京極琉〜世界で戦うために Vol.3〜
若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なこんなテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)
ついに念願の自身のサロン「Salon Ryu」を東京の赤坂にオープンさせた京極。
美容室をオープンするための諸々の費用は、これまでの貯金と日本政策金融公庫からの借り入れで賄った。そもそも、なぜ赤坂という、あまり美容室のイメージがないエリアに出店したのか。それには、京極ならではの独特の理由があった。
「東京のど真ん中ということもありますし、ここのロケーション的にも東京のシンボルである東京タワーと、逆側には日枝神社、さらにはエンターテイメント業界のTV局TBSがあったりと、非常に魅力的でした。この場所を制するものが東京を制すると感じ、世界に日本の美容を発信するには最適な場所だと思いました」
昔と異なり、SNSが主流の時代だからこその発想もあるという。
「SNSがない時代は、それこそ選択肢があまりなかったのでとりあえず青山や表参道に美容室があった方がお客様も来たかもしれませんが、今は情報を発信する時代です。場所がどこという事よりも、その人がどこにいるかということの方が大切だと思っています。その人が魅力的ならば、場所は関係なくお客様は来てくれるものだと思います」
一見すると、これまで何のつまずきもなく最速で自分の目標を叶えているように見える京極だが、何度も挫折を繰り返して来た。
「これまで色々と大変なことはありましたが、一番大変だったことは言葉の壁ですね。言葉の壁は本当に挫折しました。それを経験したら、どんな困難でも乗り越えられる気がします。人生が変わる大きなきっかけでした」
日本語の学校に通ったわけでもない京極にとって、通常生活の中で独学で日本語を学ぶことは困難を極めた。
「生活のために言葉を覚えなければ生きていけなかったというのもありましたし、美容業界で生きていくためには、絶対に日本語をマスターしなければなりません。その思いが、言葉の壁を突き破る原動力になりました。そう考えると、美容業界との出会いがなかったら、僕は未だに言葉の壁に当たっていたと思います」
反対に、喜びを感じる瞬間を聞いてみた。
「美容を通してたくさんの仲間たちと出会える事がいちばんの喜びですね。さらに、コンテストで優勝して審査員に認められて、周囲に恩返しできることも嬉しいですね」
世界を知っているからこそ、京極の目には日本の美容業界の問題点が見えてくる。
「僕は中国にも行き来しているのですが、日本の美容師は、技術はいいものを持っているのですが、そのマインドがまだ追い付いていないような気がします。また、今は物価が昔よりも上がっているのに、日本の美容の技術、すなわち金額は数十年前よりも安くなってしまっています。それは、やはり技術以外のマインドの部分が問題だと思います」
確かに、ここ何年かで日本の美容室の平均的な金額はかなり下がっている。
「東京の美容師は、最低限の売り上げの数字があり、それをこなす人が多いような気がします。数をこなすというか・・・。クリエイティブなコンテストなどでも、優勝する人は東京以外の美容師が多いのは、そういった美容を楽しむという余裕がなくなってきているからだとは思います。上海だと、カットの金額が日本の3倍です。それでもなぜ中国人の美容師が日本に勉強しに来るのかというと、やはり日本の技術を認めてくれているからです」
日本の美容に自信と誇りを持っているからこそ、その技術は安売りしたくない。
最近の美容師は、サラリーマンのように定時に来て定時に帰りたがる傾向がありますが、美容師は職人です。努力すればするほど将来は輝ける可能性を秘めています。ですので、これは美容学生の皆さんへのアドバイスになりますが、目の前の楽しさを追求するだけでなく、若いうちに練習して、たくさんの人に出会って人生を豊かにしてほしいと思います」
今年の9月には、中国の武漢で「Salon Ryu」の2号店がオープンする予定だ。
