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池上敦〜生涯一現役として生きていく Vol.3〜

渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)

自分へのミッション

意識を高く持つことを常に心掛けてきた池上。自分の人生設計についても細かく決めていた。 「何歳までに何をするというのを決めていましたね。自分へのミッションみたいな。22歳までにスタイリスト、25歳までに店長やディレクターなどの管理職、30歳までに独立、と決めていました。僕は20歳になる年に入社しているので、ちょうど10年で独立しようと考えていました」 自分へのミッションを課した池上だが、努力の甲斐もありその通りに実現して行く。 「すべて順風満帆でしたね。ただ、独立に際してHEAVENSにお世話になったという気持ちが強かったですし、筋を通したいという思いがありました。入社のときに独立の話はしていたのですが、自分の実力も含めてHEAVENSにしっかり貢献できて、かつ他の後輩たちが夢を見れる形で独立したいと思っていました」

渋谷にBALLETオープン

お店の一部を譲り受けるという形で、32際の時についに独立。渋谷に「BALLET」をオープンさせた。 「独立してからは、やはりイメージしていたものと違うと感じることはたくさんあります。認知度があるお店から独立した人なら一度は感じることかもしれませんが、その店の庇護の下に自分がいたというのを再認識しましたね。ある意味、これがゼロからの本当のスタートなのだと思いました」 独立したからこそ悩むこともたくさんある。しかし、後悔は微塵もしていない。 「もちろん、僕は独立したことに関して何も後悔はないのですが、仮に前のお店に残ってずっと働くというルートもあっただろうなというのは逆に考えますね。オーナーになると色々と出来なくなることがありますから。技術を突き詰めようとした場合には、やはりオーナー業をやりながらでは厳しい部分がありますから」 順風満帆な美容師人生を歩んで来た池上にとって、これまで挫折をしたことはあるのか聞いてみた。 「かなり順風満帆でしたので、正直ないです(笑)。ただ、挫折というほどの大きなものはないですが、それに近いものは毎日感じています。「自分はまだ下手だな」とか、「もっとこうしてあげられたのに・・・」とかは毎日ですね。100点の日は無いですね」 悩んで努力しているからこそ、順風満帆なのだ。 「毎日試行錯誤を繰り返しています。自分は完璧だからと思った瞬間終わりだと思いますし、まだ発展途上だと常に思っています。勉強や研究は日々続けています。僕のこの金髪もおしゃれだからやっているだけではなく、薬剤研究のためです。自分の髪なら、日々の生活も含めて変化が分かりますから」

生涯一現役として

渋谷を拠点としているBALLETだが、今後は郊外にも進出していく予定という。 「オーナー業的には、店舗を増やしたいというのはありますね。すごく大きな店でインカムを使用して働く店よりも、スタッフやお客様の顔が分かるお店が好きなので、そのようなサイズのお店を作りたいです。イメージ的には、渋谷や原宿以外の郊外の街で、地域一番店のお店を作りたいと思っています」 オーナーだからといって、美容師としての池上の旅はまだ終わらない。 「美容師はお客様に直接関わって初めて成立する職業であり、今まで担当してきたお客様が高校生から主婦になるみたいな、長いお付き合いをさせていただける仕事です。そんなお客様が一人でもいるうちはハサミを置かないでおこうと思っています。生涯一現役というのは、オーナー業をする傍でも貫き通したいなと僕は思っています」 全てを予定通り叶えて来た池上なら、きっと実現するだろう。

渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)

