足立孝史〜全ては目の前のお客様を輝かせるために Vol.3〜
Gratiiの統括ディレクターに
運営をグループに任せるようになった足立だが、結婚を境に意外な転機が訪れる。 「今はどうか分かりませんか、所属していた親会社は家族の時間を作るのが難しい環境にありました。有名になりたいと思う気持ちが大きい人にはすごくいい環境だったと思うのですが、結婚をして家庭を省みる必要が出てきた自分にとってはかなり厳しい環境でした。 仕事に対するスタンスって歳を重ねるごとに変わってくると思いますが、当時はその過渡期でしたね」
足立流SNSとの付き合い方
今がとても充実しているという足立。LINEスタンプを販売しているのもその証拠かもしれない。ちなみに、LINEスタンプを作って販売しているのは完全に自己満足とのこと。

ずっと美容師でいたい
これから美容師に求められるスキルとして、足立は「自己プロデュース」が必要だと主張する。 「それしかないと思います。技術が下手でも、自分自身を外に上手に見せる方法がないと何の意味もないですよね。今までは、いかにカットに再現性があるかとか、いかに良い接客ができるかが大切でした。もちろん、これらは今でも大切です。 しかし、今は外に対して情報発信ができないとお客様がまず来ないですね。昔と違って、今は雑誌に掲載されたからといってお客様は来ないですから。各個人がそれぞれ情報発信してお客様を呼ぶ必要があります」

完

理想と現実の狭間で過ごした大阪時代
退学の危機にありながらもなんとか福岡の美容学校を卒業した足立は、大阪のサロンに就職する。 「本当は東京のサロンに行きたかったんです。雑誌の仕事とかやりたかったので。でも落ちてしまったんです。そんな時に、大阪の有名なサロンを学校の先生に勧められて入社しました」
満を持して東京に
技術の習得のためにそのサロンに籍を置いていたが、その技術はもう身につけた。これからはスタイリストとして東京で活躍したいという思いを胸に、足立はついに東京に行く。 「東京に出てきたときは、友達の家に滑り込んで4人くらいで住んでいました。仕事も何も決まってないのに東京に出てきましたね。そこから仕事を探してました。もう直接お店に電話しましたね」
人生最大の挫折
トータルビューティーを売りにしたそのサロンは、今まで足立が経験したことのないほど大きなサロンであり、そこで初めて挫折を味わうことになる。 「なかなか認めてもらえなくて悔しかったですよね。技術的なこともそうなのですが、全てですよね」 それでも諦めずに働き続けた結果、足立はグループ傘下の美容室の代表に上りつめる。しかし、経営が苦しい時期が続き、グループに吸収すれるという残念な結果になった。最大の原因は人員不足。もともと最初から足りない人員でお店の売上を上げなければならないという相反する状況では、いくら足立でもどうすることもできなかった。
地味なシュート練習が好きだった、少年時代
あまり記憶にないという、故郷の大分県での幼少期。生まれは高知県、育ちは大分県の豊後大野市。姉と妹に挟まれ、特に何もない田舎で育った。 「何でもかんでもモノを分解してしまう子供でしたね(笑)。なんでこうなってるのだろうという疑問を元に、その仕組みを知るために本当にあらゆるものを分解していました」
人生を変えたアルバイト
部活動にのめり込んでいた高校時代に、その後の足立の人生に大きな影響を及ぼすことになる、とあるアルバイトに出会う。 「高校時代に美容室でアルバイトをはじめました。夫婦で経営しているセット面が3つぐらいの小さなサロンで、普通の田舎のサロンでした」
高校を卒業して、福岡の美容学校へ
高校を卒業した足立は、福岡の美容学校に進学する。東京や大阪の美容学校という選択肢はなかったという。 「微妙に近いし微妙に遠いしという感じで、福岡の美容専門学校に行くことにしました。家を出たかったというのもありました。大分はすごく田舎なので、あんまり遠くに行くという頭はなかったですね。福岡で十分遠いみたいな。当時は福岡で十分でしたし、東京は遠すぎて「東京ってなに?」という感じでした」
美容業界誌から一般誌まで、ページをめくれば彼の名前は必ず見つけられるだろう。その名は、エザキヨシタカ。サロンワークに加え、オンラインセミナーを開催し、ファッションブランドを展開し、イベントも開催する。美容業界の救世主か、それとも稀代の傾奇者か。大胆かつ謙虚な、美容業界を席巻する若き改革者の真実に迫る。(敬称略)
若い時にすべきこと
2009年に原宿にオープンした美容室grico(グリコ)。今では、全国から働きたいという美容師や美容学生が集まってくる。十数年前には、エザキも福岡で将来を夢見る美容学生だった。そんな美容学生に対して、エザキ流のアドバイスをもらった。
