山口照洋〜絶対的技術至上主義 Vol.3〜
日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)
MINXに入社早々シャンプーでつまずき、自信を失っていた山口だったが、目の前の課題をひとつずつ克服していくうちに、徐々に自信を取り戻してきた。そして、2006年についにスタイリストデビューを果たした。そんな山口にとって、MINX創設者の一人である今は亡き鈴木三枝子氏との出会いは忘れられない。
「自分は、鈴木三枝子さんの歴代で一番長く専属についたアシスタントでした。鈴木三枝子さんのアシスタントには必ず問題児が専属になるんです(笑)。とにかく人を褒めるタイプではないので、ケチョンケチョンに言われましたね。ただ、今になると分かることがすごくたくさんあります。仕事の優先順位、仕事の組み立て方とか・・・。例えば、トリートメントでも、「作業が忙しいな」と思いながら塗るよりも、「綺麗になってください!」と思って塗った方が綺麗になるのですが、そう言った思いが足りなくてよく怒られました。あえて正解を教えてくれない人だったのですが、それを自分で見つけろということだったのだと、今になって分かりましたね」
その後、山口は2009年にMINX原宿店の副店長に、2014年に店長に就任した。同期の中では早い出世だった。当時、山口がスタイリストになるや否や撮影の仕事がどんどん入ってきた。
「スタイリストになってすぐに、撮影の仕事やヘアショー等のいわゆる外部の仕事がたくさん入ってきました。そして、気が付いたらサロンワークが疎かになって、失客をしていました。当時は予定をすごく詰め込んでいたので、遅れてきたお客様をお断りしていた時もありました。要は、調子に乗ってしまったということです。美容師って「俺は忙しい」、「俺は偉い」、「俺が作るスタイルは全て可愛い」などと勘違いしてしまうときがあります。俺乗ってるわ的な・・・その安心感、緊張感のなさが一番危険です」
そんな勘違いしていた時期も、雑誌の廃刊やヘアショーの減少等で終わりを迎える。
「外部の仕事が減ってきたため、サロンワークが中心となってきたのですが、お客様に向き合う時間が増えたため、それからはサロンワークがすごく楽しくなってきましたね」
山口は、お客様との関係性を非常に大切にする。
「僕が美容業界に入ったときはカリスマブームでしたが、いまはそういう時代でもないですし、来たお客様とは一生お付き合いしたいなと思っています。お客様との関係性があれば、お客様は離れないですし、人生を共に歩んでいる気がしてそれが楽しいです。一人のお客様と長いお付き合いをするというのは、うちのコンセプトでもありますし」
2014年に、山口にとって嬉しいことがあった。Japan Hairdressing Awards(JHA)のNEWCOMER OF THE YEARにノミネートされたのだ。全国で20名しかノミネートされないことから考えれば、これがいかにすごい事か分かる。
「JHAは自分でも見に行ったことがありますし、毎年気にしていたのですごく驚きました。自分には縁がないものだと思っていたので。技術が認められたのは凄く嬉しかったですね。」
最後は「技術」であると山口は強調する。
「美容師にとって、とにかく技術が一番大切です。確かに、技術がない美容師にもお客様が帰ってくることがあります。「感じいいな」で美容師を選ぶお客様がいるのは事実です。しかし、本当にカットが上手い美容師に切ってもらえたら、お客様も違いが分かるのです。やはり、技術あってこその美容師だと思います」
教えられる立場だった山口も、いつからか自分が教える立場になっていた。
「最近は、下を育てるのが面白いですね。今自分が下の子たちに教えると、みんなできるんです。僕が下の時は、いくら教えてもらっても全然できませんでした。それは、教え方に問題があったんだとやっとわかりました。80点しか取れない人が教えたところで、下の子は80点しか取れません。やはり、100点取れる人間が教えないと、下の子も100点取ることができないのです」
山口がMINXに入社して、今年で19年になる。これからどこに向かうのだろうか?
「今が絶好調で、楽しいですし休みもいらないです。また、MINXのなかでタレントや芸能人の方を一番多く担当してるのは自分なので、そこを売りにしていければいいかなと思います。そして、いつかは自分の店を持ちたいなというのはあります。それが実家の店なのか、自分で出す別ブランドの店なのか、いろいろな独立の仕方があると思いますが・・・。自分は19年間MINXで働いてきましたし、僕の恩師は鈴木三枝子です。やっぱり自分はMINXが好きなので、独立するにせよ、MINXとはずっと関わり続けたいという思いはありますね」
日本一トリッキーな美容師は、日本一MINXを愛する男だった。
長崎を出て、東京にある東京MAX美容専門学校に入学した山口。美容師になるための第一歩を踏み出した。