意識高い系の学生

日本美容専門学校に入学したその日に、手当たり次第に美容室に飛び込んだ池上。その情熱に応えるオーナーも確かに存在した。 飛び込んだ美容室の中には、「お前面白いな」と可愛がってくれるオーナーさんも何人かいました。「今度の土曜日忙しいから来なよ」と誘ってもらって、タオル洗いや床掃きなどをやらせてもらいましたね。僕自身お金は要らなかったのですが、オーナーさんの好意で幾らか貰ったり、食事をご馳走して貰ったりしました。今で言うところの、意識高い系ですね(笑)」 一見クールに見える池上だが、まさかの意識高い系の学生だったとはなかなか想像がつかない。 「今考えると、気持ち悪いぐらい真面目というか、前向きでしたね。高校まではチャラチャラしていたのですが、美容師でやっていくと決めたのでしっかりやらなければという意識が働いたのだと思います。美容学校の中でも、意識高い系で有名でしたから(笑)」

HEAVENSに入社

そんな意識高い系の学生だった池上にも、ついに就職の時が迫っていた。 「30店舗くらい見学に行き、そのうち5店舗でバイトっぽいこともさせて頂きました。勝手に自分の中で知った気になっていましたね。自分が詳しいので、同級生に「この店はこんな店だよ」と教えてあげたり、頼まれて志望動機や履歴書を書いてあげたりとかしていました」 様々なサロンを見学して悩んだ挙句、池上はHEAVENSに入社する。 「自分が就職する際に重視していた点は、大規模なお店ではないという点と、作っているものが話題になっているか、もしくはこれからきそうだなという点でした。そこで、美容師の間で話題になっていたHEAVENSに入社しました」 HEAVENSに入社した池上を待ち受けていたのは、社会の厳しさだった。 「最初は鼻をへし折られましたね(笑)美容学校の中では成績も良かったですし、美容室でアルバイトしている経験者ということで、自分にかなり自信がありました。ところがいざ働き始めると、時代のせいかもしれませんが、褒められることなどないわけです」 誰しもが通る社会人としての洗礼。これまで何事も器用にこなしてきた池上も、決して例外ではなかった。

天才ではない自覚

「自分は器用だと思っていたのに、先輩たちの中にはまるで化け物のような器用な人がいるわけです。そこで初めて、自分は天才ではないと自覚しました。正直、美容学生の頃は少しだけ自分のことを天才だと思っていましたので(笑)」 これまで順調に歩んできた池上にとって、井の中の蛙を実感した瞬間だった。 「平均点が50点なら、僕は70点の男なんです。100点はなかなか取れない人間なので。何でも平均以上に器用にできるから、突き詰めない部分がありました。しかし、結局ずっとこの先やっていくのなら、当然ですが突き詰める必要があるんですよね。どう見ても自分より練習していない人間が、自分よりスイスイ上達して行くのを見たときに、「これはもうやるしかないんだな」と覚悟を決めました」 覚悟を決めた池上。そこからは一心不乱に練習した。 「人よりも多く練習しないと天才たちと戦えないと、心の中で追い込んでいました。ひたすら練習ですね。当時は、同期がみんなでご飯食べに行くときにも「僕は練習あるから」と言って断っていました。今考えれば、そこは行けよという感じなのですが・・・笑」」 そんな努力の甲斐もあり、美容学校の同期の中でスタイリストになったのは一番早かった。また、名前が出る撮影に参加したのも一番早かった。努力の結果が結実した瞬間だった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)

アルバイト三昧の青春

池上は埼玉県戸田市出身。中学時代は水泳部で、関東強化選手の合宿に参加するほどの腕前だった。 「上級生も少ないし楽な部活だろうと思って、友達を誘って水泳部に入部しました。しかし、僕らの年から練習がすごく厳しくなり、最終的には関東大会に出場するくらいになりました(笑)」 中学校を卒業すると、地元の高校に進学した。 「高校は最初からプールのない高校に行きました。プールがある高校に行くとまた水泳をやらされる恐れがありましたので・・・」 高校では部活はやらずに、バイト三昧だった。 「最初はロイヤルホストのキッチンで働いていました。しかし、あまり稼げなかったので、その後に倉庫とかで肉体系のバイトをしました。交通整理やスーパーの品出しもやりましたね」

