長山ゆうき〜新たなる美容師像 Vol. 2〜
渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)
専門学校
高校を卒業した長山は、足利デザイン・ビューティ専門学校に入学した。
「高校の時から買い物で東京には行っていましたが、東京の専門学校に行こうとは思ってなかったですね。東京は買い物に行くところで、住むところではないと思ってましたので・・・(笑)。当時は、将来は美容師になって東京に行こうとかも特に考えてなかったですね」
足利デザイン・ビューティ専門学校には、実家から車で通った。
「専門学生時代はコンテストとかにも特に興味がなくて、やりたいことをやっちゃってましたね。「どうにかなるだろ?」みたいな感じの仲間が周りに多かったので、真面目な生徒ではなかったです(笑)」
苦手な授業では寝てしまうこともあったが、好きな授業には熱中した。
「デッサンの授業とかは好きだったので、校内でも飾ってもらえる作品を作れたりしたのですが、座学とかは苦手でしたね」
楽しかった専門学生時代も、やがて就職活動の時期に差し掛かった。
「当時一緒に遊んでいた専門学校の仲間は、みんな美容師にならないと思っていました。そしたら、みんな実はしっかり就活してて・・・」
仲間内で就活をしていないのは、長山だけだった。
「みんな地元の美容室に就職が決まっていました(笑)。裏切られたと思って、それなら自分は今からでも入れる都内の美容室に行こうと思って、いろいろ探しました」
東京
就活の時期は過ぎていたが、なんとか池袋にある美容室に入社することができた。
「親にも相談せず、自分一人で決めましたね。池袋のエクステもやっているサロンに、なんとか拾ってもらいました」
新卒で入社したサロンで、社会人としての新しい生活が始まった。
「こちらには地元の友達が誰も出てきてなかったので、最初は本当に一人でしたね」
当然アシスタントからのスタートだったが、思わぬ展開が長山を待ち受けていた。
「自分は外で遊ぶのが好きだったので、みんなでクラブに行って朝帰って来て店で寝て・・・。その後仕事して練習して、夜家に帰ってシャワー浴びてまたクラブに行っての繰り返しでした」
サロンとクラブを往復する生活の中で、徐々に友達も増えていった。
「そこで知り合った何人かがギャル雑誌でモデルをやっていたので、その子たちにプッシュしてもらって、雑誌のヘアカタログのスタイリングをやらせてもらったりしてましたね」
クラブでできた人脈が、思わぬところで長山の助けとなった。
「当時はブログが世の中に出始めた頃でした。モデルにブログで紹介してもらったら、自分はまだアシスタントなのに指名の予約が入ってくるようになって・・・。自分は当時アシスタントで髪の毛を切れないので、店長から「カラーでもできるようになろう」と言われて、入社2年目から徐々に入客するようになりました」
顧客にカットをしたいと言われた時は、バックヤードでそのカットの仕方を調べてから対応した。実際の仕事の中で、長山はカットを覚えていった。
「当時は、アシスタントの給料でスタイリストの業務をやってましたね(笑)」
落とし穴
池袋での活躍が認められた長山は、新しく作った原宿店の店長を任された。
「雑誌の仕事が多かったので、原宿に店舗があった方がいいだろうということで、原宿店を作ってもらい店長を任されました」
群馬から単身で上京し、20代前半で店を任せられた。全てが順調に進んでいた長山だったが、思わぬ落とし穴が長山を待ち受けていた。
「同じ会社の仲良かった後輩たちを引き連れて原宿店を作ったのですが、自分はいわゆる叩き上げで先輩になったわけではなかったので後輩に対して何も教えられないですし、リーダーとしての勉強も全然できていませんでした」
店長として店をまとめあげるために必要な教育や訓練を、長山はこれまで何も受けてこなかった。
「当時は本当に勝手にやってたので、原宿店では数字も伸びなかったですし、ただただ雑誌の仕事をこなして、店の事は下の子に任せていました。内部は本当にメチャクチャだったと思います」
長山が店長を務める店は、ほとんど内部崩壊している状況だった。
「自分も、店がメチャクチャになっている感じを薄々気付いていて・・・。もうダメかなと思っていたのですが、そこから自分一人の力で修繕することもできず、何もできない状態でした」
続く
渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)
虚弱体質
長山は群馬県の太田市出身。幼少期の長山は、身体が弱く虚弱体質だった。
「毎週風邪をひいて、月に一回は1週間ぐらい学校を休むような感じでした」
小学三年生から空手を始めた。
「体が弱かったこともあり、祖母から裸足でやるスポーツを勧められたので空手を始めたのですが、そこからは身体も強くなって、風邪も引かなくなりましたね」