「学校には真面目に通っていました。休むと単位を埋めるのが大変で・・・。ただ、父親からは「美容師になると遊べなくなるから、学生時代は遊びなさい」と言われていた。なので、それに甘えて少しお金を送ってもらって、みんなでカラオケに行ったり飲みに行ったりはしていましたね」
そんな美容学生時代に、カリスマ美容師ブームを作ったTV番組と出会う。
「僕が美容学生の時にちょうど美容師ブームで、シザーズリーグというTV番組が流行っていました。その時まで、僕は自分の父親とMINXの関係(※MINXの代表である高橋は過去に山口の父親の下で働いていた)を知らなくて。MINXがテレビに出ていた時に、ロゴがカッコいいと思ってそれを父親に話したら「だから昔話したでしょ、お父さんの知り合いだよ。子供の頃に会ったことあるよ」と言われたのですが、子供の頃の記憶なのですっかり忘れていました(笑)」
意外なところで繋がっていた山口とMINXの縁。そんな山口自身も、学生時代にシザーズリーグに出場した経験を持つ。
「スチューデントシザーズリーグという美容学生向けの大会に出たりもしましたね。ギリギリで惜しくも2次通過出来なかったのですが・・・」
美容学校を卒業したら長崎に帰ろうか悩んでいた山口だが、シザーズリーグでのMINXとの出会いをきっかけに、東京で勝負することを決意した。2年間の学生生活を終えて、2000年の4月に憧れのMINX青山店に入社した。しかし、その喜びに浸かる間も無くいきなり試練が山口を襲った。
「最初はとにかくシャンプーが苦手でした。普通は4月に入社して5月にはシャンプーのテストに合格するのですが、自分が合格したのは8月でした。このお店に18年間いますが、8月に合格する人間はこれまで見たことないですね(笑)」
結局、同期の仲間から大幅に遅れて山口はシャンプーに合格した。
「今考えると、「俺はシャンプーするために美容師になったわけではなんだよ」という甘い考えだったと思います。「シャンプーはつまらないな」とか、そういう考えは指先に伝わってしまいますから。なので、当時は僕だけシャンプー合格していなくて戦力にならないので、雨の日も風の日も朝から晩までずっとモデルハントに行っていましたね」
シャンプーでの試練が山口にとって強烈だったため、自信を取り戻すための時間が必要だった。
「美容師やり始めたばかりなのにシャンプーでこんなに苦労して、自分がスタイリストになってお客様の髪を切って、撮影したりとか取材を受けたりとかしている姿が想像できなくなってしまいました。俺大丈夫かな?みたいな」
そんな悩みに苛まれる毎日が続く中、目の前の課題をこなしていくうちに徐々に光が差してきた。
「少しずつ目の前のことをこなしてくと、自分の方向性が見えてきました。上手くなっていくのが自分でも分かってきました」
何かが変わってきたことを実感した。
「シャンプーやって、カットして、カラーしてパーマもやって色々なことを吸収していき、引き出しが増えてきたときに初めて美容の楽しさが分かってきました。なんとなく父親も美容師やっているし、髪の毛切ってかっこいいなという感覚でこの世界に入ってきたので、入社して1日目でギャップが激しすぎて・・・。こんなこと自分にはできるのか?と悩んでいましたので。先輩も怖いですし(笑)」
そんな山口だが、いつからか自分が髪の毛を切っている姿を想像できるようになってきた。
山口は長崎県の佐世保出身。父は美容師で実家が美容室だった。
「もともと父親は東京で美容師をしていました。赤坂にあった有名な美容室の総店長をしていまして、父親の部下にMINXの社長である高橋がいました。そして、母親が長崎出身ということもあり長崎に行き、高橋と一緒に美容室を経営していました。それからお店も軌道に乗ったので、その後に高橋はSHIMAに行って、後にMINXを作ったという経緯があります」
最初から凄まじい秘蔵エピソード。山口が現在MINXで働いていることは決して偶然ではなく、運命だったのだ。
長崎で生まれ育った山口。実家が美容室だったこともあり、普通の家庭の生活とは少し違った。
「小学校の時は、毎日遊び過ぎていつも怪我して帰って来てましたね。親が経営している美容室の目の前が公園だったのですが、そこでいつも両親の仕事が終わるまで時間を潰していました。家に一人でいると怖かったので(笑)。だいたい両親の仕事が21時位までだったので、その時間まで公園にいて、その後に一緒にご飯を食べに行って抱えられながら自宅に帰るという生活でした」
中学生時代は、バスケットボールに熱中した。
「当時はスラムダンクの影響でバスケットボールをしていました。でも身長伸びないし、練習しても全然上手くならないしという感じでしたね。当時は監督やコーチもいなくて、ちゃんと教えてくれる人がいませんでした。スラムダンクを参考に、見よう見まねで練習しているような感じでしたね」
勉強はあまりしなかったようだ。
「小学生ぐらいから美容師になると決めていたので、勉強はまったくしませんでしたね(笑)。「美容師になりなさい」とか、親に何か言われたことはなかったのですが、「親の美容室を継いだ方が良いのかな?」と思っていたので、美容師になろうとは思っていましたね」
