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原本洋平〜孤高のヘアメイクアーティスト Vol.3〜

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

まつ毛エクステとの出会い

ロンドンでの妻の妊娠が判明して日本に帰ってきた原本。しばらくはヘアメイクの仕事をやっていた。 「しばらくフリーでやっていたのですが、3年前に会社(注:スーパーブリー株式会社)を設立しました。きっかけは、自分でまつ毛エクステサロンを経営することになったからです。だったら会社を作ろうかなと思いました」 原本が27歳の時に、初めてまつ毛エクステという存在を知ったある出来事があった。 「ヘアメイクのアシスタントとして、タレントの早見優さんのヘアメイクを担当することになったのですが、ハワイでまつエクをしてきたとのことで、そこで初めてまつエクを見ました。「これはなんだ?」と思ってびっくりしたことを覚えています」 当時の日本には、まつ毛エクステというものはほとんど存在していなかったため、ほとんど見ることはなかった。 「その当時、早見さんはすごい量のまつエクをつけていたのでメイクがしにくかったです。しかし、直感でこれは必ず流行るだろうと思いました。そして、メイクをちゃんとやらないと自分たちの首を締めることになるなと思いました。そこで、もっとマツエクの業界を知っておかなければならないと思い、色々と勉強しました」 現在、原本はまつ毛エクステプロ用商材メーカーである株式会社松風と共に、様々な取り組みをしている。 「まつ毛エクステを突き詰めると、最終的にメイクとマツエクのバランス感という壁に当たりました。今はそこの課題に松風さんと共に取り組んでいます」

ヘアメイクアーティストに必要な事とは

経営者としての顔を持ちつつも、ヘアメイクアーティストとして活躍する原本。今の時代にヘアメイクアーティストとして必要とされていることを聞いてみた。 「今の時代はインスタとかが主流で、そこからポンと出てくる人もいます。やはり、自分のセンスや感性を磨くことが大切だと思いますね。それは決してヘアメイクに限ったことではなく、例えば風景であったり家具であったり・・・。自分が気になったものにとりあえず首を突っ込んでみて、そこから得られるもので何か作品を作ったりして、自分なりの何かを確立していくのが良いと思いますね」 自分のやりたいことだけやるのではなく、他人から勧められたこともやった方がいいと原本は言う。 「やりたいことはとりあえずやって欲しいです。そして、人から勧められたことはそれが嫌でもやってみる事が大事です。案外、自分より他人の方が自分を知っていることも多く、自分を振り返ると要所要所で誰かに影響を受けている。これやってみない?っていうことに対して、私は興味ないですって言うよりも、まずはやってみるということも大事だと思う。もしかしたらそこから、何かに繋がる可能性を秘めていると思います」 インスタという話が出たが、かくいう原本自身はSNSが苦手らしい。 「自分があまり得意ではないのであまりアドバイスは言えないが、自分の作品をSNS等に上げていったりするのはいいと思いますね。ヘアならヘア、メイクならメイク、眉毛なら眉毛など、今は部分的に特化している時代です。何かに特化していくとそこから広がっていくことがあるので、そういうのも一つかなと思いますね」

業界の地位向上のために

現在の原本は、ヘアメイクアーティストとしての活躍の場を日本から中国に徐々にシフトしている。それには理由がある。 「基本的に、中国人はメイクをしません。文化の中でメイクをするという発想がないのです。する人はもちろんいますが、それは映画やブライダルの世界だけであり一般の人はしません。それを教える人もいないので広がらないのです。中国人では1割位しかメイクをしません。もちろん日本はその逆です。そこを広げて、上げたいですね」 また、原本自身が代表取締役を務めるスーパーブリー株式会社だが、ここは実に色々なことをしている。映像制作、アパレル、アクセサリー、マツエクサロン等、その活動は多岐に渡る。 「なぜ色々な活動をしているかと言うと、ヘアメイクというか、美容業界が他の業界よりも下に見られており、そこを改善したいと思うからです。例えば日本での映像製作でいうと、映画のメインスタッフの中にヘアメイクは入らないことがほとんどです。これが海外だと必ず入るのですが、日本だとなぜか入らないのです」 日本と海外では、残念ながらヘアメイクを含む美容業界の地位に歴然とした差が存在する。 「色々な製作物もそうです。カメラマン、プロデューサー、アートディレクター等がメインでクレジットされ、ヘアメイクは下に見られて表に出ていないことが多いと思います。そう言うところを変えていきたいなとは思いますね。ヘアメイクが作る映像やアパレル、アクセサリー等、色々と仕掛けていきたいと思っています。それが評価されれば、自ずと業界の評価も変わってくると思います」 日本の美容業界の地位向上にも資する重要な挑戦に原本は向き合っている。この壮大な挑戦を、私たちは期待を持って見届けたい。

