岡田 徹〜時代に合わせて勝負する Vol.3〜
100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)
幾度の窮地を乗り越え、岡田はAIZUの原型となるAISを神奈川県の本厚木に立ち上げた。
「AISの意味ですが、「AI」は愛するの愛で、Sは複数形の「S」ですね。海外出店するときに、「AIS」だとアイズと読まれずにエーアイエスと読まれてしまうので、「AIZU」に変更しました。海外でも通用するように、平仮名のロゴも入れています」
程なくして2店舗目を出店したが、1週間後に東日本大震災が発生した。
「地震の影響でキャッシュフローが回らなくなり、死にかけました。計画停電などがあったので、かなりダメージを受けました」
東日本大震災でピンチを迎えた岡田だったが、持ち前のバイタリティーでそこを乗り越えた。
「当時はみんなが死にそうになっていました。それならばと思い、自分は逆張りして、接骨院やネイルサロンなどもオープンさせました。事務所にしていたスペースがあったのですが、事務所はお金を生まないなと思いましたし」
東日本大震災を乗り越えた岡田は、100店舗に向けて本格的に動き出した。国内だけにとどまらず、海外にも美容室を出店した。
「やはり100店舗と考えたときに、国内だけではどうしても厳しいですし、アジアでやりたいという思いもあったので海外に出店しました」
現在はマレーシアでフランチャイズの美容室を出店している。
「完全フランチャイズの店舗なので、スタッフも全て現地人ですし、こちらからは1円もお金を出していません。自分としては、海外はお金を出してやるビジネスではないと思っているので・・・」
美容師不足の昨今だけに、岡田自身の経営への関わり方も変化してきている。
「最近は、最初に少しお金を出して若い子たちに社長になってもらい、自分はそこの役員になって株をもらって応援するというスタイルに切り替えています。自分がやるというのは、人もいないですしもう限界です。いわゆる年金みたいなイメージです。今では、5店舗出すまではお金要らないよということで、お金をもらっていません(笑)。その方がみんな頑張りますしね」
美容業界に早くから携わってきたからこそ、業界の未来を誰よりも考えている。
「これからは業務委託が流行ると思います。現在、人が足りなくてオーバーストア状態です。これからは早期育成がポイントで、かつシェアサロンと業務委託が混ざったようなサロンが台頭してくるのではないかと思います。小さい美容室はどんどん潰れていくのではないかと思いますね」
美容師の人手不足は、業界の最大のボトルネックである。
「もっというと、シェアサロンが広がった瞬間、美容師の経営者よりも不動産屋の方が強くなるので、普通の美容師では太刀打ちできなくなると思います。そういう意味では、美容師の経営者はかなり危機感を持っていると思います。レベルの高い美容師は給料が一気に跳ね上がると思いますが、そうじゃない人はどんどん下がるといういわゆる二極化がさらに進むと思いますね」
もはや従来のやり方は通用しない。岡田は絶えず新しい仕組みを考え、100店舗という目標に向かって邁進している。
「気合いだ気合いだと美容師さんを枠に当てはめるのではなく、時代にあった仕組みを現在開発中です。それが型にはまれば一気に出店攻勢をかけられると思っているので、そこに注力していきたいですね」
常に時代に合わせて新たなチャレンジを試み続ける岡田のその姿勢は、見習っても決して損はないだろう。
高校を卒業した岡田は、アルバイトをしていたananにそのまま入社した。ついに岡田の美容師人生が幕を開けた。厚木の自宅からは遠かったので、ananの寮に入った。美容免許も通信課程で取得した。
「東京文化美容専門学校の通信課程で美容免許を取りました。4回くらい落ちましたが・・・(笑)」
何とか美容免許を取得して、美容師としての本格的な生活が始まった。
「当時は結構ストイックなサロンで、半年から1年で半分ぐらいが辞めてしまいました。僕からすると、その頃から25歳で独立すると考えていたので、「全員辞めてしまえ」と思っていました(笑)。チャンスが来ると思っていましたね」
いつチャンスが来てもしっかりものにできるように、岡田は抜かりなく準備していた。
「練習は常に人よりしていました。21歳くらいでスタイリストになり、3〜4ヶ月で売り上げが100万円ぐらいになりました。24歳ぐらいで、自分の師匠だった当時の店長が辞めて独立したので、自分が店長になりました。そこからマネジメントを学び始めました」
当初から独立を考えていた岡田は、1年前にその旨を会社に伝えて円満に退社をした。26歳の時だった。25歳で独立するという目標から1年遅れたものの、26歳で念願の独立を果たした。
「目標は40歳までに100店舗なのですが、95%の人がそれはやめた方がいいと言いました。しかし、そのくらい高いハードルのことをやらなければならないと思い、挑戦することに決めました」