同時期に、ミニバスやサッカーも始めた。
「漫画のスラムダンクを読んでミニバスを始めて、そこからNBAを見るようになりました。友達が録画したNBAの試合のビデオを貸しあったりしながら。当時は「アイバーソン」という有名な選手がいたのですが、その選手に憧れて髪の毛を伸ばして、ずっとNIKEのヘアバンドをしていました」
髪を伸ばしてヘアバンドをしている小学生は、とても珍しかった。
「先輩からは言われたりはしましたけど、先生からは特に何も言われなかったですね(笑)」
小学校を卒業した長山は、地元の中学校に入学した。
「小学校の時に一緒にミニバスをしていた2つ上の憧れの先輩がいたのですが、中学校でも一緒にバスケをやろうと誘われていたました。なので、バスケ部に入ろうとしたところ、その先輩はすごいヤンキーになっていてバスケもやっていなくて・・・」
結局バスケをやる意味を見出せずに、バスケットボール部への入部は諦めた。
「当時はテニスの王子様という漫画が流行っていて、それがきっかけでテニス部に入部しました」
高校受験
テニス部では部長を務めて、熱心に練習もした。その結果、地元の大会では3位になるほどの腕前に成長した。当時の長山は、スポーツだけでなく勉強にも熱心だった。
「中学2年の時にオシャレに目覚めて、実家の近くにある制服や髪型が自由な高校に入りたいと思っていました。ただ、その高校は偏差値が60必要だったため、同じ高校を目指している友人たちと一緒に塾に通ったりしながら勉強してました」
熱心に勉強した甲斐もあり、期末試験などでは常に3位以内をキープしていた。そして、見事に第一志望の高校に入学した。最終的には、県内で行けない高校はないと教師に言われるほど、長山の学力は向上していた。そして、念願だった自由な校風の高校に入学し、新しい生活が始まった。
「念願の高校に入学したものの、急に校則が厳しくなったりしたのですが・・(笑)。それでも、ある程度自由にやっていましたね」
部活は、中学校の時から続けていたテニス部に入った。
「中学は軟式テニスだったのですが、高校は硬式だったので慣れるまで苦労しました。それでも、中学校の時に活躍していたテニス部のメンバーがみんな同じ高校に来たので、自分たちの代は強かったですね。一年生の時から団体戦に出させてもらって、二年生の時はレギュラーでした。団体戦では県のベスト8になりました」
進路
自由な校風に憧れていたということ以外に、長山がその高校に入学したもう一つの理由があった。それは、将来高校教師になるためだった。しかし、進学校で優秀な生徒ばかりの中で、長山は徐々に周囲から遅れ出した。
「段々と勉強に付いて行けなくなりましたね。1年の時には、下から数えたほうが早かったと思います。部活はちゃんとやっていたのですが、授業に出ないで部活だけやったりとか・・・。そんな感じでしたね」
評定平均が最低2,5以上ないと大学進学が厳しいと言われていた中で、長山のそれは2,0だった。
「行ける大学がなくなりどうしようかと悩んだ結果、まだ学生生活を送りたいという気持ちもあったので、専門学校に行くことにしました」
父親が美容師ということもあり、昔から頭の片隅に美容師という職業があった。
「自分自身ずっとオシャレが好きでしたし、社会人になってもある程度好きな服装や髪型を楽しめる仕事に就きたいとは思っていたので、美容専門学校に行くことにしました」
続く
本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
IJK OMOTESANDO
会社を退社した伊森はフリーのヘアメイクアーティストとして活動する予定だったが、ある出会いがきっかけで現在の会社に所属することになった。
「今の会社(IJK OMOTESANDO)の代表に、前の会社を辞めるタイミングで声を掛けていただいて・・・。ただ、自分は美容師をしたいわけではないと思っていたのでその旨を伝えたところ、「出勤しない社員がいても良いじゃん」と言っていただいて、最初は混乱したのですが(笑)」
伊森は現在、IJK OMOTESANDOに所属しながら、アーティストのヘアメイクの仕事をはじめとして様々な仕事をこなしている。
「普通、社員の場合勤怠管理はされて当たり前だと思うんですけど、社長は僕が毎日どこで何をしてるかも全く知らないし一切聞いてこないんです(笑)。基本的にお願いされた仕事は断りたくはないと思っているのですが、それが自分である必要があるかどうか?というところは、すごく大事にしたいと思ってますね」
また、ヘアメイクの仕事だけに留まらず、ロゴデザインなどのクリエイティブな仕事も精力的にこなしている。今回の取材を行った会社が有するBAR(BAR Lm.)のロゴも、伊森のデザインである。
