坂狩トモタカ〜ライフスタイルプレゼンターとしての矜持 Vol.3〜
坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
資生堂美容技術専門学校を卒業した坂狩は、代官山の美容室に入社した。
「専門学校の1年生だった時にヘアショーのモデルをやらせてもらったのですが、そこでの縁で代官山のヘアサロンに入社しました。僕の中では幾つもサロンを受けるのは義理人情的にどうなの?という感覚がありまして・・。受けたサロン全てで「一番行きたいです」と言うわけですよね。それが嘘っぽいので、その代官山のサロンしか受けませんでした。
その代官山の美容室では5年間働いた。
「美容師になった瞬間に「ものすごい楽だな」と思ったのです。というのも、美容学生時代は学校に行って授業を受け、アルバイトをして・・・と、多くのことをやらなくてはなりませんでした。しかし、美容師になるということは、それだけ努力すればお金をもらえるわけですよね。24時間の使い方として、全ての時間を美容に使えると言うのはすごく楽だなと思いましたね」
そこからは、寝ても覚めても美容の仕事に熱中した。仕事が終わり、帰宅途中に他のサロンの明かりがついていると、また戻って自分も練習をした。
「1年目にできる最高のことは何かを考えて、それは努力の時間だと思いました。自分は表参道とかのスターサロンに就職しないで、一度逃げているので・・・。努力では負けられないという気持ちは持っていました。一番最初にサロンに来て、一番最後に帰るというのは当たり前でしたね」
努力の甲斐あり、3年3ヶ月でスタイリストデビューを果たした。また、1年目の途中からはサロン外の評価を求めて、様々な外部コンテストに参加し始めた。
「なけなしのお金で1眼レフを買い、投稿できる全てのコンテストに片っ端から投稿しましたね。すると、1年目の途中から掲載され始めました。当時はフィルムのカメラでしたので、現像代とかすごくかかりましたね(笑)」
5年間働いた後、坂狩はNEWS HOTELに移った。
「やはり、美容師として青山で勝負してみたいという気持ちがありました。5年前は、挑戦する前に諦めていたので・・・。メディアに出ているサロンならどこでも良かったのですが、NEWS HOTELから一番最初に連絡が来たので、そこに入社しました」
NEWS HOTELに入社した坂狩は、
「最初の頃は、当時の店長に「君本当にカットできるの?」と言われたりしましたね。アシスタントも自分より年上だったですし・・・。ただ、勝負すると決めた以上やらないと後悔するので、自己投資で作品撮りをバンバンやっていました」
その後、NEWS HOTELが「AnZie」に名前が変わるタイミングで、坂狩は代表に就任した。
「代表になり、サロン全体のバランスを見るようになりましたよね。スタッフの育成からサロンのブランディングまでトータルで考えるようにはなりました」
AnZieの代表になってからの坂狩の活躍はもはや周知のとおりである。ブレない信念でAnZieを牽引し続けている。
「今の時代、いくら上手くても知られていないと意味がない。そこでSNSを活用するのは必須だと思います。ただ、そこでキャッチした時にそのままリリースしたら意味がないわけで、受け皿としての技術が必要です。蛇口をひねっても受け皿がないとダメなので、この二つのバランスが今はすごく大事です。やはり、お客様が来た時に技術がなかったら意味がないですから」
美容師として、技術に関して誰よりも追求する姿勢は一貫している。
「SNSのおかげで発信は出来て当たり前になった。プラス独自性も出さなくてはいけない。加えて「技術」もちゃんとやらなければならない。そう考えると、今の20代はかなり大変だとは思います」
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「もっと美容師、美容室自体の可能性を膨らませたいですね。サロンが、サロンじゃない場であって欲しいというか。ライフスタイルプレゼンテーションができる場としてサロンが存在して欲しいです。視野を広くすれば、もっと新たな可能性が出てくると思うのです。視野を広く、様々なカルチャーを知るということは、学ぶということです。そういう美容師像と美容室像を創っていきたいですね」
ブレない信念で今日も走り続ける坂狩の背中に、美容業界の未来を見た気がした。
自分の仕事には飽きたくない。その思いで美容師になることを決めた坂狩。ついに、東京で美容師になるための新生活がスタートした。
「最初は、アルバイトしていた美容室にそのまま就職しようと思っていたのです。そしたら、親にものすごく反対されまして・・・。そして、「本当に美容師になるなら東京に行かなくてはダメなのではないか?」と親に言われて、「えっ、東京行けるの?ラッキー」というような感じでした」
東京の美容専門学校行くことを決めた坂狩。学校選びの基準は「東京」と言う名前が付くか否かという独特なものだった。
「特に学校を選ぶ基準とかこだわりはなかったのですが、はじめは東京美容専門学校を受けました。「東京」と名が付くので、同級生に東京に行くと認識されてチヤホヤされるな?と思って。しかし、そこは落ちてしまいまして・・・(笑)。それで、どうしようかなと思っていた時に、祖母が熊本で資生堂のチェーン店を経営していてゆかりがあったので、資生堂美容学校に決めました」
無事に資生堂美容技術専門学校に合格し、晴れて東京で学生生活が始まった。
「高校卒業した翌日に東京に出てきました。専門学校に行ったらアルバイトできないという噂を聞いていたので、引っ越し屋さんでアルバイトをしていました。東京に来てから3日後には、アルバイトを始めていました。多分、自分はアルバイトすることが好きなんだと思います」
資生堂美容技術専門学校に入学してからは、自分が描いていた理想と現実のギャップに直面する。
「自分は高校時代に1年半くらい美容室でアルバイトをしていたので、サロンワーク力には自信がありました。しかし、当然ですが美容学校ではサロンワークとか関係ないんですよね。どちらかというと、オシャレだったりセンスが良い学生がチヤホヤされるんです」
結局、美容室でのアルバイトで培ったサロンワーク力は発揮できなかったが、得るものはあった。
「自分もファッションとかに興味はありましたが、学生の中にはファッションセンスがずば抜けている人もいたりして。ただ、美容室でのアルバイトのお陰で、自分の中では現実を知っていたんですよね。実際美容室で働いたら結構大変だよというか。どちらかというと、僕は美容学校に行って逆に気付かされた部分がたくさんありました。「美容って楽しい!」みたいな。ヘアメイク等、仕事の幅を資生堂美容技術専門学校では教えてもらいましたね。
昼間は学校に行きながら、アルバイトは相変わらず続けていた。
「ピザ配っていましたね。夏休みなどは実家に帰らずに、ずっと豊島園でアルバイトしたり。美容室でのアルバイトはしなかったですね。やっておけば良かったかもしれませんが、当時はなぜかそこに関してバリアがありました。ただ、ピザ屋で働いていた仲間はいまだに髪の毛を切りに来てくれますし、家族ぐるみの付き合いになっています」
美容学校で2年間を過ごし、いよいよ美容師として社会に出る時がやってくる。学生から美容師に変わる瞬間がやってきた。
「自分は、青山とか原宿は怖くて行けなかったタイプなんです。あんな人が多いところ無理でしょみたいな・・・。当時アクアさんの説明会に行った時に、大きな体育館みたいなところで300人位集めてやっていて、これは無理だなと思いました」
美容学校を卒業した坂狩は、学生時代にヘアショーのモデルをさせてもらったことが縁で代官山の美容室に就職した。ついに、坂狩の美容師人生がスタートしたのだ。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
福岡県で生まれ育った坂狩。学生時代はちゃんと勉強する真面目なタイプだった。
「中学校まではずっとサッカーをしていました。小学校の時はサッカーで県選抜に選ばれたりしていたのですが、中学校になると友達と遊ぶのが楽しかったりして、あまり熱が入りませんでしたね。身長もあまり高くなくて、中学校に入学した時は140センチなかったと思います。中学時代からもともと勉強できるタイプではなかったと思うのですが、勉強したのにテストの結果が悪いと悔しいからさらに一生懸命勉強していましたね」
目の前に壁が立ちはだかったときのほうが燃えるようだ。
努力が実り、坂狩は福岡にある進学校に入学した。
「結局、高校に行っても中学と同じようなことが起きました。この上なく勉強したのに、テストの結果が悪いみたいな・・・。その時に、「俺は勉強が向いていないな」と思いましたね(笑)」
ずっと続けてきたサッカーだが、徐々に熱も冷めていった。
中学までは楽しくサッカーできたのですが、高校サッカーは筋トレさせられたりとあまり面白くなくなってきて、アルバイトばかりしていましたね。土日は練習試合とか全然行かなくて先輩に怒られたりして。結局途中でやめてしましました」
アルバイトの比重が増えて行く中で、現在の職業に結びつくアルバイトに出会う。
「アルバイトは、お小遣いというか、バイクの免許が欲しかったから始めました。一番最初は床屋でバイトしましたが、死ぬほど辛くて三ヶ月くらいでやめました。その後も、色々なアルバイトを経験しました」
高校2年の途中から始めた美容室でのアルバイトが、その後の人生を左右する。
「中学校時代のサッカー部の先輩が美容師になっていて、その先輩が働いている美容室に髪を切りに行ったら、「今人少ないからバイトすればいいじゃん」と声をかけてもらい、そのお店でバイトすることになりました。その時に、美容師は面白いなと思いました。
当時高校生だったにも関わらず、扱いはまるで一社会人だったようだ。
「その美容室はすごく厳しかったですね(笑)夕方から働いて、営業終わって練習までしていました。自分が成人していないのに、成人式に出たりもしていました」
そんな高校生らしからぬ毎日を過ごしているうちに、進路を決める時期がやってきた。
「高校3年になるとこの先の進路をどうする?となり、一応進学校だったので親とかも心配し始めて・・。父親がドコモで働いているということもあり、はじめは大企業に行きたかったのです。ソニーかドコモかトヨタに入りたいなと思っていました」
大企業に行きたかった坂狩が、なぜ美容師になったのはなぜか?