第1店舗目は、とあるフランチャイズの美容室を神奈川県に出店した。しかし、赤字が続き、更には保証金が返金されないなどのトラブルも発生した。結局、そのフランチャイズの大元の美容室は潰れてしまった。
「やはりフランチャイズではなくて自分のブランドの店を出さなくてはと思い、その店を自分の店にしてやることに決めました。しかし、初月で100万円ぐらいの赤字を出してしまいました」
いきなり窮地に追い込まれ、藁にもすがる思いで親族に助けを求めた。
「これはやばいということで、祖父にお金を借りました。本来ならば父親の遺産に回るくらいのお金だったので、これは真剣にやらなければならないと思い、一軒ずつ自宅を回ってインターホンを押して予約を取って行ったり、チラシを撒いたりしました。その結果、売り上げがV字回復して12月で1200万円ぐらいいきました」
その後、現在のAIZUの原型となるAISを神奈川県の本厚木に立ち上げた。いよいよ、岡田の逆襲が始まった。
岡田は4人兄弟の3番目。神奈川県の厚木市で育った。父親はNTTの研究員を経て、現在は名古屋大学で教授職に就いている。厳格な教育環境で育ったと思いきや、意外とそうでもなかったようだ。
「兄弟の4人中、2人しか高校に行っていません。ただ、4人中3人が現在経営者になっています」
小学生の時から、岡田はやんちゃな少年だった。
「通信簿は、いわゆるつくしんぼ状態でした(笑)。1と2しかないみたいな・・・。あとは、サッカーをやっていました。小学生の時はキャプテンでしたね」
小学校を卒業して地元の中学校に入学した岡田だったが、そのやんちゃぶりは健在だった。
「最初はバスケをやっていたのですが、辞めてその後にサッカーをやっていました。相変わらず成績表には「落ち着きがない」としか書かれないような感じでした。基本的にはサッカーに熱中していました」
中学を卒業した岡田は、地元の高校に入学した。
「高校は地元の下から2番目くらいの高校に行きました。高校ではサッカー部に入りました。他にも色々とやっていましたが、あまりここで言える内容ではないですね(笑)」
やがて高校2年生になり、進路を決めなければならない時期に差し掛かった。当時の地元の友人達は、高級住宅街に住み、質の高い教育を受けて大学に進学する人間が多数を占めていた。
「彼らに比べると、自分は頭の悪さが半端なかったのですが、それでも負けたくないという思いがありました。そう考えた時に、自分に向いているのは「手に職」だと考え、かっこいい「手に職」はなんだと考えたら、美容師しかないなという結論に達しました」
周囲に対する劣等感と負けず嫌いな性格が、岡田を美容師へと導いた。
「ある時、日美(日本美容専門学校)の先生が学校説明をするために自分の通っていた高校に来たことがありました。そこでその先生と話をした時に、「君は専門学校に行かないでそのまま働きなさい」と言われました。そして、その先生の紹介で東京都の港区にあるananという美容室で、高校生の時からアルバイトをさせてもらいました」
岡田は高校の夏休みを利用して ananでアルバイトをした。厚木の自宅からは遠いので、東京にいる兄の自宅から通った。タオルを運んだりするのが主な業務だったが、美容業界に慣れるにはそれでも充分だった。
「普通は日美に入るように言うと思うのですが、その先生は知人のananの社長を紹介してくれました。こいつは学校に行ってもしょうがないと思われたのかもしれません(笑)」
高校を卒業した岡田は、アルバイトをしていたananにそのまま入社した。ついに岡田の美容師人生が幕を開けた。
5年で全国展開という旗印のもと立ち上げたDearsは、現在27都道府県で70店舗を展開中である。美容業界のど真ん中にいる北原に、現在の美容業界ついて思う事を聞いてみた。
「色々あっていいと思います。ただ、勝つところは圧勝するし、負けているところはずっと負け続けると思います。今後個人での独立出店はどんどん難しくなっていくと思いますね」
美容師のなり手が少ない昨今の現状についても、独自の見解を有している。
「やはり職業に魅力がないから美容師が減っているのだと思います。リターン(お金)と夢がないからですね。そんなに稼げなくてもいい、「別にフェラーリ乗れなくてもいい」という子たちが多くなってきています」
若者だけでなく、経営者も変わってきているという。
「それと、強い経営者がどんどん少なくなってきている気がします。強いというのは、メンタル面でもそうですが、ちゃんと事業を事業として捉えられる経営者が美容業界にはほとんどいないないと思います。みんな個人事業の延長線上で、「経営は感謝と根性だよ」というような感じでマンパワーだけでやろうとしている人が多いです」
昔はマンパワーだけでも何とかなったかもしれない。しかし、今の時代は昔とは違う。
「そもそも市場は飽和している状況なので、パワーだけではもうどうにもなりません。ちゃんと仕組み化して、落とし込んでいる会社がひたすら大きくなっていくと思います」
