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RISA〜ネイル業界の変革者 Vol.3〜

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

Lapilie & DLAW

理想の物件を手に入れて、満を辞して自分のネイルサロンをオープンさせた。

「最初は「お客様が来てくれるかな?」という不安とかあったのですが、結果的にその不安は無くなりました。ただ、人を雇うということで、自分だけの問題ではなくなるところが今までと全く異なっていますね。人の人生を預かる、そういう立ち位置ですので」

Lapilieは現在5年目。2店舗目として、Lapilieの目の前にDLAWもオープンさせた。

「Lapilieは3席しかないので手狭になり、ちょうど目の前の物件が空いたので借りました。そして、せっかく借りるならもう一つブランドを作ろうと思って、DLAWという名前にしました」

Lapilieの名前の由来は、特に意味がないという。

「Lapilieの言葉自体には意味はなく、響きが良い音をつなげて作りました。あえて意味を持たせていません。最初は何もないですが、それが時間とともに意味があるものに変わっていくと思って付けました。また、DLAWは描くという意味の「DRAW」をもじったのですが、うちの店はネイルアートの中でも特殊な素材を使ってアートを生み出します。そういうものを描くという意味や、お客様や関わってくれる人たちの人生の一部を描くという意味が込められています。また、いつかオリジナルのプロダクトを作っていきたいと思っていたので、それらを描くという意味も込められています」

ネイリスト

誰よりもネイリストという職業に誇りを抱いているからこそ、RISAはネイル業界の変革を望んでいる。

「ネイリストはもっと可能性がある仕事ということを、他のネイリストにも知ってほしいと思います。自分はネイル業界にはいますが、業界自体にはそこまで関わっていません。ネイル業界がやっていることは10年前と変わらないと思っていたので、これまで自分のやり方でずっとやってきました」

旧態依然とした古い体質のネイル業界に魅力を見いだすことが出来なかった代わりに、これまで独自のアプローチでやってきた。

「そもそも自分は天邪鬼でみんなと同じことをしたくなかったので、ファッションだとか違う業界の人と関わってきて、そこから得るものの方が大きかったと思います。自分のやり方でやってきた結果、ネイリストはすごい可能性がある職業であることに気付きました」

古い体質のネイル業界に対して、一石を投じたいと誰よりも思っている。

「ネイル業界に自分が関わっていることも確かなので、そこに自分のスタイルを変えないで貢献できることがあれば貢献したいと思います。自分みたいなネイリストもいるというのを知ってもらえれば、ネイリストに対する価値観も変わってくると思いますし、ネイリストの皆さんにはそこのアンテナを張っていてほしいです」

未来

独立して5年、思い描く未来も明確になってきた。

「とにかくブランディングをより確立させたいと思っています。ネイル業界に変わらずに居座るのがカッコ良いとは思っていなくて。例えば、シャネルやディオール、ルイ・ヴィトンなどはデザイナーやディレクターは代わっていきますがブランドはずっと残ります。そんな感じで、LapilieやDLAWを残したいと思いますね」

ブランドは一朝一夕にできるものではない。そのための努力は惜しまない。

「自分自身が表に出たいとは全く思わないです。もし自分が表に出て、それがブランドのために役に立つのなら考えますが・・・。お客様ありきで成り立っているので、お客様の満足度を下げない範囲で色々やりたいと思っていますし、

ここで働くことでスタッフが価値を感じるようなブランドづくりをしたいですね」

今ではネイル以外にもジュエリー制作も行っており、ネイリストの活躍の場をさらに広げている。RISAの下で働いているスタッフは全員楽しそうだ。

「情報発信して技術を確立させたいという子には、自分で企画やセミナーをやらせます。ファッションに興味があるならジュエリー分野に関わらせます。プラスアルファでやりたいことがあればやる。そこが今までのネイリストとは違うと思います。その部分に価値を感じて、ここで働くことに喜びを感じてもらいたいですし、そういうブランドづくりをしていきたいと思います」

ネイル業界の変革は、ここ原宿からすでに始まっている。

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

専門学校

 ネイリストになることを決めたRISAは、3歳上の憧れの先輩が通っていた名古屋ビューティーアートに入学した。

「トータルビューティーを学ぶコースにいたので、エステ、メイク、カラーコーディネイト、着付けなどの様々な検定を取る必要がありました。とにかく検定の連続でしたね。一つの検定が終わったら次の検定をすぐに受けなければならないので、自宅に帰って練習したりもしていました。アルバイトなどする時間はほとんどありませんでした」

