Ari 〜好きな仕事で生きていく Vol.2〜
高校を退学し、なんの当てもない状況で大阪に行き美容師になったAri。自ら道を切り拓き、ついにはコロナ禍の真っ只中に新店「PEPPU」を中目黒にオープンさせた。紆余曲折を経て辿り着いた先にあったものとは何なのか?バイタリティー溢れる美容師Ariの、過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
大阪
郵便配達で貯めたお金を持って、Ariは美容師になるために大阪に旅立った。
「最初の高校を退学したり陸上も途中で辞めたりと、当時は一つのことを長くやることができなかったので、そういうところも直したかったというのがありました。なので、やるしかないと思って大阪に行きましたね」
大阪では、当時の恋人の自宅に同棲させてもらった。そして、美容室の紹介所に出入りしているうちに、そこで運命の出会いが待っていた。
「その紹介所に大阪中央理容美容専門学校の理事長が偶然いたのですが、その理事長は美容室も経営されている方でした。その方に気に入ってもらえて、そのサロンで働きながら3年間、通信課程で美容師の免許を取るための勉強をしていました」
サロンで働きながら、通信過程で勉強する毎日。美容師免許を取得して、将来は東京に行きたいと考えていた。
「自分が働いていたサロンは白髪染めが多かったり、年齢層が高いサロンでした。当時は若かったこともあり、自分がやりたいことと違うため辞めたくなったりもしましたが、今振り返るとその時に得た経験は間違い無く生きていますし、感謝しています」
Ari自身の年齢が上がると同時に、お客様の年齢も上がってきた。当時やっていたことは間違っていなかったと、今は確信を持って言える。
東京
美容師免許を取得したら東京に行きたいと、19歳の頃から思っていた。
「当時働いていたお店の店長に「東京に行きたい」と話したところ、当時はまだそのサロンから東京に行った美容師がいなかったので、最初は反対さていました」
店長が示した東京に行くための条件は、100万円貯めて、国家試験に一発合格するという2点だった。そして、3年間通信過程で勉強して、無事に美容師免許を取得した。東京行きの切符を手にした瞬間だった。
「東京に行った時は葛飾区に高校の友達がいたので、1ヶ月間そこに泊まらせてもらい、サロンに履歴書送ったりとかしていました。どうしても表参道・原宿・青山エリアで働きたかったので・・・」
この時Ariは21歳。手書きで履歴書を何通も書いて、あらゆるサロンに郵送した。そして、ついに表参道のサロンに合格した。
「大阪での3年間があるから自分は大丈夫だと思っていましたが、やはり表参道エリアの美容室の技術は大阪のそれとは異なる部分もあり、それこそシャンプーマンからスタートしました。もうやるしかないという感じでしたね」
そのサロンは巻き髪が得意な、いわゆるコンサバ系のサロンだった。しかし、当時のAriが好きだったのは古着系ファッションや、メンズのヘアスタイルだった。
「理想と現実の違いというか、自分がやりたいことはこういうのではないということで、半年で退社しました。退社後は高知県に帰り、地元の美容室の面接に行ったりしていましたね」
再挑戦
地元の高知県に戻ったAriだったが、不完全燃焼なこの気持ちを拭うことができなかった。
「やはり、やれるのなら東京でやりたいという気持ちがずっとありました。どうせ働くなら、有名無名で決めるのでは無く、自分で直接サロンを見て判断しようと思い、夜な夜な東京のサロンの外観などを見て回りました」
当時愛読していた雑誌「CHOKI CHOKI」に掲載されていた東京のサロンを、自分の足で実際に周り見て回った。そして、あるサロンの外観を見た時に衝撃が走った。
「animusというサロンの外観を見た時に、絶対ここで働きたいと思いました。早速翌日にanimusに行って面接の直談判をして、なんとか合格できました」
一刻も早くスタイリストになり、先輩を追い抜きたいという思いのもと、朝夜を問わず一心不乱に練習した。そして、ついにスタイリストに昇格した。
続く
高校を退学し、なんの当てもない状況で大阪に行き美容師になったAri。自ら道を切り拓き、ついにはコロナ禍の真っ只中に新店「PEPPU」を中目黒にオープンさせた。紆余曲折を経て辿り着いた先にあったものとは何なのか?バイタリティー溢れる美容師Ariの、過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
中学受験
高知県出身のAriは、会社員の両親と姉という4人家族。いつも外で遊んでいる活発な少年だった。
地元の小学校を卒業したAriは、中学受験をして私立の中学校に入学した。
「姉も中学受験したので、自分もという感じでした。姉と同じ塾に通っていたのですが、成績はいつもビリの方でしたね(笑)」
合格ラインのギリギリを彷徨っていたAriだったが、姉に救われた。
「3日間だけ姉に勉強を教えてもらったのですが、そこでの勉強が自分の中にスッと入ってきた感覚がありました。その3日間のお陰で合格できたと言っても過言ではないと思います」
無事に中学受験を突破し、私立の中高一貫校での新しい生活が始まった。
「中学生になってからは、陸上部で長距離をやっていました。あと、中学2年生ぐらいからバイクに興味を持ち始めましたね。バイクが好きでした」
退学