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

ヘアメイクとの出会い

阪急百貨店を退職した原本は、大阪にあるヘアメイクの専門学校に入学した。 「その学校でヘアメイクを学んで卒業した後、講師をやらないかと誘われたこともあり、その学校でしばらく講師をしていました」 そこで講師を続けているうちに、原本自身に悩みが生じてきた。 「その学校には、東京の情報が何もありませんでした。東京に行ったことがある講師が一人もいなかったのです。その講師が、「東京に行っても何も出来ないよ」と言うのは少し違うのでは?と疑問に思いました。そこで、東京に出ることにしました」 東京に出て来たのは、原本が25歳の時だった。まず原本はヘアメイク事務所が運営している、ヘアメイクのアシスタントのための学校に入学した。 「アシスタントの仕事ってなんだろう?と思ってそこに入ったのですが、色々なことを学ばせてもらいました。卒業後はその事務所に入って色々と仕事をしていました。そこには1年位いましたね」 その後、原本は東京にある山野美容専門学校の通信課程に入学した。 「ヘアメイクは、正直そんなに美容師免許を必要とされてはないのですが、美容師さんとか他の人達と一緒に戦おうとなった場合には美容師免許は必須かなと思ったので、山野に行きました。山野美容専門学校を選んだのは、学費が安かったという点と、有名だったという点ですね。それと、他の学校はスクーリングの期間が3回に分けてあるのが普通でしたが、山野は2回だったので、働いている自分としては好都合でした」 通信課程で3年間勉強をしつつも、原本はヘアメイクの仕事も同時にこなしていた。 「当時はミクシィが流行っていて、まだ紹介制でした。そこは業界人ばかりだったので、そこから作品撮りして仕事につなげるという形でやっていました」 仕事をしながらの通信課程は想像以上にハードだった。結局、美容師免許を取得するのに5年かかった。ずっとフリーランスでやっていた原本は、30歳になっていた。

イギリスへ

原本が33歳のとき、もう一度ファッションメイクを学ぶためにイギリスのロンドンに行った。 「ロンドンに行こうと思ったのは、もう一度ファッションを学びたいという思いがきっかけですね。日本ではちゃんとしたファッションメイクを教えてもらえなかったですし、やはり海外を生で感じたかったというのもありますね」 当時の原本にロンドンのツテは全くなかった。 「本当はフランスのパリに行きたかったのですが、いきなりフランス語よりも英語の方がいいと思いロンドンにしました。ロンドンはベースを作るにはすごく良いのではという思いがありました。そこからパリやニューヨークに行くのがいい流れなのかなと」 ロンドンに行くことを決めた原本。文字通り裸一貫の再スタートだった。 「日本の仕事を全部捨てて、ロンドンに移住するつもりで妻と行きました。ビザが半年しか取れなかったので、半年経ったら向こうで更新しようと思っていました」

予期せぬ事態

自分で現地のエージェンシーを探し、ヘアメイクの学校を紹介してもらった。最初の一ヶ月はホームステイをしていた。 「もちろん英語が分からなかったので、言葉は片言でした。複数の英会話の学校に掛け持ちで通っていました。高級車一台分くらいのお金がかかりましたね(笑)」 そんな原本の努力の甲斐もあり、ついには自分でアパートを契約して住むことが出来るくらいにまで英会話が上達した。順調に進んでいたロンドンでの生活。このまま移住し続けるつもりだったが、ここで思わぬ事態が発覚して半年間での日本への帰国を余儀なくされた。なんと、妻が妊娠していることが分かったのだ。 「妻が妊娠していることが分かり、ビザがもともと半年間のものだったので、半年経ってから妻と一緒に帰国しました」 日本に帰ってきてしばらくはヘアメイクの仕事をやっていた原本だったが、ある出来事がきっかけで、何と自分で会社を設立した。

続く

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

ブラスバンド

原本の出身は、大阪の豊中市。父親はグラフィックデザイナーだった。母親は専業主婦だったが、祖母が新地でクラブのママをしていた。いわゆる自営業の家庭で育った。 「小学生の頃などは、割とおとなしい方だったかもしれません。姉がいたので、女の子の遊びだったり、絵を書くのが好きだったので、絵画教室にかよってたりもしましたね。ただ、人の上に立つようなリーダー的な役割も好きでした。おとなしいながらも、みんなを引き連れて行くというタイプだったかもしれません」 小学校を卒業した原本は、地元の公立中学校に入学した。 「不良グループから普通の子まで、誰とでも仲良くなれるタイプでした。学年代表とかもしていたので、みんなが知っているというような感じの存在だったと思います」 中学時代はブラスバンド部。サックスを吹いていた。 「姉の影響で、中学校からサックスを始めました。本当は父親がサッカーをしていたのでサッカー部に入ろうと思っていたのですが、あんまり強い学校でもなかったのでブラスバンド部にしました」 ブラスバンドと自転車に熱中した中学生だった。 「中学校の時の思い出は、ブラスバンドと自転車の思い出が強いですね。休みの日の度に、自分のマウンテンバイクでどこかに出掛けていました」