「それで色々悩んでいたのですが、当時の自分はあまりにも飽き性だったんです。アルバイトひとつにしてもすぐ飽きてしまうみたいな。それで、自分の仕事には絶対に飽きたくないなと思って、それが美容師でした。美容師になると親に言ったら絶対怒られるだろうなと思っていたのですが、怒られなかったです。それが意外でした」
大企業ではなく美容師。坂狩のチャレンジがそこから始まった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
意識を高く持つことを常に心掛けてきた池上。自分の人生設計についても細かく決めていた。
「何歳までに何をするというのを決めていましたね。自分へのミッションみたいな。22歳までにスタイリスト、25歳までに店長やディレクターなどの管理職、30歳までに独立、と決めていました。僕は20歳になる年に入社しているので、ちょうど10年で独立しようと考えていました」
自分へのミッションを課した池上だが、努力の甲斐もありその通りに実現して行く。
「すべて順風満帆でしたね。ただ、独立に際してHEAVENSにお世話になったという気持ちが強かったですし、筋を通したいという思いがありました。入社のときに独立の話はしていたのですが、自分の実力も含めてHEAVENSにしっかり貢献できて、かつ他の後輩たちが夢を見れる形で独立したいと思っていました」
お店の一部を譲り受けるという形で、32際の時についに独立。渋谷に「BALLET」をオープンさせた。
「独立してからは、やはりイメージしていたものと違うと感じることはたくさんあります。認知度があるお店から独立した人なら一度は感じることかもしれませんが、その店の庇護の下に自分がいたというのを再認識しましたね。ある意味、これがゼロからの本当のスタートなのだと思いました」
独立したからこそ悩むこともたくさんある。しかし、後悔は微塵もしていない。
「もちろん、僕は独立したことに関して何も後悔はないのですが、仮に前のお店に残ってずっと働くというルートもあっただろうなというのは逆に考えますね。オーナーになると色々と出来なくなることがありますから。技術を突き詰めようとした場合には、やはりオーナー業をやりながらでは厳しい部分がありますから」
順風満帆な美容師人生を歩んで来た池上にとって、これまで挫折をしたことはあるのか聞いてみた。
「かなり順風満帆でしたので、正直ないです(笑)。ただ、挫折というほどの大きなものはないですが、それに近いものは毎日感じています。「自分はまだ下手だな」とか、「もっとこうしてあげられたのに・・・」とかは毎日ですね。100点の日は無いですね」
悩んで努力しているからこそ、順風満帆なのだ。
「毎日試行錯誤を繰り返しています。自分は完璧だからと思った瞬間終わりだと思いますし、まだ発展途上だと常に思っています。勉強や研究は日々続けています。僕のこの金髪もおしゃれだからやっているだけではなく、薬剤研究のためです。自分の髪なら、日々の生活も含めて変化が分かりますから」
渋谷を拠点としているBALLETだが、今後は郊外にも進出していく予定という。
「オーナー業的には、店舗を増やしたいというのはありますね。すごく大きな店でインカムを使用して働く店よりも、スタッフやお客様の顔が分かるお店が好きなので、そのようなサイズのお店を作りたいです。イメージ的には、渋谷や原宿以外の郊外の街で、地域一番店のお店を作りたいと思っています」
オーナーだからといって、美容師としての池上の旅はまだ終わらない。
「美容師はお客様に直接関わって初めて成立する職業であり、今まで担当してきたお客様が高校生から主婦になるみたいな、長いお付き合いをさせていただける仕事です。そんなお客様が一人でもいるうちはハサミを置かないでおこうと思っています。生涯一現役というのは、オーナー業をする傍でも貫き通したいなと僕は思っています」
全てを予定通り叶えて来た池上なら、きっと実現するだろう。
渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
日本美容専門学校に入学したその日に、手当たり次第に美容室に飛び込んだ池上。その情熱に応えるオーナーも確かに存在した。
飛び込んだ美容室の中には、「お前面白いな」と可愛がってくれるオーナーさんも何人かいました。「今度の土曜日忙しいから来なよ」と誘ってもらって、タオル洗いや床掃きなどをやらせてもらいましたね。僕自身お金は要らなかったのですが、オーナーさんの好意で幾らか貰ったり、食事をご馳走して貰ったりしました。今で言うところの、意識高い系ですね(笑)」
一見クールに見える池上だが、まさかの意識高い系の学生だったとはなかなか想像がつかない。
「今考えると、気持ち悪いぐらい真面目というか、前向きでしたね。高校まではチャラチャラしていたのですが、美容師でやっていくと決めたのでしっかりやらなければという意識が働いたのだと思います。美容学校の中でも、意識高い系で有名でしたから(笑)」
そんな意識高い系の学生だった池上にも、ついに就職の時が迫っていた。
「30店舗くらい見学に行き、そのうち5店舗でバイトっぽいこともさせて頂きました。勝手に自分の中で知った気になっていましたね。自分が詳しいので、同級生に「この店はこんな店だよ」と教えてあげたり、頼まれて志望動機や履歴書を書いてあげたりとかしていました」
様々なサロンを見学して悩んだ挙句、池上はHEAVENSに入社する。
「自分が就職する際に重視していた点は、大規模なお店ではないという点と、作っているものが話題になっているか、もしくはこれからきそうだなという点でした。そこで、美容師の間で話題になっていたHEAVENSに入社しました」
HEAVENSに入社した池上を待ち受けていたのは、社会の厳しさだった。
「最初は鼻をへし折られましたね(笑)美容学校の中では成績も良かったですし、美容室でアルバイトしている経験者ということで、自分にかなり自信がありました。ところがいざ働き始めると、時代のせいかもしれませんが、褒められることなどないわけです」
誰しもが通る社会人としての洗礼。これまで何事も器用にこなしてきた池上も、決して例外ではなかった。