美容師になる決意

高校1年の終わりの進路を決めるときに、現在の美容師という職業との接点を持つ。 「中学時代は学校の先生になろうと思っていましたが、高校1年の終わりの進路を決める際に、「こんなに学校が嫌いな人間が先生になってはいけないな」と考え直しました。そして、当時自分が知っている職業を全て紙に書き出してみました。サラリーマンやプロ野球選手とか・・・。そして、興味がない職業をそこから削除して行った結果、残ったのは美容師と調理師と消防士でした」 最終的に美容師になると決めた池上だが、親や教師からは反対された。 「僕が高1の時はまだカリスマ美容師ブームとかはなく、美容師になると言うと周囲に止められました。しかし、直接的に「ありがとう」と言われる仕事をしたかったですし、手先も器用だったので美容師になろうと思いました」 美容師になることを決めた池上は、さっそく美容室でアルバイトを始めた。 「本当はダメですけど、当時はインターンという形で働いていました。シャンプーしたり、カラーしたりしていました。パーマの練習もさせてもらいましたね。結局、高校の2年間と専門学校での1年間で、計3年間働いていましたね」

皆勤賞だった専門学校生時代

高校を卒業した池上は、日本美容専門学校に入学した。 「自宅から近いというのもありましたし、おしゃれで自由な雰囲気だったので日美に入学しました」 念願の美容師になるための第一歩を踏み出した池上。学校には真面目に通った。 「高校時代は割と自由な校風だったので、天気のいい日は授業をサボってどこかに出かけたりだとか、そんな感じでした。しかし、日美時代は親に学費を負担してもらっていたこともあり、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。自分の中でのけじめのような感じですね」 昼間は学校、夜は高校時代から働いていた美容室でアルバイトという生活が続いた。 「当時は、「働くなら東京の美容室で」と決めていました。そこで、日美に入学したその日の帰りに、自分の連絡先と経歴を書いた手書きの名刺を持参して、原宿のいくつかの美容室にアルバイトをさせてくれと飛び込みました。 美容学校に入学したその日に、飛び込み営業。すごいバイタリティの持ち主である。 「お金は要らないのでお手伝いさせてください」と、何十軒と周りましたね。当時は有名な美容室とか知らなかったので、手当たり次第に美容室を探しては飛び込んでいました。 いわゆる「意識高い系」学生の急先鋒だった池上。その勢いはさらに加速していく。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。

運命の出会い

日本に帰る直前、偶然にも以前日本で勤めていた美容室の店長から、一緒に働かないかと誘いを受けた。 「日本に帰り、誘いを受けて東京の代々木の美容室に1年ぐらい勤務していました。そして、27歳の時に渋谷のTSUTAYAで、以前同じお店で働いていた現greenオーナーのHIROMIと偶然会いました。そこから色々と話をしたりするうちに、一緒に働きたいと思い入社しました。入社した時はまだgreenがオープンして間もない頃でしたが、こんなに新規が来るお店があるんだと衝撃を受けたのを覚えています」 IKUMAがgreenに合流してから11年が経つ。現在は海外の店舗も含めたgreen全体10店舗の統括マネージャーとして、その辣腕を振るっている。持ち前の行動力と器用さで何でもこなしてきたIKUMAだが、全てが順風満帆だった訳ではない。当然のごとく、挫折も味わった。 「美容学生時代から、自分は割と何でも器用に出来てしまうタイプでした。周りを見ていて、「何でこんなことが出来ないのだろう」と思っていたぐらいですから。 そんな余裕も、最初に入社した有名美容室で粉々に打ち砕かれた。

