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内田聡一郎〜フロントランナーの新たなる旅立ち Vol.3〜

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

人生の転機

オシャレKINGになり、内田の名前は一瞬にして全国に響き渡った。そんな中、技術を磨くためにサロンから1年間モデルの禁止を言い渡された。 「もともと硬派というか、美容師以外のフィールドの活動に対してネガティブな雰囲気があったので、モデルやDJをしている自分はまさに異端なポジションでした。また、当時はその硬派な雰囲気に反抗心もありました。しかし、今はその禁止の期間があって良かったと思っています」 26歳でスタイリストになった内田は、その後「vetica」のクリエイティブディレクターに就任、29歳でJHAの新人賞にノミネートされるなど、順風満帆な美容師人生を歩んでいた。しかし、2015年の2月に、内田のその後の人生に大きな影響を及ぼす、ある事態に直面した。ウィルス性の病気で、入院を余儀無くされたのだ。初動が遅れた場合には後遺症が残ってしまうぐらい、危険な状態だった。結局、内田は2週間の入院を余儀なくされた。これまで特に大きな怪我や病気をしたことがなかった内田にとって、これは初めての経験だった。入院中、自分の将来について真剣に考えた。そして、出した答えが独立することだった。 「これまで何度か独立を考えたことはありました。30歳の時に「自分のお店をやりたいです」とオーナーに相談した時に、「うちの傘下で別ブランド出してやったら?」と言われたので、「vetica」を設立しました。それが、独立したいと思った最初の波でした」

「LECO」設立

これまで何度か独立を考えたことがあった内田だったが、ウィルス性の病気での入院の経験は、その意思を確固たるものにするのに十分だった。そして、「vetica」設立から9年の年月を経て、内田はついに独立して新しく「LECO」を設立した。「LECO」の四角いロゴマークには、その部屋には誰でも入ってきていいし、自由に過ごしてもらっていいという意味が込められている。 「今も紆余曲折でやっています。外から入ってくる人達が、僕を神格化して来ることがあるので、そこのギャップを埋めるのが大変ですね。僕も普通の人間ですし、初期の段階ではそこでぶつかることもありました。ただ、やはり自分の考えが100%反映できる場所があるというのはいいなと思いますね」 現在は経営者でもあるが、プレイヤーであることにはこだわる。 「ゆくゆくはその割合もどんどん変わってくると思うのですが、プレイヤーを辞めるという選択肢はないと思いますね。それは世間も求めていないと思いますし。僕自身のアイデンティティを保つためにも、それは絶対大事かなと思っています。難しさはあるのでしょうけどね」

美容業界のこれから

現在の美容業界は、SNSとは切っても切れない関係にある。美容業界でも屈指のフォロワー数を持つ内田の考えを聞いてみた。 「楽しんでやればいいと思いますね。今はいろんなことが数値化されるので、そこに捉われて承認欲求が強くなるところがあります。もちろんそういうところも気にならないわけではないですが、そこに固執せずに自分がやりたいことを記録としてやるぐらいの感覚がいいと思います」 SNSも含め、美容業界は少しずつ変わってきている。 「今は僕よりも下ぐらいの世代の人たちが元気で、業界を盛り上げています。新しい波には敏感でいたいですね。去年ぐらいから、今までの概念が大きく変わって来ているので、自分もちゃんとした選択をしたいです。今は下の子達もいるのでその子達が色々とやれる環境を作りたいですね。今は欲求を前に出すとダサいという風潮がありますが、僕は貪欲な方がいいと思います。貪欲でガツガツしている人の方が、手に入れられるものが多い気がします」 一見飄々としていてクールに見えるが、その中身は真逆である。誰よりも自分の気持ちに正直に、貪欲に生きているのが内田聡一郎なのだ。 最後に、内田が毎年春の恒例としてアップしている「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」を記しておく。 「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」 ①美容師以外のコミュニティーをつくる。 ②自分らしく着飾る。 ③様々な音楽を聴き、生で体感する。 ④高くてうまいメシを定期的に食べる。 ⑤むちゃくちゃ恋愛する。 ⑥先輩や同期とケンカする。 ⑦死ぬほど(ちょっと死ぬくらい)練習する。