「自分は器用だと思っていたのに、先輩たちの中にはまるで化け物のような器用な人がいるわけです。そこで初めて、自分は天才ではないと自覚しました。正直、美容学生の頃は少しだけ自分のことを天才だと思っていましたので(笑)」
これまで順調に歩んできた池上にとって、井の中の蛙を実感した瞬間だった。
「平均点が50点なら、僕は70点の男なんです。100点はなかなか取れない人間なので。何でも平均以上に器用にできるから、突き詰めない部分がありました。しかし、結局ずっとこの先やっていくのなら、当然ですが突き詰める必要があるんですよね。どう見ても自分より練習していない人間が、自分よりスイスイ上達して行くのを見たときに、「これはもうやるしかないんだな」と覚悟を決めました」
覚悟を決めた池上。そこからは一心不乱に練習した。
「人よりも多く練習しないと天才たちと戦えないと、心の中で追い込んでいました。ひたすら練習ですね。当時は、同期がみんなでご飯食べに行くときにも「僕は練習あるから」と言って断っていました。今考えれば、そこは行けよという感じなのですが・・・笑」」
そんな努力の甲斐もあり、美容学校の同期の中でスタイリストになったのは一番早かった。また、名前が出る撮影に参加したのも一番早かった。努力の結果が結実した瞬間だった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
池上は埼玉県戸田市出身。中学時代は水泳部で、関東強化選手の合宿に参加するほどの腕前だった。
「上級生も少ないし楽な部活だろうと思って、友達を誘って水泳部に入部しました。しかし、僕らの年から練習がすごく厳しくなり、最終的には関東大会に出場するくらいになりました(笑)」
中学校を卒業すると、地元の高校に進学した。
「高校は最初からプールのない高校に行きました。プールがある高校に行くとまた水泳をやらされる恐れがありましたので・・・」
高校では部活はやらずに、バイト三昧だった。
「最初はロイヤルホストのキッチンで働いていました。しかし、あまり稼げなかったので、その後に倉庫とかで肉体系のバイトをしました。交通整理やスーパーの品出しもやりましたね」
高校1年の終わりの進路を決めるときに、現在の美容師という職業との接点を持つ。
「中学時代は学校の先生になろうと思っていましたが、高校1年の終わりの進路を決める際に、「こんなに学校が嫌いな人間が先生になってはいけないな」と考え直しました。そして、当時自分が知っている職業を全て紙に書き出してみました。サラリーマンやプロ野球選手とか・・・。そして、興味がない職業をそこから削除して行った結果、残ったのは美容師と調理師と消防士でした」
最終的に美容師になると決めた池上だが、親や教師からは反対された。
「僕が高1の時はまだカリスマ美容師ブームとかはなく、美容師になると言うと周囲に止められました。しかし、直接的に「ありがとう」と言われる仕事をしたかったですし、手先も器用だったので美容師になろうと思いました」
美容師になることを決めた池上は、さっそく美容室でアルバイトを始めた。
「本当はダメですけど、当時はインターンという形で働いていました。シャンプーしたり、カラーしたりしていました。パーマの練習もさせてもらいましたね。結局、高校の2年間と専門学校での1年間で、計3年間働いていましたね」
高校を卒業した池上は、日本美容専門学校に入学した。
「自宅から近いというのもありましたし、おしゃれで自由な雰囲気だったので日美に入学しました」
念願の美容師になるための第一歩を踏み出した池上。学校には真面目に通った。
「高校時代は割と自由な校風だったので、天気のいい日は授業をサボってどこかに出かけたりだとか、そんな感じでした。しかし、日美時代は親に学費を負担してもらっていたこともあり、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。自分の中でのけじめのような感じですね」
昼間は学校、夜は高校時代から働いていた美容室でアルバイトという生活が続いた。
「当時は、「働くなら東京の美容室で」と決めていました。そこで、日美に入学したその日の帰りに、自分の連絡先と経歴を書いた手書きの名刺を持参して、原宿のいくつかの美容室にアルバイトをさせてくれと飛び込みました。
美容学校に入学したその日に、飛び込み営業。すごいバイタリティの持ち主である。
「お金は要らないのでお手伝いさせてください」と、何十軒と周りましたね。当時は有名な美容室とか知らなかったので、手当たり次第に美容室を探しては飛び込んでいました。
いわゆる「意識高い系」学生の急先鋒だった池上。その勢いはさらに加速していく。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。
日本に帰る直前、偶然にも以前日本で勤めていた美容室の店長から、一緒に働かないかと誘いを受けた。
「日本に帰り、誘いを受けて東京の代々木の美容室に1年ぐらい勤務していました。そして、27歳の時に渋谷のTSUTAYAで、以前同じお店で働いていた現greenオーナーのHIROMIと偶然会いました。そこから色々と話をしたりするうちに、一緒に働きたいと思い入社しました。入社した時はまだgreenがオープンして間もない頃でしたが、こんなに新規が来るお店があるんだと衝撃を受けたのを覚えています」
IKUMAがgreenに合流してから11年が経つ。現在は海外の店舗も含めたgreen全体10店舗の統括マネージャーとして、その辣腕を振るっている。持ち前の行動力と器用さで何でもこなしてきたIKUMAだが、全てが順風満帆だった訳ではない。当然のごとく、挫折も味わった。
「美容学生時代から、自分は割と何でも器用に出来てしまうタイプでした。周りを見ていて、「何でこんなことが出来ないのだろう」と思っていたぐらいですから。
そんな余裕も、最初に入社した有名美容室で粉々に打ち砕かれた。
「最初に入った美容室の同期の仲間を見て、本当に驚きました。その美容室はかなり有名だったので、全国から腕に自信がある猛者が大集結して、まるで甲子園のような感じでした(笑)。そこで初めて、自分にも出来ないことがあるんだと挫折しましたね。それと、その美容室の先輩方を見て、こんな器用な人たちが世の中にいるのかとビックリしました」
では、どのように挫折を乗り越えたのだろうか?