挫折を乗り越える方法

「最初に入った美容室の同期の仲間を見て、本当に驚きました。その美容室はかなり有名だったので、全国から腕に自信がある猛者が大集結して、まるで甲子園のような感じでした(笑)。そこで初めて、自分にも出来ないことがあるんだと挫折しましたね。それと、その美容室の先輩方を見て、こんな器用な人たちが世の中にいるのかとビックリしました」 では、どのように挫折を乗り越えたのだろうか? 「やはり、練習ですよね。その時の先輩方を見て、「こんなに練習しているんだ!」と驚きました。自分も学校でそれなりに練習していたのですが、そんなレベルの話ではなく、それこそ皆さん夜中まで寝ずに練習して、その後に備品の発注をして、朝の5時や6時から撮影が始まる、というような感じでした」 自分より上手い先輩たちが死に物狂いで練習してるその姿を見て、感化されないはずがない。 「やはり、先輩方のそのような姿を見ていたので、やるしかなかったですね。平日は朝から撮影、営業、練習、発注のルーティンで、休日は講習に行く。怒涛の毎日を乗り切るのに必死で、ある意味どうやって挫折を乗り越えようかと考える暇もなかったですね。結果的に、その中で徐々に色々な事が出来るようになっていき、自分にも自信が付いたという感じです」

現在の美容業界とこれからの自分

ずっと美容業界の最前線にいるからこそ、美容業界の移り変わりを肌で感じる。 「今の美容業界に関して思うのは、昔に比べて環境が整っているところとそうでないところの差が激しくなっているということです。昔は独立しないと美容師としてやっていけないという感じでした。しかし、現在では弊社もそうですが、生涯雇用も可能なシステムを作り始めている美容室も多いと思います」 そして、時代が一周して、自分たちがこれまでやっていたスタイルがまた戻ってきていると感じている。 「最近表参道では昔自分やHIROMIもやっていたような懐かしい光景、先輩後輩で朝方まで飲みながら美容を語っている若い美容師さん達がとても増えた様に思います。凄くいいですよね(笑)。SNSなどの個人の発信力の重要性は絶対ですが、サロンワークでは個人だけでの力って限界があると思うんです。こういう根性系の若い美容師さんが増えてくるのも必然かなって思いますね」 greenはとどまることなく進化して行く。統括マネージャーとしての責任は重大だが、IKUMAの行動力からすればきっとやり遂げるだろう。 「統括マネージャーとして意識していることは、スタッフを平等に見るということですね。やはり、下の子たちは「見てもらいたい」という意識がすごく強いと思いますし、表立って頑張っていることをアピールできる子と、それが出来ないけれど頑張っている子も、平等に評価しなければならないと思っていますので」 greenは今年で13年目を迎える。 「最初は7人いるかいないかの小さなお店でした。それが現在では10店舗、スタッフも10倍以上まで増えました。 その当時できなかった結婚手当・産休・育休制度・賞与なども整備でき、更には近い将来「退職金制度」も整備したいと思っています。 スタッフ同士が家族と思い、みんなが安心して美容に集中できる環境づくりの為にグループ全体を大きくしたい。それが僕のビジョンです」 不安や挫折があったとしても、一生懸命頑張れば道は開ける。極めてシンプルな真理であるが、IKUMAを見ているとそう考えずにはいられない。

green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)

諦めきれなかった夢

美容学校を卒業して念願のサロンに就職したにもかかわらず、入社初日に寝坊をして遅刻をしてしまったIKUMA。波乱万丈の美容師ライフがついに始まった。 「遅刻をしたおかげで、毎朝ドブ掃除のようなことをさせられました(笑)。周りからは、「あいつはすぐ店を辞める」と言われていましたが、ずっと続けました。当時は毎日のように撮影に同行したり、休日は先輩方が地方でセミナーや講習の講師をする際にアシスタントとして同行していたので、休みなく働いていましたね」 そんな休みなく働き続けたIKUMAだったが、スタイリストになる直前にそのサロンを退社した。 「小学生くらいからずっと思い描いていた、「海外に行きたい」という夢を諦めきれませんでした。ただ、美容は日本でやろうと決めていたので、期間を決めて海外に行こうと考えていました」 行こうと思った場所はニューヨーク。しかし、ニューヨークに行くにも資金が足りない・・・。コールセンターでアルバイトをしたりしながら、ニューヨーク行きの資金を貯めた。 「当時、ニューヨークに行くなら100万円は持って行くべきと言われていたのですが、結局40万円を持って行きました」