やがて就職活動の時期に差し掛かり、入学してから1年半で就職できる早期就職制度を利用して、ある大手ネイルサロンへの就職が決まった。

「ちょうど就活を始めようと思っていた時期に、東京のサロンが名古屋に店舗を作るということで、オープニングスタッフの募集説明会がありました。そこは入社して最初の半年間は東京で研修して、そのあと名古屋で働けるとのことでした。最初は自分の中で東京に上京したいとは特に思っていませんでしたが、「半年だけ東京行けるなら行ってみたいな」と思い、面接試験を受けました」

結果的に、その会社の入社試験に合格して、入社が決まった。入社試験を受けたのは、そのネイルサロン1社だけだった。そして、ついに東京で社会人としての生活が始まった。

東京

専門学校を卒業して、ついに東京での生活が始まった。勤務先は渋谷だった。東京をあまり楽しむ余裕もなく、仕事中心の生活だった。

「自分はかなり早い段階で正規のお客様に入ることになったので、戸惑いというか、考えている暇もないような感じでした(笑)」

あっという間に半年間が過ぎた。本来ならば、半年間の研修が終わったら名古屋に戻らなければならない。しかし、RISAの何気ない一言がその後の生活を一変させた。

「当時、一番トップの上司に「東京が面白いので、まだ帰りたくないです」とボソッと言ったことがありました。そしたらそれを真剣に考えてくれて、「それなら、東京で生活できるように準備するから、東京で頑張ってみれば?」と言ってくれて、そのまま東京に残ることになりました」

何気ない一言から、そのまま東京に残ることになった。それから独立するまで5年半働いた。その間に、店長やPR等、様々な仕事や役職も経験した。

「ものすごくハードなお店でした。時間は長いし、やること多いし、休み少ないし。その分、やりがいはすごくありました。それで、ここではやりきったというか、先が見えたというか・・・。これ以上やるなら、もう自分でやるしか選択肢がないかなと思い退社しました」

 独立

5年半働いたネイルサロンを退職したRISAは、ネイルサロンをオープンさせた。

「そこはオーナーが別にいて、自分は雇われオーナーのような感じでした。店を出したいという人がいて、立ち上げを手伝ってくれないかと言われて・・・。ステップアップという面でも、いきなり全部自分でやるよりはいい話だと思い、1年くらいやりました」

あらゆる面での負担が少ないために始めた共同でのサロン運営だったが、徐々に悩み始めた。

「結局、そのような形は自分でやるのとは違うなと感じました。責任もないですが、自分に決裁権があるわけではないので、作れる幅も狭まりますし。そういう面でも、やはりこの形だと前と何も変わらないのかもと思ってしまいました」

自分で全て決めてやりたい。その想いのもとに、今度は完全なる自分の店を出した。

「以前からgricoのエザキさん(grico代表のエザキヨシタカ氏)に色々とよくして頂いていて、gricoが入っているビルの一室が空くことを教えてもらいました。gricoのビルは以前から知っていて、ネイルサロンをやるならこのぐらいの立地とスペースがいいと思っていたので、その話をもらった時には即決しました」

続く

「Nail×Fashion×Creation」をコンセプトに、ネイル業界に新たな変革を起こし続けているネイルサロン「Lapilie」&「DLAW」。そんな両サロンを作り上げた張本人、RISAの知られざる半生とは?オーナー業のみならず、サロンワークやジュエリーブランド 「DLAW」のデザイナーを務めるなど、その活躍は多岐にわたる。そんな多忙を極めるRISAのモチベーションの原点が、いま明らかになる。(敬称略)

