田村千香〜セカンドステージの始まり Vol.3〜
美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)
紆余曲折を経て現在のtriccaに入社した田村。ついに理想の環境を手に入れた。
「当時は営業もすごく忙しかったですし、本当に自分の理想の形でした。あとは自分がやるだけだ!みたいな。そこでやっとスタイリストになりました」
様々な経験を経て、田村はついにスタイリストになった。さらには、母親にもなった。
「結婚して10年、子供が生まれて3年になります。結婚して、年齢的なことを考えるとすぐに子供が欲しかったのですが、仕事も楽しくなってきて、キャリアを捨てるのが怖かったというのがありましたね。美容師を離れることでどうなるのかが見えなかったので・・・。」
子供を育てながら美容師ができるのか?不安の方が大きかった。
「自分以外に時間を割く自信がなかったですね。子供の存在が分からないので、子供が欲しいけど後回しにしていた部分がありましたね」
そして、子どもが生まれて田村の生活も変わっていった。
「いよいよ子供が生まれて、やはり時間的な制限があるので大変でした。私のお客様はキャリアウーマン系の方が多く、仕事帰りにサロンに来るお客様がほとんどだったので不安が大きかったです」
そんな不安も、考え方を変えることで徐々に払拭されていった。
「子供を育てるのはすごく貴重な体験だと思います。担当できないお客様がいらしたり、時間の制限があるので教育か管理等、出来ることが限られてしまい、引け目を感じてしまう事も。しかし、このような経験できるのは女性しかいないですし、その方が人生的に豊かになるのかなと思います。美容人生としてはリスクになるかもしれないけれど・・・」
子供が生まれてから、仕事に対するスタンスも自ずと変化していった。
「私は、セカンドステージだと思っています。これまでの忙しい美容人生とはまた違ったステージですね。美容師という観点から見ると、マイナスの面もあるかもしれませんが、仕事と育児のバランスの良い生活になりました。今は、会社の理解とサポートがあるのでとても助かってます。また、これから先、女性スタッフには色々な働き方の選択が出来るように、ひとつの道しるべになれたらと思います」
若いスタッフに対しては、母親的な立ち位置になってしまうという。
「長い時間を共にしたスタッフにはつい厳しくしてしまいますが、若いスタッフには母親のような立ち位置になってしまいますね(笑)」
最後に、田村に将来について尋ねてみた。
「お茶菓子が出て来るような美容室をやりたいです。おばあちゃんになってもずっとやっていたいですね(笑)」
人並み外れた実行力を有する田村ならば、きっと実現させるに違いない。一昔前に比べれば、いわゆるママ美容師を取り巻く環境は劇的に変化している。今後も彼女の働き方から目を離せない。
美容専門学校を卒業して入社した、代官山の美容室。理想と現実の狭間で苦しんでいる中で、そのお店が白金台に移転するという話が耳に入った。
「白金台はコンサバ層というか、キャリアウーマン系のイメージだったので、ちょっと違うなと思ってそのお店を辞めました」
自分でお店に飛び込んで、面接をお願いして入社した代官山の美容室をやめた田村だったが捨てる神あれば拾う神あり。移転した美容室の後に居抜きで入った新しい美容室を仲介した不動産屋が、なんと田村の知り合いだった。それが縁で、同じ場所にできた新しい美容室で働いたのだ。なんという強運の持ち主。これで代官山で働き続けることができた。
「そのサロンは作品撮りをすごくやっていましたが、お客さんの数が少なかったのですごく大変でした。営業は暇だけど、モデルハントや深夜に撮影に行ったりと・・・。そこで人間的にも鍛えなおされたというか、プライドを捨ててでもやらなくてはいけないことに気付きました。教えてもらえない分、朝早く来て自主練したりとかしていましたね」
自分の想像と異なる日常に巻き込まれ、悩み抜いた結果、田村はなんとアパレルの世界に飛び込んでしまった。
「ファッションが好きだったと言うのもありましたし、モデルハントで仲良くなった友達がアパレル系だったと言うのもあり、アパレル業界に就職しようと思いました。美容師を続ける上で、気持ち的にもいっぱいいっぱいだったと思います」
田村はアパレルの会社で、アルバイトとして働いた。しかし、徐々に美容師に対する未練が押し寄せて来た。
「母からは、「美容師をやらないなら仕送りをやめる」と言われました。「それでもやりたいならどうぞ」と言われて・・・。その時に、このままアパレルの仕事を続けるのか考えました。正社員ではなくアルバイトでしたし、このままでは先が見えないなと」
そして、半年間アパレル業界で働いて、ついに答えが出た。
「美容室で働いているときは、カリキュラムがあって、それに合格して次に進むと言う積み重ねでした。しかし、アルバイトだと淡々と毎日が過ぎて行き、自分の成長が見えませんでした。そこで改めて、クリアする達成感というか、努力の大切さが分かりました」
紆余曲折はあったが、田村はついに美容業界への復帰を決意する。
「次に働くなら、カリキュラムがしっかりしている大手の美容室がいいと思っていました。それで、大手の美容室に就職しました」
美容業界に復帰した田村は、そこで切磋琢磨して腕を磨いた。そして、とあるきっかけで現サロンの代表と出会った。
知り合いが、現サロンの代表のお店で働いていて、「1回見に来ない?」と言われて行ってみたんです。そこで、代表を紹介されて、「私はあと1年でスタイリストになるんです」と言ったら、「うちだったら、半年でスタイリストになれるよ!」と言われて少し心が動いて・・・。それで、働いていたお店の店長に相談したところ、「応援するから、お前のやりたいようにやれ」と言って頂いて、そこから今のお店に移りました」
紆余曲折を経て、ついに田村は現在のtriccaに入社した。 美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)
生まれは栃木県。地元の小中高に通った。小学生の時から、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「幼稚園の頃から体が柔らかかったので、父の勧めで小学生の時に体操部に入り体操をしていました。
体操をしつつも、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「小学生の時から髪の毛を縛ったりするのが好きで、休み時間に友達の髪の毛を縛ってあげたりしていました。その頃から、将来は美容師になりたいなと思っていましたね」
その後、田村は地元の高校に進学した。
「高校時代は帰宅部でした。仲が良い友達と一緒に洋服を見に行ったり、ライブに行ったりとかしていましたね。それと、親戚の叔母が着付けの先生だったので、着付けを習っていました」
いよいよ進路を決める際には、田村は迷いなく東京の美容専門学校に行くと決めていた。
「もともと母が美容師になりたかったようで、何となく誘導されている感じはありましたね(笑)。「あなた美容師になったらどう?」みたいな。母親が賛成してくれたというのもありましたし、当時は美容師以外に他に職業が思いつかなかったですね」
高校を卒業した田村は、東京にある日本美容専門学校に入学する。
「校風が自由で、すごくオシャレに見えたため日本美容専門学校に入学しました。栃木から出て、埼玉にある親戚の家に居候させてもらっていました。自分で決めたことでしたので、学校には真面目に通っていました」
