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帆足和光〜渋谷系トップランナーの肖像 Vol.2〜

今や世界にその名が知れ渡っている街、渋谷。そんな渋谷の歴史と共に歩んできたスタイリストがいる。渋谷を拠点としたRISEL4店舗の代表を務める帆足和光。顧客に多数の芸能人やモデルを抱え、今なお輝き続けるカリスマの半生に迫る。(敬称略)

シャンプーマンからのスタート

美容専門学校を卒業してしばらくは実家の美容室を手伝っていた帆足だが、だんだんと飽きてしまう。当時は実家の美容室で働きながら、レストランでアルバイトもしていた。 「ある時、同じレストランでバイトしていた子の髪の毛を切ったんです。習ってないカットだったのですが、見よう見まねでカットして。その子が後日に別の美容室に行ったら「素人が切ったの?」と言われたらしく・・・。それがすごいショックでした」 父親に教わっていたわけでもなく、どこかで修行をしたわけでもない帆足にとって、それは当然の結果だった。 「ちょうどその頃、年齢的にも同級生がスタイリストデビューし始めたりして。自分はカットもしっかり習ってないし、カラーもできないし白髪染めしかできない。ブローもちゃんとできてない。このままではヤバイと思い、25歳の時にスリークエスチョンというサロンに入社しました。「何でもできます!」と言って入社しましたがもちろん何もできないので、シャンプーマンとしてスタートしましたね」 スリークエスチョンに入社した帆足は、一心不乱に働いた。 「それまで色々とフラフラしながらやっていたのでこれ以上遊びたいと思うこともなかったですし、年齢的にここを辞めたら他では働けないと思っていましたので仕事に専念していました」 また、同期と一緒に働くという経験も帆足には新鮮だった。 「これまで同期とかがいなかったので、一緒に働けるだけで楽しかったですね。仲間がたくさんいる環境というのが今までなかったので」

歌舞伎町ホストのヘアメイク

スリークエスチョンに入社してしばらく経って同じ練習の繰り返しでマンネリを感じていた頃に歌舞伎町のホストのヘアメイクのバイトを始めた。 「1時から4時くらいまで、1日で20人くらいヘアセットをするというのを一年くらいやっていました。美容室の営業が終わり、カットモデル呼んで練習して、その後軽く食事して歌舞伎町行ってヘアセットして4時に終わってみたいな生活をしていましたね」 3時間で20人のヘアセットを何パターンもする。それも、毎日同じではダメなので変化を加える必要がある。そんな環境が帆足の成長を促した。そして、スリークエスチョンでスタイリストになった。 「スタイリストには比較的すぐになれました。夜の練習でのカットモデルの数は、日本一の自信があります」 帆足はモデルハントなどしたことがなかった。カットモデルが自然と自分のところに集まってきたからである。 「美容室によって指導方法の違いがあると思うので一概には言えませんが、練習モデルはカットまでしないとダメだと思います。カラーだけなら誰でもよかったりしますが、カットは好みがありますから。練習モデルでカットまですると、次から次に集まってくるようになります」

ブレイク前夜

当時メンズエッグを担当していた帆足。実際にお店に来る客層と料金の間でジレンマがあった。 「その頃、メンズエッグを担当していたのですが、メンズエッグやエッグを見て来る客層はほとんどが高校生でした。スリークエスチョンだとカットカラーが15,000円くらいだったので少し合いませんでした。同時に、サロンでのこの先の未来が見えない部分もあったので、退社することにしました」 スリークエスチョンを退社した帆足は、その後RISELに入社した。 「当時のRISELは、雑誌に出始めたくらいの美容室でした。自分で履歴書を書いて持って行きましたね。最初はセット面5席くらいの小さなサロンでしたが、そこはパンパンで。渋谷の子達がどんどん来るようになりました。そして、10ヶ月でもう1店舗出してもらいました」 帆足がRISELに入社して間も無く、RISELは一気にブレイクした。 今や世界にその名が知れ渡っている街、渋谷。そんな渋谷の歴史と共に歩んできたスタイリストがいる。渋谷を拠点としたRISEL4店舗の代表を務める帆足和光。顧客に多数の芸能人やモデルを抱え、今なお輝き続けるカリスマの半生に迫る。(敬称略)