「内装デザインとして壁に絵を描いたり、事業展開に向けてロゴやラベルを任されたりしています。所属する会社が他業種展開する中で、インハウスの仕事として事業の根幹に携われる事が多いのでとても楽しいですね」
美容という業界の枠に囚われずにボーダレスに活躍するその原動力は、ある経験がもたらしたものだ。
「以前に、1年間だけ現代美術家のもとで勉強させてもらったことがあります。いわゆる特殊造形作家の方だったのですが、そのお陰で美術業界のことが色々と分かりました。そのときに思ったのが、「自分は知らないことを知りたいんだ」ということでした」
それまで美容業界のことしか知らなかった伊森にとって、その経験は新しい扉を開くことであると同時に、自分に新しい気付きをもたらすものでもあった。
「異なる業界同士が交わって、専門用語を「X」に置き換えて抽象化して話すとすごく勉強になると感じました。他の業界を知ることで、美容業界について逆に色々と気付くことがあります」
美容専門学生へのメッセージ
伊森のもとには今も悩める現役美容専門学生から数多くの相談メールが届く。時代は変われど、自分が学生時代に抱えていた同じ悩みを、現役の美容専門学生も有していることを改めて実感する。
「専門学生時代は、自分が本気で熱量を持ってやれることを考え続けて、思いっきり悩むのが大切だと思いますね。当然ですが、自分の人生は自分にしかありませんから」
また、SNSの負の側面についても危惧している。
「SNSが発達してそれがメインのようになると、どうしても他人と比べてしまいます。まだ他人と比較しなくても良い段階から、凄い人と比較して自信喪失して萎縮してしまう人がいますが、それは違うと思います」
SNSで他人の凄い投稿を見ていると、否が応にもそれと比較して必要以上に自己嫌悪に落ちいる人も少なくない。
「振り返って過去の自分を見たときに、今の自分は過去の自分より成長してるならそれで良いはずです。そこで他人と比較して戦おうとするのは、やめたほうがいいと思いますね」
これから
振り返れば、敢えて茨の道を選択して歩んできた。
「自分はコンプレックスに抗い続ける人生だと思っています。今メイクしているのも、元々ファッションが好きじゃない自分に抗っているわけで。それに抗ってさらに受け入れたときに、こんな楽しいことがあるんだとなりますね」
自分のコンプレックに対して敢えて抗い、その中に自ら飛び込んできた。その生き方はこれからも変わらない。
「自分自身に対しては、どんどん極めて唯一無二になる生き方を選びたいです。一方で、人との関わり方に対しては、全てに対して一対一で全力でコミュニケーションを取りたいと思っていて、自分とその相手との関係で何が変わるかを見ていきたいと思っています。その延長線上で、自分の存在がその相手にとって何か変わるきっかけになれれば嬉しいですね」
完
本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
美容専門学生
高校を卒業した伊森は、名古屋モード学園に入学した。
「専門学校を選ぶときは、愛知や岐阜の美容専門学校をくまなく調べました。実家が裕福ではなかったため、奨学金を最大限利用して全ての技術を学べる学校に行くか、授業料が安い通信の学校に行くかの二択でした」
高校時代から、「学校」という存在の価値を理解していたこともあり、可能であれば色々と学べる学校に行きたかった。
「名古屋モード学園にはヘアメイクアーティスト学科というコースがあり、「これしかない!」と思いましたね。借金して自分に負荷をかけた方が逆に良いのではないかという思いもあり、名古屋モード学園に決めました。専門学校には、祖母の家から通っていました。祖母の自宅が美容室だったので、練習をするにも最適の場所でしたね」
専門学校には真面目に通った。その甲斐もあり、伊森は成績もトップで、様々なコンテストでグランプリを獲得することが出来た。
「美容専門学生の3年間、常に全力でやりたいと思っていました。自分の全てを注ぎ込むというか・・・。進級制作展でグループのリーダーになったことがあったのですが、それ以来常に引っ張っていくリーダー的な役割を担っていました。みんな授業後に残るのは嫌だったと思うのですが、それぞれの適性を見て仕事を振り分けたりしてやってましたね」
学校外のコンテストにも、積極的に参加した。
「自分がリーダーになって、二十数名集めてZepp Nagoyaで開催された外部のファッションショーに参加したりもしました。学校外のイベントに出たために学校の成績が落ちたとか言われたくなかったので、学校での勉強も外部のコンテストも、同時並行しながら全力でやってました」
就職