特殊な高校

中学を卒業した原本は、高校に進学した。
「高校はブラスバンドの強豪校に入学しました。中学校の先輩がその高校に行ってて、誘われたので入学しました。実を言うと、通常の高校入試は2月や3月にあると思うのですが、その高校は試験が1月だったので滑り止めのつもりで受けたら合格していました」 原本が入学した高校は、阪急百貨店が母体の男子高だった。将来の優秀な社員を育成する目的で設立され、入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、高校を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた。 「そこは、100名以上受験して、20名しか受からないような高校でした。1学年に20名しかいない高校でした。西宮にあったのですが、阪急が持っていた西宮球場の中に学校がありました。なので、中庭が球場みたいな感じでしたね」 そこでの生活は、これまでと一変して非常に厳しいものだった。 「まるで軍隊でした。体力作りという名目で、毎朝学校に行って球場の周りをぐるぐる走らされながら、筋トレをずっとやって・・・。みんなバキバキの身体になっていました(笑)。学校自体が部活のようでした。全校生徒が60名位なのですが、退学する人もいるので大体50名位で、全員がブラスバンド部でした。言ってしまえば、宝塚音楽学校の姉妹校みたいな感じでしたね」 極めて特殊な学校だったが、ブラスバンドの実力は他校を圧倒していた。 「ブラスバンドの強豪校だったので、全国大会で金賞とかは当たり前でした。自分が2年生の時に初めて全国大会に進めないという、いわゆる予選落ちを経験しました。それがすごい悔しくて、その後みんなで頑張ったという記憶はあります。プライベートは一切なかったですね。学校が休みの日も学校に行って練習していましたし、夏休みも1週間あればいいというような感じでした。あとは、イベント行ったり大会に出場したりだとかしていましたね」

ヘアメイクの世界へ

「 当時の百貨店では私服禁止、ヒゲ禁止、7.3分けは当たり前のような時代でした。子供服を担当していたのですが、おもちゃ売り場なのに制服や、スーツで立っていることの違和感、そして、周りを見渡すとファッションを売っているのにダサい制服で立っている、髪型メイクもダサいってところの違和感が嫌で、怒られながらもスーツにスニーカー履いてみたり、髪型もアフロ風にしていってみたり、、、。当然怒られるのですが、じゃあということで坊主にしていったらさらに怒られるという感じでした(笑)」 自分を通していくうちに徐々に認められ仕事が楽しくなっていたが、大企業にいることの限界を感じていた。そして、葛藤の末に退社をした原本は当初、グラフィックデザイナーを目指していたが時代は大不況。 「その当時カリスマ美容師ブームもあったことから、テレビではそういった企画も多くありました。そこで、ヘアメイクという異世界に出会い、専門学校を探し入学しました」 ヘアメイクアーティストへの第一歩を踏み出した瞬間だった。

続く

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

新しい美容師の生き方

半年間出張カットをしていた古木だが、売り上げは徐々に上がっていった。出張カットは、何にも縛られずに自分道を見つけるという古木の哲学には合っていた。しかし、生活が不安定だったため、東京の有名サロンに入ろうと考え始めていた。 「先輩から紹介され、お店から内定ももらっていました。しかし、自分の生き方を考えたときにやはりこれじゃないと思い、先輩に謝って辞退しました」 出張カットをしているうちに、美容師と顧客のニーズのズレを感じ始めた。顧客が求めているのは設備云々ではないのだ。そして、母親の勧めもあり、自宅にシャンプー台を付けて、保健所に審査出したところ、なんと審査に通ってしまった。ついに、自宅の2階が美容室になった。 「まるで独立を疑似体験した感じでした。出張カットを始めるまでは、常に追われていてとても苦しかったです。髪型を作る才能があっても、最終的には美容師は体力勝負なので売り上げで評価される。一人の顧客の満足度では評価されません。しかし、それも評価の一つであるべきだと思います。出張カットなどを通じてそれを自分は体験できて、新しい美容師の生き方を見つけた気がしました」

