」と思い、そこから吹っ切れて全てがうまくいったという感じです」

当時、ドニー・ハリーはジャパンツアーをやっていた。それをアテンドしていたのが、現在西森と一緒にポマードを作っている北海道「barber shop apache」の川上昌博氏だった。

「仲の良いアパレルのお店にドニーのジャパンツアーを紹介してもらい参加しました。そこでの川上さんとの出会いは、本当に大きかったですね」

川上氏との出会いは、西村の行くべき道に確信をもたらした。

「自分は当時から撮影やカタログなどのメンズの仕事をたくさんやっていました。それを川上さんが見てくれていて、「君、それどこで習ったの?」という感じで言われて。「独学でやりました」と答えたら、川上さんに「俺が色々と手伝ってあげるから東京から発信してほしい」と言ってもらえて」

仲間

長年の構想だった「MR.BROTHERS CUT CLUB」が、原宿からついに始動した。

「最初は一人でやるつもりだったのですが、メンバーを募りたいと思い顔の広い後輩に相談したところ、紹介してもらったのが今の原宿の健士(城間健士)と晃男(倉田晃男)でした。そして、是非やりたいということになり合流しました」

原宿店の店長であるジュリアンとの出会いも、劇的なものだった。

「ジュリアンは当時他の店舗で働いていて、当時からバリバリ有名なスタイリストでした。他の人の紹介で、自分が独立する前に髪を切りに来てくれて。そして、髪を切ったその日にそのまま飲みに行って、一緒に働くことになりました。彼はその足で、当時彼が働いていたお店に辞めると伝えに行きましたね」

まるで何かに導かれたかのように、メンバーが揃った。そして、「MR.BROTHERS CUT CLUB」はオープンして以来一度も赤字になったことがない。

「赤字のお店をどうこう言うつもりはありませんが、しこたま頑張りましたね。お客さんがいないんだったら捕まえに行ったし、家に直帰することなんか1日もなかったし、必ずどこかに行って人と会って名刺を配ってという感じでしたね」

オープン当初はもちろん誰もお店のことなど知らない。「MR.BROTHERS CUT CLUB」をみんなに知ってもらうため、起きている間はそのことだけを考えていた。

「今ならお店も知ってもらえていることが多いですが、その頃は無名ですし、海外のブランドを引っ張ってきたわけでもないし、自分のあだ名から生まれた「MR.BROTHERS CUT CLUB」なんて名前は誰も知らないので。ジュリアンや健士なんかは、今では考えられないですがオープン当初はビラ配りとかしていましたね」

続く

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

漫画のような世界

西森は三重県四日市市出身。男三兄弟の真ん中として育った。小・中学校ではバスケに熱中していた。

「小中のときは身長が関係なかったので、選抜チームやクラブチームに入っていました。割としっかりやっていました」

中学校を卒業した西森は、地元の高校に入学した。

「高校は三重県でも下から1〜2番の、学歴最悪みたいな高校に通っていました。ヤンキーかネクラしかいないような高校でした。自分はそんなにグレてなかったですね。今もサロンではみんな仲が良いのですが、昔から同じように仲間を大切にするタイプでした」

当時から仲間を大切にしてきた西森だったが、周りの環境は普通ではなかった。

「自分は基本的に今と何も変わっていないですね。ずっとこんなおちゃらけてるような感じでした。ただ、地元がヤンチャだったので街は暴走族だらけでしたし、漫画みたいな世界でした。校舎内をバイクで走って窓ガラスが割れて、消火器が降って来るみたいな(笑)」

ヘアサロン

まさに漫画のような世界をくぐり抜けてきた西森だったが、高校時代に今の仕事につながるアルバイトに出会う。

「バスケを辞めた理由が怪我だったのですが、そのあと病気をしたり、しんどかった時がありました。将来はファッション系の仕事をしたいと思っていたのですが、髪切る仕事の方が楽しそうだなというのがあって、「絶対僕は使えるので、使ってください」とヘアサロンに直談判して、アルバイトをさせてもらいました」

持ち前のバイタリティを発揮して、高1からヘアサロンでアルバイトを開始した。

「高校に行ったり行かなかったりしながら高校の3年間、ヘアサロンでずっとアルバイトをしていました。今の仕事もそうですし、東京に行こうと思ったこともそうなのですが、何か劇的なターニングポイントがあったわけでもなく、流れでしたね。気付いたらそうなっていたみたいな。東京行くと決めたのも、「どうせやるなら日本一だよな」と思ったからですね」