高校生になるとバイク熱がさらに加速し、勉強や部活からは徐々に遠のいていった。そんな中、ある出来事が起きて人生が一変する。
「当時は好奇心があり過ぎて、他の高校にお昼ご飯を食べに行ったり、禁止だったバイクに乗っているのがバレたりして、何度か停学処分を受けていました。「次に何かしたら終わりだよ」と言われていたのですが、色々あって我慢できなくなり、高3の終わりに学校を退学してしまいました」
自主退学という形で学校を去ったAriは、沖縄にある高校の通信科に入学した。
「高校の2、3年が同じクラスだったのですが、そのクラスは2年間で10人退学になりました。その中の一人とすごく仲が良かったのですが、彼が沖縄の通信の学校に行くというので、自分もそこにしました」
アルバイトをしながら自宅に届く教材で勉強し、無事卒業して高卒の資格も手に入れた。卒業後の進路は決めていた。中学1年生の時に姉に初めて美容室に連れて行ってもらって以来、Ariは将来美容師になると心に誓っていた。
「これまでは床屋に通っていたのですが、美容室に初めて連れて行ってもらった時に、髪の毛ひとつで自分のイメージが変わることに驚きました。ワックスをつけてもらう事も初めてだったのですが、その時に受けた衝撃が忘れられなかったですね」
美容師
初めて美容室に行った帰りに、親に無理を言ってヘアワックスを買ってもらった。
「髪の毛ひとつで自分の気分が上がったり下がったりすることに可能性を感じましたね。毎回自分に切ってもらうと気分が上がると言われるような、そんな美容師になりたいと思いました」
美容師になることを夢見て、Ariは高校卒業後に大阪に行く決心をした。
「高校時代に仲の良かった友達が東京に行くというので、被るのが嫌なので自分は大阪にしようと思いました。しかし、高校を退学になったりでお金がかかってしまったので、親からは地元の美容学校しか行かせられないと言われました」
やむなく地元の美容学校を一般試験で受験したAriだったが、結果は不合格だった。
「途方に暮れて悩んでいる時に、当時付き合っていた彼女から「一度きりの人生なのだから夢を追い求めた方が良い」と言われたことがありました。そこで、自分はバイクが好きだったので、お金を貯めるために18歳の4月ごろから郵便局の配達の仕事を始めました」
その年の8月31日まで郵便局の配達のアルバイトをした。そして、アルバイトを辞めた翌日、夜行バスに乗って大阪に旅立った。
続く
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
GOALD
激動の毎日を過ごす中、米田の頭の中には次なるビジョンがあった。それは独立して自分の店を持つことだった。独立して自分の店を出す決意をした米田だったが、事態は思わぬ方向に動き始めた。
「元々、中村さんより先に自分が中村さんに辞める旨を伝えていました。独立して自分で店を出すと伝えていたのですが、中村さんが先に辞めたので、ある晩中村さんに会いに行ってどういうビジョンなのか聞いたら「絶対二人でやった方がいい」と・・・」
米田が独立したかった理由は、上に人がいることで目標達成までの速度が遅くなることへのジレンマだった。しかし、中村となら絶対にそうはならないという確信があった。
「自分には社長やオーナーになりたいという欲はありませんでした。自分には行けるビジョンが全部あるし、3年や5年で考えたときにその都度バスれる方法は構築しているので、「自由」だけ下さいと話しました。「お金は要らないので自由だけくれれば、絶対に会社を違う領域に連れて行きます」という話をしたところ、「逆にいいの?」みたいな感じでしたね」
米田と中村の運命が交錯した瞬間だった。まだ何もスタートしてなかったが、成功する確信だけはあった。そして、2020年9月10日に満を辞して新店舗「GOALD」が渋谷の中心にオープンした。
「最初はゲロ吐くかと思いました(笑)。ただ、行けるという自信だけはありましたね。色々な先輩方を見てきて、「自分ならもっとこうするのに・・・」といつも考えていましたし。自分的にはそもそも先に独立しようと思っていたので、その全てのカードを持ってここに来たという感じです」
「GOALD」がオープンしてからこれまでの間、多忙を極める怒涛の毎日が続いている。
「不安だったのは予約だけだったのですが、5年間妥協なく切ってきた自信もありました。なので、これでお客様が来なかったら自分がダメだったということだと、ある意味で開き直ってましたね。結果的に、設立時に思い描いていた計画は全て上方修正されています。こんなに忙しくなるんだという感じですね(笑)」
美容業界
令和の時代になり、美容業界も以前と比べて様変わりしてきた。しかし、未だに旧態依然とした美容業界の悪しき側面が存在することもまた事実である。
「今の美容業界は嘘が多いと思いますね。例えば、スタッフがどれだけ夜遊びしようがいいと思うのですが、お客様に対して伝える情報に嘘はよくないと思います。ただ映えることを求めるのではなく、自分たちがメディアに出たりフロントマンになるのなら、それ相応の責任があると思います。当然ですがフロントマンは下手ではダメだし、暴力などしてはいけないし・・・。それを全部直していこうと思っています」
ご存知の読者も多いと思うが、米田は校則改革プロジェクトやバンドのボーカル等、従来の美容師の枠にとらわれない様々な活動を行っている。その原動力は一体なんなのか?
