MOMO〜カラーリングの魔術師 Vol. 3〜
多彩なカラーリングを自由に操る女性美容師がいる。令和の時代に現れたカラーリングの魔術師MOMOが試行錯誤しながらたどり着いた現在地に迫る。(敬称略)
復活
新卒で入社したサロンを退社したMOMOは、いわゆる面貸しサロンで美容師としてまた働き始めた。
「またフルタイムで働くと同じ結果になると分かっていたので、自分の好きな時間に働ける面貸しサロンで働くことにしました。自分のお客さまもいましたし、美容師を続けたいという思いはありました」
今は心身の健康も取り戻し、充実した日々を過ごしている。そして、やりたいことも色々ある。
「美容師はずっと続けようと思っていますが、何か違うこともしたいと思っています。ヘアメイクの仕事もしたいですし、韓国に留学してヘアやメイクのことも学んでみたいと思っています」
美容専門学生へのメッセージ
つい何年か前まではまだ美容専門学校生だった。そんなMOMOには、現役の美容学生へ伝えたいことがたくさんある。
「行きたいサロンにもよると思いますが、もし有名店やトレンドサロンに入りたいと思っているならば、絶対に作品撮りをたくさんした方がいいですね」
作品撮りをすることで、自分の好みが分かるという。
「美容学生のうちは、漠然とした好みはあるかもしれないけれど、自分の系統が定まらない場合が多いと思います。自分もそうでした。作品撮りをすることで、自分が可愛いと思える傾向が分かってきます。好きな系統やスタイルが定まれば、自分が行きたいサロンも絞れます。行きたいサロンが見つからない悩みの解決になると思います」
今すぐにでも実践できることなので、同じ悩みを抱えている学生は是非試してほしい。
「美容師になってからカラーやカットの技術は学べますが、自分のセンスを磨くのは自分次第です。早いうちに、できれば学生のうちからやっていた方が有利だと思います。あとは、色々な場所に行って、感性を磨いてほしいと思いますね。自分自身、学生時代に作品撮りをしてきませんでした。それはすごく後悔していて・・・。だからこそ、学生の皆さんにはやってほしいですし、可愛いを作れる感性が学生のうちから身に付いていると、やはり強いと思います。美容師になってすぐにできることはスタイリングを作ることだと思うので、そういうところを学生のうちからやっておくと役立ちます。是非やっておいてほしいですね」
美容師
美容師以外に、自分に合う職業はないと思っている。
「美容師とは自分に本当に向いているとつくづく思います。しかも、楽しいですし・・・」
美容師は、MOMOにとってまさに天職だ。
「お客さまというか、人に求められるのが好きですし、それで喜んでもらえたら私もより幸せな気持ちになれます。絶対に美容師は辞めないだろうと思いますね」
やれるなら、一生現役でやりたいと思っている。
「自分のお店を持ちたいとかはないのですが、将来的に女性としての幸せも欲しいので、子供が生まれても長く続けられるような、自分のペースでできれば良いと思いますね」
完
多彩なカラーリングを自由に操る女性美容師がいる。令和の時代に現れたカラーリングの魔術師MOMOが試行錯誤しながらたどり着いた現在地に迫る。(敬称略)
美容専門学校
最初はメイクの勉強をしたくて中日美容専門学校に入学した。
「中日美容専門学校に入学してから髪の毛を染め始めたのですが、その時に通っていた美容室の美容師さんが本当にかっこよくて・・・。その影響で、自然と美容師を目指し始めましたね」
専門学校へは実家から通っていた。
「本当に真面目に学校へ通っていました。あとは、アルバイトをしていましたね。居酒屋をふたつ掛け持ちでしてて、土日はカフェで働いていました」
充実した学校生活は、あっという間に過ぎ去って行った。気付くと就職活動の季節だった。
「名古屋で就職することも考えたが、ピンとくる美容室がありませんでした。最初は、憧れの美容師さんがいる名古屋の美容室に就職を考えたのですが、実際に自分が働いている姿を想像することができませんでしたね」
東京
当時仲の良かった友達は、東京の美容室を受けるために毎月東京に行っていた。それに影響され、MOMOも東京に通うようになった。
「同じクラスの友達が、東京でカラーをして帰ってきたことがありました。すごく可愛いので、「どこでやったの?」と聞いて、自分も実際にそのサロンに通ってみると、スタッフ同士も仲が良さそうですごく楽しそうだなと思いました」