高1の時にサロンでアルバイトを始めてから将来は東京に行くと決めていたので、高校時代は月に一度は東京に遊びにきていた。

「洋服買ったり、色々なサロンを見たり、東京に無理やり友達作って遊びにきていました。主に原宿近辺で遊んでいましたね」

東京

高校を卒業した西森は、東京の美容専門学校に入学した。

「親も特に反対はしませんでした。時々帰ってこいという雰囲気はありましたが。ただ、田舎の人というのもあるのですが、いまだに親には認めてもらってません(笑)」

高1の時から考えていた、東京での生活がついに始まった。

「東京に来たのも本当に流れのようなものだったのですが、地元にいる連中を置き去りにしたかったというのはありますね(笑)。一旗あげてくるからみたいな。本当は高校も辞めたかったのですが、専門学校に入るには高卒の資格が必要だったので、高校を卒業してから渋谷にある住田美容専門学校に入学しました」

美容学生時代は、「将来ビッグになって自分の店を持つ」というのが口癖だった。

「学校には真面目に通っていたのですが、練習はほとんどしませんでした。学校では目立っていた方だとは思いますが、成績も平凡でしたし、決して優等生ではなかったですね。専門学校の授業が終わったら、居残り練習しないで原宿の洋服屋回って、夜にお酒飲んで・・・、みたいな生活でした」

今ではトレードマークのタトゥーも、専門学生時代に入れ始めた。

「学校の先生には怒られましたね。「お前見えるところに入れるな!」とよく言われました(笑)」

そもそも西森がタトゥーを入れ始めたきっかけは、バスケットボールだった。

「アメリカのカルチャーが好きだったというのもありますが、やはりNBAの影響が大きいですね。NBAの選手はタトゥーがすごいので、それで自分でも壁がなくなって。昔から18歳になったら入れようと思っていたので、18歳になったら速攻で入れて、そのあとは毎月入れていましたね」

続く

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

フランチャイズのオーナー

当時の鈴木は、自分の身を削ってこれ以上指名のお客様を増やすべきか悩んでいた。

「その時は指名のお客様が80人位いたのですが、自分の中では80人が限界だなと感じていました。そのタイミングで声をかけてもらったので、管理職で、かつ人に指名を付けるような仕事をしたいと思っていた自分は神奈川の店長になることにしました」

最初は溝の口の店長からスタートし、10ヶ月経った頃にはエリアマネージャーになった。そして、80店舗になった頃に、それまで直営店のみの展開だったAguがフランチャイズ展開することになった。鈴木はフランチャイズのオーナーにならないかとAguの会長に声をかけられた。

「最初はやりたいと思いませんでした。当時は飲食店をやりたいと思っていました。根本的にお金持ちになりたいという思いが強くて、このまま個人で独立して1〜2店舗のオーナーになってもだいたいこの位しかお金が貰えないなというのが見えたので、それならフランチャイズで飲食店をやりたいなと思っていましたね」

飲食店の道に進むか悩んでいた鈴木だったが、Aguのフランチャイズのオーナーになることに決めた。

「Aguの会長に「やれば分かるから」と言われ、押し切られた部分もありました(笑)」

マーケティングミス

フランチャイズの1店舗目は、東京の三軒茶屋に出店した。

「当時、神奈川県でのAgu出店の際のマーケティング調査などは自分が行っていたので、マーケティングには自信がありました。三軒茶屋のその物件は自分の中で温めていた物件でもあり、ここならと思い決めました」

自信を持って出店した三軒茶屋だったが、予想外の思わぬ事態に直面した。

「最初の10ヶ月は赤字でした。完全に自分のマーケティングミスでした。Aguは低価格帯でどの店舗もヒットしていたのですが、三軒茶屋のここなら500円上げても大丈夫だと思い、Aguの中では少し高単価な店にしました。それが見事に外れて、お客様が全く来ませんでした。」

