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TENDO〜成り上がり列伝 Vol. 3〜

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学生へのメッセージ

美容専門学生と接する機会も多いTENDOにとって、彼らに対する期待は大きい。

「美容専門学生時代にやっておくことは、大きく分けて二つあると思います。一つはSNSをひたすらやるということです。今後は技術もVRの時代になると思うのですが、そうなると技術はうまい人からいくらでも盗めます。もっとも、技術が上手くなっても発信できなかったら意味がないので、SNSは学生のうちからやっておくべきだと思いますね。SNSをやってとにかくフォロワーを増やせば、就職の時に絶対に有利になります」

そして、もう一つの大切なことはそれとは対極にあるものだ。

「フォロワーを増やすのは大切ですが、フォロワーはリアルではないので、リアルに繋がる人も同時に増やす必要があります。なので、たくさんSNSをやりつつ、たくさん遊んでリアルな結びつきを増やすことも大切です」

SNSが苦手な学生に対してはどうすれば良いのだろうか?

「SNSを頑張るのもいいですが、まずは自分が好きなものを確立させることが大切だと思います。例えば自分はショートだったり、今はブリーチを使ったデザインカラーばかりSNSに載せています。やはり何かに特化する必要があると思います」

唯一無二

TENDOが大切にしていること、それは自分を知ることであり自分の色を持つことだ。

「何もそれは技術や髪の毛のことである必要はありません。ファッションやメイクなどなんでも良いと思います。自分はこういう人間であるということを、人に説明できるくらい深掘りできれば良いのかなと思いますね」

不思議なことに、美容業界に対しては特に興味がない。

「自分は珍しいタイプだと思うのですが、美容業界に全然興味がないんです。ただ、美容師プラス何かというか、多様性のようなものがあれば唯一無二になれますし、他にキャッシュポイントを作っておくことでより美容師を楽しめると思います」

美容師は、何も美容師だけである必要はない。

「美容師の売り上げは高い方がいいに決まっているのですが、自分が稼ぐために売り上げを上げるという感覚よりも、やりたいからやるという感覚の方が楽しく続けられるし、美容師としてキラキラ輝くことができると思います。指名売り上げ100万円とか、ある程度の段階はあると思いますが、その段階まで行ったらプラスアルファ何をするかを視野に入れると良いと思いますね」

未来

大阪から東京に出てきて、そのままこれまで走り続けてきた。まだまだ止まるつもりはない。

「そもそもこの店舗を買い取る前から、大阪で駐車場の経営をしていました。なので、自分は美容師であって美容師ではないというか・・・。一回の人生の中で、色々な経験をしたいと思っています」

自分の理想を叶えるために、自分がやるべきことの計画を既に立てている。

「もうすぐマツエクサロンをオープン予定ですし、洋服のブランドを作ったり、来年は大阪にバーも出店する予定です。現在のキャッシュポイントはこのサロンだけで、それだと何人もお客様を担当したときに待ち時間は出るしバタバタするし、スタッフにとってもよくないですので・・・。個室サロンとかで、お客様と向き合ってやっていけるような感じが理想ですね」

TENDOにとって、美容師はまさに天職だ。

「美容師とは、お金をいただいた上で「ありがとう」と言ってもらえる仕事です。そんな仕事はあまりないと思いますね」

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)

美容専門学校

美容師になることを決意したTENDOは、大阪美容専門学校に入学した。

「専門学校では要領の良い生徒で、努力をしたことがない人間でした。パーマやカラーの練習が授業であったのですが、何も練習しなくても最初の頃は学年で上位の順位でした。多分、元々手先が器用だったんだと思います」

成績上位をキープしていたのも束の間、徐々に順位は落ちていった。

「当然ですが、努力をしないので頑張っている他の学生にはどんどん抜かれていきました。順位はどうでも良かったのですが、追試が面倒くさかったので、追試にならない程度に頑張っていましたね」

大阪美容専門学校を卒業したのち、TENDOはカラーに定評がある梅田の美容室に入社した。ついに、社会人としての生活が始まった。

「練習などの技術的な部分は黙々とやるので大丈夫なのですが、上下関係に耐えられなかったですね。子供の頃から怖い先輩などがいたので厳しい上下関係でやってきたのですが、言い方が悪いですが怖くもない芋っぽい先輩にへこへこしなきゃならないのが嫌でしたね。当時は自分も子供だったので・・・(笑)」

子供の頃から怖い先輩のもとでの上下関係に慣れていたTENDOにとって、その環境に馴染むことは容易ではなかった。

「そのサロンはいわゆる一般的なサロンでした。自分はサロン内で浮いてはいましたが、これまで知らなかった一般常識を学ぶことができました。今となってはすごく良い経験だったと思っています」