「僕の次の目標は、30歳までに世界で100店舗をオープンさせることです。それを目標にやっていきます。ヨーロッパやアメリカで、アジア人が信頼していけるサロンが少ないという声をよく聞くので、アジアの方がどこの国に行ってもカッコよくなれるサロンを作りたいと思います。同時に、人生をかけて美容師の価値を高めたいと思っています。色々な国のクリエイティブのアーティストを集めて、世界中でヘアショーなどやりながらツアーをしたいですね」
30歳までに世界中で100 店舗。間違いなく京極なら達成するだろう。そう思わせるだけの努力を、今日も限界までやっている。
QBハウスに入社した京極は半年間の研修に参加し、その後2ヶ月働いて退社。京極は、イギリスに旅立った。
「イギリスにはずっと行ってみたいと思っていて、高校時代と専門学校時代の貯金を使って行きました。もちろん英語も最初は分からなかったのですが、QBハウスで研修しているときに時間を見つけて勉強しました。僕のパスポートは中国なので、イギリスに行く為には最低限の英語力が求められるのです。ですので、英語は勉強しましたね」
イギリスは、美容師の留学支援会社の3カ月のツアープログラムに参加して行った。
「イギリスのシェフィールドという場所にある美容室で、3ヶ月間研修をしたのですが、いざ現地に行ったらお客さんも全然来ないし、いるスタッフも全員日本人でした(笑)これでは何のためにイギリスに来たのか分からないと思い、何が出来るかを自分で考えました」
自分の想像と全く異なる環境に驚きつつも、持ち前のハングリー精神で自ら行動を起こした。
「当時の環境ではほとんど日本と変わらないので、直接現地の人をモデルハントしたり、週に一度深夜バスに乗ってロンドンへ行き、フェイスブックで知り合った現地のクリエイターと一緒に作品撮りを重ねました。クリエイティブチームを作って、ホテルの中で撮影したりしてましたね。あとは、日本で知り合った美容師さんがロンドンの美容師を紹介してくれたりして、徐々にロンドンでのコネクションができていきました」
そんな慌ただしい毎日を過ごしているうちに、3ヶ月のツアープログラムが終了した。
「ツアープログラムが終了してからは、ヴィダルサスーン、トニー&ガイ、サンリッツなどのアカデミー(短期研修)に参加しました。日本で勉強した技術がロンドンでも通じたので、そこは自信になりました」
実際に、京極は2016春夏ロンドンファッションウィーク、2016-17秋冬ロンドンファッションウィークメンズにてヘアを担当した。また、ロンドン滞在中の作品は「Vogue Italia」をはじめ、 「Atlas Magazine」「Factice Magazine」「Flanelle Magazine」「Hunger TV」「Lone Wolf」など多数ファッション雑誌に掲載された。
「ロンドンにいて思ったことは、社会が美容師をクリエイターとして認めてくれている環境があるということです。Vogueのようないわゆるハイファッション誌でも、本当に良いと思った作品は有名無名を問わず掲載してくれます。これにはすごく驚きましたし、この文化を日本にも持って行きたいと思いました」
ビザが半年間であり、その期限が刻一刻と迫るなか、京極は日本に帰国する決意をする。
「ロンドンで美容業界が成り立つのは、社会がクリエイティブな事を認めてくれるからだと思いました。そんなロンドンの考え方を日本に持ってきて、改めて日本の美容業界を活性化したいと思いました」
イギリスに来て半年が経ち、日本に帰国した京極は自分のサロンを立ち上げるという目標に向かって走り始める。
「22歳の1月に日本に戻って来て、2月にカットコンテストがありそれに優勝しました。そこから物件探して、4月に物件が決まり、7月にオープンしました」
2017年7月、若干22歳にして赤坂のビルの最上階に、自身のサロン「Salon Ryu」をオープンさせた。
「25歳までには自分のお店を持ちたいと思っていたので、嬉しかったですね」
黒と白を基調とする近未来的な空間に個室が2つ、すべての施術をマンツーマンで行っている。自分の美容師人生の第二章が始まった瞬間だった。
京極が生まれたのは中国。小学校6年生の12歳まで、中国の上海で育った。