中学時代にあれほど熱中したバスケットボールだが、高校ではやめてしまった。
「バスケの特待生が6人入学してきて、自分が試合に出れなくなるのが分かっていたのでバスケはやりませんでした。バスケは5人でやるスポーツなのに、特待生が6名もいたら無理だなと思って。バスケをやらなかったので、どちらかというと高校時代はとにかくワイワイやっていましたね。カラオケ行ったりだとか・・・」
山口には、中2からハマっていた趣味があった。
「中2から高3までずっとロカビリーをやっていました。チーム作って公園で踊っていました。学校から帰って来たら、リーゼント作ってラジカセ流しながら一人で公園行って踊っていましたね。ロックンロールというのが、やはり不良の音楽というのもあり好きでした。クールスとかキャロルとか、日本語の歌詞がキザかっこいいというか、とにかくかっこ良くて。それに共感してハマっていきましたね。マジック、ブラックキャッツとか、本当にロカビリーしか聞いてなかったです」
一人で公園に行って踊っているあたり、もはや筋金入りのロカビリーである。
楽しかった高校生活も、やがて進路を決めなければならない時期に差し掛かった。
「進路を決める段階で、「将来は美容師になる」と先生に言ったら「お前ばかやろーと」言われて。「美容師なんて若いうちしかできないし、若いお客さんしか来ないんだから理容師になりなさない」と言われました。結局、この人には何を相談してもダメだなと思って・・・。まあ結局は無視して美容師になりましたが(笑)」
高校を卒業した山口は、故郷の長崎を離れて東京にある東京MAX美容専門学校に入学した。
「父親が卒業した美容学校でしたし、たまたま父親の同級生が学年主任をされていたので東京MAX美容専門学校に決めました」
美容師になるために長崎から東京に来た山口。東京での新しい生活がついに始まった。
スリークエスチョンを退社した帆足は、渋谷にあるRISELに入社した。渋谷系が流行したこともあり、時流に乗ってRISELはすぐにブレイクした。
「当時の渋谷は、ちょうどM字バングとかが流行り始めたぐらいでした。あの頃は、メンズエッグのモデルの3分の2くらいを僕が担当していましたね。そうすると、その彼女がお店に来るのですが、ほとんどがポップティーンやRANZUKIのモデルだったりして。そんな感じでいわゆる渋谷界隈の雑誌をほとんど押さえることができました」
帆足がメンズに強かったということもあるが、成功の要因はもちろんそれだけではない。
「歌舞伎町のホストのヘアメイクをやっていた経験が生きましたね。スタイリストになったときに、メンズエッグの編集部がすぐに企画を組んでくれたのです。モデル4体で合計16スタイル作ってくれと言われたのですが、僕は慣れていたので対応することができました。そしたら、メンズエッグがなくなるまで途切れることなく呼んでもらえましたね」
渋谷系という時流にも乗り、RISELと帆足はブレイクした。
「売り上げもそうですし、芸能人やタレントの顧客においても周囲より一つ飛び抜けることができました。結局、一番大切なのは技術力だと思います。芸能人、タレント、モデルさんたちは色々な美容室に行きます。殆どの場合がそこで一番上手い人に担当されてから僕のところに来るのです。例えるならば、ミシュランで星3つのレストランで食事ばかりしている人を満足させなければならないわけです。ただ接客が上手いだとか、面白いというだけではダメです。そこはシビアなので、やはり技術力がないとダメだと思いますね」
一流は一流を知るというのは、まさにこのことである。
「僕がラッキーだったのは、スリークエスチョンで働いていた時の先輩二人が本当にカリスマだったということです。男性と女性の先輩がいたのですが、二人ともめちゃくちゃ上手でした。そこで辞めないで食らいついていったからこそ、技術力が身に付いたのだと思います。僕がスリークエスチョンに入ってから、多分100名近く辞めてますから(笑)。一年間に7〜8名入って来るのですが、ごっそり辞めてましたね」
水面を優雅に浮かぶ白鳥も、実は水面下では必死に足をもがいてるのだ。帆足が有する確かな技術力は、これまでの努力の証でもある。また、これまで帆足は小学校から今に至るまで、いわゆる欠席をしたことがない。
「休まないという負けず嫌いの性格と、年齢的にも辞められないという背水の陣で臨んでいたいたので、そこが大きかったと思います」
渋谷のトップランナーでい続けるためには、当然ながら緻密な戦略が数多く存在している。全てを語ることはできないが、その中の一つにリピーターより新規顧客獲得という戦略がある。
「街の特性もあるのですが、渋谷は高校生が来続ける街です。例えば、お客様に合わせて成長するサロンにすると、10年経ったらお客様の年に合わせてコンセプトも含めサロンを作り変える必要が出てきます。しかし、僕らはそのようなことはせず、絶えず新規顧客を獲り続けています。客層はずっと高校生であり、リピーター率を求めていません。新規顧客の獲得は大変ですが、それでも僕の所には新規で毎月100名近く来てくれます。例えるならば、ドラえもんのようなものです。年を取らないから、何年経っても一定層の視聴者がいて、いつの時代も子供は必ず見るみたいな・・・」
