古木数馬〜時代を切り拓く若き経営者 Vol.3〜
現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。
半年間出張カットをしていた古木だが、売り上げは徐々に上がっていった。出張カットは、何にも縛られずに自分道を見つけるという古木の哲学には合っていた。しかし、生活が不安定だったため、東京の有名サロンに入ろうと考え始めていた。
「先輩から紹介され、お店から内定ももらっていました。しかし、自分の生き方を考えたときにやはりこれじゃないと思い、先輩に謝って辞退しました」
出張カットをしているうちに、美容師と顧客のニーズのズレを感じ始めた。顧客が求めているのは設備云々ではないのだ。そして、母親の勧めもあり、自宅にシャンプー台を付けて、保健所に審査出したところ、なんと審査に通ってしまった。ついに、自宅の2階が美容室になった。
「まるで独立を疑似体験した感じでした。出張カットを始めるまでは、常に追われていてとても苦しかったです。髪型を作る才能があっても、最終的には美容師は体力勝負なので売り上げで評価される。一人の顧客の満足度では評価されません。しかし、それも評価の一つであるべきだと思います。出張カットなどを通じてそれを自分は体験できて、新しい美容師の生き方を見つけた気がしました」
自宅のサロンは徐々に軌道に乗り、時間とお金の余裕が出来た古木は、自分の知見を広めるために色々な人に会ったり、経営セミナーに参加したりと精力的に動いていた。
「色々な人に会ううちに、美容業界は他の業界と比べて構造的におかしいと気付きました」
また、美容師としても一つの疑問を感じていた。
「美容師は一対一でお客様と接するので、深い関係を築けて色々とアドバイスできるのが強みなのですが、ほとんどの女性が美に対する自信が無かったり、自分の良いところを分かっていないと感じました」
この二つの疑問を解決する方法を模索していた時に、たまたま経営者のお客様に相談したところ「起業家なら変えられる」とアドバイスされ、起業する決意をした。
「課題解決のルートが見えてきた気がしました。バラバラだったことが繋がったというか、これなら二つのことを同時に解決できると思いましたね。今までの人生を考えたときに、これこそが自分がやることだと思いました」
その後、LiME株式会社を設立し、美容師のカルテ管理ができるアプリを制作した。その後の活躍は周知の通りである。
「自分は、美容師を体験していることが一番の価値だと持っています。例えば、IT業界の人が美容業界を知ろうとすると、10年はかかると思います。実際自分もかかりました。しかし、美容業界の人がITを知ろうすると、3年で済みます。なぜなら、IT業界は教育が充実していて学習コストが低いからです。すなわち、美容業界の人間がITを知った方が圧倒的に効率的と言えるのです」
社長業をこなす傍で、古木は美容師としての活動も継続している。
「業界外から美容業界に参入する人は、お客様優位なサービスばかり作る傾向にあります。しかし、本当に業界内で困っているのはお客様ではなくて美容師です。美容師の課題解決をしない限り業界は決して変わらないし、サービスも浸透しません。なので、自分も美容師を続けることに価値があると思っています」
経営者として、美容師としての古木の歩みは止まらない。古木が美容師をやってきた中で矛盾を感じていた、ピラミッドの頂点や売上を上げることに対してのみ評価されるということ。これはあくまで美容業界内での評価であり、お客様目線で考えると無関係であると古木は言う。
「お客様からすれば、自分を本当に美しくしてくれる人に出会いたいわけで、これはピラミッドの頂点にいる美容師じゃなくてもできることです。相性が合うとか、センスがあるとかそういうことで解決できます。しかし、いまの世の中はそういう視点で美容師とお客様が出会えるようになっていません」
確かに、それは既存のクーポンサイトでは決して探せない、本当に欲しい情報だ。
「それは、当該美容師さんの顧客の声がネット上にあがらないと分からないものです。しかも、新規ではなく、その美容師のもとにずっと通っている顧客の声こそ、本当にお客様が知りたいことなのです。それが自動で溜まって自動で発信できる仕組みを作りたいと思っています」
今年の2月には、@cosme運営のアイスタイル社より7000万円を調達するなどその勢いは加速するばかりである。古木が変革する美容業界を見ることができる日も、そう遠くはないはずだ。
美容師になることを決意し、高校を卒業した後に横浜の美容専門学校に入学した古木。これまでの学生生活とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。
「中学2年生くらいから、学校は好きな授業しか出ない感じでした。高校の時は、留年したくなかったので単位ギリギリで学校に行っていたような感じでした。しかし、美容専門学校時代は自分がやりたいことが見つかったので、2年間無遅刻無欠席でした。成績も技術と学科ともトップで卒業しました」
成績優秀でまさに模範的な生徒だったが、先生には嫌われていた。
「不公平というか、納得できないことが許せないタイプでした。入学した時にメイクの授業があり、自分たちはメイクボックスを学校から9万円で購入しました。しかし、翌年入学してきた後輩たちは、中に入っている道具が自分たちのときより少ないにも関わらず値段が上がっていました。それが許せなくて学校のNo.2の偉い人にクレームを言ったところ、何故か逆ギレされましたね」
納得できないことがあれば、例え立場が違ったとしても自分の意見を主張した。
「結構そういうことが繰り返しあって・・・。自分の立場が悪くなったとしても、納得できないことがあると戦いたくなってしまうんです」
そんな古木に対して、学校の風当たりは徐々に強くなった。
「就活でも、先生に「ごめん手伝えないんだ・・・」と言われたりしましたね。他にも、通常は就職決まったら学校にサロン名と名前が張り出されるのですが、自分は張り出されませんでした。学校の中で2番目に早く決まったのに、1番目の生徒と2番目の自分だけ張り出されなかったですね(笑)」
結局張り出されることはなかったが、人気サロンであるapishに就職が決まった。学校では2番目の速さだった。
「apishに入社できたのは運だったと思います。そんな実力とかあるタイプではなかったので・・・。通常の美容専門学生は、他にも掛け持ちで複数のサロンの面接を受けたりすると思います。しかし、自分には就職に関する情報があまりなく、「そんなにたくさん受けていいのだろうか?」と思っていたので、apish一本で行こうと思い、他には受けませんでした」
そうしてついに、古木の美容師としても人生がスタートした。それは同時に、新たな試練の始まりでもあった。
「僕らの代は3人しか入社しなかったのですが、それまでは毎年10人くらい入社していました。なので、10人分の仕事が落ちてくるような感じで、すごく大変でした(笑)」
3年間働いた後にapishを退社し、古木は代官山のサロンに移った。
「そんなに大きなお店ではなく、お客様一人一人を大切にするお店でした。自分には合っていると思っていましたね」
そこで、古木は思いもよらない事態に遭遇する。なんと、突然クビを宣告されたのだ。
「大きいお店にいた時のテンションでそのまま行ってしまったということもあり、ボス的に受け入れられないところがあったのだろうと思います。また、下の子達に対する影響力が強すぎるところもあったので、「大きいサロンに戻るか、自分でやりなさい」と言われて解雇されてしまいました」
突然のクビ宣告・・・。当然のことながら、古木の落ち込み方は尋常ではなかった。
「今考えると、当時は鬱病のような感じだったと思います。今まで頑張ってきたことを全て失ったような気がしました。当時はスタイリストでお客様がちゃんと付いていた訳ではなかったので、この先どうなるのだろうと不安で本当に絶望的でした。生きる気力がなくなり、1ヶ月間ぐらいずっと寝込んでいました」
しかし、いつまでも落ち込んで寝込んでいるわけにもいかない。そこで仰天の行動に出た。
「当時、夜になると寝れなくなる状態が続いており、「身体が疲れていれば寝れるだろう」ということで、旅に出ようと考えました」
旅に出る決意をした古木は、友達と二人で1台のバイクを二人乗りして、屋久島の縄文杉を見るため西に向かった。
「ものすごく大変でした。お金がなかったので、屋久島では宿を取っていなかったのですが、4月なので温度が氷点下でした。島民の方に「それだと死ぬよ」と言われましたね(笑)」
体温を上げないと危険ということで、古木達は朝まで歩くことにした。
「朝方の3時頃に、24時間営業のコインランドリーを見つけたので、「ここで寝よう!」ということでコインランドリーで寝て暖を取りました。そんな激しい旅でした」
屋久島から帰ると、これまで夜に寝れなかったことが嘘のように、寝れるようになった。また、今まで経験したことのない過酷な状況下をくぐり抜けたことは、古木に新たな感覚と自信をもたらした。
「旅の最中はお金もなかったので、公園や駐車場などで寝ていました。なので、自宅の布団の上で寝るということ、お風呂に入れるということに感動して、あらゆることにありがたみを感じることができるようになりました」
屋久島での旅を通じて、うつ病のような状態を脱した古木。友達のヘアカットをしてあげたことをきっかけに、美容師としての新たな仕事のやりがいに気づいた。