次第にそのサロンで働きたいと思い始めて、面接を受けた。その結果、数多くのライバルたちがいる中で、無事に第一希望のサロンに合格することができた。
「当時はスタイルブックを提出するのが主流だったのですが、自分は特に上手だったわけではありません。これは後から聞いた話ですが、人柄で合格したと教えてもらいました(笑)」
社会人
愛知県から東京に出てきて、一人暮らしを始めた。社会人としての新生活のスタートだった。
「最初は結構ホームシックになりました。営業と練習でクタクタになって、家に帰ってすぐに寝て、また仕事に行っての繰り返しでしたね。本当に起きれないくらい疲れていました」
順調に美容師としての階段を登っていたMOMOだったが、社会人として働き始めて4年目に、心身に不調をきたしてしまった。
「当時はデビュー前で、周りからの期待もあって必要以上に自分を追い込んでしまいました。それで、精神のバランスが少し崩れてしまったんです」
いわゆるメンタルブレイクにより働けなくなってしまった。それがきっかけで、新卒で入社して4年間働いたサロンを退社した。
続く
活発だった少女時代
MOMOは愛知県の一宮市出身。三人兄弟の真ん中で、ドッジボールに夢中な活発な小学生だった。
「おままごとをしているよりは、運動が好きなタイプでしたね。なぜかドッジボールにハマっていました」
MOMOは小学生の頃から様々なスポーツをしていた。
「水泳、バレー、バスケットボール、陸上とか色々やっていました。勉強よりも運動の方が好きな感じでしたね」
中学生になると、バレーボール部に入部した。
「姉がバレーボールをやっていた影響で、自分も小学校1年生からずっとバレーボールをしていました。なので、バレーボールはそのまま続けてやっていました。ドッジボールは遊びでしたが、バレーボールは真剣にやっていましたね」
高校生
中学校を卒業したMOMOは、地元の高校に入学した。
「高校では陸上部に所属していました。バレーボールは好きだったのですが、当時からメイクが好きで髪の毛を短くしたくないというのがあって・・・。それで、髪型が自由な陸上部を選んで、走り幅跳びをしていました(笑)」
高校時代は放課後に友達とダンスをすることにハマった。
「ヒップホップとかではなくて、独自のダンスでした。自分の友達がすごく面白い子達で、その中の一人がダンスをしていたので、その影響でみんなでやってましたね。変な踊りをしてました(笑)」
やがて、進路を決める時期に差し掛かった。
「高校の時は、特に美容師になりたいとは思っていませんでした。大学は行きたくないけど就職もしたくなくて・・・。要は、勉強したくないけど働きたくもないという感じでした」
メイク
自分が一番好きなことは何かを考えた時に、真っ先に思い浮かんだのはメイクだった。
「自分は姉の影響で、小学校5年生からメイクをしていました。自分にとって一番楽しいことをしようと思った時に、最初に思ったのがメイクでした」
両親も、MOMOがメイクの勉強をしたいことを理解していたため、応援してくれた。高校を卒業したMOMOは、メイクの勉強をすることに決めた。
「中日美容専門学校のオープンキャンパスに行った時に、憧れの方がいたので、それで入学を決めました。自分が高校生の時にTwitterで見つけた方なのですが、めちゃ可愛くて・・・」
東京に出よう、地方に行こうといったことは特に考えていなかった。
「美容専門学校はたくさんあるので悩んだのですが、その憧れの先輩がいたというのと、一番楽しそうだったので中日美容専門学校に決めました」
続く
毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)
独立
順調に美容師としての道を進んでいた中井だったが、親の事情で実家の理容室を手伝うことになった。
「新卒で入社した時と同様、親が勝手に社長に辞めさせてほしいと伝えて、結局実家を手伝うことになりました(笑)」
実家の理容室を手伝った後、中井は27歳で金沢文庫に美容室をオープンさせた。その後、鎌倉に移転して名前をbiancaとして、再出発を果たした。当時、出店するなら都内か横浜が理想だと考えていた中井だったが、選んだのは鎌倉だった。
「まずはサロンが強いブランドになる必要があり、そのためにはその街にカルチャーが存在していない限りブランドにはならないと考えていました。そんな時、偶然鎌倉に来たときに良い物件に出会って、瞬間的にここならいけると思いましたね。まずは鎌倉のブランドになるぞと思って決めました」