学生時代に大切なことを聞いてみた。
「学生の時は、まず目の前の人との距離感の取り方、目の前の人をどうしたら喜ばせられるのかを考えた方がいいと思います。どうしたらその人から応援してもらえるか、どうしたら先輩に引っ張り上げてもらえるかを突き詰めていくことが大切だと思います」
ブログやSNSも、ただ漫然とやっているのでは意味がない。
「美容師は自分を売らなければならない仕事です。個人の延長線上でブログやSNSをやるのではなく、目的を持って、どうしたらみんな見てくれるのか、みんなに気に掛けてもらえるかという目線でやることが大切だし、人と繋がるスキルは必須ですね」
自分が苦労してきたからこそ、美容学生への想いも強い。
「この前会って面白いと思ったのですが、美容学生のコンテストを色々な学生を集めて毎月やっている学生がいました。市場にないものを作って価値提供して集客しており、突き詰めるとそれが美容室になるだけです。それを早めに経験していることは、今後事業するにあたって強みになると思います」
Dearsの全国展開という目標に向かい、現在も走り続ける北原。当然、その先の未来も見据えている。
「2020年までに全国展開を終わらせた時に規模をどこまでにするかが見えてくると思うのですが、多分300〜500店舗ぐらいをゴールにするとは思います。それをやりながら、同時軸で経営者という名の投資家を育てたいですね。今も何人かは育ってきていて、その方たちと一緒に農業だったりホテル事業だったりをする予定です。農業は来年から切り込んでいく予定ですし、ホテル事業に関しても2020年以降からやっていきたいと思っています」
一見バラバラに見えるかもしれないが、実は全て繋がっている。
「全て美容室と連動させます。人を集めて人を繋げるために事業をやっていくので。農業と美容室は連動できるし、農業とホテルも連動できる。ホテルにはうちのシャンプートリートメントを全部置いて、「Dearsのホテルはこういうホテルだよね」と認知してもらえたら、後はバンバン建てていけばいいし、建てる費用がなくても投資してくれる人がいるので、潰れそうなホテルのフランチャイズのホテルにしてもいいと思っています」
北原は、決して才能だけでここまで上り詰めてきたわけではない。
「自分自身めちゃくちゃ悩んでいて、学生の時は落ちこぼれでした。学校のテストは5教科で150点以上取った事がないですし・・・。しかし、辿り着きたいと思った未来に向かって毎日をちゃんと積み重ねていけば絶対に行けると思っています。行けない場合、進めない場合はやり方が間違っているか、そもそもそのスキルを持っていないだけです。やり方が間違っていればやり方を正せばいいだけです。スキルがなかったら学べばいいし、スキルを持っている人とタッグを組めばいいだけ。本当にここを目指したいというのがあれば、それを周りに公言して旗を振り続ければ絶対に誰かが参画してきてくれる。なので、生きるって面白いと思っています」
北原が描いた未来の実現を私たちが見ることができる日は、そう遠くはないはずだ。
インターネットの力もうまく活用し、結果を出し続けていた北原。頑張れば頑張るほど評価してくれる、そんな環境も嬉しかった。
「学校は頑張る子よりも、周りの空気感を読める子がいじめられないじゃないですか。社会に出て、頑張ったことを「頑張ったね」と評価してくれるのが自分には衝撃でした」
23歳で店長を任された北原は、必然的に経営者の視点が身に付いてきた。
「当時の社長に、「こうした方が良いと思うのですがどうですか?」と言った時に「無理だよ」と言われたことがありました。舵を取ろうとする人が同じ会社に二人いたら無理だなと思ったので、その時に辞めようと思いました。28歳の時だったと思います。その時に提案したのが、現在のDearsのビジネスモデルです」
31歳の時に、北原は11年間務めた美容室を辞めた。辞めてから1年間、北原はハサミを置いた。
「WEB関連のビジネスで会社を立ち上げ、利益も出ていました。ただ、1年間生活リズムが乱れまくっていて、このままお金稼いでいくのも悪くはないけれども、やることないなと思って・・・」
会社は利益が出ていて順調だったが、このままでいいのかという悩みを抱えるようになった。
1年間美容業界から距離を置いていた北原だったが、満を辞してついに動き出した。
「当時の自分が思い描いていた美容室をやろうと思いました。どうせやるなら最初から全国展開をするつもりでやって、それができないなら1店舗で撤退しようと思ってはじめました」
全国展開という旗印のもと、北原はついにDearsを立ち上げた。
「Dearsは、目の前のお客様とスタッフの居場所になれればいいなと思ってやっています。Dearsはその名前の通り、目の前のお客様の髪の毛を綺麗な艶髪に導くマンツーマンのサロンで、会社で作った薬剤を使用して綺麗になって頂くのがコンセプトです」