「当時、友達に頼まれてカットとパーマをしたことがありました。自分は無料でやってあげるつもりだったのですが、「プロにやってもらったのだから取っておいてよ」ということで5000円くれました。これまでは常に何かに追われて仕事をしていたので、純粋に楽しく髪型を作ってお金をもらえたことにすごく感動しました。「美容師の仕事ってこういうことなんだ」と実感しました」
今まで有名店で働くことや、売上を上げることに縛られて生きてきた古木だったが、ついにその呪縛から逃れて自由になった瞬間だった。
出身地は神奈川県横浜市。小学生の頃は平和主義者だった。
「とにかく競争があまり好きではなかったです。例えば早い者勝ちで並ぶとか、給食で並んで取りに行くとかそういう時に、先に並ぼうとか全く無かったですし、仮に自分が先に並んでいて誰かに横入りされたとしても全く気にならなかったですね。そもそも戦うというか、競争が嫌いでしたね」
人付き合いは、得意ではないが苦手でもなかった。
「割とどんな人でも仲良くしていました。もともと内向的な感じで人と話したりするのがあまり好きなタイプではなかったのですが、偏見とかなく誰とでも同じように付き合って遊んでいましたね」
ここで、古木が忘れられない小学生時代の面白いエピソードを紹介してくれた。
「当時、やんちゃな友達がいてある同級生をいじめようとして自分にも参加するよう促されました。しかし、その同級生は友達だからと断ったところ、自分がシカトされ始めたのですが、全く気付きませんでした。それで、友達が僕の母親にシカトされていることを伝えてくれたというエピソードがあります(笑)」
内向的だったと言いつつ、意外と神経が図太い小学生だったようだ。その後、古木は地元の中学校を卒業して、少し離れた私立の高校に入学した。
「高校時代は心理学に興味があったので、いろいろな本を読んで勉強しましたね。学校の勉強は興味が無かったので、全然しなかったですが・・・。心理学の延長線上で、占いの本なども読んでいました。当時は「人」に興味があり、そういった本を読んで調べていましたね」
血気盛んな高校時代に、自ら心理学を学ぶ男子生徒はそうはいないだろう。さらには心理学のみに止まらず、古木の好奇心は「自由」という壮大なテーマに向けられ、そこで仰天の行動に出る。
高校時代は縛られるのが嫌というか、ルールに従うのが嫌でしたね。なんで学校に行かなければならないのか意味が分かりませんでした。そこで、自分の中で楽しく生きることとは何だろう?と考えた時に、学生時代はやらなければならない事があり色々と縛られているため、自由がない事に気付きました。そして、自由とは何だろうと色々と研究して試してみました」
自由を求めて行動に移した結果は散々だった。
「自由を求めれば求めるほど、親や学校の先生に怒られて追いかけられました。最終的には、警察が追いかけて来て、さらには任侠道の方まで追いかけて来ました(笑)。結果的に、そういう法則なのだと分かりました。自由は追いかけるものではないのだとその時感じましたね」
波乱万丈な高校生活を過ごしていた古木だったが、将来の方向性を決める時期がやってきた。
「中学2年生の時から、学校の必要性やどういう生き方が正しいのかを考えるようになりました。そして、自分の将来を考えた時に、スーツを着て会社に行くというような、所謂サラリーマンとしての人生がイメージできませんでした。弁護士や心理学者、デザイナーなど色々考えました。美術が得意だったので美大への進学も勧められましたが、イメージが湧きませんでした」
そんなある日、好きな女の子が美容専門学校に見学に行くことを知り、これはデートチャンスだと言わんばかりに古木も付いて行った。当初は軽い気持ちで付いて行った古木だったが、そこでの体験は後の彼の人生を方向付けるものだった。
「当時、自分としては職業に関して3つのポイントがありました。一つ目は、心理学を勉強していたこともあり人に興味があったので、人とコミュニケーションが取れる仕事。二つ目は、物理化学というか量子力学や相対性理論に興味があったので、それに関連する仕事。三つ目は、ファッションに興味があったので好きな格好ができる仕事。この3つを踏まえた上で、当時は一人で、マイペースでできる仕事がいいと思っていました」
見学に行った美容専門学校で先生の話を聞いた時、美容師という職業は上記3ポイントを全て満たしていると感じた。
「人と接し、化学を用いて、好きなファッションで仕事ができる。これは自分に合っているかもしれないなと思いましたね」
何とか渋谷のサロンに就職した寺村だが、その後程なくして某有名サロンにオープニングスタッフとして加わった。
「そのサロンには美容師歴2ヶ月で入社しました。ほぼ新卒のようなものでしたね」
そこで、寺村は様々な出会いに恵まれた。
「当時、某有名男性アーティストグループのヘアメイクのアシスタントをやらせていただきました。まだ結成されたばかりだったのですが、一気に売れていく姿や、そのグループの社長やマネージャーの仕事への接し方を直近で見れたことは、すごく勉強になりました。特に、ヘアメイクの方に「一般的な人は自分が失敗して成長するが、一流は他人の失敗をも自分の失敗と捉えて成長する」と教えてもらったことは今でも忘れられません」
現Lily代表の柳本と出会ったのも、そのサロンだった。
「そのサロンで柳本と知り合った時から、いつかは独立して店をやろうと話していました。ただ、当時は独立資金もなかったので、柳本は先にそのサロンを退社して、フリーランスとして面貸しサロンで働いて資金を貯めていました」
そんな柳本の後を追うように、寺村も退社して半年間だけフリーランスとして面貸しサロンで働いた。そして、満を持して柳本と共に表参道にLilyをオープンさせた。その後の活躍はご覧の通りである。
「代表の柳本がカット1万円でやり始めた頃は、カットが1万円の美容師なんて全国で4名ほどしかいませんでした。当時はすごく叩かれました。「20代の美容師が何調子乗っているの?」という感じで・・・」
今ではカット1万円は、そこまで珍しくもなくなった。
「最近では増えましたが、昔はマンツーマンで施術する美容室なんてそこまでありませんでした。カット以外のカラーやパーマ、シャンプーは、生産性を上げるためにアシスタントにやらせるのが普通ですから。自分たちは、得意なものに特化してマンツーマンでやるので、その分金額を頂くという感じです」
寺村といえば、SNSを上手に活用しているというイメージだ。そこで、寺村流SNSとの付き合い方を聞いてみた。
「SNSって、ソーシャルネットワーキングサービスの略ですが、ソーシャルとは「社交場」という意味も有しています。要は、現実世界での人との付き合い方がネット上に移行しているだけなのに、そこを勘違いしている人が多いような気がします。基本、現実の世界での人間力を高めていかないと、ネット上でいくら良いこと言っても響かないと思います。ネット上で人から信頼されて支持を集めている人は、実際に会ってもすごく素晴らしい人ばかりです」
ネット上でいくら自分を見繕っても、確固たる人間力がなければそこに説得力は宿らない。
「要領よく小手先のテクニックだけ覚えて情報発信したところで、人には響かないと思います。まずは目の前の人を喜ばせることから始めていけば、必然的にネット上でも大勢の人からの支持を得られるのではないでしょうか?」
寺村自身、SNSを始めた理由は集客やフォロワーを増やしたいと理由ではなかった。
「某有名サロンにいた頃に、フジテレビの「お台場合衆国」というイベントにシャンプー体験などができるブース出店をしました。そこには全国からお客様がたくさん来たのですが、カットがひどい人、カラーで髪の毛がクラゲのようになっている人など、普段店ではあまり見ないような悲惨な現状を目の当たりにしました。その時に、まだまだ美容技術について知らない人が全国にはたくさんいる。知らなくて損している人がたくさんいると思い、自分が情報発信してそれを伝えていこうと思ったのが最初のきっかけです」
情報発信にとどまらず、まだまだこの先やりたいことはたくさんある。
「僕が学生の頃は意味の分からない頭髪検査があり、スポーツ刈りにさせられたりして自分に自信が持てませんでした。そんなことがないように、例えば歯医者が学校に定期的に検診に来るみたいに、地域の美容師が学校に行き髪型を見てくれるような制度をがあればいいなと思っています。中学生で白髪があるのに校則で染められないとか、くせ毛でアフロヘアのようになっているのに縮毛矯正が出来ないとか、やはりおかしいですから」
「美容の力は、人に自信を与えることができると思っています。それが結果的に日本を少しでも良くすることにつながれば最高ですね。自分の美容師としての価値を高めつつ、色々なことにチャレンジして行きたいと思います」
新しいことをやればやるだけ、批判の数もそれだけある。批判が恐ければ何もやらなければいい、ただそれだけのことだ。今度はどんな新しい改革を始めるのか?ますます寺村から目が離せない。
高校3年間、寺村は全ての情熱をバスケットボールに注ぎ込んだ。そんな高校生活も、いよいよ進路を決めなければならない時期に差し掛かった。
「今でこそバスケのプロリーグができましたが、当時はありませんでしたし、バスケで食べていくというのは非現実的でした。全国大会ベスト4に入った中の数人がプロに行ける世界でしたので。それでも、バスケに関わる仕事をしたいとは考えていたので、最初はスポーツインストラクターや柔道整復師になろうかと思っていました」
柔道整復師の学校の見学に行った際に、生徒全員が短髪だったことが美容師を目指すきっかけになる。