「原動力はお客様や仲間など、自分の目に映る範囲の人ですね。自分にとってのストレスは、そんな大事な人が苦しい顔をしている時です。校則改革プロジェクトもそうで、自分にとっての大事なお客様が苦しそうな顔しているのがストレスで、それは絶対に排除しなければならないと思いました。ただただそれを直していく。ひょっとしたら、仲間内では自分の存在がストレスになっているかもしれませんが(笑)」
米田自身ができなかったからこそ、美容学生のうちに是非やっておいて欲しいことも伝えてくれた。
「美容師は髪を切ることが仕事ではなくて、お客様の心に触れることが仕事です。例えば、美容学生なら1クラス40人とすると、40人の心に一度に触れることができるのです。そんなチャンスは一生涯ありません」
社会人になれば、同じ夢・ビジョンを持った仲間が40人いて、一斉に全員の心に触れるチャンスなどまずないと言っていい。
「自分ができなかったからこそ、他者の心に触れることを恐れないで欲しいですね。確かに、心に触れることは難しいと思います。しかし、恐れることなく周りにいるすべての人の心に触れて、その恐怖をなくして欲しいと思います。「これって言ったほうがいいのかな?」と思ったら、ぜひ言ってほしいと思います」
青空
最後に、美容師として米田が思い描いているこれからのビジョンを聞いてみた。
「美容師を新たな領域に連れて行きたいですね。美容師は天井が見えていて、オーナーになるか、芸能人と一般人の間の存在になるかの2択です。それが嫌なので、例えば美容師なのにTV番組の「特ダネ」で現在大学教授が座っている枠に美容師が座るとか・・・。自分の使命は美容師をやりながら全く新しい美容師像を描くことだと、勝手に思っています」
目的を達成するためのスピードはますます加速するばかりだ。
「来年度を目処に、ここに属しながら従来の美容師さんの起業の仕方とは別の仕組みで起業しようと思っています。美容師として、これまでにはない全く新しい美容師像を描きたいと思っていますので、いつまでも挑戦して行きたいと思っています」
米田ならきっとやり遂げるだろう。新しい美容師像の誕生の瞬間に立ち会える我々は、とても幸運だ。美容師新時代の扉は米田によって今開かれたのだ。
「美容師とは、「青空」だと思っています。カッコよくなりたい、可愛くなりたいという真っ直ぐな気持ちで来るお客様と、それに応えたいただのまっさらな美容師・・・。両者が集うのが美容室だと思います。色々な意味で濁っている部分もあるかもしれませんが、本来の美容師はそれだなと思っています」
完
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
LIPPS
就職先のサロンとしてLIPPSを選んだ米田だったが、当時からLIPPSは大人気サロンであり、新卒で入社するには最難関と言われていたサロンのひとつだった。
「自分は絶対に受かると思っていました。と言うのも、どうすれば受かるのかを事前に入念に調べて下準備をしていたので・・・。そこまでの準備をしてきた自分に自信があったので、不安はなかったですね。勝手に自信を持っていました(笑)」
他のサロンには目もくれず、LIPPSのみを受験した米田。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。米田の戦略は見事的中し、LIPPS合格を果たした。
「専門学校の先生には、「最初のサロンが一番大事」「ずっとそこで働き続けることが大切」と言われていたのですが、自分的にはそういう感覚で入社したわけではなく、いわゆる「社会人」や「美容師」という職業を知ることが目的でした」
まだ経験したことがない「社会人」とは一体何なのか?「美容師」とは実際どのような職業なのか?ただそれだけを知りたかった。
「社会というものを知るなら、一番すごいところに行った方が早いと思っていました。当時のメンズサロンの頂点がLIPPSだったので、そこしか考えられませんでしたね。最初に頂点を見て、そこから自分の人生をどれだけ逆算できるかのみを考えてました」
ついに社会人として、そして美容師としての新生活がスタートした。生まれ育った神奈川を飛び出し、お互いの実家が徒歩1分の親友と一緒に東京の目黒区でルームシェアを開始した。順風満帆な社会人生活がスタートしたと思いきや、その矢先に米田は驚きの行動に出た。なんと、LIPPSを4ヶ月で退社したのだ。
「実際にLIPPSに入社してみて、「なるほど社会人や美容師というのはこういう感じなんだな」ということが分かりました。それが3ヶ月で分かったので、すぐに退社しました。もちろんLIPPSが悪いとかではなくて、単純に自分が違うなと思っただけです」
フリーター
LIPPSを退社した米田は、次なる驚きの行動に出た。
「LIPPSを経験して分かったことは、自分は美容師・美容業を絶対にやりたいということでした。退社してまずは1ヶ月間だけフリーターをやると決めていたので、1ヶ月間だけバーテンダーのアルバイトをして、その間にサロン見学を30店舗くらいしました」
様々なサロン見学をして米田が行き着いたサロンは、LIPPSとは正反対の原宿にある小さな個人経営のサロンだった。