北原の新たなステージがついに幕をあけた。5年で全国展開という旗印のもと立ち上げたDearsは、現在27県で70店舗展開中である。
「ミッションステートメントとして、会社が社会に何を提供できるのかというポジショニングをしっかり理解して、今ないものを作ることがすごく大事だと思っています。さらに、今ないものを作った上で、入り口のHPと現場のスタッフの売り・商品をしっかり合わせておくことがすごく大事だと思っています」
Dearsが短期間でここまで急成長している理由は当然ひとつではない。しかし、そのヒントはミッションステートメントに集約されている。
「美容業界では、HPで売りとして書いてあることを現場ができていないことが結構多いです。例えば、HPに「アットホームなサロンです」とすごく抽象的な事が書いてあり、現場は全然アットホームじゃなく、スタッフも「アットホームって何?」というような状態だったりすることが多々あります」
確かに、HPに「アットホームなサロン」とアピールしている美容室をよく見かける。
「トップスタイリストさんだとか上手な方がいても、入り口はHPになります。すると、ほとんどの場合が個性の売りがバラバラで統一できなくなります。結果的に、ブログから集客して売れる人と、ブログを書いてなくて売れない人に二分されます。そのブログを書いていなくて売れない人たちと、HPの記載がリンクしていないからリピーターも生まれないという状況が美容業界で起きているのです。それに対して、一本の動線をしっかり引いて、入り口から出口までしっかり繋いである唯一の会社がDearsだと思っています」
出身は長野県の長野市。両親ともに警察官だった。
「両親の職業柄、転勤が多かったですね。小学校の時だけで、3~4回ありました」
小学校時代は、あまりいい記憶がない。
「転勤が多かったので、ひねくれてしまっていじめられていた記憶しかないです。中学生になっても、部活とかはやらずに独りでいました」
両親は警察官だったということもあり、非常に厳しかった。
「一度いじめを受けていることを父親に相談したのですが、「それはお前が悪い」と言われたので、それ以来両親に相談するのはやめました」
中学を卒業すると、自宅から電車で1時間ほどの高校に通った。
「高校時代も、限られた引っ込み思案の友達と一緒にいました。特に部活もやっていませんでした。趣味はゲームでしたね」
独りでいる事が多かった北原だったが、高校3年生の時に美容師になる決意をした。
「高校の終わりの時に、将来どうしたいかを先生と向き合わなければならないのですが、まだ働きたくないし、大学に行ってまで勉強するほど勉強は好きではありませんでした。そこで、逃げ道として専門学校を選んだ時に、当時髪の毛を自分で切っていた事があったので、美容師もいいなと思いその道に行きました」
当時の北原は、親からもらったお金をゲーム代に変えるにはどうしたらいいかを考えて、自分で髪の毛を切って、その浮いたお金をゲーム代に当てていた。そこで、髪の毛を切る楽しさを少なからず感じていたのだ。
専門学校を卒業した北原は、地元で名を馳せていた理美容室に就職した。
「練習はメチャクチャしました。朝の5時とかまでやってた日もありました。とにかく、他の人と比べて一番最後まで練習をするというのが自分のテーマでした」
努力の成果もあり、自分が思い描いていた通り順調にステップアップをしていった。23歳で店長にもなった。
「自分が入った時には1店舗しかなかったのですが、2店舗目を出した時に自分が1店舗目の店長になりました」
北原といえば、ネットを上手に活用しているイメージがあるが、そこには独自の試行錯誤を重ねてたどり着いた。
「一番最初は、24歳の時に当時いた店舗の集客をなんとかしなければいけないということで、ブログに触れたことがきっかけですね」
結果は意外と早く訪れた。
「集客というベースでの結果は2ヶ月くらいで出ました。最初は、スタッフのモチベーションを上げるために、スタッフにメールマガジンを送っていました。そしたら、それをスタッフのご両親が読んでくれて、勤め先の上司や部下にも見せてくれたらしくて、そこから一気に拡散しました」
北原のメールマガジンを読んだ人々が美容室に殺到した。月に5名しか来なかった新規の顧客が、月に100名になった。
「これがインターネットの力かと感じ取って、そこからWEBと現場を連動させた事業作りを学びながら組織管理の仕方等、何が大事なのかを自分の中で独自に身に付けていきました。ゲームが好きだったので、それが役に立っているのかもしれませんね。攻略と変わらないので」
まさに、インターネットの力と未来を感じた瞬間だった。
美容専門学校を卒業し、意中のサロンであった「Of HAIR」に入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。アシスタント2年目に出場したカットコンテストで優勝し、周りを飛び越えてスタイリストにもなった。しかし、意外なところに落とし穴が待っていた。
