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中井宏昭〜ブランドを創る Vol. 3〜

毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)

独立

順調に美容師としての道を進んでいた中井だったが、親の事情で実家の理容室を手伝うことになった。

「新卒で入社した時と同様、親が勝手に社長に辞めさせてほしいと伝えて、結局実家を手伝うことになりました(笑)」

実家の理容室を手伝った後、中井は27歳で金沢文庫に美容室をオープンさせた。その後、鎌倉に移転して名前をbiancaとして、再出発を果たした。当時、出店するなら都内か横浜が理想だと考えていた中井だったが、選んだのは鎌倉だった。

「まずはサロンが強いブランドになる必要があり、そのためにはその街にカルチャーが存在していない限りブランドにはならないと考えていました。そんな時、偶然鎌倉に来たときに良い物件に出会って、瞬間的にここならいけると思いましたね。まずは鎌倉のブランドになるぞと思って決めました」

そこからは、スタッフに地域のコミュニティに積極的に参加してもらい、中井自身も人脈を広げるために連日飲み歩いた。

「新規でおしゃれなお店を立ち上げたからといってお客さんが来るわけではないので、人となりを理解してもらう意味でも、街のコミュニティにどんどん参加していってもらいました」

地域との繋がりができるようになると、徐々にお客さんも増え始めた。

「結局、チラシを撒いたからといってお店に来るような地域ではなかったので。やはり人間関係で顧客を獲得していきましたね」

padme

地道な努力が身を結び、やがてbiancaは鎌倉を代表するサロンに成長した。そして、2021年4月に2店舗目となるpadmeをオープンさせた。そこには、オーナーは一歩引いて、人をプロデュースすべきであるという中井の哲学があった。

「世の中はオーナーが目立って活躍している美容室が多いですが、その後もそのサロンが永続的に素敵な状態で続いているというのをあまり見ません。なので、自分はサッと引いた方がいいというのをまず考えました」

padmeは、数々のコンテストで受賞歴のあるHITOMIが前面に出て率いている。

「自分が20歳くらいの時にはShimaさんを凄いサロンだと思っていましたが、そこから20〜30年経った今でも、美容学生さんからすごいサロンと思われています。30年の時を経ても、いまだに凄いと思わせるのはどういうことなのかを深く考えましたね」

その結果辿り着いた答えは、裏方に回るということだった。

「まず自分が引いて、次の時代に合った美容師をプロデュースし続けることができれば、ハイブランドとして生きていけるのではないかという仮説を立てて進めているところです」

美容師

中井の元には、毎年全国の美容専門学生から数多くの新卒採用の応募が舞い込んでくる。そこで、美容専門学生に対して学生時代にやった方が良い貴重なアドバイスをもらった。

「美容専門学生時代は、自分をどこまで高められるかというか、どこまでストイックに技術等を学べるかが大切だと思います。うちの店の設定だと、26〜27歳くらいまでの努力で決まる部分が多いので、その年齢までどれだけ努力できるかが大切ですね」

これを読んでいる現役の美容専門学生には、今のうちからできる努力をしてほしい。

「あとは、人に好かれる人間性が大切なのかなと思いますね。僕は美容師以外のもう一つの顔としてライバーをやっているのですが、あれも結局インスタのフォロワーと異なり、自分のことを毎日見たいなと思う太いファンを作らないと推しになりません。これは美容業界も同じです。どうしたら色々な人の推しになれるのかを考える必要があります。なので、SNSをやるならその中でも割と自分を表現できるSNSで頑張った方が良いと思いますね」

気が付いたら、中井は専門学校を卒業してから美容師をずっとやっている。

「自分は最初やりたくてやっていたわけではりません。それでもここまでやっているというのは、それなりに面白いからだと思います。「人」であったり「技術」であったり・・・。他の仕事より面白さはあると思うし、長い時間追求できるので素敵な仕事だと思いますね」