真面目だった学生時代

東京都の駒込で生まれ育った。父親は美容師であり、美容室を数店舗経営していた。 「父親が美容師だったのですが、母親は自分を美容師にさせたくなかったみたいです。手に職というよりも、ちゃんとした会社に入って・・・というようなことを望んでいたようです。それで、小学生から私立に通わせてもらっていました。小中高とエスカレーター式の学校でした」 都内の有名私立大学付属の小中高に通った。中学校時代はスキー部に所属していた。 「東京は雪が降らないので、夏場はひたすら筋トレをしていました。そして、冬場だけ1ヶ月くらい山に籠ってスキーをするという感じでしたね(笑)」 中学校時代はスキー部だった帆足だが、高校では馬術部に入った。 「中学生の時に競馬を見に行って、そこから馬が好きになり馬術部に入りました。馬がかっこいいなと思って」 スキーに馬術と、さぞかし華やかな青春時代を過ごして来たと思いきや、そうでもないようだ。 「小中の時は眼鏡をかけていて、オタクみたいな感じで友達もあまりいませんでした。中3の時にコンタクトに変えて、イケイケのグループに入って少し環境が変わりましたね、基本的には部活ばかりやっていました」 「実家が美容室だった為、営業終了後に友達呼んだりして溜まり場になっていましたね。その時に、ハサミとかあるので友達に「髪の毛切ってくれ」と頼まれて切ってあげていました。失敗すると親父に直してもらったりして。そんなことをしていたら、髪を切るのがだんだん上手くなってきましたね(笑)」

お笑い芸人

高校を卒業した帆足は、なんと吉本総合芸能学院(通称NSC)の東京校に入学した。 「同級生に誘われたので、NSCに入学しました。ちょうど東京にできたばかりで1期生でした。品川庄司さんとか同期でした」 ちなみに、大阪校の1期生はダウンタウンである。1年間NSCに通い、卒業してしばらくは芸人のような活動をしていた。 「その当時、いくつか大きなステージには立たせてもらったりしましたね。テレビにも出ましたし、ものまねカラオケ選手権みたいな大会で優勝したこともありました」 活動して半年経った頃、芸人としての自分の限界を感じ始めた。 「アドリブがうまくいかなかったり、そんなことを繰り返しているうちに、見るのとやるのは全然違うなと思い始めて・・・。やはり自分には裏方の仕事が向いていると思い、美容師になろうと思いました。当時、美容師になることに反対していた母親が亡くなり、父親も何も言わなかったので美容師になることにしました」

美容師として生きていく決意

紆余曲折を経て、ついに美容師になることを決意した帆足は、池袋にある東京総合美容専門学校に入学した。この時、帆足は20歳。同級生のほとんどが、2つ下の年齢だった。 「専門学校時代は、先生と一緒に時々教えていましたね(笑)。NSC時代には授業が週に3回しかなかったので、空いた時間は実家の美容室を手伝ってたのですが、そのお陰でワインディングとかできるようになっていました。ちょうど先生が僕の2つ上の初めてクラスを持った新米の先生でしたので、手伝っていましたね。休み時間とかになると、生徒が「カットして欲しい」と言って並んでいました」 専門学校を卒業した帆足は、そのまま父親が経営する駒込の美容室で働いた。 「もともと父親は美容室を3店舗経営していたのですが、最終的に1店舗になり、従業員も自分と父親と妹だけになりました」 結局、2年間実家の美容室で働きつつもフリーターのような生活になっていた。 「実家は自由出勤のような形でしたし、だんだん美容師に飽きてレストランでアルバイトばかりしていました」 そんな飲食店のアルバイトで、今後の帆足の人生を左右するある出来事に遭遇する。

続く

日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)

