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横藤田 聡〜笑顔の理由 Vol. 3〜

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

GALA

渋谷でフリーの美容師として3年半働いた後に、満を辞して自身の美容室「GALA」を渋谷にオープンした。

「物件との出会いが一番大きかったですね。これだけ混沌としているエリアだと、理想の物件になかなか出会えるわけではありません。いつでも物件を探すことができるように、フリーの美容師として働いていた部分もあったので、この物件を見てすぐに決めましたね」

店名の「GALA」は、ある女性の名前からヒントを得て命名した。

GALAという名前をつける際に、自分の想いとかは店名にあまり乗せたくありませんでした。時代が変わっても普遍的に存在し続けられる店にしたいと考えていたのですが、昔見たNHKの深夜番組で、GALAというスペイン人の女性の特集がされていてそこから取りました」

GALAは画家のサルバドール・ダリの妻だった女性だが、結婚後はダリの仕事面にも多大な影響を及ぼし、かつ男遊びも激しかった。

「男遊びが激しくてファッショナブルで、男の仕事まで影響を及ぼす女性はすごく強い女性だと思いました。今の世の中で言ったら、見かけはとっつきづらいけど、コミュニケーションを取るとすごく魅力のある女性というか・・・。それが、店のある渋谷のイメージと重なったので「GALA」という店名にしました」

ローカルビジネス

渋谷にGALAがオープンしてから、5年が経過した。当初思い描いていた通りに進んでいることもあれば、そうでないこともある。

「一日単位で考えると、もちろんイメージと違う日もあります。働くメンバーも変わりますし、そこはその都度臨機応変に対応していくのが自分の役割だと考えているので、あまり一喜一憂しないことが重要なのかなと思います。逆にイメージ通りにうまく行ってるなと感じた瞬間があるのならば、そういう時にあまり浮き足立たないようにというか、気をつけるようにしていますね」

ビルの2階でオープンしたGALAだったが、昨年に1階フロアにも拡大した。

「この1階と2階で、自分も含めたスタッフ全員に美容師を思い切り楽しんでもらいたいと考えています。昨年拡大したばかりなので、まずは一人でも多くのスタッフにいきいきと美容師をやってもらえたら嬉しいですね」

GALAで働いている美容師は皆、表情豊かで楽しそうに仕事をしている。まるで、こちらまで元気になるような気がする。

「あまりチェーン店やフランチャイズのような拡大の仕方は考えていなくて、渋谷という都会に店はあるのですが、ここにしかないローカルビジネスっぽさを出していきたいと思っています」

メッセージ

GALAには毎年たくさんの新卒の応募が来る。将来の美容業界を担う若者に対して、横藤田がそんな若者に是非伝えたいことがある。

「自分にとっての美容専門学校時代の2年間は、かけがえのないくらいとても楽しかったですし、ずっと卒業したくないと周囲にも言っていました(笑)。学生生活を最後の最後まで、エンジョイしてほしいと思いますね」

横藤田自身、学生時代に就職活動などで不安になった時に助けになったのは、美容専門学校の仲間だった。

「美容専門学校時代の2年間というのは、期間限定の2年間です。遊びも大事ですが、コンテストに出たり、先生からアドバイスをもらうなどして積極的にチャレンジしてほしいと思いますね。美容専門学校の先生はやはりすごいですから」

セミナーで全国を飛び回る横藤田は、これまで数えきれないくらいの美容師と出会ってきた。

「私のお店はカラーをスペシャリティとしてやっているのですが、そのカラーに対する難しさを誤魔化さずに、謙虚にやってる美容師さんをたくさん見ています。真面目で、真剣に毎日考えている人が集まっていて、自分もそれで美容師という職業は楽しいなと思わされますね」

高校生の時に決めた美容師という職業は、横藤田にとってまさに天職だった。

「お客さまだけでなく、全国の美容師さんにプラスになることを与えられるような美容師になりたいですね」

横藤田の笑顔のもと、今日もGALAは熱気に満ち溢れている。

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

本気

国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した横藤田。担任の先生から発破をかけられたこともあり、1年生の2学期からついに本気を出した。