「やはり、練習ですよね。その時の先輩方を見て、「こんなに練習しているんだ!」と驚きました。自分も学校でそれなりに練習していたのですが、そんなレベルの話ではなく、それこそ皆さん夜中まで寝ずに練習して、その後に備品の発注をして、朝の5時や6時から撮影が始まる、というような感じでした」
自分より上手い先輩たちが死に物狂いで練習してるその姿を見て、感化されないはずがない。
「やはり、先輩方のそのような姿を見ていたので、やるしかなかったですね。平日は朝から撮影、営業、練習、発注のルーティンで、休日は講習に行く。怒涛の毎日を乗り切るのに必死で、ある意味どうやって挫折を乗り越えようかと考える暇もなかったですね。結果的に、その中で徐々に色々な事が出来るようになっていき、自分にも自信が付いたという感じです」
ずっと美容業界の最前線にいるからこそ、美容業界の移り変わりを肌で感じる。
「今の美容業界に関して思うのは、昔に比べて環境が整っているところとそうでないところの差が激しくなっているということです。昔は独立しないと美容師としてやっていけないという感じでした。しかし、現在では弊社もそうですが、生涯雇用も可能なシステムを作り始めている美容室も多いと思います」
そして、時代が一周して、自分たちがこれまでやっていたスタイルがまた戻ってきていると感じている。
「最近表参道では昔自分やHIROMIもやっていたような懐かしい光景、先輩後輩で朝方まで飲みながら美容を語っている若い美容師さん達がとても増えた様に思います。凄くいいですよね(笑)。SNSなどの個人の発信力の重要性は絶対ですが、サロンワークでは個人だけでの力って限界があると思うんです。こういう根性系の若い美容師さんが増えてくるのも必然かなって思いますね」
greenはとどまることなく進化して行く。統括マネージャーとしての責任は重大だが、IKUMAの行動力からすればきっとやり遂げるだろう。
「統括マネージャーとして意識していることは、スタッフを平等に見るということですね。やはり、下の子たちは「見てもらいたい」という意識がすごく強いと思いますし、表立って頑張っていることをアピールできる子と、それが出来ないけれど頑張っている子も、平等に評価しなければならないと思っていますので」
greenは今年で13年目を迎える。
「最初は7人いるかいないかの小さなお店でした。それが現在では10店舗、スタッフも10倍以上まで増えました。 その当時できなかった結婚手当・産休・育休制度・賞与なども整備でき、更には近い将来「退職金制度」も整備したいと思っています。 スタッフ同士が家族と思い、みんなが安心して美容に集中できる環境づくりの為にグループ全体を大きくしたい。それが僕のビジョンです」
不安や挫折があったとしても、一生懸命頑張れば道は開ける。極めてシンプルな真理であるが、IKUMAを見ているとそう考えずにはいられない。
green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)
美容学校を卒業して念願のサロンに就職したにもかかわらず、入社初日に寝坊をして遅刻をしてしまったIKUMA。波乱万丈の美容師ライフがついに始まった。
「遅刻をしたおかげで、毎朝ドブ掃除のようなことをさせられました(笑)。周りからは、「あいつはすぐ店を辞める」と言われていましたが、ずっと続けました。当時は毎日のように撮影に同行したり、休日は先輩方が地方でセミナーや講習の講師をする際にアシスタントとして同行していたので、休みなく働いていましたね」
そんな休みなく働き続けたIKUMAだったが、スタイリストになる直前にそのサロンを退社した。
「小学生くらいからずっと思い描いていた、「海外に行きたい」という夢を諦めきれませんでした。ただ、美容は日本でやろうと決めていたので、期間を決めて海外に行こうと考えていました」
行こうと思った場所はニューヨーク。しかし、ニューヨークに行くにも資金が足りない・・・。コールセンターでアルバイトをしたりしながら、ニューヨーク行きの資金を貯めた。
「当時、ニューヨークに行くなら100万円は持って行くべきと言われていたのですが、結局40万円を持って行きました」
持ち前の行動力を発揮して、何のツテもなく単身ニューヨークに渡った。
「海外には美容師の資格は無いと思っていたので、とりあえず行ったら働けるのではないかと本気で思っていました。家も決めないで行ったので、ユースホステルに寝泊まりしながら、自分で履歴書を書いて美容室をまわっていましたね」
自分の足で美容室を探したが、就労ビザがなかったので結局は働けなかった。
「それでも、ニューヨークの空気感などを肌で直接感じることができたので、非常に有意義な時間でした。英語も完璧に出来たわけではないので、電子辞書を隣に置いて話していましたね」
捨てる神あれば拾う神あり。ニューヨークで知り合った人間から、「英語は一緒なんだからカナダに行ったほうがいいよ」とカナダに行くことを勧められる。
「それを聞いて、すぐに大使館に行ってビザを取り、ワーキングホリデーを利用してすぐにカナダに行きました。カナダに行ってからは、ニューヨークと同じようにまた履歴書を持って美容室を何件も訪ねて、ということをしていました」
I苦労の末、ついにカナダで働くチャンスを手に入れた。
「カナダで知り合いに誘われてとあるパーティーに参加したのですが、その中に美容室のオーナーがいて、「ウチで働かないか?」と誘ってもらいました」
ついに、カナダのトロントでスタイリストになった。
「実際に働くと、やはり英語が完璧ではなかったので、お客様と意思疎通が取れなくてカラーを間違えてしまったり、というミスはありました。しかし、周囲のサポートのお陰で何とかやっていけましたね」
休みの日にはカナダを思う存分満喫した。
「その当時はボリビア人と一緒に住んでいたのですが、休みの日にレンタカーを借りてニューヨークまで行ったりとかしましたね。彼のナビが下手すぎて、通常は1日で行けるところを4日かかったりとかしました(笑)。でも、すごく楽しかったですね」
単身海外に渡って1年半が経過した頃、IKUMAは日本に帰ることを決意する。
「海外に行ったのは、単純に子供の頃からの憧れだけでした。ですので、自分の中では海外にいるのは最初から2年以内と決めていました。美容をやるなら絶対に日本でと思っていたので」
日本に帰ることを決めたIKUMAだが、その日本で現在につながる運命的な出会いが待っていた・・・。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)
なんとも不思議な中学生だが、その実行力は中学生離れしている。そして、埼玉の所沢から渋谷の高校に毎日通う生活が始まる。
「その高校には校庭がなかったため、部活もありませんでした。語学にはまっていたので、当時はロシア語が話せましたし、ロシアに留学もしました。後は、渋谷に学校があったということもあり、毎日渋谷で遊んでいましたね。友達とイベントを開催したりして、楽しく過ごしていました」
「美容学生時代はかなり真面目でしたね。最初は美容にそこまで興味がなかったのですが、いざ入学して授業を受けると我ながらこれは得意だなと思いました。ほとんど美容オタクのような感じでした(笑)」
初めはそこまで興味がなかった美容の世界だが、学校の授業が簡単に思えるほどIKUMAは器用であったため、学校が面白くなっていった。
「この容姿からは考えられないくらい、その当時は優等生でした。「なんでこんな簡単なこともできないのだろう」と、周りの友人を見て思ってしまう感じでしたね」
希望のサロンの入社試験に無事に合格したIKUMAだが、入社初日から前代未聞の伝説を作る。
「入社初日に、思いっきり遅刻しました。前の日に緊張していて寝れなくて、そのまま寝落ちしてしまい、朝礼が終わるギリギリくらいに職場に着きました。それから3ヶ月間、毎朝6時から1時間半、店の周りの排水管を掃除をするという日々から僕の美容師ライフが始まりました(笑)」
まさに波乱万丈の美容師人生の幕開けだが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。
代官山の美容室
資生堂美容技術専門学校を卒業した坂狩は、代官山の美容室に入社した。
「専門学校の1年生だった時にヘアショーのモデルをやらせてもらったのですが、そこでの縁で代官山のヘアサロンに入社しました。僕の中では幾つもサロンを受けるのは義理人情的にどうなの?という感覚がありまして・・。受けたサロン全てで「一番行きたいです」と言うわけですよね。それが嘘っぽいので、その代官山のサロンしか受けませんでした。
その代官山の美容室では5年間働いた。
「美容師になった瞬間に「ものすごい楽だな」と思ったのです。というのも、美容学生時代は学校に行って授業を受け、アルバイトをして・・・と、多くのことをやらなくてはなりませんでした。しかし、美容師になるということは、それだけ努力すればお金をもらえるわけですよね。24時間の使い方として、全ての時間を美容に使えると言うのはすごく楽だなと思いましたね」
そこからは、寝ても覚めても美容の仕事に熱中した。仕事が終わり、帰宅途中に他のサロンの明かりがついていると、また戻って自分も練習をした。