東京

働いて2年経った頃、TENDOは徐々に東京を意識し始めた。

「大阪で働いているときは、サロンの人間とは話が合わないので美容専門学校時代の友達と遊んでいました。毎週遊んでいた美容師軍団がいたのですが、そのうちの一人がKOUSEI(ONYX代表)さんでした」

一緒に遊んでいたKOUSEI氏は、その後東京で有名美容師になった。それを見て、TENDOも東京に行く決心をした。

「カードで50万円借金して、休みの日に東京に行きました。とりあえず家を探そうと思って・・・」

東京に行って、聞いたことがあった三軒茶屋のアパートを契約した。

「パッと入った不動産屋に条件だけ伝えて、内見もせずに契約しました。大阪から出てきて、初めてどんな家かを知るみたいな感じでしたね(笑)」

東京にいる知り合いは、KOUSEI氏だけだった。そして、半年前にできたばかりの美容室であるBelezaに入社した。

「すごい老舗というか、有名店から独立した方のサロンならどこでも良いと思って探していました。半年前にできたばかりと聞いていたので、まずはお客さんとしてお店に行って、事情を話して入社させてもらいました」

Belezaではアシスタントからのスタートだった。

「友達もお客さんもいない状態からスタイリストになるためには、自分で人脈を広げてお客さんを作る必要がありました。今のように様々なSNSがあるわけではなかったですし、技術を学びながらSNS用のネタを自分の足で捕まえて・・・、というような感じでしたね」

iki

毎日渋谷でモデルハントをして、ショートの作品をInstagramにアップし続けた。それはやがて「ハンサムショート」の名とともに、TENDOの代名詞となっていった。

「写真を撮る角度や画角など、徹底的にこだわっていました。当時は夜中の4時まで仕事して、3時間だけ寝てサロンに行くというような生活でしたね」

ちょうどその頃、TENDOのもとには「うちで働かないか?」というヘッドハンティングの誘いが数多く舞い込んできた。

「当時はオーナーと揉めていたこともあり、どこに行こうかなと考えていました。その時に、L.O.Gから店を出さないかという誘いがあり、それなら話が早いと思い店を出させてもらいました」

半年間だけL.O.Gで働き、iki by L.O.Gをオープンさせた。そして、2年間後に自身で店を買い取った。

「まだ数ヶ月しか経ってないのであれですけど、一言で言うと楽しいですね。それと、良くも悪くも自分次第というか・・・。誰にも甘えられませんが、逆にやりたいことは全てできますし、下の子たちがやりたいことを全て叶えてあげられるのがいいですね」

続く

どん底から這い上がって、戦い続けている美容師がいる。ハンサムショートで業界に名を馳せ、今まさに頂点に駆け上がらんとする美容師「TENDO」が歩んできた、その足跡を辿る物語。(敬称略)
 

大阪生まれ

TENDOは大阪府堺市出身。小学生の時から不良に憧れていた。不良に憧れたきっかけは、あるテレビドラマの影響だった。

「自分が小学校5年生の時に、「ごくせん」というテレビドラマをやっていました。それを見て、周りが全員不良に感化されてましたね」

周りの環境も作用して、不良の道に進むまでにはそれほど時間がかからなかった。

「自分の地元がそんなに良い地域ではなかったこともあり先輩もほとんど不良というか、そんな人ばかりでしたのですぐ繋がれたというか・・・。小5で中1の先輩に可愛がってもらったりして、それからそっちの道にどっぷりという感じでしたね」

不良少年

地元の中学校に進学したTENDOは、学校にはほとんど行かなかった。

「部活も一切やったことはなかったですし、本当に遊び続けた3年間でした。義務教育だから行かなくても卒業できるし、まあいいかという感覚でしたね。割と自分と同じような生徒が多い学校だったので、自然の流れでそうなりました」

正統派の不良として、3年間を過ごした。

「テレビに出るようなオシャレなヤンキーとかではなくて、短ランにボンタンという田舎のヤンキーでしたね。オシャレもクソもなかったです(笑)」

母親には特に迷惑をかけた。

「自由にしてていいよというタイプの母親ではあったのですが、警察や学校から電話やインターホンが頻繁に鳴っていたので、いい加減にしてという感じだったと思います」

美容師

過去に一度、母親から包丁を突きつけられたこともある。

「物心ついた時には父親がいなかったのですが、自分は中学生ぐらいからあまり家に帰らなくなりました。中学を卒業してから塗装屋でアルバイトをしていたのですが、塗装屋のアルバイトをしながらフラフラしていたところ、流石に見かねた母親から包丁を向けられました(笑)」