「ものすごく練習しましたし、コンテストもたくさん出場しました。器用なタイプではなかったので、ひたすら練習しました。自分の学生生活の中で、専門学生の時代が一番楽しかったですね」

授業の後も学校に残って夜遅くまで練習をしていた。大変だったが、毎日が充実していた。

「もし自分が希望する美容室の内定をもらえなかったら、国際文化の先生になりたいと思っていました。先生からは絶対無理だと言われてましたが(笑)。それほど国際文化が好きでしたね」

高校時代から髪を切りに通っていたshimaに就職することしか考えていなかった。

「shimaの面接の時に何も質問されなくて、これはダメかなと思ったのですが、なんとか拾ってもらいました」

社会人

念願のshimaに就職することができて、社会人生活が始まった。

「今はもうないのですが、吉祥寺のお店で働いていました。六畳一間の、築30~40年の家で一人暮らしをしていました。家には寝るために帰るという感じでしたね」

朝から晩まで仕事に明け暮れた。終電で帰れない日も1日や2日ではなかった。

「厳しい生活はアシスタント時代で終わると思っていたのですが、スタイリストになっても結局売れなくて、6年間ぐらいはそんな感じでしたね」

忙しい毎日を過ごしていく中で、横藤田の中である思いが徐々に芽生えてきた。

「当時、兄が美容師として独立していて自分もそのようになりたいというか、追いかけたいと思い始めました」

独立

自分の美容室を持つための準備をするために、横藤田はshimaを退社した。そして、次の新天地として選んだ場所は、渋谷だった。

「当時の渋谷はエクステ中心の美容室が多くて、ほとんどの美容室は原宿にありました。ただ、渋谷にいる人はおしゃれだし、今後は渋谷が絶対に盛り上がると思いました。なので、渋谷を選びました」

将来自分の美容室を持つための準備期間として、渋谷でフリーの美容師として働く道を選択した。

「当時は独立して自分の店を持つといっても、そこまでお客さんもいませんでした。店を持ってやっていけるのかどうかも分かりませんでしたので、フリーの期間の間にお客さんの数を増やしてこうと思ってました」

フリーの美容師として働きながら、独立してやっていくために自分に足りない部分を補っていった。

「将来の美容室の開店資金を貯めるというのもそうなのですが、それ以外の自分自身の力をつけるための期間にしようと思ってましたね」

勉強期間として前向きに捉えて、フリーの美容師として渋谷で働いていたが、ある物件との出会いが横藤田を突き動かした。

続く

渋谷の中心地に、まるでインテリアショップのような佇まいの美容室GALAがある。高度なカラーリング技術を中心としたその確かな技術のもとには、全国から顧客が訪れる。そんな大人気美容室GALAを率いる「横藤田 聡」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

テニス

横藤田は東京都の福生市出身。小学生の頃は、ハイパーヨーヨーが得意な子供だった。

「大会などに出場したりもして、すごくハマってましたね。コレクションもしていました。母親
から野球やサッカークラブに入るなと言われていたので、スポーツとかは特にしていませんでした」

