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みやちのりよし〜秒速で進化する美容の求道者 Vol.3〜

業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立からやく4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)

ファミリー

29歳で渋谷に立ち上げたSHACHU。最初は3席からのスタートだったが、徐々に軌道に乗り始め、ついに誰もが知る美容室になった。当然、良いことばかりではない。これまで味わったことのない悩みにも直面した。 「スタッフが増えて店舗も増えていくと、当然環境が変化します。そのときに、スタッフ全員に大満足して欲しいのはもちろんですが、そういかない時もあります。スタッフのことを考えると、胸が痛くなります。自分が雇われていた頃にはなかった悩みです」 SHACHUのインスタグラムを見れば一目瞭然だが、SHACHUはスタッフ全員の仲がすごくいい。毎年、退職者もほとんどいない。 「うちには心強いスタッフしかいないです。俺が俺がという感じではなく、みんなで登っていくというか、家族みたいな感じです。飲みに誘ってもだいたいみんな来ますし、断られたことはあまりないですね。実家に泊まりで遊びに来たスタッフもいますし(笑)」

SNS

みやちといえば、美容業界でのインスタグラムの先駆者だ。みやち本人のインスタのフォロワーは7万人を超え、SHACHUのオフィシャルアカウントのフォロワーは10万人を超えている。みやちがインスタグラムに目をつけたのは、まだインスタ黎明期の頃だった。 「インスタの前にブログが流行っていて、その後にYouTubeとインスタが来たのですが、YouTubeだと情報が多すぎると思いました。それに比べて、インスタはわかりやすいのに最短で情報が取れるのでいいなと思いました。自分のサロンワークのルーティンと広告の打ち出しをくっつけたかったのですが、それにはインスタがぴったりでした」 そこには当然、みやちなりの戦略があった。 「みんな後ろ姿の写真が見たいのではないか?と思いました。正面からの写真だと、顔が邪魔で髪の色がよく見えません。モデルさんの正面からの写真が可愛いのは当たり前で、みんなはむしろ一般人の後ろ姿の写真を見たいのではないかと考えました」 その戦略はズバリ的中した。みやちのインスタは業界で話題になり、他の美容室もそれに追随するようになった。 「他の美容室がすごい真似してきたのですが、それは嬉しかったですね。競争意識が芽生えて、逆に自分も燃えましたし。いい意味で美容業界が盛り上がったから、よかったと思っています」

SHACHUが人気の秘密

いま全国の美容学生に一番人気がある美容室といっても過言ではないSHACHUだが、その理由を聞いてみた。 「新しい形なのかなと思いますね。インスタでSHACHUしか出せない色を打ち出していますが、それが最初の入り口だと思います。そこからそれぞれのスタイリストの情報を見ると思うのですが、みんな明るい。お店に来れば分かりますが、みんな元気に楽しそうに働いています」 取材で訪れた時も、スタッフ全員が本当に明るく楽しそうに働いていたのが印象的だった。 「時々、仕事で他の美容室に行くことがあるのですが、自分のお店のこの環境に慣れているから「暗い!」と思ってしまいます。ここだったら頑張れそうだと思わせる環境はすごく大事だと思いますね。それと、自分たちは美容学生にすごく寄り添います。一人一人個別に相談に乗ります。そうすると、何回でも受けに来てくれたりします」 どんな学生がSHACHUの門をくぐることができるのか? 「うちは、SHACHUっぽいというよりも、美容の中にSHACHUがあるので、美容が好きな学生が強いかもしれないですね。SHACHUがどんなに好きで研究していたとしても、そもそも美容が好きじゃなかったら辞めてしまって意味がないので。ビジュアルがカッコよかったり可愛かったりたりするのも大切ですし、それも才能だと思うのですが、プロになればある程度はなんとかなります。美容の仕事をしていたらカッコよくなれますし、ダイエットしたりしてカッコよくしていなければいけないですし」 あくまで大切なのは美容が好きという気持ち。 「少しコンプレックスがある方が、咲いたときに強いと思います。何が好きという根本は変えられないですので、美容が好きというのは大切です。美容バカというか、美容が大好きという子は取りたいなと思います」 今後の美容業界についても冷静に見極めている。 「今は集客がSNSなので、このままいくと技術力が下がると思います。今は写真の世界過ぎるというか、写真の格好、載せ方だとかに走りすぎています。うちは先駆者だからそこに気づいていますし、そこで差がつくのは絶対的な技術力です」 技術力に確たる自信があるみやちにとって、今の美容業界はチャンスでしかない。 「宝の山だと思っています。例えば、技術力があっても売れてない店がありますが、それはインスタだとか世の中に乗れてないからスポットが当たらないだけです。カットが下手でも、うまくスポットを当てていいように見せるのが今の時代です。10年後、20年後に本当の技術を教えられる人はどのくらいいるのだろうと思ってしまいます」 最後に、みやちにとって美容師とは何かを聞いてみた。 「自分の生き方ですね。自分の生き方そのものです」 今この瞬間も、みやちは秒速で進化し続けている。SHACHU、そして美容業界の未来のために。

