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寺村優太〜美髪アドバイザーの終わりなき冒険 Vol.3〜

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

柳本との出会い

何とか渋谷のサロンに就職した寺村だが、その後程なくして某有名サロンにオープニングスタッフとして加わった。 「そのサロンには美容師歴2ヶ月で入社しました。ほぼ新卒のようなものでしたね」 そこで、寺村は様々な出会いに恵まれた。 「当時、某有名男性アーティストグループのヘアメイクのアシスタントをやらせていただきました。まだ結成されたばかりだったのですが、一気に売れていく姿や、そのグループの社長やマネージャーの仕事への接し方を直近で見れたことは、すごく勉強になりました。特に、ヘアメイクの方に「一般的な人は自分が失敗して成長するが、一流は他人の失敗をも自分の失敗と捉えて成長する」と教えてもらったことは今でも忘れられません」 現Lily代表の柳本と出会ったのも、そのサロンだった。 「そのサロンで柳本と知り合った時から、いつかは独立して店をやろうと話していました。ただ、当時は独立資金もなかったので、柳本は先にそのサロンを退社して、フリーランスとして面貸しサロンで働いて資金を貯めていました」

Lilyの立ち上げ

そんな柳本の後を追うように、寺村も退社して半年間だけフリーランスとして面貸しサロンで働いた。そして、満を持して柳本と共に表参道にLilyをオープンさせた。その後の活躍はご覧の通りである。 「代表の柳本がカット1万円でやり始めた頃は、カットが1万円の美容師なんて全国で4名ほどしかいませんでした。当時はすごく叩かれました。「20代の美容師が何調子乗っているの?」という感じで・・・」 今ではカット1万円は、そこまで珍しくもなくなった。 「最近では増えましたが、昔はマンツーマンで施術する美容室なんてそこまでありませんでした。カット以外のカラーやパーマ、シャンプーは、生産性を上げるためにアシスタントにやらせるのが普通ですから。自分たちは、得意なものに特化してマンツーマンでやるので、その分金額を頂くという感じです」

大切なのは人間力

寺村といえば、SNSを上手に活用しているというイメージだ。そこで、寺村流SNSとの付き合い方を聞いてみた。 「SNSって、ソーシャルネットワーキングサービスの略ですが、ソーシャルとは「社交場」という意味も有しています。要は、現実世界での人との付き合い方がネット上に移行しているだけなのに、そこを勘違いしている人が多いような気がします。基本、現実の世界での人間力を高めていかないと、ネット上でいくら良いこと言っても響かないと思います。ネット上で人から信頼されて支持を集めている人は、実際に会ってもすごく素晴らしい人ばかりです」 ネット上でいくら自分を見繕っても、確固たる人間力がなければそこに説得力は宿らない。 「要領よく小手先のテクニックだけ覚えて情報発信したところで、人には響かないと思います。まずは目の前の人を喜ばせることから始めていけば、必然的にネット上でも大勢の人からの支持を得られるのではないでしょうか?」 寺村自身、SNSを始めた理由は集客やフォロワーを増やしたいと理由ではなかった。 「某有名サロンにいた頃に、フジテレビの「お台場合衆国」というイベントにシャンプー体験などができるブース出店をしました。そこには全国からお客様がたくさん来たのですが、カットがひどい人、カラーで髪の毛がクラゲのようになっている人など、普段店ではあまり見ないような悲惨な現状を目の当たりにしました。その時に、まだまだ美容技術について知らない人が全国にはたくさんいる。知らなくて損している人がたくさんいると思い、自分が情報発信してそれを伝えていこうと思ったのが最初のきっかけです」 情報発信にとどまらず、まだまだこの先やりたいことはたくさんある。 「僕が学生の頃は意味の分からない頭髪検査があり、スポーツ刈りにさせられたりして自分に自信が持てませんでした。そんなことがないように、例えば歯医者が学校に定期的に検診に来るみたいに、地域の美容師が学校に行き髪型を見てくれるような制度をがあればいいなと思っています。中学生で白髪があるのに校則で染められないとか、くせ毛でアフロヘアのようになっているのに縮毛矯正が出来ないとか、やはりおかしいですから」 「美容の力は、人に自信を与えることができると思っています。それが結果的に日本を少しでも良くすることにつながれば最高ですね。自分の美容師としての価値を高めつつ、色々なことにチャレンジして行きたいと思います」 新しいことをやればやるだけ、批判の数もそれだけある。批判が恐ければ何もやらなければいい、ただそれだけのことだ。今度はどんな新しい改革を始めるのか?ますます寺村から目が離せない。

