オオイケモトキ〜フリーランス美容師の新しいカタチ Vol.3〜
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
美容専門学校を卒業し、意中のサロンであった「Of HAIR」に入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。アシスタント2年目に出場したカットコンテストで優勝し、周りを飛び越えてスタイリストにもなった。しかし、意外なところに落とし穴が待っていた。
「スタイリストになってからは全く伸びずというか、苦しかったですね。自分の得意とするクリエイティブと、実際に美容師が現場で求められるスキルが全く違ったので・・・」
売上も上がらず、先輩たちのアドバイスにも耳を傾けなかったオオイケは徐々に孤立していき、負のスパイラルに陥った。
「自分でそれに気付くのに数年、さらにそれを埋めるのに数年かかりましたね。5〜6年は全く伸びず、後輩にも抜かれたりというような時期でした」
自分に自信があったが故に、遠回りしてしまった。
「最終的には自分で気付いたのですが、同じような事を先輩などに言われていたとは思います。ただ、当時は意識がそこにいってなかったので、自分の中に入ってこなかったんだと思います。それよりも、自分はクリエイティブなことをやって・・だとか、先輩より上手いという驕りがありましたね」
当時はまだ売上至上主義を刷り込まれていたオオイケ。その役に立てば良いと思い参加したセミナーが、のちの自分に大きな影響を及ぼした。
「当時は美容師以外の人に興味を持ち始めて、様々なセミナーなどに顔を出しました。今思えば、完全に情報商材系のセミナーだったのですが・・(笑)。当時はまだ美容師さんがやっていなかったメルマガの発信の仕方など、色々なセミナーや個人コンサルを受けたりしました。いいカモだっと思います(笑)。自分を変えたいということよりも、単純に興味があったので参加してましたね」
そこでの経験を経て、美容師以外の人との繋がりや、同じ美容師との横の繋がりができた。それは、オオイケに次のステージに行く決心をさせるには十分なものだった。ついに、9年間働いた「Of HAIR」を退職した。
「辞める時には、フリーでやる事を決めていました。もともと心配しないタイプですし、不安は一切なかったですね。奥さんにも事後報告でした。怒られましたが(笑)」
その後、先輩のサロンを間借りをして働いていたオオイケだったが、面貸しサロンを探しているときにお試しで利用したサロンが殺伐とした雰囲気で、居心地が良くなかったという経験をした。そこでの経験が、その後に立ち上げたサロン作りの際に大いに役立った。
「2015年の末に「Of HAIR」を退社して、2016年1月から知り合いの代官山のサロンの1席を借りて美容師をしていました。その後、古木さん(※LiME株式会社CEO 古木数馬氏)にシェアサロンの構想を聞き面白そうだなと思い、やるならまずはコミュニティが大事だという事になりました。そこで、GO TODAYという美容師さんが繋がるオンラインサロンを古木さんと二人で立ち上げました。今は500人以上の会員がいます」
シェアサロンと面貸しサロンは、根本的な部分で大きく異なる。
「コミュニティというソフトの部分があるかどうかが違います。自分が面貸しサロンを探していたときは、コミュニティというものが存在しなかったのですごく居づらかった記憶があります。シェアサロンでは情報交換もするし、お客様を紹介したりシェアしたりもします」
SNS等の情報発信に関して聞いてみた。
「大体の方が根本的な間違いを犯していると思います。「インスタグラムやったほうがいいですか?」「ツイッターはどうことを呟けばいいですか?」「ブログは何を書けばいいですか?」とよく聞かれますが、皆さん手段から決めようとしています。それだと、目的地を決めていないのに、電車で行くかバスで行くか歩いていくかを決めようとしているのと同じです」
確かに、手段に目がいくあまり目的については考えることを忘れがちだ。
「そもそも何がしたいのか?どこへ行きたいのか?を決めた上で、それに対して何をしたらよいと初めて言えます。まずは目的地を決めないとダメです」
目的地を決めるに際しても、コツが必要だという。
「目的地というのは、決して自分のやりたいことではないので、自分一人では分かりません。人と会って、相対的に見ることが大切です。人と会って自分を知って、そこから自分はどこに行きたいのかを決めればいいのです。そのために何をするか、そこで初めてインスグラムやツイッターやブログが出てきます。そこがないのに、いきなり何をするかを決めようとしても答えは出ません」
2017年11月にシェアサロン「GO TODAY SHAiRE SALON」を設立した。
「今が一番大変ですが、ビジョンが明確というか、やりたい世界がありますしそれを一緒に実現する仲間もいます。自分がやりたいことが大きな影響力を持って、業界を変えることができると本気で思っているのでやりがいはありますね」
ビジョンがあることがいかに幸せなことかを、オオイケは身を持って体験している。
「大学生の時や勤めている時にはビジョンがなかったので、ある意味で一番辛かったです。個人でやりたいことはいつでもできるので、今の自分の知識と体力と経験と、今いる仲間としかできない、今の時代でしかできないことをやりたいですね」
今が一番大変だが、ビジョンに向かって歩みを止めることはない。
「それこそ最近はメディアの方に取材をしてもらったり、美容師さんに相談されることも増えたのですが、自分は大したことない人間なのでそれをむしろ共有したいです。すごい人などいないですし、自分のことをよく知って、目的地を決めたらそれに向かって一生懸命にやれば誰でも活躍できるのではないかと思います」
大学を1年で中退し、1年間フリーターを経験したオオイケだったが、ついに新たなる目標を見つけた。それは、美容師になる事だった。実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。大学とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。
「大学生の時はフワフワしていた感じだったのですが、専門学校に入学して自分にスイッチが入った感じでした。他の生徒よりは2学年上になるので、ちゃんとしなければというか、責任感が芽生えましたね。入学初日も2時間早く学校に行ってしまい、40人くらいのクラスだったのですが一人一人に挨拶をしていました。いまだに同級生にそれは笑われますが、当時はすごく気負っていたのかもしれません」
回り道をした経験と、他の生徒より年上なので見本とならなければならないという責任感が、オオイケの意識を変えていった。
「美容専門学校は大学と異なり皆勤賞でした。自分の性に合っていたというか・・・。コンテストなどにも最初から積極的に参加して結果も出していたので、美容専門学校での2年間はこれまでとは世界が変わってすごく充実して楽しかったです。友達もたくさんできましたし。当時のあだ名が「リーダー」でしたから(笑)」
いよいよ自分の将来を考える時に、サロンに就職するか美容専門学校の講師になるかで悩んだ。
「美容専門学校の印象は自分の中でかなりポジティブでした。加えて、人に教えるのも好きだったので、このまま講師になるのもいいなと思っていました。当時の担任の先生に相談しても、「すごく合ってると思うよ」とすごく勧めてくれましたので」
悩んだ結果、サロンに就職することにした。
「このまま美容専門学校を卒業して講師になるということは、美容師経験がないということになるので、それもちょっと違うかなと思って。美容専門学校の講師はいつでもなれるなと思い、外に出ようということでサロンに就職することにしました」
働きたいサロンはすでに決まっていた。
「自分は直感を重視するタイプなのですが、当時学校にセミナーというか課外授業のような形で、「Of HAIR」の社長と従業員の方が来てデモンストレーションをしてくれたことがありました。それを見て、すごく面白いサロンだなと思ったことがきっかけですね」
「Of HAIR」の他とは違う雰囲気が、オオイケを魅了した。
「いわゆる原宿や青山のようなキラキラしているサロンとは異なって、研究者っぽいというかオタクっぽいというか。マニアックな要素があってすごく好感が持てたというか。自分は原宿や青山でイケてるというようなタイプでもなかったので。オタクっぽいのに一等地にサロンがあるし、名が知れている美容室だったので学生の時から興味がありました。それで学生の時にサロンが出している「伝・DEN」という本を買ったりしていました」
就職活動の際に「Of HAIR」以外のサロンは受けなかったものの、見事に入社試験に合格。美容師としての新たな生活が始まった。
美容専門学校を卒業し、意中のサロンに入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。
「社会人になると、理想と現実とのギャップに参ってしまう人もいるかもしれませんが、自分の場合はそんなに理想を持っていなかったですし、事前に情報も入っていたので、想像の範囲内でしたね。もちろん落ち込んだりとかはありましたが、それで辞めようとかはなくて、逆に早く活躍してこの場から抜け出したいなというハングリーな感じでした」