会社設立

自宅のサロンは徐々に軌道に乗り、時間とお金の余裕が出来た古木は、自分の知見を広めるために色々な人に会ったり、経営セミナーに参加したりと精力的に動いていた。 「色々な人に会ううちに、美容業界は他の業界と比べて構造的におかしいと気付きました」 また、美容師としても一つの疑問を感じていた。 「美容師は一対一でお客様と接するので、深い関係を築けて色々とアドバイスできるのが強みなのですが、ほとんどの女性が美に対する自信が無かったり、自分の良いところを分かっていないと感じました」 この二つの疑問を解決する方法を模索していた時に、たまたま経営者のお客様に相談したところ「起業家なら変えられる」とアドバイスされ、起業する決意をした。 「課題解決のルートが見えてきた気がしました。バラバラだったことが繋がったというか、これなら二つのことを同時に解決できると思いましたね。今までの人生を考えたときに、これこそが自分がやることだと思いました」 その後、LiME株式会社を設立し、美容師のカルテ管理ができるアプリを制作した。その後の活躍は周知の通りである。 「自分は、美容師を体験していることが一番の価値だと持っています。例えば、IT業界の人が美容業界を知ろうとすると、10年はかかると思います。実際自分もかかりました。しかし、美容業界の人がITを知ろうすると、3年で済みます。なぜなら、IT業界は教育が充実していて学習コストが低いからです。すなわち、美容業界の人間がITを知った方が圧倒的に効率的と言えるのです」

美容師として、経営者として課題を解決する

社長業をこなす傍で、古木は美容師としての活動も継続している。 「業界外から美容業界に参入する人は、お客様優位なサービスばかり作る傾向にあります。しかし、本当に業界内で困っているのはお客様ではなくて美容師です。美容師の課題解決をしない限り業界は決して変わらないし、サービスも浸透しません。なので、自分も美容師を続けることに価値があると思っています」 経営者として、美容師としての古木の歩みは止まらない。古木が美容師をやってきた中で矛盾を感じていた、ピラミッドの頂点や売上を上げることに対してのみ評価されるということ。これはあくまで美容業界内での評価であり、お客様目線で考えると無関係であると古木は言う。 「お客様からすれば、自分を本当に美しくしてくれる人に出会いたいわけで、これはピラミッドの頂点にいる美容師じゃなくてもできることです。相性が合うとか、センスがあるとかそういうことで解決できます。しかし、いまの世の中はそういう視点で美容師とお客様が出会えるようになっていません」 確かに、それは既存のクーポンサイトでは決して探せない、本当に欲しい情報だ。 「それは、当該美容師さんの顧客の声がネット上にあがらないと分からないものです。しかも、新規ではなく、その美容師のもとにずっと通っている顧客の声こそ、本当にお客様が知りたいことなのです。それが自動で溜まって自動で発信できる仕組みを作りたいと思っています」 今年の2月には、@cosme運営のアイスタイル社より7000万円を調達するなどその勢いは加速するばかりである。古木が変革する美容業界を見ることができる日も、そう遠くはないはずだ。

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

異端児扱い

美容師になることを決意し、高校を卒業した後に横浜の美容専門学校に入学した古木。これまでの学生生活とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。 「中学2年生くらいから、学校は好きな授業しか出ない感じでした。高校の時は、留年したくなかったので単位ギリギリで学校に行っていたような感じでした。しかし、美容専門学校時代は自分がやりたいことが見つかったので、2年間無遅刻無欠席でした。成績も技術と学科ともトップで卒業しました」 成績優秀でまさに模範的な生徒だったが、先生には嫌われていた。 「不公平というか、納得できないことが許せないタイプでした。入学した時にメイクの授業があり、自分たちはメイクボックスを学校から9万円で購入しました。しかし、翌年入学してきた後輩たちは、中に入っている道具が自分たちのときより少ないにも関わらず値段が上がっていました。それが許せなくて学校のNo.2の偉い人にクレームを言ったところ、何故か逆ギレされましたね」 納得できないことがあれば、例え立場が違ったとしても自分の意見を主張した。 「結構そういうことが繰り返しあって・・・。自分の立場が悪くなったとしても、納得できないことがあると戦いたくなってしまうんです」 そんな古木に対して、学校の風当たりは徐々に強くなった。 「就活でも、先生に「ごめん手伝えないんだ・・・」と言われたりしましたね。他にも、通常は就職決まったら学校にサロン名と名前が張り出されるのですが、自分は張り出されませんでした。学校の中で2番目に早く決まったのに、1番目の生徒と2番目の自分だけ張り出されなかったですね(笑)」