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

2足の草鞋

高校を卒業し、念願の美容師になり横浜のサロン「ART WORKS」で働いていた内田だったが、20歳の時に包丁を一式揃えて、飲食店で調理人として働き始めた。 「厳密にいうと、美容師と調理人とでほぼ同時進行のようなところがありました。調理の世界にいっても、美容の技術は忘れたくないという思いはありました。美容免許も持っているわけですし。副業のような形で、半々ぐらいでやっていましたね」 「ART WORKS」を退社した内田は、自宅から近かった「Cut Line」に入社した。スタッフ同士の仲も良く、居心地の良いサロンだった。お酒の飲み方から夜遊びの仕方まで色々教わった。 仲間にも恵まれて充実した生活を送っていた内田だったが、東京で働きたいという思いを抑えることが出来ずに、2年間働いた後に「Cut Line」を退社した。しかし、当時の仲間との関係性は、 15 年以上経った今でも続いている。

「VeLO」との出会い

東京で美容師として働くために選んだサロンが、後に15年間共に時間を過ごすことになる鳥羽直泰氏、赤松美和氏が立ち上げた「VeLO」だった。 「簡単に言うと偶然の出会いというか・・・。オーナーの奥さん(赤松美和氏)が働いていたお店に僕が偶然行ったのがきっかけです。本当はそのサロンに入社しようと思っていたのですが、そこで担当してくれたオーナーの奥さんに、「旦那とお店やるからオープニングで働かない?」と誘ってもらったのが最初のきっかけですね」 「VeLO」に入社した内田は、アシスタントからスタートした。 「実際、少し美容から離れていたということもありましたし、東京のサロンは学びが多いだろうという気持ちもあったので、アシスタントから始めました」 東京に出て来てから、徐々に読者モデルの仕事も増えていった。 「一度美容師をやめて東京に出て来たこともあり、これまでずっと美容一筋でやってきた人より遅れているため、なんとか名を馳せたいという気持ちが強かったですね。それで、DJなども始めました。当時は、とにかく色々なことをやろうという気持ちが強かったですね」 アシスタント時代は、レッスンが終わると毎週のようにクラブに繰り出した。ときには、便器に頭を突っ込んで吐いてしまう事もあった。泥酔状態のまま朝方に帰宅し、着替えてそのまま出勤するという日もあった。

「CHOKi CHOKi」のKINGとして

「VeLO」に入社した翌年、内田が24歳の時に人気雑誌「CHOKi CHOKi」でオシャレKINGになった。当時のオシャレKINGは、それこそ芸能人と同じくらいの影響力を有する存在だった。そんな「CHOKi CHOKi」のオシャレKING達は、やがて新たなる美容師ブームを創り出していった。 「あれから全てが変わりましたね。第2世代ブームというか・・・。カリスマ美容師世代ブームが終わって、そこからSHIMAの奈良君とか、彼らを取り巻く原宿の美容師達はオシャレだというブームが来たので、そこに上手く乗らせてもらったというのがすごくありましたね。当時の勢いは本当にすごくて。正直浮き足立ちましたが、もともと自分を俯瞰する性格があるので、変なことにはなりませんでしたね」 「CHOKi CHOKi」のオシャレKINGになり一躍有名人になった内田だが、もちろんいいことばかりではなかった。 「「CHOKi CHOKi」のキングになって、満を持してデビューしてスタイリストになったときに、最初は爆発的に売り上げも伸びたりして話題になりました。すごくちやほやされてた部分があったのですが、それからちょっとすると、それが横ばいになり、そこから少し下がってくる時期がありました。その時に2チャンネルとかで叩かれたりして、精神的に人間不信に陥りました。実は友達も同じように自分のことを思っているのではないかとか・・・。会う人会う人が、自分を見下して接しているのではないかと感じました」 人間不信に陥った内田だったが、それを打ち破ったのは自信だった。 「自分自身が前に出るよりも、自分が作りだしたものが前に出た瞬間を感じた時に、それがなくなりました」

続く

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

内気な野球少年

生まれは神奈川県。小学生の時は野球をやっていた。 「親父が野球を好きだったという事もあり、勧められて少年野球に入りました。親父とキャッチボールとかよくしていたので、その流れでという感じですね。小学校時代は、ピッチャーだったので割と花形ポジションでいい感じでした」 ハサミは右手だが、本来は左利き。小学校のときは楽しく野球をしていたが、中学校に入ると状況が一変した。 「中学校のチームが県内でも有数の強いチームで、ギリギリスタメンではないという微妙な立ち位置でした。なので、若干逃げ腰というかそんな感じでしたね」 中学校を卒業した内田は、横浜商工高校に入学した。 「レベルが高い公立を受けたのですが、見事に落ちて・・・。それで滑り止めの高校に行きました。高校デビューみたいな感じでした。中学校時代は坊主でしたし、女っ気もなかったような感じでしたので(笑)。そこから、いわゆる「モテてやるぞ!」という感じで髪型やファッション、交友関係とかを意識し始めましたね。部活は特にしていなかったです」