「小学生時代は床屋代を浮かすため坊主、中学生時代は部活のため坊主、高校は私立で校則が厳しかったため、伸ばせてスポーツ刈りでした。なので、昔から髪への欲求が非常に強くありました。それで、柔道整復師の学校に見学に行ったら生徒が全員短髪で、「またか・・・」みたいな。これでは、自分の人生で一度も髪を伸ばせないと思い、美容師になろうと思いました」
高校を卒業した寺村は、東京にある山野美容専門学校に特待生として入学した。
「実家が貧しかったので、そもそも美容学校に入学する学費がありませんでした。そこで、入学金が免除になる学校をいろいろ探したところ、山野美容専門学校が一番好条件だったので決めました」
美容師になると決めたときから、東京で勝負するつもりだった。
「高校のバスケにおいて、ただ単に長時間練習しているだけではダメで、最高の指導者のもとで、合理的な練習をやらなくては強くならないと学びました。なので、もし美容師になるなら田舎にいてはダメで、東京に出なければならないと思っていましたね」
両親や学校の先生には、「美容師は休みも少ないし、立ち仕事だし、毎日練習しなきゃならなくて大変だからやめなさい」と反対された。
「自分にとっては中学校と高校でのバスケで休みがないことや、毎日練習することをすでに経験していました。なので、周囲の反対する理由は全く気になりませんでした。周りにうまくいっている美容師がいなかったので、そのような意見が出るのだと思っていましたね」
山野美容専門学校に特待生で入学し、美容師になるべく東京での新生活がスタートした。
「同じく美容師志望の高校の友達がいたので、彼の家に転がりこませてもらいました。ルームシェアをしていました」
いざ専門学校に通うと、最初に自分が想像していたイメージとのギャップに苦しんだ。
「実際に通うと、正直あまり面白く感じませんでした。マネキンに向き合っても誰も喜んでくれないですし、学科の授業もなんのためにやっているのか分からないものが多かったです。全然頭に入りませんでした」
学校の授業よりも、スタッフとして関わっていた外部イベントの方が面白く感じてきて、徐々にそちらに熱中していった。
「美容学生のイベントにスタッフとして参加していたので、そちらの方が楽しくて熱中していました。イベントが近くなると、学校のカフェテリアでどんな構成にしようかとか、どんな音楽かけようかとか、そんなことをずっと考えていました」
そして、いよいよ社会に出なければならない時期に差し掛かった。しかし、就職先はなかなか決まらなかった。
「有名店を10サロンくらい受けたのですが、全て3次面接で落ちました。当時から我が強かったので、協調性がないと思われたのかもしれません」
そんな連敗続きの寺村の心を救ったのは、その年で寿退職が決まっていた担任の言葉だった。
「普通なら、「面接ではこんな言い回しをしなさい」など言われるのですが、その先生は「あなたの良さは分かっているから、いい子ぶって就職するのはやめなさい」と言われました。自分のことを分かってもらえていたのが、すごく嬉しかったですし、励みになりました」
しかし、結局在学中には就職が決まらず、同級生より少し遅れて渋谷のサロンに就職した。
出身は群馬県渋川市。群馬県のほぼ中央に位置し、古くから宿場町として栄えてきた街である。
「自分が中学生までは、子持村という名前でした。すごく田舎でしたね。父親の家系が、祖父の代から鉄骨を作っているような職人家系でしたが、普通の家庭でした」
小学生の時は、陸上の長距離に熱中した。
「陸上は、父親に勧められて始めました。父親曰く、「寺村家は調子に乗りやすいため、小学生から野球やサッカーをやると、中学生から始めた同級生よりうまいため調子に乗る可能性がある」とのことでした。陸上ならあらゆるスポーツの基礎となるということで、陸上をやらされたという感じですね。なので、やりたくてやっていたというわけではなかったです。」
中学生になると、バスケットボール部に入部した。理由は、バスケ部が真面目そうだったからだ。
「小学生までは真面目で内気な性格でした。やんちゃな人が苦手で、小学生の時は一人で絵を描いているのが好きでした。なので、サッカー部とか野球部は、はっちゃけている先輩が多かったので苦手だなと思っていました。それに比べて、バスケ部は全員坊主でハチマキつけてやっているような、ストイックな感じでした。それで、自分に合っていると思い入部しました」
中学生時代は、部活に明け暮れた。
「今思い返しても、中学生時代は本当に部活漬けでした。部活以外の思い出はないですね。顧問が厳しくて、彼女を作るのも禁止されていました」
中学生時代の練習量は、今振り返っても尋常ではなかった。
「中学校の時は、1年の365日中、364日が部活でした。朝練が7時からなのですが、その前にウォーミングアップとして300メートルの校庭を10周走らなくてはならなくて・・・。朝練の前に3キロ走らなくてはなりませんでした。普通ならそれが朝練なのですが(笑)」
そこまで練習しても、チームとしての結果は出なかった。
「土日も、朝の9時から夕方の4時まで練習していました。それでも、地区予選は勝てても、県大会では1回戦で敗退していました。それで、強いチームはどんな練習をしているのだと疑問に思ったということもあり、私立のバスケ強豪校に入学しました」
中学校を卒業した寺村は、バスケの強豪校に入学した。
「実際入部してびっくりしたのは、練習をしても全然疲れないということでした。これだけでいいの?みたいな。中3の夏に部活を引退してから半年間部活をしていないブランクがあるのに、練習が全然きつくありませんでした」
中学生時代、毎日鬼の練習を重ねていた寺村にとって、高校の練習は物足りなかった。
「中学生時代から、毎日練習する癖が付いていたので、普通の練習では物足りなくて、朝は誰よりも早く来て練習して、練習後も一番最後まで残って自主練をやっていました」
毎日の練習の成果として、寺村には確実に上手くなっているという実感があった。そして、3年生が引退して新チームになると、中学校時代には県選抜に選ばれていた同級生達を差し置いて、ベンチ入りするようになった。
「中学校時代は、目指しているものがみんなバラバラでした。内申書のためにやっている人、県大会に出たいと思っている人、辞めたいけど辞める勇気がないためイヤイヤ続けている人など・・・。しかし、高校のバスケ部は、全員が同じ方向を向いていました。また、教師の教え方も上手いし、みんなのモチベーションも高い。そんな環境の中にいるうちに、指導方法と努力の方向が間違っていたら、いくら頑張っても結果が出ないということに気付きました」
高校時代のバスケを通じての成長が、後の寺村の人間形成に大きく影響を及ぼしていく。
オシャレKINGになり、内田の名前は一瞬にして全国に響き渡った。そんな中、技術を磨くためにサロンから1年間モデルの禁止を言い渡された。
「もともと硬派というか、美容師以外のフィールドの活動に対してネガティブな雰囲気があったので、モデルやDJをしている自分はまさに異端なポジションでした。また、当時はその硬派な雰囲気に反抗心もありました。しかし、今はその禁止の期間があって良かったと思っています」
26歳でスタイリストになった内田は、その後「vetica」のクリエイティブディレクターに就任、29歳でJHAの新人賞にノミネートされるなど、順風満帆な美容師人生を歩んでいた。しかし、2015年の2月に、内田のその後の人生に大きな影響を及ぼす、ある事態に直面した。ウィルス性の病気で、入院を余儀無くされたのだ。初動が遅れた場合には後遺症が残ってしまうぐらい、危険な状態だった。結局、内田は2週間の入院を余儀なくされた。これまで特に大きな怪我や病気をしたことがなかった内田にとって、これは初めての経験だった。入院中、自分の将来について真剣に考えた。そして、出した答えが独立することだった。
「これまで何度か独立を考えたことはありました。30歳の時に「自分のお店をやりたいです」とオーナーに相談した時に、「うちの傘下で別ブランド出してやったら?」と言われたので、「vetica」を設立しました。それが、独立したいと思った最初の波でした」
これまで何度か独立を考えたことがあった内田だったが、ウィルス性の病気での入院の経験は、その意思を確固たるものにするのに十分だった。そして、「vetica」設立から9年の年月を経て、内田はついに独立して新しく「LECO」を設立した。「LECO」の四角いロゴマークには、その部屋には誰でも入ってきていいし、自由に過ごしてもらっていいという意味が込められている。
「今も紆余曲折でやっています。外から入ってくる人達が、僕を神格化して来ることがあるので、そこのギャップを埋めるのが大変ですね。僕も普通の人間ですし、初期の段階ではそこでぶつかることもありました。ただ、やはり自分の考えが100%反映できる場所があるというのはいいなと思いますね」
現在は経営者でもあるが、プレイヤーであることにはこだわる。
「ゆくゆくはその割合もどんどん変わってくると思うのですが、プレイヤーを辞めるという選択肢はないと思いますね。それは世間も求めていないと思いますし。僕自身のアイデンティティを保つためにも、それは絶対大事かなと思っています。難しさはあるのでしょうけどね」
現在の美容業界は、SNSとは切っても切れない関係にある。美容業界でも屈指のフォロワー数を持つ内田の考えを聞いてみた。
「楽しんでやればいいと思いますね。今はいろんなことが数値化されるので、そこに捉われて承認欲求が強くなるところがあります。もちろんそういうところも気にならないわけではないですが、そこに固執せずに自分がやりたいことを記録としてやるぐらいの感覚がいいと思います」
