渡部珠生 〜未来のカラーリスト Vol.3〜
STYLE LABが主催している「全国美容専門学生ヘアメイク総選挙」。歴代の入賞者は、現在どのような人生を歩んでいるのか?今回は、第3回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事1位を獲得した、渡部珠生の現在地に迫る。(敬称略)
社会人
ついに社会人となり、念願のkakimoto armsでの新生活が始まった。現在の肩書はジュニアカラーリスト。就職活動中にkakimoto armsに行った際に、カラーリストになりたいと思ったからだ。
「社会人になって、毎日刺激を受けています。ここでの生活に全てが詰まっているというか・・・。毎日が非常に充実していますね」
カラーリストにとって刺激的で働きやすい環境があったことにも驚いた。
「カキモトアームズではスタイリストとカラーリストが分かれているため、コラボレーションして仕事をするので非常に勉強になりますし、すごくいいなと思います」
コロナ禍により練習時間の短縮を余儀なくされながらも、一人前のカラーリストになるために日々研鑽を重ねている。
「プロの仕事を間近で見ると、当然ですが自分が今まで作ったスタイルはまだまだ課題があると感じます。今まではカラーの作品をあまり作ってこなかったので、これからはカラーリストとしてもっとカラーの作品を作っていきたいと思いますね」
美容学生時代にしておくべきこと
つい最近まで自分も美容学生だったからこそ、現役の美容学生に伝えたいメッセージがある。
「映画でもなんでもいいと思うのですが、色々なものを見た方がいいと思います。例えば作品を作るにしても、自分に色々な引き出しが必要になりますので」
他人と同じ経験しかなければ、他人と違う作品は作れない。他人と違う作品を作りたければ、他人がしていない様々な経験を積むしかない。
「読書でもいいと思うので、色々と経験して欲しいと思います。技術面に関しては、私も学生時代不器用でしたが、就職してからそのサロンで磨くことができるので、そんなに心配する必要はないと思います」
社会人として働くにあたり、学生時代の経験で蓄積された自分の引き出しに何度救われたか分からない。
「技術も大切ですが、学生の時は色々な経験を積んで自分の引き出しを増やした方が、サロンに就職した時に有利になると思います」
未来
この4月で、社会人2年目に突入した。ほんの一年前には美容学生だったことが信じられない。今はカラーリストとしてデビューするために、日々奮闘中だ。
「自分はまだ色々と吸収をしなければならない立場で、技術面でもさらなる向上が必要と思っています。自分の強みを見つけるのもいいと思いますが、自分としてはトータル的に全部できるというのを武器にしたいと思っています。何でも出来ると言ったら言い過ぎですが、何でも対応できるカラーリストになりたいと思います」
ヘアメイク総選挙での優勝や希望サロンへの就職と、目標は必ず達成してきた。渡部なら、その目標もきっと叶えるに違いない。最後に、ヘアメイク総選挙優勝経験者の立場から、コンテストで優勝するための秘訣を教えてもらった。
「コンテストで優勝するためには、目に見えるもの全てを意識した方がいいと思います。ヘアスタイルはもちろん、画角、モデルの表情、衣装など全てです。ヘアスタイルももちろん大切ですが、トータルで見た時に印象に残る作品を作るべきだと思いますね」
美容専門学生時代にヘアメイク総選挙で優勝して、志望サロンに就職。毎日が充実している渡部は、今まさに大きく羽ばたこうとしている。次に羽ばたくのは、今まさにこれを読んでいるあなたかもしれない。
完
STYLE LABが主催している「全国美容専門学生ヘアメイク総選挙」。歴代の入賞者は、現在どのような人生を歩んでいるのか?今回は、第3回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事1位を獲得した、渡部珠生の現在地に迫る。(敬称略)
初めてのコンテスト
充実した学生生活を送っていた渡部だったが、2年生の時に初めてコンテンストに応募した。第3回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙に作品を応募したところ、思わぬ結末が待っていた。
「あれは初めて応募したコンテストでした。当時は作品撮りをしていたものの、それをコンテストに出すという機会がありませんでした。友達や学校の先生からヘアメイク総選挙のことを聞いて、応募してみようと思ったのがきっかけですね」
賞を取るためにはどうしたらいいのかを自分なりに考えた。
「当時のコンテストのテーマは「日本イケ男」という、メンズの作品がテーマでした。男性のカッコよさを引き出すというのが、自分の中で新鮮で楽しかったですね」
自分の理想のイメージを形にするために、すべて自分で考えて作品を作り上げた。初めてのコンテストだったが、最初から入賞することを狙っていた。