エザキヨシタカとの出会い

美容学校1年生の後半に、自分で予約してエザキヨシタカが新しくオープンした美容室に行った。 「エザキさんはよく関わる人全てファミリーだという話をしてくれるのですが、僕が1回目に髪を切りに行った時に、その話をしてくれました。「実家に帰るのは年に1回あるかないかなのに、お客様は2ヶ月に1回会えるし、スタッフなら毎日会える。お客様で例えると、実家の家族より6倍会っている。それってすごくない?」と純粋に言われました。「実家の6倍も会っているお客様は家族だと思うし、その人たちのために美容師をやりたい」と本気で言っていたので、すごく衝撃を受けました」 その帰り道、宮永は一人悩んだ。エザキが見せた「自分の身を削ってまで人の人生に関わっていくという姿勢」に、魂が揺さぶられていた。 「その帰り道、正直僕の頭の中は???でした。当時の僕は人に興味がなく、ある意味で冷たい人間でした。小中高と倍率の激しい東京での「お受験」を経験して、周りを蹴落とさなければ合格できないと教えられてきたので・・・」
そこから、宮永は考えた。
「徹底的に考えましたね。美容師とは・・・というところから始まって、僕が歩んで来た道筋、エザキさんが言っていたこと、いろいろ考えました。もともと美容師はカッコよくて、モノづくりができる職業というイメージでなろうと思っていたのですが、モノづくりではないんですよね。お客様はモノではないですし。お客様の人生をプランニングしたり、髪の毛を通して人に幸せを与えるものだと思ったときに、今までの自分の考えが覆りました」

gricoに入社

徹底的に悩み、考え抜いた先にたどり着いた答え。宮永はもう一度エザキに会いに髪を切りに行った。 「エザキさんの考えは正しい、間違っていないと思い、もう一度髪を切りに行きました。そこでまた話をして、ここでしかお客様を幸せにできないなと思い、入社試験を受けました。オシャレキング贔屓は一切無かったですね。みんなと同じように、普通に試験を受けて入社しました。本当は僕落ちそうだったんですよ。エザキさん以外は良いと言ってくれなくて(笑)」 入社した1年目の夏に、ひょんなことからエザキのアシスタントを務めることになった。 「もちろん何もできませんでした。理想と現実とのギャップが悔しくて、死ぬくらい泣いていました。それまでは、一度も悔しくて泣いたことなどなかったのですが(笑)。それからは、もう努力しかしていないですね。原宿で一番努力した自信があります」 スタイリストになった宮永。すぐには売れなかった。 「雑誌をやらせてもらってもそう簡単には売れなくて・・・。そこからいきなり上がることはなかったですが、徐々に上がるきっかけになったのはモデハンですね」 モデハンを通じて、売り上げが徐々に上がって行った。 「休みの日もずっとやっていました。モデハンの何が良いかって、ある種の自分磨きなんです。全く知らない女性に声をかけて、1分間のプレゼンで髪を切りに来てもらうというのはすごいことです。自分の表情だとか声のトーン、その人に対するアプローチの仕方、持っているプレゼン資料等、自分の魅力を試す絶好の場です。自分の努力次第で何十パターンも試せるのです。また、モデハンは個に対するアプローチなので、接客にも生きてきます。店長になってもやっていましたね」

ファミリー

モデハンのおかげで徐々に売り上げが上がった。そして、新店のTORAを任された時に、ついに売り上げが一気に上がった。 「TORAは、集客サイトなしでやれと言われていたので、紹介でやるしかありませんでした。gricoに行けばいいのにわざわざ、TORAに来てくれる。それってすごいことだと思いましたし、その感謝の気持ちをすごく伝えるようにしました。120%で伝えました。その結果、お客様が本当に大事な人を紹介してくれるようになりました」 人に興味がなかった少年は、いつからか誰よりも熱いハートを持った美容師になっていた。 「今はgricoという組織に対する愛がめちゃくちゃあって・・・。今までは上の目を気にしてとか色々あったのですが、今はもう下の子も上の人もみんな大好きで、この組織は日本一だと心から思っているので、家族としてめちゃ強くしたいというのがいまの野望です。後輩の育成もそうですし、外からの見られ方もそうですし、そういうところをもう少し考えていきたいです。それと、今は社長が一番働いているので、もう少し僕もそのあたりの仕事を担えるようになって楽させてあげたいですね。なんかお爺ちゃんみたいですけど(笑)」 エザキとの運命的な出会いから、宮永の人生は変わり始めた。そして、その歩みはこれからも続く。 「エザキさんから与えられたものはすごく大きいです。それがあるから僕は今の立ち位置になっていると思っています。では、僕の下の子はどうかと言ったら、僕がエザキさんに与えられたほど、与えられていないと思います。僕はエザキヨシタカ第2号だと思いますが、宮永えいと第2号を作りたいと思います。それは、エザキヨシタカ第3号でもありますから(笑)」 宮永えいとがいる限り、gricoファミリーは安泰だ。