波乱万丈の美容師LIFE

結局張り出されることはなかったが、人気サロンであるapishに就職が決まった。学校では2番目の速さだった。 「apishに入社できたのは運だったと思います。そんな実力とかあるタイプではなかったので・・・。通常の美容専門学生は、他にも掛け持ちで複数のサロンの面接を受けたりすると思います。しかし、自分には就職に関する情報があまりなく、「そんなにたくさん受けていいのだろうか?」と思っていたので、apish一本で行こうと思い、他には受けませんでした」 そうしてついに、古木の美容師としても人生がスタートした。それは同時に、新たな試練の始まりでもあった。 「僕らの代は3人しか入社しなかったのですが、それまでは毎年10人くらい入社していました。なので、10人分の仕事が落ちてくるような感じで、すごく大変でした(笑)」 3年間働いた後にapishを退社し、古木は代官山のサロンに移った。 「そんなに大きなお店ではなく、お客様一人一人を大切にするお店でした。自分には合っていると思っていましたね」 そこで、古木は思いもよらない事態に遭遇する。なんと、突然クビを宣告されたのだ。 「大きいお店にいた時のテンションでそのまま行ってしまったということもあり、ボス的に受け入れられないところがあったのだろうと思います。また、下の子達に対する影響力が強すぎるところもあったので、「大きいサロンに戻るか、自分でやりなさい」と言われて解雇されてしまいました」 突然のクビ宣告・・・。当然のことながら、古木の落ち込み方は尋常ではなかった。 「今考えると、当時は鬱病のような感じだったと思います。今まで頑張ってきたことを全て失ったような気がしました。当時はスタイリストでお客様がちゃんと付いていた訳ではなかったので、この先どうなるのだろうと不安で本当に絶望的でした。生きる気力がなくなり、1ヶ月間ぐらいずっと寝込んでいました」

人生の転機は突然に

しかし、いつまでも落ち込んで寝込んでいるわけにもいかない。そこで仰天の行動に出た。 「当時、夜になると寝れなくなる状態が続いており、「身体が疲れていれば寝れるだろう」ということで、旅に出ようと考えました」 旅に出る決意をした古木は、友達と二人で1台のバイクを二人乗りして、屋久島の縄文杉を見るため西に向かった。 「ものすごく大変でした。お金がなかったので、屋久島では宿を取っていなかったのですが、4月なので温度が氷点下でした。島民の方に「それだと死ぬよ」と言われましたね(笑)」 体温を上げないと危険ということで、古木達は朝まで歩くことにした。 「朝方の3時頃に、24時間営業のコインランドリーを見つけたので、「ここで寝よう!」ということでコインランドリーで寝て暖を取りました。そんな激しい旅でした」 屋久島から帰ると、これまで夜に寝れなかったことが嘘のように、寝れるようになった。また、今まで経験したことのない過酷な状況下をくぐり抜けたことは、古木に新たな感覚と自信をもたらした。 「旅の最中はお金もなかったので、公園や駐車場などで寝ていました。なので、自宅の布団の上で寝るということ、お風呂に入れるということに感動して、あらゆることにありがたみを感じることができるようになりました」 屋久島での旅を通じて、うつ病のような状態を脱した古木。友達のヘアカットをしてあげたことをきっかけに、美容師としての新たな仕事のやりがいに気づいた。 「当時、友達に頼まれてカットとパーマをしたことがありました。自分は無料でやってあげるつもりだったのですが、「プロにやってもらったのだから取っておいてよ」ということで5000円くれました。これまでは常に何かに追われて仕事をしていたので、純粋に楽しく髪型を作ってお金をもらえたことにすごく感動しました。「美容師の仕事ってこういうことなんだ」と実感しました」 今まで有名店で働くことや、売上を上げることに縛られて生きてきた古木だったが、ついにその呪縛から逃れて自由になった瞬間だった。

続く

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

争いが嫌いな少年

出身地は神奈川県横浜市。小学生の頃は平和主義者だった。 「とにかく競争があまり好きではなかったです。例えば早い者勝ちで並ぶとか、給食で並んで取りに行くとかそういう時に、先に並ぼうとか全く無かったですし、仮に自分が先に並んでいて誰かに横入りされたとしても全く気にならなかったですね。そもそも戦うというか、競争が嫌いでしたね」 人付き合いは、得意ではないが苦手でもなかった。 「割とどんな人でも仲良くしていました。もともと内向的な感じで人と話したりするのがあまり好きなタイプではなかったのですが、偏見とかなく誰とでも同じように付き合って遊んでいましたね」 ここで、古木が忘れられない小学生時代の面白いエピソードを紹介してくれた。 「当時、やんちゃな友達がいてある同級生をいじめようとして自分にも参加するよう促されました。しかし、その同級生は友達だからと断ったところ、自分がシカトされ始めたのですが、全く気付きませんでした。それで、友達が僕の母親にシカトされていることを伝えてくれたというエピソードがあります(笑)」 内向的だったと言いつつ、意外と神経が図太い小学生だったようだ。その後、古木は地元の中学校を卒業して、少し離れた私立の高校に入学した。 「高校時代は心理学に興味があったので、いろいろな本を読んで勉強しましたね。学校の勉強は興味が無かったので、全然しなかったですが・・・。心理学の延長線上で、占いの本なども読んでいました。当時は「人」に興味があり、そういった本を読んで調べていましたね」