「モデルの男性に合うスタイルだったりだとか、自分が考える映画のワンシーンに出てくるような感じをイメージして作りました。角度とかもすべて自分で決めてという感じでした」
自信
メンズの作品がテーマだったということもあり、応募者のほとんどが男子学生だった。そんな中で、渡部の作品は見事1位を獲得した。その作品は、審査員のエザキヨシタカ(grico代表)と西森友弥(MR.BROTHERS CUT CLUB代表)の両氏も驚くほどの圧倒的なクオリティだった。
「予選を通過したことは知っていたので、順々に結果発表されていく瞬間は本当にドキドキしましたね。最後1位しか残ってないのに、自分の名前がまだなかったので・・・」
もちろん出場するからには入賞を目指してはいたが、まさか優勝するとは思っていなかった。
「優勝した時はほんとうに嬉しかったです。優勝賞金の10万円は全て美容関係に使ってしまいました(笑)。ずっと使えるメイクの道具とかたくさん買いました」
しかし、渡部の快進撃はこれで終わらなかった。なんと、続く第4回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で応募した作品が、審査員であるサトーマリ特別賞(siika NIKAI ディレクター)に選ばれたのだ。2大会連続の受賞は、渡部に大きな自信を植え付けた。
「周りはかなりびっくりしていました。自分はかなり不器用な方だったので、先生もすごく驚いていましたね」
就職活動
楽しかった美容専門学校での生活も2年生の秋になり、やがて就職活動の時期に差し掛かった。社会人への扉を開ける瞬間が目の前に迫っていた。
「自分は父のお店で髪の毛を切ってもらっていたので、他の美容室というか有名サロンをほとんど知りませんでした。なので、自分で調べたり学校の友達などから色々と情報を集めていました」
様々なサロンの情報を集めていくうちに、渡部はあるサロンに興味を惹かれた。それが、今まさに働いている「kakimoto arms」だった。当時は、自分が気になる様々なサロンに実際に足を運び、サロンの雰囲気を確かめた。そして、自分にはここしかないと思った。
「kakimoto arms に入社するにあたって、技術の試験はなかったのですが、面接が3回あったのでその対策はしましたね。人間性や人柄を見られていると思ったので、入社したいという自分の気持ちを素直に伝える事に専念しました」
kakimoto arms で働くことしか頭になかったため、他のサロンは受けなかった。そして、3回の面接をクリアして、ついに念願のkakimoto armsで働く切符を勝ち取った。
続く
STYLE LABが主催している「全国美容専門学生ヘアメイク総選挙」。歴代の入賞者は、現在どのような人生を歩んでいるのか?今回は、第3回全国美容専門学生ヘアメイク総選挙で見事1位を獲得した、渡部珠生の現在地に迫る。(敬称略)
渋谷生まれ渋谷育ち
渡部は東京都渋谷区の出身。都会のど真ん中で生まれ育った。
「小学生の時から空手と野球をやっていました。50人くらいの少年野球のチームに、私一人だけ女の子がいるみたいな感じでした(笑)」
現在の華奢な見た目からは想像できないが、小学生の時からスポーツに熱中していた。
「習い事やスポーツは全て、自分から親にやらせて欲しいと頼んで始めました。空手教室の電話番号メモって、親に電話してもらったりして・・・」
自宅近くの高校に入学した後も、空手は続けた。
「部活には入ってなくて、空手に専念していました。ただ、当時は美容に興味を持ち始めていたので、空手より美容という感じでした」
美容師
通っていた高校の同級生の存在が、美容への興味に拍車をかけた。
「高校に芸能コースがあり、芸能活動をしている生徒がたくさんいました。かなり刺激を受けましたね。自分も美容に携わって綺麗になりたいと思い、高校を卒業したら美容専門学校に行こうと思いました」
美容に興味を持ち始めてから、美容師になると決めるまでに時間はかからなかった。
「自分が美容の道に進もうか悩んでいるときに、両親から「美容師が向いていると思うよ」と背中を押してもらったこともあり、美容師になろうと思いました」
現役の美容師でもあり父親からの言葉は、心強かった。高校を卒業した渡部は、日本美容専門学校に入学した。
「自宅から少し遠かったのですが、クリエイティブ寄りで髪の毛も自由だったので、いいなと思っていました。在校生の先輩に話を聞いたところ、先生も素晴らしく、国家試験にも力を入れているという点で日美に決めました」
美容専門学校
高田馬場にある日美は、渡部の自宅から電車で30分。新しい生活がスタートした。
「私はどちらかというと不器用な方だったので、技術面で何でもできますというタイプではありませんでした。ただ、作品を作ったり自分のイメージを膨らませて何かをするというのが好きだったので、常にヘアスタイルやメイクの似合わせだとかを考えていましたね」
DEAN&DELUCAのカフェでバイトしながら、充実した生活を送っていた。
「自分は東京出身ですが、日美には地方から来ている様々な生徒がいて、みんなそれぞれ異なる感性を持っていました。そんな環境で毎日刺激を受けていたので、とても面白かったですね」