「美容師は人と人が関わる仕事なので、誰かのために何かしたいという想いを強く持つといいのかなと思います。それと、夢は大きくていいと思いますが、それが自分のことだと結局誰もその人に興味を持たなくなってしまうので、誰かのために何かをしたいという気持ちを大切にしてほしいですね。好きという気持ちがあれば相手も好きになってくれますし、それがないと結局何事もうまくいかないので。
あとは、嫌なことから目を背けずに努力してほしいですね。ワインディングが苦手という人は、練習してこなかったから苦手なわけで、そこは目を背けずに努力してほしいと思います」
客単価と生涯家族
せっかくなので、これからの美容師に求められるものついても聞いてみた。
「よく客単価と言いますが、それだけだと目の前の数字との戦いになってしまいます。しかし、お客様を本当に喜ばすことができて、心で繋がることができれば、そのお客様とは生涯家族になれます。それ以上の価値が生まれます。
例えば、もしお客様が偶然にもディーラーさんだったら、一緒に製品作りましょう、セミナーやりましょうとなるかもしれない。そこで利益が生まれれば、お互いに客単価以上の価値が生まれます。幸せの共有ができます。美容師は、もっと生涯家族ということを強く意識すべきだと思います」
「家族」の幸せのために
これまでも、またこれからも走り続けるエザキの目指すところはどこなのか。
「大先輩には「終身雇用とか簡単に言うものではないよ」とご指摘を受けるのですが、会社(=家族)としては目指して行きたいなと思っています。それと、美容師が、誰から見てもかっこいいと思える職業にすることができればいいですね。」
gricoのスタッフをはじめ、お客様やgricoに関わる全ての人のことを、エザキは「家族」と表現する。そんな「家族」を本当に大切にしているからこその目標である。
最後に、「エザキヨシタカにとって美容師とは?」という質問をしてみた。
「僕の全てですね。髪だけでなく、人の人生とか魂とかまで綺麗にできる職業なのかなと思います」
美容業界の改革者は今日も日本全国を忙しく飛び回り、どこまでも謙虚に、そしてどこまでも誠実に仕事と向き合っている。彼の愛する「家族」のために。
完
美容業界誌から一般誌まで、ページをめくれば彼の名前は必ず見つけられるだろう。その名は、エザキヨシタカ。サロンワークに加え、オンラインセミナーを開催し、ファッションブランドを展開し、イベントも開催する。美容業界の救世主か、それとも稀代の傾奇者か。大胆かつ謙虚な、美容業界を席巻する若き改革者の真実に迫る。(敬称略)
gricoの始まり
福岡にある大村美容専門学校を卒業してついに東京に出てきたエザキは、大手美容室に入社する。そこでスタイリストになり、その後フリーの美容師を経てついに美容室grico(グリコ)を原宿にオープンさせる。2009年の夏である。
その時エザキは24歳。しかし、決して順風満帆なスタートではなかった。
「2009年の8月1日オープンに向けて7月1日から内装準備を始めたのですが、7月24日にあるトラブルが発生してすごく大変でした。ある意味、gricoは1週間で作ったと言えますね」
オープン直前のトラブルにもかかわらず、なんとかオープンにこぎつけた。その後の快進撃はご存知の通りである。そこからエザキは全力疾走で走り続ける。そのスピードは他の追随を許さない。
全ては周りを幸せにするために
ヘアサロン「air(エアー)」の木村直人氏と共同で始めた会員制コミュニケーションサロン「Multiverse(マルチバース)」、サロン内でのファッションブランド「grico clothing」の展開、毎週最終金曜日にサロンのお客様を集めて開催するイベント「LAST FRIDAY」等、その活動は多岐にわたるが、全てはお客様、美容師・美容業界、スタッフのため。そこはブレない。
「オンラインサロンの「Multiverse」が目指しているのは、志の高い美容師が集い、美容師の地位やサロンの価値を上げ、美容業界の未来を明るくすることです。また、「grico clothing」は、お客さまとスタッフを幸せにするための材料を、少しでも多くしたいと思ったから始めました。髪を切ること以外で、美容師の職域をもっと広げられたら素敵だなと。
毎週最終金曜日に開催している「LAST FRIDAY」は、アパレルアーティストやクリエイターの方々とコラボレーションして、原宿というエリアをもっと盛り上げたいという想いからスタートした交流イベントです」