SNSも含め、美容業界は少しずつ変わってきている。
「今は僕よりも下ぐらいの世代の人たちが元気で、業界を盛り上げています。新しい波には敏感でいたいですね。去年ぐらいから、今までの概念が大きく変わって来ているので、自分もちゃんとした選択をしたいです。今は下の子達もいるのでその子達が色々とやれる環境を作りたいですね。今は欲求を前に出すとダサいという風潮がありますが、僕は貪欲な方がいいと思います。貪欲でガツガツしている人の方が、手に入れられるものが多い気がします」
一見飄々としていてクールに見えるが、その中身は真逆である。誰よりも自分の気持ちに正直に、貪欲に生きているのが内田聡一郎なのだ。
最後に、内田が毎年春の恒例としてアップしている「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」を記しておく。
「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」
①美容師以外のコミュニティーをつくる。
②自分らしく着飾る。
③様々な音楽を聴き、生で体感する。
④高くてうまいメシを定期的に食べる。
⑤むちゃくちゃ恋愛する。
⑥先輩や同期とケンカする。
⑦死ぬほど(ちょっと死ぬくらい)練習する。
高校を卒業し、念願の美容師になり横浜のサロン「ART WORKS」で働いていた内田だったが、20歳の時に包丁を一式揃えて、飲食店で調理人として働き始めた。
「厳密にいうと、美容師と調理人とでほぼ同時進行のようなところがありました。調理の世界にいっても、美容の技術は忘れたくないという思いはありました。美容免許も持っているわけですし。副業のような形で、半々ぐらいでやっていましたね」
「ART WORKS」を退社した内田は、自宅から近かった「Cut Line」に入社した。スタッフ同士の仲も良く、居心地の良いサロンだった。お酒の飲み方から夜遊びの仕方まで色々教わった。
仲間にも恵まれて充実した生活を送っていた内田だったが、東京で働きたいという思いを抑えることが出来ずに、2年間働いた後に「Cut Line」を退社した。しかし、当時の仲間との関係性は、 15 年以上経った今でも続いている。
東京で美容師として働くために選んだサロンが、後に15年間共に時間を過ごすことになる鳥羽直泰氏、赤松美和氏が立ち上げた「VeLO」だった。
「簡単に言うと偶然の出会いというか・・・。オーナーの奥さん(赤松美和氏)が働いていたお店に僕が偶然行ったのがきっかけです。本当はそのサロンに入社しようと思っていたのですが、そこで担当してくれたオーナーの奥さんに、「旦那とお店やるからオープニングで働かない?」と誘ってもらったのが最初のきっかけですね」
「VeLO」に入社した内田は、アシスタントからスタートした。
「実際、少し美容から離れていたということもありましたし、東京のサロンは学びが多いだろうという気持ちもあったので、アシスタントから始めました」
東京に出て来てから、徐々に読者モデルの仕事も増えていった。
「一度美容師をやめて東京に出て来たこともあり、これまでずっと美容一筋でやってきた人より遅れているため、なんとか名を馳せたいという気持ちが強かったですね。それで、DJなども始めました。当時は、とにかく色々なことをやろうという気持ちが強かったですね」
アシスタント時代は、レッスンが終わると毎週のようにクラブに繰り出した。ときには、便器に頭を突っ込んで吐いてしまう事もあった。泥酔状態のまま朝方に帰宅し、着替えてそのまま出勤するという日もあった。
「VeLO」に入社した翌年、内田が24歳の時に人気雑誌「CHOKi CHOKi」でオシャレKINGになった。当時のオシャレKINGは、それこそ芸能人と同じくらいの影響力を有する存在だった。そんな「CHOKi CHOKi」のオシャレKING達は、やがて新たなる美容師ブームを創り出していった。
「あれから全てが変わりましたね。第2世代ブームというか・・・。カリスマ美容師世代ブームが終わって、そこからSHIMAの奈良君とか、彼らを取り巻く原宿の美容師達はオシャレだというブームが来たので、そこに上手く乗らせてもらったというのがすごくありましたね。当時の勢いは本当にすごくて。正直浮き足立ちましたが、もともと自分を俯瞰する性格があるので、変なことにはなりませんでしたね」
「CHOKi CHOKi」のオシャレKINGになり一躍有名人になった内田だが、もちろんいいことばかりではなかった。
「「CHOKi CHOKi」のキングになって、満を持してデビューしてスタイリストになったときに、最初は爆発的に売り上げも伸びたりして話題になりました。すごくちやほやされてた部分があったのですが、それからちょっとすると、それが横ばいになり、そこから少し下がってくる時期がありました。その時に2チャンネルとかで叩かれたりして、精神的に人間不信に陥りました。実は友達も同じように自分のことを思っているのではないかとか・・・。会う人会う人が、自分を見下して接しているのではないかと感じました」
人間不信に陥った内田だったが、それを打ち破ったのは自信だった。
「自分自身が前に出るよりも、自分が作りだしたものが前に出た瞬間を感じた時に、それがなくなりました」
生まれは神奈川県。小学生の時は野球をやっていた。
「親父が野球を好きだったという事もあり、勧められて少年野球に入りました。親父とキャッチボールとかよくしていたので、その流れでという感じですね。小学校時代は、ピッチャーだったので割と花形ポジションでいい感じでした」
ハサミは右手だが、本来は左利き。小学校のときは楽しく野球をしていたが、中学校に入ると状況が一変した。
「中学校のチームが県内でも有数の強いチームで、ギリギリスタメンではないという微妙な立ち位置でした。なので、若干逃げ腰というかそんな感じでしたね」
中学校を卒業した内田は、横浜商工高校に入学した。
「レベルが高い公立を受けたのですが、見事に落ちて・・・。それで滑り止めの高校に行きました。高校デビューみたいな感じでした。中学校時代は坊主でしたし、女っ気もなかったような感じでしたので(笑)。そこから、いわゆる「モテてやるぞ!」という感じで髪型やファッション、交友関係とかを意識し始めましたね。部活は特にしていなかったです」
坊主姿で毎日厳しい野球の練習に明け暮れた中学生が、自由を手に入れた瞬間だった。そんな高校生活も、やがて進路を決める時期に差し掛かった。
「高3から進路を意識し始めて、アパレルか美容師か調理師か悩んでいました。当時は美容業界がカリスマ美容師ブームだったりでイケイケで、やはり美容師かなと思いました。思い立ったら行動が早いタイプなので、すぐに美容院でバイトができたらいいなと思い、近所の美容院で働き始めましたね。床掃きとかがメインでしたが・・・」
高校を卒業した内田は、国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した。
「もともと渋谷か原宿の学校に行きたいなと思っていて・・・、単純な理由ですが。国際文化のパンフレットを見ていた時に、有名なサロンに入っている人が多かったというのもあり、国際文化に決めました」
通信教育過程にしたのには理由があった。
「当時働いていたサロンの人に話を聞いたら、「美容師は現場職だから早めに現場に出た方がいいよ」とアドバイスされたので通信にしました」
高校を卒業して国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した内田だが、横浜のサロン「ART WORKS」にも同時に入社した。
「当時は人並みに普通に練習して、人並みに遊んでという感じで。周りは全員学生でしたし、美容業は先が長いというのもあり、「もっと他に楽しい人生があるのではないか?」と思い、美容に励めなかった時期でもありました」
内向的な傾向があり、リアルなコミュニケーションが苦手だった内田にとって、インターネットとの出会いが必然であり、自然だった。
「当時から音楽がすごい好きで、いまとは違ってパンクとかロックがすごい好きでした。あの頃はまだ今のようにインターネットやSNSが発達していなくて、ギリギリmixiがあったくらいでしたが、メロコアを語るページの管理人になって、自分が見にいったライブの感想を書き込んだりとかしていました」
そんな内田だが、20歳の時に一度美容業界から離れている。
「単純に一回なんか悶々として、気合いも入れずに美容師やっている状態から離れようと思いましたね。最終的にもう一度美容師には戻りたいなとどこかでは思っていて、その中で一度違う職業を見てみたいなという思いがあり調理人になろうと思いました。調理師学校に行こうかと悩みましたが、志も決まっていない感じでフワフワしていましたね」
新しい美容師の生き方
半年間出張カットをしていた古木だが、売り上げは徐々に上がっていった。出張カットは、何にも縛られずに自分道を見つけるという古木の哲学には合っていた。しかし、生活が不安定だったため、東京の有名サロンに入ろうと考え始めていた。
「先輩から紹介され、お店から内定ももらっていました。しかし、自分の生き方を考えたときにやはりこれじゃないと思い、先輩に謝って辞退しました」
出張カットをしているうちに、美容師と顧客のニーズのズレを感じ始めた。顧客が求めているのは設備云々ではないのだ。そして、母親の勧めもあり、自宅にシャンプー台を付けて、保健所に審査出したところ、なんと審査に通ってしまった。ついに、自宅の2階が美容室になった。