充実した3年間は、あっという間に過ぎ去った。卒業式では校長賞を受賞した。これまで、校長賞は服飾科の生徒が受賞するのが常であり、新設されたばかりのヘアメイク科出身の伊森が受賞することは、快挙に等しいものだった。名古屋モード学園を卒業した伊森は、東京にあるヘアメイク会社に入社した。
「進路を決める際になりたいイメージはあったものの、どうやったらそうなれるかが分かりませんでした。ですので、とりあえず自分で考えた結果として、人の下につくのが良いという結論に達しました。そこで、ある著名なヘアメイクアーティストに弟子入りしようと思ったのですが、そのためには3年以上のサロン経験が必要でした」
3年間は美容室で働く必要がある。しかし、3年間美容室で働いたところで、スタイリストになれているかも分からない。ヘアメイクなど関係ない、単なる美容師になってしまうのではないかという葛藤があった。
「どうしようかと悩んで知るときに、たまたま東京のテレビ系に強いヘアメイク会社を見つけました。そこは自社で美容室も持っていて、テレビ局との関わりも深い歴史のある会社でした。そこならヘアメイクしながら美容師ができると思い、3年働いたら辞めるつもりでその会社に入社しました」
社会人
生まれ育った愛知県から東京に引っ越した。会社が有する美容室で教育カリキュラムをこなしつつ、時々テレビ局等の現場に行く生活が始まった。
「同期はみんなテレビ系の仕事をやりたくて入社した人たちばかりでした。なので、美容師の勉強は全然やらないというか、みんな途中から現場に行けてしまうので、美容師のカリキュラムと現場の仕事を並行してこなそうとしてたのは、自分一人だけでした(笑)」
気付いたら、伊森が会社に入社して3年以上経過していた。
「最初は3年だけやって辞めようと思ってましたが、徐々にヘアメイクアーティストに弟子入りするという夢がなくなってきました。自分は唯一無二になりたいと思っていたのに、もしそのヘアメイクアーティストの下に付いたら、本当の意味で唯一無二と言えないのではないか?と疑問に思ってきて・・・」
社長をはじめ様々な先輩に可愛がってもらい、毎日居残りの練習を見てもらった。結果として、1年半でスタイリスト最短デビューをすることができた。それからは、現場にも徐々に行けるようになった。
「3年目くらいから、一人で仕事をさせてもらえるようになりました。そうすると、仕事以外の時間が取れるようになり、様々な人と会ったり、自分がやりたいことができるようになってきました。結果として、3年で辞めるつもりがその会社には5年間在籍しました」
続く
本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
引越し
伊森の出身は愛知県。引っ越してばかりの幼少期だった。また、苗字が変わるのも一度や二度ではなかった。
「現在の実家は日進市ですが、複雑な家庭環境で育ったので、愛知県内で保育園2つ、小学校3つ、中学校は4つ行きました。親の結婚や離婚に伴っての事でしたが、それは言いたくなかったので周囲には「親の転勤で・・・」と言っていましたね」
何度も引越しを繰り返し、その都度新しい友達を作るのは至難の技だった。
「5歳下に弟がいるのですが、その弟の友達とよく一緒に遊んでいました。なので、常に精神年齢が5歳下みたいな感じでしたね(笑)」
中学生になると、友達に誘われるままに野球部に入った。
「野球のルールも知らないのに入ってしまったので大変でした。県大会に出場するような強豪チームだったので監督からも不思議がられたのですが、髪型も坊主にしてなんとかやっていました」
持病の喘息の影響などもあり、結果的に野球部は8ヶ月で退部した。その後は転校を繰り返したこともあり、ずっと帰宅部だった。
「当時はゲームをしたり、それまでの延長線上で年下の弟の友達と遊んだりしてましたね」
アルバイト
中学校を卒業した伊森は、地元の高校に入学した。
「高校時代も帰宅部だったのですが、ずっとアルバイトをしていました。最大で3つ掛け持ちしていましたね。当時は純粋なお小遣いというのがなくて、自分で働いて稼いだお金の10%が自分のお小遣いになるという我が家独自のルールがありました。なので、稼いだお金の9割が家に入るという感じでした(笑)」
お小遣いを稼ぐだけでも大変な上に、「学生の本分は勉強」という家庭の方針があったため、一定の成績を保ちながらも、アルバイトをしてお小遣いを貯めなければならなかった。
「当時は来来亭というラーメン屋さんで、3年間アルバイトをしていました。人と関わるいわゆる接客業が大好きになった理由は、そのラーメン屋さんでのバイト経験がきっかけですね。店長がめちゃくちゃ熱い方で・・・」
進路
やがて進路を決める時期に差し掛かった。祖父が陶器のデザイナーで、祖母が美容師というクリエイティブな職業を生業とする家系だったこともあり、自分もクリエイティブな生き方をしたいと漠然と考えていた。