アクティブ女子

生まれは岐阜県多治見市。一人っ子で、母親に育てられた。

「小学生の頃は、男の子といつも遊んでいる感じでした。女の子同士で遊んだりとかはあまりなかったですね。いつも男の子たちと集まって、外で遊んでいました」

母親の勧めで、保育園の時から水泳をやっていた。

「体が強くなるようにとの親の勧めで始めて、小学校5年生までやっていました。そのあと、走るのが得意だったのでクラブから入部を勧められて、短距離をやっていました」

中学生になると、バスケ部に入部した。ポジションはフォワード。最終的には、副キャプテンとなりチームを牽引した。

「特に誰に憧れてとかではなく、楽しそうだなと思い仲の良い子たちとみんなで入部しましたね」

勉強の方は文系の科目が得意だったが、それよりも得意だったのが美術で、成績も良かった。

「昔から絵を描くのが趣味で、自宅には色鉛筆やノートがたくさんありましたね」

ダンス

中学を卒業したRISAは、地元の高校の進学コースに入学した。

「高校からはダンスを始めました。音楽が好きだったので、その延長で始めた感じです。深夜にみんなでレッスンとかもしていました。周りの影響もあり、HIPHOPがすごい好きでした。逆に、ロックとかはあまり聞いたことがなかったですね。あと、海外志向が強かったため英会話の学校にも通っていました」

通っていた高校では進学コースに在籍していたこともあり、ダンスだけでなく勉強もする必要があった。

「当時はこれといった明確な夢などはなかったのですが、選択肢を広げたいという思いがあったので、本当はやりたくなかったのですが勉強はしました(笑)。大学に進学するのか専門学校に進学するのか、どうなるか分からなかったので・・・。進路を選べるようにしようと、それなりに勉強はしましたね」

大学に行くか美容の専門学校に行くか迷っていたが、一緒にダンスをしていた3歳上の憧れの先輩がネイリストになったことが、のちのRISAの人生に大きな影響を及ぼした。

「もともと美容に漠然とした興味はありました。しかし、職業としてのネイリストを意識したのは、仲良くダンスをしていた憧れのお姉ちゃんのような存在の人がネイリストになったからですね。その人自体が憧れの存在だったので、その人がなったネイリストという職業にもすごく興味を持ちました」

ネイリスト

ネイリストという職業を知ってから、それを目指すようになるまでに時間はかからなかった。

「こんな職業があるのだと思いました。その人が実際にネイリストとして活躍している姿を見たら、さらにいいなと思いましたね。もともと絵を描くことや表現することが好きだし、美容にも関われるのでネイリストはまさに一石二鳥だなと。絵を描いてご飯を食べるのは難しいですが、ネイリストはそんなこともないですし」

ダンスでプロになるという道は考えなかった。

「自分は石橋を叩いて渡るタイプなので・・・。高校生ながらにして、ダンスで食べていくのは難しいと思っていました。そこは、母親の影響が大きいと思いますね。自立心は早くから芽生えていたと思います」

進学コースに在籍していたため、クラスメイトは全員大学に進学予定だった。そのため、担任の先生はRISAにも専門学校ではなく大学進学を勧めてきた。

「本当に専門学校に行くのか?と先生からは面談の度に言われました(笑)。母親も最初はあまり理解していない様子でしたが、専門職の強みを話したりして、最終的には理解してもらいました」

結果的に周囲も納得し、名古屋にある専門学校への進学が決まった。

続く

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

美容業界

「MR.BROTHERS CUT CLUB」をオープンしてからこれまでで、西森が身を置く美容業界もだいぶ様変わりした。

「上からでもなく下からでもなくフラットに言うと、僕が「MR.BROTHERS CUT CLUB」を立ち上げた時の業界は死ぬ程ダサかったです。ダサいと言うとトゲがありますが、自分には全然響いてこなくて。ヘコヘコしてて、自分たちのこだわりを出さずに、ファミレスみたいなサロンが多かったと思います。何が得意かを一言目に言えないし、メンズもモードもコンサバも全ジャンルできるけど65点みたいな」

紋切り型の金太郎飴のようなサロンも必要だが、それだけでは美容業界の未来はない。

「それが今ではgricoのエザキさんだったりSHACHUのみやちさんだったり、何でも屋じゃない専門家たちが尖って出てきているので、なるようになってきたなと感じますね。業界自体がすごく良くなってきていて、すごくいい時代だなと思います」

まさに、西森が思い描いていた理想の美容業界になりつつある。

「例えば、自分たちもテクニックを用いたカラーはできないし、レディースもできない。なんなら断っています。メンズカットひとつしかできないけれど、そのひとつがおそらく200点の自信があります。どんなサロンが出てきても自分たちは負けない自信がありますね」