美容師か調理師か

坊主姿で毎日厳しい野球の練習に明け暮れた中学生が、自由を手に入れた瞬間だった。そんな高校生活も、やがて進路を決める時期に差し掛かった。 「高3から進路を意識し始めて、アパレルか美容師か調理師か悩んでいました。当時は美容業界がカリスマ美容師ブームだったりでイケイケで、やはり美容師かなと思いました。思い立ったら行動が早いタイプなので、すぐに美容院でバイトができたらいいなと思い、近所の美容院で働き始めましたね。床掃きとかがメインでしたが・・・」 高校を卒業した内田は、国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した。 「もともと渋谷か原宿の学校に行きたいなと思っていて・・・、単純な理由ですが。国際文化のパンフレットを見ていた時に、有名なサロンに入っている人が多かったというのもあり、国際文化に決めました」 通信教育過程にしたのには理由があった。 「当時働いていたサロンの人に話を聞いたら、「美容師は現場職だから早めに現場に出た方がいいよ」とアドバイスされたので通信にしました」

働きながら専門学校へ

高校を卒業して国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した内田だが、横浜のサロン「ART WORKS」にも同時に入社した。 「当時は人並みに普通に練習して、人並みに遊んでという感じで。周りは全員学生でしたし、美容業は先が長いというのもあり、「もっと他に楽しい人生があるのではないか?」と思い、美容に励めなかった時期でもありました」 内向的な傾向があり、リアルなコミュニケーションが苦手だった内田にとって、インターネットとの出会いが必然であり、自然だった。 「当時から音楽がすごい好きで、いまとは違ってパンクとかロックがすごい好きでした。あの頃はまだ今のようにインターネットやSNSが発達していなくて、ギリギリmixiがあったくらいでしたが、メロコアを語るページの管理人になって、自分が見にいったライブの感想を書き込んだりとかしていました」 そんな内田だが、20歳の時に一度美容業界から離れている。 「単純に一回なんか悶々として、気合いも入れずに美容師やっている状態から離れようと思いましたね。最終的にもう一度美容師には戻りたいなとどこかでは思っていて、その中で一度違う職業を見てみたいなという思いがあり調理人になろうと思いました。調理師学校に行こうかと悩みましたが、志も決まっていない感じでフワフワしていましたね」

続く

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

「ウェイビーズ」の立ち上げ

青山にある某有名美容室の店長として自分の職責を全うしていた馬場だが、33歳のときについに独立を決意した。 「入社1年目から、将来的に独立して自分の店を持つということは目標にはしていました。2年半くらい前から周到に話をして進めていて、会社に対する貢献度という観点からも認めていただいたので、円満に退社することができましたね」 新卒で入社してからずっと働いていたサロンを円満退社した馬場は、原宿に新しくヘアサロン「ウェイビーズ」をオープンした。ウェイビーズという名前は、ラッパーやスケーターなどがよく使う「カッコいい」「イケてる」を意味する英語のスラング「WAVY」に由来している。 「自分のスタートが原宿でしたし、ヘアだけにとどまらず新しいストリートカルチャーを発信できる場所にしていきたいと思い、トレンド発信の街でもある原宿に決めました」