1年間が過ぎ、就職を決めるときがきた。
「ちょうど進路を決める頃に、父親が病気にかかったために、地元で就職先を探していました。そして、ある程度決まった頃に父が他界してしまいました。その後、卒業までに時間があったので色々考え、やはり東京に未練があったので姉に相談して東京に残ることにしました」
他の同級生は、すでに就職先が決まっている状態だった。東京に残ると決めてからは、アルバイトしながら就職先を探した。
「当時は代官山がすごく好きでした。田舎育ちというのもあったかもしれませんが、原宿とは違う、何か落ち着いているけど個性もあってみたいな・・・。よく学生の頃から来ていましたし、代官山の美容室で働きたいと思っていましたね」
持ち前の行動力で、田村はついに代官山の美容室で働く切符を手に入れる。
「飛び込みで入った美容室で面接をしてもらって、「いまは空きがないけど今後採用する予定があるから、シャンプーレッスンという形で来たらどう?」と誘って頂きました。それからは、週に1〜2回シャンプーレッスンで通っていました」
それから半年後、ついに空きが出たためその美容室に就職した。
「当時は自分が同級生と比べて遅れているのを知るのが嫌だったので、友達ともあまり連絡取らなくなってしましましたね。そのサロンはすごく小さいサロンで、教育カリキュラムや撮影とかもあまりなかったので、将来どうなるんだろうと思っていました」
同級生より遅れて就職したことに対する後ろめたさと、自分の理想像と現在の自分とのギャップに悩んだ。そんなとき、田村に転機が訪れる。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
資生堂美容技術専門学校を卒業した坂狩は、代官山の美容室に入社した。
「専門学校の1年生だった時にヘアショーのモデルをやらせてもらったのですが、そこでの縁で代官山のヘアサロンに入社しました。僕の中では幾つもサロンを受けるのは義理人情的にどうなの?という感覚がありまして・・。受けたサロン全てで「一番行きたいです」と言うわけですよね。それが嘘っぽいので、その代官山のサロンしか受けませんでした。
その代官山の美容室では5年間働いた。
「美容師になった瞬間に「ものすごい楽だな」と思ったのです。というのも、美容学生時代は学校に行って授業を受け、アルバイトをして・・・と、多くのことをやらなくてはなりませんでした。しかし、美容師になるということは、それだけ努力すればお金をもらえるわけですよね。24時間の使い方として、全ての時間を美容に使えると言うのはすごく楽だなと思いましたね」
そこからは、寝ても覚めても美容の仕事に熱中した。仕事が終わり、帰宅途中に他のサロンの明かりがついていると、また戻って自分も練習をした。
「1年目にできる最高のことは何かを考えて、それは努力の時間だと思いました。自分は表参道とかのスターサロンに就職しないで、一度逃げているので・・・。努力では負けられないという気持ちは持っていました。一番最初にサロンに来て、一番最後に帰るというのは当たり前でしたね」
努力の甲斐あり、3年3ヶ月でスタイリストデビューを果たした。また、1年目の途中からはサロン外の評価を求めて、様々な外部コンテストに参加し始めた。
「なけなしのお金で1眼レフを買い、投稿できる全てのコンテストに片っ端から投稿しましたね。すると、1年目の途中から掲載され始めました。当時はフィルムのカメラでしたので、現像代とかすごくかかりましたね(笑)」
5年間働いた後、坂狩はNEWS HOTELに移った。
「やはり、美容師として青山で勝負してみたいという気持ちがありました。5年前は、挑戦する前に諦めていたので・・・。メディアに出ているサロンならどこでも良かったのですが、NEWS HOTELから一番最初に連絡が来たので、そこに入社しました」
NEWS HOTELに入社した坂狩は、
「最初の頃は、当時の店長に「君本当にカットできるの?」と言われたりしましたね。アシスタントも自分より年上だったですし・・・。ただ、勝負すると決めた以上やらないと後悔するので、自己投資で作品撮りをバンバンやっていました」
その後、NEWS HOTELが「AnZie」に名前が変わるタイミングで、坂狩は代表に就任した。
「代表になり、サロン全体のバランスを見るようになりましたよね。スタッフの育成からサロンのブランディングまでトータルで考えるようにはなりました」
AnZieの代表になってからの坂狩の活躍はもはや周知のとおりである。ブレない信念でAnZieを牽引し続けている。
「今の時代、いくら上手くても知られていないと意味がない。そこでSNSを活用するのは必須だと思います。ただ、そこでキャッチした時にそのままリリースしたら意味がないわけで、受け皿としての技術が必要です。蛇口をひねっても受け皿がないとダメなので、この二つのバランスが今はすごく大事です。やはり、お客様が来た時に技術がなかったら意味がないですから」
美容師として、技術に関して誰よりも追求する姿勢は一貫している。
「SNSのおかげで発信は出来て当たり前になった。プラス独自性も出さなくてはいけない。加えて「技術」もちゃんとやらなければならない。そう考えると、今の20代はかなり大変だとは思います」
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「もっと美容師、美容室自体の可能性を膨らませたいですね。サロンが、サロンじゃない場であって欲しいというか。ライフスタイルプレゼンテーションができる場としてサロンが存在して欲しいです。視野を広くすれば、もっと新たな可能性が出てくると思うのです。視野を広く、様々なカルチャーを知るということは、学ぶということです。そういう美容師像と美容室像を創っていきたいですね」
ブレない信念で今日も走り続ける坂狩の背中に、美容業界の未来を見た気がした。
自分の仕事には飽きたくない。その思いで美容師になることを決めた坂狩。ついに、東京で美容師になるための新生活がスタートした。
「最初は、アルバイトしていた美容室にそのまま就職しようと思っていたのです。そしたら、親にものすごく反対されまして・・・。そして、「本当に美容師になるなら東京に行かなくてはダメなのではないか?」と親に言われて、「えっ、東京行けるの?ラッキー」というような感じでした」
東京の美容専門学校行くことを決めた坂狩。学校選びの基準は「東京」と言う名前が付くか否かという独特なものだった。
「特に学校を選ぶ基準とかこだわりはなかったのですが、はじめは東京美容専門学校を受けました。「東京」と名が付くので、同級生に東京に行くと認識されてチヤホヤされるな?と思って。しかし、そこは落ちてしまいまして・・・(笑)。それで、どうしようかなと思っていた時に、祖母が熊本で資生堂のチェーン店を経営していてゆかりがあったので、資生堂美容学校に決めました」
無事に資生堂美容技術専門学校に合格し、晴れて東京で学生生活が始まった。
「高校卒業した翌日に東京に出てきました。専門学校に行ったらアルバイトできないという噂を聞いていたので、引っ越し屋さんでアルバイトをしていました。東京に来てから3日後には、アルバイトを始めていました。多分、自分はアルバイトすることが好きなんだと思います」
資生堂美容技術専門学校に入学してからは、自分が描いていた理想と現実のギャップに直面する。