「中国にいた頃は、いたずらっ子で元気いっぱいの子供でした。その後、中学生になると同時に母親の仕事の関係で日本に来ました。13歳の時です」
日本語が全く分からないまま、東京にある公立中学校に入学した。琉以外の生徒は全員日本人だった。
「日本語が全く話せなかったため、いじめにあったりもしました。言葉の壁があり、日本のコミュニティーに馴染めなかったですね」
中国にいた頃の元気いっぱいだった姿は影を潜め、自分を表現できないもどかしさを感じていた。バスケットボール部に入部するも、日本語が分からずコミュニケーションが取れないためチームワークが上手に取れなかった。授業も寝てばかり。自宅に帰っても、寂しさを紛らわすためにオンラインゲームをするのみ。現実から逃避していた自分がいた。
「当時は、中国にいた頃の自分と、日本にいて言葉が分からないため自分を表現できない自分とのギャップを感じていました」
高校は、定時制の高校に進学した。コンビニや中華料理店でアルバイトもした。
「中学校時代に比べて、少しだけ日本語も上達しました。ただ、定時制高校だっため、色々な国の人がいたということもあり、日本語が話せなくても何とかなりました」
やがて18歳になり、進路を決める時期がやって来た。
「自分は、表現者としての仕事をしたいと思っていました。ですので、最初は歌手も考えました。しかし、自分は音痴だったので諦めました(笑)。他にも、ダンサーという仕事もいいなと思ったのですが、いつかは引退して指導者などの裏方にならなくてはいけない。そう考えた時に、美容師なら歳を取ってもずっと続けられるし、人を笑顔にできると思って美容師になろうと決めました」
美容師になることを決めた流は、日暮里にある国際理容美容専門学校に入学した。
国際理容美容専門学校に決めた理由は、オープンキャンパスで色々な美容専門学校に行きましたが、一番厳しく感じたからです。それと、国際理容美容専門学校には夜間コースもあったので、それも僕の中では魅力的でした」
17時から22時まで学校に行き、昼間には美容室でアルバイトという生活が始まった。
「昼間は美容室でアルバイトをしていたのですが、言葉の問題もあり敬語もまともに話せなかったので、アルバイトとして採用してくれる美容室を探すことが大変でした」
なんとかアルバイトとして働かせてもらえる美容室を見つけたが、試練の連続だった。まずは、お客様とのコミュニケーションの勉強から始まった。
「これまでは、自分の知人等のごく限られた中でしか日本語を使ってこなかったので、不特定多数の知らない日本人に話すとなると、緊張して汗が止まらなかったですね。これでは仕事にならないので、バラエティ番組などを見て、日本語の勉強をしました。自分が発音した日本語のイントネーションが正しいか確認するため、自分の声をボイスレコーダーに吹き込んでイントネーションの確認などもしていました。
結局、2年間その美容室でアルバイトとして働いて、美容学校を卒業してスタイリストになった。しかし、その美容室がなんと倒産してしまう。
「そのまま普通の美容室で働いても自分の年齢はまだ20歳だし、アシスタントでゼロからやるというのは時間がもったいないと思ったので、QBハウスというカット専門店に入社しました。当時はすごく成長している企業で、何でこんなに成長したのかという、成長している企業の理念や経緯を知りたかったというのがありました。また、半年間の研修期間というのもあったので、それも魅力的に感じて入社しました」
QBハウスに入社した琉は半年間の研修に参加し、その後2ヶ月働いて退社した。そして琉はロンドンに旅立った。
紆余曲折を経て現在のtriccaに入社した田村。ついに理想の環境を手に入れた。
「当時は営業もすごく忙しかったですし、本当に自分の理想の形でした。あとは自分がやるだけだ!みたいな。そこでやっとスタイリストになりました」
様々な経験を経て、田村はついにスタイリストになった。さらには、母親にもなった。
「結婚して10年、子供が生まれて3年になります。結婚して、年齢的なことを考えるとすぐに子供が欲しかったのですが、仕事も楽しくなってきて、キャリアを捨てるのが怖かったというのがありましたね。美容師を離れることでどうなるのかが見えなかったので・・・。」