「自分は何をしたいんだ?となったときに、自分にしか出来ないこと、クリエイティブな生き方をしたいと考えました。最初は物づくりがいいなと思っていましたが、自分の中では接客業もしたいというのがありました。コミュニケーションを取るのがすごく大好きでしたので」
人とコミュニケーションを取りながら、クリエイティブな生き方をしたい。伊森の出した結論は美容師だった。それは、転校を繰り返していたときの「人嫌い」だった自分の過去に抗うことでもあった。
「当時から周りは「美容師」と言ってましたが、自分はヘアメイクアーティストになろうと思っていました。地方だとヘアメイクアーティストという言葉はよく知られていなかったですが、とにかく自分はヘアメイクアーティストとしてのし上がろうと考えていましたね」
続く
渋谷に新しくオープンした今話題のサロンがある。数多くのモデルやタレントを顧客に抱え、渋谷で旋風を巻き起こすそんな大人気サロンVAICE代表「浅野宏明」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
VAICE
まさに、自分が思い描いていた東京での美容師生活だった。しかし、会社の方針でやりたくてもできないことが、徐々にストレスになっていった。そして、2020年に新店舗「VAICE」を渋谷に立ち上げた。
「自分が自由になりたかったというのが大きいですが、こうなりたいとかはあまり考えていませんでした。単純に楽しそうというか・・・。昔から自分はそうなのですが、最初は楽しそうだなと思って始めて、そこからハマると熱中してというタイプなので」
楽しそうだと思って始めたVAICEも、もうすぐオープンから1年が経つ。コロナ禍と重なるタイミングではあったが、これまでは想像通りの成長曲線を描いている。
「今のところ順調にきています。自分の理想を実現するために、今後もさらにこのまま突き進んで行きたいと思っています」
自身が美容師になった頃と比べると、美容師を取り巻く環境も変化した。
「美容師の価値が低いと言われていた時期も以前はありましたが、それと比べると美容師の価値が上がってきた気がしますね。今の時代は、ブランディングの仕方次第で価値を上げることが出来ると思います」
自分の色
美容師の価値をさらに上げるために、美容専門学生時代にやっておいた方が良いことを聞いてみた。
「美容専門学生の時は、美容師以外のコミュニティーをたくさん作った方がいいと思います。簡単に言えば、友達をたくさん作っておけという事なんですが・・・。結局、美容室に入社してお客さんや練習モデル等呼びたいとなった時に、どれだけ美容師以外の友達を持っているかが重要になってきます。美容師しか友達がいないとなると、自分の練習モデルすら呼べなくなってしまうので」
浅野自身も美容業界以外の様々な繋がりを有しており、これまで何度も助けられてきた。
「美容師以外のコミュニティーを持っている美容師は強いと思いますね。例えば、ファッションや音楽業界などと横繋がりがあったりすると、ビジネスとしても発展しやすいですし、今活躍している美容師など見てもそうだと思います」
SNS上に数多くのフォロワーを持つ浅野だが、その投稿内容もまた唯一無二で多くのファンを惹きつける。
「SNSでは人と同じことをあげない方がいいと思っています。大枠は一緒でもいいと思うのですが、人と少し違う方がいいと思いますね。自分は下ネタとかバンバン書きますし、ライフワークや人間性を出すようにしています。投稿が髪型ばかりで、その人の人間性や人物像が見えないのが嫌なので、自分という人間をもっと認識してもらってお客さんとして来て欲しいと思いますね」
SNSに対するその独自の考えは、昔書いていたブログで身に付いた。
「当時、ブログをやっている美容師さんはたくさんいたのですが、その内容はお店の情報や金額、施術内容の紹介がほとんどでした。他の美容師さんのブログが全然面白くなくて・・・。そ
こで、自分はリアルに来ているお客さんの投稿と、ふざけた投稿をあげていました」
当時は、お客さんのバックショットを撮ってはいけないという閉鎖的な空気感があった。
「当時の美容師のブログは作品撮りがほとんどでしたが、そもそもこんな可愛い人はお店に来ないしと思って見てました・・・。そこで、差別化を図るために、自分は実際に施術したお客さんのリアルなバックショットをブログに載せるようにしました。それが原点ですね」
未来
最後に、今後のビジョンを聞いてみた。
「色々な場所で美容師をしたいので、お店を何店舗か作りたいなというのはあります。美容師から離れるか?と言われると、それはいつになるか分からないというか、さくっと辞めちゃうかもしれないし、そうじゃないかもしれないですし・・・」