理想と現実の狭間で

持ち前の行動力を発揮して、何のツテもなく単身ニューヨークに渡った。 「海外には美容師の資格は無いと思っていたので、とりあえず行ったら働けるのではないかと本気で思っていました。家も決めないで行ったので、ユースホステルに寝泊まりしながら、自分で履歴書を書いて美容室をまわっていましたね」 自分の足で美容室を探したが、就労ビザがなかったので結局は働けなかった。 「それでも、ニューヨークの空気感などを肌で直接感じることができたので、非常に有意義な時間でした。英語も完璧に出来たわけではないので、電子辞書を隣に置いて話していましたね」 捨てる神あれば拾う神あり。ニューヨークで知り合った人間から、「英語は一緒なんだからカナダに行ったほうがいいよ」とカナダに行くことを勧められる。 「それを聞いて、すぐに大使館に行ってビザを取り、ワーキングホリデーを利用してすぐにカナダに行きました。カナダに行ってからは、ニューヨークと同じようにまた履歴書を持って美容室を何件も訪ねて、ということをしていました」

たどり着いたカナダ

I苦労の末、ついにカナダで働くチャンスを手に入れた。 「カナダで知り合いに誘われてとあるパーティーに参加したのですが、その中に美容室のオーナーがいて、「ウチで働かないか?」と誘ってもらいました」 ついに、カナダのトロントでスタイリストになった。 「実際に働くと、やはり英語が完璧ではなかったので、お客様と意思疎通が取れなくてカラーを間違えてしまったり、というミスはありました。しかし、周囲のサポートのお陰で何とかやっていけましたね」 休みの日にはカナダを思う存分満喫した。 「その当時はボリビア人と一緒に住んでいたのですが、休みの日にレンタカーを借りてニューヨークまで行ったりとかしましたね。彼のナビが下手すぎて、通常は1日で行けるところを4日かかったりとかしました(笑)。でも、すごく楽しかったですね」 単身海外に渡って1年半が経過した頃、IKUMAは日本に帰ることを決意する。 「海外に行ったのは、単純に子供の頃からの憧れだけでした。ですので、自分の中では海外にいるのは最初から2年以内と決めていました。美容をやるなら絶対に日本でと思っていたので」 日本に帰ることを決めたIKUMAだが、その日本で現在につながる運命的な出会いが待っていた・・・。 green表参道を筆頭に、海外を含め10店舗の美容室を展開するグループの統括マネージャーを任されているIKUMA。常に自分と向き合い、自分の気持ちに正直に生きてきたIKUMAが語る、これまでとこれから。(敬称略)

きっかけはバミューダトライアングル

埼玉県の所沢市で、男ばかりの三人兄弟の末っ子として生まれた。地元の公立の小学校、中学校に通っていたが、高校は東京の渋谷だった。しかも、ロシア語科だった。 「小学3年生の時に「魔のバミューダトライアングル」という本を読んで感想文を書きました。そして、世界は面白いなと思っていた時に、父が海外の情報をたくさん教えてくれて、さらに中学生になった時にオリンピックでロシア人の通訳が足りていないというニュースがありました。そのニュースを聞いた時に、これからはロシア語で飯を食っていけるのではないかと思い、ロシア語科がある高校を探しました」 なんとも不思議な中学生だが、その実行力は中学生離れしている。そして、埼玉の所沢から渋谷の高校に毎日通う生活が始まる。 「その高校には校庭がなかったため、部活もありませんでした。語学にはまっていたので、当時はロシア語が話せましたし、ロシアに留学もしました。後は、渋谷に学校があったということもあり、毎日渋谷で遊んでいましたね。友達とイベントを開催したりして、楽しく過ごしていました」