結局、他の店舗から連れてきた従業員に謝罪して、元の価格に戻すことにした。

「500円下げたら、前月の2倍以上のお客様が来ました。そこで経営の厳しさを学び、それからは美容師というよりも経営者のマインドになりましたね」

ライフハックデベロップメント

三軒茶屋に出店したのち、今度は神奈川県の海老名に出店した。現在は40店舗に達した。

「自分自身、店舗を増やすことにあまり興味がないです。今年、私のもとで孫フランチャイズの形で二人独立します。資本的な支援というよりは、彼らが独立するところに店舗を作り、マーケットを取り、人材を確保してそこで独立させてあげられるようにしたいです」

Aguは1,000店舗目指し、現在も拡大中である。鈴木の挑戦はまだ終わらない。

「自分の会社は「ライフハックデベロップメント」をテーマに掲げ、働き方や生き方という部分での選択肢の開拓をしていきたいと思っています。美容師という職業は本当に可能性があると思っています。お金の部分ももちろんそうですが、時間の使い方や、何を自分の人生の財産にするのかを自分で決めて、それを無限に叶えられるのです」

美容師の可能性を信じ、今日も彼は戦い続けている。

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

初めての挫折

付属の大学に進学できなかったた言い訳として口走った「美容師になる」という親との約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。葛飾の実家から山野美容芸術短期大学がある八王子に通う日々が始まった。趣味のギターも続けながら、短大には真面目に通った。そして、美容免許を取得して就職先を探す段階で、これまでにない挫折を経験した。

「それまでは意外とトントン拍子で来ることができました。言い訳で固める癖があったので、例えば成績が悪くても「夢があるから」と親に言い訳して短大に進学したり・・・。なので、それまで挫折したことなどはありませんでした。しかし、就職先を探すときに行きたかった有名サロンにことごとく落ちてしまい、初めての挫折を経験しました」

就職希望のサロンが全て不合格となり途方に暮れていた鈴木だったが、誰も想像しない思わぬ行動に出た。

「頭を丸坊主にして、試験を受けられない状態を1ヶ月半くらい作って気持ちをリセットしてまた就職活動し直しました。先生からは「頭が狂ってる」と言われましたが(笑)」

クロードモネ

一度リセットした鈴木は、好きだった下北沢で就職しようと決意した。

「毎日下北沢で目についたサロンを片っ端から訪問して、自分を売り込んでいきました。ほとんどのサロンで門前払いだったのですが、1件だけ「君、面白いね」と言ってくれたサロンがあり、そこに入社しました。クロードモネというサロンです」

下北沢のクロードモネに新卒で入社した鈴木は、実家暮らしから離れてお店の近くに引っ越して、ひとり暮らしを始めた。

「実際に入社してからも、挫折の連続でした。先輩方に朝まで付き合ってもらって練習していたのですが、社内試験になかなか受からないという日々が続きました」

落伍者

学校で練習してきたことが通用しないという現実に突きつけられた瞬間だった。

「自分はモデルさんを一番切っていたと思います。多分200人くらい切っていたと思うのですが、クロードモネの歴史で試験に一番落ちたと言われていました(笑)」

当時は試験に落ちる理由が分からなかった。

「自分は過程を大事にするというか、努力する自分を大事にする傾向がありました。相手が設定した試験の合格ラインは関係なく、自分はこれだけやってるというプレゼンだけ一生懸命で、今考えると全く的外れでした」

約5年間アシスタントを務めた後に、クロードモネを退社した。

「クロードモネは客単価が最低1万円の高級サロンでした。自分の中では客単価が安いサロンにまず入社して、そのあと徐々にステップアップしていこうと考えていたこともあり、単価が安いAguに転職しました」

続く

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

目立ちたがり屋の少年

鈴木は東京の葛飾区出身。実家は、祖父の代から町工場を営んでいた。

「小学生の時は生徒会長をやっていました。真面目でしたね。葛飾は川が多いので、荒川や中川、隅田川などの川の土手で遊んでいました」

小学校を卒業した鈴木は、地元の中学校に入学した。

「中学では陸上部に入り、長距離をやっていました。正直、部活には興味なかったのですが、持久力だけ付けておこうと思い入部しました。中学生になっても、小学生の頃と同じように土手で遊んだりという感じでしたね」