そこからは、スタッフに地域のコミュニティに積極的に参加してもらい、中井自身も人脈を広げるために連日飲み歩いた。
「新規でおしゃれなお店を立ち上げたからといってお客さんが来るわけではないので、人となりを理解してもらう意味でも、街のコミュニティにどんどん参加していってもらいました」
地域との繋がりができるようになると、徐々にお客さんも増え始めた。
「結局、チラシを撒いたからといってお店に来るような地域ではなかったので。やはり人間関係で顧客を獲得していきましたね」
padme
地道な努力が身を結び、やがてbiancaは鎌倉を代表するサロンに成長した。そして、2021年4月に2店舗目となるpadmeをオープンさせた。そこには、オーナーは一歩引いて、人をプロデュースすべきであるという中井の哲学があった。
「世の中はオーナーが目立って活躍している美容室が多いですが、その後もそのサロンが永続的に素敵な状態で続いているというのをあまり見ません。なので、自分はサッと引いた方がいいというのをまず考えました」
padmeは、数々のコンテストで受賞歴のあるHITOMIが前面に出て率いている。
「自分が20歳くらいの時にはShimaさんを凄いサロンだと思っていましたが、そこから20〜30年経った今でも、美容学生さんからすごいサロンと思われています。30年の時を経ても、いまだに凄いと思わせるのはどういうことなのかを深く考えましたね」
その結果辿り着いた答えは、裏方に回るということだった。
「まず自分が引いて、次の時代に合った美容師をプロデュースし続けることができれば、ハイブランドとして生きていけるのではないかという仮説を立てて進めているところです」
美容師
中井の元には、毎年全国の美容専門学生から数多くの新卒採用の応募が舞い込んでくる。そこで、美容専門学生に対して学生時代にやった方が良い貴重なアドバイスをもらった。
「美容専門学生時代は、自分をどこまで高められるかというか、どこまでストイックに技術等を学べるかが大切だと思います。うちの店の設定だと、26〜27歳くらいまでの努力で決まる部分が多いので、その年齢までどれだけ努力できるかが大切ですね」
これを読んでいる現役の美容専門学生には、今のうちからできる努力をしてほしい。
「あとは、人に好かれる人間性が大切なのかなと思いますね。僕は美容師以外のもう一つの顔としてライバーをやっているのですが、あれも結局インスタのフォロワーと異なり、自分のことを毎日見たいなと思う太いファンを作らないと推しになりません。これは美容業界も同じです。どうしたら色々な人の推しになれるのかを考える必要があります。なので、SNSをやるならその中でも割と自分を表現できるSNSで頑張った方が良いと思いますね」
気が付いたら、中井は専門学校を卒業してから美容師をずっとやっている。
「自分は最初やりたくてやっていたわけではりません。それでもここまでやっているというのは、それなりに面白いからだと思います。「人」であったり「技術」であったり・・・。他の仕事より面白さはあると思うし、長い時間追求できるので素敵な仕事だと思いますね」
中井のサロンには、若きスター候補の美容師たちがたくさんいる。そして、今日も切磋琢磨しながら輝き続けている。
「流されずに舐めないでとりあえず全力でやった方が良いし、それができる仕事なのが美容師です。美容師は自分自身の全てを曝け出して、自分という人間を売っていく仕事なので、自分の実力を試す場として思い切りやってほしいですね」
鎌倉から日本を代表するブランドサロンが誕生する瞬間は、そう遠くない。
完
毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)
専門学校
やりたかったことはDJだった中井にとって、専門学校での勉強は最優先事項ではなかった。
「専門学生時代は、死んだ魚の目をしている学生でしたね(笑)。やる気がないというか。その時は忙しくて、FM番組のDJとかもやっていました。DJの師匠のところにきた仕事の中でやりたくないものは全て弟子にやらせてというような感じでしたので、自分が師匠の代わりに新譜のレビューを書いたりとかもしていましたね」
当時中井が通っていた専門学校は一年制だったため、何か強い思い出があるわけではないが、卒論では思い出す事がある。
「ビジネスについて書いてみようかなと思って、ビジネス書を幾つか買って、それを参考にして美容ビジネスの10年後について書きました。そしたら、その卒論が最優秀賞として1位になりました」