「まるで独立を疑似体験した感じでした。出張カットを始めるまでは、常に追われていてとても苦しかったです。髪型を作る才能があっても、最終的には美容師は体力勝負なので売り上げで評価される。一人の顧客の満足度では評価されません。しかし、それも評価の一つであるべきだと思います。出張カットなどを通じてそれを自分は体験できて、新しい美容師の生き方を見つけた気がしました」
会社設立
自宅のサロンは徐々に軌道に乗り、時間とお金の余裕が出来た古木は、自分の知見を広めるために色々な人に会ったり、経営セミナーに参加したりと精力的に動いていた。
「色々な人に会ううちに、美容業界は他の業界と比べて構造的におかしいと気付きました」
また、美容師としても一つの疑問を感じていた。
「美容師は一対一でお客様と接するので、深い関係を築けて色々とアドバイスできるのが強みなのですが、ほとんどの女性が美に対する自信が無かったり、自分の良いところを分かっていないと感じました」
この二つの疑問を解決する方法を模索していた時に、たまたま経営者のお客様に相談したところ「起業家なら変えられる」とアドバイスされ、起業する決意をした。
「課題解決のルートが見えてきた気がしました。バラバラだったことが繋がったというか、これなら二つのことを同時に解決できると思いましたね。今までの人生を考えたときに、これこそが自分がやることだと思いました」
その後、LiME株式会社を設立し、美容師のカルテ管理ができるアプリを制作した。その後の活躍は周知の通りである。
「自分は、美容師を体験していることが一番の価値だと持っています。例えば、IT業界の人が美容業界を知ろうとすると、10年はかかると思います。実際自分もかかりました。しかし、美容業界の人がITを知ろうすると、3年で済みます。なぜなら、IT業界は教育が充実していて学習コストが低いからです。すなわち、美容業界の人間がITを知った方が圧倒的に効率的と言えるのです」
美容師として、経営者として課題を解決する
社長業をこなす傍で、古木は美容師としての活動も継続している。
「業界外から美容業界に参入する人は、お客様優位なサービスばかり作る傾向にあります。しかし、本当に業界内で困っているのはお客様ではなくて美容師です。美容師の課題解決をしない限り業界は決して変わらないし、サービスも浸透しません。なので、自分も美容師を続けることに価値があると思っています」
経営者として、美容師としての古木の歩みは止まらない。古木が美容師をやってきた中で矛盾を感じていた、ピラミッドの頂点や売上を上げることに対してのみ評価されるということ。これはあくまで美容業界内での評価であり、お客様目線で考えると無関係であると古木は言う。
「お客様からすれば、自分を本当に美しくしてくれる人に出会いたいわけで、これはピラミッドの頂点にいる美容師じゃなくてもできることです。相性が合うとか、センスがあるとかそういうことで解決できます。しかし、いまの世の中はそういう視点で美容師とお客様が出会えるようになっていません」
確かに、それは既存のクーポンサイトでは決して探せない、本当に欲しい情報だ。
「それは、当該美容師さんの顧客の声がネット上にあがらないと分からないものです。しかも、新規ではなく、その美容師のもとにずっと通っている顧客の声こそ、本当にお客様が知りたいことなのです。それが自動で溜まって自動で発信できる仕組みを作りたいと思っています」
今年の2月には、@cosme運営のアイスタイル社より7000万円を調達するなどその勢いは加速するばかりである。古木が変革する美容業界を見ることができる日も、そう遠くはないはずだ。
完
現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。異端児扱い
美容師になることを決意し、高校を卒業した後に横浜の美容専門学校に入学した古木。これまでの学生生活とは異なり、美容専門学校には真面目に通った。
「中学2年生くらいから、学校は好きな授業しか出ない感じでした。高校の時は、留年したくなかったので単位ギリギリで学校に行っていたような感じでした。しかし、美容専門学校時代は自分がやりたいことが見つかったので、2年間無遅刻無欠席でした。成績も技術と学科ともトップで卒業しました」
成績優秀でまさに模範的な生徒だったが、先生には嫌われていた。
「不公平というか、納得できないことが許せないタイプでした。入学した時にメイクの授業があり、自分たちはメイクボックスを学校から9万円で購入しました。しかし、翌年入学してきた後輩たちは、中に入っている道具が自分たちのときより少ないにも関わらず値段が上がっていました。それが許せなくて学校のNo.2の偉い人にクレームを言ったところ、何故か逆ギレされましたね」
納得できないことがあれば、例え立場が違ったとしても自分の意見を主張した。
「結構そういうことが繰り返しあって・・・。自分の立場が悪くなったとしても、納得できないことがあると戦いたくなってしまうんです」
そんな古木に対して、学校の風当たりは徐々に強くなった。
「就活でも、先生に「ごめん手伝えないんだ・・・」と言われたりしましたね。他にも、通常は就職決まったら学校にサロン名と名前が張り出されるのですが、自分は張り出されませんでした。学校の中で2番目に早く決まったのに、1番目の生徒と2番目の自分だけ張り出されなかったですね(笑)」
波乱万丈の美容師LIFE
結局張り出されることはなかったが、人気サロンであるapishに就職が決まった。学校では2番目の速さだった。
「apishに入社できたのは運だったと思います。そんな実力とかあるタイプではなかったので・・・。通常の美容専門学生は、他にも掛け持ちで複数のサロンの面接を受けたりすると思います。しかし、自分には就職に関する情報があまりなく、「そんなにたくさん受けていいのだろうか?」と思っていたので、apish一本で行こうと思い、他には受けませんでした」
そうしてついに、古木の美容師としても人生がスタートした。それは同時に、新たな試練の始まりでもあった。
「僕らの代は3人しか入社しなかったのですが、それまでは毎年10人くらい入社していました。なので、10人分の仕事が落ちてくるような感じで、すごく大変でした(笑)」
3年間働いた後にapishを退社し、古木は代官山のサロンに移った。
「そんなに大きなお店ではなく、お客様一人一人を大切にするお店でした。自分には合っていると思っていましたね」
そこで、古木は思いもよらない事態に遭遇する。なんと、突然クビを宣告されたのだ。
「大きいお店にいた時のテンションでそのまま行ってしまったということもあり、ボス的に受け入れられないところがあったのだろうと思います。また、下の子達に対する影響力が強すぎるところもあったので、「大きいサロンに戻るか、自分でやりなさい」と言われて解雇されてしまいました」
突然のクビ宣告・・・。当然のことながら、古木の落ち込み方は尋常ではなかった。
「今考えると、当時は鬱病のような感じだったと思います。今まで頑張ってきたことを全て失ったような気がしました。当時はスタイリストでお客様がちゃんと付いていた訳ではなかったので、この先どうなるのだろうと不安で本当に絶望的でした。生きる気力がなくなり、1ヶ月間ぐらいずっと寝込んでいました」
人生の転機は突然に
しかし、いつまでも落ち込んで寝込んでいるわけにもいかない。そこで仰天の行動に出た。
「当時、夜になると寝れなくなる状態が続いており、「身体が疲れていれば寝れるだろう」ということで、旅に出ようと考えました」
旅に出る決意をした古木は、友達と二人で1台のバイクを二人乗りして、屋久島の縄文杉を見るため西に向かった。
「ものすごく大変でした。お金がなかったので、屋久島では宿を取っていなかったのですが、4月なので温度が氷点下でした。島民の方に「それだと死ぬよ」と言われましたね(笑)」
体温を上げないと危険ということで、古木達は朝まで歩くことにした。
「朝方の3時頃に、24時間営業のコインランドリーを見つけたので、「ここで寝よう!」ということでコインランドリーで寝て暖を取りました。そんな激しい旅でした」
屋久島から帰ると、これまで夜に寝れなかったことが嘘のように、寝れるようになった。また、今まで経験したことのない過酷な状況下をくぐり抜けたことは、古木に新たな感覚と自信をもたらした。
「旅の最中はお金もなかったので、公園や駐車場などで寝ていました。なので、自宅の布団の上で寝るということ、お風呂に入れるということに感動して、あらゆることにありがたみを感じることができるようになりました」
屋久島での旅を通じて、うつ病のような状態を脱した古木。友達のヘアカットをしてあげたことをきっかけに、美容師としての新たな仕事のやりがいに気づいた。
「当時、友達に頼まれてカットとパーマをしたことがありました。自分は無料でやってあげるつもりだったのですが、「プロにやってもらったのだから取っておいてよ」ということで5000円くれました。これまでは常に何かに追われて仕事をしていたので、純粋に楽しく髪型を作ってお金をもらえたことにすごく感動しました。「美容師の仕事ってこういうことなんだ」と実感しました」
今まで有名店で働くことや、売上を上げることに縛られて生きてきた古木だったが、ついにその呪縛から逃れて自由になった瞬間だった。
続く
現役の美容師にして経営者。「どんな人でも美を簡単に表現できる世界の創造」をビジョンに掲げ、美容師のカルテ管理サービス「LiME(ライム)」を提供するLiME株式会社の代表取締役、古木数馬。波乱万丈の人生を歩む若き経営者の、これまでとこれから。争いが嫌いな少年
出身地は神奈川県横浜市。小学生の頃は平和主義者だった。