また、3ヶ月間ホームレスの生活をしたこともあった。

「中学校を卒業した後、アルバイトしていた塗装屋の倉庫で3ヶ月寝泊まりしていたこともありましたね」

このままではどうにもならない・・・。かと言って、自分に稼ぐ能力があるわけでもない。怒涛の中学生活と塗装屋でのアルバイトを経て、TENDOは美容師の道に進む決意をした。

「自分は小学校5年生からずっと金髪でした。当時は自分で金髪にしていたのですが、美容院に行っても思い通りの色にならないことが多かったので、だったら自分が美容師になろうかと思ったのがきっかけです。初めて自らやりたいことを言ったので、母親は反対しなかったですね」

続く

渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

再出発

自分一人の力ではどうすることもできない状況に追い込まれ、思い悩む日々が続いた。そんな時、思いがけない話が舞い込んできた。

「20歳ぐらいの時から、憲司さん(株式会社L.O.G代表取締役 唐澤憲司 氏) と一緒にクラブに行ったりして遊んでいました。当時から、「いつかお互いスタイリストになったら同じお店で働きたいね」と話していたのですが、憲司さんが表参道にお店を出すことになり、誘っていただきました」

自分自身の技術を磨くためのカットの勉強もしておらず、このまま自分の美容師人生を終わらせたくないと思っていた長山は、表参道の新店でゼロから働くことに決めた。

「自分も生まれ変わらなければならなかったので、「一からやりたいです」と憲司さんに話して、L.O.Gの立ち上げメンバーとして合流させてもらいました。原宿の店で自分は店長だったので、裏切る形になってしまったのは今でも本当に申し訳なく思っています・・・」

心機一転、表参道での新しい美容師人生が始まったが、最初は苦難の連続だった。

「当初は、原宿のお客さんが表参道にも付いて来てくれるだろうと思っていたのですが、全然付いて来てくれませんでした。それは今考えれば当然のことで、この仕事も結局は技術が大切であり、練習もしてなかった自分に全部ツケが回って来ただけでした。売り上げがなければ当然給料ももらえないので、アシスタントと同じ給料に戻ってしまいましたね。店長手当などもないので、前の会社の1/3くらいの給料になってしまいました」

暗闇の中から脱出するには、ただひたすら自分自身の技術を磨くしかなかった。

「そこからは、3年間毎日練習しましたね。表参道で通用する技術は雰囲気だけで作るものではなく、本質から勉強する必要があるのだと気付きました。そうしないと、表参道で美容師はできなかったですね。そこに気付けたのは良かったです」

表参道で通じる技術を獲得するために、努力を積み重ねる日々。やがて、その努力が徐々に実りはじめてきた。

「知り合いに頭を下げてお客さんを紹介してもらったりしながら、売り上げが少しずつ伸びていき、気付いたらグループ会社の中でも一番の売り上げになっていました」

店の席も足りなくなってきたこともあり、渋谷に新店舗を出すことになった。

「自分はその時メンズに特化していたので、メンズのお客様にもう少し来てもらいやすくするために、メンズメインの美容室を作ろうと思っていました。そこで、当時メンズスタイルを得意としていたメンバーを連れて、渋谷にお店を出させてもらいました」

L.O.Gに入社して3年で、長山は渋谷に新店舗をオープンした。

「自分自身ずっと渋谷で遊ばせてもらっていましたし、渋谷に友達も多かったので、恩返しというか・・・。自分にゆかりのある地で自分の城を作りたかったという感じですね」

美容専門学生へのメッセージ

人気美容室であるL.O.Gには、就職を希望する現役の美容専門学生が後を絶たない。長山に美容専門学生時代にやっておいた方が良いことを聞いてみた。

「自分たちの時代はSNSがなかったので、自分の足で色々なところに顔を出して自分を売ることが重要でした。しかし、今はSNSの時代なのでインスタやTikTokはできて普通です。もしできていなかったら、この業界では生きていけません」

現在の美容業界においてSNSはできて当然であり、業界で生き残るための最低限のスキルでもある。

「10代〜20代前半でこれから美容師として売れていくぞというときに、SNSができずにお店の集客だけに頼る子は正直売れないです。奇跡もなければチャンスも掴めないと思いますね」