社会人
専門学校を卒業した中井は、神奈川県の美容室に就職した。
「いわゆる就職活動は何もしていません。親がゴルフのコンペで一緒になった偉い先生がいて、そのタイミングで「うちの息子を預かってくれないか?」と頼んで、勝手に就職先を決めてきてしまいました(笑)」
当時のDJは、今ほど稼ぐことができなかった。DJか美容師か進む先を悩んだ結果、中井は美容師の道に進むことを選択した。
「とりあえず親の顔を立てるためにも逆らわずに入社しましたが、内心では1年ぐらいで辞めよう思っていました」
転機
入社した最初の1〜2年は手荒れも酷く、やる気も起きなかった。しかし、ある出来事をきっかけに、中井の仕事に対する姿勢が変わり始めた。
「強制的にコンテストに出場することになったので、先輩に色々教えてもらいながらやったところ、いきなり入賞してしまいました。それで、「これってもしかしたらいけるのかな?」と急に自信がついて、やる気も出てきましたね」
25歳頃には、出場するコンテストほぼ全てにおいて楽に入賞できるほどになっていた。その影には、中井の並々ならぬ努力があった。
「上手い人を実際に見に行ってその所作をコピーしたり、業界誌の作品をチェックして、その作品を作った意図を理解できるまではページをめくらないというようなことをしていました。それと、自分が気に入った作品を切り取って、自分の部屋の壁に貼ったりしてましたね。それをいつも見ていたので、バランスなど全てインプットされていきました」
続く
毎年多くの美容専門学生から求人応募が殺到するサロンが鎌倉にある。その名も「ビアンカ(bianca)」と「パドメ(padme)」。そんな両サロンを率いる中井宏昭は、いかにして鎌倉で確固たるブランドを創り上げたのか?その辿ってきた生い立ちと、自身の哲学に迫るロングインタビュー。(敬称略)
美容師の家庭に生まれて
中井の実家は祖父の代から美容室を経営していた。祖父の影響で、幼少の頃から新聞を読むのが日課だった。
「後継ぎになりたくなかったので、勉強して大学行こうと思ってました。新聞を読んでいたお陰で、何かが起きた時に次はこうなるという、先を読む力が養われた気がしますね」
地元の中学校に入学した中井は、水泳部に入部した。
「小学生の時にサッカーを一緒にやっていたメンバーが、中学生になるとみんな水泳部にいたので(笑)。それで自分も流されて水泳部に入りました。自分の意志はそんなに強くない子供だったと思います」
中学を卒業した中井は、地元の高校に入学した。
「どうしても家業を継ぎたくないという一心で、勉強して地元の進学校に入学しました。飲み込まれたくなかったというか・・・」
DJ
高校に入学した中井は、徐々に遊びの道に引き込まれていった。
「高校からDJを始めて、DJスクールにも通っていました。そのスクールで開催されたDJバトルで偶然優勝して、そのまま審査員だったDJの方のお店に弟子入りしました」
水泳部では、偶然の出会いもあった。
「高校1年で水泳部に入部した時に、3年生は一人しかいないと言われていました。そこで部室に行くと、その3年生の先輩ともう一人カッコ良い人がいるなと思ったら、EXILEのHIROさんでした」
今をときめくEXILEのHIRO氏は、なんと中井の高校の先輩だった。
「高校生になるとこんなにカッコ良い人たちがいるんだと、ビックリしましたね。HIROさんは当時マハラジャというディスコの店員をやっていて、お店に入れてあげるから遊びにきなさいと言われて、遊びに行ったりしていました」
進路
そこから、中井は徐々に夜の煌びやかな世界に魅了されていった。
「ちょうど、そのマハラジャのメインのDJをされてた方の弟と仲良くなり、自宅に行くとDJのお兄さんが教えてくれたりして、色々学びました」
高校を卒業した中井は、美容の専門学校に通った。当時はDJとして生きていこうと考えていたので、専門学校に通いながら、DJの活動も並行して行っていた。
「親から、どうせ遊んでいるんだったら免許ぐらい取っておけと言われて、気付いたら学校も勝手に決められていました。なので、行きたくて行ったのではなく、親に言われたので仕方なくという感じでしたね」
続く
2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)
独立
順調な日々を過ごしていたKOUSEIだったが、SHACHUに入社して5年目に独立した。