他の生徒と話すだけで自分の感性が刺激される。日美はまさに理想の環境だった。
「2年間はあっという間でしたね。本当に充実していました。国家試験に向けての猛練習をしてると、自分の目標が明確になってきました。美容師になりたいという気持ちも、徐々に強くなってきましたね」
続く
高校を退学し、なんの当てもない状況で大阪に行き美容師になったAri。自ら道を切り拓き、ついにはコロナ禍の真っ只中に新店「PEPPU」を中目黒にオープンさせた。紆余曲折を経て辿り着いた先にあったものとは何なのか?バイタリティー溢れる美容師Ariの、過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
シェアサロン
animusでは5年間働いた。その後、Ariは表参道にある別のサロンに移った。
「地元の知り合いに誘われたこともあって、表参道の「Livingu you」というサロンに移りました。そこで初めてスタイリストから店長という立場になったのですが、店長として様々な貴重な経験ができたことは今でも感謝しています」
店長として充実した毎日を過ごしていたAriだったが、徐々に店長のその先の未来を目指したくなってきた。そして、ついにAriは行動に移した。
「Livingu you に移って4年後ぐらいに、シェアサロンという形で「PEPPU」を原宿に立ち上げました」
2017年、10代の頃からずっと憧れていた原宿の地に美容室を立ち上げた。
「今もそうですが、お店を出せた、やったーという感じではなくて、まだまだこれからだと思ってました。店を出すのもそうですが、店を出した後にやり続けることの方が難しいですから・・・」
新生PEPPU立ち上げ
シェアサロンの形で「PEPPU」を運営していたAriだったが、2021年1月に中目黒で「PEPPU」を再スタートさせた。今度はシェアサロンではないため、自身がオーナーのサロンである。
「ずっとチャンスは伺っていたので、自分に合った物件と予算内で良いのがあればと動いていました。この物件を借りれたのは本当にラッキーでした」
運命に導かれるように、目黒川沿いの1階に位置し、太陽の光が燦々と降り注ぐ最高の物件を手に入れることができた。
「偶然にもこのビルのオーナーが知り合いのキックボクシングのジムに偶然来ていて・・・。そこで話をさせてもらったところ、「若者にチャンスを与えたい」と自分のことを気に入ってもらえて、借りることができました」
まさにコロナ禍の真っ只中のタイミングでオープンしたが、充実した毎日を過ごすことが出来ている。
「厳しいこともたくさんありますが、自分がやりたかったことなので、毎日幸せな気持ちでやっていますね。毎日楽しみながらやるというのが、自分たちにとってもお客様にとっても大事なことだと思っています」
実際にPEPPUに足を運ぶと一目瞭然だが、Ariをはじめ全スタッフが本当に楽しそうに笑顔で働いている。スタッフの笑顔が伝播して、こちらまで思わず笑顔になってしまう。
「やらされてる感ではなく、自分が好きなことをやっているんだという事を意識するように、スタッフにも伝えています」
最高の仕事
Ariが美容業界に身を置いて10年以上が経った。自身を取り巻くその環境も変化し続けている。
「美容業界について感じる事は特にないですが、練習や勤務体系等、様々なことが時代とともに変わって来ているのは事実です。良い意味で、美容業界がどう変わるのか楽しみなところはありますね」
一昔前の美容業界といえば、スタッフの社会保険などもちろんなく、福利厚生も決して充実しているとはいえない過酷な環境だった。しかし、昨今の美容業界においてはそれもかなり改善されてきている。
「逆に自分たちがこれまでやってきてよかったと思う事などは、引き続き残して伝えていきたいですね」
今後の美容業界を背負う若者を育てる事も、自身に与えられた使命の一つであると認識している。
「若い時には色々とチャレンジしてほしいと思いますね。人がやらない事イコール面倒くさい事だと思うのですが、実はそこにたくさんチャンスがあったりします。なので、嫌なことほどたくさん挑戦して、向き合ってほしいですね」
Ariの挑戦はまだ始まったばかりである。3年後にもう1店舗出店する事も計画している。
「やはり、美容師は自分にとって最高の仕事です。それに尽きますね」
その歩みを止める時間は、当分なさそうだ。
完
高校を退学し、なんの当てもない状況で大阪に行き美容師になったAri。自ら道を切り拓き、ついにはコロナ禍の真っ只中に新店「PEPPU」を中目黒にオープンさせた。紆余曲折を経て辿り着いた先にあったものとは何なのか?バイタリティー溢れる美容師Ariの、過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
大阪
郵便配達で貯めたお金を持って、Ariは美容師になるために大阪に旅立った。