自己分析の結果、美容師に

語学に熱中していたIKUMAだが、なぜ美容専門学校に行くことを選んだのだろうか。 「建築士の父の影響で昔から建築に興味があったので、大学に進もうと思っていました。しかし、高校時代に外国の先生に自己分析の大切さを教わり、新宿の紀伊国屋書店で自己分析の本を自分で買ってきました。その本は英語で書かれていたので、辞書を片手に読み進んで行くと、自分にはサービス業やものづくりの仕事が合っているという分析結果が出たのです。その中に、たまたま「ヘアドレッサー」というキーワードがあり、美容師になろうと思いました」 自己分析の本に従い、IKUMAは山野美容専門学校に進学する。 「美容学生時代はかなり真面目でしたね。最初は美容にそこまで興味がなかったのですが、いざ入学して授業を受けると我ながらこれは得意だなと思いました。ほとんど美容オタクのような感じでした(笑)」 初めはそこまで興味がなかった美容の世界だが、学校の授業が簡単に思えるほどIKUMAは器用であったため、学校が面白くなっていった。 「この容姿からは考えられないくらい、その当時は優等生でした。「なんでこんな簡単なこともできないのだろう」と、周りの友人を見て思ってしまう感じでしたね」

 伝説の始まり

学校に真面目に通いつつ、新宿でバーテンのアルバイトをしながら、2年間の学校生活も終わりを迎える。 「当時は美容ブームの最後くらいでした。テレビでシザーズリーグを見て、そこで初めて美容に興味が出てきて、こういうサロンで働いてみたいと思いました」 どうしても行きたいサロンがあり、IKUMAはそのサロンの入社試験を受けた。他のサロンはどこも受けなかった。そして、100倍近い倍率を見事クリアして、無事にそのサロンに合格した。 「これは後から先輩に聞いた話ですが、入社試験で集団面接があり、チームを作ってある課題を与えられるのですが、そこでリーダーになると受からないのが普通だったらしいのです。しかし、僕はまとめるのが得意なのでリーダー役をしたところ、それがうまくはまって受かったみたいです」 希望のサロンの入社試験に無事に合格したIKUMAだが、入社初日から前代未聞の伝説を作る。 「入社初日に、思いっきり遅刻しました。前の日に緊張していて寝れなくて、そのまま寝落ちしてしまい、朝礼が終わるギリギリくらいに職場に着きました。それから3ヶ月間、毎朝6時から1時間半、店の周りの排水管を掃除をするという日々から僕の美容師ライフが始まりました(笑)」 まさに波乱万丈の美容師人生の幕開けだが、これはまだほんの序章に過ぎなかったのである。

続く

「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)

各世代に伝えたいこと

美容業界を牽引し続ける高木だからこそ、彼の具体的なアドバイスを聞きたいという読者も多いと思う。そこで、各世代別に対するアドバイスを聞いてみた。 「美容学生だったら、SNSのフォロワーがどうしたら増えるのかをよく考えて、友達を増やして、よく遊んで欲しいですね。アシスタントは、今は休みも多いし自由な時間が多いのでもっと練習をして欲しいですね。今は僕らの時より休みが月に4日くらい多いと思いますが、その時間を遊ぶのと練習するのとでは、年間で換算すると何十時間と差がついてしまいます。 スタイリストに関していうと、30歳過ぎのスタイリストは時代に上手く対応して行かないと、今の20代のスタイリストにすぐにやられてしまうと思います。SNSに弱いとか言っている場合ではないですね」