中学生になると、テニスに熱中した。

「通常、中学校では軟式テニス部が多いと思うのですが、自分の中学校は硬式のテニス部で珍しかったですね」

数ある部活の中からテニス部を選んだことには、理由があった。

「どうせやるならレギュラーで試合に出れる部活が良いなと思っていたのですが、野球やサッカーは小学生の頃からやってる人が多いイメージだったので、テニス部にしました」

努力の甲斐もあり、中学3年時にはレギュラーになることができた。

「やはりレギュラーになれると楽しくて、そこから熱が入ってすごく練習もやりましたね。勉強はそこまで得意ではなかったので、成績は普通でした(笑)」

進路

中学を卒業した横藤田は、地元の高校に進学した。

「進学した高校は、公立高校の中ではテニスの強豪校でした。テニス部に入部して、キャプテンをやりながら3年間テニス漬けでしたね」

当時、横藤田はテニス部で忙しい合間を見て、原宿の美容室に通っていた。

「ファッションは中学生の頃から興味がありました。部活で日焼けした真っ黒な肌で原宿の美容室に行って、カットしてもらってました」

やがて、高校卒業後の進路を決める時期に差し掛かった。

「自分の兄が美容師で、美容学校に進んでいたこともあり、父親からは大学に行くように言われてました」

決してキャリア云々ではなく、大学4年間で濃密な楽しい時間を過ごして欲しいという親心からのアドバイスだった。

「兄が美容学校に行ったことで、自分としても美容学校はイメージしやすく進みやすい道でした。選択肢として選びやすかったですし、当時通っていた原宿の美容室「shima」に憧れていたこともあり、美容専門学校に行くことにしました」

美容専門学校

高校を卒業した横藤田は、国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した。

「地元から近かったというのと、やはり大きな学校で有名なので決めました。厳しい学校と聞いていたのですが特にそれが理由ではなく、自宅から近くて通学も楽なので、しっかり通えるかなと思い決めました」

美容専門学校には、実家から通った。

「1年生の時はコンテストとかにも特に出なかったですし、成績も優秀ではありませんでした。追試があっても学校に残らなかったので、1学期の終わりに、担任の先生から「いい加減本気になりなさい」と怒られました」

高校時代は、熱中していた部活以外の自分がやりたくないことは、上手に逃げてなんとかやってきた。しかし、美容専門学校ではそれが通じなかった。

「高校時代と同じようにはできないと気付いてからは、本気で学校生活を送ろうと思いました。そこからはすごく楽しかったですね」

学校生活に本気を出した横藤田。それからは、これまでのことが嘘のように全てが好転していった。

続く

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

葛藤

自分が本当に働きたいサロンはここではない。心の奥底にそんな思いを抱えて、毎日葛藤しなが働いていた。

「ちょうどその頃、DJやイベントの主催をまたやり始めて、色々な人と話す機会がありました。最初は自分のサロンのことを話すのが嫌だったのですが、話してみると働いているサロンを知っている人が何人もいて、自分の評価がサロンの評価に直結していると気づきました。それからは、環境のせいにするのはやめようと思い、仕事に対するマインドが変わりましたね」

いつの間にか、仕事に対するネガティブな気持ちは消えていた。サロンに骨を埋めるつもりで、一生懸命に働いた。そんな中、ある運命的な出会いが橋本を新たな行動に駆り立てた。

「当時読んでいたWARPという雑誌に紹介されていた飲食店が渋谷にあって、週3日通っていました。ある時、その隣にある美容室が撤退して物件が空いているという情報をもらい、勢いのまま契約してしまいました」

独立

働いているサロンを辞める前に、なんと物件の契約をしてしまった。

「当時は25歳でお金もないし少しビビったのですが、周りの応援もあり、契約してしまいました。その頃は銀行でお金を借りるという知識もなくて、必要な資金は親に借りましたね」

当然のことながら、働いていたサロンにはこっぴどく叱られた。しかし、橋本の熱意も伝わり最終的には理解を得て、5年間働いたサロンを円満退社することになった。そして、満を辞して自身のサロン「PELLS HAIR」をオープンさせた。

「最初はお客さんがゼロでした。なので、近くの様々な飲食店に頻繁に飲みに行って、そこで友達を作って髪を切りに来てもらうというところからスタートしました」

未来

ゼロからのスタートだったが、努力の甲斐もありやがて経営が軌道に乗り始めた。そして、独立して1年後に、隣にカフェをオープンさせて人が集まる場所を作り出した。また、2階にもイベントスペースを作った。