「当時、新卒の1年間は全て研究のための時間に使おうと思っていました。そこで、LIPPSの次に考えたことは凄く時間のある美容室に入ることでした。LIPPSでとてつもなく忙しい店を見ることができたので、今度は逆に時間のある店を見たいと思っていました」
米田が中途入社したそのサロンは、当初の希望通り時間のあるサロンだった。
「その時に、まずは自分のなりたい美容師像を描こうと思い、半年かけて美容師のどこがダメで、どこが足りないのか、何を持っていればこの業界で前に出れるのかを毎日考えてました」
店内にいても時間を持て余すだけだったこともあり、毎日モデルハントを原宿で行った。そこで、米田にある気付きが生まれた。
「毎日原宿を見ていると、自分の中で段々と世の中の仕組みが分かってきました。なので、次に行くところは絶対にベンチャー企業にしようと思いました。これから絶対に伸びてくるところに行けば早くポジションが取れると思い、いろいろ調べてみるとやはりOCEANだなと・・・。予約数とかではなく、打ち出し方が面白いのでこれは絶対に来るなと思いました」
自分の進むべき方向性を見いだした米田は、即座に次の行動に出た。
「OCEANの中途募集が始まったタイミングで高木さん(高木琢也氏)を予約して髪を切りに行って、その後に高木さんにDMを送って入社しました。面接受けて20分後にはうちの中村さん(中村トメ吉氏)から連絡が来ましたね」
OCEAN TOKYO
流れるようなスピードで、ベンチャー美容室の雄と謳われていたOCEAN TOKYOに中途入社した。OCEAN TOKYO設立以来、初めての中途入社が米田だった。
「アシスタント時代は激動の毎日で、何も記憶にないですね(笑)。ただ、本当に楽しかったです。アシスタント時代にキツイと思ったことは1回ないですね」
激動のアシスタント時代を2年経験し、ついにスタイリストデビューの日を迎えた米田。その日の記憶は今でも鮮明に残っている。
「デビューした日がとんでもない日でした。当時、OCEAN TOKYOでは主要都市のWEGOをカットして回るというツアーをしていたのですが、初日が原宿で自分のデビュー日でもありました。お店で3人切って、その後にWEGOのイベントにも出演しました」
自分の中の何かが変わった、そんな1日だった。
「小・中学校と美術の成績は1でした。凄く不器用で、母親からも「ハサミを落とすから美容師は絶対無理」と言われてました。高校時代もずっとヤンチャしてて、専門学校入っても周りから理解されず・・・。幸せなんだけど地獄のようなアシスタントの日々を乗り越えて、やっと突き抜けることができた1日だったので、こみ上げてくるものがありました」
それはまさに、夢は叶うのだと確信した瞬間だった。
「OCEANでデビューして帰ったその日の夜は、一番の思い出ですね。不思議な瞬間でした。一生忘れないと思います」
デビューしてから一瞬で、米田は予約が取れない美容師になった。
「デビューする際に、「これからデビューします!」とツイートしたら2時間で1ヶ月分の予約が埋まりました。電話が鳴り止まず、自分で電話対応していたのですが、あるお客様からは「70回電話しましたよ」と言われました(笑)」
楽しくも地獄のようなアシスタント時代を乗り越えた先に待っていたのは、嬉しい誤算だった。
「来てくれたお客様は、ほとんどがアシスタント時代からのお客様でした。お客様に注いだ2年間が、そのまま1ヶ月の予約に繋がりました。予約の空きがなくなり、逆に怖くなりましたね(笑)」
続く
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
プロレス・ダンス・将棋
米田の出身は神奈川県相模原市。少年時代はプロレスに夢中だった。
「自分がまだすごく小さい頃に、父親がテレビでアメリカのプロレスを見ていたこともあり、自分もハマって熱中して見ていました」
プロレスの他に、ダンスにも熱中した。
「フォルダーファイブとか見て、「ダンサーいいな!」と思い始めたのがきっかけですね。自分がやっていたのはそんなにかっこいいものではなく、キッズジャズダンスとかでしたが・・・」
小学生の時には将棋にも熱中した。将棋熱は今も変わらず継続中だ。
「小学生の頃から一貫して将棋が好きですね。祖父がすごく強くて、祖父に勝つためだけに将棋をしていました。美容師の中では絶対に自分が一番強いと思います(笑)」
地元の中学校に入学した米田は、陸上部に入部した。
「中学1年生の時に身長が119センチしかなかったのですが、母親に「陸上をすれば背が伸びる」と言われて、それを信じて陸上部に入りました。短距離をやっていたのですが、結構真剣にやっていましたね」
進学校
やがて進路を決める時期に差し掛かり、米田は地元の進学校の受験を決意した。
「勉強はそんなに好きではなかったのですが、自宅から徒歩1分のその高校に通いたくて必死に勉強しました」
本来勉強がそんなに好きではなかったが、志望校に合格するため勉強に明け暮れた。そして、米田は見事に自宅から徒歩1分の志望校に合格した。
「今考えると、1日14時間ぐらい勉強していました。他に行きたい高校もなかったので、その高校しか受験しなかったですね」