自由を求めて

血気盛んな高校時代に、自ら心理学を学ぶ男子生徒はそうはいないだろう。さらには心理学のみに止まらず、古木の好奇心は「自由」という壮大なテーマに向けられ、そこで仰天の行動に出る。 高校時代は縛られるのが嫌というか、ルールに従うのが嫌でしたね。なんで学校に行かなければならないのか意味が分かりませんでした。そこで、自分の中で楽しく生きることとは何だろう?と考えた時に、学生時代はやらなければならない事があり色々と縛られているため、自由がない事に気付きました。そして、自由とは何だろうと色々と研究して試してみました」 自由を求めて行動に移した結果は散々だった。 「自由を求めれば求めるほど、親や学校の先生に怒られて追いかけられました。最終的には、警察が追いかけて来て、さらには任侠道の方まで追いかけて来ました(笑)。結果的に、そういう法則なのだと分かりました。自由は追いかけるものではないのだとその時感じましたね」 波乱万丈な高校生活を過ごしていた古木だったが、将来の方向性を決める時期がやってきた。 「中学2年生の時から、学校の必要性やどういう生き方が正しいのかを考えるようになりました。そして、自分の将来を考えた時に、スーツを着て会社に行くというような、所謂サラリーマンとしての人生がイメージできませんでした。弁護士や心理学者、デザイナーなど色々考えました。美術が得意だったので美大への進学も勧められましたが、イメージが湧きませんでした」

偶然の出会い

そんなある日、好きな女の子が美容専門学校に見学に行くことを知り、これはデートチャンスだと言わんばかりに古木も付いて行った。当初は軽い気持ちで付いて行った古木だったが、そこでの体験は後の彼の人生を方向付けるものだった。 「当時、自分としては職業に関して3つのポイントがありました。一つ目は、心理学を勉強していたこともあり人に興味があったので、人とコミュニケーションが取れる仕事。二つ目は、物理化学というか量子力学や相対性理論に興味があったので、それに関連する仕事。三つ目は、ファッションに興味があったので好きな格好ができる仕事。この3つを踏まえた上で、当時は一人で、マイペースでできる仕事がいいと思っていました」 見学に行った美容専門学校で先生の話を聞いた時、美容師という職業は上記3ポイントを全て満たしていると感じた。 「人と接し、化学を用いて、好きなファッションで仕事ができる。これは自分に合っているかもしれないなと思いましたね」

続く

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

柳本との出会い

何とか渋谷のサロンに就職した寺村だが、その後程なくして某有名サロンにオープニングスタッフとして加わった。 「そのサロンには美容師歴2ヶ月で入社しました。ほぼ新卒のようなものでしたね」 そこで、寺村は様々な出会いに恵まれた。 「当時、某有名男性アーティストグループのヘアメイクのアシスタントをやらせていただきました。まだ結成されたばかりだったのですが、一気に売れていく姿や、そのグループの社長やマネージャーの仕事への接し方を直近で見れたことは、すごく勉強になりました。特に、ヘアメイクの方に「一般的な人は自分が失敗して成長するが、一流は他人の失敗をも自分の失敗と捉えて成長する」と教えてもらったことは今でも忘れられません」 現Lily代表の柳本と出会ったのも、そのサロンだった。 「そのサロンで柳本と知り合った時から、いつかは独立して店をやろうと話していました。ただ、当時は独立資金もなかったので、柳本は先にそのサロンを退社して、フリーランスとして面貸しサロンで働いて資金を貯めていました」

Lilyの立ち上げ

そんな柳本の後を追うように、寺村も退社して半年間だけフリーランスとして面貸しサロンで働いた。そして、満を持して柳本と共に表参道にLilyをオープンさせた。その後の活躍はご覧の通りである。 「代表の柳本がカット1万円でやり始めた頃は、カットが1万円の美容師なんて全国で4名ほどしかいませんでした。当時はすごく叩かれました。「20代の美容師が何調子乗っているの?」という感じで・・・」 今ではカット1万円は、そこまで珍しくもなくなった。 「最近では増えましたが、昔はマンツーマンで施術する美容室なんてそこまでありませんでした。カット以外のカラーやパーマ、シャンプーは、生産性を上げるためにアシスタントにやらせるのが普通ですから。自分たちは、得意なものに特化してマンツーマンでやるので、その分金額を頂くという感じです」