中井のサロンには、若きスター候補の美容師たちがたくさんいる。そして、今日も切磋琢磨しながら輝き続けている。

「流されずに舐めないでとりあえず全力でやった方が良いし、それができる仕事なのが美容師です。美容師は自分自身の全てを曝け出して、自分という人間を売っていく仕事なので、自分の実力を試す場として思い切りやってほしいですね」

鎌倉から日本を代表するブランドサロンが誕生する瞬間は、そう遠くない。

毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)

専門学校

やりたかったことはDJだった中井にとって、専門学校での勉強は最優先事項ではなかった。

「専門学生時代は、死んだ魚の目をしている学生でしたね(笑)。やる気がないというか。その時は忙しくて、FM番組のDJとかもやっていました。DJの師匠のところにきた仕事の中でやりたくないものは全て弟子にやらせてというような感じでしたので、自分が師匠の代わりに新譜のレビューを書いたりとかもしていましたね」

当時中井が通っていた専門学校は一年制だったため、何か強い思い出があるわけではないが、卒論では思い出す事がある。

「ビジネスについて書いてみようかなと思って、ビジネス書を幾つか買って、それを参考にして美容ビジネスの10年後について書きました。そしたら、その卒論が最優秀賞として1位になりました」

社会人

専門学校を卒業した中井は、神奈川県の美容室に就職した。

「いわゆる就職活動は何もしていません。親がゴルフのコンペで一緒になった偉い先生がいて、そのタイミングで「うちの息子を預かってくれないか?」と頼んで、勝手に就職先を決めてきてしまいました(笑)」

当時のDJは、今ほど稼ぐことができなかった。DJか美容師か進む先を悩んだ結果、中井は美容師の道に進むことを選択した。

「とりあえず親の顔を立てるためにも逆らわずに入社しましたが、内心では1年ぐらいで辞めよう思っていました」

転機

入社した最初の1〜2年は手荒れも酷く、やる気も起きなかった。しかし、ある出来事をきっかけに、中井の仕事に対する姿勢が変わり始めた。

「強制的にコンテストに出場することになったので、先輩に色々教えてもらいながらやったところ、いきなり入賞してしまいました。それで、「これってもしかしたらいけるのかな?」と急に自信がついて、やる気も出てきましたね」

25歳頃には、出場するコンテストほぼ全てにおいて楽に入賞できるほどになっていた。その影には、中井の並々ならぬ努力があった。

「上手い人を実際に見に行ってその所作をコピーしたり、業界誌の作品をチェックして、その作品を作った意図を理解できるまではページをめくらないというようなことをしていました。それと、自分が気に入った作品を切り取って、自分の部屋の壁に貼ったりしてましたね。それをいつも見ていたので、バランスなど全てインプットされていきました」

続く

毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)

美容師の家庭に生まれて

中井の実家は祖父の代から美容室を経営していた。祖父の影響で、幼少の頃から新聞を読むのが日課だった。

「後継ぎになりたくなかったので、勉強して大学行こうと思ってました。新聞を読んでいたお陰で、何かが起きた時に次はこうなるという、先を読む力が養われた気がしますね」

地元の中学校に入学した中井は、水泳部に入部した。

「小学生の時にサッカーを一緒にやっていたメンバーが、中学生になるとみんな水泳部にいたので(笑)。それで自分も流されて水泳部に入りました。自分の意志はそんなに強くない子供だったと思います」

中学を卒業した中井は、地元の高校に入学した。

「どうしても家業を継ぎたくないという一心で、勉強して地元の進学校に入学しました。飲み込まれたくなかったというか・・・」

DJ

高校に入学した中井は、徐々に遊びの道に引き込まれていった。

「高校からDJを始めて、DJスクールにも通っていました。そのスクールで開催されたDJバトルで偶然優勝して、そのまま審査員だったDJの方のお店に弟子入りしました」

水泳部では、偶然の出会いもあった。

「高校1年で水泳部に入部した時に、3年生は一人しかいないと言われていました。そこで部室に行くと、その3年生の先輩ともう一人カッコ良い人がいるなと思ったら、EXILEのHIROさんでした」