「最初の高校を退学したり陸上も途中で辞めたりと、当時は一つのことを長くやることができなかったので、そういうところも直したかったというのがありました。なので、やるしかないと思って大阪に行きましたね」
大阪では、当時の恋人の自宅に同棲させてもらった。そして、美容室の紹介所に出入りしているうちに、そこで運命の出会いが待っていた。
「その紹介所に大阪中央理容美容専門学校の理事長が偶然いたのですが、その理事長は美容室も経営されている方でした。その方に気に入ってもらえて、そのサロンで働きながら3年間、通信課程で美容師の免許を取るための勉強をしていました」
サロンで働きながら、通信過程で勉強する毎日。美容師免許を取得して、将来は東京に行きたいと考えていた。
「自分が働いていたサロンは白髪染めが多かったり、年齢層が高いサロンでした。当時は若かったこともあり、自分がやりたいことと違うため辞めたくなったりもしましたが、今振り返るとその時に得た経験は間違い無く生きていますし、感謝しています」
Ari自身の年齢が上がると同時に、お客様の年齢も上がってきた。当時やっていたことは間違っていなかったと、今は確信を持って言える。
東京
美容師免許を取得したら東京に行きたいと、19歳の頃から思っていた。
「当時働いていたお店の店長に「東京に行きたい」と話したところ、当時はまだそのサロンから東京に行った美容師がいなかったので、最初は反対さていました」
店長が示した東京に行くための条件は、100万円貯めて、国家試験に一発合格するという2点だった。そして、3年間通信過程で勉強して、無事に美容師免許を取得した。東京行きの切符を手にした瞬間だった。
「東京に行った時は葛飾区に高校の友達がいたので、1ヶ月間そこに泊まらせてもらい、サロンに履歴書送ったりとかしていました。どうしても表参道・原宿・青山エリアで働きたかったので・・・」
この時Ariは21歳。手書きで履歴書を何通も書いて、あらゆるサロンに郵送した。そして、ついに表参道のサロンに合格した。
「大阪での3年間があるから自分は大丈夫だと思っていましたが、やはり表参道エリアの美容室の技術は大阪のそれとは異なる部分もあり、それこそシャンプーマンからスタートしました。もうやるしかないという感じでしたね」
そのサロンは巻き髪が得意な、いわゆるコンサバ系のサロンだった。しかし、当時のAriが好きだったのは古着系ファッションや、メンズのヘアスタイルだった。
「理想と現実の違いというか、自分がやりたいことはこういうのではないということで、半年で退社しました。退社後は高知県に帰り、地元の美容室の面接に行ったりしていましたね」
再挑戦
地元の高知県に戻ったAriだったが、不完全燃焼なこの気持ちを拭うことができなかった。
「やはり、やれるのなら東京でやりたいという気持ちがずっとありました。どうせ働くなら、有名無名で決めるのでは無く、自分で直接サロンを見て判断しようと思い、夜な夜な東京のサロンの外観などを見て回りました」
当時愛読していた雑誌「CHOKI CHOKI」に掲載されていた東京のサロンを、自分の足で実際に周り見て回った。そして、あるサロンの外観を見た時に衝撃が走った。
「animusというサロンの外観を見た時に、絶対ここで働きたいと思いました。早速翌日にanimusに行って面接の直談判をして、なんとか合格できました」
一刻も早くスタイリストになり、先輩を追い抜きたいという思いのもと、朝夜を問わず一心不乱に練習した。そして、ついにスタイリストに昇格した。
続く
高校を退学し、なんの当てもない状況で大阪に行き美容師になったAri。自ら道を切り拓き、ついにはコロナ禍の真っ只中に新店「PEPPU」を中目黒にオープンさせた。紆余曲折を経て辿り着いた先にあったものとは何なのか?バイタリティー溢れる美容師Ariの、過去・現在・未来に迫る。(敬称略)
中学受験
高知県出身のAriは、会社員の両親と姉という4人家族。いつも外で遊んでいる活発な少年だった。
地元の小学校を卒業したAriは、中学受験をして私立の中学校に入学した。
「姉も中学受験したので、自分もという感じでした。姉と同じ塾に通っていたのですが、成績はいつもビリの方でしたね(笑)」
合格ラインのギリギリを彷徨っていたAriだったが、姉に救われた。
「3日間だけ姉に勉強を教えてもらったのですが、そこでの勉強が自分の中にスッと入ってきた感覚がありました。その3日間のお陰で合格できたと言っても過言ではないと思います」
無事に中学受験を突破し、私立の中高一貫校での新しい生活が始まった。
「中学生になってからは、陸上部で長距離をやっていました。あと、中学2年生ぐらいからバイクに興味を持ち始めましたね。バイクが好きでした」
退学
高校生になるとバイク熱がさらに加速し、勉強や部活からは徐々に遠のいていった。そんな中、ある出来事が起きて人生が一変する。
「当時は好奇心があり過ぎて、他の高校にお昼ご飯を食べに行ったり、禁止だったバイクに乗っているのがバレたりして、何度か停学処分を受けていました。「次に何かしたら終わりだよ」と言われていたのですが、色々あって我慢できなくなり、高3の終わりに学校を退学してしまいました」