日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)

日本美容専門学校

美容師かグラフィックデザイナーか。答えは美容師だった。 「グラフィックに関しては、具体的に関わっている人が身近にいなかったのでボヤボヤしている感じでした。美容師に関しては、オフ会での出会いもそうですし、インターネットで毎日美容師の情報を仕入れていたりしていたので、美容師はかっこいいなと思っていましたね」 専門学校は、オープンキャンパスに行って一番楽しそうだった日本美容専門学校を選んだ。 「これは昔から思っていたのですが、僕の家庭は自由奔放で、好きなことは何でもやっていいという環境でした。ですので、あまりに規則が厳しい学校は思考の幅が狭まると感じていました。生き生きしている学校の方が、美容師という職業にはあっているのかなと」 好きなことは何でもやらせてくれる環境で育った宮永にとって、自由で楽しそうな学校を選択することは自然な流れだった。 「規律を守るというのももちろん大切なのですが、パワーバランスで言ったら、自由な発想と豊かな感性を大切にしたいと思ったので、日本美容専門学校に行きました」

フツーの美容学生時代

日本美容専門学校に入学した宮永。ついに新しい生活が始まった。高 1から続けていたファミレスのキッチンでのアルバイトを続けながら、美容師になるための第一歩を踏み出した。 「美容学生時代は、かなり平凡な生活でしたね。最初の頃は進学校から入学したというプライドがあり、周りに負けたくないというか、反骨精神の塊でした。しかし、当たり前ですが美容学校では頭の良さは関係ありません。デザインでぼろ負けして、「頭の良さが関係ない世界もあるのだ」と認識しました」 これまで体験したことのない世界がそこにはあった。 「ある意味で新鮮でした。美容学校ではなかなか振るわず、いわゆる平均君でしたね。普通の美容学校生活でした」

choki choki

宮永は「普通」と強調するが、周囲はそうは思っていなかっただろう。当時の宮永はchoki chokiという人気雑誌の人気モデルだった。 「ちょうど高3ぐらいから、ストリートスナップをきっかけにchoki chokiに出始めました。その当時は、「塩顔」という言葉がありませんでした。みんなジャニーズのようなイケメンばかり。そこと比較して、僕がいるのは申し訳ないというか、すみませんという感じでしたね。ですので、雑誌に載ったからと言ってドヤッという感じにはならなかったですね」 本人は謙遜するが当時、宮永を含めchoki chokiに出ている人間は、原宿界隈では芸能人以上の人気を誇っていた。最終的に宮永は「キング」というchoki chokiモデルの中で最高位の称号を手にして、choki chokiを卒業した。choki chokiのキングということは、ストリートスナップの頂点を極めたことと同じである。 そして、美容学校1年の後半に、ついに宮永はgricoオーナーのエザキヨシタカと運命的な出会いを果たす。 「原宿に新しいお店がオープンすると聞いて、自分で予約して髪を切りに行ったのが最初です」 choki chokiに出ている有名モデルともなれば、通常はその宣伝効果を期待して原宿の美容室なら無料で髪を切ってくれることが多かったはずである。しかし、宮永は自分でお金を払って髪を切りに行った。 「今考えると不思議ですよね。何かが引き寄せたのかもしれません」 まるで運命に導かれるように、宮永はエザキに惹き付けられていく。美容学校の1年が終わる頃だった。

続く

日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)

野球と塾

宮永は、両親と6つ上の兄がいる東京都の東久留米市で生まれ育った。 「小学校の時はずっと野球をやっていました。パパイヤ鈴木さんと同じ小学校でした(笑)」 野球に明け暮れた小学校時代だったが、小学6年生の時に中学受験をした。 「親友が中学受験をするというので、自分も憧れて中学受験をしました。しかし、全て落ちてしまって、受験の難しさを知りましたね」 地元の公立中学校に入学した宮永。中学でも野球を続けたが、どうやら勉強の方が性に合っていたようだ。 「中学時代は、野球と塾ぐらいしか記憶にないですね。野球は飽きずに継続してやれてはいたのですが、センスがなかったようです。中学の最後の頃は、選手ではなく審判部長でしたから(笑)。審判として上手すぎたので、都大会にも出ました。正直、野球より塾の方が自分には合っていましたね」 中一から塾に通っていた宮永。成績も良く、偏差値は70に達していた。 「高校受験ではどうも本番に弱いのか、行きたい高校には落ちてしまいました」 それでも、杉並区にある私立の進学校に合格した。高校に入学してからは、軽音部に入った。 「中学時代から音楽が好きだったので、軽音部に入りました。ハイスタンダードのコピーバンドを結成して、ギターボーカルを担当していました」