大切なのは人間力

寺村といえば、SNSを上手に活用しているというイメージだ。そこで、寺村流SNSとの付き合い方を聞いてみた。 「SNSって、ソーシャルネットワーキングサービスの略ですが、ソーシャルとは「社交場」という意味も有しています。要は、現実世界での人との付き合い方がネット上に移行しているだけなのに、そこを勘違いしている人が多いような気がします。基本、現実の世界での人間力を高めていかないと、ネット上でいくら良いこと言っても響かないと思います。ネット上で人から信頼されて支持を集めている人は、実際に会ってもすごく素晴らしい人ばかりです」 ネット上でいくら自分を見繕っても、確固たる人間力がなければそこに説得力は宿らない。 「要領よく小手先のテクニックだけ覚えて情報発信したところで、人には響かないと思います。まずは目の前の人を喜ばせることから始めていけば、必然的にネット上でも大勢の人からの支持を得られるのではないでしょうか?」 寺村自身、SNSを始めた理由は集客やフォロワーを増やしたいと理由ではなかった。 「某有名サロンにいた頃に、フジテレビの「お台場合衆国」というイベントにシャンプー体験などができるブース出店をしました。そこには全国からお客様がたくさん来たのですが、カットがひどい人、カラーで髪の毛がクラゲのようになっている人など、普段店ではあまり見ないような悲惨な現状を目の当たりにしました。その時に、まだまだ美容技術について知らない人が全国にはたくさんいる。知らなくて損している人がたくさんいると思い、自分が情報発信してそれを伝えていこうと思ったのが最初のきっかけです」 情報発信にとどまらず、まだまだこの先やりたいことはたくさんある。 「僕が学生の頃は意味の分からない頭髪検査があり、スポーツ刈りにさせられたりして自分に自信が持てませんでした。そんなことがないように、例えば歯医者が学校に定期的に検診に来るみたいに、地域の美容師が学校に行き髪型を見てくれるような制度をがあればいいなと思っています。中学生で白髪があるのに校則で染められないとか、くせ毛でアフロヘアのようになっているのに縮毛矯正が出来ないとか、やはりおかしいですから」 「美容の力は、人に自信を与えることができると思っています。それが結果的に日本を少しでも良くすることにつながれば最高ですね。自分の美容師としての価値を高めつつ、色々なことにチャレンジして行きたいと思います」 新しいことをやればやるだけ、批判の数もそれだけある。批判が恐ければ何もやらなければいい、ただそれだけのことだ。今度はどんな新しい改革を始めるのか?ますます寺村から目が離せない。

                                                                     完

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

髪を伸ばしたい

高校3年間、寺村は全ての情熱をバスケットボールに注ぎ込んだ。そんな高校生活も、いよいよ進路を決めなければならない時期に差し掛かった。 「今でこそバスケのプロリーグができましたが、当時はありませんでしたし、バスケで食べていくというのは非現実的でした。全国大会ベスト4に入った中の数人がプロに行ける世界でしたので。それでも、バスケに関わる仕事をしたいとは考えていたので、最初はスポーツインストラクターや柔道整復師になろうかと思っていました」 柔道整復師の学校の見学に行った際に、生徒全員が短髪だったことが美容師を目指すきっかけになる。 「小学生時代は床屋代を浮かすため坊主、中学生時代は部活のため坊主、高校は私立で校則が厳しかったため、伸ばせてスポーツ刈りでした。なので、昔から髪への欲求が非常に強くありました。それで、柔道整復師の学校に見学に行ったら生徒が全員短髪で、「またか・・・」みたいな。これでは、自分の人生で一度も髪を伸ばせないと思い、美容師になろうと思いました」

美容師になるため東京へ

高校を卒業した寺村は、東京にある山野美容専門学校に特待生として入学した。 「実家が貧しかったので、そもそも美容学校に入学する学費がありませんでした。そこで、入学金が免除になる学校をいろいろ探したところ、山野美容専門学校が一番好条件だったので決めました」 美容師になると決めたときから、東京で勝負するつもりだった。 「高校のバスケにおいて、ただ単に長時間練習しているだけではダメで、最高の指導者のもとで、合理的な練習をやらなくては強くならないと学びました。なので、もし美容師になるなら田舎にいてはダメで、東京に出なければならないと思っていましたね」 両親や学校の先生には、「美容師は休みも少ないし、立ち仕事だし、毎日練習しなきゃならなくて大変だからやめなさい」と反対された。 「自分にとっては中学校と高校でのバスケで休みがないことや、毎日練習することをすでに経験していました。なので、周囲の反対する理由は全く気になりませんでした。周りにうまくいっている美容師がいなかったので、そのような意見が出るのだと思っていましたね」 山野美容専門学校に特待生で入学し、美容師になるべく東京での新生活がスタートした。 「同じく美容師志望の高校の友達がいたので、彼の家に転がりこませてもらいました。ルームシェアをしていました」