「1年目にできる最高のことは何かを考えて、それは努力の時間だと思いました。自分は表参道とかのスターサロンに就職しないで、一度逃げているので・・・。努力では負けられないという気持ちは持っていました。一番最初にサロンに来て、一番最後に帰るというのは当たり前でしたね」
5年前のリベンジ
努力の甲斐あり、3年3ヶ月でスタイリストデビューを果たした。また、1年目の途中からはサロン外の評価を求めて、様々な外部コンテストに参加し始めた。
「なけなしのお金で1眼レフを買い、投稿できる全てのコンテストに片っ端から投稿しましたね。すると、1年目の途中から掲載され始めました。当時はフィルムのカメラでしたので、現像代とかすごくかかりましたね(笑)」
5年間働いた後、坂狩はNEWS HOTELに移った。
「やはり、美容師として青山で勝負してみたいという気持ちがありました。5年前は、挑戦する前に諦めていたので・・・。メディアに出ているサロンならどこでも良かったのですが、NEWS HOTELから一番最初に連絡が来たので、そこに入社しました」
NEWS HOTELに入社した坂狩は、
「最初の頃は、当時の店長に「君本当にカットできるの?」と言われたりしましたね。アシスタントも自分より年上だったですし・・・。ただ、勝負すると決めた以上やらないと後悔するので、自己投資で作品撮りをバンバンやっていました」
AnZieの代表に就任
その後、NEWS HOTELが「AnZie」に名前が変わるタイミングで、坂狩は代表に就任した。
「代表になり、サロン全体のバランスを見るようになりましたよね。スタッフの育成からサロンのブランディングまでトータルで考えるようにはなりました」
AnZieの代表になってからの坂狩の活躍はもはや周知のとおりである。ブレない信念でAnZieを牽引し続けている。
「今の時代、いくら上手くても知られていないと意味がない。そこでSNSを活用するのは必須だと思います。ただ、そこでキャッチした時にそのままリリースしたら意味がないわけで、受け皿としての技術が必要です。蛇口をひねっても受け皿がないとダメなので、この二つのバランスが今はすごく大事です。やはり、お客様が来た時に技術がなかったら意味がないですから」
美容師として、技術に関して誰よりも追求する姿勢は一貫している。
「SNSのおかげで発信は出来て当たり前になった。プラス独自性も出さなくてはいけない。加えて「技術」もちゃんとやらなければならない。そう考えると、今の20代はかなり大変だとは思います」
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「もっと美容師、美容室自体の可能性を膨らませたいですね。サロンが、サロンじゃない場であって欲しいというか。ライフスタイルプレゼンテーションができる場としてサロンが存在して欲しいです。視野を広くすれば、もっと新たな可能性が出てくると思うのです。視野を広く、様々なカルチャーを知るということは、学ぶということです。そういう美容師像と美容室像を創っていきたいですね」
ブレない信念で今日も走り続ける坂狩の背中に、美容業界の未来を見た気がした。
完
坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)高校卒業した翌日に上京
自分の仕事には飽きたくない。その思いで美容師になることを決めた坂狩。ついに、東京で美容師になるための新生活がスタートした。
「最初は、アルバイトしていた美容室にそのまま就職しようと思っていたのです。そしたら、親にものすごく反対されまして・・・。そして、「本当に美容師になるなら東京に行かなくてはダメなのではないか?」と親に言われて、「えっ、東京行けるの?ラッキー」というような感じでした」
東京の美容専門学校行くことを決めた坂狩。学校選びの基準は「東京」と言う名前が付くか否かという独特なものだった。
「特に学校を選ぶ基準とかこだわりはなかったのですが、はじめは東京美容専門学校を受けました。「東京」と名が付くので、同級生に東京に行くと認識されてチヤホヤされるな?と思って。しかし、そこは落ちてしまいまして・・・(笑)。それで、どうしようかなと思っていた時に、祖母が熊本で資生堂のチェーン店を経営していてゆかりがあったので、資生堂美容学校に決めました」
資生堂美容技術専門学校に入学
無事に資生堂美容技術専門学校に合格し、晴れて東京で学生生活が始まった。
「高校卒業した翌日に東京に出てきました。専門学校に行ったらアルバイトできないという噂を聞いていたので、引っ越し屋さんでアルバイトをしていました。東京に来てから3日後には、アルバイトを始めていました。多分、自分はアルバイトすることが好きなんだと思います」
資生堂美容技術専門学校に入学してからは、自分が描いていた理想と現実のギャップに直面する。
「自分は高校時代に1年半くらい美容室でアルバイトをしていたので、サロンワーク力には自信がありました。しかし、当然ですが美容学校ではサロンワークとか関係ないんですよね。どちらかというと、オシャレだったりセンスが良い学生がチヤホヤされるんです」
結局、美容室でのアルバイトで培ったサロンワーク力は発揮できなかったが、得るものはあった。
「自分もファッションとかに興味はありましたが、学生の中にはファッションセンスがずば抜けている人もいたりして。ただ、美容室でのアルバイトのお陰で、自分の中では現実を知っていたんですよね。実際美容室で働いたら結構大変だよというか。どちらかというと、僕は美容学校に行って逆に気付かされた部分がたくさんありました。「美容って楽しい!」みたいな。ヘアメイク等、仕事の幅を資生堂美容技術専門学校では教えてもらいましたね。
代官山で美容師人生がスタート
昼間は学校に行きながら、アルバイトは相変わらず続けていた。
「ピザ配っていましたね。夏休みなどは実家に帰らずに、ずっと豊島園でアルバイトしたり。美容室でのアルバイトはしなかったですね。やっておけば良かったかもしれませんが、当時はなぜかそこに関してバリアがありました。ただ、ピザ屋で働いていた仲間はいまだに髪の毛を切りに来てくれますし、家族ぐるみの付き合いになっています」
美容学校で2年間を過ごし、いよいよ美容師として社会に出る時がやってくる。学生から美容師に変わる瞬間がやってきた。
「自分は、青山とか原宿は怖くて行けなかったタイプなんです。あんな人が多いところ無理でしょみたいな・・・。当時アクアさんの説明会に行った時に、大きな体育館みたいなところで300人位集めてやっていて、これは無理だなと思いました」
美容学校を卒業した坂狩は、学生時代にヘアショーのモデルをさせてもらったことが縁で代官山の美容室に就職した。ついに、坂狩の美容師人生がスタートしたのだ。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
勉強を諦めた学生時代
福岡県で生まれ育った坂狩。学生時代はちゃんと勉強する真面目なタイプだった。
「中学校まではずっとサッカーをしていました。小学校の時はサッカーで県選抜に選ばれたりしていたのですが、中学校になると友達と遊ぶのが楽しかったりして、あまり熱が入りませんでしたね。身長もあまり高くなくて、中学校に入学した時は140センチなかったと思います。中学時代からもともと勉強できるタイプではなかったと思うのですが、勉強したのにテストの結果が悪いと悔しいからさらに一生懸命勉強していましたね」
目の前に壁が立ちはだかったときのほうが燃えるようだ。
努力が実り、坂狩は福岡にある進学校に入学した。
「結局、高校に行っても中学と同じようなことが起きました。この上なく勉強したのに、テストの結果が悪いみたいな・・・。その時に、「俺は勉強が向いていないな」と思いましたね(笑)」
ずっと続けてきたサッカーだが、徐々に熱も冷めていった。
中学までは楽しくサッカーできたのですが、高校サッカーは筋トレさせられたりとあまり面白くなくなってきて、アルバイトばかりしていましたね。土日は練習試合とか全然行かなくて先輩に怒られたりして。結局途中でやめてしましました」
美容師という職業との出会い
アルバイトの比重が増えて行く中で、現在の職業に結びつくアルバイトに出会う。
「アルバイトは、お小遣いというか、バイクの免許が欲しかったから始めました。一番最初は床屋でバイトしましたが、死ぬほど辛くて三ヶ月くらいでやめました。その後も、色々なアルバイトを経験しました」
高校2年の途中から始めた美容室でのアルバイトが、その後の人生を左右する。
「中学校時代のサッカー部の先輩が美容師になっていて、その先輩が働いている美容室に髪を切りに行ったら、「今人少ないからバイトすればいいじゃん」と声をかけてもらい、そのお店でバイトすることになりました。その時に、美容師は面白いなと思いました。
当時高校生だったにも関わらず、扱いはまるで一社会人だったようだ。
「その美容室はすごく厳しかったですね(笑)夕方から働いて、営業終わって練習までしていました。自分が成人していないのに、成人式に出たりもしていました」
大企業か美容室か・・・
そんな高校生らしからぬ毎日を過ごしているうちに、進路を決める時期がやってきた。
「高校3年になるとこの先の進路をどうする?となり、一応進学校だったので親とかも心配し始めて・・。父親がドコモで働いているということもあり、はじめは大企業に行きたかったのです。ソニーかドコモかトヨタに入りたいなと思っていました」
大企業に行きたかった坂狩が、なぜ美容師になったのはなぜか?