中学校に入っても、鈴木は生徒会に所属した。

「勉強は全然ダメでした。ただ、小学校から目立ちたがり屋で生徒会をしていたので、中学校もその流れでという感じですね」

音楽との出会い

中学校を卒業した鈴木は、世田谷にある駒澤大学付属高校に入学した。

「それまで地元からあまり出なかったので、一気に世田谷の方まで出たいなと思いそこにしました。うちの中学校自体の頭が悪過ぎて、普通に出席するだけで偏差値が高くなって推薦でいけました(笑)」

高校に入学した鈴木は、軽音楽部に入学した。

「ギターをやっていました。そこから、髪型とか服装とかに興味を持つようになりました。ハイスタンダードとか好きでしたね」

高校時代は音楽とアルバイトに明け暮れた。

「ライブをたまにやりながら、後はイトーヨーカドーで冷凍食品の出し入れのアルバイトをしていました。お金を稼ぐのが楽し過ぎて、バンドかバイトかという感じでした。仲の良い地元の友達がみんなイトーヨーカドーでアルバイトしていたので、自分もという感じでした」

短大進学

成績は悪かったが、毎日が楽しくて高校には休まず通った。そんななか、高校2年の進路を決める時期になると、それまで勉強をしてこなかったツケが回ってきた。

「本当は駒澤大学に進学してサラリーマンになりたかったのですが、成績が悪過ぎて付属の大学にも上がれない事態になりました。親に何て言ったらいいか分からずに、とりあえずはそれらしい言い訳を考えて「本当は美容師になりたい」と伝えました」

親に対する言い訳として口走った「美容師になる」という約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。

「親的にも実家の工場を継ぐか、もしくはサラリーマンになって欲しかったというのがありましたので、山野美容芸術短期大学に決めました」

流れの中で美容師への道を歩み始めることになった。しかし、当然のことながら美容師はそんなに簡単な職業ではなかった。

続く

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

ロンドンで美容師

スコットランドのエジンバラにある学校に入学した呉は、ホームステイをしながら英語を勉強した。そして、その後ロンドンに行った。

「ロンドンで家を探す必要があったので、「地球の歩き方」という本を読んでロンドンにあるゲストハウスを探して、そこに泊まりながら家を探しました」

自宅を決めた呉は、ヴィダルサスーンの学校に通った。

「ヴィダルサスーンに3ヶ月の短期のコースがあったので、そこに通いました。通訳付けるかと聞かれたのですが、通訳なしでやりました。ヴィダルサスーンでは現地のモデルさんも切らしてもらいました」

ヴィダルサスーンでの3ヶ月のコースが終了し、呉は現地の美容室に就職した。

「英語がそんなに話せなかったので、マレーシア人がオーナーの美容室に入社しました。そこは、現地の駐在員の方とかもよく来ていました。給料も割と良かったですね。当時はインターネットも今ほど発達していなかったので、新聞で求人募集を見て決めたという感じですね」

呉が働いていた美容室は日本人の顧客が多く、日本の美容室と同じような環境だった。

「外に出れば外国ですが、中はほとんど日本と変わらなかったですね。これだとダメだと思い、イギリス人がオーナーの店に移りました。そこから、ヘアメイクのアシスタントの仕事とかもし始めました。ミュージックビデオや現地の雑誌などのヘアメイクをやりましたね」

フルタイムで働くのがキツくなった呉は、その美容室を辞めて派遣美容師の仕事に就いた。

「派遣美容師として1日3〜4人のお客様を対応して、その合間に撮影をしてという感じでした」

帰国

念願だったヘアメイクの仕事にも従事して、順調に働いていた呉だったが、思わぬ落とし穴が待っていた。

「自分は学生ビザだったのですが、学生ビザがだんだんキツくなってきて、周囲の学生ビザを持っていた連中が強制送還され始めました。当時は労働ビザもなかなか取れなかったので、日本に帰ることにしました」

イギリスに2年間滞在し、日本に帰国した。

「日本に帰国してもお客さんがいるわけではないですし、美容室を始める資金もなかったので悩みました。またイギリス戻るか、日本で美容師やるか、ヘアメイクのアシスタントをやるかという3択を迫られていました」

そんな時、MINXの元上司から、新しく立ち上げた美容室で働かないかと誘いを受けた。自分を必要としてくれるならと、呉はそこで働くことにした。

「最初は流れも分からなかったので、半年くらいアシスタントをさせてもらいました。日本の美容事情も自分がイギリスにいる間に変わってしまっていたので・・・。最初、自分のお客さんは一人もいなかったのでどうしようかと考えていた時に、後輩から「mixiで集客したらお客さん来ますよ」と言われたのでやってみたら、その日のうちにお客さんが10人くらい来ました」