「自分は高校時代に1年半くらい美容室でアルバイトをしていたので、サロンワーク力には自信がありました。しかし、当然ですが美容学校ではサロンワークとか関係ないんですよね。どちらかというと、オシャレだったりセンスが良い学生がチヤホヤされるんです」
結局、美容室でのアルバイトで培ったサロンワーク力は発揮できなかったが、得るものはあった。
「自分もファッションとかに興味はありましたが、学生の中にはファッションセンスがずば抜けている人もいたりして。ただ、美容室でのアルバイトのお陰で、自分の中では現実を知っていたんですよね。実際美容室で働いたら結構大変だよというか。どちらかというと、僕は美容学校に行って逆に気付かされた部分がたくさんありました。「美容って楽しい!」みたいな。ヘアメイク等、仕事の幅を資生堂美容技術専門学校では教えてもらいましたね。
昼間は学校に行きながら、アルバイトは相変わらず続けていた。
「ピザ配っていましたね。夏休みなどは実家に帰らずに、ずっと豊島園でアルバイトしたり。美容室でのアルバイトはしなかったですね。やっておけば良かったかもしれませんが、当時はなぜかそこに関してバリアがありました。ただ、ピザ屋で働いていた仲間はいまだに髪の毛を切りに来てくれますし、家族ぐるみの付き合いになっています」
美容学校で2年間を過ごし、いよいよ美容師として社会に出る時がやってくる。学生から美容師に変わる瞬間がやってきた。
「自分は、青山とか原宿は怖くて行けなかったタイプなんです。あんな人が多いところ無理でしょみたいな・・・。当時アクアさんの説明会に行った時に、大きな体育館みたいなところで300人位集めてやっていて、これは無理だなと思いました」
美容学校を卒業した坂狩は、学生時代にヘアショーのモデルをさせてもらったことが縁で代官山の美容室に就職した。ついに、坂狩の美容師人生がスタートしたのだ。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
福岡県で生まれ育った坂狩。学生時代はちゃんと勉強する真面目なタイプだった。
「中学校まではずっとサッカーをしていました。小学校の時はサッカーで県選抜に選ばれたりしていたのですが、中学校になると友達と遊ぶのが楽しかったりして、あまり熱が入りませんでしたね。身長もあまり高くなくて、中学校に入学した時は140センチなかったと思います。中学時代からもともと勉強できるタイプではなかったと思うのですが、勉強したのにテストの結果が悪いと悔しいからさらに一生懸命勉強していましたね」
目の前に壁が立ちはだかったときのほうが燃えるようだ。
努力が実り、坂狩は福岡にある進学校に入学した。
「結局、高校に行っても中学と同じようなことが起きました。この上なく勉強したのに、テストの結果が悪いみたいな・・・。その時に、「俺は勉強が向いていないな」と思いましたね(笑)」
ずっと続けてきたサッカーだが、徐々に熱も冷めていった。
中学までは楽しくサッカーできたのですが、高校サッカーは筋トレさせられたりとあまり面白くなくなってきて、アルバイトばかりしていましたね。土日は練習試合とか全然行かなくて先輩に怒られたりして。結局途中でやめてしましました」
アルバイトの比重が増えて行く中で、現在の職業に結びつくアルバイトに出会う。
「アルバイトは、お小遣いというか、バイクの免許が欲しかったから始めました。一番最初は床屋でバイトしましたが、死ぬほど辛くて三ヶ月くらいでやめました。その後も、色々なアルバイトを経験しました」
高校2年の途中から始めた美容室でのアルバイトが、その後の人生を左右する。
「中学校時代のサッカー部の先輩が美容師になっていて、その先輩が働いている美容室に髪を切りに行ったら、「今人少ないからバイトすればいいじゃん」と声をかけてもらい、そのお店でバイトすることになりました。その時に、美容師は面白いなと思いました。
当時高校生だったにも関わらず、扱いはまるで一社会人だったようだ。
「その美容室はすごく厳しかったですね(笑)夕方から働いて、営業終わって練習までしていました。自分が成人していないのに、成人式に出たりもしていました」
そんな高校生らしからぬ毎日を過ごしているうちに、進路を決める時期がやってきた。
「高校3年になるとこの先の進路をどうする?となり、一応進学校だったので親とかも心配し始めて・・。父親がドコモで働いているということもあり、はじめは大企業に行きたかったのです。ソニーかドコモかトヨタに入りたいなと思っていました」
大企業に行きたかった坂狩が、なぜ美容師になったのはなぜか?
「それで色々悩んでいたのですが、当時の自分はあまりにも飽き性だったんです。アルバイトひとつにしてもすぐ飽きてしまうみたいな。それで、自分の仕事には絶対に飽きたくないなと思って、それが美容師でした。美容師になると親に言ったら絶対怒られるだろうなと思っていたのですが、怒られなかったです。それが意外でした」
大企業ではなく美容師。坂狩のチャレンジがそこから始まった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
意識を高く持つことを常に心掛けてきた池上。自分の人生設計についても細かく決めていた。
「何歳までに何をするというのを決めていましたね。自分へのミッションみたいな。22歳までにスタイリスト、25歳までに店長やディレクターなどの管理職、30歳までに独立、と決めていました。僕は20歳になる年に入社しているので、ちょうど10年で独立しようと考えていました」
自分へのミッションを課した池上だが、努力の甲斐もありその通りに実現して行く。
「すべて順風満帆でしたね。ただ、独立に際してHEAVENSにお世話になったという気持ちが強かったですし、筋を通したいという思いがありました。入社のときに独立の話はしていたのですが、自分の実力も含めてHEAVENSにしっかり貢献できて、かつ他の後輩たちが夢を見れる形で独立したいと思っていました」
お店の一部を譲り受けるという形で、32際の時についに独立。渋谷に「BALLET」をオープンさせた。
「独立してからは、やはりイメージしていたものと違うと感じることはたくさんあります。認知度があるお店から独立した人なら一度は感じることかもしれませんが、その店の庇護の下に自分がいたというのを再認識しましたね。ある意味、これがゼロからの本当のスタートなのだと思いました」
独立したからこそ悩むこともたくさんある。しかし、後悔は微塵もしていない。
「もちろん、僕は独立したことに関して何も後悔はないのですが、仮に前のお店に残ってずっと働くというルートもあっただろうなというのは逆に考えますね。オーナーになると色々と出来なくなることがありますから。技術を突き詰めようとした場合には、やはりオーナー業をやりながらでは厳しい部分がありますから」
順風満帆な美容師人生を歩んで来た池上にとって、これまで挫折をしたことはあるのか聞いてみた。
「かなり順風満帆でしたので、正直ないです(笑)。ただ、挫折というほどの大きなものはないですが、それに近いものは毎日感じています。「自分はまだ下手だな」とか、「もっとこうしてあげられたのに・・・」とかは毎日ですね。100点の日は無いですね」
悩んで努力しているからこそ、順風満帆なのだ。
「毎日試行錯誤を繰り返しています。自分は完璧だからと思った瞬間終わりだと思いますし、まだ発展途上だと常に思っています。勉強や研究は日々続けています。僕のこの金髪もおしゃれだからやっているだけではなく、薬剤研究のためです。自分の髪なら、日々の生活も含めて変化が分かりますから」