美容専門学生時代から得意だったクリエイティブな長所が、意外なところで自分の身を助けてくれた。
「普通のサロンならばアシスタントのうちはシャンプーやカットの練習が優先で、コンテストなんか出ている暇はないだろうという感じだと思うのですが、「Of HAIR」の社長はそういうところに寛容な方でした。なので、アシスタント2年目の時にカットコンテストに出たところ、優勝することができました」
カットコンテストの優勝を契機に、最速でスタイリストになることができた。
「クリエイティブなことを評価してくれる会社だったので、飛び級で社長のアシスタントになり、その後に先輩や同期よりも早くスタイリストになれました。そこまでは、自分の得意分野であるクリエイティブな側面を活かすことが出来て、トントン拍子で行きましたね」
スムーズにスタイリストになったオオイケだったが、意外なところに落とし穴が待っていた。
生まれは八王子。父親はサラリーマンで母親は専業主婦という、ごく普通の家庭環境で育った。小学生の時に始めたサッカーに、自然とのめり込んでいった。
「テレビゲームなどもほとんどやらなかったですね。八王子は田舎なので、虫を捕っているかサッカーをやっているかのどちらかでした。サッカーはすごく強いチームや学校でやっていたというわけではなくて、人並みにJリーグブームに乗っかってやっていたという感じです。ポジションはボランチでした。可もなく不可もないポジションです(笑)」
中学生になってもサッカー部に入り、サッカーを続けた。
「これといって悪いこともなかったですし、かといって勉強が出来るわけでもなく、平凡に部活のサッカーをやっていた感じです。生活パターンはサッカー中心でした」
中学校を卒業したオオイケは、自宅から通える高校に入学した。
「中学校の時にサッカーでの自分の限界を知ったので、サッカーの強豪校に行こうとかの選択肢はなかったです。普通の高校に入学しました」
そこでギターと出会い、バンドにのめり込んだ。
「当時は、19(ジューク)やゆずのようなアコースティックギターのバンドが流行っていたので、ギターを買って先輩に教わって。バンドやりたいなと思ったので、バンドを組んで学園祭で演奏したりとかしていましたね。本当に軟派な高校生活でした(笑)」
バンドを組んで音楽にのめり込んでいたオオイケだったが、プロになろうとは思わなかった。
「サッカーもそうなのですが、比較的最初は器用にできてしまうのです。器用貧乏というか・・・。そこからハングリーにガツガツ行くタイプではなくて、最初にコツを掴んで、まあいいかとなるタイプです」
高校2年になり、進路を決めなくてはならない時期に差し掛かった。
「何かやりたいこととかがあれば、それこそ専門学校や美容学校に行ったりだとかという選択肢があったとは思うのですが・・・。なんとなく生きてきたので、その延長線上に大学があったので大学に進学したという感じですね。大学に行って、4年間の中で何かやりたいことが見つかればいいかなという感じで決めました」
理系が得意だったオオイケは、自宅から通える理系の大学に進学した。
「そこで初めて挫折をしたというか・・・。今まで自分の意思が何もなく生きてきて、友達もなかなか出来なくて生活もつまらなくて。勉強もそんなに出来る方ではなかったので、授業に付いていけなかったですし。なんとなくフワフワとそれまでビジョンもなく来てしまったのですが、いよいよどうにもいかなくなってきたというのを実感し初めて。もう辞めたいなと、入学して一週間位で思ってしまいました」
両親に相談したが、もちろん認めてはくれなかった。
「当時、父親は単身赴任で違うところに住んでいたので母親と兄弟に話したのですが、理系だし高いお金払っているのだからとりあえず1年は通ってみなさいということで、1年間通うことにしました」
1年間は大学に通う約束をしたことで、授業をサボりつつも大学に通った。
「何か他にやりたいことがあるわけでもなかったので、地元の友達と遊びつつ、面白くないけど学校に行ってという毎日でした。自分でこうして話していると、自分はなんてダメな人間だったのだと改めて思いますね(笑)」
結局、大学に1年通った後に中退した。
「自分がいいなと思ったことはすぐやるのですが、その反対に自分がダメだと思ったら周りに何を言われようが絶対に曲げないタイプでして・・・。両親は納得していなかったと思うのですが、「こいつは言うこと聞かないからだめだ」と最終的には諦めたのだと思います」
ついにオオイケは大学生からフリーターになった。
「今思えば19歳や20歳なら別にフワフワしていてもいいと思うのですが、当時は焦っていましたね。当時、自分の周りは全て何らかの学校に行っていて、バイトしかしていないのは自分だけだったので、物凄い不安に駆られました。バイトを掛け持ちでやりながら過ごしていましたが、何かやらなければという不安が常にありました。ある意味、ニートですから」
結局、1年間フリーターをやった。そして、ついに次なる進むべき道を見つけた。美容師になる事だった。
「月並みなイメージですが、おしゃれだしカッコいいしということで以前から興味はありました。実は、偶然にも高校時代の彼女が美容専門学校に通っていて、大学の時に彼女から色々と話を聞いていました」
高校時代の彼女の話をキッカケに、徐々に美容師への関心が強まっていった。
「自分はビジョンがないままフワフワと大学行っているだけでしたが、彼女の話を聞いているとみんなすごく一生懸命やっているんだなと分かりました。学んでいる内容も、自分が高校や大学で学んだ事ではなくて、全く新しい世界の話だったので面白そうだなと思っていました」
実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。
「彼女がそこに通っていたと言う事もありましたし、実際に彼女がまだ在学中だった時に体験入学にも行きました。彼女は嫌がっていましたが(笑)」
大学生からフリーターになり、ついには美容専門学生になった。
29歳で渋谷に立ち上げたSHACHU。最初は3席からのスタートだったが、徐々に軌道に乗り始め、ついに誰もが知る美容室になった。当然、良いことばかりではない。これまで味わったことのない悩みにも直面した。
「スタッフが増えて店舗も増えていくと、当然環境が変化します。そのときに、スタッフ全員に大満足して欲しいのはもちろんですが、そういかない時もあります。スタッフのことを考えると、胸が痛くなります。自分が雇われていた頃にはなかった悩みです」
SHACHUのインスタグラムを見れば一目瞭然だが、SHACHUはスタッフ全員の仲がすごくいい。毎年、退職者もほとんどいない。
「うちには心強いスタッフしかいないです。俺が俺がという感じではなく、みんなで登っていくというか、家族みたいな感じです。飲みに誘ってもだいたいみんな来ますし、断られたことはあまりないですね。実家に泊まりで遊びに来たスタッフもいますし(笑)」
みやちといえば、美容業界でのインスタグラムの先駆者だ。みやち本人のインスタのフォロワーは7万人を超え、SHACHUのオフィシャルアカウントのフォロワーは10万人を超えている。みやちがインスタグラムに目をつけたのは、まだインスタ黎明期の頃だった。
「インスタの前にブログが流行っていて、その後にYouTubeとインスタが来たのですが、YouTubeだと情報が多すぎると思いました。それに比べて、インスタはわかりやすいのに最短で情報が取れるのでいいなと思いました。自分のサロンワークのルーティンと広告の打ち出しをくっつけたかったのですが、それにはインスタがぴったりでした」
そこには当然、みやちなりの戦略があった。
「みんな後ろ姿の写真が見たいのではないか?と思いました。正面からの写真だと、顔が邪魔で髪の色がよく見えません。モデルさんの正面からの写真が可愛いのは当たり前で、みんなはむしろ一般人の後ろ姿の写真を見たいのではないかと考えました」
その戦略はズバリ的中した。みやちのインスタは業界で話題になり、他の美容室もそれに追随するようになった。
「他の美容室がすごい真似してきたのですが、それは嬉しかったですね。競争意識が芽生えて、逆に自分も燃えましたし。いい意味で美容業界が盛り上がったから、よかったと思っています」
いま全国の美容学生に一番人気がある美容室といっても過言ではないSHACHUだが、その理由を聞いてみた。
「新しい形なのかなと思いますね。インスタでSHACHUしか出せない色を打ち出していますが、それが最初の入り口だと思います。そこからそれぞれのスタイリストの情報を見ると思うのですが、みんな明るい。お店に来れば分かりますが、みんな元気に楽しそうに働いています」
取材で訪れた時も、スタッフ全員が本当に明るく楽しそうに働いていたのが印象的だった。
「時々、仕事で他の美容室に行くことがあるのですが、自分のお店のこの環境に慣れているから「暗い!」と思ってしまいます。ここだったら頑張れそうだと思わせる環境はすごく大事だと思いますね。それと、自分たちは美容学生にすごく寄り添います。一人一人個別に相談に乗ります。そうすると、何回でも受けに来てくれたりします」
どんな学生がSHACHUの門をくぐることができるのか?