「SHACHUで店長をしていたのですが、その時は独立願望など全くありませんでした。27歳ぐらいから少しずつ思ってきたというか・・・。自分だったらこうするのになというか、もう少しやりやすい環境があるのではないかと思い、それなら自分でやっちゃえと思いました」
コロナ禍の真っ只中の2020年5月に、ONYX(オニキス)を表参道にオープンさせた。そして、初月から黒字を達成した。
「やはり自分で店を持つのと雇われているのとでは全然違いますね。数字が全てというか。どれだけ売り上げがあっても、家賃や人件費等の固定費がかかりますし・・・」
独立してわかったことは計り知れない。
「プレイヤーだったらお客さまだけに集中すれば良いですが、そういう訳にはいかないので。正社員の時に、どれだけお店に助けられてたのかが分かりましたね」
今は、自分が思い描いていた成長曲線を辿っていることを実感している。
「自分が独立してやりたいと思っていたことは、一つずつクリアしていってると思います。やればやるほどやりたいことは増えていくので、結局ずっとやり続けていく必要があるのですが・・・。ただ、上に確認しないで色々できるのは良いなと思います」
美容専門学生へのメッセージ
美容専門学生からも多くの支持を集めるKOUSEI。今回特別に、美容専門学生へのメッセージをもらった。
「学生時代のうちに遊んでおけというのはよく言われることだと思うのですが、どれだけ遊んでも、結局は遊び足りないと思います。遊ぶのも大事ですが、自分が燃える何かを学生のうちに見つけて欲しいなと思います。例えばそれが中学なら部活、高校ならバイトとかになると思うのですが、専門学校時代にも何かに熱中してほしいですね」
美容専門学生時代の2年間というのは、長いようであっという間。社会人になる前の最後の自由な時間だ。
「やはり、社会人になる準備はしておいた方がいいと思います。いきなり社会人になって、壁に当たってたち行かなくなる学生が多いので・・・」
もしこの時代に美容専門学生だったら、KOUSEIは何をしていたか聞いてみた。
「多分、SNSに熱中していると思いますね。今はSNSですごく勉強もできますし、非常に便利だと思います」
KOUSEIが美容専門学生の頃は、SNSはまだそこまで主流ではなく、雑誌がメインだった。
「もしSNSが苦手なら、自分が憧れている人の真似から入れば良いと思います。自己流で進んでも遠回りだと思いますし、まずは成功している人のやり方を真似て、それから自分の色を出せば良いと思いますね」
未来
2020年5月にONYXをオープンし、約一年半。やっと地盤が固まってきた。いよいよ更なる飛躍のタイミングだ。
「これからは、やりたいことをガッツリやっていこうかなと思っています。この一年半は、地盤を整えるというか、スタッフを入れて売上の目処をつけてという時期でした。これからは色々と露出していきたいですね。一年にひとつ、大きなことをしていきたいと思っています」
モテたいという思いから美容師なった。しかし、今ではそれ以上に美容師の価値を実感している。
「美容師とは、一年を通してお客様に寄り添える職業だと思います。お客様とは友達でもなく、恋人でもないけれど良い距離感で、美容師だから話せるみたいな・・・。悲しい時も嬉しい時も一緒に寄り添える、そんな素敵な職業だと思います」
完
2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)
美容専門学生
高校を卒業したKOUSEIは、モテそうという理由から美容師になるべく関西美容専門学校に入学した。
「そもそも、高校時代はそんなに職業の種類も知らないですし。モテそうだというよくある理由で美容師になろうと思いました」
関西美容専門学校に入学したのは、地元の先輩の影響だった。
「地元でやんちゃしてた先輩がいたのですが、その先輩が関西美容専門学校に行ったと聞いて・・・。先輩に連絡して「どうですか?」と聞いたら、「おもろいよ」と言われたので、じゃあ行こうと決めた感じですね」
両親には特に反対されなかった。
「以前から、18歳になったら家を出て行くように言われていました。両親もそうだったように、一人暮らしの経験を積ませたいという思いもあったと思いますね」
大阪では、一人暮らしをしながら専門学校に通った。
「初めての一人暮らしというのもあり、寝坊をめちゃしてました。なので、進級できるかどうかのギリギリのラインでした。ただ、学校は好きでしたね」
社会人