渋谷を拠点としているBALLETだが、今後は郊外にも進出していく予定という。
「オーナー業的には、店舗を増やしたいというのはありますね。すごく大きな店でインカムを使用して働く店よりも、スタッフやお客様の顔が分かるお店が好きなので、そのようなサイズのお店を作りたいです。イメージ的には、渋谷や原宿以外の郊外の街で、地域一番店のお店を作りたいと思っています」
オーナーだからといって、美容師としての池上の旅はまだ終わらない。
「美容師はお客様に直接関わって初めて成立する職業であり、今まで担当してきたお客様が高校生から主婦になるみたいな、長いお付き合いをさせていただける仕事です。そんなお客様が一人でもいるうちはハサミを置かないでおこうと思っています。生涯一現役というのは、オーナー業をする傍でも貫き通したいなと僕は思っています」
全てを予定通り叶えて来た池上なら、きっと実現するだろう。
渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
日本美容専門学校に入学したその日に、手当たり次第に美容室に飛び込んだ池上。その情熱に応えるオーナーも確かに存在した。
飛び込んだ美容室の中には、「お前面白いな」と可愛がってくれるオーナーさんも何人かいました。「今度の土曜日忙しいから来なよ」と誘ってもらって、タオル洗いや床掃きなどをやらせてもらいましたね。僕自身お金は要らなかったのですが、オーナーさんの好意で幾らか貰ったり、食事をご馳走して貰ったりしました。今で言うところの、意識高い系ですね(笑)」
一見クールに見える池上だが、まさかの意識高い系の学生だったとはなかなか想像がつかない。
「今考えると、気持ち悪いぐらい真面目というか、前向きでしたね。高校まではチャラチャラしていたのですが、美容師でやっていくと決めたのでしっかりやらなければという意識が働いたのだと思います。美容学校の中でも、意識高い系で有名でしたから(笑)」
そんな意識高い系の学生だった池上にも、ついに就職の時が迫っていた。
「30店舗くらい見学に行き、そのうち5店舗でバイトっぽいこともさせて頂きました。勝手に自分の中で知った気になっていましたね。自分が詳しいので、同級生に「この店はこんな店だよ」と教えてあげたり、頼まれて志望動機や履歴書を書いてあげたりとかしていました」
様々なサロンを見学して悩んだ挙句、池上はHEAVENSに入社する。
「自分が就職する際に重視していた点は、大規模なお店ではないという点と、作っているものが話題になっているか、もしくはこれからきそうだなという点でした。そこで、美容師の間で話題になっていたHEAVENSに入社しました」
HEAVENSに入社した池上を待ち受けていたのは、社会の厳しさだった。
「最初は鼻をへし折られましたね(笑)美容学校の中では成績も良かったですし、美容室でアルバイトしている経験者ということで、自分にかなり自信がありました。ところがいざ働き始めると、時代のせいかもしれませんが、褒められることなどないわけです」
誰しもが通る社会人としての洗礼。これまで何事も器用にこなしてきた池上も、決して例外ではなかった。
「自分は器用だと思っていたのに、先輩たちの中にはまるで化け物のような器用な人がいるわけです。そこで初めて、自分は天才ではないと自覚しました。正直、美容学生の頃は少しだけ自分のことを天才だと思っていましたので(笑)」
これまで順調に歩んできた池上にとって、井の中の蛙を実感した瞬間だった。
「平均点が50点なら、僕は70点の男なんです。100点はなかなか取れない人間なので。何でも平均以上に器用にできるから、突き詰めない部分がありました。しかし、結局ずっとこの先やっていくのなら、当然ですが突き詰める必要があるんですよね。どう見ても自分より練習していない人間が、自分よりスイスイ上達して行くのを見たときに、「これはもうやるしかないんだな」と覚悟を決めました」
覚悟を決めた池上。そこからは一心不乱に練習した。
「人よりも多く練習しないと天才たちと戦えないと、心の中で追い込んでいました。ひたすら練習ですね。当時は、同期がみんなでご飯食べに行くときにも「僕は練習あるから」と言って断っていました。今考えれば、そこは行けよという感じなのですが・・・笑」」
そんな努力の甲斐もあり、美容学校の同期の中でスタイリストになったのは一番早かった。また、名前が出る撮影に参加したのも一番早かった。努力の結果が結実した瞬間だった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
池上は埼玉県戸田市出身。中学時代は水泳部で、関東強化選手の合宿に参加するほどの腕前だった。
「上級生も少ないし楽な部活だろうと思って、友達を誘って水泳部に入部しました。しかし、僕らの年から練習がすごく厳しくなり、最終的には関東大会に出場するくらいになりました(笑)」
中学校を卒業すると、地元の高校に進学した。
「高校は最初からプールのない高校に行きました。プールがある高校に行くとまた水泳をやらされる恐れがありましたので・・・」
高校では部活はやらずに、バイト三昧だった。
「最初はロイヤルホストのキッチンで働いていました。しかし、あまり稼げなかったので、その後に倉庫とかで肉体系のバイトをしました。交通整理やスーパーの品出しもやりましたね」
高校1年の終わりの進路を決めるときに、現在の美容師という職業との接点を持つ。
「中学時代は学校の先生になろうと思っていましたが、高校1年の終わりの進路を決める際に、「こんなに学校が嫌いな人間が先生になってはいけないな」と考え直しました。そして、当時自分が知っている職業を全て紙に書き出してみました。サラリーマンやプロ野球選手とか・・・。そして、興味がない職業をそこから削除して行った結果、残ったのは美容師と調理師と消防士でした」
最終的に美容師になると決めた池上だが、親や教師からは反対された。
「僕が高1の時はまだカリスマ美容師ブームとかはなく、美容師になると言うと周囲に止められました。しかし、直接的に「ありがとう」と言われる仕事をしたかったですし、手先も器用だったので美容師になろうと思いました」
美容師になることを決めた池上は、さっそく美容室でアルバイトを始めた。
「本当はダメですけど、当時はインターンという形で働いていました。シャンプーしたり、カラーしたりしていました。パーマの練習もさせてもらいましたね。結局、高校の2年間と専門学校での1年間で、計3年間働いていましたね」
高校を卒業した池上は、日本美容専門学校に入学した。
「自宅から近いというのもありましたし、おしゃれで自由な雰囲気だったので日美に入学しました」
念願の美容師になるための第一歩を踏み出した池上。学校には真面目に通った。
「高校時代は割と自由な校風だったので、天気のいい日は授業をサボってどこかに出かけたりだとか、そんな感じでした。しかし、日美時代は親に学費を負担してもらっていたこともあり、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。自分の中でのけじめのような感じですね」
昼間は学校、夜は高校時代から働いていた美容室でアルバイトという生活が続いた。
「当時は、「働くなら東京の美容室で」と決めていました。そこで、日美に入学したその日の帰りに、自分の連絡先と経歴を書いた手書きの名刺を持参して、原宿のいくつかの美容室にアルバイトをさせてくれと飛び込みました。