馬場流SNSとの付き合い方

もはや避けて通れないSNSとはどのように向き合っているのか?SNSとの付き合い方を聞いてみた。 「SNSの発達により技術が無くても簡単に売れてしまう部分もあるし、その逆として、すごくいいのに売れないという部分もあります。面白いと思う反面、本物が見つけられない状況なのかなと思いますね。ただ、それが出来て一人前なのかなとも最近思います。もし自分が若手だったら絶対にやっているだろうし、そういう部分で昔とは変わったなと思います」 やはり、最低限のSNSの知識は必要のようだ。 「原宿界隈で美容師をやるなら、スタイルづくりの研究は必須ですし、自分のスタイルを発信する手段としてSNSは有効です。昔のように、雑誌に出ればすぐに売れるとかそんな時代ではないですから。お客様も、SNSで情報を深掘りしてお店に来ますしね」 時代の移り変わりで、雑誌がSNSに取って代わった。しかし、時代が移っても変わらないものもある。 「結局、いくらSNSが流行しようとも、最終的には本物しか残らないと思います。自分は、良きものは必ず世に出ると思っていまし、自分はそういう人間ですね。最終的には、口コミの評価が一番大切だと思います。ただ、最初は知ってもらう必要がある。段階があるのかなと思います。まず、認知してもらうような発信を続けて、ある程度お客様が付いてくれたら、そこからもう一度自分が本当になりたい美容師像を考えてそれにあったやり方、お客様との向き合い方を考えていくべきだと思います。ただ、ある程度はやらないと古く見えてしまいますし・・・。結構渋めのサロンの代表さんとかがやり始めたけど、フォロワー200人しかいませんだとやはりかっこつかないじゃないですか。そういう風には自分はなりたくないので、最低限のSNSの知識は持ち合わせたいなとは思いますね」

イメージする将来像

ウェイビーズをオープンして3年が経った。当然ながら、当初自分が思い描いていた通りにいったこと、いかなかったことが混在する。33歳でSHIMAを独立し、今年で36歳になる。 「トレンドの最前線に居続けたいという思いと、自分の年齢・時代にあった美容師になりたいという思いがあります」 私生活では、子供が生まれたことも馬場に多大な影響を与えた。 「子供が生まれて、モチベーションがもう一つ出てきました。業界の中で何か残したいという思いが強くなりましたね。それと、何より生活がガラリと変わりました。行く場所であるとか、着る服であるとか」 ウェイビーズでのビジョンも、この3年間で変化した。 「もっとマスに向けてやりたいことがあるので、今までのストリートというか、アンダーグランドのイメージを大事にしつつも、もっと広めていきたいですね。それと、生涯プレイヤーでいたいですが、経営に関わらざるを得ないのでそこはもっと勉強していきたいと思っています」 最後に、美容師になってよかったと思える瞬間を聞いてみた。 「ハサミ一本で食えるなと思える点です。もしサロンがなくなって、外に出ざるを得なくなってもハサミ一本でやっていける自信が付きました。決して、SNSの中でのみ存在しているわけではなく、直接会いに行けるのが美容師です。自分は常にそこに立っていたいと思いますね」

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

CHOKi CHOKi

東京に出てから最初のうちは撮影に呼ばれることもなかった馬場だが、自分なりの分析を基にした努力の結果、徐々に撮影に呼ばれて雑誌に登場するようになっていった。そんな馬場を一躍有名にしたのは、CHOKi CHOKiという人気雑誌だった。 「CHOKi CHOKiに最初に出たのは、原宿でストリートスナップを撮影されたのがきっかけですね。その頃は、チョキチョキという雑誌すら知りませんでした。ストリートスナップを撮影した後に、出版社から「あなたが選ばれました」と電話が掛かってきて・・・。「マジすか?」みたいな。そこからCHOKi CHOKiも人気が出てきて、すごかったですね」 読者モデルブームにも乗り、全盛期はそれこそ芸能人に勝るとも劣らない人気があった。しかし、馬場はそんな現実に対して奢ることなく冷静だった。 「自分は冷静でしたね。みんなにも言われていました。もともと田舎者でしたし、原宿に出て来た当初はどの雑誌にも相手にされなかったりとか、それまで順調に来たわけではないので・・・」

ハングリー精神

美容専門学校を卒業した馬場は、某有名美容室に入社した。 「その美容室の就職試験は時期がすごく早くて、合格した場合には学校の規則で併願する事が出来ませんでした。結果的にそこに合格したので、他のサロンは受けませんでした」 新卒として入社した馬場は、最初からエンジン全開で仕事に打ち込んだ。それには人気読者モデルにしか分からない、ある理由があった。 「美容一筋でやって来た人からすると、読者モデルもしている美容師はチャラく見られるというか、自分が出てるの?みたいな・・・そんな雰囲気がありました。自分はそういう風に見られるのが嫌だったので、技術を磨こうと思って毎日練習していました。ただ、今思えば読者モデルで人気が出たからこそ、自分の美容師としての認知度が上がったというのもあります。スタイリストになり、すぐに売上も上がりましたし」 努力の結果、馬場は同期の誰よりも早くスタイリストになった。 「周りは美容学生のエリートの集まりだったので、その中で最初にスタイリストになれたのは嬉しかったですね。福岡という土地から海を渡り都に登り、腹括って「何かやってやるぞ!」とずっと思っていました。家が貧乏だったので親にも恩返しをしたいし、ハングリー精神がありましたね。早く技術者になって、売上を上げてということに貪欲でした。入社して1年目で、全員の売り上げや順位を把握していましたし、自分もここの順位に行きたいと思い、すごく意識していました」