現代の美容業界においては、SNSをやることはチャンスを掴むための必要最低条件だ。

「今はSNSができて普通なので、SNS以外の部分で自分の武器を作る必要があるため、自分に何ができるのかを学生時代に考えておく必要があります。そうしないと、自分自身をブランディングして活躍している美容師さんのようにはなれません。なので、厳しいですがSNSの時代だからこそ自分の足で集客しに行ったりとか、他の人がやらないようなことをやる必要があると思いますね」

長山自身も自分の足で様々な場所に行き顔を売ることで、これまで顧客を獲得してきた。

「人と同じことをやってもダメですし、お店が行うホットペッパー等の集客に頼っていたら絶対に自分の城は築けないので・・・。唯一無二というか、この人にしかできない、この人にしかなれないという美容師像を手に入れたいなら人と同じことをしていてはダメですね」

未来

コロナ禍になり、これまで以上に自分の今後について考えることが多くなった。

「自分自身はL.O.Gという会社に所属しながら自分の会社を持っているのですが、この自分の会社で地方の美容室をやらせてもらったりだとか、L.O.Gのフランチャイズに携わらせてもらったりしています。今はその地方展開を考えるタイミングが多いですね」

渋谷のイメージがある長山だが、その視線は東京以外に向けられている。

「都心は意外と脆いなと、コロナ禍になって感じた部分があって・・・。都心で美容師をやることも大切ですが、仮に都心で大地震が起きて働けなくなった時に、後輩たちを見捨てるわけにはいきません。そういう時だからこそ、後輩たちが働く場所や必要な知識など、美容以外のことも先輩として提案していかなければいけないと思いました」

後輩や仲間のため、長山自身も様々な知識を吸収して先を見据えている。

「色々な場所にお店を出して、後輩たちが困らないように知識を蓄えてという感じですね。実際に渋谷店は5年やってきて、一つのブランディングは完成したと思っています。ただ、今あるお店に囚われずに、仮に若いスタッフたちが都内や地方近郊で店を出したいとなったら、この渋谷店を解散しても良いとも思っています。若いスタッフたちが活躍する場を作りたいですね」

長山の現在の仕事は、もはや既存の美容師の枠にとどまらない。

「美容師とは、最強の仲介業だと思っています。自分なんかは毎月300人近いお客様を担当する中で、色々な仕事をされている方がいて、もしビジネスパートナーを探している人がいれば紹介できますし、困ってる後輩がいたらそれを解決できる人を紹介することもできます」

確固たる技術の裏付けがあるからこそできる、美容師としての次なる展開。新たなる美容師象がここにある。

「お客様をかっこよくして、幸せにさせられなかったらそんな提案はできませんので、当然技術があってこそですが、それがあった上で自分や周りの人が生きていく上で必要なビジネスパートナーを探してあげることもできます。お客様の髪の毛を切る中で、色々な人同士をつないでいける職業なのかなと思いますね」

長山の今後の動向からしばらく目を離せない。

渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

専門学校

高校を卒業した長山は、足利デザイン・ビューティ専門学校に入学した。

「高校の時から買い物で東京には行っていましたが、東京の専門学校に行こうとは思ってなかったですね。東京は買い物に行くところで、住むところではないと思ってましたので・・・(笑)。当時は、将来は美容師になって東京に行こうとかも特に考えてなかったですね」

足利デザイン・ビューティ専門学校には、実家から車で通った。

「専門学生時代はコンテストとかにも特に興味がなくて、やりたいことをやっちゃってましたね。「どうにかなるだろ?」みたいな感じの仲間が周りに多かったので、真面目な生徒ではなかったです(笑)」

苦手な授業では寝てしまうこともあったが、好きな授業には熱中した。

「デッサンの授業とかは好きだったので、校内でも飾ってもらえる作品を作れたりしたのですが、座学とかは苦手でしたね」

楽しかった専門学生時代も、やがて就職活動の時期に差し掛かった。

「当時一緒に遊んでいた専門学校の仲間は、みんな美容師にならないと思っていました。そしたら、みんな実はしっかり就活してて・・・」

仲間内で就活をしていないのは、長山だけだった。

「みんな地元の美容室に就職が決まっていました(笑)。裏切られたと思って、それなら自分は今からでも入れる都内の美容室に行こうと思って、いろいろ探しました」

東京

就活の時期は過ぎていたが、なんとか池袋にある美容室に入社することができた。

「親にも相談せず、自分一人で決めましたね。池袋のエクステもやっているサロンに、なんとか拾ってもらいました」

新卒で入社したサロンで、社会人としての新しい生活が始まった。

「こちらには地元の友達が誰も出てきてなかったので、最初は本当に一人でしたね」

当然アシスタントからのスタートだったが、思わぬ展開が長山を待ち受けていた。

「自分は外で遊ぶのが好きだったので、みんなでクラブに行って朝帰って来て店で寝て・・・。その後仕事して練習して、夜家に帰ってシャワー浴びてまたクラブに行っての繰り返しでした」