                                                                     完

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

髪を伸ばしたい

高校3年間、寺村は全ての情熱をバスケットボールに注ぎ込んだ。そんな高校生活も、いよいよ進路を決めなければならない時期に差し掛かった。 「今でこそバスケのプロリーグができましたが、当時はありませんでしたし、バスケで食べていくというのは非現実的でした。全国大会ベスト4に入った中の数人がプロに行ける世界でしたので。それでも、バスケに関わる仕事をしたいとは考えていたので、最初はスポーツインストラクターや柔道整復師になろうかと思っていました」 柔道整復師の学校の見学に行った際に、生徒全員が短髪だったことが美容師を目指すきっかけになる。 「小学生時代は床屋代を浮かすため坊主、中学生時代は部活のため坊主、高校は私立で校則が厳しかったため、伸ばせてスポーツ刈りでした。なので、昔から髪への欲求が非常に強くありました。それで、柔道整復師の学校に見学に行ったら生徒が全員短髪で、「またか・・・」みたいな。これでは、自分の人生で一度も髪を伸ばせないと思い、美容師になろうと思いました」

美容師になるため東京へ

高校を卒業した寺村は、東京にある山野美容専門学校に特待生として入学した。 「実家が貧しかったので、そもそも美容学校に入学する学費がありませんでした。そこで、入学金が免除になる学校をいろいろ探したところ、山野美容専門学校が一番好条件だったので決めました」 美容師になると決めたときから、東京で勝負するつもりだった。 「高校のバスケにおいて、ただ単に長時間練習しているだけではダメで、最高の指導者のもとで、合理的な練習をやらなくては強くならないと学びました。なので、もし美容師になるなら田舎にいてはダメで、東京に出なければならないと思っていましたね」 両親や学校の先生には、「美容師は休みも少ないし、立ち仕事だし、毎日練習しなきゃならなくて大変だからやめなさい」と反対された。 「自分にとっては中学校と高校でのバスケで休みがないことや、毎日練習することをすでに経験していました。なので、周囲の反対する理由は全く気になりませんでした。周りにうまくいっている美容師がいなかったので、そのような意見が出るのだと思っていましたね」 山野美容専門学校に特待生で入学し、美容師になるべく東京での新生活がスタートした。 「同じく美容師志望の高校の友達がいたので、彼の家に転がりこませてもらいました。ルームシェアをしていました」

理想と現実の狭間で

いざ専門学校に通うと、最初に自分が想像していたイメージとのギャップに苦しんだ。 「実際に通うと、正直あまり面白く感じませんでした。マネキンに向き合っても誰も喜んでくれないですし、学科の授業もなんのためにやっているのか分からないものが多かったです。全然頭に入りませんでした」 学校の授業よりも、スタッフとして関わっていた外部イベントの方が面白く感じてきて、徐々にそちらに熱中していった。 「美容学生のイベントにスタッフとして参加していたので、そちらの方が楽しくて熱中していました。イベントが近くなると、学校のカフェテリアでどんな構成にしようかとか、どんな音楽かけようかとか、そんなことをずっと考えていました」 そして、いよいよ社会に出なければならない時期に差し掛かった。しかし、就職先はなかなか決まらなかった。 「有名店を10サロンくらい受けたのですが、全て3次面接で落ちました。当時から我が強かったので、協調性がないと思われたのかもしれません」 そんな連敗続きの寺村の心を救ったのは、その年で寿退職が決まっていた担任の言葉だった。 「普通なら、「面接ではこんな言い回しをしなさい」など言われるのですが、その先生は「あなたの良さは分かっているから、いい子ぶって就職するのはやめなさい」と言われました。自分のことを分かってもらえていたのが、すごく嬉しかったですし、励みになりました」 しかし、結局在学中には就職が決まらず、同級生より少し遅れて渋谷のサロンに就職した。

続く

表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)