美容学校に入学したその日に、飛び込み営業。すごいバイタリティの持ち主である。
「お金は要らないのでお手伝いさせてください」と、何十軒と周りましたね。当時は有名な美容室とか知らなかったので、手当たり次第に美容室を探しては飛び込んでいました。
いわゆる「意識高い系」学生の急先鋒だった池上。その勢いはさらに加速していく。
辿り着いた理想郷
紆余曲折を経て現在のtriccaに入社した田村。ついに理想の環境を手に入れた。
「当時は営業もすごく忙しかったですし、本当に自分の理想の形でした。あとは自分がやるだけだ!みたいな。そこでやっとスタイリストになりました」
様々な経験を経て、田村はついにスタイリストになった。さらには、母親にもなった。
「結婚して10年、子供が生まれて3年になります。結婚して、年齢的なことを考えるとすぐに子供が欲しかったのですが、仕事も楽しくなってきて、キャリアを捨てるのが怖かったというのがありましたね。美容師を離れることでどうなるのかが見えなかったので・・・。」
子供を育てながら美容師ができるのか?不安の方が大きかった。
「自分以外に時間を割く自信がなかったですね。子供の存在が分からないので、子供が欲しいけど後回しにしていた部分がありましたね」
子供が生まれて
そして、子どもが生まれて田村の生活も変わっていった。
「いよいよ子供が生まれて、やはり時間的な制限があるので大変でした。私のお客様はキャリアウーマン系の方が多く、仕事帰りにサロンに来るお客様がほとんどだったので不安が大きかったです」
そんな不安も、考え方を変えることで徐々に払拭されていった。
「子供を育てるのはすごく貴重な体験だと思います。担当できないお客様がいらしたり、時間の制限があるので教育か管理等、出来ることが限られてしまい、引け目を感じてしまう事も。しかし、このような経験できるのは女性しかいないですし、その方が人生的に豊かになるのかなと思います。美容人生としてはリスクになるかもしれないけれど・・・」
人生のセカンドステージ
子供が生まれてから、仕事に対するスタンスも自ずと変化していった。
「私は、セカンドステージだと思っています。これまでの忙しい美容人生とはまた違ったステージですね。美容師という観点から見ると、マイナスの面もあるかもしれませんが、仕事と育児のバランスの良い生活になりました。今は、会社の理解とサポートがあるのでとても助かってます。また、これから先、女性スタッフには色々な働き方の選択が出来るように、ひとつの道しるべになれたらと思います」
若いスタッフに対しては、母親的な立ち位置になってしまうという。
「長い時間を共にしたスタッフにはつい厳しくしてしまいますが、若いスタッフには母親のような立ち位置になってしまいますね(笑)」
最後に、田村に将来について尋ねてみた。
「お茶菓子が出て来るような美容室をやりたいです。おばあちゃんになってもずっとやっていたいですね(笑)」
人並み外れた実行力を有する田村ならば、きっと実現させるに違いない。一昔前に比べれば、いわゆるママ美容師を取り巻く環境は劇的に変化している。今後も彼女の働き方から目を離せない。
完
美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)アパレル業界への転職
美容専門学校を卒業して入社した、代官山の美容室。理想と現実の狭間で苦しんでいる中で、そのお店が白金台に移転するという話が耳に入った。
「白金台はコンサバ層というか、キャリアウーマン系のイメージだったので、ちょっと違うなと思ってそのお店を辞めました」
自分でお店に飛び込んで、面接をお願いして入社した代官山の美容室をやめた田村だったが捨てる神あれば拾う神あり。移転した美容室の後に居抜きで入った新しい美容室を仲介した不動産屋が、なんと田村の知り合いだった。それが縁で、同じ場所にできた新しい美容室で働いたのだ。なんという強運の持ち主。これで代官山で働き続けることができた。
「そのサロンは作品撮りをすごくやっていましたが、お客さんの数が少なかったのですごく大変でした。営業は暇だけど、モデルハントや深夜に撮影に行ったりと・・・。そこで人間的にも鍛えなおされたというか、プライドを捨ててでもやらなくてはいけないことに気付きました。教えてもらえない分、朝早く来て自主練したりとかしていましたね」
自分の想像と異なる日常に巻き込まれ、悩み抜いた結果、田村はなんとアパレルの世界に飛び込んでしまった。
「ファッションが好きだったと言うのもありましたし、モデルハントで仲良くなった友達がアパレル系だったと言うのもあり、アパレル業界に就職しようと思いました。美容師を続ける上で、気持ち的にもいっぱいいっぱいだったと思います」
美容師に対する未練
田村はアパレルの会社で、アルバイトとして働いた。しかし、徐々に美容師に対する未練が押し寄せて来た。
「母からは、「美容師をやらないなら仕送りをやめる」と言われました。「それでもやりたいならどうぞ」と言われて・・・。その時に、このままアパレルの仕事を続けるのか考えました。正社員ではなくアルバイトでしたし、このままでは先が見えないなと」
そして、半年間アパレル業界で働いて、ついに答えが出た。
「美容室で働いているときは、カリキュラムがあって、それに合格して次に進むと言う積み重ねでした。しかし、アルバイトだと淡々と毎日が過ぎて行き、自分の成長が見えませんでした。そこで改めて、クリアする達成感というか、努力の大切さが分かりました」
美容業界への復帰
紆余曲折はあったが、田村はついに美容業界への復帰を決意する。
「次に働くなら、カリキュラムがしっかりしている大手の美容室がいいと思っていました。それで、大手の美容室に就職しました」
美容業界に復帰した田村は、そこで切磋琢磨して腕を磨いた。そして、とあるきっかけで現サロンの代表と出会った。
知り合いが、現サロンの代表のお店で働いていて、「1回見に来ない?」と言われて行ってみたんです。そこで、代表を紹介されて、「私はあと1年でスタイリストになるんです」と言ったら、「うちだったら、半年でスタイリストになれるよ!」と言われて少し心が動いて・・・。それで、働いていたお店の店長に相談したところ、「応援するから、お前のやりたいようにやれ」と言って頂いて、そこから今のお店に移りました」
紆余曲折を経て、ついに田村は現在のtriccaに入社した。 美容師として、また母親として生きるということとは?代官山の人気サロンtriccaのスタイリストであり、一児の母でもある田村千香。彼女の生き方を通じて、ママ美容師の現状と将来が見えてくる。(敬称略)
小学生の時に決めた職業、美容師
生まれは栃木県。地元の小中高に通った。小学生の時から、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「幼稚園の頃から体が柔らかかったので、父の勧めで小学生の時に体操部に入り体操をしていました。
体操をしつつも、漠然と将来は美容師になりたいと思っていた。
「小学生の時から髪の毛を縛ったりするのが好きで、休み時間に友達の髪の毛を縛ってあげたりしていました。その頃から、将来は美容師になりたいなと思っていましたね」
その後、田村は地元の高校に進学した。
「高校時代は帰宅部でした。仲が良い友達と一緒に洋服を見に行ったり、ライブに行ったりとかしていましたね。それと、親戚の叔母が着付けの先生だったので、着付けを習っていました」
東京に行きたい!!