自主退学という形で学校を去ったAriは、沖縄にある高校の通信科に入学した。
「高校の2、3年が同じクラスだったのですが、そのクラスは2年間で10人退学になりました。その中の一人とすごく仲が良かったのですが、彼が沖縄の通信の学校に行くというので、自分もそこにしました」
アルバイトをしながら自宅に届く教材で勉強し、無事卒業して高卒の資格も手に入れた。卒業後の進路は決めていた。中学1年生の時に姉に初めて美容室に連れて行ってもらって以来、Ariは将来美容師になると心に誓っていた。
「これまでは床屋に通っていたのですが、美容室に初めて連れて行ってもらった時に、髪の毛ひとつで自分のイメージが変わることに驚きました。ワックスをつけてもらう事も初めてだったのですが、その時に受けた衝撃が忘れられなかったですね」
美容師
初めて美容室に行った帰りに、親に無理を言ってヘアワックスを買ってもらった。
「髪の毛ひとつで自分の気分が上がったり下がったりすることに可能性を感じましたね。毎回自分に切ってもらうと気分が上がると言われるような、そんな美容師になりたいと思いました」
美容師になることを夢見て、Ariは高校卒業後に大阪に行く決心をした。
「高校時代に仲の良かった友達が東京に行くというので、被るのが嫌なので自分は大阪にしようと思いました。しかし、高校を退学になったりでお金がかかってしまったので、親からは地元の美容学校しか行かせられないと言われました」
やむなく地元の美容学校を一般試験で受験したAriだったが、結果は不合格だった。
「途方に暮れて悩んでいる時に、当時付き合っていた彼女から「一度きりの人生なのだから夢を追い求めた方が良い」と言われたことがありました。そこで、自分はバイクが好きだったので、お金を貯めるために18歳の4月ごろから郵便局の配達の仕事を始めました」
その年の8月31日まで郵便局の配達のアルバイトをした。そして、アルバイトを辞めた翌日、夜行バスに乗って大阪に旅立った。
続く
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
GOALD
激動の毎日を過ごす中、米田の頭の中には次なるビジョンがあった。それは独立して自分の店を持つことだった。独立して自分の店を出す決意をした米田だったが、事態は思わぬ方向に動き始めた。
「元々、中村さんより先に自分が中村さんに辞める旨を伝えていました。独立して自分で店を出すと伝えていたのですが、中村さんが先に辞めたので、ある晩中村さんに会いに行ってどういうビジョンなのか聞いたら「絶対二人でやった方がいい」と・・・」
米田が独立したかった理由は、上に人がいることで目標達成までの速度が遅くなることへのジレンマだった。しかし、中村となら絶対にそうはならないという確信があった。
「自分には社長やオーナーになりたいという欲はありませんでした。自分には行けるビジョンが全部あるし、3年や5年で考えたときにその都度バスれる方法は構築しているので、「自由」だけ下さいと話しました。「お金は要らないので自由だけくれれば、絶対に会社を違う領域に連れて行きます」という話をしたところ、「逆にいいの?」みたいな感じでしたね」
米田と中村の運命が交錯した瞬間だった。まだ何もスタートしてなかったが、成功する確信だけはあった。そして、2020年9月10日に満を辞して新店舗「GOALD」が渋谷の中心にオープンした。
「最初はゲロ吐くかと思いました(笑)。ただ、行けるという自信だけはありましたね。色々な先輩方を見てきて、「自分ならもっとこうするのに・・・」といつも考えていましたし。自分的にはそもそも先に独立しようと思っていたので、その全てのカードを持ってここに来たという感じです」
「GOALD」がオープンしてからこれまでの間、多忙を極める怒涛の毎日が続いている。
「不安だったのは予約だけだったのですが、5年間妥協なく切ってきた自信もありました。なので、これでお客様が来なかったら自分がダメだったということだと、ある意味で開き直ってましたね。結果的に、設立時に思い描いていた計画は全て上方修正されています。こんなに忙しくなるんだという感じですね(笑)」
美容業界
令和の時代になり、美容業界も以前と比べて様変わりしてきた。しかし、未だに旧態依然とした美容業界の悪しき側面が存在することもまた事実である。
「今の美容業界は嘘が多いと思いますね。例えば、スタッフがどれだけ夜遊びしようがいいと思うのですが、お客様に対して伝える情報に嘘はよくないと思います。ただ映えることを求めるのではなく、自分たちがメディアに出たりフロントマンになるのなら、それ相応の責任があると思います。当然ですがフロントマンは下手ではダメだし、暴力などしてはいけないし・・・。それを全部直していこうと思っています」
ご存知の読者も多いと思うが、米田は校則改革プロジェクトやバンドのボーカル等、従来の美容師の枠にとらわれない様々な活動を行っている。その原動力は一体なんなのか?