業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立からやく4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)

バイト漬けの日々

日本一の美容師になるために山野美容専門学校に入学したみやち。東京での一人暮らしが始まった。 「友達はたくさんいたのですが、そこで馴れ合うという感じではなかったですね。僕の目的はあくまで日本一の美容師になるということだったので」 学校がない時は、自分の時間をバイトに費やした。 「バイト漬けにした理由は、体力が有り余っていたというのもありますし、美容師は大変な仕事というのを聞いていたので、それを上回ることをしておこうと思ったのが理由ですね。学校が終わって居酒屋でバイトして、そのあとに深夜に派遣の日払いの仕事をしてそのまま学校に行ってみたいな生活でした」 また、美容学生が参加できる面白そうなクリエイティブなショーには積極的に参加した。 「たまたま同じ岐阜のコギソマナという、今では女優なども担当しているスタイリストが東中野に住んでいたので、彼女と切磋琢磨して色々とやっていました。彼女が衣装を担当して、自分がヘアを担当していましたね」 肝心の学校の方はというと、学科では時々眠くなりつつも、実習には全てを賭けていた。 「午前は学科で午後が実習だったのですが、自分は右手と左手を訓練するために美容専門学校にいると思っていたので、実習はガチでサボらずにやっていました」

SHIMA

もともと勉強が得意分野でもあったみやちは、無事に美容師免許を取得し、SHIMAに就職が決まった。 「SHIMAを選んだ理由は、一番ヤバそうだったからです」 常に一番ヤバそうなところに行くのがみやち流なのだ。大人気サロンに入社できた理由をみやちはこう分析する。 「当時はバイト漬けだったので、かなりお金が貯まっていました。今考えると、他の美容学生よりは服のレパートリーが広かったと思います。当時はディオールやマルジェラが流行っていて、そういうのを買うと自分の気持ちも上がるし、分かる人は分かったのではないかと思いますね」 もちろん、ファッションだけで入社できるほどSHIMAは甘くはない。 「その時から思っていたのが、面接とかでも常に思っている事を素直に言うという事です。繕っても意味がないので。面接では、自分の中にある「日本一の美容師になりたい」という思いなどを伝えました。上辺だけの繕った自分ではなくて、自分の本心で勝負しようと思っていました。SHIMAのことをすごく調べるということよりも、自分を磨くという感じでしたね」 難関を突破してSHIMAに入社したみやち 。ついに美容師としての生活がスタートした。 「最初に配属された店が銀座でした。自分が思い描いていたのは原宿だったので、そのギャップはありました。やはり年配のお客様が多かったですし、スタッフも原宿とは違うので。ただ、持ち前のポジティブさでそこはあまり気になりませんでした。銀座は日本一のエリアなので、そこでのノウハウや、実際にそこで起きていることを吸収することは自分の糧になると思っていました」

SHACHU

銀座で働きはじめたものの、みやちの客層は渋谷系だった。実は、みやちには銀座を若くするという野望があった。 「銀座で働いているのに、渋谷109の店員さんだとか、普段銀座に来ないようないわゆるギャルのお客様を呼んでいました」 SHIMAでスタイリストデビューする際、みやちはフリーのお客様は要らないと宣言した。 「お客様は全てモデハンで集めていました。場所はもちろん渋谷や原宿です。SHIMAで9年間働きましたが、新規はトータルで100人も入っていないと思います」 銀座で9年間働いたみやちは29歳で独立し、渋谷にSHACHUをオープンさせた。 「20代のうちから独立することは決めていました。若い時の自分との約束を守ったという感じです」 9年間働いて慣れ親しんだ銀座から離れて渋谷にしたのも意味があった。 「働いていたのは銀座でしたが遊ぶのは渋谷だったので、渋谷のことはよく知っていました。渋谷は道玄坂でもセンター街でも明治通りでも、色が抜けた金髪の女性がたくさんいます。あれを直したいというか、もっと綺麗に染められるのではないかとずっと思っていて。渋谷はカラーのマーケットとしては宝の山に見えました。交通の便もいいし。渋谷をおしゃれにしようと思って渋谷に出店しました」 モデハンで知り合ってからの盟友であるパートナーのMORIYOSHI氏と立ち上げたSHACHUは、最初は3席からのスタートだった。 「僕自身、独立する前の売り上げは50万円でした。そこから、SHACHUをはじめて2年で600万円になりました」 みやちの快進撃がついに幕を開けた。

続く

業界のみならず、全国の美容専門学校からも注目されているナンバーワンの美容室といえば、SHACHUで異論はないはずだ。そんなSHACHUを牽引するのは、みやちのりよし。SHACHU設立から約4年、なぜ彼は短期間でここまでのサロンを作り上げることができたのか?みやちのりよしの過去・現在・未来からその理由を探る。(敬称略)