そんな猛勉強の甲斐あって、米田はなんと主席で高校に入学した。高校入学2日目にして将来の志望大学をヒアリングされるほど、周囲からその学力を期待されていた。しかし、周囲の期待とは裏腹に米田にその気はなかった。
「高校でも陸上を続けましたが、とにかくやんちゃな高校生活でしたね(笑)。ほとんど勉強しないで、やりたいことをやっていました」
首席で入学した米田だったが、卒業する頃にその成績は下から3番目くらいになっていた。そして、受験シーズンを迎え周囲が大学進学の準備を始める中、米田はひとり美容師を目指していた。
「中3の高校受験の時には、将来は美容師になると決めていました。通っていた床屋さんで「髪切りは勉強しなくてもなれるよ」と言われたのがきっかけですね」
美容専門学校
高校を卒業した米田は美容師を目指すべく、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。
「国際文化を選んだのは、当時通っていた地元の床屋さんが全員国際文化出身だったからです。美容専門学校は国際文化しかないものだと、当時は真剣に勘違いしていました(笑)」
高校を卒業した米田は、国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した。紆余曲折を経て、美容師への第一歩がついに始まった。やんちゃ三昧だった高校時代と異なり、米田は一心不乱に美容の勉強に励んだ。
「自分の中では高校時代に遊び尽くした感がありました。なので、専門学校に入学した時点で自分の中で勉強一本に切り替えようと思っていましたね」
友達もあまり作らず勉強に専念した結果、成績はほとんど常にトップだった。
「今考えると、学校では自分一人だけ異常に真面目でした。学科試験は大体満点で、練習も静かにやってましたし・・・。特別授業の後にその感想文を毎回書かなければならなかったのですが、毎回そこに学校の体制に関する自分の考えを書いていました(笑)」
そのような行動は、時として米田をおかしな生徒と周囲に誤解させた。就活の時期になると、「有名店はたぶん受からないので地方のサロンにした方が良い」と言われたこともあった。
「なぜ自分はこんなに真面目にやっているのに、受からないのが前提なのか不思議でしたね。周りからは、頭がおかしな奴と思われていたと思います」
真面目過ぎるイメージが災いしたのか、誰からも応援されることはなかった。
「本当に、誰からも理解されてなかったと思います。もちろん、こちらも理解を求めてなかったですが・・・」
本来の自分と、周囲が抱く自分へのイメージのギャップに苛まれながらも、ただひたすら美容の勉強に打ち込んだ。そんな中、ついに就職先のサロンを決めなければならない季節がやってきた。
「当時のメンズサロンの頂点がLIPPSだったというのもありますし、自分が美容師になろうと思って一番最初に名前を覚えたサロンがLIPPSでした。なので、LIPPSしか行くつもりがありませんでした」
続く
一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
独立
長崎が入社した当初、MINXには30人弱の美容師しかいなかった。それがいつの間にか200人まで増えていた。その成長過程を間近で見てきた中で、長崎には一つの疑問が浮かんでいた。
「セミナーや業界誌に出たり、本を出版したりと色々やっていたのですが、全てはMINXという大きな会社だったからこそ出来たことでした。自分が一人になった時に、自分の技術はどんなものなのか、やっていけるのか確認したいという思いがありましたね」
様々なタイミングも重なり、17年間勤めていたMINXを円満に退社した長崎は、自身の美容室「CANAAN」を表参道にオープンさせた。
「MINXにいた頃から、お店の大小を問わずオーナーというか経営者は凄いなと思っていました。人やお金の問題を全て背負っているわけですし。自分もいつかはそこを目指した方がいいのかと思っていた中で、タイミングが偶然重なったので独立したという感じですね」
独立して実際に経営に携わるようになると、自分が経営に向いていると肌で感じることができた。
「こういう人が集まる場所では、大小様々な問題が出てきます。ただ、問題が起きたときの対処の仕方を自分の中で前向きにやっていけるかが大切だと思います。自分にとっては、次にこういう問題が起きた時にこうしようと考えるのがすごく楽しいので、そういう意味では経営に向いているのかもしれないですね」
美容業界
長崎を取り巻く美容業界も、時代と共に様変わりしている。
「今は経営寄りの美容業界になっているというか、すごく良い業界になったと思いますね。スタッフの給料も昔のような丁稚奉公ではないし、休みも週休二日で取れて、有給まで取れるので・・・。すごくいい時代になったと思う反面、経営寄りになりすぎた弊害もあると思います。人を育て上げてスタイリストにして、お店のブランドを一緒に作り上げる美容師になってもらうというような、いわゆる「待つ」教育の姿勢が薄らいでいると感じますね」
自社で教育するという過程を省いて、すでに教育されている美容師を外から雇い入れる店舗も増えてきている。