サロンとクラブを往復する生活の中で、徐々に友達も増えていった。

「そこで知り合った何人かがギャル雑誌でモデルをやっていたので、その子たちにプッシュしてもらって、雑誌のヘアカタログのスタイリングをやらせてもらったりしてましたね」

クラブでできた人脈が、思わぬところで長山の助けとなった。

「当時はブログが世の中に出始めた頃でした。モデルにブログで紹介してもらったら、自分はまだアシスタントなのに指名の予約が入ってくるようになって・・・。自分は当時アシスタントで髪の毛を切れないので、店長から「カラーでもできるようになろう」と言われて、入社2年目から徐々に入客するようになりました」

顧客にカットをしたいと言われた時は、バックヤードでそのカットの仕方を調べてから対応した。実際の仕事の中で、長山はカットを覚えていった。

「当時は、アシスタントの給料でスタイリストの業務をやってましたね(笑)」

落とし穴

池袋での活躍が認められた長山は、新しく作った原宿店の店長を任された。

「雑誌の仕事が多かったので、原宿に店舗があった方がいいだろうということで、原宿店を作ってもらい店長を任されました」

群馬から単身で上京し、20代前半で店を任せられた。全てが順調に進んでいた長山だったが、思わぬ落とし穴が長山を待ち受けていた。

「同じ会社の仲良かった後輩たちを引き連れて原宿店を作ったのですが、自分はいわゆる叩き上げで先輩になったわけではなかったので後輩に対して何も教えられないですし、リーダーとしての勉強も全然できていませんでした」

店長として店をまとめあげるために必要な教育や訓練を、長山はこれまで何も受けてこなかった。

「当時は本当に勝手にやってたので、原宿店では数字も伸びなかったですし、ただただ雑誌の仕事をこなして、店の事は下の子に任せていました。内部は本当にメチャクチャだったと思います」

長山が店長を務める店は、ほとんど内部崩壊している状況だった。

「自分も、店がメチャクチャになっている感じを薄々気付いていて・・・。もうダメかなと思っていたのですが、そこから自分一人の力で修繕することもできず、何もできない状態でした」

続く

渋谷を代表するサロンと言っても過言ではない「 L.O.G SHIBUYA」。その大人気サロンを牽引するのは、メンズカットを中心に絶大な人気を誇る美容師、長山ゆうき。メンズファッション雑誌のヘアカタログやファッションショーのヘアメイク等、その多彩な活躍の裏にある真実とは?美容師「長山ゆうき」のこれまでとこれからに迫る。(敬称略)

虚弱体質

長山は群馬県の太田市出身。幼少期の長山は、身体が弱く虚弱体質だった。

「毎週風邪をひいて、月に一回は1週間ぐらい学校を休むような感じでした」

小学三年生から空手を始めた。

「体が弱かったこともあり、祖母から裸足でやるスポーツを勧められたので空手を始めたのですが、そこからは身体も強くなって、風邪も引かなくなりましたね」

同時期に、ミニバスやサッカーも始めた。

「漫画のスラムダンクを読んでミニバスを始めて、そこからNBAを見るようになりました。友達が録画したNBAの試合のビデオを貸しあったりしながら。当時は「アイバーソン」という有名な選手がいたのですが、その選手に憧れて髪の毛を伸ばして、ずっとNIKEのヘアバンドをしていました」

髪を伸ばしてヘアバンドをしている小学生は、とても珍しかった。

「先輩からは言われたりはしましたけど、先生からは特に何も言われなかったですね(笑)」

小学校を卒業した長山は、地元の中学校に入学した。

「小学校の時に一緒にミニバスをしていた2つ上の憧れの先輩がいたのですが、中学校でも一緒にバスケをやろうと誘われていたました。なので、バスケ部に入ろうとしたところ、その先輩はすごいヤンキーになっていてバスケもやっていなくて・・・」

結局バスケをやる意味を見出せずに、バスケットボール部への入部は諦めた。

「当時はテニスの王子様という漫画が流行っていて、それがきっかけでテニス部に入部しました」

高校受験

テニス部では部長を務めて、熱心に練習もした。その結果、地元の大会では3位になるほどの腕前に成長した。当時の長山は、スポーツだけでなく勉強にも熱心だった。

「中学2年の時にオシャレに目覚めて、実家の近くにある制服や髪型が自由な高校に入りたいと思っていました。ただ、その高校は偏差値が60必要だったため、同じ高校を目指している友人たちと一緒に塾に通ったりしながら勉強してました」

