IKUMA〜ヘアドレッサーであり続けるために Vol.2〜
諦めきれなかった夢

理想と現実の狭間で

たどり着いたカナダ

きっかけはバミューダトライアングル
埼玉県の所沢市で、男ばかりの三人兄弟の末っ子として生まれた。地元の公立の小学校、中学校に通っていたが、高校は東京の渋谷だった。しかも、ロシア語科だった。 「小学3年生の時に「魔のバミューダトライアングル」という本を読んで感想文を書きました。そして、世界は面白いなと思っていた時に、父が海外の情報をたくさん教えてくれて、さらに中学生になった時にオリンピックでロシア人の通訳が足りていないというニュースがありました。そのニュースを聞いた時に、これからはロシア語で飯を食っていけるのではないかと思い、ロシア語科がある高校を探しました」
自己分析の結果、美容師に
語学に熱中していたIKUMAだが、なぜ美容専門学校に行くことを選んだのだろうか。 「建築士の父の影響で昔から建築に興味があったので、大学に進もうと思っていました。しかし、高校時代に外国の先生に自己分析の大切さを教わり、新宿の紀伊国屋書店で自己分析の本を自分で買ってきました。その本は英語で書かれていたので、辞書を片手に読み進んで行くと、自分にはサービス業やものづくりの仕事が合っているという分析結果が出たのです。その中に、たまたま「ヘアドレッサー」というキーワードがあり、美容師になろうと思いました」 自己分析の本に従い、IKUMAは山野美容専門学校に進学する。
伝説の始まり
学校に真面目に通いつつ、新宿でバーテンのアルバイトをしながら、2年間の学校生活も終わりを迎える。 「当時は美容ブームの最後くらいでした。テレビでシザーズリーグを見て、そこで初めて美容に興味が出てきて、こういうサロンで働いてみたいと思いました」 どうしても行きたいサロンがあり、IKUMAはそのサロンの入社試験を受けた。他のサロンはどこも受けなかった。そして、100倍近い倍率を見事クリアして、無事にそのサロンに合格した。 「これは後から先輩に聞いた話ですが、入社試験で集団面接があり、チームを作ってある課題を与えられるのですが、そこでリーダーになると受からないのが普通だったらしいのです。しかし、僕はまとめるのが得意なのでリーダー役をしたところ、それがうまくはまって受かったみたいです」
続く
「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)各世代に伝えたいこと