子供を育てながら美容師ができるのか?不安の方が大きかった。
「自分以外に時間を割く自信がなかったですね。子供の存在が分からないので、子供が欲しいけど後回しにしていた部分がありましたね」
そして、子どもが生まれて田村の生活も変わっていった。
「いよいよ子供が生まれて、やはり時間的な制限があるので大変でした。私のお客様はキャリアウーマン系の方が多く、仕事帰りにサロンに来るお客様がほとんどだったので不安が大きかったです」
そんな不安も、考え方を変えることで徐々に払拭されていった。
「子供を育てるのはすごく貴重な体験だと思います。担当できないお客様がいらしたり、時間の制限があるので教育か管理等、出来ることが限られてしまい、引け目を感じてしまう事も。しかし、このような経験できるのは女性しかいないですし、その方が人生的に豊かになるのかなと思います。美容人生としてはリスクになるかもしれないけれど・・・」
子供が生まれてから、仕事に対するスタンスも自ずと変化していった。
「私は、セカンドステージだと思っています。これまでの忙しい美容人生とはまた違ったステージですね。美容師という観点から見ると、マイナスの面もあるかもしれませんが、仕事と育児のバランスの良い生活になりました。今は、会社の理解とサポートがあるのでとても助かってます。また、これから先、女性スタッフには色々な働き方の選択が出来るように、ひとつの道しるべになれたらと思います」
若いスタッフに対しては、母親的な立ち位置になってしまうという。
「長い時間を共にしたスタッフにはつい厳しくしてしまいますが、若いスタッフには母親のような立ち位置になってしまいますね(笑)」
最後に、田村に将来について尋ねてみた。
「お茶菓子が出て来るような美容室をやりたいです。おばあちゃんになってもずっとやっていたいですね(笑)」
人並み外れた実行力を有する田村ならば、きっと実現させるに違いない。一昔前に比べれば、いわゆるママ美容師を取り巻く環境は劇的に変化している。今後も彼女の働き方から目を離せない。
美容専門学校を卒業して入社した、代官山の美容室。理想と現実の狭間で苦しんでいる中で、そのお店が白金台に移転するという話が耳に入った。
「白金台はコンサバ層というか、キャリアウーマン系のイメージだったので、ちょっと違うなと思ってそのお店を辞めました」
自分でお店に飛び込んで、面接をお願いして入社した代官山の美容室をやめた田村だったが捨てる神あれば拾う神あり。移転した美容室の後に居抜きで入った新しい美容室を仲介した不動産屋が、なんと田村の知り合いだった。それが縁で、同じ場所にできた新しい美容室で働いたのだ。なんという強運の持ち主。これで代官山で働き続けることができた。
「そのサロンは作品撮りをすごくやっていましたが、お客さんの数が少なかったのですごく大変でした。営業は暇だけど、モデルハントや深夜に撮影に行ったりと・・・。そこで人間的にも鍛えなおされたというか、プライドを捨ててでもやらなくてはいけないことに気付きました。教えてもらえない分、朝早く来て自主練したりとかしていましたね」
自分の想像と異なる日常に巻き込まれ、悩み抜いた結果、田村はなんとアパレルの世界に飛び込んでしまった。
「ファッションが好きだったと言うのもありましたし、モデルハントで仲良くなった友達がアパレル系だったと言うのもあり、アパレル業界に就職しようと思いました。美容師を続ける上で、気持ち的にもいっぱいいっぱいだったと思います」
田村はアパレルの会社で、アルバイトとして働いた。しかし、徐々に美容師に対する未練が押し寄せて来た。
「母からは、「美容師をやらないなら仕送りをやめる」と言われました。「それでもやりたいならどうぞ」と言われて・・・。その時に、このままアパレルの仕事を続けるのか考えました。正社員ではなくアルバイトでしたし、このままでは先が見えないなと」
そして、半年間アパレル業界で働いて、ついに答えが出た。