「それで色々悩んでいたのですが、当時の自分はあまりにも飽き性だったんです。アルバイトひとつにしてもすぐ飽きてしまうみたいな。それで、自分の仕事には絶対に飽きたくないなと思って、それが美容師でした。美容師になると親に言ったら絶対怒られるだろうなと思っていたのですが、怒られなかったです。それが意外でした」
大企業ではなく美容師。坂狩のチャレンジがそこから始まった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
自分へのミッション
意識を高く持つことを常に心掛けてきた池上。自分の人生設計についても細かく決めていた。
「何歳までに何をするというのを決めていましたね。自分へのミッションみたいな。22歳までにスタイリスト、25歳までに店長やディレクターなどの管理職、30歳までに独立、と決めていました。僕は20歳になる年に入社しているので、ちょうど10年で独立しようと考えていました」
自分へのミッションを課した池上だが、努力の甲斐もありその通りに実現して行く。
「すべて順風満帆でしたね。ただ、独立に際してHEAVENSにお世話になったという気持ちが強かったですし、筋を通したいという思いがありました。入社のときに独立の話はしていたのですが、自分の実力も含めてHEAVENSにしっかり貢献できて、かつ他の後輩たちが夢を見れる形で独立したいと思っていました」
渋谷にBALLETオープン
お店の一部を譲り受けるという形で、32際の時についに独立。渋谷に「BALLET」をオープンさせた。
「独立してからは、やはりイメージしていたものと違うと感じることはたくさんあります。認知度があるお店から独立した人なら一度は感じることかもしれませんが、その店の庇護の下に自分がいたというのを再認識しましたね。ある意味、これがゼロからの本当のスタートなのだと思いました」
独立したからこそ悩むこともたくさんある。しかし、後悔は微塵もしていない。
「もちろん、僕は独立したことに関して何も後悔はないのですが、仮に前のお店に残ってずっと働くというルートもあっただろうなというのは逆に考えますね。オーナーになると色々と出来なくなることがありますから。技術を突き詰めようとした場合には、やはりオーナー業をやりながらでは厳しい部分がありますから」
順風満帆な美容師人生を歩んで来た池上にとって、これまで挫折をしたことはあるのか聞いてみた。
「かなり順風満帆でしたので、正直ないです(笑)。ただ、挫折というほどの大きなものはないですが、それに近いものは毎日感じています。「自分はまだ下手だな」とか、「もっとこうしてあげられたのに・・・」とかは毎日ですね。100点の日は無いですね」
悩んで努力しているからこそ、順風満帆なのだ。
「毎日試行錯誤を繰り返しています。自分は完璧だからと思った瞬間終わりだと思いますし、まだ発展途上だと常に思っています。勉強や研究は日々続けています。僕のこの金髪もおしゃれだからやっているだけではなく、薬剤研究のためです。自分の髪なら、日々の生活も含めて変化が分かりますから」
生涯一現役として
渋谷を拠点としているBALLETだが、今後は郊外にも進出していく予定という。
「オーナー業的には、店舗を増やしたいというのはありますね。すごく大きな店でインカムを使用して働く店よりも、スタッフやお客様の顔が分かるお店が好きなので、そのようなサイズのお店を作りたいです。イメージ的には、渋谷や原宿以外の郊外の街で、地域一番店のお店を作りたいと思っています」
オーナーだからといって、美容師としての池上の旅はまだ終わらない。
「美容師はお客様に直接関わって初めて成立する職業であり、今まで担当してきたお客様が高校生から主婦になるみたいな、長いお付き合いをさせていただける仕事です。そんなお客様が一人でもいるうちはハサミを置かないでおこうと思っています。生涯一現役というのは、オーナー業をする傍でも貫き通したいなと僕は思っています」
全てを予定通り叶えて来た池上なら、きっと実現するだろう。
完
渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
意識高い系の学生
日本美容専門学校に入学したその日に、手当たり次第に美容室に飛び込んだ池上。その情熱に応えるオーナーも確かに存在した。
飛び込んだ美容室の中には、「お前面白いな」と可愛がってくれるオーナーさんも何人かいました。「今度の土曜日忙しいから来なよ」と誘ってもらって、タオル洗いや床掃きなどをやらせてもらいましたね。僕自身お金は要らなかったのですが、オーナーさんの好意で幾らか貰ったり、食事をご馳走して貰ったりしました。今で言うところの、意識高い系ですね(笑)」
一見クールに見える池上だが、まさかの意識高い系の学生だったとはなかなか想像がつかない。
「今考えると、気持ち悪いぐらい真面目というか、前向きでしたね。高校まではチャラチャラしていたのですが、美容師でやっていくと決めたのでしっかりやらなければという意識が働いたのだと思います。美容学校の中でも、意識高い系で有名でしたから(笑)」
HEAVENSに入社
そんな意識高い系の学生だった池上にも、ついに就職の時が迫っていた。
「30店舗くらい見学に行き、そのうち5店舗でバイトっぽいこともさせて頂きました。勝手に自分の中で知った気になっていましたね。自分が詳しいので、同級生に「この店はこんな店だよ」と教えてあげたり、頼まれて志望動機や履歴書を書いてあげたりとかしていました」
様々なサロンを見学して悩んだ挙句、池上はHEAVENSに入社する。
「自分が就職する際に重視していた点は、大規模なお店ではないという点と、作っているものが話題になっているか、もしくはこれからきそうだなという点でした。そこで、美容師の間で話題になっていたHEAVENSに入社しました」
HEAVENSに入社した池上を待ち受けていたのは、社会の厳しさだった。
「最初は鼻をへし折られましたね(笑)美容学校の中では成績も良かったですし、美容室でアルバイトしている経験者ということで、自分にかなり自信がありました。ところがいざ働き始めると、時代のせいかもしれませんが、褒められることなどないわけです」
誰しもが通る社会人としての洗礼。これまで何事も器用にこなしてきた池上も、決して例外ではなかった。
天才ではない自覚