特異な家庭環境

生まれは岐阜県の土岐市。ユニークな家庭環境で育った。 「祖父が陶芸家でした。父親は東大を卒業した後に、少しだけ陶芸をやりながら塾の講師をしていました。その後、祖父が亡くなった後に工房を改築して塾にしました。母親は薬剤師の免許を取り、薬剤師をしながらピアノ講師をしていましたね。現在はなぜか分からないのですが、法律事務所で働いています」 みやちは2人兄弟。兄がいる。 「兄は岐阜で車関係の仕事をしており、すごく稼いでいます。平家の一軒家を建てて、フェラーリ乗って。岐阜でフェラーリ見ると、「みやちの兄だ!」とすぐにバレてしまいます(笑)」 小学生の時から、今と同様に感覚派だった。 「釣りが好きだったので、釣りばかりしていました。学校が休みの日は朝から釣りに行って、学校がある日は帰ったら釣りに行って・・みたいな。テレビはほとんど見なかったですし、テレビゲームもやりませんでした」 ハマったものは最後までとことんやり切る性格も、当時から変わっていない。 「小学校で絵を描く課題があった時など、学校だと友達とふざけちゃうので自宅で朝まで書いて提出したりしていました。そんな時に限って、賞を取ったりしていました。何かを作るということがすごく好きでしたね」

栄光と挫折

東大卒で塾を経営している父親だけに、さぞかし勉強させられたのかと思いきや、そうでもなかったようだ。 「勉強しろとはほとんど言われませんでしたね。塾を経営している時点で勉強させるのが仕事なので、それを家庭に持ち込むのが嫌だったのかもしれません」 小学校を卒業したみやちは、地元の公立中学校に入学した。 「中学では野球をやっていました。結構野球が強い中学で、部員が何十人もいました。僕は少年野球とかやっておらず中学校から始めたのですが、すごく負けず嫌いだったので練習して最終的にレギュラーになりました。肩が強くて足が速かったので、外野全般と時々ピッチャーをしていました」 中学を卒業したみやちは、自宅から近い高校に入学した。 「足が速かったので、高校では陸上をやりました。ただ、先輩とうまくいかなくてすぐ辞めてしまいました。それから一時期なににも没頭せず自由に過ごしたのですが、ある意味その時代が一番良かったですね。美容師になるための体力を貯める時間というか・・・」 陸上をやめてからできた自由な時間とそこでの経験が、結果的にその後の人生に大きな影響を及ぼした。 「独りが好きだったので、独りで岐阜から名古屋に遊びに行ったりしていました。名古屋の古着屋の兄ちゃんと仲良くなって色々と音楽を教えてもらったり、小説や美容の本もたくさん読みました。東京も何度か行きました。やることがなさすぎて不安で色々やっていた感じですが、そこで今の自分が固まったと思います」

美容師との出会い

高2で進路を決める段階で、すでに美容師になることを決めていた。きっかけは、いとこに勧められて行った名古屋の美容室だった。 「画家のいとこがいるのですが、すごいオシャレで、当時は色々と遊びに連れて行ってもらっていました。そのいとこに勧められて、名古屋のラパンセという美容室に髪を切りに行きました。バッサリ短く切ってもらったのですが、自分もこういう風に人の人生や価値観を変えられる仕事をしたいと思いました。 1時間という短い時間で、ワクワク感とドキドキ感と、そのあとの自分がリニューアルされた感じ・・・。これを自分もやりたいなと思うようになりました」 美容師になることを決意した瞬間だった。 「意外と真面目というか、モテたいから美容師になろうとかは一切なくて(笑)。熱い感じでした」 高校の模試では早稲田大学B判定だったみやちにとって、大学に進学するという選択肢もあったが、日本一の美容師になることに決めた。両親は特に反対しなかった。 「母親はピアノ講師をしていただけあって、むしろ昔から美容師を勧められていました」 高校を卒業したみやちは、東京にある山野美容専門学校に入学した。 「日本一の美容師になりたいと高校の時に思った時に、まず一番ヤバそうな学校に入ろうと思い山野に決めました。他の学校ももちろん知っていましたが、山野で一番になれば日本一に近づくのかなと思い決めました」 日本一の美容師になるための、最初の第一歩がスタートした瞬間だった。

続く

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

まつ毛エクステとの出会い

ロンドンでの妻の妊娠が判明して日本に帰ってきた原本。しばらくはヘアメイクの仕事をやっていた。 「しばらくフリーでやっていたのですが、3年前に会社(注:スーパーブリー株式会社)を設立しました。きっかけは、自分でまつ毛エクステサロンを経営することになったからです。だったら会社を作ろうかなと思いました」 原本が27歳の時に、初めてまつ毛エクステという存在を知ったある出来事があった。 「ヘアメイクのアシスタントとして、タレントの早見優さんのヘアメイクを担当することになったのですが、ハワイでまつエクをしてきたとのことで、そこで初めてまつエクを見ました。「これはなんだ?」と思ってびっくりしたことを覚えています」 当時の日本には、まつ毛エクステというものはほとんど存在していなかったため、ほとんど見ることはなかった。 「その当時、早見さんはすごい量のまつエクをつけていたのでメイクがしにくかったです。しかし、直感でこれは必ず流行るだろうと思いました。そして、メイクをちゃんとやらないと自分たちの首を締めることになるなと思いました。そこで、もっとマツエクの業界を知っておかなければならないと思い、色々と勉強しました」 現在、原本はまつ毛エクステプロ用商材メーカーである株式会社松風と共に、様々な取り組みをしている。 「まつ毛エクステを突き詰めると、最終的にメイクとマツエクのバランス感という壁に当たりました。今はそこの課題に松風さんと共に取り組んでいます」