「原動力はお客様や仲間など、自分の目に映る範囲の人ですね。自分にとってのストレスは、そんな大事な人が苦しい顔をしている時です。校則改革プロジェクトもそうで、自分にとっての大事なお客様が苦しそうな顔しているのがストレスで、それは絶対に排除しなければならないと思いました。ただただそれを直していく。ひょっとしたら、仲間内では自分の存在がストレスになっているかもしれませんが(笑)」
米田自身ができなかったからこそ、美容学生のうちに是非やっておいて欲しいことも伝えてくれた。
「美容師は髪を切ることが仕事ではなくて、お客様の心に触れることが仕事です。例えば、美容学生なら1クラス40人とすると、40人の心に一度に触れることができるのです。そんなチャンスは一生涯ありません」
社会人になれば、同じ夢・ビジョンを持った仲間が40人いて、一斉に全員の心に触れるチャンスなどまずないと言っていい。
「自分ができなかったからこそ、他者の心に触れることを恐れないで欲しいですね。確かに、心に触れることは難しいと思います。しかし、恐れることなく周りにいるすべての人の心に触れて、その恐怖をなくして欲しいと思います。「これって言ったほうがいいのかな?」と思ったら、ぜひ言ってほしいと思います」
青空
最後に、美容師として米田が思い描いているこれからのビジョンを聞いてみた。
「美容師を新たな領域に連れて行きたいですね。美容師は天井が見えていて、オーナーになるか、芸能人と一般人の間の存在になるかの2択です。それが嫌なので、例えば美容師なのにTV番組の「特ダネ」で現在大学教授が座っている枠に美容師が座るとか・・・。自分の使命は美容師をやりながら全く新しい美容師像を描くことだと、勝手に思っています」
目的を達成するためのスピードはますます加速するばかりだ。
「来年度を目処に、ここに属しながら従来の美容師さんの起業の仕方とは別の仕組みで起業しようと思っています。美容師として、これまでにはない全く新しい美容師像を描きたいと思っていますので、いつまでも挑戦して行きたいと思っています」
米田ならきっとやり遂げるだろう。新しい美容師像の誕生の瞬間に立ち会える我々は、とても幸運だ。美容師新時代の扉は米田によって今開かれたのだ。
「美容師とは、「青空」だと思っています。カッコよくなりたい、可愛くなりたいという真っ直ぐな気持ちで来るお客様と、それに応えたいただのまっさらな美容師・・・。両者が集うのが美容室だと思います。色々な意味で濁っている部分もあるかもしれませんが、本来の美容師はそれだなと思っています」
完
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
LIPPS
就職先のサロンとしてLIPPSを選んだ米田だったが、当時からLIPPSは大人気サロンであり、新卒で入社するには最難関と言われていたサロンのひとつだった。
「自分は絶対に受かると思っていました。と言うのも、どうすれば受かるのかを事前に入念に調べて下準備をしていたので・・・。そこまでの準備をしてきた自分に自信があったので、不安はなかったですね。勝手に自信を持っていました(笑)」
他のサロンには目もくれず、LIPPSのみを受験した米田。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。米田の戦略は見事的中し、LIPPS合格を果たした。
「専門学校の先生には、「最初のサロンが一番大事」「ずっとそこで働き続けることが大切」と言われていたのですが、自分的にはそういう感覚で入社したわけではなく、いわゆる「社会人」や「美容師」という職業を知ることが目的でした」
まだ経験したことがない「社会人」とは一体何なのか?「美容師」とは実際どのような職業なのか?ただそれだけを知りたかった。
「社会というものを知るなら、一番すごいところに行った方が早いと思っていました。当時のメンズサロンの頂点がLIPPSだったので、そこしか考えられませんでしたね。最初に頂点を見て、そこから自分の人生をどれだけ逆算できるかのみを考えてました」
ついに社会人として、そして美容師としての新生活がスタートした。生まれ育った神奈川を飛び出し、お互いの実家が徒歩1分の親友と一緒に東京の目黒区でルームシェアを開始した。順風満帆な社会人生活がスタートしたと思いきや、その矢先に米田は驚きの行動に出た。なんと、LIPPSを4ヶ月で退社したのだ。