「美容室で働いているときは、カリキュラムがあって、それに合格して次に進むと言う積み重ねでした。しかし、アルバイトだと淡々と毎日が過ぎて行き、自分の成長が見えませんでした。そこで改めて、クリアする達成感というか、努力の大切さが分かりました」
紆余曲折はあったが、田村はついに美容業界への復帰を決意する。
「次に働くなら、カリキュラムがしっかりしている大手の美容室がいいと思っていました。それで、大手の美容室に就職しました」
美容業界に復帰した田村は、そこで切磋琢磨して腕を磨いた。そして、とあるきっかけで現サロンの代表と出会った。
知り合いが、現サロンの代表のお店で働いていて、「1回見に来ない?」と言われて行ってみたんです。そこで、代表を紹介されて、「私はあと1年でスタイリストになるんです」と言ったら、「うちだったら、半年でスタイリストになれるよ!」と言われて少し心が動いて・・・。それで、働いていたお店の店長に相談したところ、「応援するから、お前のやりたいようにやれ」と言って頂いて、そこから今のお店に移りました」
紆余曲折を経て、ついに田村は現在のtriccaに入社した。 美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)
生まれは栃木県。地元の小中高に通った。小学生の時から、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「幼稚園の頃から体が柔らかかったので、父の勧めで小学生の時に体操部に入り体操をしていました。
体操をしつつも、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「小学生の時から髪の毛を縛ったりするのが好きで、休み時間に友達の髪の毛を縛ってあげたりしていました。その頃から、将来は美容師になりたいなと思っていましたね」
その後、田村は地元の高校に進学した。
「高校時代は帰宅部でした。仲が良い友達と一緒に洋服を見に行ったり、ライブに行ったりとかしていましたね。それと、親戚の叔母が着付けの先生だったので、着付けを習っていました」
いよいよ進路を決める際には、田村は迷いなく東京の美容専門学校に行くと決めていた。
「もともと母が美容師になりたかったようで、何となく誘導されている感じはありましたね(笑)。「あなた美容師になったらどう?」みたいな。母親が賛成してくれたというのもありましたし、当時は美容師以外に他に職業が思いつかなかったですね」
高校を卒業した田村は、東京にある日本美容専門学校に入学する。
「校風が自由で、すごくオシャレに見えたため日本美容専門学校に入学しました。栃木から出て、埼玉にある親戚の家に居候させてもらっていました。自分で決めたことでしたので、学校には真面目に通っていました」
1年間が過ぎ、就職を決めるときがきた。
「ちょうど進路を決める頃に、父親が病気にかかったために、地元で就職先を探していました。そして、ある程度決まった頃に父が他界してしまいました。その後、卒業までに時間があったので色々考え、やはり東京に未練があったので姉に相談して東京に残ることにしました」
他の同級生は、すでに就職先が決まっている状態だった。東京に残ると決めてからは、アルバイトしながら就職先を探した。
「当時は代官山がすごく好きでした。田舎育ちというのもあったかもしれませんが、原宿とは違う、何か落ち着いているけど個性もあってみたいな・・・。よく学生の頃から来ていましたし、代官山の美容室で働きたいと思っていましたね」
持ち前の行動力で、田村はついに代官山の美容室で働く切符を手に入れる。
「飛び込みで入った美容室で面接をしてもらって、「いまは空きがないけど今後採用する予定があるから、シャンプーレッスンという形で来たらどう?」と誘って頂きました。それからは、週に1〜2回シャンプーレッスンで通っていました」
それから半年後、ついに空きが出たためその美容室に就職した。
「当時は自分が同級生と比べて遅れているのを知るのが嫌だったので、友達ともあまり連絡取らなくなってしましましたね。そのサロンはすごく小さいサロンで、教育カリキュラムや撮影とかもあまりなかったので、将来どうなるんだろうと思っていました」