ヘアメイクアーティストに必要な事とは

経営者としての顔を持ちつつも、ヘアメイクアーティストとして活躍する原本。今の時代にヘアメイクアーティストとして必要とされていることを聞いてみた。 「今の時代はインスタとかが主流で、そこからポンと出てくる人もいます。やはり、自分のセンスや感性を磨くことが大切だと思いますね。それは決してヘアメイクに限ったことではなく、例えば風景であったり家具であったり・・・。自分が気になったものにとりあえず首を突っ込んでみて、そこから得られるもので何か作品を作ったりして、自分なりの何かを確立していくのが良いと思いますね」 自分のやりたいことだけやるのではなく、他人から勧められたこともやった方がいいと原本は言う。 「やりたいことはとりあえずやって欲しいです。そして、人から勧められたことはそれが嫌でもやってみる事が大事です。案外、自分より他人の方が自分を知っていることも多く、自分を振り返ると要所要所で誰かに影響を受けている。これやってみない?っていうことに対して、私は興味ないですって言うよりも、まずはやってみるということも大事だと思う。もしかしたらそこから、何かに繋がる可能性を秘めていると思います」 インスタという話が出たが、かくいう原本自身はSNSが苦手らしい。 「自分があまり得意ではないのであまりアドバイスは言えないが、自分の作品をSNS等に上げていったりするのはいいと思いますね。ヘアならヘア、メイクならメイク、眉毛なら眉毛など、今は部分的に特化している時代です。何かに特化していくとそこから広がっていくことがあるので、そういうのも一つかなと思いますね」

業界の地位向上のために

現在の原本は、ヘアメイクアーティストとしての活躍の場を日本から中国に徐々にシフトしている。それには理由がある。 「基本的に、中国人はメイクをしません。文化の中でメイクをするという発想がないのです。する人はもちろんいますが、それは映画やブライダルの世界だけであり一般の人はしません。それを教える人もいないので広がらないのです。中国人では1割位しかメイクをしません。もちろん日本はその逆です。そこを広げて、上げたいですね」 また、原本自身が代表取締役を務めるスーパーブリー株式会社だが、ここは実に色々なことをしている。映像制作、アパレル、アクセサリー、マツエクサロン等、その活動は多岐に渡る。 「なぜ色々な活動をしているかと言うと、ヘアメイクというか、美容業界が他の業界よりも下に見られており、そこを改善したいと思うからです。例えば日本での映像製作でいうと、映画のメインスタッフの中にヘアメイクは入らないことがほとんどです。これが海外だと必ず入るのですが、日本だとなぜか入らないのです」 日本と海外では、残念ながらヘアメイクを含む美容業界の地位に歴然とした差が存在する。 「色々な製作物もそうです。カメラマン、プロデューサー、アートディレクター等がメインでクレジットされ、ヘアメイクは下に見られて表に出ていないことが多いと思います。そう言うところを変えていきたいなとは思いますね。ヘアメイクが作る映像やアパレル、アクセサリー等、色々と仕掛けていきたいと思っています。それが評価されれば、自ずと業界の評価も変わってくると思います」 日本の美容業界の地位向上にも資する重要な挑戦に原本は向き合っている。この壮大な挑戦を、私たちは期待を持って見届けたい。

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

ヘアメイクとの出会い

阪急百貨店を退職した原本は、大阪にあるヘアメイクの専門学校に入学した。 「その学校でヘアメイクを学んで卒業した後、講師をやらないかと誘われたこともあり、その学校でしばらく講師をしていました」 そこで講師を続けているうちに、原本自身に悩みが生じてきた。 「その学校には、東京の情報が何もありませんでした。東京に行ったことがある講師が一人もいなかったのです。その講師が、「東京に行っても何も出来ないよ」と言うのは少し違うのでは?と疑問に思いました。そこで、東京に出ることにしました」 東京に出て来たのは、原本が25歳の時だった。まず原本はヘアメイク事務所が運営している、ヘアメイクのアシスタントのための学校に入学した。 「アシスタントの仕事ってなんだろう?と思ってそこに入ったのですが、色々なことを学ばせてもらいました。卒業後はその事務所に入って色々と仕事をしていました。そこには1年位いましたね」 その後、原本は東京にある山野美容専門学校の通信課程に入学した。 「ヘアメイクは、正直そんなに美容師免許を必要とされてはないのですが、美容師さんとか他の人達と一緒に戦おうとなった場合には美容師免許は必須かなと思ったので、山野に行きました。山野美容専門学校を選んだのは、学費が安かったという点と、有名だったという点ですね。それと、他の学校はスクーリングの期間が3回に分けてあるのが普通でしたが、山野は2回だったので、働いている自分としては好都合でした」 通信課程で3年間勉強をしつつも、原本はヘアメイクの仕事も同時にこなしていた。 「当時はミクシィが流行っていて、まだ紹介制でした。そこは業界人ばかりだったので、そこから作品撮りして仕事につなげるという形でやっていました」 仕事をしながらの通信課程は想像以上にハードだった。結局、美容師免許を取得するのに5年かかった。ずっとフリーランスでやっていた原本は、30歳になっていた。