いよいよ進路を決める際には、田村は迷いなく東京の美容専門学校に行くと決めていた。
「もともと母が美容師になりたかったようで、何となく誘導されている感じはありましたね(笑)。「あなた美容師になったらどう?」みたいな。母親が賛成してくれたというのもありましたし、当時は美容師以外に他に職業が思いつかなかったですね」
高校を卒業した田村は、東京にある日本美容専門学校に入学する。
「校風が自由で、すごくオシャレに見えたため日本美容専門学校に入学しました。栃木から出て、埼玉にある親戚の家に居候させてもらっていました。自分で決めたことでしたので、学校には真面目に通っていました」
1年間が過ぎ、就職を決めるときがきた。
「ちょうど進路を決める頃に、父親が病気にかかったために、地元で就職先を探していました。そして、ある程度決まった頃に父が他界してしまいました。その後、卒業までに時間があったので色々考え、やはり東京に未練があったので姉に相談して東京に残ることにしました」
憧れの代官山
他の同級生は、すでに就職先が決まっている状態だった。東京に残ると決めてからは、アルバイトしながら就職先を探した。
「当時は代官山がすごく好きでした。田舎育ちというのもあったかもしれませんが、原宿とは違う、何か落ち着いているけど個性もあってみたいな・・・。よく学生の頃から来ていましたし、代官山の美容室で働きたいと思っていましたね」
持ち前の行動力で、田村はついに代官山の美容室で働く切符を手に入れる。
「飛び込みで入った美容室で面接をしてもらって、「いまは空きがないけど今後採用する予定があるから、シャンプーレッスンという形で来たらどう?」と誘って頂きました。それからは、週に1〜2回シャンプーレッスンで通っていました」
それから半年後、ついに空きが出たためその美容室に就職した。
「当時は自分が同級生と比べて遅れているのを知るのが嫌だったので、友達ともあまり連絡取らなくなってしましましたね。そのサロンはすごく小さいサロンで、教育カリキュラムや撮影とかもあまりなかったので、将来どうなるんだろうと思っていました」
同級生より遅れて就職したことに対する後ろめたさと、自分の理想像と現在の自分とのギャップに悩んだ。そんなとき、田村に転機が訪れる。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
代官山の美容室
資生堂美容技術専門学校を卒業した坂狩は、代官山の美容室に入社した。
「専門学校の1年生だった時にヘアショーのモデルをやらせてもらったのですが、そこでの縁で代官山のヘアサロンに入社しました。僕の中では幾つもサロンを受けるのは義理人情的にどうなの?という感覚がありまして・・。受けたサロン全てで「一番行きたいです」と言うわけですよね。それが嘘っぽいので、その代官山のサロンしか受けませんでした。
その代官山の美容室では5年間働いた。
「美容師になった瞬間に「ものすごい楽だな」と思ったのです。というのも、美容学生時代は学校に行って授業を受け、アルバイトをして・・・と、多くのことをやらなくてはなりませんでした。しかし、美容師になるということは、それだけ努力すればお金をもらえるわけですよね。24時間の使い方として、全ての時間を美容に使えると言うのはすごく楽だなと思いましたね」
そこからは、寝ても覚めても美容の仕事に熱中した。仕事が終わり、帰宅途中に他のサロンの明かりがついていると、また戻って自分も練習をした。
「1年目にできる最高のことは何かを考えて、それは努力の時間だと思いました。自分は表参道とかのスターサロンに就職しないで、一度逃げているので・・・。努力では負けられないという気持ちは持っていました。一番最初にサロンに来て、一番最後に帰るというのは当たり前でしたね」
5年前のリベンジ
努力の甲斐あり、3年3ヶ月でスタイリストデビューを果たした。また、1年目の途中からはサロン外の評価を求めて、様々な外部コンテストに参加し始めた。
「なけなしのお金で1眼レフを買い、投稿できる全てのコンテストに片っ端から投稿しましたね。すると、1年目の途中から掲載され始めました。当時はフィルムのカメラでしたので、現像代とかすごくかかりましたね(笑)」
5年間働いた後、坂狩はNEWS HOTELに移った。
「やはり、美容師として青山で勝負してみたいという気持ちがありました。5年前は、挑戦する前に諦めていたので・・・。メディアに出ているサロンならどこでも良かったのですが、NEWS HOTELから一番最初に連絡が来たので、そこに入社しました」
NEWS HOTELに入社した坂狩は、
「最初の頃は、当時の店長に「君本当にカットできるの?」と言われたりしましたね。アシスタントも自分より年上だったですし・・・。ただ、勝負すると決めた以上やらないと後悔するので、自己投資で作品撮りをバンバンやっていました」
AnZieの代表に就任
その後、NEWS HOTELが「AnZie」に名前が変わるタイミングで、坂狩は代表に就任した。
「代表になり、サロン全体のバランスを見るようになりましたよね。スタッフの育成からサロンのブランディングまでトータルで考えるようにはなりました」
AnZieの代表になってからの坂狩の活躍はもはや周知のとおりである。ブレない信念でAnZieを牽引し続けている。
「今の時代、いくら上手くても知られていないと意味がない。そこでSNSを活用するのは必須だと思います。ただ、そこでキャッチした時にそのままリリースしたら意味がないわけで、受け皿としての技術が必要です。蛇口をひねっても受け皿がないとダメなので、この二つのバランスが今はすごく大事です。やはり、お客様が来た時に技術がなかったら意味がないですから」
美容師として、技術に関して誰よりも追求する姿勢は一貫している。
「SNSのおかげで発信は出来て当たり前になった。プラス独自性も出さなくてはいけない。加えて「技術」もちゃんとやらなければならない。そう考えると、今の20代はかなり大変だとは思います」
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「もっと美容師、美容室自体の可能性を膨らませたいですね。サロンが、サロンじゃない場であって欲しいというか。ライフスタイルプレゼンテーションができる場としてサロンが存在して欲しいです。視野を広くすれば、もっと新たな可能性が出てくると思うのです。視野を広く、様々なカルチャーを知るということは、学ぶということです。そういう美容師像と美容室像を創っていきたいですね」
ブレない信念で今日も走り続ける坂狩の背中に、美容業界の未来を見た気がした。
完
坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)高校卒業した翌日に上京
自分の仕事には飽きたくない。その思いで美容師になることを決めた坂狩。ついに、東京で美容師になるための新生活がスタートした。
「最初は、アルバイトしていた美容室にそのまま就職しようと思っていたのです。そしたら、親にものすごく反対されまして・・・。そして、「本当に美容師になるなら東京に行かなくてはダメなのではないか?」と親に言われて、「えっ、東京行けるの?ラッキー」というような感じでした」
東京の美容専門学校行くことを決めた坂狩。学校選びの基準は「東京」と言う名前が付くか否かという独特なものだった。
「特に学校を選ぶ基準とかこだわりはなかったのですが、はじめは東京美容専門学校を受けました。「東京」と名が付くので、同級生に東京に行くと認識されてチヤホヤされるな?と思って。しかし、そこは落ちてしまいまして・・・(笑)。それで、どうしようかなと思っていた時に、祖母が熊本で資生堂のチェーン店を経営していてゆかりがあったので、資生堂美容学校に決めました」
資生堂美容技術専門学校に入学
無事に資生堂美容技術専門学校に合格し、晴れて東京で学生生活が始まった。
「高校卒業した翌日に東京に出てきました。専門学校に行ったらアルバイトできないという噂を聞いていたので、引っ越し屋さんでアルバイトをしていました。東京に来てから3日後には、アルバイトを始めていました。多分、自分はアルバイトすることが好きなんだと思います」