美容学生

将来の美容業界を担う学生に対しても、西森は期待をしている。

「綺麗事を言うと、無駄なことは一つもないと思うので、学校で教わる最低限のことは絶対にやったほうがいいと思います。学生の時に、これは自分に必要で、これは必要ではないなどと言う資格はないと思っているので。言われたことはちゃんとやって、その中でやりたいことを選んでいくべきですね」

毎年多くの美容専門学生が、「MR.BROTHERS CUT CLUB」で働きたいと訪ねてくる。

「うちも、「メンズを極めたいです」「レディースはやりたくないです」と来てくれる学生がいるのですが、それはまだ早いと思いますね。将来的にレディースでカリスマになるかもしれませんし。全て色々やった上で、物事を選んでいくのが一番いいと思います。それでは、ピーマンを食べたことがないのに「ピーマンは嫌い」だと言っているのと同じですからね。よく美容専門学生の子達も髪を切りに来てくれるのですが、「楽しそう、ラクそう」でブラザースを選ぶなとは言っています。自分達もこれまで散々苦い水を飲んできて、今があるので」

挫折はしない

外に見せないだけで、西森は不断の努力で今の立場に上り詰めたのだ。それだけに、仕事に対しても決して譲れない自分のポリシーがある。仕事を始めてからは、いわゆる挫折をしたことは1回もない。

「仕事を始めてからは、かっこいい言い方すると挫折しないように頑張ってきましたので、挫折は1回もないです。挫折って、どうしようもないことが起こったときになると思います。例えば、片手が動かなくなって仕事ができなくなるとか、親が大病を患って東京で美容師を続けることができなくなるとか。俗に言うテストに受からない、デビューできない、売り上げが伸びないというのは挫折ではなくてお前が頑張れよという話ですね」

外見からは努力という言葉が似合わないが、実は誰よりも努力してきた。そして、なお努力し続けているからこそ今がある。

「ブラザーズを立ち上げる時も、もしかしたら自分に根性がなかったら独立失敗して挫折していたと思いますが、そうならないように毎日しこたま努力していたので、挫折はしなかったですね。なので、自分は挫折をしたことがないですし、これからもしないと思いますね」

未来

西森にとって美容師とは「ツール」であるという。もしこの仕事をしていなかったら繋がれなかった人達とも繋がることができるツール。

「あえて言うなら、そのツールをどう色付けて、どういう人が寄ってくるかと言うことですね。自分が髪を切れたから繋がれた人がたくさんいますので。「美容師」という職業は自分にとって生き甲斐というわけでもないし、「人生そのものです」というでっかいテーマでもなくて。コミュニケーションツールですね」

そのツールを手放す気は毛頭無い。

「最終的にはずっと切っていたいですね。それがなくなると、今まで繋がっていた人が離れていく気がしますし。なので、店も出すし、プロダクトも作るし、アカデミーも作りますが、最終的には今の気の知れた仲間たちと気の知れたお客さんの髪を切っていたいですね。どんどんシンプルにしていきたいです」

アカデミーの創設を始め、まだまだやりたいことは山ほどある。

「現役を退くことは全く考えてないです。なんか自分が終わっちゃいそうで。金に興味があるわけでもないし、経営者になりたいわけでもないし、経営について語りたいわけでもないですし。ずっとクリエイターであり続けたいですね」

流行は絶えず移り変わるが、西森のスタイルはいつの時代も決して変わらない。そのスタイルを維持できるのは、当たり前だが人知れぬ不断の努力があるからである。西森が創り出す未来を期待せずにはいられない。

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

就職

やがて専門学校の2年生になり、社会人になる時が近づいてきた。

「卒業式3日前まで就職が決まってなくて・・・。なんかやる気がなくて、就活もしませんでした。最初は少ししたのですが、失敗してからやめました。自分の人生、専門学校を卒業する時がMAXではないし、適当に飲食店で働きながら就職先を探そうかなと思っていましたね」

そんなある日、原宿を歩いていたところディグズヘアが目に止まった。

「ディグズヘアはまだ採用試験を受けてなかったし、そこはギャッツビーのムービングワックスを作っていたので、オーナーの存在を知っていました。フリーターになるよりいいかなと思い、サロン見学をした際に店長と話す機会があり、「あさって面接試験があるから受けてみなよ」と言われて、面接を受けることにしました」