「うちは、SHACHUっぽいというよりも、美容の中にSHACHUがあるので、美容が好きな学生が強いかもしれないですね。SHACHUがどんなに好きで研究していたとしても、そもそも美容が好きじゃなかったら辞めてしまって意味がないので。ビジュアルがカッコよかったり可愛かったりたりするのも大切ですし、それも才能だと思うのですが、プロになればある程度はなんとかなります。美容の仕事をしていたらカッコよくなれますし、ダイエットしたりしてカッコよくしていなければいけないですし」
あくまで大切なのは美容が好きという気持ち。
「少しコンプレックスがある方が、咲いたときに強いと思います。何が好きという根本は変えられないですので、美容が好きというのは大切です。美容バカというか、美容が大好きという子は取りたいなと思います」
今後の美容業界についても冷静に見極めている。
「今は集客がSNSなので、このままいくと技術力が下がると思います。今は写真の世界過ぎるというか、写真の格好、載せ方だとかに走りすぎています。うちは先駆者だからそこに気づいていますし、そこで差がつくのは絶対的な技術力です」
技術力に確たる自信があるみやちにとって、今の美容業界はチャンスでしかない。
「宝の山だと思っています。例えば、技術力があっても売れてない店がありますが、それはインスタだとか世の中に乗れてないからスポットが当たらないだけです。カットが下手でも、うまくスポットを当てていいように見せるのが今の時代です。10年後、20年後に本当の技術を教えられる人はどのくらいいるのだろうと思ってしまいます」
最後に、みやちにとって美容師とは何かを聞いてみた。
「自分の生き方ですね。自分の生き方そのものです」
今この瞬間も、みやちは秒速で進化し続けている。SHACHU、そして美容業界の未来のために。
日本一の美容師になるために山野美容専門学校に入学したみやち。東京での一人暮らしが始まった。
「友達はたくさんいたのですが、そこで馴れ合うという感じではなかったですね。僕の目的はあくまで日本一の美容師になるということだったので」
学校がない時は、自分の時間をバイトに費やした。
「バイト漬けにした理由は、体力が有り余っていたというのもありますし、美容師は大変な仕事というのを聞いていたので、それを上回ることをしておこうと思ったのが理由ですね。学校が終わって居酒屋でバイトして、そのあとに深夜に派遣の日払いの仕事をしてそのまま学校に行ってみたいな生活でした」
また、美容学生が参加できる面白そうなクリエイティブなショーには積極的に参加した。
「たまたま同じ岐阜のコギソマナという、今では女優なども担当しているスタイリストが東中野に住んでいたので、彼女と切磋琢磨して色々とやっていました。彼女が衣装を担当して、自分がヘアを担当していましたね」
肝心の学校の方はというと、学科では時々眠くなりつつも、実習には全てを賭けていた。
「午前は学科で午後が実習だったのですが、自分は右手と左手を訓練するために美容専門学校にいると思っていたので、実習はガチでサボらずにやっていました」
もともと勉強が得意分野でもあったみやちは、無事に美容師免許を取得し、SHIMAに就職が決まった。
「SHIMAを選んだ理由は、一番ヤバそうだったからです」
常に一番ヤバそうなところに行くのがみやち流なのだ。大人気サロンに入社できた理由をみやちはこう分析する。
「当時はバイト漬けだったので、かなりお金が貯まっていました。今考えると、他の美容学生よりは服のレパートリーが広かったと思います。当時はディオールやマルジェラが流行っていて、そういうのを買うと自分の気持ちも上がるし、分かる人は分かったのではないかと思いますね」
もちろん、ファッションだけで入社できるほどSHIMAは甘くはない。
「その時から思っていたのが、面接とかでも常に思っている事を素直に言うという事です。繕っても意味がないので。面接では、自分の中にある「日本一の美容師になりたい」という思いなどを伝えました。上辺だけの繕った自分ではなくて、自分の本心で勝負しようと思っていました。SHIMAのことをすごく調べるということよりも、自分を磨くという感じでしたね」
難関を突破してSHIMAに入社したみやち 。ついに美容師としての生活がスタートした。
「最初に配属された店が銀座でした。自分が思い描いていたのは原宿だったので、そのギャップはありました。やはり年配のお客様が多かったですし、スタッフも原宿とは違うので。ただ、持ち前のポジティブさでそこはあまり気になりませんでした。銀座は日本一のエリアなので、そこでのノウハウや、実際にそこで起きていることを吸収することは自分の糧になると思っていました」
銀座で働きはじめたものの、みやちの客層は渋谷系だった。実は、みやちには銀座を若くするという野望があった。
「銀座で働いているのに、渋谷109の店員さんだとか、普段銀座に来ないようないわゆるギャルのお客様を呼んでいました」
SHIMAでスタイリストデビューする際、みやちはフリーのお客様は要らないと宣言した。
「お客様は全てモデハンで集めていました。場所はもちろん渋谷や原宿です。SHIMAで9年間働きましたが、新規はトータルで100人も入っていないと思います」
銀座で9年間働いたみやちは29歳で独立し、渋谷にSHACHUをオープンさせた。
「20代のうちから独立することは決めていました。若い時の自分との約束を守ったという感じです」
9年間働いて慣れ親しんだ銀座から離れて渋谷にしたのも意味があった。
「働いていたのは銀座でしたが遊ぶのは渋谷だったので、渋谷のことはよく知っていました。渋谷は道玄坂でもセンター街でも明治通りでも、色が抜けた金髪の女性がたくさんいます。あれを直したいというか、もっと綺麗に染められるのではないかとずっと思っていて。渋谷はカラーのマーケットとしては宝の山に見えました。交通の便もいいし。渋谷をおしゃれにしようと思って渋谷に出店しました」
モデハンで知り合ってからの盟友であるパートナーのMORIYOSHI氏と立ち上げたSHACHUは、最初は3席からのスタートだった。
「僕自身、独立する前の売り上げは50万円でした。そこから、SHACHUをはじめて2年で600万円になりました」
みやちの快進撃がついに幕を開けた。
生まれは岐阜県の土岐市。ユニークな家庭環境で育った。
「祖父が陶芸家でした。父親は東大を卒業した後に、少しだけ陶芸をやりながら塾の講師をしていました。その後、祖父が亡くなった後に工房を改築して塾にしました。母親は薬剤師の免許を取り、薬剤師をしながらピアノ講師をしていましたね。現在はなぜか分からないのですが、法律事務所で働いています」
みやちは2人兄弟。兄がいる。
「兄は岐阜で車関係の仕事をしており、すごく稼いでいます。平家の一軒家を建てて、フェラーリ乗って。岐阜でフェラーリ見ると、「みやちの兄だ!」とすぐにバレてしまいます(笑)」
小学生の時から、今と同様に感覚派だった。
「釣りが好きだったので、釣りばかりしていました。学校が休みの日は朝から釣りに行って、学校がある日は帰ったら釣りに行って・・みたいな。テレビはほとんど見なかったですし、テレビゲームもやりませんでした」
ハマったものは最後までとことんやり切る性格も、当時から変わっていない。
「小学校で絵を描く課題があった時など、学校だと友達とふざけちゃうので自宅で朝まで書いて提出したりしていました。そんな時に限って、賞を取ったりしていました。何かを作るということがすごく好きでしたね」
東大卒で塾を経営している父親だけに、さぞかし勉強させられたのかと思いきや、そうでもなかったようだ。
「勉強しろとはほとんど言われませんでしたね。塾を経営している時点で勉強させるのが仕事なので、それを家庭に持ち込むのが嫌だったのかもしれません」
小学校を卒業したみやちは、地元の公立中学校に入学した。
「中学では野球をやっていました。結構野球が強い中学で、部員が何十人もいました。僕は少年野球とかやっておらず中学校から始めたのですが、すごく負けず嫌いだったので練習して最終的にレギュラーになりました。肩が強くて足が速かったので、外野全般と時々ピッチャーをしていました」
中学を卒業したみやちは、自宅から近い高校に入学した。
「足が速かったので、高校では陸上をやりました。ただ、先輩とうまくいかなくてすぐ辞めてしまいました。それから一時期なににも没頭せず自由に過ごしたのですが、ある意味その時代が一番良かったですね。美容師になるための体力を貯める時間というか・・・」
陸上をやめてからできた自由な時間とそこでの経験が、結果的にその後の人生に大きな影響を及ぼした。
「独りが好きだったので、独りで岐阜から名古屋に遊びに行ったりしていました。名古屋の古着屋の兄ちゃんと仲良くなって色々と音楽を教えてもらったり、小説や美容の本もたくさん読みました。東京も何度か行きました。やることがなさすぎて不安で色々やっていた感じですが、そこで今の自分が固まったと思います」
高2で進路を決める段階で、すでに美容師になることを決めていた。きっかけは、いとこに勧められて行った名古屋の美容室だった。
「画家のいとこがいるのですが、すごいオシャレで、当時は色々と遊びに連れて行ってもらっていました。そのいとこに勧められて、名古屋のラパンセという美容室に髪を切りに行きました。バッサリ短く切ってもらったのですが、自分もこういう風に人の人生や価値観を変えられる仕事をしたいと思いました。
1時間という短い時間で、ワクワク感とドキドキ感と、そのあとの自分がリニューアルされた感じ・・・。これを自分もやりたいなと思うようになりました」
美容師になることを決意した瞬間だった。
「意外と真面目というか、モテたいから美容師になろうとかは一切なくて(笑)。熱い感じでした」
高校の模試では早稲田大学B判定だったみやちにとって、大学に進学するという選択肢もあったが、日本一の美容師になることに決めた。両親は特に反対しなかった。
「母親はピアノ講師をしていただけあって、むしろ昔から美容師を勧められていました」
高校を卒業したみやちは、東京にある山野美容専門学校に入学した。
「日本一の美容師になりたいと高校の時に思った時に、まず一番ヤバそうな学校に入ろうと思い山野に決めました。他の学校ももちろん知っていましたが、山野で一番になれば日本一に近づくのかなと思い決めました」
日本一の美容師になるための、最初の第一歩がスタートした瞬間だった。
ロンドンでの妻の妊娠が判明して日本に帰ってきた原本。しばらくはヘアメイクの仕事をやっていた。
「しばらくフリーでやっていたのですが、3年前に会社(注:スーパーブリー株式会社)を設立しました。きっかけは、自分でまつ毛エクステサロンを経営することになったからです。だったら会社を作ろうかなと思いました」
原本が27歳の時に、初めてまつ毛エクステという存在を知ったある出来事があった。