「とにかく競争があまり好きではなかったです。例えば早い者勝ちで並ぶとか、給食で並んで取りに行くとかそういう時に、先に並ぼうとか全く無かったですし、仮に自分が先に並んでいて誰かに横入りされたとしても全く気にならなかったですね。そもそも戦うというか、競争が嫌いでしたね」
人付き合いは、得意ではないが苦手でもなかった。
「割とどんな人でも仲良くしていました。もともと内向的な感じで人と話したりするのがあまり好きなタイプではなかったのですが、偏見とかなく誰とでも同じように付き合って遊んでいましたね」
ここで、古木が忘れられない小学生時代の面白いエピソードを紹介してくれた。
「当時、やんちゃな友達がいてある同級生をいじめようとして自分にも参加するよう促されました。しかし、その同級生は友達だからと断ったところ、自分がシカトされ始めたのですが、全く気付きませんでした。それで、友達が僕の母親にシカトされていることを伝えてくれたというエピソードがあります(笑)」
内向的だったと言いつつ、意外と神経が図太い小学生だったようだ。その後、古木は地元の中学校を卒業して、少し離れた私立の高校に入学した。
「高校時代は心理学に興味があったので、いろいろな本を読んで勉強しましたね。学校の勉強は興味が無かったので、全然しなかったですが・・・。心理学の延長線上で、占いの本なども読んでいました。当時は「人」に興味があり、そういった本を読んで調べていましたね」
自由を求めて
血気盛んな高校時代に、自ら心理学を学ぶ男子生徒はそうはいないだろう。さらには心理学のみに止まらず、古木の好奇心は「自由」という壮大なテーマに向けられ、そこで仰天の行動に出る。
高校時代は縛られるのが嫌というか、ルールに従うのが嫌でしたね。なんで学校に行かなければならないのか意味が分かりませんでした。そこで、自分の中で楽しく生きることとは何だろう?と考えた時に、学生時代はやらなければならない事があり色々と縛られているため、自由がない事に気付きました。そして、自由とは何だろうと色々と研究して試してみました」
自由を求めて行動に移した結果は散々だった。
「自由を求めれば求めるほど、親や学校の先生に怒られて追いかけられました。最終的には、警察が追いかけて来て、さらには任侠道の方まで追いかけて来ました(笑)。結果的に、そういう法則なのだと分かりました。自由は追いかけるものではないのだとその時感じましたね」
波乱万丈な高校生活を過ごしていた古木だったが、将来の方向性を決める時期がやってきた。
「中学2年生の時から、学校の必要性やどういう生き方が正しいのかを考えるようになりました。そして、自分の将来を考えた時に、スーツを着て会社に行くというような、所謂サラリーマンとしての人生がイメージできませんでした。弁護士や心理学者、デザイナーなど色々考えました。美術が得意だったので美大への進学も勧められましたが、イメージが湧きませんでした」
偶然の出会い
そんなある日、好きな女の子が美容専門学校に見学に行くことを知り、これはデートチャンスだと言わんばかりに古木も付いて行った。当初は軽い気持ちで付いて行った古木だったが、そこでの体験は後の彼の人生を方向付けるものだった。
「当時、自分としては職業に関して3つのポイントがありました。一つ目は、心理学を勉強していたこともあり人に興味があったので、人とコミュニケーションが取れる仕事。二つ目は、物理化学というか量子力学や相対性理論に興味があったので、それに関連する仕事。三つ目は、ファッションに興味があったので好きな格好ができる仕事。この3つを踏まえた上で、当時は一人で、マイペースでできる仕事がいいと思っていました」
見学に行った美容専門学校で先生の話を聞いた時、美容師という職業は上記3ポイントを全て満たしていると感じた。
「人と接し、化学を用いて、好きなファッションで仕事ができる。これは自分に合っているかもしれないなと思いましたね」
続く
表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)柳本との出会い
何とか渋谷のサロンに就職した寺村だが、その後程なくして某有名サロンにオープニングスタッフとして加わった。
「そのサロンには美容師歴2ヶ月で入社しました。ほぼ新卒のようなものでしたね」
そこで、寺村は様々な出会いに恵まれた。
「当時、某有名男性アーティストグループのヘアメイクのアシスタントをやらせていただきました。まだ結成されたばかりだったのですが、一気に売れていく姿や、そのグループの社長やマネージャーの仕事への接し方を直近で見れたことは、すごく勉強になりました。特に、ヘアメイクの方に「一般的な人は自分が失敗して成長するが、一流は他人の失敗をも自分の失敗と捉えて成長する」と教えてもらったことは今でも忘れられません」
現Lily代表の柳本と出会ったのも、そのサロンだった。
「そのサロンで柳本と知り合った時から、いつかは独立して店をやろうと話していました。ただ、当時は独立資金もなかったので、柳本は先にそのサロンを退社して、フリーランスとして面貸しサロンで働いて資金を貯めていました」
Lilyの立ち上げ
そんな柳本の後を追うように、寺村も退社して半年間だけフリーランスとして面貸しサロンで働いた。そして、満を持して柳本と共に表参道にLilyをオープンさせた。その後の活躍はご覧の通りである。
「代表の柳本がカット1万円でやり始めた頃は、カットが1万円の美容師なんて全国で4名ほどしかいませんでした。当時はすごく叩かれました。「20代の美容師が何調子乗っているの?」という感じで・・・」
今ではカット1万円は、そこまで珍しくもなくなった。
「最近では増えましたが、昔はマンツーマンで施術する美容室なんてそこまでありませんでした。カット以外のカラーやパーマ、シャンプーは、生産性を上げるためにアシスタントにやらせるのが普通ですから。自分たちは、得意なものに特化してマンツーマンでやるので、その分金額を頂くという感じです」
大切なのは人間力
寺村といえば、SNSを上手に活用しているというイメージだ。そこで、寺村流SNSとの付き合い方を聞いてみた。
「SNSって、ソーシャルネットワーキングサービスの略ですが、ソーシャルとは「社交場」という意味も有しています。要は、現実世界での人との付き合い方がネット上に移行しているだけなのに、そこを勘違いしている人が多いような気がします。基本、現実の世界での人間力を高めていかないと、ネット上でいくら良いこと言っても響かないと思います。ネット上で人から信頼されて支持を集めている人は、実際に会ってもすごく素晴らしい人ばかりです」
ネット上でいくら自分を見繕っても、確固たる人間力がなければそこに説得力は宿らない。
「要領よく小手先のテクニックだけ覚えて情報発信したところで、人には響かないと思います。まずは目の前の人を喜ばせることから始めていけば、必然的にネット上でも大勢の人からの支持を得られるのではないでしょうか?」
寺村自身、SNSを始めた理由は集客やフォロワーを増やしたいと理由ではなかった。
「某有名サロンにいた頃に、フジテレビの「お台場合衆国」というイベントにシャンプー体験などができるブース出店をしました。そこには全国からお客様がたくさん来たのですが、カットがひどい人、カラーで髪の毛がクラゲのようになっている人など、普段店ではあまり見ないような悲惨な現状を目の当たりにしました。その時に、まだまだ美容技術について知らない人が全国にはたくさんいる。知らなくて損している人がたくさんいると思い、自分が情報発信してそれを伝えていこうと思ったのが最初のきっかけです」
情報発信にとどまらず、まだまだこの先やりたいことはたくさんある。
「僕が学生の頃は意味の分からない頭髪検査があり、スポーツ刈りにさせられたりして自分に自信が持てませんでした。そんなことがないように、例えば歯医者が学校に定期的に検診に来るみたいに、地域の美容師が学校に行き髪型を見てくれるような制度をがあればいいなと思っています。中学生で白髪があるのに校則で染められないとか、くせ毛でアフロヘアのようになっているのに縮毛矯正が出来ないとか、やはりおかしいですから」
「美容の力は、人に自信を与えることができると思っています。それが結果的に日本を少しでも良くすることにつながれば最高ですね。自分の美容師としての価値を高めつつ、色々なことにチャレンジして行きたいと思います」
新しいことをやればやるだけ、批判の数もそれだけある。批判が恐ければ何もやらなければいい、ただそれだけのことだ。今度はどんな新しい改革を始めるのか?ますます寺村から目が離せない。
完
表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)髪を伸ばしたい
高校3年間、寺村は全ての情熱をバスケットボールに注ぎ込んだ。そんな高校生活も、いよいよ進路を決めなければならない時期に差し掛かった。
「今でこそバスケのプロリーグができましたが、当時はありませんでしたし、バスケで食べていくというのは非現実的でした。全国大会ベスト4に入った中の数人がプロに行ける世界でしたので。それでも、バスケに関わる仕事をしたいとは考えていたので、最初はスポーツインストラクターや柔道整復師になろうかと思っていました」
柔道整復師の学校の見学に行った際に、生徒全員が短髪だったことが美容師を目指すきっかけになる。
「小学生時代は床屋代を浮かすため坊主、中学生時代は部活のため坊主、高校は私立で校則が厳しかったため、伸ばせてスポーツ刈りでした。なので、昔から髪への欲求が非常に強くありました。それで、柔道整復師の学校に見学に行ったら生徒が全員短髪で、「またか・・・」みたいな。これでは、自分の人生で一度も髪を伸ばせないと思い、美容師になろうと思いました」