今をときめくEXILEのHIRO氏は、なんと中井の高校の先輩だった。

「高校生になるとこんなにカッコ良い人たちがいるんだと、ビックリしましたね。HIROさんは当時マハラジャというディスコの店員をやっていて、お店に入れてあげるから遊びにきなさいと言われて、遊びに行ったりしていました」

進路

そこから、中井は徐々に夜の煌びやかな世界に魅了されていった。

「ちょうど、そのマハラジャのメインのDJをされてた方の弟と仲良くなり、自宅に行くとDJのお兄さんが教えてくれたりして、色々学びました」

高校を卒業した中井は、美容の専門学校に通った。当時はDJとして生きていこうと考えていたので、専門学校に通いながら、DJの活動も並行して行っていた。

「親から、どうせ遊んでいるんだったら免許ぐらい取っておけと言われて、気付いたら学校も勝手に決められていました。なので、行きたくて行ったのではなく、親に言われたので仕方なくという感じでしたね」

続く

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

独立

順調な日々を過ごしていたKOUSEIだったが、SHACHUに入社して5年目に独立した。

「SHACHUで店長をしていたのですが、その時は独立願望など全くありませんでした。27歳ぐらいから少しずつ思ってきたというか・・・。自分だったらこうするのになというか、もう少しやりやすい環境があるのではないかと思い、それなら自分でやっちゃえと思いました」

コロナ禍の真っ只中の2020年5月に、ONYX(オニキス)を表参道にオープンさせた。そして、初月から黒字を達成した。

「やはり自分で店を持つのと雇われているのとでは全然違いますね。数字が全てというか。どれだけ売り上げがあっても、家賃や人件費等の固定費がかかりますし・・・」

独立してわかったことは計り知れない。

「プレイヤーだったらお客さまだけに集中すれば良いですが、そういう訳にはいかないので。正社員の時に、どれだけお店に助けられてたのかが分かりましたね」

今は、自分が思い描いていた成長曲線を辿っていることを実感している。

「自分が独立してやりたいと思っていたことは、一つずつクリアしていってると思います。やればやるほどやりたいことは増えていくので、結局ずっとやり続けていく必要があるのですが・・・。ただ、上に確認しないで色々できるのは良いなと思います」

美容専門学生へのメッセージ

美容専門学生からも多くの支持を集めるKOUSEI。今回特別に、美容専門学生へのメッセージをもらった。

「学生時代のうちに遊んでおけというのはよく言われることだと思うのですが、どれだけ遊んでも、結局は遊び足りないと思います。遊ぶのも大事ですが、自分が燃える何かを学生のうちに見つけて欲しいなと思います。例えばそれが中学なら部活、高校ならバイトとかになると思うのですが、専門学校時代にも何かに熱中してほしいですね」

美容専門学生時代の2年間というのは、長いようであっという間。社会人になる前の最後の自由な時間だ。

「やはり、社会人になる準備はしておいた方がいいと思います。いきなり社会人になって、壁に当たってたち行かなくなる学生が多いので・・・」

もしこの時代に美容専門学生だったら、KOUSEIは何をしていたか聞いてみた。

「多分、SNSに熱中していると思いますね。今はSNSですごく勉強もできますし、非常に便利だと思います」

KOUSEIが美容専門学生の頃は、SNSはまだそこまで主流ではなく、雑誌がメインだった。

「もしSNSが苦手なら、自分が憧れている人の真似から入れば良いと思います。自己流で進んでも遠回りだと思いますし、まずは成功している人のやり方を真似て、それから自分の色を出せば良いと思いますね」