「ヘアメイクのアシスタントとして、タレントの早見優さんのヘアメイクを担当することになったのですが、ハワイでまつエクをしてきたとのことで、そこで初めてまつエクを見ました。「これはなんだ?」と思ってびっくりしたことを覚えています」
当時の日本には、まつ毛エクステというものはほとんど存在していなかったため、ほとんど見ることはなかった。
「その当時、早見さんはすごい量のまつエクをつけていたのでメイクがしにくかったです。しかし、直感でこれは必ず流行るだろうと思いました。そして、メイクをちゃんとやらないと自分たちの首を締めることになるなと思いました。そこで、もっとマツエクの業界を知っておかなければならないと思い、色々と勉強しました」
現在、原本はまつ毛エクステプロ用商材メーカーである株式会社松風と共に、様々な取り組みをしている。
「まつ毛エクステを突き詰めると、最終的にメイクとマツエクのバランス感という壁に当たりました。今はそこの課題に松風さんと共に取り組んでいます」
経営者としての顔を持ちつつも、ヘアメイクアーティストとして活躍する原本。今の時代にヘアメイクアーティストとして必要とされていることを聞いてみた。
「今の時代はインスタとかが主流で、そこからポンと出てくる人もいます。やはり、自分のセンスや感性を磨くことが大切だと思いますね。それは決してヘアメイクに限ったことではなく、例えば風景であったり家具であったり・・・。自分が気になったものにとりあえず首を突っ込んでみて、そこから得られるもので何か作品を作ったりして、自分なりの何かを確立していくのが良いと思いますね」
自分のやりたいことだけやるのではなく、他人から勧められたこともやった方がいいと原本は言う。
「やりたいことはとりあえずやって欲しいです。そして、人から勧められたことはそれが嫌でもやってみる事が大事です。案外、自分より他人の方が自分を知っていることも多く、自分を振り返ると要所要所で誰かに影響を受けている。これやってみない?っていうことに対して、私は興味ないですって言うよりも、まずはやってみるということも大事だと思う。もしかしたらそこから、何かに繋がる可能性を秘めていると思います」
インスタという話が出たが、かくいう原本自身はSNSが苦手らしい。
「自分があまり得意ではないのであまりアドバイスは言えないが、自分の作品をSNS等に上げていったりするのはいいと思いますね。ヘアならヘア、メイクならメイク、眉毛なら眉毛など、今は部分的に特化している時代です。何かに特化していくとそこから広がっていくことがあるので、そういうのも一つかなと思いますね」
現在の原本は、ヘアメイクアーティストとしての活躍の場を日本から中国に徐々にシフトしている。それには理由がある。
「基本的に、中国人はメイクをしません。文化の中でメイクをするという発想がないのです。する人はもちろんいますが、それは映画やブライダルの世界だけであり一般の人はしません。それを教える人もいないので広がらないのです。中国人では1割位しかメイクをしません。もちろん日本はその逆です。そこを広げて、上げたいですね」
また、原本自身が代表取締役を務めるスーパーブリー株式会社だが、ここは実に色々なことをしている。映像制作、アパレル、アクセサリー、マツエクサロン等、その活動は多岐に渡る。
「なぜ色々な活動をしているかと言うと、ヘアメイクというか、美容業界が他の業界よりも下に見られており、そこを改善したいと思うからです。例えば日本での映像製作でいうと、映画のメインスタッフの中にヘアメイクは入らないことがほとんどです。これが海外だと必ず入るのですが、日本だとなぜか入らないのです」
日本と海外では、残念ながらヘアメイクを含む美容業界の地位に歴然とした差が存在する。
「色々な製作物もそうです。カメラマン、プロデューサー、アートディレクター等がメインでクレジットされ、ヘアメイクは下に見られて表に出ていないことが多いと思います。そう言うところを変えていきたいなとは思いますね。ヘアメイクが作る映像やアパレル、アクセサリー等、色々と仕掛けていきたいと思っています。それが評価されれば、自ずと業界の評価も変わってくると思います」
日本の美容業界の地位向上にも資する重要な挑戦に原本は向き合っている。この壮大な挑戦を、私たちは期待を持って見届けたい。
阪急百貨店を退職した原本は、大阪にあるヘアメイクの専門学校に入学した。
「その学校でヘアメイクを学んで卒業した後、講師をやらないかと誘われたこともあり、その学校でしばらく講師をしていました」
そこで講師を続けているうちに、原本自身に悩みが生じてきた。
「その学校には、東京の情報が何もありませんでした。東京に行ったことがある講師が一人もいなかったのです。その講師が、「東京に行っても何も出来ないよ」と言うのは少し違うのでは?と疑問に思いました。そこで、東京に出ることにしました」
東京に出て来たのは、原本が25歳の時だった。まず原本はヘアメイク事務所が運営している、ヘアメイクのアシスタントのための学校に入学した。
「アシスタントの仕事ってなんだろう?と思ってそこに入ったのですが、色々なことを学ばせてもらいました。卒業後はその事務所に入って色々と仕事をしていました。そこには1年位いましたね」
その後、原本は東京にある山野美容専門学校の通信課程に入学した。
「ヘアメイクは、正直そんなに美容師免許を必要とされてはないのですが、美容師さんとか他の人達と一緒に戦おうとなった場合には美容師免許は必須かなと思ったので、山野に行きました。山野美容専門学校を選んだのは、学費が安かったという点と、有名だったという点ですね。それと、他の学校はスクーリングの期間が3回に分けてあるのが普通でしたが、山野は2回だったので、働いている自分としては好都合でした」
通信課程で3年間勉強をしつつも、原本はヘアメイクの仕事も同時にこなしていた。
「当時はミクシィが流行っていて、まだ紹介制でした。そこは業界人ばかりだったので、そこから作品撮りして仕事につなげるという形でやっていました」
仕事をしながらの通信課程は想像以上にハードだった。結局、美容師免許を取得するのに5年かかった。ずっとフリーランスでやっていた原本は、30歳になっていた。
原本が33歳のとき、もう一度ファッションメイクを学ぶためにイギリスのロンドンに行った。
「ロンドンに行こうと思ったのは、もう一度ファッションを学びたいという思いがきっかけですね。日本ではちゃんとしたファッションメイクを教えてもらえなかったですし、やはり海外を生で感じたかったというのもありますね」
当時の原本にロンドンのツテは全くなかった。
「本当はフランスのパリに行きたかったのですが、いきなりフランス語よりも英語の方がいいと思いロンドンにしました。ロンドンはベースを作るにはすごく良いのではという思いがありました。そこからパリやニューヨークに行くのがいい流れなのかなと」
ロンドンに行くことを決めた原本。文字通り裸一貫の再スタートだった。
「日本の仕事を全部捨てて、ロンドンに移住するつもりで妻と行きました。ビザが半年しか取れなかったので、半年経ったら向こうで更新しようと思っていました」
自分で現地のエージェンシーを探し、ヘアメイクの学校を紹介してもらった。最初の一ヶ月はホームステイをしていた。
「もちろん英語が分からなかったので、言葉は片言でした。複数の英会話の学校に掛け持ちで通っていました。高級車一台分くらいのお金がかかりましたね(笑)」
そんな原本の努力の甲斐もあり、ついには自分でアパートを契約して住むことが出来るくらいにまで英会話が上達した。順調に進んでいたロンドンでの生活。このまま移住し続けるつもりだったが、ここで思わぬ事態が発覚して半年間での日本への帰国を余儀なくされた。なんと、妻が妊娠していることが分かったのだ。
「妻が妊娠していることが分かり、ビザがもともと半年間のものだったので、半年経ってから妻と一緒に帰国しました」
日本に帰ってきてしばらくはヘアメイクの仕事をやっていた原本だったが、ある出来事がきっかけで、何と自分で会社を設立した。
原本の出身は、大阪の豊中市。父親はグラフィックデザイナーだった。母親は専業主婦だったが、祖母が新地でクラブのママをしていた。いわゆる自営業の家庭で育った。
「小学生の頃などは、割とおとなしい方だったかもしれません。姉がいたので、女の子の遊びだったり、絵を書くのが好きだったので、絵画教室にかよってたりもしましたね。ただ、人の上に立つようなリーダー的な役割も好きでした。おとなしいながらも、みんなを引き連れて行くというタイプだったかもしれません」
小学校を卒業した原本は、地元の公立中学校に入学した。
「不良グループから普通の子まで、誰とでも仲良くなれるタイプでした。学年代表とかもしていたので、みんなが知っているというような感じの存在だったと思います」
中学時代はブラスバンド部。サックスを吹いていた。
「姉の影響で、中学校からサックスを始めました。本当は父親がサッカーをしていたのでサッカー部に入ろうと思っていたのですが、あんまり強い学校でもなかったのでブラスバンド部にしました」
ブラスバンドと自転車に熱中した中学生だった。
「中学校の時の思い出は、ブラスバンドと自転車の思い出が強いですね。休みの日の度に、自分のマウンテンバイクでどこかに出掛けていました」
「 当時の百貨店では私服禁止、ヒゲ禁止、7.3分けは当たり前のような時代でした。子供服を担当していたのですが、おもちゃ売り場なのに制服や、スーツで立っていることの違和感、そして、周りを見渡すとファッションを売っているのにダサい制服で立っている、髪型メイクもダサいってところの違和感が嫌で、怒られながらもスーツにスニーカー履いてみたり、髪型もアフロ風にしていってみたり、、、。当然怒られるのですが、じゃあということで坊主にしていったらさらに怒られるという感じでした(笑)」
自分を通していくうちに徐々に認められ仕事が楽しくなっていたが、大企業にいることの限界を感じていた。そして、葛藤の末に退社をした原本は当初、グラフィックデザイナーを目指していたが時代は大不況。
「その当時カリスマ美容師ブームもあったことから、テレビではそういった企画も多くありました。そこで、ヘアメイクという異世界に出会い、専門学校を探し入学しました」
ヘアメイクアーティストへの第一歩を踏み出した瞬間だった。
遠回りという名のチャンス
美容専門学校を卒業し、意中のサロンであった「Of HAIR」に入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。アシスタント2年目に出場したカットコンテストで優勝し、周りを飛び越えてスタイリストにもなった。しかし、意外なところに落とし穴が待っていた。