20代のスタイリストはカットの技術が大切
20代のスタイリストが最も重視すべき点は、カットの技術であると高木は言う。 「他の店のことはあまり分かりませんが、20代のスタイリストはカットに集中している人が少ないですね。今は薬剤の質が良くなっていて、ヘアケアの時代です。カラーが上手いと売れてしまいます。しかし、そこでおさえたお客様も必ず歳をとり、40歳を超えてくると髪に色々な悩みが出て来ます。その時に大切なのが実はカットなのです」
業界を変革するために
常に全力疾走で美容業界の中心を走り続けてきたからこそ、現状の美容業界に対する憂いと想いは誰よりも熱い。 「不動産やITだったり、業界によっては日本は盛り上がっていますが、美容業界は違います。昔ながらの伝統的な美容室をやっていて稼げている人がいないということは、何か問題があるということだと思います。料金体系なのか雇用体系なのか、何なのか分からないですが・・・。それを僕は変えていきたいですね」
完
「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)新たな出会い
人気サロンのSHIMAで働く切符を手に入れた高木だが、1年間で退職した。 「当時は自分がチャランポランだったので、ついて行くことができませんでしたね」 その後に、別の店舗で充実した美容師ライフを送っていた高木だが、当時のカリスマ美容師ブームが彼の心を刺激した。 「その頃にちょうどカリスマ美容師ブームがあり、どうやらすごく稼ぐ人たちがいるらしいと聞いて、そのようになりたいと思いました。そして、色々と考えた結果、宮村さんについて行くことにしました」
U-REALMの立ち上げ
アフロートを退社した高木は、U-REALMを立ち上げた。 「立ち上げ当初はすごく順調でしたが、当時はどんぶり勘定で自分も子供でしたので、だんだん業績が悪化してきました。同時に、自分もヘアメイクの仕事が増えて店を見れなくなって、色々と問題が起きてスタッフが辞めていってしまいました。あの時の自分を今になって思うと、自分のキャリアしか考えていなかったですね。自分がキャリアアップして有名になってとか、そういうことばかり考えていました」
経営者として
高木が経営に没頭してからのU-REALMの快進撃はご覧の通りである。 「今は、スタッフの給料を上げられたり、休みを増やせたり、旅行に行かせられたり、決算賞与を出せたりする瞬間にやりがいを感じます。やはり自分は経営者なので・・・。 美容室が儲からないとか、美容師の給料が少ないというのは経営者の問題だと思っています。経営者がデザイナーを気取ってしまうと儲かる商売にはなりません。経営者は経営者です。経営者がデザインに没頭しすぎると、経営はうまく行かなくなりますね」
Vol.3に続く
「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)
きっかけは「なんとなく・・・」
高木は1977年8月15日に、3人兄弟の末っ子として北海道で生まれた。
「おかげさまで両親は健在で、兄が二人います。父親は、北海道開発建設局(※国土交通省の地方支分部局)で働いていました」
北海道で生まれ育った高木は、地元北海道の小学校、そして中学校に進学する。
「その頃は真剣にサッカーをやっていて、ポジションはミッドフィルダーでした。高校に進学した後もサッカーを続けていたのですが、あまりチームも強くなくて、だんだんと身に入らなくなってきました。ちょうどファッションや遊びにも興味が出てきた時だったので・・・」
そして、高校2年の時に美容師になろうと決意する。
「理由は、なんとなくですよね。今みたいに美容師がファッショナブルであるとか、そういうものではなかったので。大学行かないなら、職業はこれとこれとこれしかないよね、みたいな感じでした。今みたいに「夢を持って」みたいなのはなかったですし、有名な美容師さんは誰も知りませんでした」
北海道から東京へ
なんとなく美容師を志した高木は、高校卒業後に東京にある山野美容専門学校に入学する。
「最初は札幌の学校でいいかなと思っていたのですが、「勉強するなら東京に行け」と周りの大人に言われて東京の学校に行きました。周りの大人がお膳立てしてくれましたね」
周囲の大人のサポートもあり、生まれ故郷の北海道を離れて、東京での新しい生活がスタートした。
「当時は風呂なしでトイレが共同の、寮みたいなところに住んでいました。学生時代はバイクのチームを作ったり、渋谷に行ったりとよく遊んでいましたね(笑)。もちろん、学校は真面目に通っていました」
大人気サロンへの就職
当時の専門学校は1年制。秋には就職先を決める必要があった。
「一番流行っていると言われて、SHIMAに入りたいと思いました。昔から、一番流行っているとか、一番凄いであるとか、そういうナンバーワンのお店に入りたいという気持ちはあったので・・・。それからは、SHIMAに入るためにはどういう服装をしたらよいのか等、色々と研究しました。1000人以上の応募があり、25名ぐらいしか受からなかったと思います」
努力の結果、凄まじい倍率の中を突破して高木はSHIMAに入社した。
「今でもやっていることは同じですよね。頭を使って、どうしたら相手が求めているものに応えられるのかを考えるということです」
なんとなく美容師になろうと東京に出て来て1年、誰もが羨む人気サロンに就職が決まった。ついに激動の美容師人生の幕が開けた瞬間だった。
Vol.2に続く
表参道にある美容室Gratiiの統括ディレクター・足立孝史。素人にも分かり易い解説と直筆のイラストが加わった彼のブログは、読者から絶大な人気を誇り、アメブロのジャンル別ランキングで1位になることも少なくない。最近ではブログで用いている独特なキャラクターをLINEで販売したりと、既存の美容師の一般的なイメージをことごとく覆す。それは天賦の才かそれとも努力の賜物か。足立の過去、現在、未来からその才能の源を探り出す。(敬称略)Gratiiの統括ディレクターに
運営をグループに任せるようになった足立だが、結婚を境に意外な転機が訪れる。 「今はどうか分かりませんか、所属していた親会社は家族の時間を作るのが難しい環境にありました。有名になりたいと思う気持ちが大きい人にはすごくいい環境だったと思うのですが、結婚をして家庭を省みる必要が出てきた自分にとってはかなり厳しい環境でした。 仕事に対するスタンスって歳を重ねるごとに変わってくると思いますが、当時はその過渡期でしたね」
足立流SNSとの付き合い方
今がとても充実しているという足立。LINEスタンプを販売しているのもその証拠かもしれない。ちなみに、LINEスタンプを作って販売しているのは完全に自己満足とのこと。

ずっと美容師でいたい
これから美容師に求められるスキルとして、足立は「自己プロデュース」が必要だと主張する。 「それしかないと思います。技術が下手でも、自分自身を外に上手に見せる方法がないと何の意味もないですよね。今までは、いかにカットに再現性があるかとか、いかに良い接客ができるかが大切でした。もちろん、これらは今でも大切です。 しかし、今は外に対して情報発信ができないとお客様がまず来ないですね。昔と違って、今は雑誌に掲載されたからといってお客様は来ないですから。各個人がそれぞれ情報発信してお客様を呼ぶ必要があります」