イギリスへ

原本が33歳のとき、もう一度ファッションメイクを学ぶためにイギリスのロンドンに行った。 「ロンドンに行こうと思ったのは、もう一度ファッションを学びたいという思いがきっかけですね。日本ではちゃんとしたファッションメイクを教えてもらえなかったですし、やはり海外を生で感じたかったというのもありますね」 当時の原本にロンドンのツテは全くなかった。 「本当はフランスのパリに行きたかったのですが、いきなりフランス語よりも英語の方がいいと思いロンドンにしました。ロンドンはベースを作るにはすごく良いのではという思いがありました。そこからパリやニューヨークに行くのがいい流れなのかなと」 ロンドンに行くことを決めた原本。文字通り裸一貫の再スタートだった。 「日本の仕事を全部捨てて、ロンドンに移住するつもりで妻と行きました。ビザが半年しか取れなかったので、半年経ったら向こうで更新しようと思っていました」

予期せぬ事態

自分で現地のエージェンシーを探し、ヘアメイクの学校を紹介してもらった。最初の一ヶ月はホームステイをしていた。 「もちろん英語が分からなかったので、言葉は片言でした。複数の英会話の学校に掛け持ちで通っていました。高級車一台分くらいのお金がかかりましたね(笑)」 そんな原本の努力の甲斐もあり、ついには自分でアパートを契約して住むことが出来るくらいにまで英会話が上達した。順調に進んでいたロンドンでの生活。このまま移住し続けるつもりだったが、ここで思わぬ事態が発覚して半年間での日本への帰国を余儀なくされた。なんと、妻が妊娠していることが分かったのだ。 「妻が妊娠していることが分かり、ビザがもともと半年間のものだったので、半年経ってから妻と一緒に帰国しました」 日本に帰ってきてしばらくはヘアメイクの仕事をやっていた原本だったが、ある出来事がきっかけで、何と自分で会社を設立した。

続く

ヘアメイクアーティストとして数多くのミュージシャンやタレントを担当する他、ブランド商品開発や映像製作、アパレル、アクセサリー、まつ毛エクステサロン経営等、従来のヘアメイクアーティストの枠に捉われない活動を続けている原本洋平。そのモチベーションの源流に迫る。(敬称略)

ブラスバンド

原本の出身は、大阪の豊中市。父親はグラフィックデザイナーだった。母親は専業主婦だったが、祖母が新地でクラブのママをしていた。いわゆる自営業の家庭で育った。 「小学生の頃などは、割とおとなしい方だったかもしれません。姉がいたので、女の子の遊びだったり、絵を書くのが好きだったので、絵画教室にかよってたりもしましたね。ただ、人の上に立つようなリーダー的な役割も好きでした。おとなしいながらも、みんなを引き連れて行くというタイプだったかもしれません」 小学校を卒業した原本は、地元の公立中学校に入学した。 「不良グループから普通の子まで、誰とでも仲良くなれるタイプでした。学年代表とかもしていたので、みんなが知っているというような感じの存在だったと思います」 中学時代はブラスバンド部。サックスを吹いていた。 「姉の影響で、中学校からサックスを始めました。本当は父親がサッカーをしていたのでサッカー部に入ろうと思っていたのですが、あんまり強い学校でもなかったのでブラスバンド部にしました」 ブラスバンドと自転車に熱中した中学生だった。 「中学校の時の思い出は、ブラスバンドと自転車の思い出が強いですね。休みの日の度に、自分のマウンテンバイクでどこかに出掛けていました」

特殊な高校

中学を卒業した原本は、高校に進学した。
「高校はブラスバンドの強豪校に入学しました。中学校の先輩がその高校に行ってて、誘われたので入学しました。実を言うと、通常の高校入試は2月や3月にあると思うのですが、その高校は試験が1月だったので滑り止めのつもりで受けたら合格していました」 原本が入学した高校は、阪急百貨店が母体の男子高だった。将来の優秀な社員を育成する目的で設立され、入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、高校を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた。 「そこは、100名以上受験して、20名しか受からないような高校でした。1学年に20名しかいない高校でした。西宮にあったのですが、阪急が持っていた西宮球場の中に学校がありました。なので、中庭が球場みたいな感じでしたね」 そこでの生活は、これまでと一変して非常に厳しいものだった。 「まるで軍隊でした。体力作りという名目で、毎朝学校に行って球場の周りをぐるぐる走らされながら、筋トレをずっとやって・・・。みんなバキバキの身体になっていました(笑)。学校自体が部活のようでした。全校生徒が60名位なのですが、退学する人もいるので大体50名位で、全員がブラスバンド部でした。言ってしまえば、宝塚音楽学校の姉妹校みたいな感じでしたね」 極めて特殊な学校だったが、ブラスバンドの実力は他校を圧倒していた。 「ブラスバンドの強豪校だったので、全国大会で金賞とかは当たり前でした。自分が2年生の時に初めて全国大会に進めないという、いわゆる予選落ちを経験しました。それがすごい悔しくて、その後みんなで頑張ったという記憶はあります。プライベートは一切なかったですね。学校が休みの日も学校に行って練習していましたし、夏休みも1週間あればいいというような感じでした。あとは、イベント行ったり大会に出場したりだとかしていましたね」