「実際にLIPPSに入社してみて、「なるほど社会人や美容師というのはこういう感じなんだな」ということが分かりました。それが3ヶ月で分かったので、すぐに退社しました。もちろんLIPPSが悪いとかではなくて、単純に自分が違うなと思っただけです」
フリーター
LIPPSを退社した米田は、次なる驚きの行動に出た。
「LIPPSを経験して分かったことは、自分は美容師・美容業を絶対にやりたいということでした。退社してまずは1ヶ月間だけフリーターをやると決めていたので、1ヶ月間だけバーテンダーのアルバイトをして、その間にサロン見学を30店舗くらいしました」
様々なサロン見学をして米田が行き着いたサロンは、LIPPSとは正反対の原宿にある小さな個人経営のサロンだった。
「当時、新卒の1年間は全て研究のための時間に使おうと思っていました。そこで、LIPPSの次に考えたことは凄く時間のある美容室に入ることでした。LIPPSでとてつもなく忙しい店を見ることができたので、今度は逆に時間のある店を見たいと思っていました」
米田が中途入社したそのサロンは、当初の希望通り時間のあるサロンだった。
「その時に、まずは自分のなりたい美容師像を描こうと思い、半年かけて美容師のどこがダメで、どこが足りないのか、何を持っていればこの業界で前に出れるのかを毎日考えてました」
店内にいても時間を持て余すだけだったこともあり、毎日モデルハントを原宿で行った。そこで、米田にある気付きが生まれた。
「毎日原宿を見ていると、自分の中で段々と世の中の仕組みが分かってきました。なので、次に行くところは絶対にベンチャー企業にしようと思いました。これから絶対に伸びてくるところに行けば早くポジションが取れると思い、いろいろ調べてみるとやはりOCEANだなと・・・。予約数とかではなく、打ち出し方が面白いのでこれは絶対に来るなと思いました」
自分の進むべき方向性を見いだした米田は、即座に次の行動に出た。
「OCEANの中途募集が始まったタイミングで高木さん(高木琢也氏)を予約して髪を切りに行って、その後に高木さんにDMを送って入社しました。面接受けて20分後にはうちの中村さん(中村トメ吉氏)から連絡が来ましたね」
OCEAN TOKYO
流れるようなスピードで、ベンチャー美容室の雄と謳われていたOCEAN TOKYOに中途入社した。OCEAN TOKYO設立以来、初めての中途入社が米田だった。
「アシスタント時代は激動の毎日で、何も記憶にないですね(笑)。ただ、本当に楽しかったです。アシスタント時代にキツイと思ったことは1回ないですね」
激動のアシスタント時代を2年経験し、ついにスタイリストデビューの日を迎えた米田。その日の記憶は今でも鮮明に残っている。
「デビューした日がとんでもない日でした。当時、OCEAN TOKYOでは主要都市のWEGOをカットして回るというツアーをしていたのですが、初日が原宿で自分のデビュー日でもありました。お店で3人切って、その後にWEGOのイベントにも出演しました」
自分の中の何かが変わった、そんな1日だった。
「小・中学校と美術の成績は1でした。凄く不器用で、母親からも「ハサミを落とすから美容師は絶対無理」と言われてました。高校時代もずっとヤンチャしてて、専門学校入っても周りから理解されず・・・。幸せなんだけど地獄のようなアシスタントの日々を乗り越えて、やっと突き抜けることができた1日だったので、こみ上げてくるものがありました」
それはまさに、夢は叶うのだと確信した瞬間だった。
「OCEANでデビューして帰ったその日の夜は、一番の思い出ですね。不思議な瞬間でした。一生忘れないと思います」
デビューしてから一瞬で、米田は予約が取れない美容師になった。
「デビューする際に、「これからデビューします!」とツイートしたら2時間で1ヶ月分の予約が埋まりました。電話が鳴り止まず、自分で電話対応していたのですが、あるお客様からは「70回電話しましたよ」と言われました(笑)」
楽しくも地獄のようなアシスタント時代を乗り越えた先に待っていたのは、嬉しい誤算だった。
「来てくれたお客様は、ほとんどがアシスタント時代からのお客様でした。お客様に注いだ2年間が、そのまま1ヶ月の予約に繋がりました。予約の空きがなくなり、逆に怖くなりましたね(笑)」
続く
書籍の出版、校則改革プロジェクト、バンドのボーカル等々。本業の美容以外の様々な活動も行いつつ、実は他の誰よりも美容を愛する美容師「米田星慧」。そんな米田が先導する美容師新時代が、今まさに始まろうとしている。従来の美容師像を軽々と覆し続ける若きカリスマ「米田星慧」の、これまでとこれからに迫るロングインタビュー。(敬称略)