未来

2020年5月にONYXをオープンし、約一年半。やっと地盤が固まってきた。いよいよ更なる飛躍のタイミングだ。

「これからは、やりたいことをガッツリやっていこうかなと思っています。この一年半は、地盤を整えるというか、スタッフを入れて売上の目処をつけてという時期でした。これからは色々と露出していきたいですね。一年にひとつ、大きなことをしていきたいと思っています」

モテたいという思いから美容師なった。しかし、今ではそれ以上に美容師の価値を実感している。

「美容師とは、一年を通してお客様に寄り添える職業だと思います。お客様とは友達でもなく、恋人でもないけれど良い距離感で、美容師だから話せるみたいな・・・。悲しい時も嬉しい時も一緒に寄り添える、そんな素敵な職業だと思います」

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

美容専門学生

高校を卒業したKOUSEIは、モテそうという理由から美容師になるべく関西美容専門学校に入学した。

「そもそも、高校時代はそんなに職業の種類も知らないですし。モテそうだというよくある理由で美容師になろうと思いました」

関西美容専門学校に入学したのは、地元の先輩の影響だった。

「地元でやんちゃしてた先輩がいたのですが、その先輩が関西美容専門学校に行ったと聞いて・・・。先輩に連絡して「どうですか?」と聞いたら、「おもろいよ」と言われたので、じゃあ行こうと決めた感じですね」

両親には特に反対されなかった。

「以前から、18歳になったら家を出て行くように言われていました。両親もそうだったように、一人暮らしの経験を積ませたいという思いもあったと思いますね」

大阪では、一人暮らしをしながら専門学校に通った。

「初めての一人暮らしというのもあり、寝坊をめちゃしてました。なので、進級できるかどうかのギリギリのラインでした。ただ、学校は好きでしたね」

社会人

やがて専門学校の二年生になり、就職活動の時期に差し掛かった。そして、最初にサロン見学した会社にそのまま就職することになった。

「担任の先生に勧められて行った1店舗目のサロンでした。サロン見学で話を聞いて、おもしろそうな会社だなと思いました。他のサロンを知らなかったのもありますが・・・」

なんと、KOUSEIはその場で内定をもらった。それは極めて異例のことだった。

「目をキラキラさせるのが得意だったからかもしれませんね(笑)」

大阪の京橋にあるサロンで、社会人としての新生活がスタートした。

「しんどかったという記憶以外で、1年目の記憶はほとんどないですね。怒られるし、朝は早いし・・・」

遅刻すると、2万円の罰金を支払う必要があった。

「時々寝坊して遅刻したので、毎月給料から2万円引かれてました。元々給料も少なかったので、きつかったですね」

2年目からは多少余裕も出てきた。

「2年目ぐらいでやっと、美容専門学校の時の友達と飲みに行ったりしましたね。1年目の時はしんどすぎて、ほとんど遊びにも行かなかったです」

SHACHU

3年目にジュニアスタイリストになり、スタイリストデビューはすぐそこまで迫っていた。そんな矢先に、KOUSEIは会社を退社した。

「元々有名になりたいという願望がありました。ある時、「大阪で有名なヘアメイクは誰?」と聞かれた時に、答えられないことに気付きました。やはり有名になるなら東京でやるしかないと考えて、東京に行く決断をしました」

以前から気になっていたSHACHUに髪を切りに行って、オーナーの宮地氏と話したところ、東京に来ることを強く勧められた。そして、面接を経て見事SHACHUに入社した。

「大阪のサロンを退社してから1週間後には、渋谷のSHACHUで働いていました」

SHACHUでは、25歳の時にスタイリストデビューした。

「全てが新鮮だったので、一年がとても早く感じました。早く勝負したいというか、若い時のメラメラ感があったので、早くデビューしたいという葛藤はずっとありましたね」

ほぼ仕事だけの毎日だった。

「最初の一年間は、大阪から引っ越してきたこともあり友達もいなかったですが、毎日が充実して楽しかったですね」

続く

2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)