完

理想と現実の狭間で過ごした大阪時代
退学の危機にありながらもなんとか福岡の美容学校を卒業した足立は、大阪のサロンに就職する。 「本当は東京のサロンに行きたかったんです。雑誌の仕事とかやりたかったので。でも落ちてしまったんです。そんな時に、大阪の有名なサロンを学校の先生に勧められて入社しました」
満を持して東京に
技術の習得のためにそのサロンに籍を置いていたが、その技術はもう身につけた。これからはスタイリストとして東京で活躍したいという思いを胸に、足立はついに東京に行く。 「東京に出てきたときは、友達の家に滑り込んで4人くらいで住んでいました。仕事も何も決まってないのに東京に出てきましたね。そこから仕事を探してました。もう直接お店に電話しましたね」
人生最大の挫折
トータルビューティーを売りにしたそのサロンは、今まで足立が経験したことのないほど大きなサロンであり、そこで初めて挫折を味わうことになる。 「なかなか認めてもらえなくて悔しかったですよね。技術的なこともそうなのですが、全てですよね」 それでも諦めずに働き続けた結果、足立はグループ傘下の美容室の代表に上りつめる。しかし、経営が苦しい時期が続き、グループに吸収すれるという残念な結果になった。最大の原因は人員不足。もともと最初から足りない人員でお店の売上を上げなければならないという相反する状況では、いくら足立でもどうすることもできなかった。
地味なシュート練習が好きだった、少年時代
あまり記憶にないという、故郷の大分県での幼少期。生まれは高知県、育ちは大分県の豊後大野市。姉と妹に挟まれ、特に何もない田舎で育った。 「何でもかんでもモノを分解してしまう子供でしたね(笑)。なんでこうなってるのだろうという疑問を元に、その仕組みを知るために本当にあらゆるものを分解していました」
人生を変えたアルバイト
部活動にのめり込んでいた高校時代に、その後の足立の人生に大きな影響を及ぼすことになる、とあるアルバイトに出会う。 「高校時代に美容室でアルバイトをはじめました。夫婦で経営しているセット面が3つぐらいの小さなサロンで、普通の田舎のサロンでした」
高校を卒業して、福岡の美容学校へ
高校を卒業した足立は、福岡の美容学校に進学する。東京や大阪の美容学校という選択肢はなかったという。 「微妙に近いし微妙に遠いしという感じで、福岡の美容専門学校に行くことにしました。家を出たかったというのもありました。大分はすごく田舎なので、あんまり遠くに行くという頭はなかったですね。福岡で十分遠いみたいな。当時は福岡で十分でしたし、東京は遠すぎて「東京ってなに?」という感じでした」
美容業界誌から一般誌まで、ページをめくれば彼の名前は必ず見つけられるだろう。その名は、エザキヨシタカ。サロンワークに加え、オンラインセミナーを開催し、ファッションブランドを展開し、イベントも開催する。美容業界の救世主か、それとも稀代の傾奇者か。大胆かつ謙虚な、美容業界を席巻する若き改革者の真実に迫る。(敬称略)
若い時にすべきこと
2009年に原宿にオープンした美容室grico(グリコ)。今では、全国から働きたいという美容師や美容学生が集まってくる。十数年前には、エザキも福岡で将来を夢見る美容学生だった。そんな美容学生に対して、エザキ流のアドバイスをもらった。
「美容師は人と人が関わる仕事なので、誰かのために何かしたいという想いを強く持つといいのかなと思います。それと、夢は大きくていいと思いますが、それが自分のことだと結局誰もその人に興味を持たなくなってしまうので、誰かのために何かをしたいという気持ちを大切にしてほしいですね。好きという気持ちがあれば相手も好きになってくれますし、それがないと結局何事もうまくいかないので。
あとは、嫌なことから目を背けずに努力してほしいですね。ワインディングが苦手という人は、練習してこなかったから苦手なわけで、そこは目を背けずに努力してほしいと思います」
客単価と生涯家族
せっかくなので、これからの美容師に求められるものついても聞いてみた。
「よく客単価と言いますが、それだけだと目の前の数字との戦いになってしまいます。しかし、お客様を本当に喜ばすことができて、心で繋がることができれば、そのお客様とは生涯家族になれます。それ以上の価値が生まれます。
例えば、もしお客様が偶然にもディーラーさんだったら、一緒に製品作りましょう、セミナーやりましょうとなるかもしれない。そこで利益が生まれれば、お互いに客単価以上の価値が生まれます。幸せの共有ができます。美容師は、もっと生涯家族ということを強く意識すべきだと思います」
「家族」の幸せのために
これまでも、またこれからも走り続けるエザキの目指すところはどこなのか。
「大先輩には「終身雇用とか簡単に言うものではないよ」とご指摘を受けるのですが、会社(=家族)としては目指して行きたいなと思っています。それと、美容師が、誰から見てもかっこいいと思える職業にすることができればいいですね。」
gricoのスタッフをはじめ、お客様やgricoに関わる全ての人のことを、エザキは「家族」と表現する。そんな「家族」を本当に大切にしているからこその目標である。
最後に、「エザキヨシタカにとって美容師とは?」という質問をしてみた。
「僕の全てですね。髪だけでなく、人の人生とか魂とかまで綺麗にできる職業なのかなと思います」
美容業界の改革者は今日も日本全国を忙しく飛び回り、どこまでも謙虚に、そしてどこまでも誠実に仕事と向き合っている。彼の愛する「家族」のために。
完