お店の店長として

当時思い描いていたことは、努力の甲斐もあり順調に実現していった。 「自分は人に恵まれたと思いますね。その時に専属で付かせてもらい、色々と教えてもらった女性のスタイリストはそのお店で一番売り上げていました。相当やられましたが(笑)、その方から使いたいと思ってもらえて色々教えていただき、すごく勉強になりました」 スタイリストになり、その後も順調にステップアップをしていった馬場は、ついに働いていた美容室の青山店の店長になった。 「店長になった最初の頃は本当に大変でした。自分のことだけではダメというか、プレイヤーとして意見を言うのと、店長として責任を持ちつつやるのでは訳が違うなと思いました。自分はそれまで散々言いたい放題やっていたなと店長になって分かりましたね(笑)。自分は他店から異動して店長になったので、外様のような感じでした。まずはアシスタントの子たちとの信頼関係を築くことから始めましたね」 その後、順調に店長の職責を果たしていた馬場だったが、33歳の時についに独立を決意した。

続く

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

福岡生まれの普通の少年

馬場の出身は福岡。地元の小・中学校に通っていた、ごく普通の少年だった。 「ミニバスチームとかなかったので、自分たちでバスケットボールチームを作って、バスケをしていましたね。スラムダンクの世代なので、なんとなくかっこいいなと思って・・・」 バスケットボールに熱中していた馬場だが、兄弟の影響もあり小学生の時から服が好きだった。 「4人兄弟の末っ子なんですが、姉の影響が大きかったですね。周りの仲が良いグループも全員末っ子で、上に兄貴とかいて凄くませていました。小学生の最後の頃には、ランドセルを背負っていなかったですから(笑)。休み時間とかに他の生徒が履いているジーパンの銘柄を見て、「あいつリーバイス履いてるな」とか、そんな話をしていましたね」 バスケットボールは、中学生になっても続けた。勉強がとりわけ好きというわけではないが、地元の進学校に入学した。 「高校の頃は、焼肉屋でアルバイトをしたり、バンド活動したり、スケボーしたりと全然勉強しませんでしたね」 バンドはボーカルだった。 「コピーバンドでしたが、オリジナルも少しやっていました。ブラフマンだとか、当時流行していた音楽をやっていましたね」

人生の岐路

自分の進路を決めなければならない時期に差し掛かったときに、服飾の道に行くか、美容の道に行くかで馬場は悩んだ。 「高校2年生の時に福岡の美容専門学校のオープンキャンパスに行ったのですが、その時に「これ楽しいな」と思って美容の道に行くことに決めました。そして、東京に出たいという思いは従来からあったので、東京の美容専門学校に行くことにしました」 美容の道に進むことに決めた馬場は、六本木にある美容専門学校に入学した。 「福岡から東京の美容専門学校を見に行くのはお金がかかるので、東京にある美容専門学校の入学案内をたくさん取り寄せました。その中に「六本木」と書いてあるのを見つけて、「六本木か〜、東京っぽいな」と。それと、自分は奨学金で学校に行っていたのですが、日本育英会の奨学金と学校独自の奨学金を両方併用できるということだったので、ハリウッドに決めました」 進学校に通っていたため、周囲の同級生は大学に進学した。 「4人兄弟の末っ子ということもあり、親には何も言われなかったですね。むしろ賛成されました」