ヘアメイクの世界へ

「 当時の百貨店では私服禁止、ヒゲ禁止、7.3分けは当たり前のような時代でした。子供服を担当していたのですが、おもちゃ売り場なのに制服や、スーツで立っていることの違和感、そして、周りを見渡すとファッションを売っているのにダサい制服で立っている、髪型メイクもダサいってところの違和感が嫌で、怒られながらもスーツにスニーカー履いてみたり、髪型もアフロ風にしていってみたり、、、。当然怒られるのですが、じゃあということで坊主にしていったらさらに怒られるという感じでした(笑)」 自分を通していくうちに徐々に認められ仕事が楽しくなっていたが、大企業にいることの限界を感じていた。そして、葛藤の末に退社をした原本は当初、グラフィックデザイナーを目指していたが時代は大不況。 「その当時カリスマ美容師ブームもあったことから、テレビではそういった企画も多くありました。そこで、ヘアメイクという異世界に出会い、専門学校を探し入学しました」 ヘアメイクアーティストへの第一歩を踏み出した瞬間だった。

続く

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

新しい美容師の生き方

半年間出張カットをしていた古木だが、売り上げは徐々に上がっていった。出張カットは、何にも縛られずに自分道を見つけるという古木の哲学には合っていた。しかし、生活が不安定だったため、東京の有名サロンに入ろうと考え始めていた。 「先輩から紹介され、お店から内定ももらっていました。しかし、自分の生き方を考えたときにやはりこれじゃないと思い、先輩に謝って辞退しました」 出張カットをしているうちに、美容師と顧客のニーズのズレを感じ始めた。顧客が求めているのは設備云々ではないのだ。そして、母親の勧めもあり、自宅にシャンプー台を付けて、保健所に審査出したところ、なんと審査に通ってしまった。ついに、自宅の2階が美容室になった。 「まるで独立を疑似体験した感じでした。出張カットを始めるまでは、常に追われていてとても苦しかったです。髪型を作る才能があっても、最終的には美容師は体力勝負なので売り上げで評価される。一人の顧客の満足度では評価されません。しかし、それも評価の一つであるべきだと思います。出張カットなどを通じてそれを自分は体験できて、新しい美容師の生き方を見つけた気がしました」

会社設立

自宅のサロンは徐々に軌道に乗り、時間とお金の余裕が出来た古木は、自分の知見を広めるために色々な人に会ったり、経営セミナーに参加したりと精力的に動いていた。 「色々な人に会ううちに、美容業界は他の業界と比べて構造的におかしいと気付きました」 また、美容師としても一つの疑問を感じていた。 「美容師は一対一でお客様と接するので、深い関係を築けて色々とアドバイスできるのが強みなのですが、ほとんどの女性が美に対する自信が無かったり、自分の良いところを分かっていないと感じました」 この二つの疑問を解決する方法を模索していた時に、たまたま経営者のお客様に相談したところ「起業家なら変えられる」とアドバイスされ、起業する決意をした。 「課題解決のルートが見えてきた気がしました。バラバラだったことが繋がったというか、これなら二つのことを同時に解決できると思いましたね。今までの人生を考えたときに、これこそが自分がやることだと思いました」 その後、LiME株式会社を設立し、美容師のカルテ管理ができるアプリを制作した。その後の活躍は周知の通りである。 「自分は、美容師を体験していることが一番の価値だと持っています。例えば、IT業界の人が美容業界を知ろうとすると、10年はかかると思います。実際自分もかかりました。しかし、美容業界の人がITを知ろうすると、3年で済みます。なぜなら、IT業界は教育が充実していて学習コストが低いからです。すなわち、美容業界の人間がITを知った方が圧倒的に効率的と言えるのです」