スポーツに熱中した幼少期

出身は群馬県渋川市。群馬県のほぼ中央に位置し、古くから宿場町として栄えてきた街である。 「自分が中学生までは、子持村という名前でした。すごく田舎でしたね。父親の家系が、祖父の代から鉄骨を作っているような職人家系でしたが、普通の家庭でした」 小学生の時は、陸上の長距離に熱中した。 「陸上は、父親に勧められて始めました。父親曰く、「寺村家は調子に乗りやすいため、小学生から野球やサッカーをやると、中学生から始めた同級生よりうまいため調子に乗る可能性がある」とのことでした。陸上ならあらゆるスポーツの基礎となるということで、陸上をやらされたという感じですね。なので、やりたくてやっていたというわけではなかったです。」 中学生になると、バスケットボール部に入部した。理由は、バスケ部が真面目そうだったからだ。 「小学生までは真面目で内気な性格でした。やんちゃな人が苦手で、小学生の時は一人で絵を描いているのが好きでした。なので、サッカー部とか野球部は、はっちゃけている先輩が多かったので苦手だなと思っていました。それに比べて、バスケ部は全員坊主でハチマキつけてやっているような、ストイックな感じでした。それで、自分に合っていると思い入部しました」

バスケットボール

中学生時代は、部活に明け暮れた。 「今思い返しても、中学生時代は本当に部活漬けでした。部活以外の思い出はないですね。顧問が厳しくて、彼女を作るのも禁止されていました」 中学生時代の練習量は、今振り返っても尋常ではなかった。 「中学校の時は、1年の365日中、364日が部活でした。朝練が7時からなのですが、その前にウォーミングアップとして300メートルの校庭を10周走らなくてはならなくて・・・。朝練の前に3キロ走らなくてはなりませんでした。普通ならそれが朝練なのですが(笑)」 そこまで練習しても、チームとしての結果は出なかった。 「土日も、朝の9時から夕方の4時まで練習していました。それでも、地区予選は勝てても、県大会では1回戦で敗退していました。それで、強いチームはどんな練習をしているのだと疑問に思ったということもあり、私立のバスケ強豪校に入学しました」

バスケ強豪校への入学

中学校を卒業した寺村は、バスケの強豪校に入学した。 「実際入部してびっくりしたのは、練習をしても全然疲れないということでした。これだけでいいの?みたいな。中3の夏に部活を引退してから半年間部活をしていないブランクがあるのに、練習が全然きつくありませんでした」 中学生時代、毎日鬼の練習を重ねていた寺村にとって、高校の練習は物足りなかった。 「中学生時代から、毎日練習する癖が付いていたので、普通の練習では物足りなくて、朝は誰よりも早く来て練習して、練習後も一番最後まで残って自主練をやっていました」 毎日の練習の成果として、寺村には確実に上手くなっているという実感があった。そして、3年生が引退して新チームになると、中学校時代には県選抜に選ばれていた同級生達を差し置いて、ベンチ入りするようになった。 「中学校時代は、目指しているものがみんなバラバラでした。内申書のためにやっている人、県大会に出たいと思っている人、辞めたいけど辞める勇気がないためイヤイヤ続けている人など・・・。しかし、高校のバスケ部は、全員が同じ方向を向いていました。また、教師の教え方も上手いし、みんなのモチベーションも高い。そんな環境の中にいるうちに、指導方法と努力の方向が間違っていたら、いくら頑張っても結果が出ないということに気付きました」 高校時代のバスケを通じての成長が、後の寺村の人間形成に大きく影響を及ぼしていく。

続く

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

人生の転機

オシャレKINGになり、内田の名前は一瞬にして全国に響き渡った。そんな中、技術を磨くためにサロンから1年間モデルの禁止を言い渡された。 「もともと硬派というか、美容師以外のフィールドの活動に対してネガティブな雰囲気があったので、モデルやDJをしている自分はまさに異端なポジションでした。また、当時はその硬派な雰囲気に反抗心もありました。しかし、今はその禁止の期間があって良かったと思っています」 26歳でスタイリストになった内田は、その後「vetica」のクリエイティブディレクターに就任、29歳でJHAの新人賞にノミネートされるなど、順風満帆な美容師人生を歩んでいた。しかし、2015年の2月に、内田のその後の人生に大きな影響を及ぼす、ある事態に直面した。ウィルス性の病気で、入院を余儀無くされたのだ。初動が遅れた場合には後遺症が残ってしまうぐらい、危険な状態だった。結局、内田は2週間の入院を余儀なくされた。これまで特に大きな怪我や病気をしたことがなかった内田にとって、これは初めての経験だった。入院中、自分の将来について真剣に考えた。そして、出した答えが独立することだった。 「これまで何度か独立を考えたことはありました。30歳の時に「自分のお店をやりたいです」とオーナーに相談した時に、「うちの傘下で別ブランド出してやったら?」と言われたので、「vetica」を設立しました。それが、独立したいと思った最初の波でした」