当日面接を受けにいくと、想像以上にライバルが多かった。

「結構な人が面接を受けにきていました。それも、ほとんどの人がプライベートでディグズヘアに髪を切りに来ているような熱狂的なファンでした。自分は一度も来たことがなかったですし、面接の最後に「数年で黒田さん(ディグズヘアオーナー)を超えさせていただきます」と言いました。グリッグリの頭でタトゥーを出して(笑)」

結果的に、西森は最終合格者2名の内の1名に入った。

「際立ってバカだったから受かったようです。自分はあまり必要性を感じないのですが、当時は一般常識テストのようなものがありました。歴代の首相を3人書けみたいな。それが、確か1点か2点でした。稀に見るバカだったようです(笑)」

そんな紆余曲折もあり、西森は無事に新卒としてディグズヘアに入社した。ついに社会人生活が始まった。

「アシスタントから始めたのですが、5〜6個上の先輩を余裕で超えられるなと思いましたね。とりあえず最短でデビューしようと思っていました。同時に、しこたま遊んでいましたね。3日寝ないで1日寝るみたいな。借金して遊んで、また借金して遊んでの繰り返しでした。もちろん、練習もバリバリやって」

努力の甲斐もあり、西森は2年という最短期間でスタイリストデビューをした。22歳だった。しかし、西森はある葛藤を抱えていた。

「自分はレディースをやりたくなくて、メンズだけをやりたいというのがありました。社長に直訴したりもしましたが、叶いませんでした」

MR.BROTHERS CUT CLUB

スタイリストになってから4年後に、西森はついに独立した。

「当時から自分の店を出す気が満々でした。25歳の時に独立する旨を店に伝えて、1年間の準備期間を経て、26歳の時に「MR.BROTHERS CUT CLUB」を原宿に出しました」

「MR.BROTHERS CUT CLUB」の構想は、西森が23歳ぐらいの時から抱いていたものだった。

「独立する前に、一度美容師をやめようと思ったことがありました。すごく窮屈な業界だなと思って。そんな時にドニー達(※カリフォルニアにあるバーバーの聖地「HAWLEYWOOD’S BARBER SHOP」のドニー・ハーリー)と出会いました。その時に「自分のやりたいことをやっていいんだ」と思い、そこから吹っ切れて全てがうまくいったという感じです」

当時、ドニー・ハリーはジャパンツアーをやっていた。それをアテンドしていたのが、現在西森と一緒にポマードを作っている北海道「barber shop apache」の川上昌博氏だった。

「仲の良いアパレルのお店にドニーのジャパンツアーを紹介してもらい参加しました。そこでの川上さんとの出会いは、本当に大きかったですね」

川上氏との出会いは、西村の行くべき道に確信をもたらした。

「自分は当時から撮影やカタログなどのメンズの仕事をたくさんやっていました。それを川上さんが見てくれていて、「君、それどこで習ったの?」という感じで言われて。「独学でやりました」と答えたら、川上さんに「俺が色々と手伝ってあげるから東京から発信してほしい」と言ってもらえて」

仲間

長年の構想だった「MR.BROTHERS CUT CLUB」が、原宿からついに始動した。

「最初は一人でやるつもりだったのですが、メンバーを募りたいと思い顔の広い後輩に相談したところ、紹介してもらったのが今の原宿の健士(城間健士)と晃男(倉田晃男)でした。そして、是非やりたいということになり合流しました」

原宿店の店長であるジュリアンとの出会いも、劇的なものだった。

「ジュリアンは当時他の店舗で働いていて、当時からバリバリ有名なスタイリストでした。他の人の紹介で、自分が独立する前に髪を切りに来てくれて。そして、髪を切ったその日にそのまま飲みに行って、一緒に働くことになりました。彼はその足で、当時彼が働いていたお店に辞めると伝えに行きましたね」

まるで何かに導かれたかのように、メンバーが揃った。そして、「MR.BROTHERS CUT CLUB」はオープンして以来一度も赤字になったことがない。

「赤字のお店をどうこう言うつもりはありませんが、しこたま頑張りましたね。お客さんがいないんだったら捕まえに行ったし、家に直帰することなんか1日もなかったし、必ずどこかに行って人と会って名刺を配ってという感じでしたね」

オープン当初はもちろん誰もお店のことなど知らない。「MR.BROTHERS CUT CLUB」をみんなに知ってもらうため、起きている間はそのことだけを考えていた。