「スタイリストになってからは全く伸びずというか、苦しかったですね。自分の得意とするクリエイティブと、実際に美容師が現場で求められるスキルが全く違ったので・・・」
売上も上がらず、先輩たちのアドバイスにも耳を傾けなかったオオイケは徐々に孤立していき、負のスパイラルに陥った。
「自分でそれに気付くのに数年、さらにそれを埋めるのに数年かかりましたね。5〜6年は全く伸びず、後輩にも抜かれたりというような時期でした」
自分に自信があったが故に、遠回りしてしまった。
「最終的には自分で気付いたのですが、同じような事を先輩などに言われていたとは思います。ただ、当時は意識がそこにいってなかったので、自分の中に入ってこなかったんだと思います。それよりも、自分はクリエイティブなことをやって・・だとか、先輩より上手いという驕りがありましたね」
当時はまだ売上至上主義を刷り込まれていたオオイケ。その役に立てば良いと思い参加したセミナーが、のちの自分に大きな影響を及ぼした。
「当時は美容師以外の人に興味を持ち始めて、様々なセミナーなどに顔を出しました。今思えば、完全に情報商材系のセミナーだったのですが・・(笑)。当時はまだ美容師さんがやっていなかったメルマガの発信の仕方など、色々なセミナーや個人コンサルを受けたりしました。いいカモだっと思います(笑)。自分を変えたいということよりも、単純に興味があったので参加してましたね」
退社
そこでの経験を経て、美容師以外の人との繋がりや、同じ美容師との横の繋がりができた。それは、オオイケに次のステージに行く決心をさせるには十分なものだった。ついに、9年間働いた「Of HAIR」を退職した。
「辞める時には、フリーでやる事を決めていました。もともと心配しないタイプですし、不安は一切なかったですね。奥さんにも事後報告でした。怒られましたが(笑)」
その後、先輩のサロンを間借りをして働いていたオオイケだったが、面貸しサロンを探しているときにお試しで利用したサロンが殺伐とした雰囲気で、居心地が良くなかったという経験をした。そこでの経験が、その後に立ち上げたサロン作りの際に大いに役立った。
「2015年の末に「Of HAIR」を退社して、2016年1月から知り合いの代官山のサロンの1席を借りて美容師をしていました。その後、古木さん(※LiME株式会社CEO 古木数馬氏)にシェアサロンの構想を聞き面白そうだなと思い、やるならまずはコミュニティが大事だという事になりました。そこで、GO TODAYという美容師さんが繋がるオンラインサロンを古木さんと二人で立ち上げました。今は500人以上の会員がいます」
シェアサロンと面貸しサロンは、根本的な部分で大きく異なる。
「コミュニティというソフトの部分があるかどうかが違います。自分が面貸しサロンを探していたときは、コミュニティというものが存在しなかったのですごく居づらかった記憶があります。シェアサロンでは情報交換もするし、お客様を紹介したりシェアしたりもします」
情報発信に対する誤解
SNS等の情報発信に関して聞いてみた。
「大体の方が根本的な間違いを犯していると思います。「インスタグラムやったほうがいいですか?」「ツイッターはどうことを呟けばいいですか?」「ブログは何を書けばいいですか?」とよく聞かれますが、皆さん手段から決めようとしています。それだと、目的地を決めていないのに、電車で行くかバスで行くか歩いていくかを決めようとしているのと同じです」
確かに、手段に目がいくあまり目的については考えることを忘れがちだ。
「そもそも何がしたいのか?どこへ行きたいのか?を決めた上で、それに対して何をしたらよいと初めて言えます。まずは目的地を決めないとダメです」
目的地を決めるに際しても、コツが必要だという。
「目的地というのは、決して自分のやりたいことではないので、自分一人では分かりません。人と会って、相対的に見ることが大切です。人と会って自分を知って、そこから自分はどこに行きたいのかを決めればいいのです。そのために何をするか、そこで初めてインスグラムやツイッターやブログが出てきます。そこがないのに、いきなり何をするかを決めようとしても答えは出ません」
ビジョン
2017年11月にシェアサロン「GO TODAY SHAiRE SALON」を設立した。
「今が一番大変ですが、ビジョンが明確というか、やりたい世界がありますしそれを一緒に実現する仲間もいます。自分がやりたいことが大きな影響力を持って、業界を変えることができると本気で思っているのでやりがいはありますね」
ビジョンがあることがいかに幸せなことかを、オオイケは身を持って体験している。
「大学生の時や勤めている時にはビジョンがなかったので、ある意味で一番辛かったです。個人でやりたいことはいつでもできるので、今の自分の知識と体力と経験と、今いる仲間としかできない、今の時代でしかできないことをやりたいですね」
今が一番大変だが、ビジョンに向かって歩みを止めることはない。
「それこそ最近はメディアの方に取材をしてもらったり、美容師さんに相談されることも増えたのですが、自分は大したことない人間なのでそれをむしろ共有したいです。すごい人などいないですし、自分のことをよく知って、目的地を決めたらそれに向かって一生懸命にやれば誰でも活躍できるのではないかと思います」
完
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)リーダー
大学を1年で中退し、1年間フリーターを経験したオオイケだったが、ついに新たなる目標を見つけた。それは、美容師になる事だった。実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。大学とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。
「大学生の時はフワフワしていた感じだったのですが、専門学校に入学して自分にスイッチが入った感じでした。他の生徒よりは2学年上になるので、ちゃんとしなければというか、責任感が芽生えましたね。入学初日も2時間早く学校に行ってしまい、40人くらいのクラスだったのですが一人一人に挨拶をしていました。いまだに同級生にそれは笑われますが、当時はすごく気負っていたのかもしれません」
回り道をした経験と、他の生徒より年上なので見本とならなければならないという責任感が、オオイケの意識を変えていった。
「美容専門学校は大学と異なり皆勤賞でした。自分の性に合っていたというか・・・。コンテストなどにも最初から積極的に参加して結果も出していたので、美容専門学校での2年間はこれまでとは世界が変わってすごく充実して楽しかったです。友達もたくさんできましたし。当時のあだ名が「リーダー」でしたから(笑)」
いよいよ自分の将来を考える時に、サロンに就職するか美容専門学校の講師になるかで悩んだ。
「美容専門学校の印象は自分の中でかなりポジティブでした。加えて、人に教えるのも好きだったので、このまま講師になるのもいいなと思っていました。当時の担任の先生に相談しても、「すごく合ってると思うよ」とすごく勧めてくれましたので」
「Of HAIR」
悩んだ結果、サロンに就職することにした。
「このまま美容専門学校を卒業して講師になるということは、美容師経験がないということになるので、それもちょっと違うかなと思って。美容専門学校の講師はいつでもなれるなと思い、外に出ようということでサロンに就職することにしました」
働きたいサロンはすでに決まっていた。
「自分は直感を重視するタイプなのですが、当時学校にセミナーというか課外授業のような形で、「Of HAIR」の社長と従業員の方が来てデモンストレーションをしてくれたことがありました。それを見て、すごく面白いサロンだなと思ったことがきっかけですね」
「Of HAIR」の他とは違う雰囲気が、オオイケを魅了した。
「いわゆる原宿や青山のようなキラキラしているサロンとは異なって、研究者っぽいというかオタクっぽいというか。マニアックな要素があってすごく好感が持てたというか。自分は原宿や青山でイケてるというようなタイプでもなかったので。オタクっぽいのに一等地にサロンがあるし、名が知れている美容室だったので学生の時から興味がありました。それで学生の時にサロンが出している「伝・DEN」という本を買ったりしていました」
就職活動の際に「Of HAIR」以外のサロンは受けなかったものの、見事に入社試験に合格。美容師としての新たな生活が始まった。
社会人生活のスタート
美容専門学校を卒業し、意中のサロンに入社したオオイケ。ついに美容師としての社会人生活がスタートした。
「社会人になると、理想と現実とのギャップに参ってしまう人もいるかもしれませんが、自分の場合はそんなに理想を持っていなかったですし、事前に情報も入っていたので、想像の範囲内でしたね。もちろん落ち込んだりとかはありましたが、それで辞めようとかはなくて、逆に早く活躍してこの場から抜け出したいなというハングリーな感じでした」
美容専門学生時代から得意だったクリエイティブな長所が、意外なところで自分の身を助けてくれた。
「普通のサロンならばアシスタントのうちはシャンプーやカットの練習が優先で、コンテストなんか出ている暇はないだろうという感じだと思うのですが、「Of HAIR」の社長はそういうところに寛容な方でした。なので、アシスタント2年目の時にカットコンテストに出たところ、優勝することができました」
カットコンテストの優勝を契機に、最速でスタイリストになることができた。
「クリエイティブなことを評価してくれる会社だったので、飛び級で社長のアシスタントになり、その後に先輩や同期よりも早くスタイリストになれました。そこまでは、自分の得意分野であるクリエイティブな側面を活かすことが出来て、トントン拍子で行きましたね」
スムーズにスタイリストになったオオイケだったが、意外なところに落とし穴が待っていた。
続く
従来の面貸しサロンの概念を覆し、フリーランス美容師の新しい働き方を実現させている「GO TODAY SHAiRE SALON」。そんな革新的なサロンの立ち上げから携わる、オオイケモトキの過去・現在・未来に迫る。(敬称略)平凡だった学生時代
生まれは八王子。父親はサラリーマンで母親は専業主婦という、ごく普通の家庭環境で育った。小学生の時に始めたサッカーに、自然とのめり込んでいった。
「テレビゲームなどもほとんどやらなかったですね。八王子は田舎なので、虫を捕っているかサッカーをやっているかのどちらかでした。サッカーはすごく強いチームや学校でやっていたというわけではなくて、人並みにJリーグブームに乗っかってやっていたという感じです。ポジションはボランチでした。可もなく不可もないポジションです(笑)」
中学生になってもサッカー部に入り、サッカーを続けた。