最後に、これからの自分について聞いてみた。
「自分の父は70歳近いのですが、美容師を未だ現役でやっています。物心ついたときから父を見て、美容師は一生できる仕事なんだという反面、同じ道を歩む中でそれで良いのかな?と思う事もあります。美容師を一生の仕事として今も現役で現場に立ち続け、可能性を見せ続けてくれている父を誇り思うし、そう言う道を選ぶきっかけになった事も感謝しているし、美容師の大先輩として尊敬しています。ですが今の僕は、大勢の後輩がいるので現場に立ち続ける以外の道も作らなければいけないと思うからです」
父親の背中を見続けてきたからこその悩み。答えはまだ出ていない。
「今のまま同じようにやっていたら、自分もずっと現場に立ち続けると思うので、経営にまわるのか講師になって講習していくのか分かりませんが、売上が現場だけになってしまうことをどこかで変える必要があるとは思っています。自分の場合は渋谷の繋がりがあるので、その辺りもうまく生かしてやっていきたいとは思います」
現状に満足して立ち止まることは決してしない。今後の帆足からますます目が離せない。
美容専門学校を卒業してしばらくは実家の美容室を手伝っていた帆足だが、だんだんと飽きてしまう。当時は実家の美容室で働きながら、レストランでアルバイトもしていた。
「ある時、同じレストランでバイトしていた子の髪の毛を切ったんです。習ってないカットだったのですが、見よう見まねでカットして。その子が後日に別の美容室に行ったら「素人が切ったの?」と言われたらしく・・・。それがすごいショックでした」
父親に教わっていたわけでもなく、どこかで修行をしたわけでもない帆足にとって、それは当然の結果だった。
「ちょうどその頃、年齢的にも同級生がスタイリストデビューし始めたりして。自分はカットもしっかり習ってないし、カラーもできないし白髪染めしかできない。ブローもちゃんとできてない。このままではヤバイと思い、25歳の時にスリークエスチョンというサロンに入社しました。「何でもできます!」と言って入社しましたがもちろん何もできないので、シャンプーマンとしてスタートしましたね」
スリークエスチョンに入社した帆足は、一心不乱に働いた。
「それまで色々とフラフラしながらやっていたのでこれ以上遊びたいと思うこともなかったですし、年齢的にここを辞めたら他では働けないと思っていましたので仕事に専念していました」
また、同期と一緒に働くという経験も帆足には新鮮だった。
「これまで同期とかがいなかったので、一緒に働けるだけで楽しかったですね。仲間がたくさんいる環境というのが今までなかったので」
スリークエスチョンに入社してしばらく経って同じ練習の繰り返しでマンネリを感じていた頃に歌舞伎町のホストのヘアメイクのバイトを始めた。
「1時から4時くらいまで、1日で20人くらいヘアセットをするというのを一年くらいやっていました。美容室の営業が終わり、カットモデル呼んで練習して、その後軽く食事して歌舞伎町行ってヘアセットして4時に終わってみたいな生活をしていましたね」
3時間で20人のヘアセットを何パターンもする。それも、毎日同じではダメなので変化を加える必要がある。そんな環境が帆足の成長を促した。そして、スリークエスチョンでスタイリストになった。
「スタイリストには比較的すぐになれました。夜の練習でのカットモデルの数は、日本一の自信があります」
帆足はモデルハントなどしたことがなかった。カットモデルが自然と自分のところに集まってきたからである。
「美容室によって指導方法の違いがあると思うので一概には言えませんが、練習モデルはカットまでしないとダメだと思います。カラーだけなら誰でもよかったりしますが、カットは好みがありますから。練習モデルでカットまですると、次から次に集まってくるようになります」
当時メンズエッグを担当していた帆足。実際にお店に来る客層と料金の間でジレンマがあった。
「その頃、メンズエッグを担当していたのですが、メンズエッグやエッグを見て来る客層はほとんどが高校生でした。スリークエスチョンだとカットカラーが15,000円くらいだったので少し合いませんでした。同時に、サロンでのこの先の未来が見えない部分もあったので、退社することにしました」
スリークエスチョンを退社した帆足は、その後RISELに入社した。
「当時のRISELは、雑誌に出始めたくらいの美容室でした。自分で履歴書を書いて持って行きましたね。最初はセット面5席くらいの小さなサロンでしたが、そこはパンパンで。渋谷の子達がどんどん来るようになりました。そして、10ヶ月でもう1店舗出してもらいました」
帆足がRISELに入社して間も無く、RISELは一気にブレイクした。 今や世界にその名が知れ渡っている街、渋谷。そんな渋谷の歴史と共に歩んできたスタイリストがいる。渋谷を拠点としたRISEL4店舗の代表を務める帆足和光。顧客に多数の芸能人やモデルを抱え、今なお輝き続けるカリスマの半生に迫る。(敬称略)