同級生より遅れて就職したことに対する後ろめたさと、自分の理想像と現在の自分とのギャップに悩んだ。そんなとき、田村に転機が訪れる。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
資生堂美容技術専門学校を卒業した坂狩は、代官山の美容室に入社した。
「専門学校の1年生だった時にヘアショーのモデルをやらせてもらったのですが、そこでの縁で代官山のヘアサロンに入社しました。僕の中では幾つもサロンを受けるのは義理人情的にどうなの?という感覚がありまして・・。受けたサロン全てで「一番行きたいです」と言うわけですよね。それが嘘っぽいので、その代官山のサロンしか受けませんでした。
その代官山の美容室では5年間働いた。
「美容師になった瞬間に「ものすごい楽だな」と思ったのです。というのも、美容学生時代は学校に行って授業を受け、アルバイトをして・・・と、多くのことをやらなくてはなりませんでした。しかし、美容師になるということは、それだけ努力すればお金をもらえるわけですよね。24時間の使い方として、全ての時間を美容に使えると言うのはすごく楽だなと思いましたね」
そこからは、寝ても覚めても美容の仕事に熱中した。仕事が終わり、帰宅途中に他のサロンの明かりがついていると、また戻って自分も練習をした。
「1年目にできる最高のことは何かを考えて、それは努力の時間だと思いました。自分は表参道とかのスターサロンに就職しないで、一度逃げているので・・・。努力では負けられないという気持ちは持っていました。一番最初にサロンに来て、一番最後に帰るというのは当たり前でしたね」
努力の甲斐あり、3年3ヶ月でスタイリストデビューを果たした。また、1年目の途中からはサロン外の評価を求めて、様々な外部コンテストに参加し始めた。
「なけなしのお金で1眼レフを買い、投稿できる全てのコンテストに片っ端から投稿しましたね。すると、1年目の途中から掲載され始めました。当時はフィルムのカメラでしたので、現像代とかすごくかかりましたね(笑)」
5年間働いた後、坂狩はNEWS HOTELに移った。
「やはり、美容師として青山で勝負してみたいという気持ちがありました。5年前は、挑戦する前に諦めていたので・・・。メディアに出ているサロンならどこでも良かったのですが、NEWS HOTELから一番最初に連絡が来たので、そこに入社しました」
NEWS HOTELに入社した坂狩は、
「最初の頃は、当時の店長に「君本当にカットできるの?」と言われたりしましたね。アシスタントも自分より年上だったですし・・・。ただ、勝負すると決めた以上やらないと後悔するので、自己投資で作品撮りをバンバンやっていました」
その後、NEWS HOTELが「AnZie」に名前が変わるタイミングで、坂狩は代表に就任した。
「代表になり、サロン全体のバランスを見るようになりましたよね。スタッフの育成からサロンのブランディングまでトータルで考えるようにはなりました」
AnZieの代表になってからの坂狩の活躍はもはや周知のとおりである。ブレない信念でAnZieを牽引し続けている。
「今の時代、いくら上手くても知られていないと意味がない。そこでSNSを活用するのは必須だと思います。ただ、そこでキャッチした時にそのままリリースしたら意味がないわけで、受け皿としての技術が必要です。蛇口をひねっても受け皿がないとダメなので、この二つのバランスが今はすごく大事です。やはり、お客様が来た時に技術がなかったら意味がないですから」
美容師として、技術に関して誰よりも追求する姿勢は一貫している。
「SNSのおかげで発信は出来て当たり前になった。プラス独自性も出さなくてはいけない。加えて「技術」もちゃんとやらなければならない。そう考えると、今の20代はかなり大変だとは思います」
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「もっと美容師、美容室自体の可能性を膨らませたいですね。サロンが、サロンじゃない場であって欲しいというか。ライフスタイルプレゼンテーションができる場としてサロンが存在して欲しいです。視野を広くすれば、もっと新たな可能性が出てくると思うのです。視野を広く、様々なカルチャーを知るということは、学ぶということです。そういう美容師像と美容室像を創っていきたいですね」