「自分は器用だと思っていたのに、先輩たちの中にはまるで化け物のような器用な人がいるわけです。そこで初めて、自分は天才ではないと自覚しました。正直、美容学生の頃は少しだけ自分のことを天才だと思っていましたので(笑)」
これまで順調に歩んできた池上にとって、井の中の蛙を実感した瞬間だった。
「平均点が50点なら、僕は70点の男なんです。100点はなかなか取れない人間なので。何でも平均以上に器用にできるから、突き詰めない部分がありました。しかし、結局ずっとこの先やっていくのなら、当然ですが突き詰める必要があるんですよね。どう見ても自分より練習していない人間が、自分よりスイスイ上達して行くのを見たときに、「これはもうやるしかないんだな」と覚悟を決めました」
覚悟を決めた池上。そこからは一心不乱に練習した。
「人よりも多く練習しないと天才たちと戦えないと、心の中で追い込んでいました。ひたすら練習ですね。当時は、同期がみんなでご飯食べに行くときにも「僕は練習あるから」と言って断っていました。今考えれば、そこは行けよという感じなのですが・・・笑」」
そんな努力の甲斐もあり、美容学校の同期の中でスタイリストになったのは一番早かった。また、名前が出る撮影に参加したのも一番早かった。努力の結果が結実した瞬間だった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
アルバイト三昧の青春
池上は埼玉県戸田市出身。中学時代は水泳部で、関東強化選手の合宿に参加するほどの腕前だった。
「上級生も少ないし楽な部活だろうと思って、友達を誘って水泳部に入部しました。しかし、僕らの年から練習がすごく厳しくなり、最終的には関東大会に出場するくらいになりました(笑)」
中学校を卒業すると、地元の高校に進学した。
「高校は最初からプールのない高校に行きました。プールがある高校に行くとまた水泳をやらされる恐れがありましたので・・・」
高校では部活はやらずに、バイト三昧だった。
「最初はロイヤルホストのキッチンで働いていました。しかし、あまり稼げなかったので、その後に倉庫とかで肉体系のバイトをしました。交通整理やスーパーの品出しもやりましたね」
美容師になる決意
高校1年の終わりの進路を決めるときに、現在の美容師という職業との接点を持つ。
「中学時代は学校の先生になろうと思っていましたが、高校1年の終わりの進路を決める際に、「こんなに学校が嫌いな人間が先生になってはいけないな」と考え直しました。そして、当時自分が知っている職業を全て紙に書き出してみました。サラリーマンやプロ野球選手とか・・・。そして、興味がない職業をそこから削除して行った結果、残ったのは美容師と調理師と消防士でした」
最終的に美容師になると決めた池上だが、親や教師からは反対された。
「僕が高1の時はまだカリスマ美容師ブームとかはなく、美容師になると言うと周囲に止められました。しかし、直接的に「ありがとう」と言われる仕事をしたかったですし、手先も器用だったので美容師になろうと思いました」
美容師になることを決めた池上は、さっそく美容室でアルバイトを始めた。
「本当はダメですけど、当時はインターンという形で働いていました。シャンプーしたり、カラーしたりしていました。パーマの練習もさせてもらいましたね。結局、高校の2年間と専門学校での1年間で、計3年間働いていましたね」
皆勤賞だった専門学校生時代
高校を卒業した池上は、日本美容専門学校に入学した。
「自宅から近いというのもありましたし、おしゃれで自由な雰囲気だったので日美に入学しました」
念願の美容師になるための第一歩を踏み出した池上。学校には真面目に通った。
「高校時代は割と自由な校風だったので、天気のいい日は授業をサボってどこかに出かけたりだとか、そんな感じでした。しかし、日美時代は親に学費を負担してもらっていたこともあり、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。自分の中でのけじめのような感じですね」
昼間は学校、夜は高校時代から働いていた美容室でアルバイトという生活が続いた。
「当時は、「働くなら東京の美容室で」と決めていました。そこで、日美に入学したその日の帰りに、自分の連絡先と経歴を書いた手書きの名刺を持参して、原宿のいくつかの美容室にアルバイトをさせてくれと飛び込みました。
美容学校に入学したその日に、飛び込み営業。すごいバイタリティの持ち主である。
「お金は要らないのでお手伝いさせてください」と、何十軒と周りましたね。当時は有名な美容室とか知らなかったので、手当たり次第に美容室を探しては飛び込んでいました。
いわゆる「意識高い系」学生の急先鋒だった池上。その勢いはさらに加速していく。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。
運命の出会い
日本に帰る直前、偶然にも以前日本で勤めていた美容室の店長から、一緒に働かないかと誘いを受けた。
「日本に帰り、誘いを受けて東京の代々木の美容室に1年ぐらい勤務していました。そして、27歳の時に渋谷のTSUTAYAで、以前同じお店で働いていた現greenオーナーのHIROMIと偶然会いました。そこから色々と話をしたりするうちに、一緒に働きたいと思い入社しました。入社した時はまだgreenがオープンして間もない頃でしたが、こんなに新規が来るお店があるんだと衝撃を受けたのを覚えています」
IKUMAがgreenに合流してから11年が経つ。現在は海外の店舗も含めたgreen全体10店舗の統括マネージャーとして、その辣腕を振るっている。持ち前の行動力と器用さで何でもこなしてきたIKUMAだが、全てが順風満帆だった訳ではない。当然のごとく、挫折も味わった。
「美容学生時代から、自分は割と何でも器用に出来てしまうタイプでした。周りを見ていて、「何でこんなことが出来ないのだろう」と思っていたぐらいですから。
そんな余裕も、最初に入社した有名美容室で粉々に打ち砕かれた。
挫折を乗り越える方法
「最初に入った美容室の同期の仲間を見て、本当に驚きました。その美容室はかなり有名だったので、全国から腕に自信がある猛者が大集結して、まるで甲子園のような感じでした(笑)。そこで初めて、自分にも出来ないことがあるんだと挫折しましたね。それと、その美容室の先輩方を見て、こんな器用な人たちが世の中にいるのかとビックリしました」
では、どのように挫折を乗り越えたのだろうか?