「イベントスペースを若い世代の子達に貸出して、沢山のカルチャーを育ててきました。その後も青山に2号店、原宿にキッチンカーをオープンさせました」

今年になり、橋本は8年続いたカフェ業態を閉店した。美容に力を入れるためだ。

「今後は多店舗化をしていき、そこで今までの美容室とはまた違った新しい形の美容室を作ろうと思ってます」

新しい世代に対する橋本の期待は大きい。最後に、将来の日本の美容業界を担う若者たちに対するメッセージをもらった。

「コロナの影響で行動の制限というのはあると思いますが、色々な経験を自らしに行くというのは大切だと思います。インターネットだけでは見えない部分を自分は肌で感じてきた方だと思うので、皆さんにも是非やってほしいですね。バイトでも遊びでも趣味でも良いので、色々やってみるのが大切だと思います」

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業した橋本は、福岡県にある大村美容ファッション専門学校に入学した。

「その当時、一番厳しい専門学校に行きたいと思って調べたところ、国際文化理容美容専門学校、山野美容専門学校、大村美容ファッション専門学校の3校であることが分かりました。いきなり東京に出るのは怖いなと単純に思ったのと、一番厳しいのは大村と言われたので、大村美容ファッション専門学校を受験することにしました」

他の美容専門学校は受験しなかった。

「本当かどうか分かりませんが、当時は倍率200倍と言われていたので合格できてよかったです」

生まれ育った山口県を出て、福岡県での一人暮らしが始まった。

「一人暮らしはすごく楽しかったですね。山口から福岡に行って、カルチャーショックを受けました。おしゃれな人、かっこいい人が沢山いて・・・」

専門学校には真面目に通った。

「学校は皆勤賞でした。一日だけ、風邪かインフルエンザで休んだ記憶があるくらいですね。非常に厳しい学校だったので、真面目に通いました。スマホも禁止でしたし・・・」

就活

厳しい学校だったおかげで、これまでの自分の弱いところは全て矯正された。勉強も遊びも一生懸命こなしていた。

「当時は居酒屋でアルバイトをしながらDJをして、自分でイベントを主催したりしていました。学校とアルバイトで、ほぼ寝る暇がなかったですね」

忙しい毎日を過ごし、やがて自分の就職先を決める季節に差し掛かった。

「当時は、働くなら東京しか考えていませんでした。東京に唯一行きたかったサロンがあったのですが落ちてしまい、それでもう美容師辞めようと思いました(笑)」

自暴自棄になってしまった橋本に、専門学校が助け船を出してくれた。

「専門学校が勧めてくれたサロンを受けて、なんとか合格しました」

東京

大村美容ファッション専門学校を卒業して、東京での社会人生活が始まった。

「そのお店はとても厳しく、始発から終電まで働いて、お店に泊まることもありました。ホテルのようなサービスを提供するサロンだったので、かなりしごかれましたね。言葉遣いから直されました(笑)。今なら方言なども個性として認められると思うのですが、当時のそのサロンは違ってました」

そんな怒涛の毎日を過ごす中で、橋本に衝撃的なニュースがもたらされた。なんと、美容師免許の国家試験に落ちてしまったのだ。

「本当なら試験に落ちた時点で働いていたサロンはクビになるのですが、なんとか次の試験までチャンスをもらって・・・」

筆記も実技も自信があったのに、なぜ不合格だったのか?。原因を調べると、意外な事実が判明した。

「学校の先生とウイッグを調べたら、そのウイッグに穴が空いていました。練習のし過ぎで、一箇所だけハゲになってる箇所があったのです。単純な自分のチェックミスでした」

結果的に、2回目の国家試験では無事に合格することができた。当時働いていたサロンは、いわゆるコンサバで綺麗目な店だった。

「働いていたサロンは自分の趣味とは違っていたので、嫌になった時期もありました」

続く

若干25歳で代官山に自身の店をオープンさせた美容師がいる。自分のやりたいことだけをするその生き方は、誰しも理想とするところだが、決して誰しもできるわけではない。自分の心に正直に、その類い稀な行動力とセンスで道を切り拓いてきた美容師「橋本雄大」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)