ブレない信念で今日も走り続ける坂狩の背中に、美容業界の未来を見た気がした。
自分の仕事には飽きたくない。その思いで美容師になることを決めた坂狩。ついに、東京で美容師になるための新生活がスタートした。
「最初は、アルバイトしていた美容室にそのまま就職しようと思っていたのです。そしたら、親にものすごく反対されまして・・・。そして、「本当に美容師になるなら東京に行かなくてはダメなのではないか?」と親に言われて、「えっ、東京行けるの?ラッキー」というような感じでした」
東京の美容専門学校行くことを決めた坂狩。学校選びの基準は「東京」と言う名前が付くか否かという独特なものだった。
「特に学校を選ぶ基準とかこだわりはなかったのですが、はじめは東京美容専門学校を受けました。「東京」と名が付くので、同級生に東京に行くと認識されてチヤホヤされるな?と思って。しかし、そこは落ちてしまいまして・・・(笑)。それで、どうしようかなと思っていた時に、祖母が熊本で資生堂のチェーン店を経営していてゆかりがあったので、資生堂美容学校に決めました」
無事に資生堂美容技術専門学校に合格し、晴れて東京で学生生活が始まった。
「高校卒業した翌日に東京に出てきました。専門学校に行ったらアルバイトできないという噂を聞いていたので、引っ越し屋さんでアルバイトをしていました。東京に来てから3日後には、アルバイトを始めていました。多分、自分はアルバイトすることが好きなんだと思います」
資生堂美容技術専門学校に入学してからは、自分が描いていた理想と現実のギャップに直面する。
「自分は高校時代に1年半くらい美容室でアルバイトをしていたので、サロンワーク力には自信がありました。しかし、当然ですが美容学校ではサロンワークとか関係ないんですよね。どちらかというと、オシャレだったりセンスが良い学生がチヤホヤされるんです」
結局、美容室でのアルバイトで培ったサロンワーク力は発揮できなかったが、得るものはあった。
「自分もファッションとかに興味はありましたが、学生の中にはファッションセンスがずば抜けている人もいたりして。ただ、美容室でのアルバイトのお陰で、自分の中では現実を知っていたんですよね。実際美容室で働いたら結構大変だよというか。どちらかというと、僕は美容学校に行って逆に気付かされた部分がたくさんありました。「美容って楽しい!」みたいな。ヘアメイク等、仕事の幅を資生堂美容技術専門学校では教えてもらいましたね。
昼間は学校に行きながら、アルバイトは相変わらず続けていた。
「ピザ配っていましたね。夏休みなどは実家に帰らずに、ずっと豊島園でアルバイトしたり。美容室でのアルバイトはしなかったですね。やっておけば良かったかもしれませんが、当時はなぜかそこに関してバリアがありました。ただ、ピザ屋で働いていた仲間はいまだに髪の毛を切りに来てくれますし、家族ぐるみの付き合いになっています」
美容学校で2年間を過ごし、いよいよ美容師として社会に出る時がやってくる。学生から美容師に変わる瞬間がやってきた。
「自分は、青山とか原宿は怖くて行けなかったタイプなんです。あんな人が多いところ無理でしょみたいな・・・。当時アクアさんの説明会に行った時に、大きな体育館みたいなところで300人位集めてやっていて、これは無理だなと思いました」
美容学校を卒業した坂狩は、学生時代にヘアショーのモデルをさせてもらったことが縁で代官山の美容室に就職した。ついに、坂狩の美容師人生がスタートしたのだ。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
福岡県で生まれ育った坂狩。学生時代はちゃんと勉強する真面目なタイプだった。
「中学校まではずっとサッカーをしていました。小学校の時はサッカーで県選抜に選ばれたりしていたのですが、中学校になると友達と遊ぶのが楽しかったりして、あまり熱が入りませんでしたね。身長もあまり高くなくて、中学校に入学した時は140センチなかったと思います。中学時代からもともと勉強できるタイプではなかったと思うのですが、勉強したのにテストの結果が悪いと悔しいからさらに一生懸命勉強していましたね」