髪の長い少年時代

KOUSEIは香川県の高松市で生まれ育った。小学生時代は野球に熱中した。

「最初は興味なかったのですが、いつも一緒に遊んでいたメンバーが野球を始めたので、自分も始めた感じですね」

活発な子供だった。

「あまり家で遊んだ記憶はないですね。テレビゲームとかもしなかったですし。山に登ったり川に行ったり、みんなで自転車で遠くに行ったりとかしてましたね」

小学生の時は、女の子よりも髪の毛が長かった。

「いまだに髪の毛へのこだわりはないのですが、変化を恐れていたんだと思います。小学生時代は思春期というのもあり、「髪切った?」と言われるのが嫌でした。大体おかっぱかスポーツ刈りになりますし、それも嫌で切りませんでしたね」

坊主

地元の中学校では、バスケットボールに熱中した。

「中学生の時は、部活の記憶しかないですね。本気でやってたかと言われると微妙ですが・・・。部活には絶対に入らないといけなかったですし。ただ、野球よりは好きでしたね」

中学校で野球をすると坊主にしなければならなかったため、小学校から続けていた野球はやめてバスケ部に入部した。

「坊主にしたくないからバスケ部に入部したのに、自分の世代からバスケ部も坊主にしなければならなくなりました。それで結局坊主にしました(笑)」

アルバイト三昧

高校では部活はやらずに、アルバイトに熱中した。

「高校生の時はアルバイトを色々とやりましたね。マクドナルド、吉野家、焼肉屋、派遣など色々とやってましたね」

様々なアルバイトをしていたのは、切実な理由からだった。

「自分は四人兄弟の二番目なのですが、親の教育方針として、高校に行くためには自分でお金を工面する必要がありました」

働くか、自分で稼いだお金で高校に行くかの二択だった。KOUSEIは後者を選択した。

「自分としても中学を卒業して働きたくなかったので、高校行ってバイトしてという生活でしたね。もちろんアルバイトだけではなく、みんなと遊んではいました。みんながバイク買ったら自分も買ってみたりとか・・・」

続く

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学生へのメッセージ

美容専門学生と接する機会も多いTENDOにとって、彼らに対する期待は大きい。

「美容専門学生時代にやっておくことは、大きく分けて二つあると思います。一つはSNSをひたすらやるということです。今後は技術もVRの時代になると思うのですが、そうなると技術はうまい人からいくらでも盗めます。もっとも、技術が上手くなっても発信できなかったら意味がないので、SNSは学生のうちからやっておくべきだと思いますね。SNSをやってとにかくフォロワーを増やせば、就職の時に絶対に有利になります」

そして、もう一つの大切なことはそれとは対極にあるものだ。

「フォロワーを増やすのは大切ですが、フォロワーはリアルではないので、リアルに繋がる人も同時に増やす必要があります。なので、たくさんSNSをやりつつ、たくさん遊んでリアルな結びつきを増やすことも大切です」

SNSが苦手な学生に対してはどうすれば良いのだろうか?

「SNSを頑張るのもいいですが、まずは自分が好きなものを確立させることが大切だと思います。例えば自分はショートだったり、今はブリーチを使ったデザインカラーばかりSNSに載せています。やはり何かに特化する必要があると思います」

唯一無二

TENDOが大切にしていること、それは自分を知ることであり自分の色を持つことだ。

「何もそれは技術や髪の毛のことである必要はありません。ファッションやメイクなどなんでも良いと思います。自分はこういう人間であるということを、人に説明できるくらい深掘りできれば良いのかなと思いますね」

不思議なことに、美容業界に対しては特に興味がない。

「自分は珍しいタイプだと思うのですが、美容業界に全然興味がないんです。ただ、美容師プラス何かというか、多様性のようなものがあれば唯一無二になれますし、他にキャッシュポイントを作っておくことでより美容師を楽しめると思います」