熱心に勉強した甲斐もあり、期末試験などでは常に3位以内をキープしていた。そして、見事に第一志望の高校に入学した。最終的には、県内で行けない高校はないと教師に言われるほど、長山の学力は向上していた。そして、念願だった自由な校風の高校に入学し、新しい生活が始まった。

「念願の高校に入学したものの、急に校則が厳しくなったりしたのですが・・(笑)。それでも、ある程度自由にやっていましたね」

部活は、中学校の時から続けていたテニス部に入った。

「中学は軟式テニスだったのですが、高校は硬式だったので慣れるまで苦労しました。それでも、中学校の時に活躍していたテニス部のメンバーがみんな同じ高校に来たので、自分たちの代は強かったですね。一年生の時から団体戦に出させてもらって、二年生の時はレギュラーでした。団体戦では県のベスト8になりました」

進路

自由な校風に憧れていたということ以外に、長山がその高校に入学したもう一つの理由があった。それは、将来高校教師になるためだった。しかし、進学校で優秀な生徒ばかりの中で、長山は徐々に周囲から遅れ出した。

「段々と勉強に付いて行けなくなりましたね。1年の時には、下から数えたほうが早かったと思います。部活はちゃんとやっていたのですが、授業に出ないで部活だけやったりとか・・・。そんな感じでしたね」

評定平均が最低2,5以上ないと大学進学が厳しいと言われていた中で、長山のそれは2,0だった。

「行ける大学がなくなりどうしようかと悩んだ結果、まだ学生生活を送りたいという気持ちもあったので、専門学校に行くことにしました」

父親が美容師ということもあり、昔から頭の片隅に美容師という職業があった。

「自分自身ずっとオシャレが好きでしたし、社会人になってもある程度好きな服装や髪型を楽しめる仕事に就きたいとは思っていたので、美容専門学校に行くことにしました」

続く

本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

IJK OMOTESANDO

会社を退社した伊森はフリーのヘアメイクアーティストとして活動する予定だったが、ある出会いがきっかけで現在の会社に所属することになった。

「今の会社(IJK OMOTESANDO)の代表に、前の会社を辞めるタイミングで声を掛けていただいて・・・。ただ、自分は美容師をしたいわけではないと思っていたのでその旨を伝えたところ、「出勤しない社員がいても良いじゃん」と言っていただいて、最初は混乱したのですが(笑)」

伊森は現在、IJK OMOTESANDOに所属しながら、アーティストのヘアメイクの仕事をはじめとして様々な仕事をこなしている。

「普通、社員の場合勤怠管理はされて当たり前だと思うんですけど、社長は僕が毎日どこで何をしてるかも全く知らないし一切聞いてこないんです(笑)。基本的にお願いされた仕事は断りたくはないと思っているのですが、それが自分である必要があるかどうか?というところは、すごく大事にしたいと思ってますね」

また、ヘアメイクの仕事だけに留まらず、ロゴデザインなどのクリエイティブな仕事も精力的にこなしている。今回の取材を行った会社が有するBAR(BAR Lm.)のロゴも、伊森のデザインである。

「内装デザインとして壁に絵を描いたり、事業展開に向けてロゴやラベルを任されたりしています。所属する会社が他業種展開する中で、インハウスの仕事として事業の根幹に携われる事が多いのでとても楽しいですね」

美容という業界の枠に囚われずにボーダレスに活躍するその原動力は、ある経験がもたらしたものだ。

「以前に、1年間だけ現代美術家のもとで勉強させてもらったことがあります。いわゆる特殊造形作家の方だったのですが、そのお陰で美術業界のことが色々と分かりました。そのときに思ったのが、「自分は知らないことを知りたいんだ」ということでした」

それまで美容業界のことしか知らなかった伊森にとって、その経験は新しい扉を開くことであると同時に、自分に新しい気付きをもたらすものでもあった。

「異なる業界同士が交わって、専門用語を「X」に置き換えて抽象化して話すとすごく勉強になると感じました。他の業界を知ることで、美容業界について逆に色々と気付くことがあります」

美容専門学生へのメッセージ

伊森のもとには今も悩める現役美容専門学生から数多くの相談メールが届く。時代は変われど、自分が学生時代に抱えていた同じ悩みを、現役の美容専門学生も有していることを改めて実感する。