東京都の駒込で生まれ育った。父親は美容師であり、美容室を数店舗経営していた。
「父親が美容師だったのですが、母親は自分を美容師にさせたくなかったみたいです。手に職というよりも、ちゃんとした会社に入って・・・というようなことを望んでいたようです。それで、小学生から私立に通わせてもらっていました。小中高とエスカレーター式の学校でした」
都内の有名私立大学付属の小中高に通った。中学校時代はスキー部に所属していた。
「東京は雪が降らないので、夏場はひたすら筋トレをしていました。そして、冬場だけ1ヶ月くらい山に籠ってスキーをするという感じでしたね(笑)」
中学校時代はスキー部だった帆足だが、高校では馬術部に入った。
「中学生の時に競馬を見に行って、そこから馬が好きになり馬術部に入りました。馬がかっこいいなと思って」
スキーに馬術と、さぞかし華やかな青春時代を過ごして来たと思いきや、そうでもないようだ。
「小中の時は眼鏡をかけていて、オタクみたいな感じで友達もあまりいませんでした。中3の時にコンタクトに変えて、イケイケのグループに入って少し環境が変わりましたね、基本的には部活ばかりやっていました」
「実家が美容室だった為、営業終了後に友達呼んだりして溜まり場になっていましたね。その時に、ハサミとかあるので友達に「髪の毛切ってくれ」と頼まれて切ってあげていました。失敗すると親父に直してもらったりして。そんなことをしていたら、髪を切るのがだんだん上手くなってきましたね(笑)」
高校を卒業した帆足は、なんと吉本総合芸能学院(通称NSC)の東京校に入学した。
「同級生に誘われたので、NSCに入学しました。ちょうど東京にできたばかりで1期生でした。品川庄司さんとか同期でした」
ちなみに、大阪校の1期生はダウンタウンである。1年間NSCに通い、卒業してしばらくは芸人のような活動をしていた。
「その当時、いくつか大きなステージには立たせてもらったりしましたね。テレビにも出ましたし、ものまねカラオケ選手権みたいな大会で優勝したこともありました」
活動して半年経った頃、芸人としての自分の限界を感じ始めた。
「アドリブがうまくいかなかったり、そんなことを繰り返しているうちに、見るのとやるのは全然違うなと思い始めて・・・。やはり自分には裏方の仕事が向いていると思い、美容師になろうと思いました。当時、美容師になることに反対していた母親が亡くなり、父親も何も言わなかったので美容師になることにしました」
紆余曲折を経て、ついに美容師になることを決意した帆足は、池袋にある東京総合美容専門学校に入学した。この時、帆足は20歳。同級生のほとんどが、2つ下の年齢だった。
「専門学校時代は、先生と一緒に時々教えていましたね(笑)。NSC時代には授業が週に3回しかなかったので、空いた時間は実家の美容室を手伝ってたのですが、そのお陰でワインディングとかできるようになっていました。ちょうど先生が僕の2つ上の初めてクラスを持った新米の先生でしたので、手伝っていましたね。休み時間とかになると、生徒が「カットして欲しい」と言って並んでいました」
専門学校を卒業した帆足は、そのまま父親が経営する駒込の美容室で働いた。
「もともと父親は美容室を3店舗経営していたのですが、最終的に1店舗になり、従業員も自分と父親と妹だけになりました」
結局、2年間実家の美容室で働きつつもフリーターのような生活になっていた。
「実家は自由出勤のような形でしたし、だんだん美容師に飽きてレストランでアルバイトばかりしていました」
そんな飲食店のアルバイトで、今後の帆足の人生を左右するある出来事に遭遇する。
美容学校1年生の後半に、自分で予約してエザキヨシタカが新しくオープンした美容室に行った。
「エザキさんはよく関わる人全てファミリーだという話をしてくれるのですが、僕が1回目に髪を切りに行った時に、その話をしてくれました。「実家に帰るのは年に1回あるかないかなのに、お客様は2ヶ月に1回会えるし、スタッフなら毎日会える。お客様で例えると、実家の家族より6倍会っている。それってすごくない?」と純粋に言われました。「実家の6倍も会っているお客様は家族だと思うし、その人たちのために美容師をやりたい」と本気で言っていたので、すごく衝撃を受けました」
その帰り道、宮永は一人悩んだ。エザキが見せた「自分の身を削ってまで人の人生に関わっていくという姿勢」に、魂が揺さぶられていた。
「その帰り道、正直僕の頭の中は???でした。当時の僕は人に興味がなく、ある意味で冷たい人間でした。小中高と倍率の激しい東京での「お受験」を経験して、周りを蹴落とさなければ合格できないと教えられてきたので・・・」
徹底的に悩み、考え抜いた先にたどり着いた答え。宮永はもう一度エザキに会いに髪を切りに行った。
「エザキさんの考えは正しい、間違っていないと思い、もう一度髪を切りに行きました。そこでまた話をして、ここでしかお客様を幸せにできないなと思い、入社試験を受けました。オシャレキング贔屓は一切無かったですね。みんなと同じように、普通に試験を受けて入社しました。本当は僕落ちそうだったんですよ。エザキさん以外は良いと言ってくれなくて(笑)」