美容師は、何も美容師だけである必要はない。

「美容師の売り上げは高い方がいいに決まっているのですが、自分が稼ぐために売り上げを上げるという感覚よりも、やりたいからやるという感覚の方が楽しく続けられるし、美容師としてキラキラ輝くことができると思います。指名売り上げ100万円とか、ある程度の段階はあると思いますが、その段階まで行ったらプラスアルファ何をするかを視野に入れると良いと思いますね」

未来

大阪から東京に出てきて、そのままこれまで走り続けてきた。まだまだ止まるつもりはない。

「そもそもこの店舗を買い取る前から、大阪で駐車場の経営をしていました。なので、自分は美容師であって美容師ではないというか・・・。一回の人生の中で、色々な経験をしたいと思っています」

自分の理想を叶えるために、自分がやるべきことの計画を既に立てている。

「もうすぐマツエクサロンをオープン予定ですし、洋服のブランドを作ったり、来年は大阪にバーも出店する予定です。現在のキャッシュポイントはこのサロンだけで、それだと何人もお客様を担当したときに待ち時間は出るしバタバタするし、スタッフにとってもよくないですので・・・。個室サロンとかで、お客様と向き合ってやっていけるような感じが理想ですね」

TENDOにとって、美容師はまさに天職だ。

「美容師とは、お金をいただいた上で「ありがとう」と言ってもらえる仕事です。そんな仕事はあまりないと思いますね」

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学校

美容師になることを決意したTENDOは、大阪美容専門学校に入学した。

「専門学校では要領の良い生徒で、努力をしたことがない人間でした。パーマやカラーの練習が授業であったのですが、何も練習しなくても最初の頃は学年で上位の順位でした。多分、元々手先が器用だったんだと思います」

成績上位をキープしていたのも束の間、徐々に順位は落ちていった。

「当然ですが、努力をしないので頑張っている他の学生にはどんどん抜かれていきました。順位はどうでも良かったのですが、追試が面倒くさかったので、追試にならない程度に頑張っていましたね」

大阪美容専門学校を卒業したのち、TENDOはカラーに定評がある梅田の美容室に入社した。ついに、社会人としての生活が始まった。

「練習などの技術的な部分は黙々とやるので大丈夫なのですが、上下関係に耐えられなかったですね。子供の頃から怖い先輩などがいたので厳しい上下関係でやってきたのですが、言い方が悪いですが怖くもない芋っぽい先輩にへこへこしなきゃならないのが嫌でしたね。当時は自分も子供だったので・・・(笑)」

子供の頃から怖い先輩のもとでの上下関係に慣れていたTENDOにとって、その環境に馴染むことは容易ではなかった。

「そのサロンはいわゆる一般的なサロンでした。自分はサロン内で浮いてはいましたが、これまで知らなかった一般常識を学ぶことができました。今となってはすごく良い経験だったと思っています」

東京

働いて2年経った頃、TENDOは徐々に東京を意識し始めた。

「大阪で働いているときは、サロンの人間とは話が合わないので美容専門学校時代の友達と遊んでいました。毎週遊んでいた美容師軍団がいたのですが、そのうちの一人がKOUSEI(ONYX代表)さんでした」

一緒に遊んでいたKOUSEI氏は、その後東京で有名美容師になった。それを見て、TENDOも東京に行く決心をした。

「カードで50万円借金して、休みの日に東京に行きました。とりあえず家を探そうと思って・・・」

東京に行って、聞いたことがあった三軒茶屋のアパートを契約した。

「パッと入った不動産屋に条件だけ伝えて、内見もせずに契約しました。大阪から出てきて、初めてどんな家かを知るみたいな感じでしたね(笑)」

東京にいる知り合いは、KOUSEI氏だけだった。そして、半年前にできたばかりの美容室であるBelezaに入社した。

「すごい老舗というか、有名店から独立した方のサロンならどこでも良いと思って探していました。半年前にできたばかりと聞いていたので、まずはお客さんとしてお店に行って、事情を話して入社させてもらいました」