「特に都市部では、スタッフは育てるよりもリクルートをかけて他から採用する時代になってきています。そうすると、絶対的に失われていくのは高い技術力やデザイン力です。全員がそうではないと思いますが、最近は個人の美容師としてのこだわりが少ないような気がします。今の時代では、教育型のサロンより経営型のサロンの方が調子が良い事は間違いありません。しかし、いずれは教育型のサロンがまた復活する気がします。そうでないと、質が保てないですから」
長崎のサロンには、業界の将来を担う美容学生が新卒で数多く入社する。美容学生のうちにやっておいた方が良いことを教えてくれた。
「自分がどんなデザインが好きで、何を作りたいのかということを学生の2年間のうちにイメージできるようになった方が良いと思います。そうすれば、就職する美容室を間違えなくてすみますから。それと、コロナ禍の今はあまり大人数で集まりづらいですが、例えば大人数で飲みに行った際とかに、人との関わりの中で自分がちゃんとしたポジションを作れているか試行錯誤することも、美容師になった時に役に立つと思いますね」
とりわけ、新卒で入社する美容室が重要だと強調する。
「1店舗目の美容室は絶対に間違えないほうが良いと思います。そこで間違えると、その先美容師を続けられなくなってしまう可能性があります。自分も1店舗目に働いた三重県の美容室がすごく良かったので、今も美容師を続けられていると思います。1店舗目の美容室は、自分の感覚や気持ちと合うところを選べると良いと思いますね」
未来
40歳でCANAANを設立して、今年で8年目を迎える。
「設立当初から技術的なブランディングをしっかりしようとやってきたので、教育体制は出来上がってきました。今はほぼ新卒の方しか受け入れていないのですが、デビューして作っていくデザインなどを見ても、良い美容師さんをたくさん輩出できる仕組みになってきたと思いますね」
CANAANはまさに人材の宝庫と言える。それは決して言い過ぎではない。
「最初に入社した子たちも、30〜35歳になってきています。これからやりたいのはキャリアが長い子たちの独立というか、グループとしての広がり方を考えています。やはり会社として大きくないと、やりたいこともやれないですから」
さらなる高みを目指し、長崎のチャレンジはまだまだ続く
「これまでは教育型サロンを作ってきたので、これからは教育型サロンのノウハウをベースに少し経営寄りのサロン展開をしたいですね。グループとして大きくしていって、これまで規模が小さくて出来なかったことをやっていきたいと思っています」
美容師になって30年。これからもその歩みを止める事はない。また、止めるつもりもない。
「美容師はその仕事を続けるにあたり、様々な続け方があると思います。大きな美容室で幹部になってもずっと続けたり、色々勉強して一人でやる環境を作って続けたり。経営者として生きていくこともできます。美容師は自分の生活環境に合わせて、場所を変えても給料をもらえるし暮らしていける仕事だと思います。その意味では、生きていく上で非常に良い仕事だと思いますね」
美容師という職業は、まさに長崎にとっての天職だった。
「選択肢がありますから。別に高い所に目標を置き続けなくても良いわけですし。家庭の方が大事になったら、家庭をベースにして美容師という仕事を楽しみながら続ければいいし。美容師は本当にいい仕事だと思いますね」
完
一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
社会人
高校を卒業して入社した美容室は、三重県でも有名な美容室だった。長崎はそこで2年半働いた。
「最初は一人暮らしをしていましたが、地元では車がないと遊びも楽しくないので、お金を貯めるために、夜はキャベツを食べるだけみたいな節約生活をして貯めたお金で途中から車を買って、実家から通っていました」
いよいよ社会人としての新生活がスタートした。
「私のサロンに面接に来る今の若い子を見てると、美容師になって雑誌に出たいとか、ヘアメイクをやりたい等の明確な目的がありますが、当時の自分は家業を継ぐことが目的だったので明確なビジョンがありませんでした」
それでも、毎日の仕事の中でやりがいを感じる瞬間が多々あった。
「何かを作ったりするのが好きだったので、例えばシャンプーをしてお客さんが喜んでくれるだけでも嬉しかったですね。当時はバブルだったので、お客様からチップをもらえました。喜んでもらえてかつチップがもらえるので、こちらも工夫してすごく気持ちのいいシャンプーの仕方を考えたりして・・・。自分で考えて作ったりするのが昔から好きでしたね」
スタイリストになるために日々練習に励んだ。
「自宅での勉強方法を工夫して、しっかり手元が見えるように床に鏡を置いて、パーマを巻く練習をやったりしてました」
東京
スタイリストになりカットもやり始めると、どういうデザインがかっこ良いのか、どういう美容室が良いのかを色々と考えるようになってきた。当初はなかった美容師としてのビジョンが、徐々に湧いてきた。
「当時は色々なヘアショーを見に行ったり、自腹でPEEK-A-BOOさんのカット講習に参加したりしていました」