入社した1年目の夏に、ひょんなことからエザキのアシスタントを務めることになった。
「もちろん何もできませんでした。理想と現実とのギャップが悔しくて、死ぬくらい泣いていました。それまでは、一度も悔しくて泣いたことなどなかったのですが(笑)。それからは、もう努力しかしていないですね。原宿で一番努力した自信があります」
スタイリストになった宮永。すぐには売れなかった。
「雑誌をやらせてもらってもそう簡単には売れなくて・・・。そこからいきなり上がることはなかったですが、徐々に上がるきっかけになったのはモデハンですね」
モデハンを通じて、売り上げが徐々に上がって行った。
「休みの日もずっとやっていました。モデハンの何が良いかって、ある種の自分磨きなんです。全く知らない女性に声をかけて、1分間のプレゼンで髪を切りに来てもらうというのはすごいことです。自分の表情だとか声のトーン、その人に対するアプローチの仕方、持っているプレゼン資料等、自分の魅力を試す絶好の場です。自分の努力次第で何十パターンも試せるのです。また、モデハンは個に対するアプローチなので、接客にも生きてきます。店長になってもやっていましたね」
モデハンのおかげで徐々に売り上げが上がった。そして、新店のTORAを任された時に、ついに売り上げが一気に上がった。
「TORAは、集客サイトなしでやれと言われていたので、紹介でやるしかありませんでした。gricoに行けばいいのにわざわざ、TORAに来てくれる。それってすごいことだと思いましたし、その感謝の気持ちをすごく伝えるようにしました。120%で伝えました。その結果、お客様が本当に大事な人を紹介してくれるようになりました」
人に興味がなかった少年は、いつからか誰よりも熱いハートを持った美容師になっていた。
「今はgricoという組織に対する愛がめちゃくちゃあって・・・。今までは上の目を気にしてとか色々あったのですが、今はもう下の子も上の人もみんな大好きで、この組織は日本一だと心から思っているので、家族としてめちゃ強くしたいというのがいまの野望です。後輩の育成もそうですし、外からの見られ方もそうですし、そういうところをもう少し考えていきたいです。それと、今は社長が一番働いているので、もう少し僕もそのあたりの仕事を担えるようになって楽させてあげたいですね。なんかお爺ちゃんみたいですけど(笑)」
エザキとの運命的な出会いから、宮永の人生は変わり始めた。そして、その歩みはこれからも続く。
「エザキさんから与えられたものはすごく大きいです。それがあるから僕は今の立ち位置になっていると思っています。では、僕の下の子はどうかと言ったら、僕がエザキさんに与えられたほど、与えられていないと思います。僕はエザキヨシタカ第2号だと思いますが、宮永えいと第2号を作りたいと思います。それは、エザキヨシタカ第3号でもありますから(笑)」
宮永えいとがいる限り、gricoファミリーは安泰だ。
美容師かグラフィックデザイナーか。答えは美容師だった。
「グラフィックに関しては、具体的に関わっている人が身近にいなかったのでボヤボヤしている感じでした。美容師に関しては、オフ会での出会いもそうですし、インターネットで毎日美容師の情報を仕入れていたりしていたので、美容師はかっこいいなと思っていましたね」
専門学校は、オープンキャンパスに行って一番楽しそうだった日本美容専門学校を選んだ。
「これは昔から思っていたのですが、僕の家庭は自由奔放で、好きなことは何でもやっていいという環境でした。ですので、あまりに規則が厳しい学校は思考の幅が狭まると感じていました。生き生きしている学校の方が、美容師という職業にはあっているのかなと」
好きなことは何でもやらせてくれる環境で育った宮永にとって、自由で楽しそうな学校を選択することは自然な流れだった。
「規律を守るというのももちろん大切なのですが、パワーバランスで言ったら、自由な発想と豊かな感性を大切にしたいと思ったので、日本美容専門学校に行きました」
日本美容専門学校に入学した宮永。ついに新しい生活が始まった。高 1から続けていたファミレスのキッチンでのアルバイトを続けながら、美容師になるための第一歩を踏み出した。
「美容学生時代は、かなり平凡な生活でしたね。最初の頃は進学校から入学したというプライドがあり、周りに負けたくないというか、反骨精神の塊でした。しかし、当たり前ですが美容学校では頭の良さは関係ありません。デザインでぼろ負けして、「頭の良さが関係ない世界もあるのだ」と認識しました」
これまで体験したことのない世界がそこにはあった。
「ある意味で新鮮でした。美容学校ではなかなか振るわず、いわゆる平均君でしたね。普通の美容学校生活でした」
宮永は「普通」と強調するが、周囲はそうは思っていなかっただろう。当時の宮永はchoki chokiという人気雑誌の人気モデルだった。