月に100名くらいの新規集客が可能になり、店舗も拡張移転した。そして、もともと独立願望があった呉はその気持ちを伝えた。

「当時の店の状況的に、アシスタントも育っておらず辞められない状況でした。そして、「1年半くらいは下の子育てて、その子達がデビューしたら辞めていいよ」と言われたので、そのような環境になってから独立するために辞めました」

DECO

4年半働いたのち、呉は念願の自分の店舗をオープンした。DECOという名前に特に意味はない。

「名前はわりと響で決めた感じです。あまり名前に意味を込めたくなくて・・・。名前に意味を込めるとそれになってしまうので、抽象的な感じにしたくて響で決めましたね」

DECOがあるのは、渋谷と原宿のちょうど中間に位置した一等地。もちろん、最初から順風満帆ではなかった。

「ずっとプレイヤーできていたので、かなりキツかったです。これまでは、なんとかなるや的な行き当たりばったりなので(笑)。オープンして1年くらいは、他のスタッフにお客さんを付けるのに大変でした。1年目は赤字が700万くらいあり、潰れるかなと思いましたね」

プレイヤー兼経営者という二足の草鞋は想像以上にきつかったが、得るものの方が多かった。そして、次なるステージに向けて呉は動き出している。

「今後は店舗を増やしたいなと思いますね。それと、昨年は一年を通じて中国のメーカーさんのセミナーの仕事などをやらせてもらったのですが、そういう市場が中国にはまだまだありそうなので、動画のコンテンツとかを作って持ち込んでやっていきたいですね。それと、今はスタッフがたくさんいて、色々と指導させてもらっています。自分自身もこれまで色々な方に育てられてきましたし、教えるのが好きなので、100人は育てたいと思っています」

呉に育てられた100人の美容師が日本を飛び出して世界中で活躍する日が来るのは、そう遠くないはずだ。

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

東京

美容師になることを決意した呉は、美容専門学校に行くために上京した。21歳の時だった。

「当時はカリスマ美容師ブームで志願者が多かったため、美容専門学校を色々と受けたのですが山野美容専門学校しか受かりませんでした。それで、山野に入学しました」

親元を離れての一人暮らしが始まった。授業が楽しくて、皆勤賞だった。

「不器用だったので練習もたくさんしましたね。学校に入学して初日にロッドを巻くのですが、一番下手でした。ヤバいなと思い、毎日家に帰って7〜8時間練習していましたが、1ヶ月くらいでだいぶ上手くなりましたね」

授業がない日はアルバイトをしたり、クリエイティブな活動にも参加したりした。

「専門学生の頃は、クラブ貸し切ってヘアショーばかりしていました。クラスメイトや他の学校の学生などみんな集まってやっていました」

イギリス

もともと海外志向があった呉は、山野美容専門学校を卒業したらイギリスに行って働こうと考えていた。

「ある時、海外で働いていた美容師さんに会って色々と話を聞いた時に、「基礎がないから3〜4年は日本で美容師をしてから海外に行ったほうがいいよ」とアドバイスをもらいました。それで、そこから日本で就職活動を始めました」

呉が日本で就職活動を始めたのは11月。周囲よりだいぶ遅れてのスタートだった。

「とりあえず有名店でしょということで、有名店には全て電話しました。MINXとZACCが二次募集しているというので受けたところ、MINXからその日に合格通知をもらったので入社しました。当時は600人くらい受けて30人くらいしか受からなかったので、良かったですね」

MINXに入社し、ついに社会人としての新しい美容師生活が始まった。

「やはり厳しかったです。当時はMINX原宿店ができたばかりでした。腕利きの美容師が各店から呼ばれて働いていたので、そこですごく揉まれましたね。新卒で10名くらい入ったのですが、1年で半分くらい辞めてしまいました」

渡英

MINXで働いていた呉だったが、イギリスでヘアメイクをやってみたいという夢を捨てきれないでいた。結局、3年半働いてMINXを退社した。

「MINXを退社してからは、イギリスに行くお金を貯めるために、知り合いの美容室で働いていました。その美容室が1年半で潰れてしまったので、そのタイミングでイギリスに行こうと思いました」