「今ならお店も知ってもらえていることが多いですが、その頃は無名ですし、海外のブランドを引っ張ってきたわけでもないし、自分のあだ名から生まれた「MR.BROTHERS CUT CLUB」なんて名前は誰も知らないので。ジュリアンや健士なんかは、今では考えられないですがオープン当初はビラ配りとかしていましたね」

続く

日本のバーバー文化を次なるステージへと牽引し続けている「MR.BROTHERS CUT CLUB」。その唯一無二のスタイルをゼロから作り上げたのが、代表の西森友弥である。彼はなぜ「MR.BROTHERS CUT CLUB」を作ったのか?これまであまり語られることのなかった、西森友弥のこれまでとこれから。(敬称略)

漫画のような世界

西森は三重県四日市市出身。男三兄弟の真ん中として育った。小・中学校ではバスケに熱中していた。

「小中のときは身長が関係なかったので、選抜チームやクラブチームに入っていました。割としっかりやっていました」

中学校を卒業した西森は、地元の高校に入学した。

「高校は三重県でも下から1〜2番の、学歴最悪みたいな高校に通っていました。ヤンキーかネクラしかいないような高校でした。自分はそんなにグレてなかったですね。今もサロンではみんな仲が良いのですが、昔から同じように仲間を大切にするタイプでした」

当時から仲間を大切にしてきた西森だったが、周りの環境は普通ではなかった。

「自分は基本的に今と何も変わっていないですね。ずっとこんなおちゃらけてるような感じでした。ただ、地元がヤンチャだったので街は暴走族だらけでしたし、漫画みたいな世界でした。校舎内をバイクで走って窓ガラスが割れて、消火器が降って来るみたいな(笑)」

ヘアサロン

まさに漫画のような世界をくぐり抜けてきた西森だったが、高校時代に今の仕事につながるアルバイトに出会う。

「バスケを辞めた理由が怪我だったのですが、そのあと病気をしたり、しんどかった時がありました。将来はファッション系の仕事をしたいと思っていたのですが、髪切る仕事の方が楽しそうだなというのがあって、「絶対僕は使えるので、使ってください」とヘアサロンに直談判して、アルバイトをさせてもらいました」

持ち前のバイタリティを発揮して、高1からヘアサロンでアルバイトを開始した。

「高校に行ったり行かなかったりしながら高校の3年間、ヘアサロンでずっとアルバイトをしていました。今の仕事もそうですし、東京に行こうと思ったこともそうなのですが、何か劇的なターニングポイントがあったわけでもなく、流れでしたね。気付いたらそうなっていたみたいな。東京行くと決めたのも、「どうせやるなら日本一だよな」と思ったからですね」

高1の時にサロンでアルバイトを始めてから将来は東京に行くと決めていたので、高校時代は月に一度は東京に遊びにきていた。

「洋服買ったり、色々なサロンを見たり、東京に無理やり友達作って遊びにきていました。主に原宿近辺で遊んでいましたね」

東京

高校を卒業した西森は、東京の美容専門学校に入学した。

「親も特に反対はしませんでした。時々帰ってこいという雰囲気はありましたが。ただ、田舎の人というのもあるのですが、いまだに親には認めてもらってません(笑)」

高1の時から考えていた、東京での生活がついに始まった。

「東京に来たのも本当に流れのようなものだったのですが、地元にいる連中を置き去りにしたかったというのはありますね(笑)。一旗あげてくるからみたいな。本当は高校も辞めたかったのですが、専門学校に入るには高卒の資格が必要だったので、高校を卒業してから渋谷にある住田美容専門学校に入学しました」

美容学生時代は、「将来ビッグになって自分の店を持つ」というのが口癖だった。

「学校には真面目に通っていたのですが、練習はほとんどしませんでした。学校では目立っていた方だとは思いますが、成績も平凡でしたし、決して優等生ではなかったですね。専門学校の授業が終わったら、居残り練習しないで原宿の洋服屋回って、夜にお酒飲んで・・・、みたいな生活でした」

今ではトレードマークのタトゥーも、専門学生時代に入れ始めた。

「学校の先生には怒られましたね。「お前見えるところに入れるな!」とよく言われました(笑)」

そもそも西森がタトゥーを入れ始めたきっかけは、バスケットボールだった。

「アメリカのカルチャーが好きだったというのもありますが、やはりNBAの影響が大きいですね。NBAの選手はタトゥーがすごいので、それで自分でも壁がなくなって。昔から18歳になったら入れようと思っていたので、18歳になったら速攻で入れて、そのあとは毎月入れていましたね」