美容師になるため東京へ
高校を卒業した寺村は、東京にある山野美容専門学校に特待生として入学した。
「実家が貧しかったので、そもそも美容学校に入学する学費がありませんでした。そこで、入学金が免除になる学校をいろいろ探したところ、山野美容専門学校が一番好条件だったので決めました」
美容師になると決めたときから、東京で勝負するつもりだった。
「高校のバスケにおいて、ただ単に長時間練習しているだけではダメで、最高の指導者のもとで、合理的な練習をやらなくては強くならないと学びました。なので、もし美容師になるなら田舎にいてはダメで、東京に出なければならないと思っていましたね」
両親や学校の先生には、「美容師は休みも少ないし、立ち仕事だし、毎日練習しなきゃならなくて大変だからやめなさい」と反対された。
「自分にとっては中学校と高校でのバスケで休みがないことや、毎日練習することをすでに経験していました。なので、周囲の反対する理由は全く気になりませんでした。周りにうまくいっている美容師がいなかったので、そのような意見が出るのだと思っていましたね」
山野美容専門学校に特待生で入学し、美容師になるべく東京での新生活がスタートした。
「同じく美容師志望の高校の友達がいたので、彼の家に転がりこませてもらいました。ルームシェアをしていました」
理想と現実の狭間で
いざ専門学校に通うと、最初に自分が想像していたイメージとのギャップに苦しんだ。
「実際に通うと、正直あまり面白く感じませんでした。マネキンに向き合っても誰も喜んでくれないですし、学科の授業もなんのためにやっているのか分からないものが多かったです。全然頭に入りませんでした」
学校の授業よりも、スタッフとして関わっていた外部イベントの方が面白く感じてきて、徐々にそちらに熱中していった。
「美容学生のイベントにスタッフとして参加していたので、そちらの方が楽しくて熱中していました。イベントが近くなると、学校のカフェテリアでどんな構成にしようかとか、どんな音楽かけようかとか、そんなことをずっと考えていました」
そして、いよいよ社会に出なければならない時期に差し掛かった。しかし、就職先はなかなか決まらなかった。
「有名店を10サロンくらい受けたのですが、全て3次面接で落ちました。当時から我が強かったので、協調性がないと思われたのかもしれません」
そんな連敗続きの寺村の心を救ったのは、その年で寿退職が決まっていた担任の言葉だった。
「普通なら、「面接ではこんな言い回しをしなさい」など言われるのですが、その先生は「あなたの良さは分かっているから、いい子ぶって就職するのはやめなさい」と言われました。自分のことを分かってもらえていたのが、すごく嬉しかったですし、励みになりました」
しかし、結局在学中には就職が決まらず、同級生より少し遅れて渋谷のサロンに就職した。
続く
表参道の人気美容室Lilyの立ち上げメンバーであり、美髪アドバイザーとしても活躍中の寺村優太。絶えず業界を刺激し続ける彼の原動力に迫る。(敬称略)スポーツに熱中した幼少期
出身は群馬県渋川市。群馬県のほぼ中央に位置し、古くから宿場町として栄えてきた街である。
「自分が中学生までは、子持村という名前でした。すごく田舎でしたね。父親の家系が、祖父の代から鉄骨を作っているような職人家系でしたが、普通の家庭でした」
小学生の時は、陸上の長距離に熱中した。
「陸上は、父親に勧められて始めました。父親曰く、「寺村家は調子に乗りやすいため、小学生から野球やサッカーをやると、中学生から始めた同級生よりうまいため調子に乗る可能性がある」とのことでした。陸上ならあらゆるスポーツの基礎となるということで、陸上をやらされたという感じですね。なので、やりたくてやっていたというわけではなかったです。」
中学生になると、バスケットボール部に入部した。理由は、バスケ部が真面目そうだったからだ。
「小学生までは真面目で内気な性格でした。やんちゃな人が苦手で、小学生の時は一人で絵を描いているのが好きでした。なので、サッカー部とか野球部は、はっちゃけている先輩が多かったので苦手だなと思っていました。それに比べて、バスケ部は全員坊主でハチマキつけてやっているような、ストイックな感じでした。それで、自分に合っていると思い入部しました」
バスケットボール
中学生時代は、部活に明け暮れた。
「今思い返しても、中学生時代は本当に部活漬けでした。部活以外の思い出はないですね。顧問が厳しくて、彼女を作るのも禁止されていました」
中学生時代の練習量は、今振り返っても尋常ではなかった。
「中学校の時は、1年の365日中、364日が部活でした。朝練が7時からなのですが、その前にウォーミングアップとして300メートルの校庭を10周走らなくてはならなくて・・・。朝練の前に3キロ走らなくてはなりませんでした。普通ならそれが朝練なのですが(笑)」
そこまで練習しても、チームとしての結果は出なかった。
「土日も、朝の9時から夕方の4時まで練習していました。それでも、地区予選は勝てても、県大会では1回戦で敗退していました。それで、強いチームはどんな練習をしているのだと疑問に思ったということもあり、私立のバスケ強豪校に入学しました」
バスケ強豪校への入学
中学校を卒業した寺村は、バスケの強豪校に入学した。
「実際入部してびっくりしたのは、練習をしても全然疲れないということでした。これだけでいいの?みたいな。中3の夏に部活を引退してから半年間部活をしていないブランクがあるのに、練習が全然きつくありませんでした」
中学生時代、毎日鬼の練習を重ねていた寺村にとって、高校の練習は物足りなかった。
「中学生時代から、毎日練習する癖が付いていたので、普通の練習では物足りなくて、朝は誰よりも早く来て練習して、練習後も一番最後まで残って自主練をやっていました」
毎日の練習の成果として、寺村には確実に上手くなっているという実感があった。そして、3年生が引退して新チームになると、中学校時代には県選抜に選ばれていた同級生達を差し置いて、ベンチ入りするようになった。
「中学校時代は、目指しているものがみんなバラバラでした。内申書のためにやっている人、県大会に出たいと思っている人、辞めたいけど辞める勇気がないためイヤイヤ続けている人など・・・。しかし、高校のバスケ部は、全員が同じ方向を向いていました。また、教師の教え方も上手いし、みんなのモチベーションも高い。そんな環境の中にいるうちに、指導方法と努力の方向が間違っていたら、いくら頑張っても結果が出ないということに気付きました」
高校時代のバスケを通じての成長が、後の寺村の人間形成に大きく影響を及ぼしていく。
続く
美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)人生の転機
オシャレKINGになり、内田の名前は一瞬にして全国に響き渡った。そんな中、技術を磨くためにサロンから1年間モデルの禁止を言い渡された。
「もともと硬派というか、美容師以外のフィールドの活動に対してネガティブな雰囲気があったので、モデルやDJをしている自分はまさに異端なポジションでした。また、当時はその硬派な雰囲気に反抗心もありました。しかし、今はその禁止の期間があって良かったと思っています」
26歳でスタイリストになった内田は、その後「vetica」のクリエイティブディレクターに就任、29歳でJHAの新人賞にノミネートされるなど、順風満帆な美容師人生を歩んでいた。しかし、2015年の2月に、内田のその後の人生に大きな影響を及ぼす、ある事態に直面した。ウィルス性の病気で、入院を余儀無くされたのだ。初動が遅れた場合には後遺症が残ってしまうぐらい、危険な状態だった。結局、内田は2週間の入院を余儀なくされた。これまで特に大きな怪我や病気をしたことがなかった内田にとって、これは初めての経験だった。入院中、自分の将来について真剣に考えた。そして、出した答えが独立することだった。
「これまで何度か独立を考えたことはありました。30歳の時に「自分のお店をやりたいです」とオーナーに相談した時に、「うちの傘下で別ブランド出してやったら?」と言われたので、「vetica」を設立しました。それが、独立したいと思った最初の波でした」
「LECO」設立
これまで何度か独立を考えたことがあった内田だったが、ウィルス性の病気での入院の経験は、その意思を確固たるものにするのに十分だった。そして、「vetica」設立から9年の年月を経て、内田はついに独立して新しく「LECO」を設立した。「LECO」の四角いロゴマークには、その部屋には誰でも入ってきていいし、自由に過ごしてもらっていいという意味が込められている。
「今も紆余曲折でやっています。外から入ってくる人達が、僕を神格化して来ることがあるので、そこのギャップを埋めるのが大変ですね。僕も普通の人間ですし、初期の段階ではそこでぶつかることもありました。ただ、やはり自分の考えが100%反映できる場所があるというのはいいなと思いますね」
現在は経営者でもあるが、プレイヤーであることにはこだわる。
「ゆくゆくはその割合もどんどん変わってくると思うのですが、プレイヤーを辞めるという選択肢はないと思いますね。それは世間も求めていないと思いますし。僕自身のアイデンティティを保つためにも、それは絶対大事かなと思っています。難しさはあるのでしょうけどね」
美容業界のこれから
現在の美容業界は、SNSとは切っても切れない関係にある。美容業界でも屈指のフォロワー数を持つ内田の考えを聞いてみた。