念願の東京での生活

高校を卒業し、ついに念願だった東京での生活が始まった。 「東京に出て来た最初は、千葉に親戚の自宅があったのでそこから1時間30分から2時間かけて通っていました。4人兄弟ということもあり、本当にお金がなかったので」 専門学校には真面目に通っていた。 「学校自体は好きで、小・中・高・専門とほぼ皆勤でした。専門学校も1日位しか休まなかったと思います。アルバイトはいろいろやりましたね。六本木のカラオケボックスや、恵比寿の小さなスーパーで働いたりしましたね」 東京に出てきて1年目から、馬場はファッション誌に読者モデルとして出始めていた。 「もともとミーハーなので、「雑誌に出たいな」という気持ちがありましたし、憧れの街だったので原宿にはよく行っていて人間観察したりしていました。しかし、東京に出てきたばかりの頃は田舎者だし、全然相手にされませんでした(笑)。そこで、どういう人が撮られるのだろうと自分なりに分析した結果、気が付いたら自分も撮られるようになっていました」 smartなどの人気雑誌にも登場することもあった馬場。専門学生の2年生の時に、雑誌「CHOKi CHOKi」の読者モデルに選ばれた。それをきっかけに、馬場の知名度は一気に上がり、周囲の環境も変わってきた。

続く

日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)

忘れられない恩師との出会い

MINXに入社早々シャンプーでつまずき、自信を失っていた山口だったが、目の前の課題をひとつずつ克服していくうちに、徐々に自信を取り戻してきた。そして、2006年についにスタイリストデビューを果たした。そんな山口にとって、MINX創設者の一人である今は亡き鈴木三枝子氏との出会いは忘れられない。 「自分は、鈴木三枝子さんの歴代で一番長く専属についたアシスタントでした。鈴木三枝子さんのアシスタントには必ず問題児が専属になるんです(笑)。とにかく人を褒めるタイプではないので、ケチョンケチョンに言われましたね。ただ、今になると分かることがすごくたくさんあります。仕事の優先順位、仕事の組み立て方とか・・・。例えば、トリートメントでも、「作業が忙しいな」と思いながら塗るよりも、「綺麗になってください!」と思って塗った方が綺麗になるのですが、そう言った思いが足りなくてよく怒られました。あえて正解を教えてくれない人だったのですが、それを自分で見つけろということだったのだと、今になって分かりましたね」 その後、山口は2009年にMINX原宿店の副店長に、2014年に店長に就任した。同期の中では早い出世だった。当時、山口がスタイリストになるや否や撮影の仕事がどんどん入ってきた。 「スタイリストになってすぐに、撮影の仕事やヘアショー等のいわゆる外部の仕事がたくさん入ってきました。そして、気が付いたらサロンワークが疎かになって、失客をしていました。当時は予定をすごく詰め込んでいたので、遅れてきたお客様をお断りしていた時もありました。要は、調子に乗ってしまったということです。美容師って「俺は忙しい」、「俺は偉い」、「俺が作るスタイルは全て可愛い」などと勘違いしてしまうときがあります。俺乗ってるわ的な・・・その安心感、緊張感のなさが一番危険です」

サロンワーク

そんな勘違いしていた時期も、雑誌の廃刊やヘアショーの減少等で終わりを迎える。 「外部の仕事が減ってきたため、サロンワークが中心となってきたのですが、お客様に向き合う時間が増えたため、それからはサロンワークがすごく楽しくなってきましたね」 山口は、お客様との関係性を非常に大切にする。 「僕が美容業界に入ったときはカリスマブームでしたが、いまはそういう時代でもないですし、来たお客様とは一生お付き合いしたいなと思っています。お客様との関係性があれば、お客様は離れないですし、人生を共に歩んでいる気がしてそれが楽しいです。一人のお客様と長いお付き合いをするというのは、うちのコンセプトでもありますし」 2014年に、山口にとって嬉しいことがあった。Japan Hairdressing Awards(JHA)のNEWCOMER OF THE YEARにノミネートされたのだ。全国で20名しかノミネートされないことから考えれば、これがいかにすごい事か分かる。 「JHAは自分でも見に行ったことがありますし、毎年気にしていたのですごく驚きました。自分には縁がないものだと思っていたので。技術が認められたのは凄く嬉しかったですね。」 最後は「技術」であると山口は強調する。 「美容師にとって、とにかく技術が一番大切です。確かに、技術がない美容師にもお客様が帰ってくることがあります。「感じいいな」で美容師を選ぶお客様がいるのは事実です。しかし、本当にカットが上手い美容師に切ってもらえたら、お客様も違いが分かるのです。やはり、技術あってこその美容師だと思います」