「専門学生時代は、自分が本気で熱量を持ってやれることを考え続けて、思いっきり悩むのが大切だと思いますね。当然ですが、自分の人生は自分にしかありませんから」

また、SNSの負の側面についても危惧している。

「SNSが発達してそれがメインのようになると、どうしても他人と比べてしまいます。まだ他人と比較しなくても良い段階から、凄い人と比較して自信喪失して萎縮してしまう人がいますが、それは違うと思います」

SNSで他人の凄い投稿を見ていると、否が応にもそれと比較して必要以上に自己嫌悪に落ちいる人も少なくない。

「振り返って過去の自分を見たときに、今の自分は過去の自分より成長してるならそれで良いはずです。そこで他人と比較して戦おうとするのは、やめたほうがいいと思いますね」

これから

振り返れば、敢えて茨の道を選択して歩んできた。

「自分はコンプレックスに抗い続ける人生だと思っています。今メイクしているのも、元々ファッションが好きじゃない自分に抗っているわけで。それに抗ってさらに受け入れたときに、こんな楽しいことがあるんだとなりますね」

自分のコンプレックに対して敢えて抗い、その中に自ら飛び込んできた。その生き方はこれからも変わらない。

「自分自身に対しては、どんどん極めて唯一無二になる生き方を選びたいです。一方で、人との関わり方に対しては、全てに対して一対一で全力でコミュニケーションを取りたいと思っていて、自分とその相手との関係で何が変わるかを見ていきたいと思っています。その延長線上で、自分の存在がその相手にとって何か変わるきっかけになれれば嬉しいですね」

本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

美容専門学生

高校を卒業した伊森は、名古屋モード学園に入学した。

「専門学校を選ぶときは、愛知や岐阜の美容専門学校をくまなく調べました。実家が裕福ではなかったため、奨学金を最大限利用して全ての技術を学べる学校に行くか、授業料が安い通信の学校に行くかの二択でした」

高校時代から、「学校」という存在の価値を理解していたこともあり、可能であれば色々と学べる学校に行きたかった。

「名古屋モード学園にはヘアメイクアーティスト学科というコースがあり、「これしかない!」と思いましたね。借金して自分に負荷をかけた方が逆に良いのではないかという思いもあり、名古屋モード学園に決めました。専門学校には、祖母の家から通っていました。祖母の自宅が美容室だったので、練習をするにも最適の場所でしたね」

専門学校には真面目に通った。その甲斐もあり、伊森は成績もトップで、様々なコンテストでグランプリを獲得することが出来た。

「美容専門学生の3年間、常に全力でやりたいと思っていました。自分の全てを注ぎ込むというか・・・。進級制作展でグループのリーダーになったことがあったのですが、それ以来常に引っ張っていくリーダー的な役割を担っていました。みんな授業後に残るのは嫌だったと思うのですが、それぞれの適性を見て仕事を振り分けたりしてやってましたね」

学校外のコンテストにも、積極的に参加した。

「自分がリーダーになって、二十数名集めてZepp Nagoyaで開催された外部のファッションショーに参加したりもしました。学校外のイベントに出たために学校の成績が落ちたとか言われたくなかったので、学校での勉強も外部のコンテストも、同時並行しながら全力でやってました」

就職

充実した3年間は、あっという間に過ぎ去った。卒業式では校長賞を受賞した。これまで、校長賞は服飾科の生徒が受賞するのが常であり、新設されたばかりのヘアメイク科出身の伊森が受賞することは、快挙に等しいものだった。名古屋モード学園を卒業した伊森は、東京にあるヘアメイク会社に入社した。

「進路を決める際になりたいイメージはあったものの、どうやったらそうなれるかが分かりませんでした。ですので、とりあえず自分で考えた結果として、人の下につくのが良いという結論に達しました。そこで、ある著名なヘアメイクアーティストに弟子入りしようと思ったのですが、そのためには3年以上のサロン経験が必要でした」

3年間は美容室で働く必要がある。しかし、3年間美容室で働いたところで、スタイリストになれているかも分からない。ヘアメイクなど関係ない、単なる美容師になってしまうのではないかという葛藤があった。

「どうしようかと悩んで知るときに、たまたま東京のテレビ系に強いヘアメイク会社を見つけました。そこは自社で美容室も持っていて、テレビ局との関わりも深い歴史のある会社でした。そこならヘアメイクしながら美容師ができると思い、3年働いたら辞めるつもりでその会社に入社しました」