「スタイリストになってからは全く伸びずというか、苦しかったですね。自分の得意とするクリエイティブと、実際に美容師が現場で求められるスキルが全く違ったので・・・」
売上も上がらず、先輩たちのアドバイスにも耳を傾けなかったオオイケは徐々に孤立していき、負のスパイラルに陥った。
「自分でそれに気付くのに数年、さらにそれを埋めるのに数年かかりましたね。5〜6年は全く伸びず、後輩にも抜かれたりというような時期でした」
自分に自信があったが故に、遠回りしてしまった。
「最終的には自分で気付いたのですが、同じような事を先輩などに言われていたとは思います。ただ、当時は意識がそこにいってなかったので、自分の中に入ってこなかったんだと思います。それよりも、自分はクリエイティブなことをやって・・だとか、先輩より上手いという驕りがありましたね」
当時はまだ売上至上主義を刷り込まれていたオオイケ。その役に立てば良いと思い参加したセミナーが、のちの自分に大きな影響を及ぼした。
「当時は美容師以外の人に興味を持ち始めて、様々なセミナーなどに顔を出しました。今思えば、完全に情報商材系のセミナーだったのですが・・(笑)。当時はまだ美容師さんがやっていなかったメルマガの発信の仕方など、色々なセミナーや個人コンサルを受けたりしました。いいカモだっと思います(笑)。自分を変えたいということよりも、単純に興味があったので参加してましたね」
そこでの経験を経て、美容師以外の人との繋がりや、同じ美容師との横の繋がりができた。それは、オオイケに次のステージに行く決心をさせるには十分なものだった。ついに、9年間働いた「Of HAIR」を退職した。
「辞める時には、フリーでやる事を決めていました。もともと心配しないタイプですし、不安は一切なかったですね。奥さんにも事後報告でした。怒られましたが(笑)」
その後、先輩のサロンを間借りをして働いていたオオイケだったが、面貸しサロンを探しているときにお試しで利用したサロンが殺伐とした雰囲気で、居心地が良くなかったという経験をした。そこでの経験が、その後に立ち上げたサロン作りの際に大いに役立った。
「2015年の末に「Of HAIR」を退社して、2016年1月から知り合いの代官山のサロンの1席を借りて美容師をしていました。その後、古木さん(※LiME株式会社CEO 古木数馬氏)にシェアサロンの構想を聞き面白そうだなと思い、やるならまずはコミュニティが大事だという事になりました。そこで、GO TODAYという美容師さんが繋がるオンラインサロンを古木さんと二人で立ち上げました。今は500人以上の会員がいます」
シェアサロンと面貸しサロンは、根本的な部分で大きく異なる。
「コミュニティというソフトの部分があるかどうかが違います。自分が面貸しサロンを探していたときは、コミュニティというものが存在しなかったのですごく居づらかった記憶があります。シェアサロンでは情報交換もするし、お客様を紹介したりシェアしたりもします」
SNS等の情報発信に関して聞いてみた。
「大体の方が根本的な間違いを犯していると思います。「インスタグラムやったほうがいいですか?」「ツイッターはどうことを呟けばいいですか?」「ブログは何を書けばいいですか?」とよく聞かれますが、皆さん手段から決めようとしています。それだと、目的地を決めていないのに、電車で行くかバスで行くか歩いていくかを決めようとしているのと同じです」
確かに、手段に目がいくあまり目的については考えることを忘れがちだ。
「そもそも何がしたいのか?どこへ行きたいのか?を決めた上で、それに対して何をしたらよいと初めて言えます。まずは目的地を決めないとダメです」
目的地を決めるに際しても、コツが必要だという。
「目的地というのは、決して自分のやりたいことではないので、自分一人では分かりません。人と会って、相対的に見ることが大切です。人と会って自分を知って、そこから自分はどこに行きたいのかを決めればいいのです。そのために何をするか、そこで初めてインスグラムやツイッターやブログが出てきます。そこがないのに、いきなり何をするかを決めようとしても答えは出ません」
2017年11月にシェアサロン「GO TODAY SHAiRE SALON」を設立した。
「今が一番大変ですが、ビジョンが明確というか、やりたい世界がありますしそれを一緒に実現する仲間もいます。自分がやりたいことが大きな影響力を持って、業界を変えることができると本気で思っているのでやりがいはありますね」
ビジョンがあることがいかに幸せなことかを、オオイケは身を持って体験している。
「大学生の時や勤めている時にはビジョンがなかったので、ある意味で一番辛かったです。個人でやりたいことはいつでもできるので、今の自分の知識と体力と経験と、今いる仲間としかできない、今の時代でしかできないことをやりたいですね」
今が一番大変だが、ビジョンに向かって歩みを止めることはない。