プロレス・ダンス・将棋
米田の出身は神奈川県相模原市。少年時代はプロレスに夢中だった。
「自分がまだすごく小さい頃に、父親がテレビでアメリカのプロレスを見ていたこともあり、自分もハマって熱中して見ていました」
プロレスの他に、ダンスにも熱中した。
「フォルダーファイブとか見て、「ダンサーいいな!」と思い始めたのがきっかけですね。自分がやっていたのはそんなにかっこいいものではなく、キッズジャズダンスとかでしたが・・・」
小学生の時には将棋にも熱中した。将棋熱は今も変わらず継続中だ。
「小学生の頃から一貫して将棋が好きですね。祖父がすごく強くて、祖父に勝つためだけに将棋をしていました。美容師の中では絶対に自分が一番強いと思います(笑)」
地元の中学校に入学した米田は、陸上部に入部した。
「中学1年生の時に身長が119センチしかなかったのですが、母親に「陸上をすれば背が伸びる」と言われて、それを信じて陸上部に入りました。短距離をやっていたのですが、結構真剣にやっていましたね」
進学校
やがて進路を決める時期に差し掛かり、米田は地元の進学校の受験を決意した。
「勉強はそんなに好きではなかったのですが、自宅から徒歩1分のその高校に通いたくて必死に勉強しました」
本来勉強がそんなに好きではなかったが、志望校に合格するため勉強に明け暮れた。そして、米田は見事に自宅から徒歩1分の志望校に合格した。
「今考えると、1日14時間ぐらい勉強していました。他に行きたい高校もなかったので、その高校しか受験しなかったですね」
そんな猛勉強の甲斐あって、米田はなんと主席で高校に入学した。高校入学2日目にして将来の志望大学をヒアリングされるほど、周囲からその学力を期待されていた。しかし、周囲の期待とは裏腹に米田にその気はなかった。
「高校でも陸上を続けましたが、とにかくやんちゃな高校生活でしたね(笑)。ほとんど勉強しないで、やりたいことをやっていました」
首席で入学した米田だったが、卒業する頃にその成績は下から3番目くらいになっていた。そして、受験シーズンを迎え周囲が大学進学の準備を始める中、米田はひとり美容師を目指していた。
「中3の高校受験の時には、将来は美容師になると決めていました。通っていた床屋さんで「髪切りは勉強しなくてもなれるよ」と言われたのがきっかけですね」
美容専門学校
高校を卒業した米田は美容師を目指すべく、国際文化理容美容専門学校の国分寺校に入学した。
「国際文化を選んだのは、当時通っていた地元の床屋さんが全員国際文化出身だったからです。美容専門学校は国際文化しかないものだと、当時は真剣に勘違いしていました(笑)」
高校を卒業した米田は、国際文化理容美容専門学校国分寺校に入学した。紆余曲折を経て、美容師への第一歩がついに始まった。やんちゃ三昧だった高校時代と異なり、米田は一心不乱に美容の勉強に励んだ。
「自分の中では高校時代に遊び尽くした感がありました。なので、専門学校に入学した時点で自分の中で勉強一本に切り替えようと思っていましたね」
友達もあまり作らず勉強に専念した結果、成績はほとんど常にトップだった。
「今考えると、学校では自分一人だけ異常に真面目でした。学科試験は大体満点で、練習も静かにやってましたし・・・。特別授業の後にその感想文を毎回書かなければならなかったのですが、毎回そこに学校の体制に関する自分の考えを書いていました(笑)」
そのような行動は、時として米田をおかしな生徒と周囲に誤解させた。就活の時期になると、「有名店はたぶん受からないので地方のサロンにした方が良い」と言われたこともあった。
「なぜ自分はこんなに真面目にやっているのに、受からないのが前提なのか不思議でしたね。周りからは、頭がおかしな奴と思われていたと思います」
真面目過ぎるイメージが災いしたのか、誰からも応援されることはなかった。
「本当に、誰からも理解されてなかったと思います。もちろん、こちらも理解を求めてなかったですが・・・」
本来の自分と、周囲が抱く自分へのイメージのギャップに苛まれながらも、ただひたすら美容の勉強に打ち込んだ。そんな中、ついに就職先のサロンを決めなければならない季節がやってきた。
「当時のメンズサロンの頂点がLIPPSだったというのもありますし、自分が美容師になろうと思って一番最初に名前を覚えたサロンがLIPPSでした。なので、LIPPSしか行くつもりがありませんでした」
続く