「LECO」設立

これまで何度か独立を考えたことがあった内田だったが、ウィルス性の病気での入院の経験は、その意思を確固たるものにするのに十分だった。そして、「vetica」設立から9年の年月を経て、内田はついに独立して新しく「LECO」を設立した。「LECO」の四角いロゴマークには、その部屋には誰でも入ってきていいし、自由に過ごしてもらっていいという意味が込められている。 「今も紆余曲折でやっています。外から入ってくる人達が、僕を神格化して来ることがあるので、そこのギャップを埋めるのが大変ですね。僕も普通の人間ですし、初期の段階ではそこでぶつかることもありました。ただ、やはり自分の考えが100%反映できる場所があるというのはいいなと思いますね」 現在は経営者でもあるが、プレイヤーであることにはこだわる。 「ゆくゆくはその割合もどんどん変わってくると思うのですが、プレイヤーを辞めるという選択肢はないと思いますね。それは世間も求めていないと思いますし。僕自身のアイデンティティを保つためにも、それは絶対大事かなと思っています。難しさはあるのでしょうけどね」

美容業界のこれから

現在の美容業界は、SNSとは切っても切れない関係にある。美容業界でも屈指のフォロワー数を持つ内田の考えを聞いてみた。 「楽しんでやればいいと思いますね。今はいろんなことが数値化されるので、そこに捉われて承認欲求が強くなるところがあります。もちろんそういうところも気にならないわけではないですが、そこに固執せずに自分がやりたいことを記録としてやるぐらいの感覚がいいと思います」 SNSも含め、美容業界は少しずつ変わってきている。 「今は僕よりも下ぐらいの世代の人たちが元気で、業界を盛り上げています。新しい波には敏感でいたいですね。去年ぐらいから、今までの概念が大きく変わって来ているので、自分もちゃんとした選択をしたいです。今は下の子達もいるのでその子達が色々とやれる環境を作りたいですね。今は欲求を前に出すとダサいという風潮がありますが、僕は貪欲な方がいいと思います。貪欲でガツガツしている人の方が、手に入れられるものが多い気がします」 一見飄々としていてクールに見えるが、その中身は真逆である。誰よりも自分の気持ちに正直に、貪欲に生きているのが内田聡一郎なのだ。 最後に、内田が毎年春の恒例としてアップしている「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」を記しておく。 「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」 ①美容師以外のコミュニティーをつくる。 ②自分らしく着飾る。 ③様々な音楽を聴き、生で体感する。 ④高くてうまいメシを定期的に食べる。 ⑤むちゃくちゃ恋愛する。 ⑥先輩や同期とケンカする。 ⑦死ぬほど(ちょっと死ぬくらい)練習する。

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

2足の草鞋

高校を卒業し、念願の美容師になり横浜のサロン「ART WORKS」で働いていた内田だったが、20歳の時に包丁を一式揃えて、飲食店で調理人として働き始めた。 「厳密にいうと、美容師と調理人とでほぼ同時進行のようなところがありました。調理の世界にいっても、美容の技術は忘れたくないという思いはありました。美容免許も持っているわけですし。副業のような形で、半々ぐらいでやっていましたね」 「ART WORKS」を退社した内田は、自宅から近かった「Cut Line」に入社した。スタッフ同士の仲も良く、居心地の良いサロンだった。お酒の飲み方から夜遊びの仕方まで色々教わった。 仲間にも恵まれて充実した生活を送っていた内田だったが、東京で働きたいという思いを抑えることが出来ずに、2年間働いた後に「Cut Line」を退社した。しかし、当時の仲間との関係性は、 15 年以上経った今でも続いている。