「それこそ最近はメディアの方に取材をしてもらったり、美容師さんに相談されることも増えたのですが、自分は大したことない人間なのでそれをむしろ共有したいです。すごい人などいないですし、自分のことをよく知って、目的地を決めたらそれに向かって一生懸命にやれば誰でも活躍できるのではないかと思います」
大学を1年で中退し、1年間フリーターを経験したオオイケだったが、ついに新たなる目標を見つけた。それは、美容師になる事だった。実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。大学とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。
「大学生の時はフワフワしていた感じだったのですが、専門学校に入学して自分にスイッチが入った感じでした。他の生徒よりは2学年上になるので、ちゃんとしなければというか、責任感が芽生えましたね。入学初日も2時間早く学校に行ってしまい、40人くらいのクラスだったのですが一人一人に挨拶をしていました。いまだに同級生にそれは笑われますが、当時はすごく気負っていたのかもしれません」
回り道をした経験と、他の生徒より年上なので見本とならなければならないという責任感が、オオイケの意識を変えていった。
「美容専門学校は大学と異なり皆勤賞でした。自分の性に合っていたというか・・・。コンテストなどにも最初から積極的に参加して結果も出していたので、美容専門学校での2年間はこれまでとは世界が変わってすごく充実して楽しかったです。友達もたくさんできましたし。当時のあだ名が「リーダー」でしたから(笑)」
いよいよ自分の将来を考える時に、サロンに就職するか美容専門学校の講師になるかで悩んだ。
「美容専門学校の印象は自分の中でかなりポジティブでした。加えて、人に教えるのも好きだったので、このまま講師になるのもいいなと思っていました。当時の担任の先生に相談しても、「すごく合ってると思うよ」とすごく勧めてくれましたので」
悩んだ結果、サロンに就職することにした。
「このまま美容専門学校を卒業して講師になるということは、美容師経験がないということになるので、それもちょっと違うかなと思って。美容専門学校の講師はいつでもなれるなと思い、外に出ようということでサロンに就職することにしました」
働きたいサロンはすでに決まっていた。
「自分は直感を重視するタイプなのですが、当時学校にセミナーというか課外授業のような形で、「Of HAIR」の社長と従業員の方が来てデモンストレーションをしてくれたことがありました。それを見て、すごく面白いサロンだなと思ったことがきっかけですね」
「Of HAIR」の他とは違う雰囲気が、オオイケを魅了した。
「いわゆる原宿や青山のようなキラキラしているサロンとは異なって、研究者っぽいというかオタクっぽいというか。マニアックな要素があってすごく好感が持てたというか。自分は原宿や青山でイケてるというようなタイプでもなかったので。オタクっぽいのに一等地にサロンがあるし、名が知れている美容室だったので学生の時から興味がありました。それで学生の時にサロンが出している「伝・DEN」という本を買ったりしていました」
就職活動の際に「Of HAIR」以外のサロンは受けなかったものの、見事に入社試験に合格。美容師としての新たな生活が始まった。
美容専門学校を卒業し、意中のサロンに入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。
「社会人になると、理想と現実とのギャップに参ってしまう人もいるかもしれませんが、自分の場合はそんなに理想を持っていなかったですし、事前に情報も入っていたので、想像の範囲内でしたね。もちろん落ち込んだりとかはありましたが、それで辞めようとかはなくて、逆に早く活躍してこの場から抜け出したいなというハングリーな感じでした」
美容専門学生時代から得意だったクリエイティブな長所が、意外なところで自分の身を助けてくれた。
「普通のサロンならばアシスタントのうちはシャンプーやカットの練習が優先で、コンテストなんか出ている暇はないだろうという感じだと思うのですが、「Of HAIR」の社長はそういうところに寛容な方でした。なので、アシスタント2年目の時にカットコンテストに出たところ、優勝することができました」
カットコンテストの優勝を契機に、最速でスタイリストになることができた。
「クリエイティブなことを評価してくれる会社だったので、飛び級で社長のアシスタントになり、その後に先輩や同期よりも早くスタイリストになれました。そこまでは、自分の得意分野であるクリエイティブな側面を活かすことが出来て、トントン拍子で行きましたね」
スムーズにスタイリストになったオオイケだったが、意外なところに落とし穴が待っていた。
生まれは八王子。父親はサラリーマンで母親は専業主婦という、ごく普通の家庭環境で育った。小学生の時に始めたサッカーに、自然とのめり込んでいった。