ピーコスレ

当時から、将来はモノ作りに関わる仕事に就きたいと思っていた。 「母親が、出版社に勤務していました。ちょうど出版バブルの時に某赤文字系の人気雑誌を作っていたので、自分もクリエイティブな仕事に就きたいと思いました。進学校に入学した手前、勉強を生かして頭を使う仕事をしたいと考え、美術大学がいいかなと思って色々と調べたりしたのですが、どうやら予備校に行かなくてはならないと知って、愕然としたり。それまで、散々予備校には通っていたので、また予備校かよみたいな(笑)」 そんな中、ある出来事がきっかけで、美容師とグラフィックデザイナーという仕事に興味を持ち始めた。 「中学生の時に、いわゆるインターネットの掲示板にはまって、掲示板でヘアワックスを調べていました。その流れでファッション版にも行った所、今でいうWEARのような感じの「ピーコスレ」というのがあったのです。自分で写真を撮り、それを掲示板に投稿するとみんながまるでピーコさんのようにファッションチェックをしてくれるという感じの・・・」 ピーコスレの反応が楽しくて、どんどんハマっていった。 「ピーコスレで投稿すると、「この靴下の合わせがダサい」とか、「このアイテムいいね」とかうわーって言ってくるんです。そこにハマってしまいましたね。そこのファッション版の人たちとすごく仲良くなり、中3ぐらいからオフ会をするようになりました」

美容師との出会い

ピーコスレのオフ会で、初めて美容師と出会った。 「そのオフ会にはアパレル関係の人だとか、中3からすると普通は関われないような様々な職業の人がいて。その中に美容師さんがいましたね」 「そこでの出会いがなければ、将来はモノ作りをしたいと考えた時に、真っ先に美容師とは思わなかったかもしれません。 では、グラフィックデザイナーという選択肢はなぜ生まれたのだろうか? 「先ほどの掲示板などの関係で昔からPCをよくいじっていたりして、PCが好きでした。父親がIT関連の仕事をしていたということもあり、小6くらいの時にパソコンを一台与えられて、「俺は一切教えないから、これを使ってみろ」と言われたのです(笑)」 かなりエキセントリックな教育である。 「最初はソリティアとかマインスイーパーとかやっていましたが、そこから派生してインターネットエクスプローラーを開いて、ネットの世界に入って行きましたね。ネットゲームやチャットをするようになりました。そんなことをしているうちに、グラフィックデザイナーを思いつきました」 美容師がグラフィックデザイナーか。選択の時期は刻一刻と迫っていた。 若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なこんなテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)

赤坂の理由

ついに念願の自身のサロン「Salon Ryu」を東京の赤坂にオープンさせた京極。 美容室をオープンするための諸々の費用は、これまでの貯金と日本政策金融公庫からの借り入れで賄った。そもそも、なぜ赤坂という、あまり美容室のイメージがないエリアに出店したのか。それには、京極ならではの独特の理由があった。 「東京のど真ん中ということもありますし、ここのロケーション的にも東京のシンボルである東京タワーと、逆側には日枝神社、さらにはエンターテイメント業界のTV局TBSがあったりと、非常に魅力的でした。この場所を制するものが東京を制すると感じ、世界に日本の美容を発信するには最適な場所だと思いました」 昔と異なり、SNSが主流の時代だからこその発想もあるという。 「SNSがない時代は、それこそ選択肢があまりなかったのでとりあえず青山や表参道に美容室があった方がお客様も来たかもしれませんが、今は情報を発信する時代です。場所がどこという事よりも、その人がどこにいるかということの方が大切だと思っています。その人が魅力的ならば、場所は関係なくお客様は来てくれるものだと思います」