「VeLO」との出会い

東京で美容師として働くために選んだサロンが、後に15年間共に時間を過ごすことになる鳥羽直泰氏、赤松美和氏が立ち上げた「VeLO」だった。 「簡単に言うと偶然の出会いというか・・・。オーナーの奥さん(赤松美和氏)が働いていたお店に僕が偶然行ったのがきっかけです。本当はそのサロンに入社しようと思っていたのですが、そこで担当してくれたオーナーの奥さんに、「旦那とお店やるからオープニングで働かない?」と誘ってもらったのが最初のきっかけですね」 「VeLO」に入社した内田は、アシスタントからスタートした。 「実際、少し美容から離れていたということもありましたし、東京のサロンは学びが多いだろうという気持ちもあったので、アシスタントから始めました」 東京に出て来てから、徐々に読者モデルの仕事も増えていった。 「一度美容師をやめて東京に出て来たこともあり、これまでずっと美容一筋でやってきた人より遅れているため、なんとか名を馳せたいという気持ちが強かったですね。それで、DJなども始めました。当時は、とにかく色々なことをやろうという気持ちが強かったですね」 アシスタント時代は、レッスンが終わると毎週のようにクラブに繰り出した。ときには、便器に頭を突っ込んで吐いてしまう事もあった。泥酔状態のまま朝方に帰宅し、着替えてそのまま出勤するという日もあった。

「CHOKi CHOKi」のKINGとして

「VeLO」に入社した翌年、内田が24歳の時に人気雑誌「CHOKi CHOKi」でオシャレKINGになった。当時のオシャレKINGは、それこそ芸能人と同じくらいの影響力を有する存在だった。そんな「CHOKi CHOKi」のオシャレKING達は、やがて新たなる美容師ブームを創り出していった。 「あれから全てが変わりましたね。第2世代ブームというか・・・。カリスマ美容師世代ブームが終わって、そこからSHIMAの奈良君とか、彼らを取り巻く原宿の美容師達はオシャレだというブームが来たので、そこに上手く乗らせてもらったというのがすごくありましたね。当時の勢いは本当にすごくて。正直浮き足立ちましたが、もともと自分を俯瞰する性格があるので、変なことにはなりませんでしたね」 「CHOKi CHOKi」のオシャレKINGになり一躍有名人になった内田だが、もちろんいいことばかりではなかった。 「「CHOKi CHOKi」のキングになって、満を持してデビューしてスタイリストになったときに、最初は爆発的に売り上げも伸びたりして話題になりました。すごくちやほやされてた部分があったのですが、それからちょっとすると、それが横ばいになり、そこから少し下がってくる時期がありました。その時に2チャンネルとかで叩かれたりして、精神的に人間不信に陥りました。実は友達も同じように自分のことを思っているのではないかとか・・・。会う人会う人が、自分を見下して接しているのではないかと感じました」 人間不信に陥った内田だったが、それを打ち破ったのは自信だった。 「自分自身が前に出るよりも、自分が作りだしたものが前に出た瞬間を感じた時に、それがなくなりました」

続く

美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)

内気な野球少年

生まれは神奈川県。小学生の時は野球をやっていた。 「親父が野球を好きだったという事もあり、勧められて少年野球に入りました。親父とキャッチボールとかよくしていたので、その流れでという感じですね。小学校時代は、ピッチャーだったので割と花形ポジションでいい感じでした」 ハサミは右手だが、本来は左利き。小学校のときは楽しく野球をしていたが、中学校に入ると状況が一変した。 「中学校のチームが県内でも有数の強いチームで、ギリギリスタメンではないという微妙な立ち位置でした。なので、若干逃げ腰というかそんな感じでしたね」 中学校を卒業した内田は、横浜商工高校に入学した。 「レベルが高い公立を受けたのですが、見事に落ちて・・・。それで滑り止めの高校に行きました。高校デビューみたいな感じでした。中学校時代は坊主でしたし、女っ気もなかったような感じでしたので(笑)。そこから、いわゆる「モテてやるぞ!」という感じで髪型やファッション、交友関係とかを意識し始めましたね。部活は特にしていなかったです」

美容師か調理師か

坊主姿で毎日厳しい野球の練習に明け暮れた中学生が、自由を手に入れた瞬間だった。そんな高校生活も、やがて進路を決める時期に差し掛かった。 「高3から進路を意識し始めて、アパレルか美容師か調理師か悩んでいました。当時は美容業界がカリスマ美容師ブームだったりでイケイケで、やはり美容師かなと思いました。思い立ったら行動が早いタイプなので、すぐに美容院でバイトができたらいいなと思い、近所の美容院で働き始めましたね。床掃きとかがメインでしたが・・・」 高校を卒業した内田は、国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した。 「もともと渋谷か原宿の学校に行きたいなと思っていて・・・、単純な理由ですが。国際文化のパンフレットを見ていた時に、有名なサロンに入っている人が多かったというのもあり、国際文化に決めました」 通信教育過程にしたのには理由があった。 「当時働いていたサロンの人に話を聞いたら、「美容師は現場職だから早めに現場に出た方がいいよ」とアドバイスされたので通信にしました」