生涯美容師宣言

教えられる立場だった山口も、いつからか自分が教える立場になっていた。 「最近は、下を育てるのが面白いですね。今自分が下の子たちに教えると、みんなできるんです。僕が下の時は、いくら教えてもらっても全然できませんでした。それは、教え方に問題があったんだとやっとわかりました。80点しか取れない人が教えたところで、下の子は80点しか取れません。やはり、100点取れる人間が教えないと、下の子も100点取ることができないのです」 山口がMINXに入社して、今年で19年になる。これからどこに向かうのだろうか? 「今が絶好調で、楽しいですし休みもいらないです。また、MINXのなかでタレントや芸能人の方を一番多く担当してるのは自分なので、そこを売りにしていければいいかなと思います。そして、いつかは自分の店を持ちたいなというのはあります。それが実家の店なのか、自分で出す別ブランドの店なのか、いろいろな独立の仕方があると思いますが・・・。自分は19年間MINXで働いてきましたし、僕の恩師は鈴木三枝子です。やっぱり自分はMINXが好きなので、独立するにせよ、MINXとはずっと関わり続けたいという思いはありますね」 日本一トリッキーな美容師は、日本一MINXを愛する男だった。

日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)

シザーズリーグとMINX

長崎を出て、東京にある東京MAX美容専門学校に入学した山口。美容師になるための第一歩を踏み出した。 「学校には真面目に通っていました。休むと単位を埋めるのが大変で・・・。ただ、父親からは「美容師になると遊べなくなるから、学生時代は遊びなさい」と言われていた。なので、それに甘えて少しお金を送ってもらって、みんなでカラオケに行ったり飲みに行ったりはしていましたね」 そんな美容学生時代に、カリスマ美容師ブームを作ったTV番組と出会う。 「僕が美容学生の時にちょうど美容師ブームで、シザーズリーグというTV番組が流行っていました。その時まで、僕は自分の父親とMINXの関係(※MINXの代表である高橋は過去に山口の父親の下で働いていた)を知らなくて。MINXがテレビに出ていた時に、ロゴがカッコいいと思ってそれを父親に話したら「だから昔話したでしょ、お父さんの知り合いだよ。子供の頃に会ったことあるよ」と言われたのですが、子供の頃の記憶なのですっかり忘れていました(笑)」 意外なところで繋がっていた山口とMINXの縁。そんな山口自身も、学生時代にシザーズリーグに出場した経験を持つ。 「スチューデントシザーズリーグという美容学生向けの大会に出たりもしましたね。ギリギリで惜しくも2次通過出来なかったのですが・・・」

MINXに入社

美容学校を卒業したら長崎に帰ろうか悩んでいた山口だが、シザーズリーグでのMINXとの出会いをきっかけに、東京で勝負することを決意した。2年間の学生生活を終えて、2000年の4月に憧れのMINX青山店に入社した。しかし、その喜びに浸かる間も無くいきなり試練が山口を襲った。 「最初はとにかくシャンプーが苦手でした。普通は4月に入社して5月にはシャンプーのテストに合格するのですが、自分が合格したのは8月でした。このお店に18年間いますが、8月に合格する人間はこれまで見たことないですね(笑)」 結局、同期の仲間から大幅に遅れて山口はシャンプーに合格した。 「今考えると、「俺はシャンプーするために美容師になったわけではなんだよ」という甘い考えだったと思います。「シャンプーはつまらないな」とか、そういう考えは指先に伝わってしまいますから。なので、当時は僕だけシャンプー合格していなくて戦力にならないので、雨の日も風の日も朝から晩までずっとモデルハントに行っていましたね」

捲土重来

シャンプーでの試練が山口にとって強烈だったため、自信を取り戻すための時間が必要だった。 「美容師やり始めたばかりなのにシャンプーでこんなに苦労して、自分がスタイリストになってお客様の髪を切って、撮影したりとか取材を受けたりとかしている姿が想像できなくなってしまいました。俺大丈夫かな?みたいな」 そんな悩みに苛まれる毎日が続く中、目の前の課題をこなしていくうちに徐々に光が差してきた。 「少しずつ目の前のことをこなしてくと、自分の方向性が見えてきました。上手くなっていくのが自分でも分かってきました」 何かが変わってきたことを実感した。 「シャンプーやって、カットして、カラーしてパーマもやって色々なことを吸収していき、引き出しが増えてきたときに初めて美容の楽しさが分かってきました。なんとなく父親も美容師やっているし、髪の毛切ってかっこいいなという感覚でこの世界に入ってきたので、入社して1日目でギャップが激しすぎて・・・。こんなこと自分にはできるのか?と悩んでいましたので。先輩も怖いですし(笑)」 そんな山口だが、いつからか自分が髪の毛を切っている姿を想像できるようになってきた。