社会人

生まれ育った愛知県から東京に引っ越した。会社が有する美容室で教育カリキュラムをこなしつつ、時々テレビ局等の現場に行く生活が始まった。

「同期はみんなテレビ系の仕事をやりたくて入社した人たちばかりでした。なので、美容師の勉強は全然やらないというか、みんな途中から現場に行けてしまうので、美容師のカリキュラムと現場の仕事を並行してこなそうとしてたのは、自分一人だけでした(笑)」

気付いたら、伊森が会社に入社して3年以上経過していた。

「最初は3年だけやって辞めようと思ってましたが、徐々にヘアメイクアーティストに弟子入りするという夢がなくなってきました。自分は唯一無二になりたいと思っていたのに、もしそのヘアメイクアーティストの下に付いたら、本当の意味で唯一無二と言えないのではないか?と疑問に思ってきて・・・」

社長をはじめ様々な先輩に可愛がってもらい、毎日居残りの練習を見てもらった。結果として、1年半でスタイリスト最短デビューをすることができた。それからは、現場にも徐々に行けるようになった。

「3年目くらいから、一人で仕事をさせてもらえるようになりました。そうすると、仕事以外の時間が取れるようになり、様々な人と会ったり、自分がやりたいことができるようになってきました。結果として、3年で辞めるつもりがその会社には5年間在籍しました」

続く

本業のヘアメイクとしての活動にとどまらず、ボーダレスに様々な業界で活躍しているヘアメイクアーティストがいる。自分のコンプレックスに抗い続けてきたその先に待っていたものとは?これまであまり語られてこなかった、ヘアメイクアーティスト「伊森凱晴」の過去・現在・未来に迫る。(敬称略)

引越し

伊森の出身は愛知県。引っ越してばかりの幼少期だった。また、苗字が変わるのも一度や二度ではなかった。

「現在の実家は日進市ですが、複雑な家庭環境で育ったので、愛知県内で保育園2つ、小学校3つ、中学校は4つ行きました。親の結婚や離婚に伴っての事でしたが、それは言いたくなかったので周囲には「親の転勤で・・・」と言っていましたね」

何度も引越しを繰り返し、その都度新しい友達を作るのは至難の技だった。

「5歳下に弟がいるのですが、その弟の友達とよく一緒に遊んでいました。なので、常に精神年齢が5歳下みたいな感じでしたね(笑)」

中学生になると、友達に誘われるままに野球部に入った。

「野球のルールも知らないのに入ってしまったので大変でした。県大会に出場するような強豪チームだったので監督からも不思議がられたのですが、髪型も坊主にしてなんとかやっていました」

持病の喘息の影響などもあり、結果的に野球部は8ヶ月で退部した。その後は転校を繰り返したこともあり、ずっと帰宅部だった。

「当時はゲームをしたり、それまでの延長線上で年下の弟の友達と遊んだりしてましたね」

アルバイト

中学校を卒業した伊森は、地元の高校に入学した。

「高校時代も帰宅部だったのですが、ずっとアルバイトをしていました。最大で3つ掛け持ちしていましたね。当時は純粋なお小遣いというのがなくて、自分で働いて稼いだお金の10%が自分のお小遣いになるという我が家独自のルールがありました。なので、稼いだお金の9割が家に入るという感じでした(笑)」

お小遣いを稼ぐだけでも大変な上に、「学生の本分は勉強」という家庭の方針があったため、一定の成績を保ちながらも、アルバイトをしてお小遣いを貯めなければならなかった。

「当時は来来亭というラーメン屋さんで、3年間アルバイトをしていました。人と関わるいわゆる接客業が大好きになった理由は、そのラーメン屋さんでのバイト経験がきっかけですね。店長がめちゃくちゃ熱い方で・・・」

進路

やがて進路を決める時期に差し掛かった。祖父が陶器のデザイナーで、祖母が美容師というクリエイティブな職業を生業とする家系だったこともあり、自分もクリエイティブな生き方をしたいと漠然と考えていた。

「自分は何をしたいんだ?となったときに、自分にしか出来ないこと、クリエイティブな生き方をしたいと考えました。最初は物づくりがいいなと思っていましたが、自分の中では接客業もしたいというのがありました。コミュニケーションを取るのがすごく大好きでしたので」

人とコミュニケーションを取りながら、クリエイティブな生き方をしたい。伊森の出した結論は美容師だった。それは、転校を繰り返していたときの「人嫌い」だった自分の過去に抗うことでもあった。

「当時から周りは「美容師」と言ってましたが、自分はヘアメイクアーティストになろうと思っていました。地方だとヘアメイクアーティストという言葉はよく知られていなかったですが、とにかく自分はヘアメイクアーティストとしてのし上がろうと考えていましたね」

続く