これまで自分の本能の赴くままに、正直に生きてきた。そのスタンスは今後も変わらない。
「これまで通り、自分が楽しいと思ったところに足を踏み込んで行くと思います。まだ美容師以外に楽しそうなことが見つかっていないので、今のところ美容師を辞めるつもりはないですね」
とりあえず楽しそうというところから始めて、熱中していたらいつの間にかここまで来ていた。
「本当は美容師じゃなくても良かったのかもしれませんが、根本的に女の子が大好きなので、女の子を幸せに、笑顔にした瞬間というのが自分のモチベーションになっているのは事実です。それが結果的にお金になっただけというか・・・。美容師という職業は、自分が幸せになるための手段のひとつですね」
完
渋谷に新しくオープンした今話題のサロンがある。数多くのモデルやタレントを顧客に抱え、渋谷で旋風を巻き起こすそんな大人気サロンVAICE代表「浅野宏明」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
美容専門学校
高校を卒業した浅野は、川崎の美容専門学校に入学した。
「専門学校も、特に深く考えずに決めました。こういう専門学校に行ったらこういうサロンに受かり易いとかあるのかもしれませんが、そんな事は特に考えずに、自宅から一番近くて通い易くて、学費が安い専門学校に決めました」
掛け持ちで複数のアルバイトをしながら、専門学校に通った。
「専門学校はめちゃくちゃ楽しかったですね。同じ感覚や価値観、感性を持った友達と一緒に学んで美容師を目指すという生活環境が、とても楽しかったです」
美容専門学校を卒業した浅野は、神奈川県のサロンに就職した。
「そのサロンは父親の友人が経営しているサロンだったのですが、「行きたいサロンがないならうちに来い」と誘ってもらっていたのでそこに決めました。自分としても特に行きたいサロンはなかったので、そこに入社したという感じですね」
社会人
浅野が入社したサロンは、その地域では一番人気のサロンだった。いよいよ、社会人としての生活が始まった。
「正直、社会人になった時は嫌でしたね(笑)。やりたいバイトをしてお金を稼いで友達と遊んでと、学生の時はかなり自由だったので。そんな生活が一変して、美容師だけに縛られて、友達とだんだんスケジュールが合わなくなり・・・」
社会人になった当初は、自由だった学生時代とのギャップに苦しんだ。
「土日は遊べないですし、朝から晩まで働いてという感じだったので、最初のうちは自分の自由が奪われているような感覚になっていました」
当時から浅野は、一通り何でもこなせてしまうという生まれながらの器用さを有していた。それゆえ、人並みに朝から晩まで練習してというタイプではなかった。
「練習は全然してなかったというか、本番でやりながら練習していたという感じです。実際に施術しながら学ぶというか・・・。自分はどちらかと言うと本番に強いタイプなので、アシスタントチェックでつまずくとか、そういう経験はあんまりなかったですね」
月日は流れ、ついに新規出店の際の店長に推薦されるまでに成長した。しかし、浅野が出した結論は東京で働くことだった。
「それまではどこでもいい、なんでもいいという精神だったのですが、ふと東京の美容師に目を向けた時に、自分はこのままでいいのか?と考えました。当時のお店の同期に、LECOのウッチー(内田聡一郎 氏)がいました。彼は先に退社して東京で働いていたので相談したところ、「美容師としてやっていることは変わらなくて、発信する側なのかそれを受け取る側なのかの違いだよ」と言われました。それなら自分は発信する側になろうと思って、東京に出ることにしました」
内田氏が退職して残った同期の中では、浅野はトップの売り上げを誇っていた。そんな絶頂期に、浅野は新卒で入社したサロンを退社した。
東京
新卒で入社したサロンを退社した浅野は、東京にある人気サロン「MARIS」に面接に行った。
「自分としては、こういう美容師になりたいというよりも、AKBをはじめとするアイドルや芸能人が数多く来ている美容室だったので、その店の仕組みを知りたいという思いが強かったですね」
面接を受けた時、MARISの代表や売れている美容師を一人も知らなかった。単純に、店の仕組みに興味があったのだ。
「スタイリストデビューして半年で売り上げ250万とあったので、どうやったらそんなことができるのかと興味津々でした。面接には当然受かると思って臨みました。面接で落ちるなんて微塵も思ってなかったですね。喧嘩を売りに行ってるわけではないのですが、すごい勝ち気で行きました」
面接では、自分の思いをありのままに面接官に伝えた。給料や福利厚生などは特に興味がなかった。
「面接の最後に、「もしダメだったら次の面接で活かしたいので、ダメだったところを教えてください」とお願いしたところ、「良いと思うよ」と言われたので、これは合格したなと思いましたね」