やがて専門学校の二年生になり、就職活動の時期に差し掛かった。そして、最初にサロン見学した会社にそのまま就職することになった。
「担任の先生に勧められて行った1店舗目のサロンでした。サロン見学で話を聞いて、おもしろそうな会社だなと思いました。他のサロンを知らなかったのもありますが・・・」
なんと、KOUSEIはその場で内定をもらった。それは極めて異例のことだった。
「目をキラキラさせるのが得意だったからかもしれませんね(笑)」
大阪の京橋にあるサロンで、社会人としての新生活がスタートした。
「しんどかったという記憶以外で、1年目の記憶はほとんどないですね。怒られるし、朝は早いし・・・」
遅刻すると、2万円の罰金を支払う必要があった。
「時々寝坊して遅刻したので、毎月給料から2万円引かれてました。元々給料も少なかったので、きつかったですね」
2年目からは多少余裕も出てきた。
「2年目ぐらいでやっと、美容専門学校の時の友達と飲みに行ったりしましたね。1年目の時はしんどすぎて、ほとんど遊びにも行かなかったです」
SHACHU
3年目にジュニアスタイリストになり、スタイリストデビューはすぐそこまで迫っていた。そんな矢先に、KOUSEIは会社を退社した。
「元々有名になりたいという願望がありました。ある時、「大阪で有名なヘアメイクは誰?」と聞かれた時に、答えられないことに気付きました。やはり有名になるなら東京でやるしかないと考えて、東京に行く決断をしました」
以前から気になっていたSHACHUに髪を切りに行って、オーナーの宮地氏と話したところ、東京に来ることを強く勧められた。そして、面接を経て見事SHACHUに入社した。
「大阪のサロンを退社してから1週間後には、渋谷のSHACHUで働いていました」
SHACHUでは、25歳の時にスタイリストデビューした。
「全てが新鮮だったので、一年がとても早く感じました。早く勝負したいというか、若い時のメラメラ感があったので、早くデビューしたいという葛藤はずっとありましたね」
ほぼ仕事だけの毎日だった。
「最初の一年間は、大阪から引っ越してきたこともあり友達もいなかったですが、毎日が充実して楽しかったですね」
続く
2020年に表参道にオープンして、瞬く間に人気サロンとなったONYX。そんなONYXを牽引する「KOUSEI」が歩んできた道のりは、決して平坦なものではなかった。透明感と立体感のあるヘアカラーデザインを得意とする人気美容師「KOUSEI」が辿ってきた、その軌跡に迫る。(敬称略)
髪の長い少年時代
KOUSEIは香川県の高松市で生まれ育った。小学生時代は野球に熱中した。
「最初は興味なかったのですが、いつも一緒に遊んでいたメンバーが野球を始めたので、自分も始めた感じですね」
活発な子供だった。
「あまり家で遊んだ記憶はないですね。テレビゲームとかもしなかったですし。山に登ったり川に行ったり、みんなで自転車で遠くに行ったりとかしてましたね」
小学生の時は、女の子よりも髪の毛が長かった。
「いまだに髪の毛へのこだわりはないのですが、変化を恐れていたんだと思います。小学生時代は思春期というのもあり、「髪切った?」と言われるのが嫌でした。大体おかっぱかスポーツ刈りになりますし、それも嫌で切りませんでしたね」
坊主
地元の中学校では、バスケットボールに熱中した。
「中学生の時は、部活の記憶しかないですね。本気でやってたかと言われると微妙ですが・・・。部活には絶対に入らないといけなかったですし。ただ、野球よりは好きでしたね」
中学校で野球をすると坊主にしなければならなかったため、小学校から続けていた野球はやめてバスケ部に入部した。
「坊主にしたくないからバスケ部に入部したのに、自分の世代からバスケ部も坊主にしなければならなくなりました。それで結局坊主にしました(笑)」
アルバイト三昧
高校では部活はやらずに、アルバイトに熱中した。
「高校生の時はアルバイトを色々とやりましたね。マクドナルド、吉野家、焼肉屋、派遣など色々とやってましたね」
様々なアルバイトをしていたのは、切実な理由からだった。
「自分は四人兄弟の二番目なのですが、親の教育方針として、高校に行くためには自分でお金を工面する必要がありました」
働くか、自分で稼いだお金で高校に行くかの二択だった。KOUSEIは後者を選択した。
「自分としても中学を卒業して働きたくなかったので、高校行ってバイトしてという生活でしたね。もちろんアルバイトだけではなく、みんなと遊んではいました。みんながバイク買ったら自分も買ってみたりとか・・・」
続く