Belezaではアシスタントからのスタートだった。

「友達もお客さんもいない状態からスタイリストになるためには、自分で人脈を広げてお客さんを作る必要がありました。今のように様々なSNSがあるわけではなかったですし、技術を学びながらSNS用のネタを自分の足で捕まえて・・・、というような感じでしたね」

iki

毎日渋谷でモデルハントをして、ショートの作品をInstagramにアップし続けた。それはやがて「ハンサムショート」の名とともに、TENDOの代名詞となっていった。

「写真を撮る角度や画角など、徹底的にこだわっていました。当時は夜中の4時まで仕事して、3時間だけ寝てサロンに行くというような生活でしたね」

ちょうどその頃、TENDOのもとには「うちで働かないか?」というヘッドハンティングの誘いが数多く舞い込んできた。

「当時はオーナーと揉めていたこともあり、どこに行こうかなと考えていました。その時に、L.O.Gから店を出さないかという誘いがあり、それなら話が早いと思い店を出させてもらいました」

半年間だけL.O.Gで働き、iki by L.O.Gをオープンさせた。そして、2年間後に自身で店を買い取った。

「まだ数ヶ月しか経ってないのであれですけど、一言で言うと楽しいですね。それと、良くも悪くも自分次第というか・・・。誰にも甘えられませんが、逆にやりたいことは全てできますし、下の子たちがやりたいことを全て叶えてあげられるのがいいですね」

続く

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)
 

大阪生まれ

TENDOは大阪府堺市出身。小学生の時から不良に憧れていた。不良に憧れたきっかけは、あるテレビドラマの影響だった。

「自分が小学校5年生の時に、「ごくせん」というテレビドラマをやっていました。それを見て、周りが全員不良に感化されてましたね」

周りの環境も作用して、不良の道に進むまでにはそれほど時間がかからなかった。

「自分の地元がそんなに良い地域ではなかったこともあり先輩もほとんど不良というか、そんな人ばかりでしたのですぐ繋がれたというか・・・。小5で中1の先輩に可愛がってもらったりして、それからそっちの道にどっぷりという感じでしたね」

不良少年

地元の中学校に進学したTENDOは、学校にはほとんど行かなかった。

「部活も一切やったことはなかったですし、本当に遊び続けた3年間でした。義務教育だから行かなくても卒業できるし、まあいいかという感覚でしたね。割と自分と同じような生徒が多い学校だったので、自然の流れでそうなりました」

正統派の不良として、3年間を過ごした。

「テレビに出るようなオシャレなヤンキーとかではなくて、短ランにボンタンという田舎のヤンキーでしたね。オシャレもクソもなかったです(笑)」

母親には特に迷惑をかけた。

「自由にしてていいよというタイプの母親ではあったのですが、警察や学校から電話やインターホンが頻繁に鳴っていたので、いい加減にしてという感じだったと思います」

美容師

過去に一度、母親から包丁を突きつけられたこともある。

「物心ついた時には父親がいなかったのですが、自分は中学生ぐらいからあまり家に帰らなくなりました。中学を卒業してから塗装屋でアルバイトをしていたのですが、塗装屋のアルバイトをしながらフラフラしていたところ、流石に見かねた母親から包丁を向けられました(笑)」

また、3ヶ月間ホームレスの生活をしたこともあった。

「中学校を卒業した後、アルバイトしていた塗装屋の倉庫で3ヶ月寝泊まりしていたこともありましたね」

このままではどうにもならない・・・。かと言って、自分に稼ぐ能力があるわけでもない。怒涛の中学生活と塗装屋でのアルバイトを経て、TENDOは美容師の道に進む決意をした。

「自分は小学校5年生からずっと金髪でした。当時は自分で金髪にしていたのですが、美容院に行っても思い通りの色にならないことが多かったので、だったら自分が美容師になろうかと思ったのがきっかけです。初めて自らやりたいことを言ったので、母親は反対しなかったですね」

続く