浅野の予想通り、見事に面接に合格した。入社当初は、東京の美容師に対抗心を燃やしていた。
「雑草魂じゃないですが、田舎から出てきた中途入社の他のメンバーと一致団結して、都会組に負けないようにやってました。しかし、最初は自分の色が何もありませんでした。フリーのお客さんを振ってもらってばかりで、自分でお客さんを呼ぶことができませんでした。やはり自分の武器がないとお客さんを呼べないと思い、グラデーションカラーを前面に出して、SNSで情報発信をし始めました」
中途入社から1年2ヶ月でスタイリストデビューして、そこから1年後には店長になった。そして、30歳で総合店長にまで上り詰めた。
「良い給料をもらっていましたし、セミナーの仕事もたくさんありました。しんどかったですが、楽しかったですね」
続く
渋谷に新しくオープンした今話題のサロンがある。数多くのモデルやタレントを顧客に抱え、渋谷で旋風を巻き起こすそんな大人気サロンVAICE代表「浅野宏明」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
美容師の家庭に生まれて
浅野は神奈川県横浜市出身。美容室を経営する両親のもとに生まれた。
「小学生の時はいじめられていましたね(笑)。束縛の強い男の子がいたのですが、その子もいじめられてて、自分しか仲の良い子がいなかったので、対象がこちらにきた感じです。自分としてはいじめられている認識はなかったのですが、冷静に見ればそうだったのかなと・・・」
小学生の時は水泳にハマっていた。
「幼稚園から10年ぐらい水泳をやっていました。もともと小児喘息の持病があったので、水泳を勧められたのがきっかけです。最初は乗り気じゃなかったのですが、やって行くうちにどんどん楽しくなってきた感じですね」
中学生時代になると、テニス部に所属した。
「特にテニス部を選んだ深い理由はないのですが、一番楽そうだったからというのがありますね(笑)。その中学校はサッカーと野球が強かったので、あんまりゴリゴリやるのは嫌だなと・・・」
浅野は中学生の時から土木関係のアルバイトをしていた。
「本当はダメだったのですが、知り合いの会社だったので雇ってもらいました。夏休みや春休みとかに働いて、お金を稼ぐ楽しみを知ってハマったというか・・・。なので、部活やって勉強してというような普通の中学生活ではなかったですね」
高校生の一人暮らし
中学校を卒業した浅野は、地元の高校に進学した。
「自転車で行ける距離の、自宅から一番近い高校に行きました。最初帰宅部だったのですが、途中から友達に誘われて軽音楽部でバンドを始めました。バンドはハマりましたね。ただ、自分の中では高校生の間だけというルールがあったので、プロになりたいとか、ずっとやろうとは思ってなかったです。純粋にただ楽しくてやっていた感じですね」
高校一年の夏から、浅野は実家の近くで一人暮らしを始めた。
「実家の1階が美容室だったのですが、住居部分が2階だけで自分の部屋というものがありませんでした。当時は思春期ということもあり、親が気を遣って4万円くらいのワンルームを実家の近くに借りてくれました」
家賃の4万円は親に払ってもらっていたが、それ以外に必要なお金は全て自分で稼ぐしかなかった。
「小遣いなどはもらえなかったので、バイトを掛け持ちしてという感じでした。食費や光熱費も自分で払っていたので、食事やシャワーなどはなるべく実家に帰って済ましていました。自分でお金を稼いで、自分で生活していくという事を叩き込まれましたね」
進路
一人暮らしをしながらバンド活動に熱中していた高校時代。やがて、自分の進路を決める時期に差し掛かった。
「両親が美容師だったので、美容師だけはやりたくないとずっと思っていました。昔から美容師には一切興味がなく、漠然と俳優業に興味があるくらいでした」
当時は、特に将来何をやりたいということもなかった。
「進路を決める際に自分が唯一こだわっていたのは、女の子と絡む仕事がしたいということだけでした(笑)。結局AV男優やホスト、美容師ぐらいしか思い付かず、高校三年生の春に母親を交えた三者面談があったのですが、そこで美容師になることに決めました」
あれほど両親と同じ職業には就きたくないと考えていた浅野だったが、最終的に親と同じ美容師になることに決めた。
「親が美容師で身近で見てたし、とりあえずやってみようという感じでしたね。テニスやバンドもそうだったのですが、深く考えずとりあえずやってみるという・・・。美容師としてこうなりたいという願望は一切なかったですね」
続く