挫折と喜び

一見すると、これまで何のつまずきもなく最速で自分の目標を叶えているように見える京極だが、何度も挫折を繰り返して来た。 「これまで色々と大変なことはありましたが、一番大変だったことは言葉の壁ですね。言葉の壁は本当に挫折しました。それを経験したら、どんな困難でも乗り越えられる気がします。人生が変わる大きなきっかけでした」 日本語の学校に通ったわけでもない京極にとって、通常生活の中で独学で日本語を学ぶことは困難を極めた。 「生活のために言葉を覚えなければ生きていけなかったというのもありましたし、美容業界で生きていくためには、絶対に日本語をマスターしなければなりません。その思いが、言葉の壁を突き破る原動力になりました。そう考えると、美容業界との出会いがなかったら、僕は未だに言葉の壁に当たっていたと思います」 反対に、喜びを感じる瞬間を聞いてみた。 「美容を通してたくさんの仲間たちと出会える事がいちばんの喜びですね。さらに、コンテストで優勝して審査員に認められて、周囲に恩返しできることも嬉しいですね」

30歳までに世界で100店舗

世界を知っているからこそ、京極の目には日本の美容業界の問題点が見えてくる。 「僕は中国にも行き来しているのですが、日本の美容師は、技術はいいものを持っているのですが、そのマインドがまだ追い付いていないような気がします。また、今は物価が昔よりも上がっているのに、日本の美容の技術、すなわち金額は数十年前よりも安くなってしまっています。それは、やはり技術以外のマインドの部分が問題だと思います」 確かに、ここ何年かで日本の美容室の平均的な金額はかなり下がっている。 「東京の美容師は、最低限の売り上げの数字があり、それをこなす人が多いような気がします。数をこなすというか・・・。クリエイティブなコンテストなどでも、優勝する人は東京以外の美容師が多いのは、そういった美容を楽しむという余裕がなくなってきているからだとは思います。上海だと、カットの金額が日本の3倍です。それでもなぜ中国人の美容師が日本に勉強しに来るのかというと、やはり日本の技術を認めてくれているからです」 日本の美容に自信と誇りを持っているからこそ、その技術は安売りしたくない。 最近の美容師は、サラリーマンのように定時に来て定時に帰りたがる傾向がありますが、美容師は職人です。努力すればするほど将来は輝ける可能性を秘めています。ですので、これは美容学生の皆さんへのアドバイスになりますが、目の前の楽しさを追求するだけでなく、若いうちに練習して、たくさんの人に出会って人生を豊かにしてほしいと思います」 今年の9月には、中国の武漢で「Salon Ryu」の2号店がオープンする予定だ。 「僕の次の目標は、30歳までに世界で100店舗をオープンさせることです。それを目標にやっていきます。ヨーロッパやアメリカで、アジア人が信頼していけるサロンが少ないという声をよく聞くので、アジアの方がどこの国に行ってもカッコよくなれるサロンを作りたいと思います。同時に、人生をかけて美容師の価値を高めたいと思っています。色々な国のクリエイティブのアーティストを集めて、世界中でヘアショーなどやりながらツアーをしたいですね」 30歳までに世界中で100 店舗。間違いなく京極なら達成するだろう。そう思わせるだけの努力を、今日も限界までやっている。

若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なコンテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)

イギリス時代

QBハウスに入社した京極は半年間の研修に参加し、その後2ヶ月働いて退社。京極は、イギリスに旅立った。 「イギリスにはずっと行ってみたいと思っていて、高校時代と専門学校時代の貯金を使って行きました。もちろん英語も最初は分からなかったのですが、QBハウスで研修しているときに時間を見つけて勉強しました。僕のパスポートは中国なので、イギリスに行く為には最低限の英語力が求められるのです。ですので、英語は勉強しましたね」 イギリスは、美容師の留学支援会社の3カ月のツアープログラムに参加して行った。 「イギリスのシェフィールドという場所にある美容室で、3ヶ月間研修をしたのですが、いざ現地に行ったらお客さんも全然来ないし、いるスタッフも全員日本人でした(笑)これでは何のためにイギリスに来たのか分からないと思い、何が出来るかを自分で考えました」 自分の想像と全く異なる環境に驚きつつも、持ち前のハングリー精神で自ら行動を起こした。 「当時の環境ではほとんど日本と変わらないので、直接現地の人をモデルハントしたり、週に一度深夜バスに乗ってロンドンへ行き、フェイスブックで知り合った現地のクリエイターと一緒に作品撮りを重ねました。クリエイティブチームを作って、ホテルの中で撮影したりしてましたね。あとは、日本で知り合った美容師さんがロンドンの美容師を紹介してくれたりして、徐々にロンドンでのコネクションができていきました」