目の前に壁が立ちはだかったときのほうが燃えるようだ。
努力が実り、坂狩は福岡にある進学校に入学した。
「結局、高校に行っても中学と同じようなことが起きました。この上なく勉強したのに、テストの結果が悪いみたいな・・・。その時に、「俺は勉強が向いていないな」と思いましたね(笑)」
ずっと続けてきたサッカーだが、徐々に熱も冷めていった。
中学までは楽しくサッカーできたのですが、高校サッカーは筋トレさせられたりとあまり面白くなくなってきて、アルバイトばかりしていましたね。土日は練習試合とか全然行かなくて先輩に怒られたりして。結局途中でやめてしましました」
アルバイトの比重が増えて行く中で、現在の職業に結びつくアルバイトに出会う。
「アルバイトは、お小遣いというか、バイクの免許が欲しかったから始めました。一番最初は床屋でバイトしましたが、死ぬほど辛くて三ヶ月くらいでやめました。その後も、色々なアルバイトを経験しました」
高校2年の途中から始めた美容室でのアルバイトが、その後の人生を左右する。
「中学校時代のサッカー部の先輩が美容師になっていて、その先輩が働いている美容室に髪を切りに行ったら、「今人少ないからバイトすればいいじゃん」と声をかけてもらい、そのお店でバイトすることになりました。その時に、美容師は面白いなと思いました。
当時高校生だったにも関わらず、扱いはまるで一社会人だったようだ。
「その美容室はすごく厳しかったですね(笑)夕方から働いて、営業終わって練習までしていました。自分が成人していないのに、成人式に出たりもしていました」
そんな高校生らしからぬ毎日を過ごしているうちに、進路を決める時期がやってきた。
「高校3年になるとこの先の進路をどうする?となり、一応進学校だったので親とかも心配し始めて・・。父親がドコモで働いているということもあり、はじめは大企業に行きたかったのです。ソニーかドコモかトヨタに入りたいなと思っていました」
大企業に行きたかった坂狩が、なぜ美容師になったのはなぜか?
「それで色々悩んでいたのですが、当時の自分はあまりにも飽き性だったんです。アルバイトひとつにしてもすぐ飽きてしまうみたいな。それで、自分の仕事には絶対に飽きたくないなと思って、それが美容師でした。美容師になると親に言ったら絶対怒られるだろうなと思っていたのですが、怒られなかったです。それが意外でした」
大企業ではなく美容師。坂狩のチャレンジがそこから始まった。
赤坂の理由

挫折と喜び

30歳までに世界で100店舗

完
若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なコンテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)イギリス時代

クリエイターを取り巻く環境

日本に帰国

続く
若干23歳にして、サロンを経営しながら様々なコンテストでの受賞歴を有する京極琉。その鋭い眼差しの先にある世界とは?異色の美容師の知られざる過去に迫る。(敬称略)中国から日本へ

美容師という職業

言葉の壁

続く
美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)辿り着いた理想郷

子供が生まれて

人生のセカンドステージ

完
美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)アパレル業界への転職

美容師に対する未練

美容業界への復帰

小学生の時に決めた職業、美容師

東京に行きたい!!

憧れの代官山

代官山の美容室

5年前のリベンジ

AnZieの代表に就任

完
坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)高校卒業した翌日に上京

資生堂美容技術専門学校に入学

代官山で美容師人生がスタート

勉強を諦めた学生時代

美容師という職業との出会い

大企業か美容室か・・・