「これといって悪いこともなかったですし、かといって勉強が出来るわけでもなく、平凡に部活のサッカーをやっていた感じです。生活パターンはサッカー中心でした」
中学校を卒業したオオイケは、自宅から通える高校に入学した。
「中学校の時にサッカーでの自分の限界を知ったので、サッカーの強豪校に行こうとかの選択肢はなかったです。普通の高校に入学しました」
そこでギターと出会い、バンドにのめり込んだ。
「当時は、19(ジューク)やゆずのようなアコースティックギターのバンドが流行っていたので、ギターを買って先輩に教わって。バンドやりたいなと思ったので、バンドを組んで学園祭で演奏したりとかしていましたね。本当に軟派な高校生活でした(笑)」
バンドを組んで音楽にのめり込んでいたオオイケだったが、プロになろうとは思わなかった。
「サッカーもそうなのですが、比較的最初は器用にできてしまうのです。器用貧乏というか・・・。そこからハングリーにガツガツ行くタイプではなくて、最初にコツを掴んで、まあいいかとなるタイプです」
大学中退
高校2年になり、進路を決めなくてはならない時期に差し掛かった。
「何かやりたいこととかがあれば、それこそ専門学校や美容学校に行ったりだとかという選択肢があったとは思うのですが・・・。なんとなく生きてきたので、その延長線上に大学があったので大学に進学したという感じですね。大学に行って、4年間の中で何かやりたいことが見つかればいいかなという感じで決めました」
理系が得意だったオオイケは、自宅から通える理系の大学に進学した。
「そこで初めて挫折をしたというか・・・。今まで自分の意思が何もなく生きてきて、友達もなかなか出来なくて生活もつまらなくて。勉強もそんなに出来る方ではなかったので、授業に付いていけなかったですし。なんとなくフワフワとそれまでビジョンもなく来てしまったのですが、いよいよどうにもいかなくなってきたというのを実感し初めて。もう辞めたいなと、入学して一週間位で思ってしまいました」
両親に相談したが、もちろん認めてはくれなかった。
「当時、父親は単身赴任で違うところに住んでいたので母親と兄弟に話したのですが、理系だし高いお金払っているのだからとりあえず1年は通ってみなさいということで、1年間通うことにしました」
1年間は大学に通う約束をしたことで、授業をサボりつつも大学に通った。
「何か他にやりたいことがあるわけでもなかったので、地元の友達と遊びつつ、面白くないけど学校に行ってという毎日でした。自分でこうして話していると、自分はなんてダメな人間だったのだと改めて思いますね(笑)」
結局、大学に1年通った後に中退した。
「自分がいいなと思ったことはすぐやるのですが、その反対に自分がダメだと思ったら周りに何を言われようが絶対に曲げないタイプでして・・・。両親は納得していなかったと思うのですが、「こいつは言うこと聞かないからだめだ」と最終的には諦めたのだと思います」
フリーターから美容師に
ついにオオイケは大学生からフリーターになった。
「今思えば19歳や20歳なら別にフワフワしていてもいいと思うのですが、当時は焦っていましたね。当時、自分の周りは全て何らかの学校に行っていて、バイトしかしていないのは自分だけだったので、物凄い不安に駆られました。バイトを掛け持ちでやりながら過ごしていましたが、何かやらなければという不安が常にありました。ある意味、ニートですから」
結局、1年間フリーターをやった。そして、ついに次なる進むべき道を見つけた。美容師になる事だった。
「月並みなイメージですが、おしゃれだしカッコいいしということで以前から興味はありました。実は、偶然にも高校時代の彼女が美容専門学校に通っていて、大学の時に彼女から色々と話を聞いていました」
高校時代の彼女の話をキッカケに、徐々に美容師への関心が強まっていった。
「自分はビジョンがないままフワフワと大学行っているだけでしたが、彼女の話を聞いているとみんなすごく一生懸命やっているんだなと分かりました。学んでいる内容も、自分が高校や大学で学んだ事ではなくて、全く新しい世界の話だったので面白そうだなと思っていました」
実家から通い易かった事もあり、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。
「彼女がそこに通っていたと言う事もありましたし、実際に彼女がまだ在学中だった時に体験入学にも行きました。彼女は嫌がっていましたが(笑)」
大学生からフリーターになり、ついには美容専門学生になった。
続く
業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立からやく4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)ファミリー
29歳で渋谷に立ち上げたSHACHU。最初は3席からのスタートだったが、徐々に軌道に乗り始め、ついに誰もが知る美容室になった。当然、良いことばかりではない。これまで味わったことのない悩みにも直面した。
「スタッフが増えて店舗も増えていくと、当然環境が変化します。そのときに、スタッフ全員に大満足して欲しいのはもちろんですが、そういかない時もあります。スタッフのことを考えると、胸が痛くなります。自分が雇われていた頃にはなかった悩みです」
SHACHUのインスタグラムを見れば一目瞭然だが、SHACHUはスタッフ全員の仲がすごくいい。毎年、退職者もほとんどいない。
「うちには心強いスタッフしかいないです。俺が俺がという感じではなく、みんなで登っていくというか、家族みたいな感じです。飲みに誘ってもだいたいみんな来ますし、断られたことはあまりないですね。実家に泊まりで遊びに来たスタッフもいますし(笑)」
SNS
みやちといえば、美容業界でのインスタグラムの先駆者だ。みやち本人のインスタのフォロワーは7万人を超え、SHACHUのオフィシャルアカウントのフォロワーは10万人を超えている。みやちがインスタグラムに目をつけたのは、まだインスタ黎明期の頃だった。
「インスタの前にブログが流行っていて、その後にYouTubeとインスタが来たのですが、YouTubeだと情報が多すぎると思いました。それに比べて、インスタはわかりやすいのに最短で情報が取れるのでいいなと思いました。自分のサロンワークのルーティンと広告の打ち出しをくっつけたかったのですが、それにはインスタがぴったりでした」
そこには当然、みやちなりの戦略があった。
「みんな後ろ姿の写真が見たいのではないか?と思いました。正面からの写真だと、顔が邪魔で髪の色がよく見えません。モデルさんの正面からの写真が可愛いのは当たり前で、みんなはむしろ一般人の後ろ姿の写真を見たいのではないかと考えました」
その戦略はズバリ的中した。みやちのインスタは業界で話題になり、他の美容室もそれに追随するようになった。
「他の美容室がすごい真似してきたのですが、それは嬉しかったですね。競争意識が芽生えて、逆に自分も燃えましたし。いい意味で美容業界が盛り上がったから、よかったと思っています」
SHACHUが人気の秘密
いま全国の美容学生に一番人気がある美容室といっても過言ではないSHACHUだが、その理由を聞いてみた。
「新しい形なのかなと思いますね。インスタでSHACHUしか出せない色を打ち出していますが、それが最初の入り口だと思います。そこからそれぞれのスタイリストの情報を見ると思うのですが、みんな明るい。お店に来れば分かりますが、みんな元気に楽しそうに働いています」
取材で訪れた時も、スタッフ全員が本当に明るく楽しそうに働いていたのが印象的だった。
「時々、仕事で他の美容室に行くことがあるのですが、自分のお店のこの環境に慣れているから「暗い!」と思ってしまいます。ここだったら頑張れそうだと思わせる環境はすごく大事だと思いますね。それと、自分たちは美容学生にすごく寄り添います。一人一人個別に相談に乗ります。そうすると、何回でも受けに来てくれたりします」
どんな学生がSHACHUの門をくぐることができるのか?
「うちは、SHACHUっぽいというよりも、美容の中にSHACHUがあるので、美容が好きな学生が強いかもしれないですね。SHACHUがどんなに好きで研究していたとしても、そもそも美容が好きじゃなかったら辞めてしまって意味がないので。ビジュアルがカッコよかったり可愛かったりたりするのも大切ですし、それも才能だと思うのですが、プロになればある程度はなんとかなります。美容の仕事をしていたらカッコよくなれますし、ダイエットしたりしてカッコよくしていなければいけないですし」
あくまで大切なのは美容が好きという気持ち。
「少しコンプレックスがある方が、咲いたときに強いと思います。何が好きという根本は変えられないですので、美容が好きというのは大切です。美容バカというか、美容が大好きという子は取りたいなと思います」
今後の美容業界についても冷静に見極めている。
「今は集客がSNSなので、このままいくと技術力が下がると思います。今は写真の世界過ぎるというか、写真の格好、載せ方だとかに走りすぎています。うちは先駆者だからそこに気づいていますし、そこで差がつくのは絶対的な技術力です」
技術力に確たる自信があるみやちにとって、今の美容業界はチャンスでしかない。
「宝の山だと思っています。例えば、技術力があっても売れてない店がありますが、それはインスタだとか世の中に乗れてないからスポットが当たらないだけです。カットが下手でも、うまくスポットを当てていいように見せるのが今の時代です。10年後、20年後に本当の技術を教えられる人はどのくらいいるのだろうと思ってしまいます」
最後に、みやちにとって美容師とは何かを聞いてみた。
「自分の生き方ですね。自分の生き方そのものです」
今この瞬間も、みやちは秒速で進化し続けている。SHACHU、そして美容業界の未来のために。
完
業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立からやく4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)バイト漬けの日々
日本一の美容師になるために山野美容専門学校に入学したみやち。東京での一人暮らしが始まった。
「友達はたくさんいたのですが、そこで馴れ合うという感じではなかったですね。僕の目的はあくまで日本一の美容師になるということだったので」
学校がない時は、自分の時間をバイトに費やした。
「バイト漬けにした理由は、体力が有り余っていたというのもありますし、美容師は大変な仕事というのを聞いていたので、それを上回ることをしておこうと思ったのが理由ですね。学校が終わって居酒屋でバイトして、そのあとに深夜に派遣の日払いの仕事をしてそのまま学校に行ってみたいな生活でした」