クリエイターを取り巻く環境

そんな慌ただしい毎日を過ごしているうちに、3ヶ月のツアープログラムが終了した。 「ツアープログラムが終了してからは、ヴィダルサスーン、トニー&ガイ、サンリッツなどのアカデミー(短期研修)に参加しました。日本で勉強した技術がロンドンでも通じたので、そこは自信になりました」 実際に、京極は2016春夏ロンドンファッションウィーク、2016-17秋冬ロンドンファッションウィークメンズにてヘアを担当した。また、ロンドン滞在中の作品は「Vogue Italia」をはじめ、 「Atlas Magazine」「Factice Magazine」「Flanelle Magazine」「Hunger TV」「Lone Wolf」など多数ファッション雑誌に掲載された。 「ロンドンにいて思ったことは、社会が美容師をクリエイターとして認めてくれている環境があるということです。Vogueのようないわゆるハイファッション誌でも、本当に良いと思った作品は有名無名を問わず掲載してくれます。これにはすごく驚きましたし、この文化を日本にも持って行きたいと思いました」

日本に帰国

ビザが半年間であり、その期限が刻一刻と迫るなか、京極は日本に帰国する決意をする。 「ロンドンで美容業界が成り立つのは、社会がクリエイティブな事を認めてくれるからだと思いました。そんなロンドンの考え方を日本に持ってきて、改めて日本の美容業界を活性化したいと思いました」 イギリスに来て半年が経ち、日本に帰国した京極は自分のサロンを立ち上げるという目標に向かって走り始める。 「22歳の1月に日本に戻って来て、2月にカットコンテストがありそれに優勝しました。そこから物件探して、4月に物件が決まり、7月にオープンしました」 2017年7月、若干22歳にして赤坂のビルの最上階に、自身のサロン「Salon Ryu」をオープンさせた。 「25歳までには自分のお店を持ちたいと思っていたので、嬉しかったですね」 黒と白を基調とする近未来的な空間に個室が2つ、すべての施術をマンツーマンで行っている。自分の美容師人生の第二章が始まった瞬間だった。

続く

若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なコンテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)

中国から日本へ

京極が生まれたのは中国。小学校6年生の12歳まで、中国の上海で育った。 「中国にいた頃は、いたずらっ子で元気いっぱいの子供でした。その後、中学生になると同時に母親の仕事の関係で日本に来ました。13歳の時です」 日本語が全く分からないまま、東京にある公立中学校に入学した。琉以外の生徒は全員日本人だった。 「日本語が全く話せなかったため、いじめにあったりもしました。言葉の壁があり、日本のコミュニティーに馴染めなかったですね」 中国にいた頃の元気いっぱいだった姿は影を潜め、自分を表現できないもどかしさを感じていた。バスケットボール部に入部するも、日本語が分からずコミュニケーションが取れないためチームワークが上手に取れなかった。授業も寝てばかり。自宅に帰っても、寂しさを紛らわすためにオンラインゲームをするのみ。現実から逃避していた自分がいた。 「当時は、中国にいた頃の自分と、日本にいて言葉が分からないため自分を表現できない自分とのギャップを感じていました」

美容師という職業

高校は、定時制の高校に進学した。コンビニや中華料理店でアルバイトもした。 「中学校時代に比べて、少しだけ日本語も上達しました。ただ、定時制高校だっため、色々な国の人がいたということもあり、日本語が話せなくても何とかなりました」 やがて18歳になり、進路を決める時期がやって来た。 「自分は、表現者としての仕事をしたいと思っていました。ですので、最初は歌手も考えました。しかし、自分は音痴だったので諦めました(笑)。他にも、ダンサーという仕事もいいなと思ったのですが、いつかは引退して指導者などの裏方にならなくてはいけない。そう考えた時に、美容師なら歳を取ってもずっと続けられるし、人を笑顔にできると思って美容師になろうと決めました」 美容師になることを決めた流は、日暮里にある国際理容美容専門学校に入学した。 国際理容美容専門学校に決めた理由は、オープンキャンパスで色々な美容専門学校に行きましたが、一番厳しく感じたからです。それと、国際理容美容専門学校には夜間コースもあったので、それも僕の中では魅力的でした」