理想と現実の狭間で

いざ専門学校に通うと、最初に自分が想像していたイメージとのギャップに苦しんだ。 「実際に通うと、正直あまり面白く感じませんでした。マネキンに向き合っても誰も喜んでくれないですし、学科の授業もなんのためにやっているのか分からないものが多かったです。全然頭に入りませんでした」 学校の授業よりも、スタッフとして関わっていた外部イベントの方が面白く感じてきて、徐々にそちらに熱中していった。 「美容学生のイベントにスタッフとして参加していたので、そちらの方が楽しくて熱中していました。イベントが近くなると、学校のカフェテリアでどんな構成にしようかとか、どんな音楽かけようかとか、そんなことをずっと考えていました」 そして、いよいよ社会に出なければならない時期に差し掛かった。しかし、就職先はなかなか決まらなかった。 「有名店を10サロンくらい受けたのですが、全て3次面接で落ちました。当時から我が強かったので、協調性がないと思われたのかもしれません」 そんな連敗続きの寺村の心を救ったのは、その年で寿退職が決まっていた担任の言葉だった。 「普通なら、「面接ではこんな言い回しをしなさい」など言われるのですが、その先生は「あなたの良さは分かっているから、いい子ぶって就職するのはやめなさい」と言われました。自分のことを分かってもらえていたのが、すごく嬉しかったですし、励みになりました」 しかし、結局在学中には就職が決まらず、同級生より少し遅れて渋谷のサロンに就職した。

続く

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

スポーツに熱中した幼少期

出身は群馬県渋川市。群馬県のほぼ中央に位置し、古くから宿場町として栄えてきた街である。 「自分が中学生までは、子持村という名前でした。すごく田舎でしたね。父親の家系が、祖父の代から鉄骨を作っているような職人家系でしたが、普通の家庭でした」 小学生の時は、陸上の長距離に熱中した。 「陸上は、父親に勧められて始めました。父親曰く、「寺村家は調子に乗りやすいため、小学生から野球やサッカーをやると、中学生から始めた同級生よりうまいため調子に乗る可能性がある」とのことでした。陸上ならあらゆるスポーツの基礎となるということで、陸上をやらされたという感じですね。なので、やりたくてやっていたというわけではなかったです。」 中学生になると、バスケットボール部に入部した。理由は、バスケ部が真面目そうだったからだ。 「小学生までは真面目で内気な性格でした。やんちゃな人が苦手で、小学生の時は一人で絵を描いているのが好きでした。なので、サッカー部とか野球部は、はっちゃけている先輩が多かったので苦手だなと思っていました。それに比べて、バスケ部は全員坊主でハチマキつけてやっているような、ストイックな感じでした。それで、自分に合っていると思い入部しました」

バスケットボール

中学生時代は、部活に明け暮れた。 「今思い返しても、中学生時代は本当に部活漬けでした。部活以外の思い出はないですね。顧問が厳しくて、彼女を作るのも禁止されていました」 中学生時代の練習量は、今振り返っても尋常ではなかった。 「中学校の時は、1年の365日中、364日が部活でした。朝練が7時からなのですが、その前にウォーミングアップとして300メートルの校庭を10周走らなくてはならなくて・・・。朝練の前に3キロ走らなくてはなりませんでした。普通ならそれが朝練なのですが(笑)」 そこまで練習しても、チームとしての結果は出なかった。 「土日も、朝の9時から夕方の4時まで練習していました。それでも、地区予選は勝てても、県大会では1回戦で敗退していました。それで、強いチームはどんな練習をしているのだと疑問に思ったということもあり、私立のバスケ強豪校に入学しました」

バスケ強豪校への入学

中学校を卒業した寺村は、バスケの強豪校に入学した。 「実際入部してびっくりしたのは、練習をしても全然疲れないということでした。これだけでいいの?みたいな。中3の夏に部活を引退してから半年間部活をしていないブランクがあるのに、練習が全然きつくありませんでした」 中学生時代、毎日鬼の練習を重ねていた寺村にとって、高校の練習は物足りなかった。 「中学生時代から、毎日練習する癖が付いていたので、普通の練習では物足りなくて、朝は誰よりも早く来て練習して、練習後も一番最後まで残って自主練をやっていました」 毎日の練習の成果として、寺村には確実に上手くなっているという実感があった。そして、3年生が引退して新チームになると、中学校時代には県選抜に選ばれていた同級生達を差し置いて、ベンチ入りするようになった。 「中学校時代は、目指しているものがみんなバラバラでした。内申書のためにやっている人、県大会に出たいと思っている人、辞めたいけど辞める勇気がないためイヤイヤ続けている人など・・・。しかし、高校のバスケ部は、全員が同じ方向を向いていました。また、教師の教え方も上手いし、みんなのモチベーションも高い。そんな環境の中にいるうちに、指導方法と努力の方向が間違っていたら、いくら頑張っても結果が出ないということに気付きました」 高校時代のバスケを通じての成長が、後の寺村の人間形成に大きく影響を及ぼしていく。

続く