また、美容学生が参加できる面白そうなクリエイティブなショーには積極的に参加した。
「たまたま同じ岐阜のコギソマナという、今では女優なども担当しているスタイリストが東中野に住んでいたので、彼女と切磋琢磨して色々とやっていました。彼女が衣装を担当して、自分がヘアを担当していましたね」
肝心の学校の方はというと、学科では時々眠くなりつつも、実習には全てを賭けていた。
「午前は学科で午後が実習だったのですが、自分は右手と左手を訓練するために美容専門学校にいると思っていたので、実習はガチでサボらずにやっていました」
SHIMA
もともと勉強が得意分野でもあったみやちは、無事に美容師免許を取得し、SHIMAに就職が決まった。
「SHIMAを選んだ理由は、一番ヤバそうだったからです」
常に一番ヤバそうなところに行くのがみやち流なのだ。大人気サロンに入社できた理由をみやちはこう分析する。
「当時はバイト漬けだったので、かなりお金が貯まっていました。今考えると、他の美容学生よりは服のレパートリーが広かったと思います。当時はディオールやマルジェラが流行っていて、そういうのを買うと自分の気持ちも上がるし、分かる人は分かったのではないかと思いますね」
もちろん、ファッションだけで入社できるほどSHIMAは甘くはない。
「その時から思っていたのが、面接とかでも常に思っている事を素直に言うという事です。繕っても意味がないので。面接では、自分の中にある「日本一の美容師になりたい」という思いなどを伝えました。上辺だけの繕った自分ではなくて、自分の本心で勝負しようと思っていました。SHIMAのことをすごく調べるということよりも、自分を磨くという感じでしたね」
難関を突破してSHIMAに入社したみやち 。ついに美容師としての生活がスタートした。
「最初に配属された店が銀座でした。自分が思い描いていたのは原宿だったので、そのギャップはありました。やはり年配のお客様が多かったですし、スタッフも原宿とは違うので。ただ、持ち前のポジティブさでそこはあまり気になりませんでした。銀座は日本一のエリアなので、そこでのノウハウや、実際にそこで起きていることを吸収することは自分の糧になると思っていました」
SHACHU
銀座で働きはじめたものの、みやちの客層は渋谷系だった。実は、みやちには銀座を若くするという野望があった。
「銀座で働いているのに、渋谷109の店員さんだとか、普段銀座に来ないようないわゆるギャルのお客様を呼んでいました」
SHIMAでスタイリストデビューする際、みやちはフリーのお客様は要らないと宣言した。
「お客様は全てモデハンで集めていました。場所はもちろん渋谷や原宿です。SHIMAで9年間働きましたが、新規はトータルで100人も入っていないと思います」
銀座で9年間働いたみやちは29歳で独立し、渋谷にSHACHUをオープンさせた。
「20代のうちから独立することは決めていました。若い時の自分との約束を守ったという感じです」
9年間働いて慣れ親しんだ銀座から離れて渋谷にしたのも意味があった。
「働いていたのは銀座でしたが遊ぶのは渋谷だったので、渋谷のことはよく知っていました。渋谷は道玄坂でもセンター街でも明治通りでも、色が抜けた金髪の女性がたくさんいます。あれを直したいというか、もっと綺麗に染められるのではないかとずっと思っていて。渋谷はカラーのマーケットとしては宝の山に見えました。交通の便もいいし。渋谷をおしゃれにしようと思って渋谷に出店しました」
モデハンで知り合ってからの盟友であるパートナーのMORIYOSHI氏と立ち上げたSHACHUは、最初は3席からのスタートだった。
「僕自身、独立する前の売り上げは50万円でした。そこから、SHACHUをはじめて2年で600万円になりました」
みやちの快進撃がついに幕を開けた。
続く
業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立から約4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)特異な家庭環境
生まれは岐阜県の土岐市。ユニークな家庭環境で育った。
「祖父が陶芸家でした。父親は東大を卒業した後に、少しだけ陶芸をやりながら塾の講師をしていました。その後、祖父が亡くなった後に工房を改築して塾にしました。母親は薬剤師の免許を取り、薬剤師をしながらピアノ講師をしていましたね。現在はなぜか分からないのですが、法律事務所で働いています」
みやちは2人兄弟。兄がいる。
「兄は岐阜で車関係の仕事をしており、すごく稼いでいます。平家の一軒家を建てて、フェラーリ乗って。岐阜でフェラーリ見ると、「みやちの兄だ!」とすぐにバレてしまいます(笑)」
小学生の時から、今と同様に感覚派だった。
「釣りが好きだったので、釣りばかりしていました。学校が休みの日は朝から釣りに行って、学校がある日は帰ったら釣りに行って・・みたいな。テレビはほとんど見なかったですし、テレビゲームもやりませんでした」
ハマったものは最後までとことんやり切る性格も、当時から変わっていない。
「小学校で絵を描く課題があった時など、学校だと友達とふざけちゃうので自宅で朝まで書いて提出したりしていました。そんな時に限って、賞を取ったりしていました。何かを作るということがすごく好きでしたね」
栄光と挫折
東大卒で塾を経営している父親だけに、さぞかし勉強させられたのかと思いきや、そうでもなかったようだ。
「勉強しろとはほとんど言われませんでしたね。塾を経営している時点で勉強させるのが仕事なので、それを家庭に持ち込むのが嫌だったのかもしれません」
小学校を卒業したみやちは、地元の公立中学校に入学した。
「中学では野球をやっていました。結構野球が強い中学で、部員が何十人もいました。僕は少年野球とかやっておらず中学校から始めたのですが、すごく負けず嫌いだったので練習して最終的にレギュラーになりました。肩が強くて足が速かったので、外野全般と時々ピッチャーをしていました」
中学を卒業したみやちは、自宅から近い高校に入学した。
「足が速かったので、高校では陸上をやりました。ただ、先輩とうまくいかなくてすぐ辞めてしまいました。それから一時期なににも没頭せず自由に過ごしたのですが、ある意味その時代が一番良かったですね。美容師になるための体力を貯める時間というか・・・」
陸上をやめてからできた自由な時間とそこでの経験が、結果的にその後の人生に大きな影響を及ぼした。
「独りが好きだったので、独りで岐阜から名古屋に遊びに行ったりしていました。名古屋の古着屋の兄ちゃんと仲良くなって色々と音楽を教えてもらったり、小説や美容の本もたくさん読みました。東京も何度か行きました。やることがなさすぎて不安で色々やっていた感じですが、そこで今の自分が固まったと思います」
美容師との出会い
高2で進路を決める段階で、すでに美容師になることを決めていた。きっかけは、いとこに勧められて行った名古屋の美容室だった。
「画家のいとこがいるのですが、すごいオシャレで、当時は色々と遊びに連れて行ってもらっていました。そのいとこに勧められて、名古屋のラパンセという美容室に髪を切りに行きました。バッサリ短く切ってもらったのですが、自分もこういう風に人の人生や価値観を変えられる仕事をしたいと思いました。
1時間という短い時間で、ワクワク感とドキドキ感と、そのあとの自分がリニューアルされた感じ・・・。これを自分もやりたいなと思うようになりました」
美容師になることを決意した瞬間だった。
「意外と真面目というか、モテたいから美容師になろうとかは一切なくて(笑)。熱い感じでした」
高校の模試では早稲田大学B判定だったみやちにとって、大学に進学するという選択肢もあったが、日本一の美容師になることに決めた。両親は特に反対しなかった。
「母親はピアノ講師をしていただけあって、むしろ昔から美容師を勧められていました」
高校を卒業したみやちは、東京にある山野美容専門学校に入学した。
「日本一の美容師になりたいと高校の時に思った時に、まず一番ヤバそうな学校に入ろうと思い山野に決めました。他の学校ももちろん知っていましたが、山野で一番になれば日本一に近づくのかなと思い決めました」
日本一の美容師になるための、最初の第一歩がスタートした瞬間だった。
続く
ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)まつ毛エクステとの出会い
ロンドンでの妻の妊娠が判明して日本に帰ってきた原本。しばらくはヘアメイクの仕事をやっていた。
「しばらくフリーでやっていたのですが、3年前に会社(注:スーパーブリー株式会社)を設立しました。きっかけは、自分でまつ毛エクステサロンを経営することになったからです。だったら会社を作ろうかなと思いました」
原本が27歳の時に、初めてまつ毛エクステという存在を知ったある出来事があった。
「ヘアメイクのアシスタントとして、タレントの早見優さんのヘアメイクを担当することになったのですが、ハワイでまつエクをしてきたとのことで、そこで初めてまつエクを見ました。「これはなんだ?」と思ってびっくりしたことを覚えています」
当時の日本には、まつ毛エクステというものはほとんど存在していなかったため、ほとんど見ることはなかった。
「その当時、早見さんはすごい量のまつエクをつけていたのでメイクがしにくかったです。しかし、直感でこれは必ず流行るだろうと思いました。そして、メイクをちゃんとやらないと自分たちの首を締めることになるなと思いました。そこで、もっとマツエクの業界を知っておかなければならないと思い、色々と勉強しました」
現在、原本はまつ毛エクステプロ用商材メーカーである株式会社松風と共に、様々な取り組みをしている。
「まつ毛エクステを突き詰めると、最終的にメイクとマツエクのバランス感という壁に当たりました。今はそこの課題に松風さんと共に取り組んでいます」
ヘアメイクアーティストに必要な事とは
経営者としての顔を持ちつつも、ヘアメイクアーティストとして活躍する原本。今の時代にヘアメイクアーティストとして必要とされていることを聞いてみた。
「今の時代はインスタとかが主流で、そこからポンと出てくる人もいます。やはり、自分のセンスや感性を磨くことが大切だと思いますね。それは決してヘアメイクに限ったことではなく、例えば風景であったり家具であったり・・・。自分が気になったものにとりあえず首を突っ込んでみて、そこから得られるもので何か作品を作ったりして、自分なりの何かを確立していくのが良いと思いますね」
自分のやりたいことだけやるのではなく、他人から勧められたこともやった方がいいと原本は言う。