続く

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

フランチャイズのオーナー

当時の鈴木は、自分の身を削ってこれ以上指名のお客様を増やすべきか悩んでいた。

「その時は指名のお客様が80人位いたのですが、自分の中では80人が限界だなと感じていました。そのタイミングで声をかけてもらったので、管理職で、かつ人に指名を付けるような仕事をしたいと思っていた自分は神奈川の店長になることにしました」

最初は溝の口の店長からスタートし、10ヶ月経った頃にはエリアマネージャーになった。そして、80店舗になった頃に、それまで直営店のみの展開だったAguがフランチャイズ展開することになった。鈴木はフランチャイズのオーナーにならないかとAguの会長に声をかけられた。

「最初はやりたいと思いませんでした。当時は飲食店をやりたいと思っていました。根本的にお金持ちになりたいという思いが強くて、このまま個人で独立して1〜2店舗のオーナーになってもだいたいこの位しかお金が貰えないなというのが見えたので、それならフランチャイズで飲食店をやりたいなと思っていましたね」

飲食店の道に進むか悩んでいた鈴木だったが、Aguのフランチャイズのオーナーになることに決めた。

「Aguの会長に「やれば分かるから」と言われ、押し切られた部分もありました(笑)」

マーケティングミス

フランチャイズの1店舗目は、東京の三軒茶屋に出店した。

「当時、神奈川県でのAgu出店の際のマーケティング調査などは自分が行っていたので、マーケティングには自信がありました。三軒茶屋のその物件は自分の中で温めていた物件でもあり、ここならと思い決めました」

自信を持って出店した三軒茶屋だったが、予想外の思わぬ事態に直面した。

「最初の10ヶ月は赤字でした。完全に自分のマーケティングミスでした。Aguは低価格帯でどの店舗もヒットしていたのですが、三軒茶屋のここなら500円上げても大丈夫だと思い、Aguの中では少し高単価な店にしました。それが見事に外れて、お客様が全く来ませんでした。」

結局、他の店舗から連れてきた従業員に謝罪して、元の価格に戻すことにした。

「500円下げたら、前月の2倍以上のお客様が来ました。そこで経営の厳しさを学び、それからは美容師というよりも経営者のマインドになりましたね」

ライフハックデベロップメント

三軒茶屋に出店したのち、今度は神奈川県の海老名に出店した。現在は40店舗に達した。

「自分自身、店舗を増やすことにあまり興味がないです。今年、私のもとで孫フランチャイズの形で二人独立します。資本的な支援というよりは、彼らが独立するところに店舗を作り、マーケットを取り、人材を確保してそこで独立させてあげられるようにしたいです」

Aguは1,000店舗目指し、現在も拡大中である。鈴木の挑戦はまだ終わらない。

「自分の会社は「ライフハックデベロップメント」をテーマに掲げ、働き方や生き方という部分での選択肢の開拓をしていきたいと思っています。美容師という職業は本当に可能性があると思っています。お金の部分ももちろんそうですが、時間の使い方や、何を自分の人生の財産にするのかを自分で決めて、それを無限に叶えられるのです」

美容師の可能性を信じ、今日も彼は戦い続けている。

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

初めての挫折

付属の大学に進学できなかったた言い訳として口走った「美容師になる」という親との約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。葛飾の実家から山野美容芸術短期大学がある八王子に通う日々が始まった。趣味のギターも続けながら、短大には真面目に通った。そして、美容免許を取得して就職先を探す段階で、これまでにない挫折を経験した。

「それまでは意外とトントン拍子で来ることができました。言い訳で固める癖があったので、例えば成績が悪くても「夢があるから」と親に言い訳して短大に進学したり・・・。なので、それまで挫折したことなどはありませんでした。しかし、就職先を探すときに行きたかった有名サロンにことごとく落ちてしまい、初めての挫折を経験しました」