「ちょうど高3ぐらいから、ストリートスナップをきっかけにchoki chokiに出始めました。その当時は、「塩顔」という言葉がありませんでした。みんなジャニーズのようなイケメンばかり。そこと比較して、僕がいるのは申し訳ないというか、すみませんという感じでしたね。ですので、雑誌に載ったからと言ってドヤッという感じにはならなかったですね」
本人は謙遜するが当時、宮永を含めchoki chokiに出ている人間は、原宿界隈では芸能人以上の人気を誇っていた。最終的に宮永は「キング」というchoki chokiモデルの中で最高位の称号を手にして、choki chokiを卒業した。choki chokiのキングということは、ストリートスナップの頂点を極めたことと同じである。
そして、美容学校1年の後半に、ついに宮永はgricoオーナーのエザキヨシタカと運命的な出会いを果たす。
「原宿に新しいお店がオープンすると聞いて、自分で予約して髪を切りに行ったのが最初です」
choki chokiに出ている有名モデルともなれば、通常はその宣伝効果を期待して原宿の美容室なら無料で髪を切ってくれることが多かったはずである。しかし、宮永は自分でお金を払って髪を切りに行った。
「今考えると不思議ですよね。何かが引き寄せたのかもしれません」
まるで運命に導かれるように、宮永はエザキに惹き付けられていく。美容学校の1年が終わる頃だった。
宮永は、両親と6つ上の兄がいる東京都の東久留米市で生まれ育った。
「小学校の時はずっと野球をやっていました。パパイヤ鈴木さんと同じ小学校でした(笑)」
野球に明け暮れた小学校時代だったが、小学6年生の時に中学受験をした。
「親友が中学受験をするというので、自分も憧れて中学受験をしました。しかし、全て落ちてしまって、受験の難しさを知りましたね」
地元の公立中学校に入学した宮永。中学でも野球を続けたが、どうやら勉強の方が性に合っていたようだ。
「中学時代は、野球と塾ぐらいしか記憶にないですね。野球は飽きずに継続してやれてはいたのですが、センスがなかったようです。中学の最後の頃は、選手ではなく審判部長でしたから(笑)。審判として上手すぎたので、都大会にも出ました。正直、野球より塾の方が自分には合っていましたね」
中一から塾に通っていた宮永。成績も良く、偏差値は70に達していた。
「高校受験ではどうも本番に弱いのか、行きたい高校には落ちてしまいました」
それでも、杉並区にある私立の進学校に合格した。高校に入学してからは、軽音部に入った。
「中学時代から音楽が好きだったので、軽音部に入りました。ハイスタンダードのコピーバンドを結成して、ギターボーカルを担当していました」
当時から、将来はモノ作りに関わる仕事に就きたいと思っていた。
「母親が、出版社に勤務していました。ちょうど出版バブルの時に某赤文字系の人気雑誌を作っていたので、自分もクリエイティブな仕事に就きたいと思いました。進学校に入学した手前、勉強を生かして頭を使う仕事をしたいと考え、美術大学がいいかなと思って色々と調べたりしたのですが、どうやら予備校に行かなくてはならないと知って、愕然としたり。それまで、散々予備校には通っていたので、また予備校かよみたいな(笑)」
そんな中、ある出来事がきっかけで、美容師とグラフィックデザイナーという仕事に興味を持ち始めた。
「中学生の時に、いわゆるインターネットの掲示板にはまって、掲示板でヘアワックスを調べていました。その流れでファッション版にも行った所、今でいうWEARのような感じの「ピーコスレ」というのがあったのです。自分で写真を撮り、それを掲示板に投稿するとみんながまるでピーコさんのようにファッションチェックをしてくれるという感じの・・・」
ピーコスレの反応が楽しくて、どんどんハマっていった。
「ピーコスレで投稿すると、「この靴下の合わせがダサい」とか、「このアイテムいいね」とかうわーって言ってくるんです。そこにハマってしまいましたね。そこのファッション版の人たちとすごく仲良くなり、中3ぐらいからオフ会をするようになりました」
ピーコスレのオフ会で、初めて美容師と出会った。
「そのオフ会にはアパレル関係の人だとか、中3からすると普通は関われないような様々な職業の人がいて。その中に美容師さんがいましたね」
「そこでの出会いがなければ、将来はモノ作りをしたいと考えた時に、真っ先に美容師とは思わなかったかもしれません。
では、グラフィックデザイナーという選択肢はなぜ生まれたのだろうか?
「先ほどの掲示板などの関係で昔からPCをよくいじっていたりして、PCが好きでした。父親がIT関連の仕事をしていたということもあり、小6くらいの時にパソコンを一台与えられて、「俺は一切教えないから、これを使ってみろ」と言われたのです(笑)」
かなりエキセントリックな教育である。
「最初はソリティアとかマインスイーパーとかやっていましたが、そこから派生してインターネットエクスプローラーを開いて、ネットの世界に入って行きましたね。ネットゲームやチャットをするようになりました。そんなことをしているうちに、グラフィックデザイナーを思いつきました」
美容師がグラフィックデザイナーか。選択の時期は刻一刻と迫っていた。
忘れられない恩師との出会い