そんな中、ある出会いが長崎を東京に向かわせるきっかけとなった。
「資生堂が運営するSABFAというヘアメイクの学校があるのですが、その方達の作品が素晴らしくて感動しました。そこでヘアメイクを習いたいと思って、SABFAに入るために東京に出てきました」
自分の車を売って、引っ越し費用とSABFAの授業料に充てた。SABFAでヘアメイクを学びつつ、日々の生活のために三鷹の美容室で働いた。
「あくまでSABFAがメインだったので、当時雇っていただいた美容室のオーナーに自分の事情を正直に話して、SABFAがメインなので一年で辞めるかもしれない旨を伝えて、入社させてもらいました」
自分が思い描いていた場所で勉強する日々は、非常に充実していた。SABFAでの全カリキュラムが終わったが、その後のことは考えていなかった。三重県に帰るという選択肢もあったが、東京に残る決断をした。
「どうせ東京に出てきたのだから、東京を感じるサロンで働きたいと思いました。そこで思い出したのが、昔名古屋で見て印象に残っていたMINXとOPERA(ACQUAの前身)でした。電話で問い合わせたところ、OPERAは既に募集が終わってましたが、MINXは欠員が出たようで面接してもらえることになりました」
MINX
当時からMINXはすでに大人気サロンで、入社するのも非常に困難なサロンの一つだった。しかし、長崎の熱意が通じたのか、見事に合格して入社することができた。
「当時のMINXは日本で一番尖っていたというか、ヘアショーでもナンバーワンでした。今考えると入社できてラッキーでした。同期で入社したのは、高身長でルックスが良かったりとお洒落な子ばかりでした。自分は三重県から出てきたばかりで、東京のファッションも全然分からない状態でした。なぜ受かったのかは正直いまだに分からないですね」
憧れのMINXで、美容師としての新たな生活が始まった。全国にその名を轟かせるサロンだけあって、厳しかったがその分やりがいもあった。
「MINXに入社する前にも三重県で一生懸命やってはいたんですが、「とことん」というところまではやり切れてませんでした。実家から通っていたということもあり、切羽詰まった状況ではなかったので。なので、東京に出てきたかった理由の一つが「とことん」突き詰めたいということでした。突き詰めることができる環境まで自分を追い込みたかった、というのがありますね」
MINXに入社した年に長崎は結婚をした。家庭を支えるためにも、生活を安定させる必要があった。
「社内チェックに受かったり、スタイリストになればその分給料が上がるので、それは必死でした。当時の体験で自分の美容人生が変わった気がします。自分のダラダラした部分を叩き直すにはちょうどよかったですね。昔は男が9割で、まるで軍隊のようにめちゃくちゃ厳しかったので(笑)」
突き詰めるために入社したMINXで、まさに突き詰める毎日が続いた。
「タオル一枚畳む際にも四隅をきちんと揃えたりしていたら、先輩から「お前いい仕事するな」と言われるのがその頃の自分の喜びというか・・・。自分のだらしない部分が直ってきたなと感じた瞬間でした。今思えば本当に楽しかったですね。30年やってきた美容師人生の中で、一番楽しかった時かもしれないです」
続く
一般誌や美容専門誌の撮影、ヘアショー、セミナー、カラー剤の開発など八面六臂の活躍を見せる美容師「長崎英広」。独自のカラー理論とそのカラーデザインは、他の美容師の追随を決して許さない。そんな美容師「長崎英広」の、これまであまり語られてこなかった過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
バスケットボール
長崎は三重県の松阪市出身。小学生の時から同級生を笑わせるのが好きな、活発な少年だった。
「割と笑いを取ったりするのが好きでしたね。クラスの中で面白いことをしてみんなに喜んでもらったりするのが、その時の自分の生きがいだった気がします(笑)」
地元の中学校に進学した長崎は、バスケットボールに熱中した。
「当時はマイケルジョーダンがリアルに活躍していて、テレビでも放映していました。ジョーダンのバスケットシューズも出始めた頃ですごくカッコ良くて、それでバスケにハマりましたね。漫画のスラムダンクとかが出る前です」
ただひたすらバスケットボールの練習をしていた。
「すごく強いチームとかではなかったですが、割と本気でやっていました。あまり遊んだ記憶がなくて、毎日ひたすら部活でしたね」
高校
中学を卒業した長崎は、津市の高校に進学した。
「母親が美容師だったのですが、当時から将来は美容師になるように言われていました。「美容師になったら女性ばかりだから免疫を付けるために女子が多い学校に行きなさい」と母親から言われていたので、女子が多い商業高校に入学しました(笑)」
入学した高校は、1クラス40人中に女子が30人。男子が10人だった。
「結果的には母親の思惑通りになりましたね。あの時代は家業を継ぐという慣習が色濃く残っていたので、母親からしたら家を継ぐというのが重要だったのだと思います。美容師以外には選択肢があり得ないという感じでしたね」