ヘアメイク総選挙の優勝者はその後どんな人生を歩んでいるのか、気になる読者も多いのではないだろうか?今回紹介するのは、記念すべき第1回目のヘアメイク総選挙の優勝者である香取大海夏。これを読めば、優勝したことが偶然ではなく必然だったことがわかるはずだ。今まさに大きく羽ばたこうとしている、香取大海夏の「過去」「現在」「未来」に迫る。(敬称略)
ヘアメイク総選挙
香取は、第1回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙の優勝者でもある。いわゆる、初代チャンピオンだ。
「インスタグラムで応募ができるという手軽さに魅力を感じて、応募してみたというのがきっかけです。確か1年生の9月ぐらいだったと思います」
最初から優勝を目指して参加したわけではなかった。
「そろそろ作品撮りをして、スタイルブックを作って色々と撮影にも慣れていかなければならないと思っていた時期だったので、タイミング的にもちょうど良いと思って参加しました」
何気なしに参加した初めてのコンテストで、香取はなんと優勝という偉業を成し遂げた。
「優勝した時は本当にビックリしました。あんまり現実味がなかったというか、実感がなかったですね。賞金10万円の半分は貯金して、残りの半分は長く使える良い物を買おうと思って、GUCCIの財布を買いました(笑)」
歴代優勝者は、その実力が認められてかほとんどが自身の希望サロンに就職している。全員に共通しているのは、徹底的に自分で考えるというその姿勢である。
「自分が参加した時のテーマが「ニュージャパンストリート」だったのですが、そのテーマに沿った作品を投稿するのが大前提で、かつ他の作品と被らずに、目を惹きつけるような色彩だったりモデルさんだったりすると良いと思います」
美容学生へのメッセージ
コロナ禍でも頑張って美容の道を極めんとする現役の美容専門学生に対して、メッセージをもらった。
「SNSは学生のうちから絶対にやったほうがいいと思います。美容師になってからやるというのではなく、美容学生のうちから自分のファンを持っていたほうが、美容師になってモデルさんを募集したり入客する上でも非常にやり易くなると思います」
もはや、美容師にとってSNSは切っても切れない存在になっており、学生のうちから慣れておく必要があるのは周知の通りである。
「自分もそこまでフォロワー数が多くないので偉そうなことは言えませんが、どちらかと言うと自信がないタイプだったので、人に認めてもらうことで自信を付けたかったというのがあります。なので、自分が好きなものをどんどん投稿していました」
結果的に、香取の投稿に共感するフォロワーが徐々に増えていき、自分に自信を持つこともできた。
「自分が好きだと思う写真を上げるのが一番良いと思います。共感者を増やすというか・・・。もし自分がファッション好きなら、ファッションに関する投稿をたくさんしてそれに共感してくれる人を増やすのが良いと思いますね」
学生時代にやっていたヘアセットのアルバイトも、現在働く上で非常に役に立っている。
「やはり、スタイリングに慣れておくことが大切だと思います。私自身がヘアセットのアルバイトをしていた経験があるので、アシスタントの中で自分だけ最後のセットを任せてもらえることがあります。こういったことはやってて損はないし、むしろプラスになると思います。限られた時間をどう将来に繋げられるかを考えて、学生時代を過ごしてもらいたいですね」
未来
スタイリストになるために、DaBで毎日研鑽を重ねる日々。自分が想像する理想的なスタイリスト像に近付くための努力は、決して惜しまない。
「DaBはカリキュラムもしっかりしていますし、練習も細かく見てもらえます。技術を身につけるには最適な場所だと改めて感じています」
日本を代表する技術力を誇るサロンで働くことの意味を、誰よりも理解している。
「アシスタントのうちに学べるものは全て学んで、自分がどんな強みを持ったスタイリストになるべきかを、アシスタントのうちから考えています」
あまり先のことは考えてない。今はただ目の前の目標を達成し続けることのみを考えている。
「美容師としてこう成功したいとか、具体的にこうなりたいとかはないのですが、自分がその時やりたいことをできるようにするために、今できることをやるという事を心掛けています。あやふやなまま進むのではなく、個々の技術を確実に吸収していくのが身近な目標ですね」
美容師は、まさに香取にとって天職である。
「自分が提供したもので相手の反応が直接見えて、なおかつそれに感謝してもらえるのが美容師という仕事だと思います。提供する側の自分と提供される側のお客様で直接やりとりができて、評価されると更に広がってまたお客様が来てくれる素敵な職業だと思いますね」
毎日の努力の積み重ねにより、確かな技術力を身に付けながらスタイリストに向けて前進している香取。大きく羽ばたくその日は、もう目の前に迫っている。今後の彼女の活躍からますます目が離せない。
完