就職希望のサロンが全て不合格となり途方に暮れていた鈴木だったが、誰も想像しない思わぬ行動に出た。

「頭を丸坊主にして、試験を受けられない状態を1ヶ月半くらい作って気持ちをリセットしてまた就職活動し直しました。先生からは「頭が狂ってる」と言われましたが(笑)」

クロードモネ

一度リセットした鈴木は、好きだった下北沢で就職しようと決意した。

「毎日下北沢で目についたサロンを片っ端から訪問して、自分を売り込んでいきました。ほとんどのサロンで門前払いだったのですが、1件だけ「君、面白いね」と言ってくれたサロンがあり、そこに入社しました。クロードモネというサロンです」

下北沢のクロードモネに新卒で入社した鈴木は、実家暮らしから離れてお店の近くに引っ越して、ひとり暮らしを始めた。

「実際に入社してからも、挫折の連続でした。先輩方に朝まで付き合ってもらって練習していたのですが、社内試験になかなか受からないという日々が続きました」

落伍者

学校で練習してきたことが通用しないという現実に突きつけられた瞬間だった。

「自分はモデルさんを一番切っていたと思います。多分200人くらい切っていたと思うのですが、クロードモネの歴史で試験に一番落ちたと言われていました(笑)」

当時は試験に落ちる理由が分からなかった。

「自分は過程を大事にするというか、努力する自分を大事にする傾向がありました。相手が設定した試験の合格ラインは関係なく、自分はこれだけやってるというプレゼンだけ一生懸命で、今考えると全く的外れでした」

約5年間アシスタントを務めた後に、クロードモネを退社した。

「クロードモネは客単価が最低1万円の高級サロンでした。自分の中では客単価が安いサロンにまず入社して、そのあと徐々にステップアップしていこうと考えていたこともあり、単価が安いAguに転職しました」

続く

美容師の可能性を信じ、働き方の選択肢の開拓を続けている男がここにいる。失敗を恐れずに常にチャレンジし続ける、鈴木のり彦の生い立ちから現在に至るまでの物語。(敬称略)

目立ちたがり屋の少年

鈴木は東京の葛飾区出身。実家は、祖父の代から町工場を営んでいた。

「小学生の時は生徒会長をやっていました。真面目でしたね。葛飾は川が多いので、荒川や中川、隅田川などの川の土手で遊んでいました」

小学校を卒業した鈴木は、地元の中学校に入学した。

「中学では陸上部に入り、長距離をやっていました。正直、部活には興味なかったのですが、持久力だけ付けておこうと思い入部しました。中学生になっても、小学生の頃と同じように土手で遊んだりという感じでしたね」

中学校に入っても、鈴木は生徒会に所属した。

「勉強は全然ダメでした。ただ、小学校から目立ちたがり屋で生徒会をしていたので、中学校もその流れでという感じですね」

音楽との出会い

中学校を卒業した鈴木は、世田谷にある駒澤大学付属高校に入学した。

「それまで地元からあまり出なかったので、一気に世田谷の方まで出たいなと思いそこにしました。うちの中学校自体の頭が悪過ぎて、普通に出席するだけで偏差値が高くなって推薦でいけました(笑)」

高校に入学した鈴木は、軽音楽部に入学した。

「ギターをやっていました。そこから、髪型とか服装とかに興味を持つようになりました。ハイスタンダードとか好きでしたね」

高校時代は音楽とアルバイトに明け暮れた。

「ライブをたまにやりながら、後はイトーヨーカドーで冷凍食品の出し入れのアルバイトをしていました。お金を稼ぐのが楽し過ぎて、バンドかバイトかという感じでした。仲の良い地元の友達がみんなイトーヨーカドーでアルバイトしていたので、自分もという感じでした」

短大進学

成績は悪かったが、毎日が楽しくて高校には休まず通った。そんななか、高校2年の進路を決める時期になると、それまで勉強をしてこなかったツケが回ってきた。

「本当は駒澤大学に進学してサラリーマンになりたかったのですが、成績が悪過ぎて付属の大学にも上がれない事態になりました。親に何て言ったらいいか分からずに、とりあえずはそれらしい言い訳を考えて「本当は美容師になりたい」と伝えました」

親に対する言い訳として口走った「美容師になる」という約束を実現するために、鈴木は山野美容芸術短期大学に入学した。

「親的にも実家の工場を継ぐか、もしくはサラリーマンになって欲しかったというのがありましたので、山野美容芸術短期大学に決めました」

流れの中で美容師への道を歩み始めることになった。しかし、当然のことながら美容師はそんなに簡単な職業ではなかった。

続く