「やはり、練習ですよね。その時の先輩方を見て、「こんなに練習しているんだ!」と驚きました。自分も学校でそれなりに練習していたのですが、そんなレベルの話ではなく、それこそ皆さん夜中まで寝ずに練習して、その後に備品の発注をして、朝の5時や6時から撮影が始まる、というような感じでした」
自分より上手い先輩たちが死に物狂いで練習してるその姿を見て、感化されないはずがない。
「やはり、先輩方のそのような姿を見ていたので、やるしかなかったですね。平日は朝から撮影、営業、練習、発注のルーティンで、休日は講習に行く。怒涛の毎日を乗り切るのに必死で、ある意味どうやって挫折を乗り越えようかと考える暇もなかったですね。結果的に、その中で徐々に色々な事が出来るようになっていき、自分にも自信が付いたという感じです」
現在の美容業界とこれからの自分
ずっと美容業界の最前線にいるからこそ、美容業界の移り変わりを肌で感じる。
「今の美容業界に関して思うのは、昔に比べて環境が整っているところとそうでないところの差が激しくなっているということです。昔は独立しないと美容師としてやっていけないという感じでした。しかし、現在では弊社もそうですが、生涯雇用も可能なシステムを作り始めている美容室も多いと思います」
そして、時代が一周して、自分たちがこれまでやっていたスタイルがまた戻ってきていると感じている。
「最近表参道では昔自分やHIROMIもやっていたような懐かしい光景、先輩後輩で朝方まで飲みながら美容を語っている若い美容師さん達がとても増えた様に思います。凄くいいですよね(笑)。SNSなどの個人の発信力の重要性は絶対ですが、サロンワークでは個人だけでの力って限界があると思うんです。こういう根性系の若い美容師さんが増えてくるのも必然かなって思いますね」
greenはとどまることなく進化して行く。統括マネージャーとしての責任は重大だが、IKUMAの行動力からすればきっとやり遂げるだろう。
「統括マネージャーとして意識していることは、スタッフを平等に見るということですね。やはり、下の子たちは「見てもらいたい」という意識がすごく強いと思いますし、表立って頑張っていることをアピールできる子と、それが出来ないけれど頑張っている子も、平等に評価しなければならないと思っていますので」
greenは今年で13年目を迎える。
「最初は7人いるかいないかの小さなお店でした。それが現在では10店舗、スタッフも10倍以上まで増えました。 その当時できなかった結婚手当・産休・育休制度・賞与なども整備でき、更には近い将来「退職金制度」も整備したいと思っています。 スタッフ同士が家族と思い、みんなが安心して美容に集中できる環境づくりの為にグループ全体を大きくしたい。それが僕のビジョンです」
不安や挫折があったとしても、一生懸命頑張れば道は開ける。極めてシンプルな真理であるが、IKUMAを見ているとそう考えずにはいられない。
完
green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)
諦めきれなかった夢
美容学校を卒業して念願のサロンに就職したにもかかわらず、入社初日に寝坊をして遅刻をしてしまったIKUMA。波乱万丈の美容師ライフがついに始まった。
「遅刻をしたおかげで、毎朝ドブ掃除のようなことをさせられました(笑)。周りからは、「あいつはすぐ店を辞める」と言われていましたが、ずっと続けました。当時は毎日のように撮影に同行したり、休日は先輩方が地方でセミナーや講習の講師をする際にアシスタントとして同行していたので、休みなく働いていましたね」
そんな休みなく働き続けたIKUMAだったが、スタイリストになる直前にそのサロンを退社した。
「小学生くらいからずっと思い描いていた、「海外に行きたい」という夢を諦めきれませんでした。ただ、美容は日本でやろうと決めていたので、期間を決めて海外に行こうと考えていました」
行こうと思った場所はニューヨーク。しかし、ニューヨークに行くにも資金が足りない・・・。コールセンターでアルバイトをしたりしながら、ニューヨーク行きの資金を貯めた。
「当時、ニューヨークに行くなら100万円は持って行くべきと言われていたのですが、結局40万円を持って行きました」
理想と現実の狭間で
持ち前の行動力を発揮して、何のツテもなく単身ニューヨークに渡った。
「海外には美容師の資格は無いと思っていたので、とりあえず行ったら働けるのではないかと本気で思っていました。家も決めないで行ったので、ユースホステルに寝泊まりしながら、自分で履歴書を書いて美容室をまわっていましたね」
自分の足で美容室を探したが、就労ビザがなかったので結局は働けなかった。
「それでも、ニューヨークの空気感などを肌で直接感じることができたので、非常に有意義な時間でした。英語も完璧に出来たわけではないので、電子辞書を隣に置いて話していましたね」
捨てる神あれば拾う神あり。ニューヨークで知り合った人間から、「英語は一緒なんだからカナダに行ったほうがいいよ」とカナダに行くことを勧められる。
「それを聞いて、すぐに大使館に行ってビザを取り、ワーキングホリデーを利用してすぐにカナダに行きました。カナダに行ってからは、ニューヨークと同じようにまた履歴書を持って美容室を何件も訪ねて、ということをしていました」
たどり着いたカナダ
I苦労の末、ついにカナダで働くチャンスを手に入れた。
「カナダで知り合いに誘われてとあるパーティーに参加したのですが、その中に美容室のオーナーがいて、「ウチで働かないか?」と誘ってもらいました」
ついに、カナダのトロントでスタイリストになった。
「実際に働くと、やはり英語が完璧ではなかったので、お客様と意思疎通が取れなくてカラーを間違えてしまったり、というミスはありました。しかし、周囲のサポートのお陰で何とかやっていけましたね」
休みの日にはカナダを思う存分満喫した。
「その当時はボリビア人と一緒に住んでいたのですが、休みの日にレンタカーを借りてニューヨークまで行ったりとかしましたね。彼のナビが下手すぎて、通常は1日で行けるところを4日かかったりとかしました(笑)。でも、すごく楽しかったですね」
単身海外に渡って1年半が経過した頃、IKUMAは日本に帰ることを決意する。
「海外に行ったのは、単純に子供の頃からの憧れだけでした。ですので、自分の中では海外にいるのは最初から2年以内と決めていました。美容をやるなら絶対に日本でと思っていたので」
日本に帰ることを決めたIKUMAだが、その日本で現在につながる運命的な出会いが待っていた・・・。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)
きっかけはバミューダトライアングル
埼玉県の所沢市で、男ばかりの三人兄弟の末っ子として生まれた。地元の公立の小学校、中学校に通っていたが、高校は東京の渋谷だった。しかも、ロシア語科だった。 「小学3年生の時に「魔のバミューダトライアングル」という本を読んで感想文を書きました。そして、世界は面白いなと思っていた時に、父が海外の情報をたくさん教えてくれて、さらに中学生になった時にオリンピックでロシア人の通訳が足りていないというニュースがありました。そのニュースを聞いた時に、これからはロシア語で飯を食っていけるのではないかと思い、ロシア語科がある高校を探しました」
なんとも不思議な中学生だが、その実行力は中学生離れしている。そして、埼玉の所沢から渋谷の高校に毎日通う生活が始まる。
「その高校には校庭がなかったため、部活もありませんでした。語学にはまっていたので、当時はロシア語が話せましたし、ロシアに留学もしました。後は、渋谷に学校があったということもあり、毎日渋谷で遊んでいましたね。友達とイベントを開催したりして、楽しく過ごしていました」
自己分析の結果、美容師に
語学に熱中していたIKUMAだが、なぜ美容専門学校に行くことを選んだのだろうか。 「建築士の父の影響で昔から建築に興味があったので、大学に進もうと思っていました。しかし、高校時代に外国の先生に自己分析の大切さを教わり、新宿の紀伊国屋書店で自己分析の本を自分で買ってきました。その本は英語で書かれていたので、辞書を片手に読み進んで行くと、自分にはサービス業やものづくりの仕事が合っているという分析結果が出たのです。その中に、たまたま「ヘアドレッサー」というキーワードがあり、美容師になろうと思いました」 自己分析の本に従い、IKUMAは山野美容専門学校に進学する。
「美容学生時代はかなり真面目でしたね。最初は美容にそこまで興味がなかったのですが、いざ入学して授業を受けると我ながらこれは得意だなと思いました。ほとんど美容オタクのような感じでした(笑)」
初めはそこまで興味がなかった美容の世界だが、学校の授業が簡単に思えるほどIKUMAは器用であったため、学校が面白くなっていった。
「この容姿からは考えられないくらい、その当時は優等生でした。「なんでこんな簡単なこともできないのだろう」と、周りの友人を見て思ってしまう感じでしたね」
伝説の始まり
学校に真面目に通いつつ、新宿でバーテンのアルバイトをしながら、2年間の学校生活も終わりを迎える。 「当時は美容ブームの最後くらいでした。テレビでシザーズリーグを見て、そこで初めて美容に興味が出てきて、こういうサロンで働いてみたいと思いました」 どうしても行きたいサロンがあり、IKUMAはそのサロンの入社試験を受けた。他のサロンはどこも受けなかった。そして、100倍近い倍率を見事クリアして、無事にそのサロンに合格した。 「これは後から先輩に聞いた話ですが、入社試験で集団面接があり、チームを作ってある課題を与えられるのですが、そこでリーダーになると受からないのが普通だったらしいのです。しかし、僕はまとめるのが得意なのでリーダー役をしたところ、それがうまくはまって受かったみたいです」
希望のサロンの入社試験に無事に合格したIKUMAだが、入社初日から前代未聞の伝説を作る。
「入社初日に、思いっきり遅刻しました。前の日に緊張していて寝れなくて、そのまま寝落ちしてしまい、朝礼が終わるギリギリくらいに職場に着きました。それから3ヶ月間、毎朝6時から1時間半、店の周りの排水管を掃除をするという日々から僕の美容師ライフが始まりました(笑)」
まさに波乱万丈の美容師人生の幕開けだが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。
続く