山口県

橋本は山口県山口市出身。公務員の父親と保育士の母親の元に生まれた。

「小学生の頃はミニ四駆に熱中してました。後は、友達とバスケやサッカーを少しやっていましたね」

地元の中学校に進学してからは、野球部に入部した。

「本当はバスケ部に入りたかったのですが、その中学にバスケ部がなかったので野球部にしました。最初の1年は一生懸命やったのですが、2年目から初心者の先生に変わったので、すごいだれてしまいましたね」

将来は車屋かバイク屋になりたかった橋本は、工業高校に進学するつもりで校内推薦を受けたが落ちてしまった。

「推薦なので名前を書けば受かるだろうと言われていたのに、まさかの不合格でした。中学校時代の素行が良くなかったので、内申点で落ちてしまったんだと思います(笑)」

補欠合格

そこから一念発起して、受験勉強に没頭した。

「工業高校に落ちるとは一体どういうことなんだというか、悔しくて・・・。ただ、最終的に入りたい高校に補欠合格できたので、そこに入学しました」

なんとか希望の高校に滑り込みで入学した橋本は、バスケに熱中した。

「やっとバスケができるのが嬉しかったですね。スラムダンクと父親の影響でバスケをやりたかったですが、それまで出来なかったので」

父親からは、バスケさえやってくれれば他に何をしてもいいと言われていた。

「高校3年間バスケをやって、結果は出なかったですが楽しかったですね。周りは小中からバスケをしているので、自分とはレベルが全然違って最初はすごくつまらなかったですが(笑)」

美容師

やがて、高校卒業後の進路を決める時期に差し掛かった。

「高校生になって通い始めた美容室があったのですが、そこは暑かったら扇風機を当ててくれたり、喉乾いたら飲み物を出してくれたりして。そんなサービスをこれまで受けたことがなかったので、美容師はかっこいいなと本気で思うようになりました」

小学生の時からおしゃれが好きで、髪型やファッションに興味があったこともあり、将来は美容師になることに決めた。

「最初、父親には美容師になることを反対されました。しかし、記憶にはないのですが、専門学校の資料を取り寄せて自分で願書を出したりしたので、父親もその熱意に負けて結果的には何も言えなかったようです」

続く

渋谷の一等地に、内装からインテリアまで徹底的にこだわり抜いたヘアサロン「COUBOU」がある。 そんな心地よい空間を演出するサロンのオーナー、門田泰斉がこれまで歩んできた道とこれからに迫る。(敬称略)

スタイリスト

結果的に、働いていたサロンでスタイリストになるまでに4年かかった。

「スタイリストになってから半年ぐらいは、全然売り上げも伸びませんでした。当時は今と違ってSNSのようなものも少なく、集客に使えるのはブログぐらいだったので、ブログに注力していました。それと、会社からフリーのお客さんを回してもらえたので、そのお客さんにいかにリピートしてもらうかをずっと考えていましたね」

試行錯誤を重ねて、1年後にやっと100万円の売り上げに達した。

「当時は先輩たちがすごい売り上げの数字を出してたので、早くそこに追いつかないといけないと思いながら日々過ごしてました」

毎日を必死に過ごしていく中で、門田に転機が訪れた。当時働いていたサロンの代表が独立して店を出すことになり、門田も誘われて一緒に働くことにしたのだ。

「当時は売り上げもある程度ついてきてましたが、それ以上突き抜けないというか、伸び悩んでいました。なので、環境を変えたいという思いもあり、そのタイミングで新しい店に移りました」

独立

心機一転、新しい環境で新生活をスタートしたはずの門田だったが、予期せぬ思わぬ展開が待っていた。門田が関与しないところで会社にトラブルが発生して、サロンの営業を継続することが困難な状況に追い込まれたのだ。