「テレビゲームなどもほとんどやらなかったですね。八王子は田舎なので、虫を捕っているかサッカーをやっているかのどちらかでした。サッカーはすごく強いチームや学校でやっていたというわけではなくて、人並みにJリーグブームに乗っかってやっていたという感じです。ポジションはボランチでした。可もなく不可もないポジションです(笑)」
中学生になってもサッカー部に入り、サッカーを続けた。
「これといって悪いこともなかったですし、かといって勉強が出来るわけでもなく、平凡に部活のサッカーをやっていた感じです。生活パターンはサッカー中心でした」
中学校を卒業したオオイケは、自宅から通える高校に入学した。
「中学校の時にサッカーでの自分の限界を知ったので、サッカーの強豪校に行こうとかの選択肢はなかったです。普通の高校に入学しました」
そこでギターと出会い、バンドにのめり込んだ。
「当時は、19(ジューク)やゆずのようなアコースティックギターのバンドが流行っていたので、ギターを買って先輩に教わって。バンドやりたいなと思ったので、バンドを組んで学園祭で演奏したりとかしていましたね。本当に軟派な高校生活でした(笑)」
バンドを組んで音楽にのめり込んでいたオオイケだったが、プロになろうとは思わなかった。
「サッカーもそうなのですが、比較的最初は器用にできてしまうのです。器用貧乏というか・・・。そこからハングリーにガツガツ行くタイプではなくて、最初にコツを掴んで、まあいいかとなるタイプです」
高校2年になり、進路を決めなくてはならない時期に差し掛かった。
「何かやりたいこととかがあれば、それこそ専門学校や美容学校に行ったりだとかという選択肢があったとは思うのですが・・・。なんとなく生きてきたので、その延長線上に大学があったので大学に進学したという感じですね。大学に行って、4年間の中で何かやりたいことが見つかればいいかなという感じで決めました」
理系が得意だったオオイケは、自宅から通える理系の大学に進学した。
「そこで初めて挫折をしたというか・・・。今まで自分の意思が何もなく生きてきて、友達もなかなか出来なくて生活もつまらなくて。勉強もそんなに出来る方ではなかったので、授業に付いていけなかったですし。なんとなくフワフワとそれまでビジョンもなく来てしまったのですが、いよいよどうにもいかなくなってきたというのを実感し初めて。もう辞めたいなと、入学して一週間位で思ってしまいました」
両親に相談したが、もちろん認めてはくれなかった。
「当時、父親は単身赴任で違うところに住んでいたので母親と兄弟に話したのですが、理系だし高いお金払っているのだからとりあえず1年は通ってみなさいということで、1年間通うことにしました」
1年間は大学に通う約束をしたことで、授業をサボりつつも大学に通った。
「何か他にやりたいことがあるわけでもなかったので、地元の友達と遊びつつ、面白くないけど学校に行ってという毎日でした。自分でこうして話していると、自分はなんてダメな人間だったのだと改めて思いますね(笑)」
結局、大学に1年通った後に中退した。
「自分がいいなと思ったことはすぐやるのですが、その反対に自分がダメだと思ったら周りに何を言われようが絶対に曲げないタイプでして・・・。両親は納得していなかったと思うのですが、「こいつは言うこと聞かないからだめだ」と最終的には諦めたのだと思います」
ついにオオイケは大学生からフリーターになった。
「今思えば19歳や20歳なら別にフワフワしていてもいいと思うのですが、当時は焦っていましたね。当時、自分の周りは全て何らかの学校に行っていて、バイトしかしていないのは自分だけだったので、物凄い不安に駆られました。バイトを掛け持ちでやりながら過ごしていましたが、何かやらなければという不安が常にありました。ある意味、ニートですから」
結局、1年間フリーターをやった。そして、ついに次なる進むべき道を見つけた。美容師になる事だった。
「月並みなイメージですが、おしゃれだしカッコいいしということで以前から興味はありました。実は、偶然にも高校時代の彼女が美容専門学校に通っていて、大学の時に彼女から色々と話を聞いていました」
高校時代の彼女の話をキッカケに、徐々に美容師への関心が強まっていった。
「自分はビジョンがないままフワフワと大学行っているだけでしたが、彼女の話を聞いているとみんなすごく一生懸命やっているんだなと分かりました。学んでいる内容も、自分が高校や大学で学んだ事ではなくて、全く新しい世界の話だったので面白そうだなと思っていました」
実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。
「彼女がそこに通っていたと言う事もありましたし、実際に彼女がまだ在学中だった時に体験入学にも行きました。彼女は嫌がっていましたが(笑)」
大学生からフリーターになり、ついには美容専門学生になった。
東日本大震災