「全部のカリキュラムが終わったら、モデルさんを200名呼んで自分でカットしてディレクターにチェックしてもらいます。その時に、モデルさんに今まで違う美容室に行ってきたけど、僕にやってもらったのが一番よかったと言ってもらえると、「アシスタントでも喜ばせることができるんだ」と思いすごく嬉しかったですね。それで楽しくなってきて、自分は才能あるかもと思ってしまいました(笑)」

続く

日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)

MINXとの意外な繋がり

山口は長崎県の佐世保出身。父は美容師で実家が美容室だった。 「もともと父親は東京で美容師をしていました。赤坂にあった有名な美容室の総店長をしていまして、父親の部下にMINXの社長である高橋がいました。そして、母親が長崎出身ということもあり長崎に行き、高橋と一緒に美容室を経営していました。それからお店も軌道に乗ったので、その後に高橋はSHIMAに行って、後にMINXを作ったという経緯があります」 最初から凄まじい秘蔵エピソード。山口が現在MINXで働いていることは決して偶然ではなく、運命だったのだ。 長崎で生まれ育った山口。実家が美容室だったこともあり、普通の家庭の生活とは少し違った。 「小学校の時は、毎日遊び過ぎていつも怪我して帰って来てましたね。親が経営している美容室の目の前が公園だったのですが、そこでいつも両親の仕事が終わるまで時間を潰していました。家に一人でいると怖かったので(笑)。だいたい両親の仕事が21時位までだったので、その時間まで公園にいて、その後に一緒にご飯を食べに行って抱えられながら自宅に帰るという生活でした」 中学生時代は、バスケットボールに熱中した。 「当時はスラムダンクの影響でバスケットボールをしていました。でも身長伸びないし、練習しても全然上手くならないしという感じでしたね。当時は監督やコーチもいなくて、ちゃんと教えてくれる人がいませんでした。スラムダンクを参考に、見よう見まねで練習しているような感じでしたね」

不良の音楽

勉強はあまりしなかったようだ。 「小学生ぐらいから美容師になると決めていたので、勉強はまったくしませんでしたね(笑)。「美容師になりなさい」とか、親に何か言われたことはなかったのですが、「親の美容室を継いだ方が良いのかな?」と思っていたので、美容師になろうとは思っていましたね」 中学時代にあれほど熱中したバスケットボールだが、高校ではやめてしまった。 「バスケの特待生が6人入学してきて、自分が試合に出れなくなるのが分かっていたのでバスケはやりませんでした。バスケは5人でやるスポーツなのに、特待生が6名もいたら無理だなと思って。バスケをやらなかったので、どちらかというと高校時代はとにかくワイワイやっていましたね。カラオケ行ったりだとか・・・」 山口には、中2からハマっていた趣味があった。 「中2から高3までずっとロカビリーをやっていました。チーム作って公園で踊っていました。学校から帰って来たら、リーゼント作ってラジカセ流しながら一人で公園行って踊っていましたね。ロックンロールというのが、やはり不良の音楽というのもあり好きでした。クールスとかキャロルとか、日本語の歌詞がキザかっこいいというか、とにかくかっこ良くて。それに共感してハマっていきましたね。マジック、ブラックキャッツとか、本当にロカビリーしか聞いてなかったです」 一人で公園に行って踊っているあたり、もはや筋金入りのロカビリーである。

東京への船出

楽しかった高校生活も、やがて進路を決めなければならない時期に差し掛かった。 「進路を決める段階で、「将来は美容師になる」と先生に言ったら「お前ばかやろーと」言われて。「美容師なんて若いうちしかできないし、若いお客さんしか来ないんだから理容師になりなさない」と言われました。結局、この人には何を相談してもダメだなと思って・・・。まあ結局は無視して美容師になりましたが(笑)」 高校を卒業した山口は、故郷の長崎を離れて東京にある東京MAX美容専門学校に入学した。 「父親が卒業した美容学校でしたし、たまたま父親の同級生が学年主任をされていたので東京MAX美容専門学校に決めました」 美容師になるために長崎から東京に来た山口。東京での新しい生活がついに始まった。

続く