「会社にトラブルが発生したので、急遽辞めざるを得ない状況になってしまいました。これからどうしようかと悩みましたね」

他のサロンに転職することも考えたが、どこかに属している以上は自分のやりたいことが出来ないと分かっていた。

「色々考えて、当時働いていたそのサロンが閉店することになったので、そこをそのまま借りて、名前だけ変えて自分の店として営業することにしました」

結果的に、門田がオーナーになってサロンを経営することになった。名前は「COUBOU」と名付けた。

 「名前の由来ですが、「攻防」「好望」「工房」の3つの組み合わせと、繰り返しのワードが良かったので「COUBOU」に決めました」

未来

その後、COUBOUは渋谷の別の場所に移転した。

「当時のお店は自分が作ったわけではないので好みの内装ではなかったですし、やはり内装をゼロから作りたいという思いがありました。美容師は特に朝から晩までお店にいるわけで、そこが心地良い空間じゃないと自分も嫌だし、それはお客さんも同じだと思ったので・・・」

建築やインテリアが好きだったこともあり、内装には徹底的に拘った。

「このビル自体、元々1階と2階がアパレルのお店で、COUBOUがある3階は事務所でした。ゼロから作ったので、すごくお金がかかりましたね(笑)」

自分が思い描いていた理想と現在地は、そんなに離れていない。

「ある程度の自分のイメージには着地しているのかなと思いますし、毎日楽しんでやっています。今後は人材を増やすと同時に、店舗も増やしていきたいですね」

自身が理想とするサロンが完成して、また新しい旅路が始まった。

「美容師という職業はもちろん好きなのですが、今後はそれ以外のことも何かできたらいいかなと思いますね。人生長いので、美容師だけ50年ずっとやるというのも多分飽きてしまうと思うので・・・(笑)。何かまたきっかけがあれば、美容師と同時並行で違うこともやってみたいと思います」

今後の門田とCOUBOUの動向から、ますます目が離せない。

渋谷の一等地に、内装からインテリアまで徹底的にこだわり抜いたヘアサロン「COUBOU」がある。 そんな心地よい空間を演出するサロンのオーナー、門田泰斉がこれまで歩んできた道とこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業した門田は、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。

「当時流行っていた「CHOKI CHOKI」という雑誌で、かっこいいなと思っていた人がそこに通っていたということと、自分でも調べたら有名な学校だったのでそこに決めました」

島根県を出て、東京での一人暮らしが始まった。

「当時は学校のある国分寺駅の近くに住んでいました。一人暮らしはすごく楽しかったですね。親に色々言われて育ってきたので、うるさく言う人がいなくて一人で自由になんでもできる環境が嬉しかったです(笑)」

アルバイトをしながら学校には休まずに通った。

「当時は飲食店でアルバイトをしていましたが、飽きっぽいので3ヶ月くらいで辞めてまた次の仕事をするという繰り返しでしたね。将来は都内の有名なサロンで働いて、美容師として大成してやろうと漠然と思ってましたが、そのために何か行動していたかというとそんなことはなかったです」

やがて、就職活動の時期に差し掛かった。

「当時は希望していたサロンが何社かあったので就職活動をしたのですが、受かりませんでした。なので専門学校を卒業しても就職はしませんでした」

社会人

美容専門学校を卒業した門田は、半年間フリーターをした。

「周りからいい加減働けと言われて、当時住んでた沿線上で求人募集しているサロンがあったので、そこに新卒で入社しました」

専門学校の同級生から遅れること半年、門田は社会人としてのスタートを切った。

「そこでの仕事は楽しかったです。ただ、入社して半年後に肺気胸という病気になってしまい入院しました。その時に、やはり都内で働きたいと思ってオーナーに頭を下げて退社させてもらいました」