100店舗に向けて

美容業界の未来

完
100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)店長

転機

失敗

続く
100店舗という目標に受かって邁進するAIZUを牽引する岡田徹。その時代に合わせた教育方法で、人手不足の美容業界にも関わらず豊富な人材を確保し続けている。美容室のみならず、ネイルサロンや接骨院まで幅広く手掛ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)4人兄弟の3番目

美容師という職業

出会い

続く
「思い描いた未来を具現化する」をモットーに、現在は27都道府県で70店舗を展開している美容サロン「Dears(ディアーズ)」を率いる北原孝彦。これまでの常識を次々と覆し、美容業界に改革を起こし続ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)現在の美容業界

学生時代にすべき事

未来

完
「思い描いた未来を具現化する」をモットーに、現在は27都道府県で70店舗を展開している美容サロン「Dears(ディアーズ)」を率いる北原孝彦。これまでの常識を次々と覆し、美容業界に改革を起こし続ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)退社

再始動

快進撃の秘密

続く
「思い描いた未来を具現化する」をモットーに、現在は27都道府県で70店舗を展開している美容サロン「Dears(ディアーズ)」を率いる北原孝彦。これまでの常識を次々と覆し、美容業界に改革を起こし続ける若き経営者の秘密に迫る。(敬称略)厳格な両親といじめ

美容師

インターネットとの出会い

続く
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)遠回りという名のチャンス

退社

情報発信に対する誤解

ビジョン

完
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)リーダー

「Of HAIR」

社会人生活のスタート

続く
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)平凡だった学生時代

大学中退

フリーターから美容師に

続く