働きながら専門学校へ

高校を卒業して国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した内田だが、横浜のサロン「ART WORKS」にも同時に入社した。 「当時は人並みに普通に練習して、人並みに遊んでという感じで。周りは全員学生でしたし、美容業は先が長いというのもあり、「もっと他に楽しい人生があるのではないか?」と思い、美容に励めなかった時期でもありました」 内向的な傾向があり、リアルなコミュニケーションが苦手だった内田にとって、インターネットとの出会いが必然であり、自然だった。 「当時から音楽がすごい好きで、いまとは違ってパンクとかロックがすごい好きでした。あの頃はまだ今のようにインターネットやSNSが発達していなくて、ギリギリmixiがあったくらいでしたが、メロコアを語るページの管理人になって、自分が見にいったライブの感想を書き込んだりとかしていました」 そんな内田だが、20歳の時に一度美容業界から離れている。 「単純に一回なんか悶々として、気合いも入れずに美容師やっている状態から離れようと思いましたね。最終的にもう一度美容師には戻りたいなとどこかでは思っていて、その中で一度違う職業を見てみたいなという思いがあり調理人になろうと思いました。調理師学校に行こうかと悩みましたが、志も決まっていない感じでフワフワしていましたね」

続く

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

「ウェイビーズ」の立ち上げ

青山にある某有名美容室の店長として自分の職責を全うしていた馬場だが、33歳のときについに独立を決意した。 「入社1年目から、将来的に独立して自分の店を持つということは目標にはしていました。2年半くらい前から周到に話をして進めていて、会社に対する貢献度という観点からも認めていただいたので、円満に退社することができましたね」 新卒で入社してからずっと働いていたサロンを円満退社した馬場は、原宿に新しくヘアサロン「ウェイビーズ」をオープンした。ウェイビーズという名前は、ラッパーやスケーターなどがよく使う「カッコいい」「イケてる」を意味する英語のスラング「WAVY」に由来している。 「自分のスタートが原宿でしたし、ヘアだけにとどまらず新しいストリートカルチャーを発信できる場所にしていきたいと思い、トレンド発信の街でもある原宿に決めました」

馬場流SNSとの付き合い方

もはや避けて通れないSNSとはどのように向き合っているのか?SNSとの付き合い方を聞いてみた。 「SNSの発達により技術が無くても簡単に売れてしまう部分もあるし、その逆として、すごくいいのに売れないという部分もあります。面白いと思う反面、本物が見つけられない状況なのかなと思いますね。ただ、それが出来て一人前なのかなとも最近思います。もし自分が若手だったら絶対にやっているだろうし、そういう部分で昔とは変わったなと思います」 やはり、最低限のSNSの知識は必要のようだ。 「原宿界隈で美容師をやるなら、スタイルづくりの研究は必須ですし、自分のスタイルを発信する手段としてSNSは有効です。昔のように、雑誌に出ればすぐに売れるとかそんな時代ではないですから。お客様も、SNSで情報を深掘りしてお店に来ますしね」 時代の移り変わりで、雑誌がSNSに取って代わった。しかし、時代が移っても変わらないものもある。 「結局、いくらSNSが流行しようとも、最終的には本物しか残らないと思います。自分は、良きものは必ず世に出ると思っていまし、自分はそういう人間ですね。最終的には、口コミの評価が一番大切だと思います。ただ、最初は知ってもらう必要がある。段階があるのかなと思います。まず、認知してもらうような発信を続けて、ある程度お客様が付いてくれたら、そこからもう一度自分が本当になりたい美容師像を考えてそれにあったやり方、お客様との向き合い方を考えていくべきだと思います。ただ、ある程度はやらないと古く見えてしまいますし・・・。結構渋めのサロンの代表さんとかがやり始めたけど、フォロワー200人しかいませんだとやはりかっこつかないじゃないですか。そういう風には自分はなりたくないので、最低限のSNSの知識は持ち合わせたいなとは思いますね」