高校時代もバスケットボールを続けたが、長崎には新たに熱中したものがあった。
「当時はいわゆる第一次バンドブームで、「BOØWY」「ブルーハーツ」「X JAPAN」などが台頭してきた時期でした。なので、当然バンドはやっておかないとダメだろうということで、バンドを組みましたね」
興味の対象が中学生の頃からハマっていたファミコンから、バンドに変わった。
「ベースを弾いていました。同じ学校の友達とバンドを組んで、ライブがある時はチケット売ってということをしていましたね。自分の実力は分かっていたので、さすがにプロになりたいとかは思わなかったです」
美容師
バスケとバンドに明け暮れていた高校時代だったが、長崎にはもう一つ熱心に取り組んでいた事があった。
「高校2年ぐらいから、美容専門学校の通信課程に通っていました。自宅に送られてくる美容の教材で勉強していました」
高校に通いながら、並行して旭理美容専門学校の通信過程を受講していた。
「高校卒業してすぐに美容免許が取れるようにということで、親から勧められてという感じですね。自分の中では将来美容師になると決めていたので、高校の勉強よりも熱心にやっていました」
高校を卒業した長崎は、母親の知り合いのディーラーから東京の美容室を紹介されたが、地元の三重県の美容室に就職した。
「母親の美容室を継ぐことにしていた関係上、東京ではなく地元のサロンに就職しました。当時は美容に対する意識がそんなに高くなくて・・・(笑)」
続く
今も昔も美容室の聖地といえば、原宿を思い浮かべる人も多いはず。原宿には美容師を刺激し呼び寄せる、まるで魔力のようなものがある。そんな原宿に魅せられた一人の美容師がここにいる。原宿で複数店舗を展開する美容師「吉田太紀」の、これまでとこれからに迫る。(敬称略)
原宿
異例の速さでスタイリストになり、吉田の美容師生活も徐々に軌道に乗ってきていた。
「まだ若かったので、下を教育するというよりも、自分自分という感じでしたね。周りにはあまりよく思われてなかったかもしれません(笑)」
スタイリストになって順調な日々を過ごしていた吉田だったが、一つだけ心に引っ掛かっている事があった。美容師になったときに抱いていた、原宿で働きたいという願望。それだけはいつまでたっても忘れる事ができなかった。
「やはり、自分の中では原宿で働くという目的がずっとありました。横浜も楽しかったのですが、そこに骨を埋めるというよりは、原宿で骨を埋めたいというのがありましたね」
原宿で働きたいという強い思いに抗うことができずに、吉田は働いていたグループ店を退社した。
「当時働いていたそのグループ店には、今後原宿に出店するという予定もありませんでした。それなら自分で原宿に出店するしかないと思い、退社しました」
新卒で入社した会社を退社した吉田は、フリーランスの美容師として新たな船出をした。
「最初は、西麻布の美容室でフリーランスとして働いていました。その後、箱貸しのような形で3年ぐらい表参道の美容室で働きました。雇われ店長のような形でしたね」
AnFye for prco
結果的に6年近くフリーランスの美容師として働いた後、自身の美容室である「AnFye for prco(アンフィフォープルコ)」を念願の原宿にオープンさせた。
「オープンしてから1年くらいは結構大変でした。SNSで集客していたのですが、当時はSNSの変換期だったというか・・・。mixiなどがSNSの主流だった時代からインスタに切り替わったタイミングだったので、SNSで集客ができなくなくなり大変でしたね」
数々の荒波を乗り越え、吉田はオープンしてから4年目に2店舗目となる「AnFye.dueldo」もオープンさせた。
「今後もさらに出店していきたいと思っています。正社員として雇って頂いた最初の会社の考えを尊敬しているので、多店舗展開していきたいですね。今年の10月にも、この近くに3店舗目がオープンする予定です」
吉田は現在、美容室以外にもマツエクサロンを運営している。
「マツエクサロンに関しては、自分がアシスタント時代にお金ですごく苦労したということもあり、アシスタントの間に収入を増やす選択肢として作りました」
未来
100年に一度と言われている現在のコロナ禍の状況下、吉田は逆に手応えも感じている。
「個人的な意見ですが、今回のコロナで美容室はなくてはならない業種だと再確認されたと思っています。衣食住というライフラインの次くらいに重要というか、災害が起きたときに廃れない業種だと思いましたね」
自身の思い描くビジョンを実現するために、吉田は今日も走り続ける。
「コロナのせいで、今は10年後という考え方はやめて3年後のビジョンのみを考えることにしました。まずはオリジナルブランドを広めながら、それに合わせた特化型の美容室をこのエリアに最低でも5店舗くらいには増やしたいと思います。それを3年以内にやりたいですね」
今後も、美容師吉田太紀から目を離せそうにない。
「美容師をやってきて一番思ったのは、美容師は相手に対して何かを与え、それに対して対価をもらう職業ということです。その中で美容師でしかできないお客様へのサービスというか、満たし方が必ずあると思います。それが美容師かなと思いますね」
完