長年の夢を叶えるため、呉はついにイギリスに渡った。ヴィダルサスーンやトニーアンドガイだったり、当時は「美容」= イギリスというイメージだった。また、イギリス、アメリカと渡り最終的にはNYでアクセサリーデザイナーになっている呉の弟の影響も大きかった。

「英語も全然喋れなかったので、スコットランドのエジンバラにある学校に4ヶ月通いました。弟から「ロンドンで勉強しても日本人が多いし、あまり学べないから田舎に行った方が良いよ」と言われたので、ロンドンから近いエジンバラにしました」

念願のイギリスでの生活がついに始まった。

続く

やりたいことがあっても、大抵の人は行動に移すことなく思うだけで終わってしまう。しかし、やりたいことを全て行動に移して実現させる美容師がここにいる。そこにどんな困難が待っていようとも、立ち向かって人生を切り拓いてきたその生き方とは?「競輪選手」「ヘアメイク」「イギリス」「独立」と、理想を実現してきた美容師、呉等至の人生に迫る。(敬称略)

オタクな少年時代

呉は両親と弟との4人家族。愛知県豊橋市で生まれ育った。 「小学生の頃は、わりと絵ばかり描いていました。絵が好きでしたね。物心ついた時から絵が好きで、最初は漫画の模写から始めてという感じでした。暗かったですね(笑)」 小学5年生までは運動神経があまり良くなかった呉だが、6年生になると成長期も相まってか運動神経が良くなった。 「それまでは、走っても一番遅いような感じでしたが、6年生になると急に早くなり1位を取れるようになりました」 小学校を卒業した呉は、地元の中学校に入学した。 「運動神経が良くなってスポーツができるようになったので、性格も明るくなりました。当時はハンドボール部に入っていました」 スポーツと並行して、小学生の時から続けていた漫画を描く趣味も継続していた。 「当時はオタク文化もそこまでメジャーではなかったので、こそこそ描いていましたね(笑)」 呉の両親は経営者だったが、無理して勉強しなくてよいという教育方針だった。 「両親は共働きだったので、自分は祖母と叔母さんに育てられたという感じです。両親にはわりと放っておかれてましたね。これまで塾にも行ったことないですし、勉強もほとんどしませんでした」

自転車競技との出会い

中学を卒業した呉は、中学生時代のハンドボール部での実績が認められ、スポーツ推薦で地元の高校に入学した。どうしても自転車競技をやりたかったため、地元にある自転車の強豪校に入学した。 「自宅の近くに競輪場がありましたし、父親が自転車を好きだったということもあり、高校から自転車競技を始めようと思いました」 まさに、自転車に明け暮れた高校生活だった。 「休日の練習では、自転車で100キロとか200キロ走っていました。学校が終わると海や山に走りに行きましたし、地元の競輪場にナイター施設があったのでそこで21時くらいまで練習したりしていましたね」 過酷な練習の甲斐もあり、キャプテンとして全国大会にも出場した。全国で8位になったこともあった。 「当時は、将来的に競輪選手になろうかなと思っていましたね」

競輪選手

高校を卒業した呉は、近所に住んでいたプロの競輪選手に弟子入りした。自宅から毎日、近所に住む師匠の家に通う日々が始まった。 「あの頃は、朝4時30分から夜の10時までずっと練習していました。両親も自転車競技をすることに協力的だったので、朝練に付き合ってくれたりしてくれました。両親と二人三脚でプロを目指していました」 競輪選手になるために、2年半練習に打ち込んだ。しかし、呉は違う道に進む決断をした。 「他の競輪選手に比べて体も小さかったですし、自分の能力的に一生競輪選手としてやっていけるかとなった時に、それは厳しそうだなと思ったので決断しました」 競輪選手への道を諦めた呉は、美容師になる決断をした。 「もともと母親から「美容師をやりたかったけれど、家柄的に難しかった」ということを聞いていて・・・。自分としてもおしゃれが好きでしたし、作るのも好きだったので何か作る仕事をしたいと思っていました。そこで、洋服のデザイナーか美容師になりたいなと、最後の頃は自転車をこぎながら思っていましたね。そして、最終的に美容師になることにしました」 美容師になるために、呉は親元を離れて上京した。美容師になるための新しい生活が始まった。

続く