20代のスタイリストはカットの技術が大切

20代のスタイリストが最も重視すべき点は、カットの技術であると高木は言う。 「他の店のことはあまり分かりませんが、20代のスタイリストはカットに集中している人が少ないですね。今は薬剤の質が良くなっていて、ヘアケアの時代です。カラーが上手いと売れてしまいます。しかし、そこでおさえたお客様も必ず歳をとり、40歳を超えてくると髪に色々な悩みが出て来ます。その時に大切なのが実はカットなのです」 どれだけ薬剤の質が向上しようとも、カットの重要性は変わらない。 「スタイリストの年齢とお客様の年齢はおよそ比例します。たとえば、25歳のスタイリストなら、25歳前後のお客様が多いと思います。そして、そのスタイリストが40歳になった時に新規のお客様を取るのは困難なので、25歳の時のお客様を40歳まで繋ぎ止めておく必要が出てきます。その時に、お客様の髪の難しさのレベルも上がるのです。先ほど言ったように、40歳を超えると髪の悩みが色々と出て来ますから」 まさに高木ならではの、核心をついたアドバイスである。20代のスタイリストは是非参考にしてほしい。 「大人の女性からよく聞くセリフがあります。「あの人にずっと切ってもらっていたけど、実はあまり上手くなかった、気付かなかった」というものです。カット料金を上げることができるスタイリストなのか、失客してしまうスタイリストなのかの分かれ目は、ヘアケアでもカラーリングでもなんでもなくて、カットの技術だと思います。これは、僕も若い頃は気付きませんでしたが、早めに気付いて対応したほうがいいと思います」

業界を変革するために

常に全力疾走で美容業界の中心を走り続けてきたからこそ、現状の美容業界に対する憂いと想いは誰よりも熱い。 「不動産やITだったり、業界によっては日本は盛り上がっていますが、美容業界は違います。昔ながらの伝統的な美容室をやっていて稼げている人がいないということは、何か問題があるということだと思います。料金体系なのか雇用体系なのか、何なのか分からないですが・・・。それを僕は変えていきたいですね」 様々な美容室からなる東京ブレンドを設立したのも、発言権を得て業界全体を変革するため。この業界を良くしたい。その想いと実行力は誰にも負けない。 「美容業界を全方位から底上げしていきたいと思います。業界が変わるきっかけが作れれば、僕がいた意味があるのかなと思いますね」 彼なら、他の業界で生きていたとしても必ず成功していたに違いない。高木裕介の今後からますます目が離せない。

「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)

新たな出会い

人気サロンのSHIMAで働く切符を手に入れた高木だが、1年間で退職した。 「当時は自分がチャランポランだったので、ついて行くことができませんでしたね」 その後に、別の店舗で充実した美容師ライフを送っていた高木だが、当時のカリスマ美容師ブームが彼の心を刺激した。 「その頃にちょうどカリスマ美容師ブームがあり、どうやらすごく稼ぐ人たちがいるらしいと聞いて、そのようになりたいと思いました。そして、色々と考えた結果、宮村さんについて行くことにしました」 熟考の結果、宮村浩気氏が立ち上げたアフロートのオープニングスタッフとして参加した。 「当時は、がむしゃらに売れることしか考えていませんでしたね。余計なことは何も考えていませんでした。給料がどうとか、休みがどうとかは考えたこともなかったです」 寝る間も惜しんで働き続きた高木だが、ついに独立を決意してアフロートを円満退社する。 「宮村さんとは今でも一緒にヘアショーのステージに立たせてもらったり、一緒に旅行に行かせてもらったりしています。今の自分があるのも宮村さんのお陰だと思っていますので、本当に感謝しています」

U-REALMの立ち上げ

アフロートを退社した高木は、U-REALMを立ち上げた。 「立ち上げ当初はすごく順調でしたが、当時はどんぶり勘定で自分も子供でしたので、だんだん業績が悪化してきました。同時に、自分もヘアメイクの仕事が増えて店を見れなくなって、色々と問題が起きてスタッフが辞めていってしまいました。あの時の自分を今になって思うと、自分のキャリアしか考えていなかったですね。自分がキャリアアップして有名になってとか、そういうことばかり考えていました」 その結果、スタッフがどんどん退社していくという事態が発生する。 「ヘアメイクの売り上げは凄かったのですが、それだけ働いても利益が出ないという、そんな状況でした。そこで、店を立て直すためにヘアメイクをやめました。ヘアメイクやめるという覚悟を決めた時に、自分のキャリアはもういいなと思いました。これからは経営者になろうと」