新卒で入社したサロンを半年で退社した門田は、そこから1年間またフリーターをした。

「生活費を稼ぎながら就職活動をするために、フリーターをしていました。当時は派遣のアルバイトがすごく流行っていたので、美容以外のありとあらゆる仕事をしました。その経験がなければ、逆にここまで美容師という職業を続けられなかったと思います」

夏の炎天下での肉体労働から内職系の仕事まで、門田は様々な仕事の経験をした。

「周囲の友達が大学生ばかりだったこともあり、彼らが卒業して就職する年齢である22歳までに、自分もまた就職すればいいやと考えてましたね」

再就職

当時、門田にはどうしても働きたいサロンがあった。しかし、過去2回応募したが受からなかった。

「3回目なのでいい加減働かせてくれという気持ちで応募して、やっと採用されました。」

ついに念願のサロンに入社して、美容師としての生活が始まった。

「入社したときはシャンプーしかできなかったので、本当にゼロからのスタートでした。前の会社でカラーもしてたのですが、それを見せたら「使い物にならない」と言われて(笑)」

そのサロンはスタッフの入れ替わりが激しかったので、続ければ自分でも簡単に上に行けるのではないかという安易な気持ちがあった。

「毎日朝から晩までで大変でしたが、慣れてくるとすぐサボる癖が抜けなかったですね。練習するのですが、褒められるまでやるタイプではなかったです」

続く

渋谷の一等地に、内装からインテリアまで徹底的にこだわり抜いたヘアサロン「COUBOU」がある。 そんな心地よい空間を演出するサロンのオーナー、門田泰斉がこれまで歩んできた道とこれからに迫る。(敬称略)

島根県

門田は島根県で生まれ育った。田舎ということもあり、幼少期は外で遊ぶことが多かった。

「小学校の時に少しだけサッカーをやっていたのですが、すぐ辞めてしまいました」

中学校では、野球部に入部した。

「仲の良い友達が野球部だったので自分も野球部に入りましたが、別になんでも良かったというか・・・。特に野球をやりたいとかではなかったですね」

昔からひとつのことを続けるのが得意なタイプではなかった。流されるまま野球部に入部して、3年間が過ぎた。

「今思い出しても、中学生の時の記憶はほとんどないです(笑)」

獣医

その当時、門田の将来の夢は獣医になることだった。

「昔から自然や動物が好きだったので、将来は獣医さんになりたいと思っていました」

獣医になるには、高校は地元でも名が知れていた進学校に入学する必要があった。

「中学生の頃は特に勉強を頑張っていたとかはないのですが、第一志望の高校に入るための勉強だけは頑張っていました。その高校に入学するために、塾にも通ってましたね」

努力の甲斐もあり、無事に第一志望の高校に入学することができた。将来の夢を実現するための第一歩を踏み出したはずだった。しかし、そこで門田を待ってたのは過酷な現実だった。

挫折

「入学してすぐに、この高校には付いていけないと思いました。周りが半端なく勉強する環境で、1限の前に0限というのがあってそこでも授業があるような高校でした」

部活はテニス部に入部するも、わずか一年で退部した。

「何をやってもすぐ飽きてしまい、全然続かないような高校生活でした。髪を染めたりメッシュを入れてみたりして、学校にはよく注意されてましたね。当時は洋服が好きだったので、部活を辞めた後は地元の馴染みの洋服屋さんに入り浸ってました」

結局、獣医になる夢は諦めた。

「勉強ばかりの周りに付いていけなくて、早々に獣医になる夢は諦めました。ちょうど中3ぐらいからファッションに興味を持ちはじめて、髪の毛をいじるのも好きだったこともあり、獣医ではなくて美容師がいいのではないかと思い始めました」

通っていた高校には、美容師を志す生徒はいなかった。

「やはり美容師は安定していない職業ですし、もともと皮膚が弱くて肌荒れがひどかったので、親からは反対されましたね」

進学校特有の、高校卒業後は大学に行かなければいけないという空気が漂う中、門田は美容師になるために美容専門学校に行くことを決意した。

続く