サロンワーク

生涯美容師宣言

完
日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)シザーズリーグとMINX

MINXに入社

捲土重来

「全部のカリキュラムが終わったら、モデルさんを200名呼んで自分でカットしてディレクターにチェックしてもらいます。その時に、モデルさんに今まで違う美容室に行ってきたけど、僕にやってもらったのが一番よかったと言ってもらえると、「アシスタントでも喜ばせることができるんだ」と思いすごく嬉しかったですね。それで楽しくなってきて、自分は才能あるかもと思ってしまいました(笑)」
続く
日本を代表する美容室と言っても過言ではないMINX。そんなMINXの最前線で常にリードしているのがアッキーこと山口照洋。サロンワークをはじめ、モデル、著名人、アーティストのヘアまで手掛ける日本一トリッキーな美容師のこれまで語られてこなかった知られざる実像に迫る。(敬称略)MINXとの意外な繋がり

不良の音楽

東京への船出

続く
今や世界にその名が知れ渡っている街、渋谷。そんな渋谷の歴史と共に歩んできたスタイリストがいる。渋谷を拠点としたRISEL4店舗の代表を務める帆足和光。顧客に多数の芸能人やモデルを抱え、今なお輝き続けるカリスマの半生に迫る。(敬称略)渋谷系の波

大切なのは技術力

渋谷のトップランナーとして

完
今や世界にその名が知れ渡っている街、渋谷。そんな渋谷の歴史と共に歩んできたスタイリストがいる。渋谷を拠点としたRISEL4店舗の代表を務める帆足和光。顧客に多数の芸能人やモデルを抱え、今なお輝き続けるカリスマの半生に迫る。(敬称略)シャンプーマンからのスタート

歌舞伎町ホストのヘアメイク

ブレイク前夜

真面目だった学生時代

お笑い芸人

美容師として生きていく決意

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日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)エザキヨシタカとの出会い

そこから、宮永は考えた。
「徹底的に考えましたね。美容師とは・・・というところから始まって、僕が歩んで来た道筋、エザキさんが言っていたこと、いろいろ考えました。もともと美容師はカッコよくて、モノづくりができる職業というイメージでなろうと思っていたのですが、モノづくりではないんですよね。お客様はモノではないですし。お客様の人生をプランニングしたり、髪の毛を通して人に幸せを与えるものだと思ったときに、今までの自分の考えが覆りました」
gricoに入社

ファミリー

完
日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)日本美容専門学校

フツーの美容学生時代

choki choki

続く
日本の美容シーンを引っ張る美容室grico。そんなgricoの将来を担うべく日々躍進しているのが宮永えいと。エザキイズムを受け継いだ平成生まれの美容師が語る、これまでとこれから。(敬称略)野球と塾

ピーコスレ

美容師との出会い