イメージする将来像

ウェイビーズをオープンして3年が経った。当然ながら、当初自分が思い描いていた通りにいったこと、いかなかったことが混在する。33歳でSHIMAを独立し、今年で36歳になる。 「トレンドの最前線に居続けたいという思いと、自分の年齢・時代にあった美容師になりたいという思いがあります」 私生活では、子供が生まれたことも馬場に多大な影響を与えた。 「子供が生まれて、モチベーションがもう一つ出てきました。業界の中で何か残したいという思いが強くなりましたね。それと、何より生活がガラリと変わりました。行く場所であるとか、着る服であるとか」 ウェイビーズでのビジョンも、この3年間で変化した。 「もっとマスに向けてやりたいことがあるので、今までのストリートというか、アンダーグランドのイメージを大事にしつつも、もっと広めていきたいですね。それと、生涯プレイヤーでいたいですが、経営に関わらざるを得ないのでそこはもっと勉強していきたいと思っています」 最後に、美容師になってよかったと思える瞬間を聞いてみた。 「ハサミ一本で食えるなと思える点です。もしサロンがなくなって、外に出ざるを得なくなってもハサミ一本でやっていける自信が付きました。決して、SNSの中でのみ存在しているわけではなく、直接会いに行けるのが美容師です。自分は常にそこに立っていたいと思いますね」

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

CHOKi CHOKi

東京に出てから最初のうちは撮影に呼ばれることもなかった馬場だが、自分なりの分析を基にした努力の結果、徐々に撮影に呼ばれて雑誌に登場するようになっていった。そんな馬場を一躍有名にしたのは、CHOKi CHOKiという人気雑誌だった。 「CHOKi CHOKiに最初に出たのは、原宿でストリートスナップを撮影されたのがきっかけですね。その頃は、チョキチョキという雑誌すら知りませんでした。ストリートスナップを撮影した後に、出版社から「あなたが選ばれました」と電話が掛かってきて・・・。「マジすか?」みたいな。そこからCHOKi CHOKiも人気が出てきて、すごかったですね」 読者モデルブームにも乗り、全盛期はそれこそ芸能人に勝るとも劣らない人気があった。しかし、馬場はそんな現実に対して奢ることなく冷静だった。 「自分は冷静でしたね。みんなにも言われていました。もともと田舎者でしたし、原宿に出て来た当初はどの雑誌にも相手にされなかったりとか、それまで順調に来たわけではないので・・・」

ハングリー精神

美容専門学校を卒業した馬場は、某有名美容室に入社した。 「その美容室の就職試験は時期がすごく早くて、合格した場合には学校の規則で併願する事が出来ませんでした。結果的にそこに合格したので、他のサロンは受けませんでした」 新卒として入社した馬場は、最初からエンジン全開で仕事に打ち込んだ。それには人気読者モデルにしか分からない、ある理由があった。 「美容一筋でやって来た人からすると、読者モデルもしている美容師はチャラく見られるというか、自分が出てるの?みたいな・・・そんな雰囲気がありました。自分はそういう風に見られるのが嫌だったので、技術を磨こうと思って毎日練習していました。ただ、今思えば読者モデルで人気が出たからこそ、自分の美容師としての認知度が上がったというのもあります。スタイリストになり、すぐに売上も上がりましたし」 努力の結果、馬場は同期の誰よりも早くスタイリストになった。 「周りは美容学生のエリートの集まりだったので、その中で最初にスタイリストになれたのは嬉しかったですね。福岡という土地から海を渡り都に登り、腹括って「何かやってやるぞ!」とずっと思っていました。家が貧乏だったので親にも恩返しをしたいし、ハングリー精神がありましたね。早く技術者になって、売上を上げてということに貪欲でした。入社して1年目で、全員の売り上げや順位を把握していましたし、自分もここの順位に行きたいと思い、すごく意識していました」