資生堂美容技術専門学校に入学してからは、自分が描いていた理想と現実のギャップに直面する。
「自分は高校時代に1年半くらい美容室でアルバイトをしていたので、サロンワーク力には自信がありました。しかし、当然ですが美容学校ではサロンワークとか関係ないんですよね。どちらかというと、オシャレだったりセンスが良い学生がチヤホヤされるんです」
結局、美容室でのアルバイトで培ったサロンワーク力は発揮できなかったが、得るものはあった。
「自分もファッションとかに興味はありましたが、学生の中にはファッションセンスがずば抜けている人もいたりして。ただ、美容室でのアルバイトのお陰で、自分の中では現実を知っていたんですよね。実際美容室で働いたら結構大変だよというか。どちらかというと、僕は美容学校に行って逆に気付かされた部分がたくさんありました。「美容って楽しい!」みたいな。ヘアメイク等、仕事の幅を資生堂美容技術専門学校では教えてもらいましたね。
代官山で美容師人生がスタート
昼間は学校に行きながら、アルバイトは相変わらず続けていた。
「ピザ配っていましたね。夏休みなどは実家に帰らずに、ずっと豊島園でアルバイトしたり。美容室でのアルバイトはしなかったですね。やっておけば良かったかもしれませんが、当時はなぜかそこに関してバリアがありました。ただ、ピザ屋で働いていた仲間はいまだに髪の毛を切りに来てくれますし、家族ぐるみの付き合いになっています」
美容学校で2年間を過ごし、いよいよ美容師として社会に出る時がやってくる。学生から美容師に変わる瞬間がやってきた。
「自分は、青山とか原宿は怖くて行けなかったタイプなんです。あんな人が多いところ無理でしょみたいな・・・。当時アクアさんの説明会に行った時に、大きな体育館みたいなところで300人位集めてやっていて、これは無理だなと思いました」
美容学校を卒業した坂狩は、学生時代にヘアショーのモデルをさせてもらったことが縁で代官山の美容室に就職した。ついに、坂狩の美容師人生がスタートしたのだ。 坂狩トモタカ。美容室AnZie代表にして、一般誌や業界誌、年間50本以上のデザインセミナーの傍、多数のコンテストでトップデザイナーとして入賞を果たしている。業界の最前線を走り続ける坂狩の原動力は一体何か?これまでの人生を振り返りながら、その秘密に迫る。(敬称略)
勉強を諦めた学生時代
福岡県で生まれ育った坂狩。学生時代はちゃんと勉強する真面目なタイプだった。
「中学校まではずっとサッカーをしていました。小学校の時はサッカーで県選抜に選ばれたりしていたのですが、中学校になると友達と遊ぶのが楽しかったりして、あまり熱が入りませんでしたね。身長もあまり高くなくて、中学校に入学した時は140センチなかったと思います。中学時代からもともと勉強できるタイプではなかったと思うのですが、勉強したのにテストの結果が悪いと悔しいからさらに一生懸命勉強していましたね」
目の前に壁が立ちはだかったときのほうが燃えるようだ。
努力が実り、坂狩は福岡にある進学校に入学した。
「結局、高校に行っても中学と同じようなことが起きました。この上なく勉強したのに、テストの結果が悪いみたいな・・・。その時に、「俺は勉強が向いていないな」と思いましたね(笑)」
ずっと続けてきたサッカーだが、徐々に熱も冷めていった。
中学までは楽しくサッカーできたのですが、高校サッカーは筋トレさせられたりとあまり面白くなくなってきて、アルバイトばかりしていましたね。土日は練習試合とか全然行かなくて先輩に怒られたりして。結局途中でやめてしましました」
美容師という職業との出会い
アルバイトの比重が増えて行く中で、現在の職業に結びつくアルバイトに出会う。
「アルバイトは、お小遣いというか、バイクの免許が欲しかったから始めました。一番最初は床屋でバイトしましたが、死ぬほど辛くて三ヶ月くらいでやめました。その後も、色々なアルバイトを経験しました」
高校2年の途中から始めた美容室でのアルバイトが、その後の人生を左右する。
「中学校時代のサッカー部の先輩が美容師になっていて、その先輩が働いている美容室に髪を切りに行ったら、「今人少ないからバイトすればいいじゃん」と声をかけてもらい、そのお店でバイトすることになりました。その時に、美容師は面白いなと思いました。
当時高校生だったにも関わらず、扱いはまるで一社会人だったようだ。
「その美容室はすごく厳しかったですね(笑)夕方から働いて、営業終わって練習までしていました。自分が成人していないのに、成人式に出たりもしていました」
大企業か美容室か・・・
そんな高校生らしからぬ毎日を過ごしているうちに、進路を決める時期がやってきた。
「高校3年になるとこの先の進路をどうする?となり、一応進学校だったので親とかも心配し始めて・・。父親がドコモで働いているということもあり、はじめは大企業に行きたかったのです。ソニーかドコモかトヨタに入りたいなと思っていました」
大企業に行きたかった坂狩が、なぜ美容師になったのはなぜか?
「それで色々悩んでいたのですが、当時の自分はあまりにも飽き性だったんです。アルバイトひとつにしてもすぐ飽きてしまうみたいな。それで、自分の仕事には絶対に飽きたくないなと思って、それが美容師でした。美容師になると親に言ったら絶対怒られるだろうなと思っていたのですが、怒られなかったです。それが意外でした」
大企業ではなく美容師。坂狩のチャレンジがそこから始まった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
自分へのミッション
意識を高く持つことを常に心掛けてきた池上。自分の人生設計についても細かく決めていた。
「何歳までに何をするというのを決めていましたね。自分へのミッションみたいな。22歳までにスタイリスト、25歳までに店長やディレクターなどの管理職、30歳までに独立、と決めていました。僕は20歳になる年に入社しているので、ちょうど10年で独立しようと考えていました」
自分へのミッションを課した池上だが、努力の甲斐もありその通りに実現して行く。
「すべて順風満帆でしたね。ただ、独立に際してHEAVENSにお世話になったという気持ちが強かったですし、筋を通したいという思いがありました。入社のときに独立の話はしていたのですが、自分の実力も含めてHEAVENSにしっかり貢献できて、かつ他の後輩たちが夢を見れる形で独立したいと思っていました」
渋谷にBALLETオープン
お店の一部を譲り受けるという形で、32際の時についに独立。渋谷に「BALLET」をオープンさせた。
「独立してからは、やはりイメージしていたものと違うと感じることはたくさんあります。認知度があるお店から独立した人なら一度は感じることかもしれませんが、その店の庇護の下に自分がいたというのを再認識しましたね。ある意味、これがゼロからの本当のスタートなのだと思いました」
独立したからこそ悩むこともたくさんある。しかし、後悔は微塵もしていない。
「もちろん、僕は独立したことに関して何も後悔はないのですが、仮に前のお店に残ってずっと働くというルートもあっただろうなというのは逆に考えますね。オーナーになると色々と出来なくなることがありますから。技術を突き詰めようとした場合には、やはりオーナー業をやりながらでは厳しい部分がありますから」
順風満帆な美容師人生を歩んで来た池上にとって、これまで挫折をしたことはあるのか聞いてみた。
「かなり順風満帆でしたので、正直ないです(笑)。ただ、挫折というほどの大きなものはないですが、それに近いものは毎日感じています。「自分はまだ下手だな」とか、「もっとこうしてあげられたのに・・・」とかは毎日ですね。100点の日は無いですね」
悩んで努力しているからこそ、順風満帆なのだ。
「毎日試行錯誤を繰り返しています。自分は完璧だからと思った瞬間終わりだと思いますし、まだ発展途上だと常に思っています。勉強や研究は日々続けています。僕のこの金髪もおしゃれだからやっているだけではなく、薬剤研究のためです。自分の髪なら、日々の生活も含めて変化が分かりますから」