「楽しんでやればいいと思いますね。今はいろんなことが数値化されるので、そこに捉われて承認欲求が強くなるところがあります。もちろんそういうところも気にならないわけではないですが、そこに固執せずに自分がやりたいことを記録としてやるぐらいの感覚がいいと思います」
SNSも含め、美容業界は少しずつ変わってきている。
「今は僕よりも下ぐらいの世代の人たちが元気で、業界を盛り上げています。新しい波には敏感でいたいですね。去年ぐらいから、今までの概念が大きく変わって来ているので、自分もちゃんとした選択をしたいです。今は下の子達もいるのでその子達が色々とやれる環境を作りたいですね。今は欲求を前に出すとダサいという風潮がありますが、僕は貪欲な方がいいと思います。貪欲でガツガツしている人の方が、手に入れられるものが多い気がします」
一見飄々としていてクールに見えるが、その中身は真逆である。誰よりも自分の気持ちに正直に、貪欲に生きているのが内田聡一郎なのだ。
最後に、内田が毎年春の恒例としてアップしている「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」を記しておく。
「20代の美容師がやっておくべき7つのこと」
①美容師以外のコミュニティーをつくる。
②自分らしく着飾る。
③様々な音楽を聴き、生で体感する。
④高くてうまいメシを定期的に食べる。
⑤むちゃくちゃ恋愛する。
⑥先輩や同期とケンカする。
⑦死ぬほど(ちょっと死ぬくらい)練習する。
完
美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)2足の草鞋
高校を卒業し、念願の美容師になり横浜のサロン「ART WORKS」で働いていた内田だったが、20歳の時に包丁を一式揃えて、飲食店で調理人として働き始めた。
「厳密にいうと、美容師と調理人とでほぼ同時進行のようなところがありました。調理の世界にいっても、美容の技術は忘れたくないという思いはありました。美容免許も持っているわけですし。副業のような形で、半々ぐらいでやっていましたね」
「ART WORKS」を退社した内田は、自宅から近かった「Cut Line」に入社した。スタッフ同士の仲も良く、居心地の良いサロンだった。お酒の飲み方から夜遊びの仕方まで色々教わった。
仲間にも恵まれて充実した生活を送っていた内田だったが、東京で働きたいという思いを抑えることが出来ずに、2年間働いた後に「Cut Line」を退社した。しかし、当時の仲間との関係性は、 15 年以上経った今でも続いている。
「VeLO」との出会い
東京で美容師として働くために選んだサロンが、後に15年間共に時間を過ごすことになる鳥羽直泰氏、赤松美和氏が立ち上げた「VeLO」だった。
「簡単に言うと偶然の出会いというか・・・。オーナーの奥さん(赤松美和氏)が働いていたお店に僕が偶然行ったのがきっかけです。本当はそのサロンに入社しようと思っていたのですが、そこで担当してくれたオーナーの奥さんに、「旦那とお店やるからオープニングで働かない?」と誘ってもらったのが最初のきっかけですね」
「VeLO」に入社した内田は、アシスタントからスタートした。
「実際、少し美容から離れていたということもありましたし、東京のサロンは学びが多いだろうという気持ちもあったので、アシスタントから始めました」
東京に出て来てから、徐々に読者モデルの仕事も増えていった。
「一度美容師をやめて東京に出て来たこともあり、これまでずっと美容一筋でやってきた人より遅れているため、なんとか名を馳せたいという気持ちが強かったですね。それで、DJなども始めました。当時は、とにかく色々なことをやろうという気持ちが強かったですね」
アシスタント時代は、レッスンが終わると毎週のようにクラブに繰り出した。ときには、便器に頭を突っ込んで吐いてしまう事もあった。泥酔状態のまま朝方に帰宅し、着替えてそのまま出勤するという日もあった。
「CHOKi CHOKi」のKINGとして
「VeLO」に入社した翌年、内田が24歳の時に人気雑誌「CHOKi CHOKi」でオシャレKINGになった。当時のオシャレKINGは、それこそ芸能人と同じくらいの影響力を有する存在だった。そんな「CHOKi CHOKi」のオシャレKING達は、やがて新たなる美容師ブームを創り出していった。
「あれから全てが変わりましたね。第2世代ブームというか・・・。カリスマ美容師世代ブームが終わって、そこからSHIMAの奈良君とか、彼らを取り巻く原宿の美容師達はオシャレだというブームが来たので、そこに上手く乗らせてもらったというのがすごくありましたね。当時の勢いは本当にすごくて。正直浮き足立ちましたが、もともと自分を俯瞰する性格があるので、変なことにはなりませんでしたね」
「CHOKi CHOKi」のオシャレKINGになり一躍有名人になった内田だが、もちろんいいことばかりではなかった。
「「CHOKi CHOKi」のキングになって、満を持してデビューしてスタイリストになったときに、最初は爆発的に売り上げも伸びたりして話題になりました。すごくちやほやされてた部分があったのですが、それからちょっとすると、それが横ばいになり、そこから少し下がってくる時期がありました。その時に2チャンネルとかで叩かれたりして、精神的に人間不信に陥りました。実は友達も同じように自分のことを思っているのではないかとか・・・。会う人会う人が、自分を見下して接しているのではないかと感じました」
人間不信に陥った内田だったが、それを打ち破ったのは自信だった。
「自分自身が前に出るよりも、自分が作りだしたものが前に出た瞬間を感じた時に、それがなくなりました」
続く
美容師という枠にとらわれずに、その多彩な活動で常に美容業界の先頭を走る内田聡一郎。今年、15年間在籍していた「VeLO / vetica」から離れ、満を持して自身のサロン「LECO」を立ち上げた。20年前に美容師を志してからこれまで歩んできた、内田聡一郎の軌跡を辿る。(敬称略)
内気な野球少年
生まれは神奈川県。小学生の時は野球をやっていた。
「親父が野球を好きだったという事もあり、勧められて少年野球に入りました。親父とキャッチボールとかよくしていたので、その流れでという感じですね。小学校時代は、ピッチャーだったので割と花形ポジションでいい感じでした」
ハサミは右手だが、本来は左利き。小学校のときは楽しく野球をしていたが、中学校に入ると状況が一変した。
「中学校のチームが県内でも有数の強いチームで、ギリギリスタメンではないという微妙な立ち位置でした。なので、若干逃げ腰というかそんな感じでしたね」
中学校を卒業した内田は、横浜商工高校に入学した。
「レベルが高い公立を受けたのですが、見事に落ちて・・・。それで滑り止めの高校に行きました。高校デビューみたいな感じでした。中学校時代は坊主でしたし、女っ気もなかったような感じでしたので(笑)。そこから、いわゆる「モテてやるぞ!」という感じで髪型やファッション、交友関係とかを意識し始めましたね。部活は特にしていなかったです」
美容師か調理師か
坊主姿で毎日厳しい野球の練習に明け暮れた中学生が、自由を手に入れた瞬間だった。そんな高校生活も、やがて進路を決める時期に差し掛かった。
「高3から進路を意識し始めて、アパレルか美容師か調理師か悩んでいました。当時は美容業界がカリスマ美容師ブームだったりでイケイケで、やはり美容師かなと思いました。思い立ったら行動が早いタイプなので、すぐに美容院でバイトができたらいいなと思い、近所の美容院で働き始めましたね。床掃きとかがメインでしたが・・・」
高校を卒業した内田は、国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した。
「もともと渋谷か原宿の学校に行きたいなと思っていて・・・、単純な理由ですが。国際文化のパンフレットを見ていた時に、有名なサロンに入っている人が多かったというのもあり、国際文化に決めました」
通信教育過程にしたのには理由があった。
「当時働いていたサロンの人に話を聞いたら、「美容師は現場職だから早めに現場に出た方がいいよ」とアドバイスされたので通信にしました」
働きながら専門学校へ
高校を卒業して国際文化理容美容専門学校の通信教育過程に入学した内田だが、横浜のサロン「ART WORKS」にも同時に入社した。
「当時は人並みに普通に練習して、人並みに遊んでという感じで。周りは全員学生でしたし、美容業は先が長いというのもあり、「もっと他に楽しい人生があるのではないか?」と思い、美容に励めなかった時期でもありました」
内向的な傾向があり、リアルなコミュニケーションが苦手だった内田にとって、インターネットとの出会いが必然であり、自然だった。
「当時から音楽がすごい好きで、いまとは違ってパンクとかロックがすごい好きでした。あの頃はまだ今のようにインターネットやSNSが発達していなくて、ギリギリmixiがあったくらいでしたが、メロコアを語るページの管理人になって、自分が見にいったライブの感想を書き込んだりとかしていました」
そんな内田だが、20歳の時に一度美容業界から離れている。
「単純に一回なんか悶々として、気合いも入れずに美容師やっている状態から離れようと思いましたね。最終的にもう一度美容師には戻りたいなとどこかでは思っていて、その中で一度違う職業を見てみたいなという思いがあり調理人になろうと思いました。調理師学校に行こうかと悩みましたが、志も決まっていない感じでフワフワしていましたね」
続く