お店の店長として

当時思い描いていたことは、努力の甲斐もあり順調に実現していった。 「自分は人に恵まれたと思いますね。その時に専属で付かせてもらい、色々と教えてもらった女性のスタイリストはそのお店で一番売り上げていました。相当やられましたが(笑)、その方から使いたいと思ってもらえて色々教えていただき、すごく勉強になりました」 スタイリストになり、その後も順調にステップアップをしていった馬場は、ついに働いていた美容室の青山店の店長になった。 「店長になった最初の頃は本当に大変でした。自分のことだけではダメというか、プレイヤーとして意見を言うのと、店長として責任を持ちつつやるのでは訳が違うなと思いました。自分はそれまで散々言いたい放題やっていたなと店長になって分かりましたね(笑)。自分は他店から異動して店長になったので、外様のような感じでした。まずはアシスタントの子たちとの信頼関係を築くことから始めましたね」 その後、順調に店長の職責を果たしていた馬場だったが、33歳の時についに独立を決意した。

続く

人気読者モデルから人気美容師へ。「ウェイビーズ」を率いて美容業界に新たな旋風を巻き起こす、馬場一馬のこれまでとこれから。(敬称略)

福岡生まれの普通の少年

馬場の出身は福岡。地元の小・中学校に通っていた、ごく普通の少年だった。 「ミニバスチームとかなかったので、自分たちでバスケットボールチームを作って、バスケをしていましたね。スラムダンクの世代なので、なんとなくかっこいいなと思って・・・」 バスケットボールに熱中していた馬場だが、兄弟の影響もあり小学生の時から服が好きだった。 「4人兄弟の末っ子なんですが、姉の影響が大きかったですね。周りの仲が良いグループも全員末っ子で、上に兄貴とかいて凄くませていました。小学生の最後の頃には、ランドセルを背負っていなかったですから(笑)。休み時間とかに他の生徒が履いているジーパンの銘柄を見て、「あいつリーバイス履いてるな」とか、そんな話をしていましたね」 バスケットボールは、中学生になっても続けた。勉強がとりわけ好きというわけではないが、地元の進学校に入学した。 「高校の頃は、焼肉屋でアルバイトをしたり、バンド活動したり、スケボーしたりと全然勉強しませんでしたね」 バンドはボーカルだった。 「コピーバンドでしたが、オリジナルも少しやっていました。ブラフマンだとか、当時流行していた音楽をやっていましたね」

人生の岐路

自分の進路を決めなければならない時期に差し掛かったときに、服飾の道に行くか、美容の道に行くかで馬場は悩んだ。 「高校2年生の時に福岡の美容専門学校のオープンキャンパスに行ったのですが、その時に「これ楽しいな」と思って美容の道に行くことに決めました。そして、東京に出たいという思いは従来からあったので、東京の美容専門学校に行くことにしました」 美容の道に進むことに決めた馬場は、六本木にある美容専門学校に入学した。 「福岡から東京の美容専門学校を見に行くのはお金がかかるので、東京にある美容専門学校の入学案内をたくさん取り寄せました。その中に「六本木」と書いてあるのを見つけて、「六本木か〜、東京っぽいな」と。それと、自分は奨学金で学校に行っていたのですが、日本育英会の奨学金と学校独自の奨学金を両方併用できるということだったので、ハリウッドに決めました」 進学校に通っていたため、周囲の同級生は大学に進学した。 「4人兄弟の末っ子ということもあり、親には何も言われなかったですね。むしろ賛成されました」

念願の東京での生活

高校を卒業し、ついに念願だった東京での生活が始まった。 「東京に出て来た最初は、千葉に親戚の自宅があったのでそこから1時間30分から2時間かけて通っていました。4人兄弟ということもあり、本当にお金がなかったので」 専門学校には真面目に通っていた。 「学校自体は好きで、小・中・高・専門とほぼ皆勤でした。専門学校も1日位しか休まなかったと思います。アルバイトはいろいろやりましたね。六本木のカラオケボックスや、恵比寿の小さなスーパーで働いたりしましたね」 東京に出てきて1年目から、馬場はファッション誌に読者モデルとして出始めていた。 「もともとミーハーなので、「雑誌に出たいな」という気持ちがありましたし、憧れの街だったので原宿にはよく行っていて人間観察したりしていました。しかし、東京に出てきたばかりの頃は田舎者だし、全然相手にされませんでした(笑)。そこで、どういう人が撮られるのだろうと自分なりに分析した結果、気が付いたら自分も撮られるようになっていました」 smartなどの人気雑誌にも登場することもあった馬場。専門学生の2年生の時に、雑誌「CHOKi CHOKi」の読者モデルに選ばれた。それをきっかけに、馬場の知名度は一気に上がり、周囲の環境も変わってきた。

続く