一見、やっていることはそれぞれバラバラに見えるかもしれないが、そうではない。全ての軸は共通している。お客様、スタッフ、そして美容業界のため。周囲を幸せにするために何ができるかを、絶えず考え行動しているのだ。
エザキ流SNSとの付き合い方
今はまさに空前のSNSブーム。SNSをうまく利用しているという人もいれば、SNSにはついていけない、苦手だという人も多いかと思う。エザキのSNSに対する考えはいたってシンプルだ。
「もちろん、今の時代としてはやらなくてはいけないと思います。しかし、上辺だけの嘘は書かない方がいいと思いますね。薄っぺらいところで何かやるのはダメです。例えばSNSがない時代、電話や雑誌がない時代は、「技術」「人間性」「空間」でお客様を満足させていたと思います。
でも今は、「技術」はあるとしても「空間」「人間性」をおざなりにしてSNSを頑張っている人が多いような気がします。もっと本質的なところに近づいて発信ができたら、一番効果的にSNSが使えるようになるのかなと思います」
テクニック的なアドバイスを期待していた読者にとっては、さぞかし驚かれたかもしれない。そう、エザキの考えは極めてシンプル。しかし、核心をついている。
美容業界誌から一般誌まで、ページをめくれば彼の名前は必ず見つけられるだろう。その名は、エザキヨシタカ。サロンワークに加え、オンラインセミナーを開催し、ファッションブランドを展開し、イベントも開催する。美容業界の救世主か、それとも稀代の傾奇者か。大胆かつ謙虚な、美容業界を席巻する若き改革者の真実に迫る。(敬称略)
周りに助けられた少年時代
生まれは長崎県長崎市。母子家庭で育ったエザキには、上に一つ違いの兄がいる。父親はいなかったが、周りの人たちが父親代わりとなり、色々とサポートしてくれた。
「小学生時代は委員長というか、リーダー的な役割を担う感じの子供だったのですが、中学生になるとなぜか急にやる気がなくなってしまいました。それで、中2までほとんど勉強していなかったのですが、兄が親に迷惑かけまいと受験で頑張って県内有数の進学校に合格したのです。
それで、自分もやらなければと思い、一念発起して中2から猛勉強を始めてなんとか同じ高校に合格しました。私立はお金がかかりますし、母親に金銭面の負担をかけるわけにもいきませんでしたからね」
人生を決めた体験入学
高校に入学したエザキだが、勉強中心の毎日に嫌気がさして、高校生活に馴染めなくなってくる。
「中学の同級生とは話が合うのですが、高校の同級生となるとみんな真面目だし、しかも勉強合宿があったりなんかして大変でした」
そんな毎日を過ごしているうちに、周りは大学受験ムードになる。しかし、当時のエザキには大学に進学するという考えはなかった。美容専門学校の体験入学で行ったワインディングが楽しくて、美容師になろうと思っていたのだ。
「長崎の美容専門学校でワインディングの体験をさせてもらったのですが、それがすごく楽しくて。その時に、好きなことを仕事にしたいと思いました」
美容師になろうと決めたエザキだが、そのための美容専門学校を探すことに苦労をすることになる。
「当時、僕の高校はほとんどが大学に進学するのが普通だったので、専門学校の情報を学校ではあまり教えてくれませんでした。当時は今と異なり、インターネットを使用するのもお金がかかる時代でしたから、本屋さんに行って美容専門学校を調べて自分で資料請求とかしていましたね」
福岡の美容専門学校で日本一を目指す
母親の負担を少しでも減らすため、アルバイト禁止の高校にもかかわらず先生に頭を下げ、特別にアルバイトを認めてもらった。そんな心優しい先生と一緒に過ごした高校生活も、やがて卒業とともに終わりを迎え、エザキは福岡にある大村美容専門学校に入学する。
「大村に決めた理由は、ヴィダルサスーンでも賞を取っていたという点が大きかったです。どうせ美容師になるなら、日本一の美容師になろうと決めていましたし、そのためには日本一の学校に行くしかないと思って決めました。そもそも、東京や大阪の学校に行くお金もなかったですし」
大村美容専門学校に入学したエザキは、友達と一緒にアパートを借りて、遅刻もせずに毎日真面目に授業に出席する。
「授業は本当に真面目に出ていましたね。あと、誰とでも仲良くなれる性格からか、リーダーを任されたりしていました。授業の後は、ピザ屋でアルバイトもしていました」
絵に描いたような真面目な学生生活を送っていたエザキだが、ついに美容学校を卒業して、社会という大空へ羽ばたく日がやってくる。いよいよ、東京という未知なる街に足を踏み入れる瞬間がやってきたのだ。
続く