美容師として、経営者として課題を解決する

社長業をこなす傍で、古木は美容師としての活動も継続している。 「業界外から美容業界に参入する人は、お客様優位なサービスばかり作る傾向にあります。しかし、本当に業界内で困っているのはお客様ではなくて美容師です。美容師の課題解決をしない限り業界は決して変わらないし、サービスも浸透しません。なので、自分も美容師を続けることに価値があると思っています」 経営者として、美容師としての古木の歩みは止まらない。古木が美容師をやってきた中で矛盾を感じていた、ピラミッドの頂点や売上を上げることに対してのみ評価されるということ。これはあくまで美容業界内での評価であり、お客様目線で考えると無関係であると古木は言う。 「お客様からすれば、自分を本当に美しくしてくれる人に出会いたいわけで、これはピラミッドの頂点にいる美容師じゃなくてもできることです。相性が合うとか、センスがあるとかそういうことで解決できます。しかし、いまの世の中はそういう視点で美容師とお客様が出会えるようになっていません」 確かに、それは既存のクーポンサイトでは決して探せない、本当に欲しい情報だ。 「それは、当該美容師さんの顧客の声がネット上にあがらないと分からないものです。しかも、新規ではなく、その美容師のもとにずっと通っている顧客の声こそ、本当にお客様が知りたいことなのです。それが自動で溜まって自動で発信できる仕組みを作りたいと思っています」 今年の2月には、@cosme運営のアイスタイル社より7000万円を調達するなどその勢いは加速するばかりである。古木が変革する美容業界を見ることができる日も、そう遠くはないはずだ。

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

異端児扱い

美容師になることを決意し、高校を卒業した後に横浜の美容専門学校に入学した古木。これまでの学生生活とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。 「中学2年生くらいから、学校は好きな授業しか出ない感じでした。高校の時は、留年したくなかったので単位ギリギリで学校に行っていたような感じでした。しかし、美容専門学校時代は自分がやりたいことが見つかったので、2年間無遅刻無欠席でした。成績も技術と学科ともトップで卒業しました」 成績優秀でまさに模範的な生徒だったが、先生には嫌われていた。 「不公平というか、納得できないことが許せないタイプでした。入学した時にメイクの授業があり、自分たちはメイクボックスを学校から9万円で購入しました。しかし、翌年入学してきた後輩たちは、中に入っている道具が自分たちのときより少ないにも関わらず値段が上がっていました。それが許せなくて学校のNo.2の偉い人にクレームを言ったところ、何故か逆ギレされましたね」 納得できないことがあれば、例え立場が違ったとしても自分の意見を主張した。 「結構そういうことが繰り返しあって・・・。自分の立場が悪くなったとしても、納得できないことがあると戦いたくなってしまうんです」 そんな古木に対して、学校の風当たりは徐々に強くなった。 「就活でも、先生に「ごめん手伝えないんだ・・・」と言われたりしましたね。他にも、通常は就職決まったら学校にサロン名と名前が張り出されるのですが、自分は張り出されませんでした。学校の中で2番目に早く決まったのに、1番目の生徒と2番目の自分だけ張り出されなかったですね(笑)」

波乱万丈の美容師LIFE

結局張り出されることはなかったが、人気サロンであるapishに就職が決まった。学校では2番目の速さだった。 「apishに入社できたのは運だったと思います。そんな実力とかあるタイプではなかったので・・・。通常の美容専門学生は、他にも掛け持ちで複数のサロンの面接を受けたりすると思います。しかし、自分には就職に関する情報があまりなく、「そんなにたくさん受けていいのだろうか?」と思っていたので、apish一本で行こうと思い、他には受けませんでした」 そうしてついに、古木の美容師としても人生がスタートした。それは同時に、新たな試練の始まりでもあった。 「僕らの代は3人しか入社しなかったのですが、それまでは毎年10人くらい入社していました。なので、10人分の仕事が落ちてくるような感じで、すごく大変でした(笑)」 3年間働いた後にapishを退社し、古木は代官山のサロンに移った。 「そんなに大きなお店ではなく、お客様一人一人を大切にするお店でした。自分には合っていると思っていましたね」 そこで、古木は思いもよらない事態に遭遇する。なんと、突然クビを宣告されたのだ。 「大きいお店にいた時のテンションでそのまま行ってしまったということもあり、ボス的に受け入れられないところがあったのだろうと思います。また、下の子達に対する影響力が強すぎるところもあったので、「大きいサロンに戻るか、自分でやりなさい」と言われて解雇されてしまいました」 突然のクビ宣告・・・。当然のことながら、古木の落ち込み方は尋常ではなかった。 「今考えると、当時は鬱病のような感じだったと思います。今まで頑張ってきたことを全て失ったような気がしました。当時はスタイリストでお客様がちゃんと付いていた訳ではなかったので、この先どうなるのだろうと不安で本当に絶望的でした。生きる気力がなくなり、1ヶ月間ぐらいずっと寝込んでいました」