「やりたいことはとりあえずやって欲しいです。そして、人から勧められたことはそれが嫌でもやってみる事が大事です。案外、自分より他人の方が自分を知っていることも多く、自分を振り返ると要所要所で誰かに影響を受けている。これやってみない?っていうことに対して、私は興味ないですって言うよりも、まずはやってみるということも大事だと思う。もしかしたらそこから、何かに繋がる可能性を秘めていると思います」
インスタという話が出たが、かくいう原本自身はSNSが苦手らしい。
「自分があまり得意ではないのであまりアドバイスは言えないが、自分の作品をSNS等に上げていったりするのはいいと思いますね。ヘアならヘア、メイクならメイク、眉毛なら眉毛など、今は部分的に特化している時代です。何かに特化していくとそこから広がっていくことがあるので、そういうのも一つかなと思いますね」
業界の地位向上のために
現在の原本は、ヘアメイクアーティストとしての活躍の場を日本から中国に徐々にシフトしている。それには理由がある。
「基本的に、中国人はメイクをしません。文化の中でメイクをするという発想がないのです。する人はもちろんいますが、それは映画やブライダルの世界だけであり一般の人はしません。それを教える人もいないので広がらないのです。中国人では1割位しかメイクをしません。もちろん日本はその逆です。そこを広げて、上げたいですね」
また、原本自身が代表取締役を務めるスーパーブリー株式会社だが、ここは実に色々なことをしている。映像制作、アパレル、アクセサリー、マツエクサロン等、その活動は多岐に渡る。
「なぜ色々な活動をしているかと言うと、ヘアメイクというか、美容業界が他の業界よりも下に見られており、そこを改善したいと思うからです。例えば日本での映像製作でいうと、映画のメインスタッフの中にヘアメイクは入らないことがほとんどです。これが海外だと必ず入るのですが、日本だとなぜか入らないのです」
日本と海外では、残念ながらヘアメイクを含む美容業界の地位に歴然とした差が存在する。
「色々な製作物もそうです。カメラマン、プロデューサー、アートディレクター等がメインでクレジットされ、ヘアメイクは下に見られて表に出ていないことが多いと思います。そう言うところを変えていきたいなとは思いますね。ヘアメイクが作る映像やアパレル、アクセサリー等、色々と仕掛けていきたいと思っています。それが評価されれば、自ずと業界の評価も変わってくると思います」
日本の美容業界の地位向上にも資する重要な挑戦に原本は向き合っている。この壮大な挑戦を、私たちは期待を持って見届けたい。
完
ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)ヘアメイクとの出会い
阪急百貨店を退職した原本は、大阪にあるヘアメイクの専門学校に入学した。
「その学校でヘアメイクを学んで卒業した後、講師をやらないかと誘われたこともあり、その学校でしばらく講師をしていました」
そこで講師を続けているうちに、原本自身に悩みが生じてきた。
「その学校には、東京の情報が何もありませんでした。東京に行ったことがある講師が一人もいなかったのです。その講師が、「東京に行っても何も出来ないよ」と言うのは少し違うのでは?と疑問に思いました。そこで、東京に出ることにしました」
東京に出て来たのは、原本が25歳の時だった。まず原本はヘアメイク事務所が運営している、ヘアメイクのアシスタントのための学校に入学した。
「アシスタントの仕事ってなんだろう?と思ってそこに入ったのですが、色々なことを学ばせてもらいました。卒業後はその事務所に入って色々と仕事をしていました。そこには1年位いましたね」
その後、原本は東京にある山野美容専門学校の通信課程に入学した。
「ヘアメイクは、正直そんなに美容師免許を必要とされてはないのですが、美容師さんとか他の人達と一緒に戦おうとなった場合には美容師免許は必須かなと思ったので、山野に行きました。山野美容専門学校を選んだのは、学費が安かったという点と、有名だったという点ですね。それと、他の学校はスクーリングの期間が3回に分けてあるのが普通でしたが、山野は2回だったので、働いている自分としては好都合でした」
通信課程で3年間勉強をしつつも、原本はヘアメイクの仕事も同時にこなしていた。
「当時はミクシィが流行っていて、まだ紹介制でした。そこは業界人ばかりだったので、そこから作品撮りして仕事につなげるという形でやっていました」
仕事をしながらの通信課程は想像以上にハードだった。結局、美容師免許を取得するのに5年かかった。ずっとフリーランスでやっていた原本は、30歳になっていた。
イギリスへ
原本が33歳のとき、もう一度ファッションメイクを学ぶためにイギリスのロンドンに行った。
「ロンドンに行こうと思ったのは、もう一度ファッションを学びたいという思いがきっかけですね。日本ではちゃんとしたファッションメイクを教えてもらえなかったですし、やはり海外を生で感じたかったというのもありますね」
当時の原本にロンドンのツテは全くなかった。
「本当はフランスのパリに行きたかったのですが、いきなりフランス語よりも英語の方がいいと思いロンドンにしました。ロンドンはベースを作るにはすごく良いのではという思いがありました。そこからパリやニューヨークに行くのがいい流れなのかなと」
ロンドンに行くことを決めた原本。文字通り裸一貫の再スタートだった。
「日本の仕事を全部捨てて、ロンドンに移住するつもりで妻と行きました。ビザが半年しか取れなかったので、半年経ったら向こうで更新しようと思っていました」
予期せぬ事態
自分で現地のエージェンシーを探し、ヘアメイクの学校を紹介してもらった。最初の一ヶ月はホームステイをしていた。
「もちろん英語が分からなかったので、言葉は片言でした。複数の英会話の学校に掛け持ちで通っていました。高級車一台分くらいのお金がかかりましたね(笑)」
そんな原本の努力の甲斐もあり、ついには自分でアパートを契約して住むことが出来るくらいにまで英会話が上達した。順調に進んでいたロンドンでの生活。このまま移住し続けるつもりだったが、ここで思わぬ事態が発覚して半年間での日本への帰国を余儀なくされた。なんと、妻が妊娠していることが分かったのだ。
「妻が妊娠していることが分かり、ビザがもともと半年間のものだったので、半年経ってから妻と一緒に帰国しました」
日本に帰ってきてしばらくはヘアメイクの仕事をやっていた原本だったが、ある出来事がきっかけで、何と自分で会社を設立した。
続く
ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)ブラスバンド
原本の出身は、大阪の豊中市。父親はグラフィックデザイナーだった。母親は専業主婦だったが、祖母が新地でクラブのママをしていた。いわゆる自営業の家庭で育った。
「小学生の頃などは、割とおとなしい方だったかもしれません。姉がいたので、女の子の遊びだったり、絵を書くのが好きだったので、絵画教室にかよってたりもしましたね。ただ、人の上に立つようなリーダー的な役割も好きでした。おとなしいながらも、みんなを引き連れて行くというタイプだったかもしれません」
小学校を卒業した原本は、地元の公立中学校に入学した。
「不良グループから普通の子まで、誰とでも仲良くなれるタイプでした。学年代表とかもしていたので、みんなが知っているというような感じの存在だったと思います」
中学時代はブラスバンド部。サックスを吹いていた。
「姉の影響で、中学校からサックスを始めました。本当は父親がサッカーをしていたのでサッカー部に入ろうと思っていたのですが、あんまり強い学校でもなかったのでブラスバンド部にしました」
ブラスバンドと自転車に熱中した中学生だった。
「中学校の時の思い出は、ブラスバンドと自転車の思い出が強いですね。休みの日の度に、自分のマウンテンバイクでどこかに出掛けていました」
特殊な高校
中学を卒業した原本は、高校に進学した。
「高校はブラスバンドの強豪校に入学しました。中学校の先輩がその高校に行ってて、誘われたので入学しました。実を言うと、通常の高校入試は2月や3月にあると思うのですが、その高校は試験が1月だったので滑り止めのつもりで受けたら合格していました」
原本が入学した高校は、阪急百貨店が母体の男子高だった。将来の優秀な社員を育成する目的で設立され、入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、高校を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた。
「そこは、100名以上受験して、20名しか受からないような高校でした。1学年に20名しかいない高校でした。西宮にあったのですが、阪急が持っていた西宮球場の中に学校がありました。なので、中庭が球場みたいな感じでしたね」
そこでの生活は、これまでと一変して非常に厳しいものだった。
「まるで軍隊でした。体力作りという名目で、毎朝学校に行って球場の周りをぐるぐる走らされながら、筋トレをずっとやって・・・。みんなバキバキの身体になっていました(笑)。学校自体が部活のようでした。全校生徒が60名位なのですが、退学する人もいるので大体50名位で、全員がブラスバンド部でした。言ってしまえば、宝塚音楽学校の姉妹校みたいな感じでしたね」
極めて特殊な学校だったが、ブラスバンドの実力は他校を圧倒していた。
「ブラスバンドの強豪校だったので、全国大会で金賞とかは当たり前でした。自分が2年生の時に初めて全国大会に進めないという、いわゆる予選落ちを経験しました。それがすごい悔しくて、その後みんなで頑張ったという記憶はあります。プライベートは一切なかったですね。学校が休みの日も学校に行って練習していましたし、夏休みも1週間あればいいというような感じでした。あとは、イベント行ったり大会に出場したりだとかしていましたね」
ヘアメイクの世界へ
「 当時の百貨店では私服禁止、ヒゲ禁止、7.3分けは当たり前のような時代でした。子供服を担当していたのですが、おもちゃ売り場なのに制服や、スーツで立っていることの違和感、そして、周りを見渡すとファッションを売っているのにダサい制服で立っている、髪型メイクもダサいってところの違和感が嫌で、怒られながらもスーツにスニーカー履いてみたり、髪型もアフロ風にしていってみたり、、、。当然怒られるのですが、じゃあということで坊主にしていったらさらに怒られるという感じでした(笑)」
自分を通していくうちに徐々に認められ仕事が楽しくなっていたが、大企業にいることの限界を感じていた。そして、葛藤の末に退社をした原本は当初、グラフィックデザイナーを目指していたが時代は大不況。
「その当時カリスマ美容師ブームもあったことから、テレビではそういった企画も多くありました。そこで、ヘアメイクという異世界に出会い、専門学校を探し入学しました」
ヘアメイクアーティストへの第一歩を踏み出した瞬間だった。
続く