言葉の壁

17時から22時まで学校に行き、昼間には美容室でアルバイトという生活が始まった。 「昼間は美容室でアルバイトをしていたのですが、言葉の問題もあり敬語もまともに話せなかったので、アルバイトとして採用してくれる美容室を探すことが大変でした」 なんとかアルバイトとして働かせてもらえる美容室を見つけたが、試練の連続だった。まずは、お客様とのコミュニケーションの勉強から始まった。 「これまでは、自分の知人等のごく限られた中でしか日本語を使ってこなかったので、不特定多数の知らない日本人に話すとなると、緊張して汗が止まらなかったですね。これでは仕事にならないので、バラエティ番組などを見て、日本語の勉強をしました。自分が発音した日本語のイントネーションが正しいか確認するため、自分の声をボイスレコーダーに吹き込んでイントネーションの確認などもしていました。 結局、2年間その美容室でアルバイトとして働いて、美容学校を卒業してスタイリストになった。しかし、その美容室がなんと倒産してしまう。 「そのまま普通の美容室で働いても自分の年齢はまだ20歳だし、アシスタントでゼロからやるというのは時間がもったいないと思ったので、QBハウスというカット専門店に入社しました。当時はすごく成長している企業で、何でこんなに成長したのかという、成長している企業の理念や経緯を知りたかったというのがありました。また、半年間の研修期間というのもあったので、それも魅力的に感じて入社しました」 QBハウスに入社した琉は半年間の研修に参加し、その後2ヶ月働いて退社した。そして琉はロンドンに旅立った。

続く

美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)

辿り着いた理想郷

紆余曲折を経て現在のtriccaに入社した田村。ついに理想の環境を手に入れた。 「当時は営業もすごく忙しかったですし、本当に自分の理想の形でした。あとは自分がやるだけだ!みたいな。そこでやっとスタイリストになりました」 様々な経験を経て、田村はついにスタイリストになった。さらには、母親にもなった。 「結婚して10年、子供が生まれて3年になります。結婚して、年齢的なことを考えるとすぐに子供が欲しかったのですが、仕事も楽しくなってきて、キャリアを捨てるのが怖かったというのがありましたね。美容師を離れることでどうなるのかが見えなかったので・・・。」 子供を育てながら美容師ができるのか?不安の方が大きかった。 「自分以外に時間を割く自信がなかったですね。子供の存在が分からないので、子供が欲しいけど後回しにしていた部分がありましたね」

子供が生まれて

そして、子どもが生まれて田村の生活も変わっていった。 「いよいよ子供が生まれて、やはり時間的な制限があるので大変でした。私のお客様はキャリアウーマン系の方が多く、仕事帰りにサロンに来るお客様がほとんどだったので不安が大きかったです」 そんな不安も、考え方を変えることで徐々に払拭されていった。 「子供を育てるのはすごく貴重な体験だと思います。担当できないお客様がいらしたり、時間の制限があるので教育か管理等、出来ることが限られてしまい、引け目を感じてしまう事も。しかし、このような経験できるのは女性しかいないですし、その方が人生的に豊かになるのかなと思います。美容人生としてはリスクになるかもしれないけれど・・・」

人生のセカンドステージ

子供が生まれてから、仕事に対するスタンスも自ずと変化していった。 「私は、セカンドステージだと思っています。これまでの忙しい美容人生とはまた違ったステージですね。美容師という観点から見ると、マイナスの面もあるかもしれませんが、仕事と育児のバランスの良い生活になりました。今は、会社の理解とサポートがあるのでとても助かってます。また、これから先、女性スタッフには色々な働き方の選択が出来るように、ひとつの道しるべになれたらと思います」 若いスタッフに対しては、母親的な立ち位置になってしまうという。 「長い時間を共にしたスタッフにはつい厳しくしてしまいますが、若いスタッフには母親のような立ち位置になってしまいますね(笑)」 最後に、田村に将来について尋ねてみた。 「お茶菓子が出て来るような美容室をやりたいです。おばあちゃんになってもずっとやっていたいですね(笑)」 人並み外れた実行力を有する田村ならば、きっと実現させるに違いない。一昔前に比べれば、いわゆるママ美容師を取り巻く環境は劇的に変化している。今後も彼女の働き方から目を離せない。