人生の転機は突然に

しかし、いつまでも落ち込んで寝込んでいるわけにもいかない。そこで仰天の行動に出た。 「当時、夜になると寝れなくなる状態が続いており、「身体が疲れていれば寝れるだろう」ということで、旅に出ようと考えました」 旅に出る決意をした古木は、友達と二人で1台のバイクを二人乗りして、屋久島の縄文杉を見るため西に向かった。 「ものすごく大変でした。お金がなかったので、屋久島では宿を取っていなかったのですが、4月なので温度が氷点下でした。島民の方に「それだと死ぬよ」と言われましたね(笑)」 体温を上げないと危険ということで、古木達は朝まで歩くことにした。 「朝方の3時頃に、24時間営業のコインランドリーを見つけたので、「ここで寝よう!」ということでコインランドリーで寝て暖を取りました。そんな激しい旅でした」 屋久島から帰ると、これまで夜に寝れなかったことが嘘のように、寝れるようになった。また、今まで経験したことのない過酷な状況下をくぐり抜けたことは、古木に新たな感覚と自信をもたらした。 「旅の最中はお金もなかったので、公園や駐車場などで寝ていました。なので、自宅の布団の上で寝るということ、お風呂に入れるということに感動して、あらゆることにありがたみを感じることができるようになりました」 屋久島での旅を通じて、うつ病のような状態を脱した古木。友達のヘアカットをしてあげたことをきっかけに、美容師としての新たな仕事のやりがいに気づいた。 「当時、友達に頼まれてカットとパーマをしたことがありました。自分は無料でやってあげるつもりだったのですが、「プロにやってもらったのだから取っておいてよ」ということで5000円くれました。これまでは常に何かに追われて仕事をしていたので、純粋に楽しく髪型を作ってお金をもらえたことにすごく感動しました。「美容師の仕事ってこういうことなんだ」と実感しました」 今まで有名店で働くことや、売上を上げることに縛られて生きてきた古木だったが、ついにその呪縛から逃れて自由になった瞬間だった。

続く

現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。

争いが嫌いな少年

出身地は神奈川県横浜市。小学生の頃は平和主義者だった。 「とにかく競争があまり好きではなかったです。例えば早い者勝ちで並ぶとか、給食で並んで取りに行くとかそういう時に、先に並ぼうとか全く無かったですし、仮に自分が先に並んでいて誰かに横入りされたとしても全く気にならなかったですね。そもそも戦うというか、競争が嫌いでしたね」 人付き合いは、得意ではないが苦手でもなかった。 「割とどんな人でも仲良くしていました。もともと内向的な感じで人と話したりするのがあまり好きなタイプではなかったのですが、偏見とかなく誰とでも同じように付き合って遊んでいましたね」 ここで、古木が忘れられない小学生時代の面白いエピソードを紹介してくれた。 「当時、やんちゃな友達がいてある同級生をいじめようとして自分にも参加するよう促されました。しかし、その同級生は友達だからと断ったところ、自分がシカトされ始めたのですが、全く気付きませんでした。それで、友達が僕の母親にシカトされていることを伝えてくれたというエピソードがあります(笑)」 内向的だったと言いつつ、意外と神経が図太い小学生だったようだ。その後、古木は地元の中学校を卒業して、少し離れた私立の高校に入学した。 「高校時代は心理学に興味があったので、いろいろな本を読んで勉強しましたね。学校の勉強は興味が無かったので、全然しなかったですが・・・。心理学の延長線上で、占いの本なども読んでいました。当時は「人」に興味があり、そういった本を読んで調べていましたね」

自由を求めて

血気盛んな高校時代に、自ら心理学を学ぶ男子生徒はそうはいないだろう。さらには心理学のみに止まらず、古木の好奇心は「自由」という壮大なテーマに向けられ、そこで仰天の行動に出る。 高校時代は縛られるのが嫌というか、ルールに従うのが嫌でしたね。なんで学校に行かなければならないのか意味が分かりませんでした。そこで、自分の中で楽しく生きることとは何だろう?と考えた時に、学生時代はやらなければならない事があり色々と縛られているため、自由がない事に気付きました。そして、自由とは何だろうと色々と研究して試してみました」 自由を求めて行動に移した結果は散々だった。 「自由を求めれば求めるほど、親や学校の先生に怒られて追いかけられました。最終的には、警察が追いかけて来て、さらには任侠道の方まで追いかけて来ました(笑)。結果的に、そういう法則なのだと分かりました。自由は追いかけるものではないのだとその時感じましたね」 波乱万丈な高校生活を過ごしていた古木だったが、将来の方向性を決める時期がやってきた。 「中学2年生の時から、学校の必要性やどういう生き方が正しいのかを考えるようになりました。そして、自分の将来を考えた時に、スーツを着て会社に行くというような、所謂サラリーマンとしての人生がイメージできませんでした。弁護士や心理学者、デザイナーなど色々考えました。美術が得意だったので美大への進学も勧められましたが、イメージが湧きませんでした」

偶然の出会い

そんなある日、好きな女の子が美容専門学校に見学に行くことを知り、これはデートチャンスだと言わんばかりに古木も付いて行った。当初は軽い気持ちで付いて行った古木だったが、そこでの体験は後の彼の人生を方向付けるものだった。 「当時、自分としては職業に関して3つのポイントがありました。一つ目は、心理学を勉強していたこともあり人に興味があったので、人とコミュニケーションが取れる仕事。二つ目は、物理化学というか量子力学や相対性理論に興味があったので、それに関連する仕事。三つ目は、ファッションに興味があったので好きな格好ができる仕事。この3つを踏まえた上で、当時は一人で、マイペースでできる仕事がいいと思っていました」 見学に行った美容専門学校で先生の話を聞いた時、美容師という職業は上記3ポイントを全て満たしていると感じた。 「人と接し、化学を用いて、好きなファッションで仕事ができる。これは自分に合っているかもしれないなと思いましたね」

続く