経営者として

高木が経営に没頭してからのU-REALMの快進撃はご覧の通りである。 「今は、スタッフの給料を上げられたり、休みを増やせたり、旅行に行かせられたり、決算賞与を出せたりする瞬間にやりがいを感じます。やはり自分は経営者なので・・・。 美容室が儲からないとか、美容師の給料が少ないというのは経営者の問題だと思っています。経営者がデザイナーを気取ってしまうと儲かる商売にはなりません。経営者は経営者です。経営者がデザインに没頭しすぎると、経営はうまく行かなくなりますね」 美容業界の今後を誰よりも案ずる高木だからこそ、美容業界の悪しき伝統を変えたいという気持ちは誰よりも強い。 「オーナーが潤わないと幹部も潤わないですし、幹部が潤わないととスタイリストも潤わないですから。今までの美容業界はオーナーしか儲からない世界でしたが、それを打開しない限り発展はないと思います」

Vol.3に続く

「高木裕介」という名前を聞いて、美容業界の人間ならば知らないものはいないだろう。タレント、モデル、メジャーリーガー等を顧客に抱え、ファッション誌、テレビCMのヘア&メイクも手がける。同時に、U-REALMグループのCEOとして組織を牽引し続けている。そんな稀代のカリスマ、高木裕介は今何を考え、どこに向かおうとしているのか?業界トップリーダーの過去・現在・未来からその秘密を紐解いていく。(敬称略)

きっかけは「なんとなく・・・」

高木は1977年8月15日に、3人兄弟の末っ子として北海道で生まれた。

「おかげさまで両親は健在で、兄が二人います。父親は、北海道開発建設局(※国土交通省の地方支分部局)で働いていました」

北海道で生まれ育った高木は、地元北海道の小学校、そして中学校に進学する。

「その頃は真剣にサッカーをやっていて、ポジションはミッドフィルダーでした。高校に進学した後もサッカーを続けていたのですが、あまりチームも強くなくて、だんだんと身に入らなくなってきました。ちょうどファッションや遊びにも興味が出てきた時だったので・・・」

そして、高校2年の時に美容師になろうと決意する。

「理由は、なんとなくですよね。今みたいに美容師がファッショナブルであるとか、そういうものではなかったので。大学行かないなら、職業はこれとこれとこれしかないよね、みたいな感じでした。今みたいに「夢を持って」みたいなのはなかったですし、有名な美容師さんは誰も知りませんでした」

北海道から東京へ

なんとなく美容師を志した高木は、高校卒業後に東京にある山野美容専門学校に入学する。

「最初は札幌の学校でいいかなと思っていたのですが、「勉強するなら東京に行け」と周りの大人に言われて東京の学校に行きました。周りの大人がお膳立てしてくれましたね」

周囲の大人のサポートもあり、生まれ故郷の北海道を離れて、東京での新しい生活がスタートした。

「当時は風呂なしでトイレが共同の、寮みたいなところに住んでいました。学生時代はバイクのチームを作ったり、渋谷に行ったりとよく遊んでいましたね(笑)。もちろん、学校は真面目に通っていました」

大人気サロンへの就職

当時の専門学校は1年制。秋には就職先を決める必要があった。

「一番流行っていると言われて、SHIMAに入りたいと思いました。昔から、一番流行っているとか、一番凄いであるとか、そういうナンバーワンのお店に入りたいという気持ちはあったので・・・。それからは、SHIMAに入るためにはどういう服装をしたらよいのか等、色々と研究しました。1000人以上の応募があり、25名ぐらいしか受からなかったと思います」

努力の結果、凄まじい倍率の中を突破して高木はSHIMAに入社した。

「今でもやっていることは同じですよね。頭を使って、どうしたら相手が求めているものに応えられるのかを考えるということです」

なんとなく美容師になろうと東京に出て来て1年、誰もが羨む人気サロンに就職が決まった。ついに激動の美容師人生の幕が開けた瞬間だった。

Vol.2に続く