生涯一現役として
渋谷を拠点としているBALLETだが、今後は郊外にも進出していく予定という。
「オーナー業的には、店舗を増やしたいというのはありますね。すごく大きな店でインカムを使用して働く店よりも、スタッフやお客様の顔が分かるお店が好きなので、そのようなサイズのお店を作りたいです。イメージ的には、渋谷や原宿以外の郊外の街で、地域一番店のお店を作りたいと思っています」
オーナーだからといって、美容師としての池上の旅はまだ終わらない。
「美容師はお客様に直接関わって初めて成立する職業であり、今まで担当してきたお客様が高校生から主婦になるみたいな、長いお付き合いをさせていただける仕事です。そんなお客様が一人でもいるうちはハサミを置かないでおこうと思っています。生涯一現役というのは、オーナー業をする傍でも貫き通したいなと僕は思っています」
全てを予定通り叶えて来た池上なら、きっと実現するだろう。
完
渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
意識高い系の学生
日本美容専門学校に入学したその日に、手当たり次第に美容室に飛び込んだ池上。その情熱に応えるオーナーも確かに存在した。
飛び込んだ美容室の中には、「お前面白いな」と可愛がってくれるオーナーさんも何人かいました。「今度の土曜日忙しいから来なよ」と誘ってもらって、タオル洗いや床掃きなどをやらせてもらいましたね。僕自身お金は要らなかったのですが、オーナーさんの好意で幾らか貰ったり、食事をご馳走して貰ったりしました。今で言うところの、意識高い系ですね(笑)」
一見クールに見える池上だが、まさかの意識高い系の学生だったとはなかなか想像がつかない。
「今考えると、気持ち悪いぐらい真面目というか、前向きでしたね。高校まではチャラチャラしていたのですが、美容師でやっていくと決めたのでしっかりやらなければという意識が働いたのだと思います。美容学校の中でも、意識高い系で有名でしたから(笑)」
HEAVENSに入社
そんな意識高い系の学生だった池上にも、ついに就職の時が迫っていた。
「30店舗くらい見学に行き、そのうち5店舗でバイトっぽいこともさせて頂きました。勝手に自分の中で知った気になっていましたね。自分が詳しいので、同級生に「この店はこんな店だよ」と教えてあげたり、頼まれて志望動機や履歴書を書いてあげたりとかしていました」
様々なサロンを見学して悩んだ挙句、池上はHEAVENSに入社する。
「自分が就職する際に重視していた点は、大規模なお店ではないという点と、作っているものが話題になっているか、もしくはこれからきそうだなという点でした。そこで、美容師の間で話題になっていたHEAVENSに入社しました」
HEAVENSに入社した池上を待ち受けていたのは、社会の厳しさだった。
「最初は鼻をへし折られましたね(笑)美容学校の中では成績も良かったですし、美容室でアルバイトしている経験者ということで、自分にかなり自信がありました。ところがいざ働き始めると、時代のせいかもしれませんが、褒められることなどないわけです」
誰しもが通る社会人としての洗礼。これまで何事も器用にこなしてきた池上も、決して例外ではなかった。
天才ではない自覚
「自分は器用だと思っていたのに、先輩たちの中にはまるで化け物のような器用な人がいるわけです。そこで初めて、自分は天才ではないと自覚しました。正直、美容学生の頃は少しだけ自分のことを天才だと思っていましたので(笑)」
これまで順調に歩んできた池上にとって、井の中の蛙を実感した瞬間だった。
「平均点が50点なら、僕は70点の男なんです。100点はなかなか取れない人間なので。何でも平均以上に器用にできるから、突き詰めない部分がありました。しかし、結局ずっとこの先やっていくのなら、当然ですが突き詰める必要があるんですよね。どう見ても自分より練習していない人間が、自分よりスイスイ上達して行くのを見たときに、「これはもうやるしかないんだな」と覚悟を決めました」
覚悟を決めた池上。そこからは一心不乱に練習した。
「人よりも多く練習しないと天才たちと戦えないと、心の中で追い込んでいました。ひたすら練習ですね。当時は、同期がみんなでご飯食べに行くときにも「僕は練習あるから」と言って断っていました。今考えれば、そこは行けよという感じなのですが・・・笑」」
そんな努力の甲斐もあり、美容学校の同期の中でスタイリストになったのは一番早かった。また、名前が出る撮影に参加したのも一番早かった。努力の結果が結実した瞬間だった。 渋谷をはじめ、都内に3店舗展開するBALLETオーナー池上敦。クールで沈着冷静な池上が初めて語る、生涯美容師であり続けるためにしてきたこれまでのこと、そしてこれから。(敬称略)
アルバイト三昧の青春
池上は埼玉県戸田市出身。中学時代は水泳部で、関東強化選手の合宿に参加するほどの腕前だった。
「上級生も少ないし楽な部活だろうと思って、友達を誘って水泳部に入部しました。しかし、僕らの年から練習がすごく厳しくなり、最終的には関東大会に出場するくらいになりました(笑)」
中学校を卒業すると、地元の高校に進学した。
「高校は最初からプールのない高校に行きました。プールがある高校に行くとまた水泳をやらされる恐れがありましたので・・・」
高校では部活はやらずに、バイト三昧だった。
「最初はロイヤルホストのキッチンで働いていました。しかし、あまり稼げなかったので、その後に倉庫とかで肉体系のバイトをしました。交通整理やスーパーの品出しもやりましたね」
美容師になる決意
高校1年の終わりの進路を決めるときに、現在の美容師という職業との接点を持つ。
「中学時代は学校の先生になろうと思っていましたが、高校1年の終わりの進路を決める際に、「こんなに学校が嫌いな人間が先生になってはいけないな」と考え直しました。そして、当時自分が知っている職業を全て紙に書き出してみました。サラリーマンやプロ野球選手とか・・・。そして、興味がない職業をそこから削除して行った結果、残ったのは美容師と調理師と消防士でした」
最終的に美容師になると決めた池上だが、親や教師からは反対された。
「僕が高1の時はまだカリスマ美容師ブームとかはなく、美容師になると言うと周囲に止められました。しかし、直接的に「ありがとう」と言われる仕事をしたかったですし、手先も器用だったので美容師になろうと思いました」
美容師になることを決めた池上は、さっそく美容室でアルバイトを始めた。
「本当はダメですけど、当時はインターンという形で働いていました。シャンプーしたり、カラーしたりしていました。パーマの練習もさせてもらいましたね。結局、高校の2年間と専門学校での1年間で、計3年間働いていましたね」
皆勤賞だった専門学校生時代
高校を卒業した池上は、日本美容専門学校に入学した。
「自宅から近いというのもありましたし、おしゃれで自由な雰囲気だったので日美に入学しました」
念願の美容師になるための第一歩を踏み出した池上。学校には真面目に通った。
「高校時代は割と自由な校風だったので、天気のいい日は授業をサボってどこかに出かけたりだとか、そんな感じでした。しかし、日美時代は親に学費を負担してもらっていたこともあり、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。自分の中でのけじめのような感じですね」
昼間は学校、夜は高校時代から働いていた美容室でアルバイトという生活が続いた。
「当時は、「働くなら東京の美容室で」と決めていました。そこで、日美に入学したその日の帰りに、自分の連絡先と経歴を書いた手書きの名刺を持参して、原宿のいくつかの美容室にアルバイトをさせてくれと飛び込みました。
美容学校に入学したその日に、飛び込み営業。すごいバイタリティの持ち主である。
「お金は要らないのでお手伝いさせてください」と、何十軒と周りましたね。当時は有名な美容室とか知らなかったので、手当たり次第に美容室を探しては飛び込んでいました。
いわゆる「意識高い系」学生の急先鋒だった池上。その勢いはさらに加速していく。